奈良教育大学学術リポジトリNEAR
子ども認識の歴史的新段階[4] −雑誌『生活学 校』の児童文化論−
著者 岡本 定男
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 40
号 1
ページ 107‑123
発行年 1991‑11‑25
その他のタイトル A Historical New Stage of the Recognition for Children 〔?〕−The Papers on Juvenile Culture in the Journal "Seikatsu Gakko"−
URL http://hdl.handle.net/10105/1785
子ども認識の歴史的新段階〔4〕
一雑誌『生活学校』の児童文化論‑
岡 本 定 男 (奈良教育大学教育学教室)
(平成3年4月30日受理)
前巻までで筆者は、戦前わが国に於ける子ども認識の歴史的新段階を映し出す‑つの鏡として、
児童文化と教育の結節点をなした雑誌『生活学校』の児童文化活動とその関連論考を立ち入って 検討してきた。本巻では、これまでの個々の検討のまとめとして、この雑誌に示された児童文化 論が歴史的に有した意義を明らかにすることになる。
第Ⅴ章 『生活学校』の児童文化論の意義
『生活学校』に反映した児童文化活動とその理論は、とりわけ学校教育を支えた教師たちの学 級文化活動を基底にすえていた。即ちこの雑誌は何よりも教師の指導性を軸とした子どもの文化 創造を日ざしつつ、一方で子どもの生活や文化一般の向上を促す専門家たちとの連携を意識的に 追求した。こうしたあり方自体は、国民の教育文化運動の一翼を担う今日的児童文化運動にとっ てもそのまま範とし得る貴重な到達点であった。しかしそこには戦前の児童文化運動の弱点も同 時に含まれていた。
翻って、わが国の児童文化運動は、 1938年10月、内務省警保局図書課から出された「児童読物 浄化に関する指示要綱」を契機として一挙に具体化する児童文化への権力統制(新体制児童文化 運動)によって決定的に新しい段階に入ることとなった。良心的な児童読物をはじめとして児童 文化の向上を目指す民間側の努力は、一時期権力の強い支持を受けることとなった。こうして児 童文化運動は、その故をもって官民合同の組諭と方針によって担われて行った。こうした一時的 な「革新感」は、その一つの反映として、これ以後数年にわたる児童文化論のかつてない盛行を 生みだした(1)この新体制児童文化運動を理論的に代表した人物の一人に、当時新進気鋭の心理 学者として名をなしつつあった波多野完治がいた。
一方、子とも認識の歴史的新段階の成立を反映する新しい用語「児童文化」と正面からかかわ りつつ、その活動と理論の創出に積極的に貢献した『生活学校』は、さきに触れたようにその終 刊間際の1938年5月号を事実上の児童文化特集号とした。この号の座談会には、戸塚廉、管忠通 らの児童文化論と波多野にその理論的代表をみる新体制児童文化論との立場の相違点が明確に表 れていた。今日の時点にたってこれをみるならば、この座談会は、明治期以降一貫して民間によ る自主的自発的運動として興隆してきたわが国児童文化運動が、それまでの権力による無視・抑 圧・干渉の段階を終え、初めてその支持のもとに官民合同の運動を率先誘導し、やがて「少国民
文化」と呼ばれる全面的な官製児童文化運動へと移行していく転換点に位置するものであった。
従って、ここでひとまず波多野の児童文化論を概観しておくことは、本巻の意図する『生活学 校』の歴史的意味を明らかにする上での必須の前提作業となる。
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岡 本 定 男
§1波多野完治の子ども認識と児童文化論
波多野の子ども認識の出発をなしたのは、子どもは周囲や社会から独立して大きくなるもので はない、という点であった。即ち、第一に、子どもの成長・発達は、親や教師の働きかけによっ て、第2に、子どもたち自身の集団によって、第3に、 「子供に対して教育的態度を採らず、言 はば物が子供の身体にぶつかって行くように、子供にぶつかって行く、物としての社会」の、主 として三つの側面から、 「子供に対して迫って行く社会」(2)の中でなされるものである、というも のであった。波多野は、社会生活と児童との関係に深く注目することによって、自らの社会的・
応用的な児童心理学を構築して行った1930年代以降、映画・ラジオ・課外読物といったすぐれ て児童文化領域に属する問題に研究的情熱を注いでいくことになるのも、それらが新しい子ども 認識と深く関わっていたからであり、こうした領域の中に当時の社会と子どもとの関係を把握す る仕方が典型的に存在していると考えたからである。こうして、 「社会的な教育中心の児童観」(3) に立つべきことを主張した波多野にとって、映画その他の機構が、児童に対して与える影響や意 識の問題は、その子ども認識を深める絶好の分野であったのである。
一方、この間題に取り組むことは、社会的存在としての波多野自身が、日華事変によって本格 的な大陸経営に乗り出し始めた日本人として「銃後の責を全う」(4)することでもあった。波多野 にあっての「社会」は、彼が歴史的社会的現実としての今に全うに立とうとする限り、当初から 国家のこうした遠望と無関係にあることはできなかった。少なくとも日華事変から敗戦間近の時 期に至るまで、彼の社会的主戦場であった児童文化論の軌跡をたどるとき、時局の進展の中で新 しい国家的理想の未来の主役たるべき子どもを如何にして養成するかを模索すること、それこそ 波多野の最大のテーマであったとみることができよう(5)。
彼が後に明らかにしているところによれば、当時児童文学運動を進めるに当って意図したこと は、個々バラバラの状態にあった児童文化財を関連づけること、及び、児童文化による児童の近 代化をはかること、の二つであり、野蛮に対するアンチテーゼとして文化をとらえようとしたと
いう(6)
そこには、波多野にその理論的代表をみる新体制児童文化論に替わってやがて展開される「日 本の子供は、すべて将来『大君のしこの御楯』たるべきものなのである」(7)といった体制的な子 ども把握によって、児童文化のもつ近代性を真っ向から否定しようとした「少国民文化論」とは 異なる意図が伺われ、貧弱な文化施設を改善し、文化内容を子どもの要求や心性に沿って革新し
ようとする態度が込められていた、といえる。
以下、波多野によるラジオ・映画の問題と児童文化一般に関する論展開を順に追ってみてみよ う。
(》 ラジオ・映画論
ラジオ放送は、 1925年(大正14年)に始まったばかりであり、その教育的利用を主として学校
放送が開始されたのは、その10年後の1935年(昭和10)年であった。こうしたいわばテストケー
スの時期にあって、専門的知見を臨床的に深め、大衆的反応を勘案しながら、その役割と教育的
利用の方途について積極的に発言していたのが波多野完治である。彼はいう。 「子供は話を聞く
ことがすきなのであり、従って子供はラジオを聞くことをこのむ。」しかし「内容は子供にはほ
とんどわかって居ないのである。彼はごく断片的な印象と大体の筋がのみこめれば、それで満足
する。 ‑ (略) ‑どうして子供にはこんなに奇妙な現象があるかは、子供の本性が自己中心性に
あることを理解するとき、直ちに明らかになる。」(8)
「ラジオを聞くということは、子供にとってはあまり楽な作業ではない。ことにラジオの内容 が物語のように純粋に言語的なものである場合にそうである。」その理由は第一に、子供におい て「言語がまだ、十分行為から独立して居ない」からであり、第二に、ラジオが、 「具体的場面 からきりはなされて居る」からである。こうした制約から「子供の知らない珍しいお話や実況放 送のようなもののときには‑ (略) ‑・ごくだいたいの筋があって、あとは、その場その場の面白 味で、話が片づいて行くようなものが、子供には一番よい」のであり、 「学校放送においても、
子供の第一によろこぶ、ラジオ劇風のものをたくさん放送する方がよい」(9)、と具体的な提言を IW3.
‑方、彼は、映画こそ、当時にあっての中心芸術であるuO)、としてこの分野の研究ないし運動 に力を集中した紬。波多野は、 「映画において何よりもおどろくべき事は、映画の出現が、人間 の物の見方をかえたということである」として映画のもたらした革命的意義に触れ、 「子供に映 画をみせるとは子供にこのような服の訓練をすることを意味しているのである‑ (略) ‑子供が 天性もっている眼に、カメラの眼を付加し、それを新しく再組織してやることを意味して居るの である」と述べ、この分野を重視する意図を明らかにする。しかし現実の映画とりわけ教材映画 は、文章的記述をそのまま映画展開として採用しており、 「言語教育がやりいいような展開の方 法がとられて居る」として、その方法的遅れを指摘する(1功。さらに興業用児童映画の児童観に触 れ、そこには、 ① 大人の涙をしぼる道具としての児童観(参 大人の行為の代替者としての児童 観(勤 大人から切り離され、天使のように描かれる童心主義の児童観(り ありのままの、環境的 力の作用の中での成長過程を重視する児童観、の4傾向があるがJl頚、 「児童映画は、この第四の 児童観に立ったとき始めて正しい児童観を描きうる」(14と主張する。こうした現状認識にたって、
「児童映画の文法」は、 (力 子供の現実感(彰 こどもに適したリズム③ 結末の明らかな筋の運 び、を重視し採用すべきであると提言する(1㌔これらにみられる波多野の基本的立場は、 「子供
というものは斯ういうものであるという本質をはっきり掴んで、其の上に立って映画を選択して 鑑賞を指導するということが必要である」が、 「子供の眼に追随したような映画ばかりを見せて 居るということは、意味をなさない事なのであって、映画でなければ現せないもののみかたを教 えなければならぬ」(1句というものであった。ここには、児童文化全般の現状と方向性に立って、
新しい児童認識を臨床的・実践的に鍛え、映画の教育的価値を最大限発輝させようとする積極的 姿勢が貫かれていた。こうした姿勢は、商業映画のもつ営利性への批判からやがて「我々教育者 はどうしても自分自身の製作機構をもたなければならない」的という主張へと発展し、 「学校巡回 映画連盟」 (1928年設立)の児童劇映画製作(1935年以降)と関わる過程で具体的なものとなっ ていった。それに伴って、児童の特性や映画‑の影響に関する文献的原理的解明から、児童映画 の調査・企画製作・選定といった具体的実践的方向へ移って行ったのも自然な成行きであった。
(塾 児童文化論
戦前における波多野の児童文化論の理論的成果は、 F生活学校』の終刊から3年後の1941年に 出された論文「児童文化の理念と体制」 (国語教育学会編F児童文化論』岩波書店、所収。一部 初出は、雑誌『教育』 1940年11月号所収の「児童文化の体制」として出されている。)に凝縮さ
れていると考えられる。以下、主としてこれによりながらその理論の輪郭を捉えてみる。
波多野は、近年児童文化運動が隆々たる気運を巻き起こすに至っているが、その素地は、この
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10年来初等教育界に力のあった生活指導の教育思潮にあった、という。初等教育についてまじめ に考えるものの方向は、この生活指導にあり、生活指導の問題において中心を占めたのは、いわ ゆる綴方教師であった。こうして、児童文化論は、 「生活教育論の正統の継承者である」(10と位置 づけられ、生活教育論が児童文化論にまで発展する理由をその理論と実際の双方の筋道から説き おこす(19)ここで注目されることは、 「子供は一定の社会の中でのみ育つと考える立場のみが、
児童文化の問題に正当な顧慮をはらい、その浄化改善のために、運動をおこす主体となることが できる」¢0)という観点である。ともあれ、子どもの生活現実を重視し、それを綴方に表現するこ
とを通じて、生活意識を豊かにし、生活変革を志向するエネルギーを育てることをめざしたとさ れる生活綴方(21)が、同じく生活変革と密接に関わるべき児童文化の考察へと進んだ事は事態の当 然の成行きであった。ところが、こうした素地の上に「児童文化への現実的運動は実に官僚によっ て惹起された」として、先に述べた内務省の要綱に始まる「官僚的な児童文化統制」¢巧の経過に 触れる。時あたかも日華事変の戦後工作が国家的焦点となりつつあった。波多野は児童読物浄化 に関する協議に参加しながら、「本当の意味で長期の闘争にたえるべき基礎が、これでこそ定まる」
とその感想を述べる。そして、官僚をして児童文化運動の統制に乗り出せることになった原因に 考察を進め、それが「学校教育者が『学校』という制度にとらわれて、その外をみることを怠っ た結果」担甥だとする。
波多野のこうした主張は、既にみてきた雑誌『生活学校』の児童文化運動を担った綴方教師の 視点や実践の評価に関わるものとして重要である。彼は児童文化運動の口火をきった官僚の姿勢
に触れ次のように述べる。
「教育者が学校の中に閉じ込もって全てを学校の立場から解釈したり処置したりして居る間に、
官僚はせまい消極的な取締りの立場を越えて、全面的な積極的な統制をやりうる能力を獲得して 居たのである。児童文化の問題をも彼らはこれを単なる『子供』の問題としてではなく、その社 会的射程において国家的見地から見透すことができた。この際、特に重要なのは『子供』の文化 の問題が、現代において重要なだけでなく、将来にわたってさらに大きな意味をもつということ である。官僚はこの大きな見解に達することができた.」糾
「官僚」をしてこの「大きな見解」をとらせるに至ったものは、日華事変を一大契機としたい わゆる「生産力の拡充」への国家的要請であった。その生産力の拡充は、大陸での戦争拡大を必 須としていた当時にあっては、既軍需工業・戦争産業の拡大に他ならなかった。波多野によれば、
それは教育に波及し、職業指導と児童に於ける生産性の重視となって現れた¢頚。彼の児童文化運 動への関心が、書斎的なものから実践的なものへと急速に傾斜するのは、こうした社会的政治的 背景のもとであるが、その主張は、こうした「生産力の拡充」に巧妙に対処すべく構成されたも のであるO 「教育は云はば非常に長い間かかってやる生産力の拡充なのである」eqとする波多野の 立論の根拠となったものは、当時経済や社会政策の分野で風早八十二・大河内‑男らによって唱 えられたとされるいわゆる「生産力理論」であった。この理論は戦時中の抵抗的教育運動におい ても、理論的なよりどころとなり、戦前の「教育科学研究会」や「保育問題研究会」の運動方針 をも貫いていたものであった¢カ。 「文化を社会の中で、社会のうごきの一部として考察するには、
これを『再生産論』の立場から見なければならない」鵬とする波多野は、これを児童文化論に積 極的に導入することによって指導的影響を及ぼして行くことになるのである。
波多野の着眼点は、児童文化財の児童に及ぼす影響についてであり、営利と結びついた大量生
産的な児童文化財がもたらす「児童出版の無指導性」と「文化の偏在」担功ということにあった。 「大
量生産性という点に現在児童文化の特質」があり、「我々は児童文化の新建設にあたっては、・‑(略)
‑大衆化した大量生産的な児童文化をそのまま向上させることを考えなければならない」8功とす る見方は、前巻までにみてきた雑誌F生活学校』の編集グループの視点とは明らかに異質のもの であった。波多野はこの営利的大量生産性に代表される児童文化状況に注目し、官僚の統制をい わば先取りする形でそのあるべき方向を提示しようとしたのである。前項に触れたラジオ・映画 論といった先駆的仕事と相侯って、ここにその指導力の大きさの要因があったと考えられる。
こうして、つまるところ、 「児童文化の新体制」は、 「日本の子供全体のために児童文化の向上 を望む」 「全体主義的理念」に立ち、大量生産的児童文化財の営利性を指導し、生産場面を重視 しつつ、 「新英雄主義」にたった児童物文化の建設によってもたらされるのだ、とされるのであ
る(31)
§2 雑誌『生活学校jの児童文化特集
先に述べたように雑誌『生活学校』は、 1938年5月号を事実上の児童文化特集号とした。誌上 では、前年夏の第2回東北・北海道巡回講演以降、生活綴方教師による教育実践の評価をめぐり 論議が沸騰していた。この年の1月号と2月号をその特集にあて、この「生活教育論争」の口火
を切ったといわれる教科研の留岡清男をも誌上に登場させながら、引続き論議を継続していた。
また4月号では、やはり前年夏に起こった日華事変以来急速に現実的課題となっていたいわゆる
「国民精神総動員運動」 ‑の参加の仕方を巡って、特別仕立ての巻頭言が掲げられていた。際限 のない戦争拡大は、戦争産業と軍部の隆盛をよそに、国民への多大な緊張と不安を引き起こしつ つあり、進歩的な教育関係者を結集していたこの雑誌にも時局の重い蛎がかかり始めていたので
vm.
このような時期に、しかも(結果的にではあるが) 8月号での終刊に近い時点で、 『生活学校』
が児童文化問題を特集したことにはどんな意味があったのだろうか。戸塚廉の語るところから判 断すると、そこには2つの事情があったように思われるo一つは、 「F生活学校』が創刊以来一貫 してすすめてきた児童文化運動の‑そうの発展として進めようとした児童雑誌F子供の文化』の 計画」がこの年の2月号に発表されており、この「『子供の文化』の創刊を待望する空気をもり あげる意図」が含まれていたこと(3㌔もう一つは、こうした新しい児童文化運動の総合雑誌を企 画するくらいに『生活学校』がこの分野に力を注いで来たことと関わっている。即ち、先述した ような重い時局の進展の中に於ても、 「学校教育のきびしさとくらべて、児童文化運動への干渉 はそれほどではなく、したがって、児童文化運動を計画的に推進することによって、子どもたち のこころに、平和的民主的人間的精神をたたきこもうとする」8瑚意図が込められていたという。
生活教育論争や国民精神総動員運動への対応に於て編集グループが貫こうとしたものが、教育実 践における科学性や合理性であったとすれば、児童文化に求められたのもそうした観点を「基定
として文化の摂取と創造の活動を子どもの集団活動の中にすえること」剛であったといえよう。
ところで、この児童文化特集には、児童文化を全体的な視野で捉えようとする姿勢が顕著であっ
た。無論そこには、前巻までで見てきた生活綴方教師による学級文化活動を中核とした児童文化
運動の経験や把握が底流にあったが、それに留らないものを含んでいた。当初の企画によるとこ
の号は、 「童話作家協会の中堅作家諸氏の希望によって、仝誌面の大部分を同諸氏の作品と論文
に割く」(35)予定であったが、原稿締切を過ぎた時点で見合わすことを余儀なくされ、急連座談会
を組むことになったという。この企画を実質的に具体化したのが、管忠道ら編集協力者であった
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ことも手伝って、児童文学とか児童演劇といった個々のジャンルの領域を越え、児童文化運動へ の考え方を整理し、そこに求められるべき性格を社会的・国家的視点から捉えようとする方向が ほのみえていた。
さて、急速組まれることになったというこの座談会には、当時の児童文化の理論と実践に於て 指導的な立場にあった人々が基本的に網羅されていた。この座談会がテーマとした問題は、第一 に、児童文化の定義や性格の問題、第二に、児童文化の当面する現実的課題、第三に、児童文化 の氾濫に関する問題の三つであった。以下、その中心的論点をみておこう。
第一の問題は、 「児童文化を大人から児童に与えられる一種の文化財として問題にするか或は また自重自身から生まれるものを伸ばして行くとゆう面を児童文化の中心問題として考えるか」
という提起にたいし、 「子供が自分で生み出すものが大切であっても、それは結局やがて大人に なっていく、大人の文化・生活えと発展して行くものだ。だから、 F与える』とゆうのはその発 展を助ける働きになるべきだ」 (黒滝成至)とする立場と「子どもの持っている文化的な芽、進 歩する芽を教育者や我々が手を出して引き出してやって行く、それが教育上大切だ」 (百田宗治) とする立場が対立した。しかし、この二つの立場も「異なった別個のものではなくて裏と表」 (管 忠通)或は「方法論の違いではないか」 (石田三郎)と云うことになり、実践的には、 「大人と子 供との共同で、生み出すと与えると結びつく」 (黒滝成至)という統一的方向に議論がほぼ落ち
iV.‑*ニー、
次いで、第二の問題として、児童文化の内容に関わるより根本的な問題が提起された。 「日本 の児童文化を考えるとき、私は日本の児童文化におけるファンタジーの欠乏をしみじみ感じる」
という波多野の指摘は、欧米や中国との比較に於て日本人に、従って日本の児童文化にファンタ ジーが欠けている、とするものであった。しかしこのファンタジーの問題が、 「文化の本質と深 い関連を持つものだ」8カという規定に始まり、その内包と外延が展開されるに及んで、参加者に 対する重要な問題提起となっていった。
先に触れたごとく、波多野完治は、この時点までに、ラジオや映画に関する心理学的見識を一 般に披渡し、それを含む実質上の児童文化論ともみられる著書F児童社会心理学』を、くしくも この座談会の持たれたのと同一日1938年3月20日)に公刊していた。児童は育つものではなく、
育てられるべきものだ、とするテーゼを根幹とした「新しい児童観」を堅持して、学界・教育界 及び子を持つ親たちの前に現れつつあった。この座談会を含む児童文化特集号の企画の実質的推 進者であった管忠通は、 「この頃、百田宗治さん、波多野完治さんなどが児童文化について指導 的な役割をとっておられた」8串として、当時における波多野完治の児童文化における位置を語っ ている。それだけに、彼のこの問題提紀は、他の参加者に正面から受け止められるべき意義を持っ て響いたに違いない.彼はファンタジーをして「何かを創造するところえ導く空想」 「オリジナ ルの具体性へ突き進む性質のもの」8功と把振したが、それはこの規定の限りでは、参加者各人の 把握と共通のものであった。しかしこのファンタジーに関わって彼の述べたことは、その性格を 浮き立たせるある傾向を有していた。それが様々な議論を呼ぶことになる。彼は言う。
「日本の児童は早くからおとなに小づき廻されるので早く精神生活がしなびて、スケールの小 さいものが出来上がる。子供の空想の世界を楽しむ期間が非常に短くて冷酷な大人の世界に早く も飛び込む。これは考えなくちゃいけない事だ。」
「ファンタジーは国民の物質の豊かさと或る程度比例する」的
こうした見解にたって波多野は、富裕な子どもと貧乏な子ども、都会の子どもと田舎の子ども
の両者におけるファンタジーの発現度を比較して、いずれも前者により顕著な傾向が見出せると 主張した。これに対しては、 「貧乏人の子にはそれ等(富裕な家の子一引用者)とは質的にちがっ たファンタジーがある」 「大人にもまれながら成長する子供の精神生活がスケールが小さくなる とは思えません。子供にもあるがままに見せて行くことは大切だ」とする作家松田解子の反論が あった。また「子供にない幻想を大人や心理学者が幻想してゐるとしか思えない」(41)とする現場 教師の発言などがあった。しかし波多野は、松田の反論への対応を含め、この間題への自らの立 場と、この間題を重視する理由を次のように述べた。
「私の言い度いことは、子供達にビンポーな生活にではなく、ゆたかな気持ちをもって生活を 受け容れる余裕を持たしたい。ゆとりと夢を持たしてやり度いとゆう最少限の要求ですよ。」
「日本などもこれまでは大へんだった。国家建設にしても、国民生活の充実にしても、夢など 考えていられなかった。あらゆるものの建設に凡てを犠牲に供さなければならなかった。その為 に外国からの文化を吸収し、それを阻噂し自分のものにした。しかしこれからはそうでない。自 分自身で建設して行かねばならない。日本独特のものを作り出さねばならない。 ‑ (略) ‑これ は偉大な想像力が必要です。 ・= (略) ・‑ゆとりのある国民性を作るために生活をゆとりあるもの にするファンタジーが是非培養されることが望ましい。」払勿
波多野のファンタジー論は、このように明確な方向性をもち、それと一体となった文化の本質 論を提示する試みであった。彼にとっては、この座談会で第‑に問題となったような児童文化の 定義や性格の問題などは関心の外にあった。この号の巻頭言等にみられるような児童文化への総 体的把握の姿勢は、波多野には希薄であった。彼にとっての最大の関心は、日華事変によって引 き起こされた戦争体制の中で、 「世界最大の国家」への夢を実現するために「子供たちの気を大 きくもたせ、ひろびろとした途方もないことを考えるやうな子供」(4頚を如何にしてつくりだすか を考え実践することであり、先に述べた如くそれによって「銃後の責を全う」することであった といえる。彼がその後の児童文化運動に注いだ熱意と努力は、初めからこのようなものとして出 発したこと、このことは1935年前後を起点として世論を喚起しながら一時的に盛り上がった児童 文化運動の性格を見極める上でも重要なことだと思われる。彼によれば、生活綴方教師を中心に 押し進められ『生活学校』を媒介にして広がった児童文化運動は、ただ、 「児童文化運動をはら
んで居た」(44)に過ぎないものであった、というのである。
しかし、波多野がこうした把握に立ったことには、それなりの理由があったのだろう。彼にとっ ての児童文化への関心は、ラジオ・映画・読物を中心とするいわゆるマスコミ文化財から始まっ ていた。従ってその関心は、子どもの中から創造性を引き出し、それによって環境に対して変革 的に働きかける技術や力を育てること、そして、集団的自治的生活能力を獲得させることではな く、大量生産性に基づく文化財の営利性が、未来の国民たる子ども達に及ぼす否定的影響を憂慮 する点に集約していたように思われる。そこで自分達の進めた児童文化運動に関わって波多野が 後に述べた次のような言葉が意味をもってくる。
「児童文化運動は、 『教育』と無関係に発展したし、我々は、そうであるように慎重にことをは こんだ。 ‑ (略) ‑学校教育は国家の手で行われているから、これはなんともならぬ。それは必 要なる悪で、手をつけるわけにいかない。で、学校外の児童環境をできるだけよくすることで、
学校の影響をわれわれののぞましいと考える方向にかえていこう。これが、われわれのとらざる をえなかった戦術であった。」(45)
彼がこうして校外教育ないしは社会教育の運動として、児童文化運動を進めようとしたことは、
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彼の関心が営利性に基礎づけられたマスコミ文化財の児童への影響に集約されていたことと関 わっている。
さて、座談会第三のテーマ、 「児童文化の氾濫」の問題についての議論に移る。ここでも波多 野の「コムマアシャリズムによる無責任な変形歪曲をなんとかして是正して行かなければならぬ」
とか、 「この絵本(講談社発行のもの‑引用者)は今日ではもはや打倒はできない。われわれが 足りないところを補ってゆくよりほかない」(咽という把握が注目を受けた(4カ。
ここで言われる「足りないところ」が「大国民としての襟度」払掬をもたせるのに有効な手だて と関っていたことは、恐らく間違いのないところであろう。しかし、こうした把握は、この座談 会の参加者に、そしてまた雑誌『生活学校』の児童文化論に欠けているものであった。マスコミ 児童文化が、すでに児童文化の一般的社会的形態になりつつあったこと、そしてそこにこそ当時
の児童文化一般の中心的課題があり、内務省に代表される官僚がここから運動の口火を切ったこ と、そこには雑誌『生活学校』に集約的に表れた進歩的児童文化運動の影響力を既にはるかに凌 駕するものがあった。時局の転回を主たる要因としながら、児童文化状況も急速な変化を遂げつ つあり、そこに成立する活動基盤は大きく揺れ動いていたのである。従って波多野に代表される 新体制児童文化運動と『生活学校』のそれとは様々な点に於て対照的な内容を含んでいたのであ
り、両者の関係は単純な継承ないしは否定の関係では捉えきれないものを持っていた。しかし、
仮にその移行過程に於ける内在的必然性をしいて求めるとするなら、次のような事情に求めるこ とが出来よう。当時『生活学校』の読者でもあり、当初から学級文化の問題に積極的な関心を寄 せ、童話の創作をはじめすぐれた活動を行っていた国分一太郎の戦後の指摘である。
「われわれ自身には自立的に教材をえらぶ、そういう力量がないという点もありますね。その 演劇だの口演童話の台本だの、児童文学・紙芝居などを作る力量がない。まして単行本ではそう いうものを自分たちは作れない。その資料をどこからさがすか。そういう気拝をきそに、何とか 中央に健全な児童の文化運動が起ればいいというねがいが、声として出たんじゃないでしょうか。
だから‑・ (略) ‑波多野完治や城戸幡太郎、滑川君という人たちを中心として‑ (略) ‑中央的 な規模での文化運動が起る土台となるわけですO」(4功
児童文化の担い手は、こうして交替して行った。それは、そのまま時局の進展のしからむると ころであったといえようか。
§3 『生活学校』の児童文化論の意義
ここでは、 『生活学校』の児童文化運動とその理論が、主として波多野完治にその理論的代表 をみる新体制児童文化運動のそれに比し、どの様な意義を有していたのかをまとめて述べておこ う。
1935年前後のわが国にあって、ラジオ・映画・児童読物の子どもの生活への浸透は、とりわけ 農村に於ては目立つものではなかった。労働の厳しさ、そして生活の貧しさが、近代的文化摂取 の機会を子ども達から奪っていた。従って、児童文化に関心を持つ教師達の主眼は、できあいの、
外側から絶えず働きかけるマスコミ児童文化などではあり得なかった0 『生活学校』の児童文化 運動で、より問題とされたものは、送り手、受け手、さらに媒体の規模からいってマスコミとは 言えない紙芝居であり、中身の質もさることながら一冊でも多くを与えるべき児童読物であった。
劇場で金を払い劇をみられる子どもの数など、せいぜい学級で3‑4名くらいの『少年倶楽部』
の定期購読者の数にさえ及ばなかった。 『生活学校』の児童文化運動が、こうした低い文化水準
にあって、一貫した文化啓蒙運動としての性格を持たざるを得なかったことは、それが内包した 文化運動としての優れた要素や特徴にも関わらず、より根本的なものであったといわねばならな い。こうした状況であったからこそ、学校は「地域文化の中心としての機能を果たすべきことは 論を侯たない」(501と規定され得たのであり、文集・壁新聞をはじめとした多面的な文化活動がそ
こに起こりうる必然性と可能性があったといえよう。
ところで、波多野完治は、後年自らの児童文化運動の依拠するものが「ぼく自身が生まれなが らの都会の人間だということと不可避的に結びついて」(51)都会性を色濃く有していたことを認め ているが、 『生活学校』の児童文化活動が依拠したのは、圧倒的な読者を擁していた東北・北海 道を主とした農村地帯であった。両者の児童文化運動の性格の違いは、まずここにあった。その 違いがF生活学校』における文集作り・紙芝居・学校劇、新体制児童文化運動における児童読物・
映画・ラジオの重視となって現れたといえる。このことは、ただちに目標の相違となって表れる。
前者に於ける集団性・自治性・創造性、後者に於ける生産場面の重視・営利性の指導・児童生活 の規制がそれである。目標の違いは、さらにその推進主体と手だての違いを生む。 『生活学校』
が教師の教養の高さと技術の錬磨を深く追求したのに対して、波多野に代表される新体制児童文 化運動は、児童文化専門家の協力による文化財の有機的総合的結合の推進を求めたのである。
総じて、前者が子ども自身の中から生まれる文化創造を重視し、学級文化・児童文化の活動を 学力の充実や向上と結び付けた「生活知性」獲得の有力な方策として位置づけたのに対し、後者 はマスコミ児童文化財の規制を重視し、将来「国際的な闘争に勝利しうる」実が巧を子どもにつ けさせることをめざすものであった。こうした意味に於て新体制児童文化運動は子どもを客体と
して扱った外在運動であった。それに対して、 『生活学校』の児童文化運動は、 (方法的に創造主 体の重点が大人であろうと)どこまでも、子どもを主体者として位置づけようとした内在的運動 としての側面を強くもっていたといえるのではなかろうか。 『生活学校』の児童文化運動とその 理論が旺胎した意義の根本的なものは、こうした方向性の確かさにあったとみることが出来る。
こうして雑誌『生活学校』は、子どもを生活とそれに結びあった文化創造の主体とみる子ども認 識の新段階を画しつつ、主として児童文化論における以下のような意義を歴史的に有していたと みることができよう。
1.学級文化・児童文化の活動が、明らかな教育実践として位置づけられた。
2.子どもの集団や創意に最大の顧慮を払い、子ども自身の活動に児童文化の方向を兄い出し た。
3.児童文化の摂取や創造の対象としての文化内容を優れた段階に高めることを可能にするた め,教師の教養や文化創造の力量を常に重視した。
4.教師の指導とともに、子どもの文化内容の質を高めるために、児童文化運動の専門家や団 体との積極的な連携を追求し、その優れた専門性‑の正当な評価と援助の姿勢を堅持した。
5.都市市民の子ども達の主として校外における文化や芸術の接取・創造をめざしたといえる 大正期の児童文化運動に対し、公立小学校の児童を主たる対象とした文化創造の運動を展開
した。それによって、専門家達の主導による明治以来の孤立的な児童文化運動を、学校教育 と積極的に結び付けることが出来た。
6.児童文学中心に陥りやすい児童文化に、紙芝居・児童演劇・学級新聞・文集など、幅広い
文化内容を導入した。
116 I.q 本 Wj
7.子どもの生活や地域のあり方‑の変革的働きかけの有効な手だてとして児童文化を位置づ け、その運動の歴史的端緒を拓いた。
終章 残された問題
これまで、子ども認識の歴史的新段階を映す一つの鏡として、雑誌F生活学校』の児童文化運 動を実践と理論の両面にわたって検討し、それが内包した意義を新体制児童文化の運動と理論に 対比させつつ明らかにしてきた。ここではまとめの意味も含め本論文で残された問題について述 べておきたい。
問題の一つは、 『生活学校』の児童文化論の内的構造にかかっており、もう一つは、 『生活学校』
の児童文化運動と新体制児童文化論さらには少国民児童文化論との内的関連にかかっている。
まず前者について述べておこう。 「学級文化交流の頁」 (1936年11月号‑1938年2月号)に集約 的に示された『生活学校』の児童文化運動は、児童生活や児童労働の描写、紙芝居・文集・壁新 聞・学級文庫・子ども郵便局等といった活動の経験を生き生きと記録することによって教育実践 の基地である教室を中心に、教師の主体性に支えられた子ども集団による組識的な文化活動の旺 盛な展開を伝えていた。 「学校には一冊の児童図書もなく、家庭にはラジオも雑誌もなく、教柿 の実践を通さなくては児童文化に接することの全くなかった」(5讃少なからぬ児童達にとって、こ
うした活動のもつ意味は、今日では計り知れぬ程大きかったに違いない。謄写版刷りの粗末な紙 芝居に全校生徒が群がりおしかけてくる状況は、子ども達の文化生活の低さと関わり、こうした 活動のもつ有効性を鮮やかに浮き上がらせていた。文化財に盛られた文化遺産にたゞ触れさせる だけでも成り立ったと思われる当時の一般的文化状況にあって、 『生活学校』に具現された教師 達の文化追求の態度に、我々は、科学を重視し生活現実に問いかける変革的意欲の生きた姿を見 て取ることが出来る。
『生活学校』の児童文化論の形態的特徴をその「学級文化」 「教室文化」を主体とした「学校児 童文化」論であったとするなら、その内容的特徴は生活観識の児童文化論であった、といえるだ
ろう。それは「子供の生活の中にめしのように必要な文化」(54を獲得させることをめざし、マス コミを中心とする大衆児童文化への洞察と批判の目を育てつつ、教師の指導性を積極的に位置づ けた子ども達自身の文化活動の創造を促そうとするものであった。にもかかわらず、こうした方 向は、その後のわが国の教育と児童文化のそれぞれの流れの中で確かに根づくまでの成熟を得た とは言えない。 『生活学校』の児童文化論と一口に言うことにも、そこに伏在する異質の観点・
実践・方向があったであろうことを考えれば、もう少し立ち入った検討が必要となろう。
本論文の第Ⅲ章§2で、筆者は『生活学校』の児童文化運動として、松永健哉に代表された紙 芝居の運動にかなりのスペースを割いた。それは、戸塚の静岡時代の実践紹介や後に集約されて いる児童文化活動の幅広い把握の域を越えて、松永健哉の「紙芝居の製作と実演」 (1936年11月号) という一文がきっかけになり、新しい運動が広がって行ったからであり、ここに『生活学校』の 児童文化活動の一典型を兄いだせると捉えたからである。事実、この教育紙芝居運動の影響力と 組識力は、広範かつ強力なものであったと考えられ、 『生活学校』が仲立ちとなった運動として、
教育及び児童文化運動史において特異な位置を占めるものだといえよう。先にも述べたように、
長崎の近藤益雄は、 『児童生活研究所報告書』 (1937年11月号)の冒頭で、松永との出会いの日を
「僕にとって忘れることの出来ない大切な日だった。」として書き初め、その出会いが彼をして、
「綴方教師としての自負を捨て」させ、 「学級だけにとぢこもってゐた教育の仕事を、も少し社会 的なものの中で、叩き直して」(59みる契機となった、と語っていた。近藤はこうして紙芝居を「生 活指導の武器」として、多彩な学級文化の活動を展開することになる0
近藤に対するほどの大きな衝撃ではなかったとしても、山形の村山俊太郎も教育紙芝居の組識 的普及のために最も組識的な活動を行った一人であった。 『生活学校』を通じて、自治会活動こ そ自主的な学習活動や文化活動の場にならねばならぬ、と主張した松永健哉に強い刺激を受けた 国分一太郎も、従来の綴方や詩中心の児童文化把握から紙芝居・童話・人形劇を学級活動に生か す実践的方法を学んだと述べている(56)。本論文では明かにし得なかったが、こうした松永の理論 と活動が既に「綴方は、文字を生活的に支配する文化技術としてのみその独自性が認められ る」(5カとして、 「綴方教育の反省」を行い、 「子どもの生活文化組織者としての綴方教師」鯛として 新しい自己規定を行いつつあった村山らいわゆる生活綴方教師達の綴方認識に一つの影響を与え たことは確かだと思われる。 「学級自治の任務とその積極的活動の方法、及び、労働の意義、犠 牲的行為の尊さや、集団主義の優位など、すべてこの芸術形式に訴へることによって、数千言の 説得の及ばぬその価値を確信してゐる」(5功として、紙芝居を初めとする児童文化材のもつ意義を 高く評価し、 「子供の教育に直接の武器として役立ちうる作品」(60)を児童文学や児童文化財に求め た松永健哉には、子どもの自治活動、集団活動の発展強化のために、既成文化財を批判的に摂取 し、それを変革させる強烈なエネルギーをみてとることができよう.生活組識の児童文化論とし て、その内容的特徴を概括し得る『生活学校』の児童文化論の中にあって、松永に代表される児 童文化認識を持った教師達のそれと、近藤益雄ら生活綴方の系列の教師達の児童文化論との間に は、少なからぬ異質性が存在していたように思われるのである。この検討は、村山や近藤らの生 活綴方との関わりを含めた児童文化論と松永らの集団自治や生活訓練としての児童文化論との歴
史的相互交渉を明らかにすることによってなされねばならないだろう0
次に、後者の場合に移ろう。本論では、 1938年10月に出された内務省の児童読物浄化要綱を具 体的な起点とし、 2年後の近衡内閣の成立とともに展開されたいわゆる「新体制運動」の一分野 としての児童文化運動(本論文ではこの運動を新体制児童文化運動とした。)の理論上の体現者 を波多野完治にみて論を進めた。この見方は、それ自体児童文化運動の歴史の通説にのっとった ものであり、妥当性を失わないものといえよう。しかし、新体制児童文化運動を進めた民間側の 代表者は、波多野一人に集約されるわけではない。少なくとも当の波多野自身、この運動は当時
の綴方や児童詩において指導的立場にいた百田宗治と協同になるものだと述べているし、これも また児童文化運動史の通説とするところである。従って筆者は『生活学校』の児童文化論の意義 を波多野完治の理論と対比させたものであり、新体制児童文化の運動全体と対比させたわけでは ない。波多野完治と百田宗治とでは、児童文化そのものの性格づけや運動の依拠する基盤におい て大いに異なるものがあったと思われる。ここでは詳説できないが、大量児童文化財の営利性の 指導や子どもへの影響及び児童文化運動の国策的目標の設定に傾斜した感のある波多野の立場に 対して、百田のそれは、児童文化をあくまで子どもの側から、そして教育や教師のあり方への強 い期待に基づいて建設していこうとする姿勢が顕著であった。
かつて波多野は、 「昔は、学校教育と児童文化とは無関係でありえた。学校教育は、教育勅語
を中心としていても、児童文化では、勅語ぬきのヒューマニズムでやっていけた。... (略)一学
校のなかへ人らぬつもりなら、ヒューマニズムを維持することもできなかったわけではない。す
くなくとも理論上は可能であった」Gl)と述べた。このことにかかわって戸塚廉は、 「このとらえ方
118
岡 本'」 lti
には児童文化の本質に根ざした疑問があり、これらの教育実践と児童文化とのかかわりあいのう えに重大な問題をふくんでいる」として、「現場にある教師たちは、 ‑(略)‑・文部省の統制によっ てヒューマニズムを失いつくそうとしている学校教育にこそ児童文化をもちこみ、それによって 学校教育に創造的な人間的な機能をよみがえらせようとしたのである。」(6功と述べた。波多野が「わ れわれ」という言葉で、百田宗治を主とした人々を表していることは明らかであるが、この両者 の間には児童文化運動における教師の果たすべき役割についての重大な相違があったことは先に 述べた通りである。いずれにせよ、この両者は、ともにその位置づけや方向性の違いも含め、 「国 民学校」や「大E]本音少年団」の成立、そして「少国民文化協会」の結成(共に1941年)以後、
皇国の道に帰一し子どもたちを破滅へと導く死の児童文化論が支配的となる過程でともに批判さ れ、百田宗治は「『文化主義者』のレッテルをはられ、失脚」(63)していったのである。
ところで、少国民文化論が台頭する中で、新体制児童文化論を代表した波多野完治の理論は様々 に批判を受けることになるが、共通した批判の傾向はその児童文化論のもつ都会的偏向性につい てであった。戦争の激化とともに国民への物的精神的圧迫が強まる中で、華美なもの消費的なも のが排され、土着的で伝統的なもの‑の注目がなされたことは、国策と相侯つ当然の事態であっ
たといえる。しかし基本的には国家の戦争政策からくるこうした批判の中にも、それ自体として は正当なものがあった。
「農山村の児童には文化財がないのであろうか。そんなことはない。成程、読物、映画、玩具 等の如く大人が作って与えるやうな文化財はないかも知れない。併し柳田国男氏が朝日新聞に連 載した『こども風土記』の如き地方的に伝統的にその地方の児童の間に存在しておる文化財があ るのである。これらをも指導することによって立派な児童文化の向上が可能となるのである。農 山村の児童が都会の児童に比して少数ならばいざしらず、さうでない限り、児童の中から生れい で、児童の間に既に在る事に財を見逃してはならない。」(64
「児童の文化生活を商品の消費の中に見出すやうな方式は、厳にこれを改めねばならぬ。粘土 や木の葉をもってする様々な遊故を如何に指導するのか、部落の団体生活を如何に指導するかと いふことのなかに根幹を発見するべきである。」(6勾
波多野が「児童文化運動は、児童にあたえられる『文化財』を文化的にすることによって、児 童の生活そのものをのぞましいものにしようとする運動」佑句であるととらえた限りにおいて、こ
うした批判もいずれ避けられないものであった。戸塚の批判が、児童文化と学校教育との関わり 及び波多野が『生活学校』の児童文化活動に「全然ふれずに、それとの総合によってはじめて開 花しえたはずの専門家の活動だけを児童文化運動とよぶことには異議がある」(6gといういわば外 在批判としての性格をもっていたのに対し、少国民文化論によって集中的に受けた批判は、その 文化内容に関わるものであった。それだけに痛手は大きかったに違いない。
翻って『生活学校』は、土地の伝統的な習俗などを絡めた「児童の村小学校」の学級経営プラ
ンが載ったり、静岡時代の戸塚による「農村生活の中に奥深く食い込んでいる行事」即ち「七夕
やお盆祭」(鴎を披判的に観察・分析させた仕事が紹介されたりした。そこには出来あいの文化財
の享受の仕方に終らず、子どもの文化生活に深い影響を及ぼす習俗や年中行事への教育的な着目
の萌芽がみられた。 『生活学校』の児童文化論には、本論文で述べてきたように、数多くの優れ
た児童文化‑のアプローチがみられたが、こうした村や町の伝統的な文化や自然の中での子ども
達の活動を指導する点では、弱点を有していた。そこには、児童の生活とそこにおける行動・思
考様式に内在し影を落としていた因習的・非合理的・封建的要素への積極的な披判・克服への努
力は大いに認められる。しかし、批判の彼方にある科学的・合理的・近代的要素を子どもの生活 の内側・裏側から見通し組識する方途において、ことばの真の意味における科学性がどれだけ貫 かれていたのだろうか。因習的・封建的とみられる要素が子どもの生活の中で作用し、その人格 形成に非文化的否定的役割を果たすという一般的指摘はあっても、それが何故にそうなっている のか、その要素のうちにあるエネルギーをどうしたら文化的発展的方向に向けることができるの かという視点や手だてが、充分明らかにされていたとはいえないであろう。
目前の子ども達の生活にある非文化的状況を改善したいという意欲の盛んな余り、文化的啓蒙 的傾向に陥り易く、子どもの遊びや伝承児童文化財等にみられる児童文化の存在形態に注目する ことが殆どなおざりにされたといえる。というのも、第I章で述べたような子どもの生活と文化 状況の中にあって、学校(学級)の文化的役割は極めて高かったし、そこにあって、教師の指導 性による子どもの集団的文化活動が組織されることは、何よりも大切なことであったからである。
ともあれ、 『生活学校』においても正面からの取り組みをみず、波多野の児童文化論において 決定的に欠落したと思われる伝統的・土着的な生活の中での文化創造の視点は、後の「少国民文 化論」において、限定つきではあるが、中心的論点として登場することになるのである。
最後に、こうした論点は、そのまま今日の児童文化と教育の問題に根本的に関る問題の一つだ けに、その具体的な論究のためには新たな視点からの新たな検討が必要となるであろうことを示 唆して、ひとまず本論文を終ることとする。
註
( 1 )こうした盛んな児童文化論譲の反映例の‑‑‑つを、次のような出版状況にみることができる.
1939年(昭和14年) 「特集 児童文化」 (雑誌F教育』 5月号) 1940年(昭和15年) 「座談会 児童文化」 (雑誌『公論』 11月号)
『季刊 新児童文化(1 ‑ 4)」 (巽聖歌編. 12月 ‑1942年5月) 1941年(昭和16年) F児童文化』 (上) (下) (教育科学研究会編、 2月、 4月)
F児童文化論」 (国語教育学会編、 4月)
「特集 児童文化への諸課題」 (雑誌『教室』 5月号)
「特集 国民学校と児童文化」 (同上、 6月号) F子供の世界一児童文化の諸問題』 (百田宗治、 6月)
『少国民文化の諸問題』 (松永健哉、 6月)
「特集 児童文化」 (雑誌『民間伝承」 6月、 7月)
「特集 児童文化の日本的性格」 (雑誌『教室』 7月号)
「言語と児童文化」 (雑誌『国語文化』 lュ月)
厳しい文化統制や出版統制下でのこれだけの扱いは、主観的意図とは別にそれらが国家的意図に沿う ものであったことを物語るが、同時に児童文化運動が一時の流行ではなく、運動に支えられた「現実」
的課題であったことを示している。
(2)ともに、波多野完治『児童社会心理学』、同文館、 1938年、 pp.270‑271、及びp.1
(3)同「新しい児童観」 『児童心理の世界』、同文館、 1943年、 pp.181‑182.初出は雑誌『児童J 1935年 1月.
(4)註(2)に同じ p.3
120
岡 本 定 男
(5)波多野完治、戦前重要著作年譜(筆者作成)
○‑・児童文化を部分的な主題としているもの
◎一児童文化を主題としているもの
発 行 年 書 名
1 9 2 9 ( 午 ) F教 育心 理 学 』 1 9 3 0 r新 しい心 理 学 』 1 9 3 1 『児 童 心 理 学 」
1 9 3 5 F文 章 心 理 学 』 F 子 供 の 生 活 心 理 」 ( 共 著 ) F子 供 と は ど ん な もの か j 1 9 3 6 ○ F児 童 生 活 と学 習 心 理 j F 子 供 の 道徳 j
1 9 3 7 『算 数 の 指 導 心 理 』
19 38 ○ 『児 童 社 会 心 理 学 」 『創 作心 理学 』
19 4 0 F心 理 学 的 散 歩 』 ◎ 『児 童心 性 論 』○ 『子 供 達 の 気 持 』
19 4 1 ◎ 児 童 文 化 の 理 念 と体 制 」 ( 国語 教 育 学 会 編 『児 童 文 化 論 』 岩 波書 店 ) 19 4 2 ◎ 『家 庭 教 育 と児 童 文 化 の 問 題 」
19 4 3 ◎ 『児 童 心 理 の 世 界 j
1938年の『児童社会心理学』以降、 F児童心理の牡界』にいたる著作の大半が、児童文化の問題を部 分的ないし中心的主題としていることが分る。
(6) 「鼎談 教育実践と児童文化」 F教育』 1960年8月号、 p.6.
(7)浅野晃「児童観の問題」 F日本教育』 1942年3月号、 p.27.
(8)ともに、波多野完治F児童生活と学習心理』賢文館、 1936年、 pp. 90‑91.
(9)以上、いずれも、波多野完治『児童社会心理学」同文館、 1938年、 pp.129‑147より摘出。
(10)同『児童心性論』賢文館、 1940年、 p.220.
(ll)稲田達雄F映画教育運動三十年J (I本映画教育教会、 1962年)によれば、波多野の映画人との交流 ないし児童映画への実践的参加は、昭和11年頃から終戦間際まで極めて意欲的なものであったことがわ かる。そこには、児童心理学の専門家としての立場から、あるいは児童文化運動の指導者としての立場 からする映画人への(講演を含む)啓蒙的発言、児童映画の製作現場への立合、児童映画の反応調査と 鑑賞指導、児童映画シナリオ懸賞募集の審査、文部省映画教育調査嘱託(1940年)、児童生徒向映画の 選定、少国民漫画映画製作企画主査、国民学校教科用映画検定委員等が含まれ、 「映画教育運動におけ る中心的な指導者」 (同上、 p. 1 84;としての波多野の活躍ぶりが随所に述べられている。また児童 文化の問題を初めて正面きって論じた書F児童社会心理学」を、 「此の小冊子を、稲田達雄、関野嘉雄 両氏に捧ぐ」とし、教育映画運動の両者指導者に献上しているところを見ても、この分野への主体的な 姿勢が明僚に伺える。
(12)以上、いずれも、波多野完治F児童心性輪j賢文館、 1940年、 pp.222‑234より摘出。
(13)この分類は、 『児童社会心理学J pp.102‑113.及び『児童心性論』より作成した。
(14)註(2)に同じ p.115.
15 r児童心性論1より分類した。
(16)ともに、註(12)に同じ。 p.109.及びp.122.
(17)註(2)に同じ、 p.127.
(18)波多野完治「児童文化の理念と体制」国語教育学会編F児童文化論』岩波書店、 1941年、 p,8.
(19)実際的理由の歴史的筋道は、次のように述べられている。
① 生活教師たちは何事りもまづ児童について心配する人たちであった。
② 子どもの生活の全面に心を配れば、学校の生活だけでなく、校外での生活も見なければならなくな
るが、教科から余り離れた指導はできない。
(彰 ここから比較的全面的に子どもの生活指導が出来、しかも比較的教育に即してやれるものとして、
綴方が重視される。
@ しかし、この綴方によって、教師の関心は一層学校外に向くことになる。
(9 そこで、児童文化への関心が必然的なものとなるO一方、理論面では、波多野等が主張した「新し い児童観」 (児童は社会的存在であり、その本質は、発展せしめられるものとして、特徴づけられる。) が、生産主義の生活教育の実践に即したものとなり、 「子どもをよくするには、子どもをとりまく社 会をよくしなければならない」 (p.14)という認識につながっていったことをあげている。
(20)読(18)に同じ p.15.
(21)寒川道夫「生活綴り方とはなにか」 r子どもと教育』あゆみ出版、 1976年11月号、 p.75.
(22)ともに註(18)に同じ p.15.
(23)ともに註(18)に同じ p.18及びp.29.
(24)註(18)に同じ. p.30.
(25) r児童社会心理学』 pp. 198‑201.
26 註12に同じ。
(27)以上、管忠通『日本の児童文学』大月書店、 1956年、 p.245及びp.247.
(28)波多野完治「児童文化構造論」教育科学研究会編F児童文化(上)』、西村書店、 1941年、 p. 8 (29)ともに註(18)に同じ p.44.
(30)ともに註(18)に同じ p.51及びpp.58‑59.
(31)いずれも、註(18)に同じ. pp.53‑76.
(32)ともに、戸塚廉「『生活学校』教育運動(17)」 『教育」 1965年1月号、 p.72及びp.76.
(33)同上 p.76.
(34)戸塚廉「『生活学校』教育運動(12)」 F教育』 1964年6月号、 p,114.
(35) 「編集後記」 F生活学校J 1938年5月号、 p.84. (以下、雑誌『生活学校jからの引用は、いちいちその 雑誌名を掲げず、年号のみを示す。)
(36)いずれも、 1938年5月号座談会、 pp.9‑10.
(37)ともに、同上、 p.11及びp.12.
(38)管忠通「自伝的児童文化史(22)」日本子どもの本研究会編F子どもの本棚1973年12月号、 p.20.
(39)ともに、 1938年5月号、 p.17.
(40)ともに、註(36)に同じ p.16及びp.12.
(41)いずれも、註(36)に同じ p.15、 p.17及びp.16.
(42)ともに、註(36)に同じ. p.15及びp,12.
(43)波多野完治「高山氏の提案を読みて」 1938年8月号、 p. 17.
(44)註(18)に同じ p.15.
(45)波多野完治「児童文化とはなにか」 『親と教師のための児童文化講座I』弘文堂、 1961年、 pp.5‑6.
(46)ともに、註(36)に同じ. p.8及びp.18.
(47)彼のこの発言は、 「指示要綱」が発表される以前、内務省が百H完治、城戸幡太郎等にその施行に際 しての意見を聴取し始めた時点でのものであった。
(48)ともに、註(36)に同じ p.12.
(49) 「対談F学級文化』 F教室文化』の問題をめぐって」 『生活指導」 1959年12月号、 pp.. 42‑43.
(50)柳瀬浩「学芸会・児童劇の活路のために」 1936年2月号、 p.7.
(51) 「鼎談 教育実践と児童文化」 F教育』 1960年8月号、 p.7.
(52)註(18)に同じ. p.57.
(53)註(34)に同じ p.116.
(54)戸塚廉「夏休みの仕事」 1937年8月号、 p.27.
(55)いずれも、近藤益雄F児童生活研究所報告書』 1937年11月号、 p.48.
(56)註(49)に同じ. p,37
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岡 本 定 男
(57)村山俊太郎「綴方教育の反省」 『村山俊太郎著作集(3)』百合出版、 1968年、 p.24.
(58)同「国語合理化と国語教育」同上書所収、 p.156.
(59)松永健哉「児童自治に基く学級経営」 F教育J 1935年11月号、 p. 57.
(60) 「r児童文学j座談会」 『教育J 1937年4月号、 p.58.
(61)註(45)に同じ p.10.
(62)ともに、註(34)に同じ. p.115.
(63)巽聖歌「星ひとつ墜つ」 F作文と教育』 1956年2月号、 p.33.
(64)多田健「書評F児童文化の理念と体制」」 F日本教育』 1941年6月号、 p.49.
(65)阿部仁三「国民教育と児童教育」 F日文教育』 1941年9月号、 p.31.
(66)註(45)に同じ p.5.
(67)註(34)に同じ p.116.
(68)註(54)に同じ p.26.
A Historical New Stage of the甲ecognition for Children 〔Ⅳ〕
‑The Papers on Juvenile Culture in the Journal HSeikatsu Gakko ‑
Sadao OKAMOTO
(Department of Pedagogy, Nara University of Education, Nam 630, Japan ) (Received April 30, i99i;
I have stated as yet that the journal Hseikatsu Gakko took interest in the problem about the
so called …classroom culture and encouraged many teachers who were engaged in the activities
concerning about the juvenile culture. They say that the movement through the medium of this journal itself made the new word Hthe classroom culture and Hthe juvenile cultural movement".
Furthermore, as mentioned previously, this journal promoted the popularization of Hthe educa‑
tional picture‑card" and the cooperation of Hthe school‑drama'(or Hthe Gakugeikai")and =the children's drama. In contrast with the general form by the age of the beginning of Showa era, this journal became a typical existance of the juvenile cultural movement inside of the school like this.
By the way, the juvenile cultural movement in Japan stepped into a new stage by …the direc‑
tive principle concerning about the purification of children's book'つfrom HNaimu‑sho , August,
1938.). After this directive principle the private and conscientious publications seemed to gain a vigour. And just for this reason, the national control toward a jllvenile culture became to get the
private assistance. (People say this semigovernmental movement …the new establishment of juve‑
nile cultural movementつKanji Hatano was the thoretical leader of this new eatablishment of
juvenile cultural movement.
As the completion of four time papers till now, I attempt to examine the theory about the juve‑
nile culture of Kanii Hatano's. Then, by the material of =the round‑table talk concerning about a juvenile culture'つりSeikatsu Gakko", October issue, 1938.), I will compare the juvenile cultural
activities of …seikatsu Gakko with Hthe new establishment juvenile cultural movement.1 will indi‑