印度學佛敎學硏究第66巻第1号 平成29年12月 (187) ― 306 ―
『臨済録』における「臨済三句」の形成過程
呉 進 幹
1.はじめに
『鎮州臨済慧照禅師語録』(以下『臨済録』と略称)は,中国唐末の禅僧・臨済義 玄(?–866)の説法と言行の記録を集成した語録であり,「上堂」・「示衆」・「勘 弁」・「行録」の四 から成る.ただし,この四 のうち,「示衆」は臨済圓寂の 約百年後,北宋初には定型を成していたが,「行録」・「勘辨」・「上堂」に收録さ れた諸則は臨済宗形成のなかで,宗祖の事蹟として一則ごとに收集されたと考え られる1).その形成過程をより明らかにするためには,ひとつひとつの則ごとに 個別にその来歴と形成を検討する必要がある.本稿では,「上堂」に現れる所謂 「臨済三句」に焦点を当て,その形成過程を考察する. 2.『臨済録』「上堂」における「臨済三句」
いわゆる「臨済三句」は,通行本『臨済録』の「上堂」に収録されているが, 次の通りである(大正47, 497a). 上堂.僧問,如何是第一句.師云,三要印開朱點側,未容擬議主賓分.問,如何是第二 句.師云,妙解豈容無著問,漚和爭負截流機.問,如何是第三句.師云,看取棚頭弄傀 儡,抽牽都來裏有人. これは「三要」,「主賓」,「妙解」,「截流の機」,「傀儡」,「人」などを臨済の禅 の趣旨ないし特徴として三つの命題に集約し,宗派綱要として主張したものであ ると考えられる.この「臨済三句」と「三玄三要」とが,のちの臨済宗の綱要と して関心を集め,注釈の対象となった(『人天眼目』). しかし「臨済三句」はもと『景德伝灯録』卷12臨済章(1009)に初出するもの で,円覚宗演が黄龍慧南校訂『四家録』(約1066年前後)中の『臨済録』を重開 (1120)した時に『景德伝灯録』などから増補した8則のうちの1則であった.こ(188) ― 305 ― 『臨済録』における「臨済三句」の形成過程(呉) れが『続開古尊宿語要』(1238),『古尊宿語録』(1267)に引き継がれ,単行本化さ れて江戸時代の通行本(18世紀)に至るのである.したがって「臨済三句」は 『臨済録』テクストの二系統のうち2),「古尊宿系」に見えるもので,「四家録系」 には見えない. 3.
『臨済録』「示衆」における「三句」
周知のように,臨済の禅は早くから南方へ伝わっていたが,臨済の「三句」も 同時代の南方の雪峯教団に知られていた.次の雪峰義存(822–907)と孚上座の問 答が「臨済三句」という語の初出文献である(大正51, 360a). 雪峯嘗問師曰,見説臨済有三句是否.師曰,是.曰,作麼生是第一句,師舉目視之.雪峯 曰,此猶是第二句.如何是第一句.師 手而退.自此雪峯深器之.(『景德伝灯録』太原孚 上座章) また,雲門文偃(864–949)の語録中にも,次のように記されている(大正47, 573a). 挙臨済三句語問塔主, 如塔中和尚得第幾句.主無語.師云,儞問我.主便問.師云,不 快即道.主云,作麼生是不快即道.師云,一不成二不是. このように,臨済に「三句」があり,少なくとも唐末もしくは五代の始め頃, 南方の禅林において語られていたことは疑いない.しかしその内容は「第一句」 を「第一義」(によって覺る)とする接化方便の「三句」で,内容が異なる.また これと共通する考えかたは臨済の示衆にも見える(大正47, 502a). 山僧今日見處,與祖佛不別.若第一句中得,與祖佛為師.若第二句中得,與人天爲師.若 第三句中得,自救不了. 柳田聖山の解釈によれば,示衆に記されているこの「三句」とは,「一切の人 惑を受けぬ,祖仏の師となるに価する底の上根の機の用処を第一句とし,第二, 三句を中下の根とみるべき」3)ものであるという.「第一句」を会得すれば「祖仏 と別ならず」というから,主眼は「第一句」に置かれている.つまり,臨済に よって語られた「三句」は,「第一句」(=「第一義」・「本分事」)の立場に立ちつつ, 来参者の機根を見きわめ接化するものである.これは前に見た雪峰が質問した臨 済の語る「三句」と対応する.しかし,「上堂」に出る「臨済三句」は,来参者 の機根を「上根・中根・下根」に分類する「三句」とは,明らかに趣旨が異なっ(189) ― 304 ― 『臨済録』における「臨済三句」の形成過程(呉) ている.では,「上堂」に見られる所謂「臨済三句」は誰によって作られたので あろうか.またどのようにして『臨済録』に編入されたのであろうか. 4.
「臨済三句」の創作者
現存する文献上,「臨済三句」が初めて臨済の語として紹介されるのは『景德 伝灯録』の臨済章においてである.しかし,黄龍慧南校訂『四家録』以前の古い 『臨済録』の形態は『天聖広灯録』(卷10, 11)に保存されているが,そこではいわ ゆる「臨済三句」は臨済の語ではなく,風穴延沼の語として風穴延沼章(卷15) に見え,次のように記されている(卍新續78, 493a). 問,如何是第一句.師(按: 風穴)云,三要印開朱点窄,未容擬議主賓存,便喝.問,如 何是第二句.師云,妙解豈容無着問,謳和爭起截流機,未問已前錯.問,如何是第三句. 師云,但看棚頭弄傀儡,抽牽都來裡有人,明破即不可. これとセットになる「三玄三要」も風穴延沼(896–973)の法嗣首山省念(926–993) 及びその弟子の汾陽善昭(947–1024)のころに取り上げられたものである. したがって,古型を存する『天聖広灯録』にいわゆる「臨済三句」が風穴延沼 の語として引かれているということは,「臨済三句」はもと風穴延沼の語であっ たのであるが,臨済義玄の語として,「三玄三要」とともに『景德伝灯録』に收 録されたと考えられる. 5.北宋末における「臨済三句」の定着
「臨済三句」は風穴の語であったにもかかわらず,後世最も影響の大きかった 『景德伝灯録』に臨済の語として収録されたため,その結果,北宋末以後にはそれ が臨済の語として定着していった.例えば,覚範恵洪(1071–1128)が編纂した『禅 林僧宝伝』(1124)の「風穴伝」では,次のような形になっている(卍新續79, 498c). 南院曰: 汝乘願力,來荷大法,非偶然也.問曰: 汝聞臨済將終時語不.曰: 聞之.(省略) 又問: 汝道四種料簡語.(省略)曰: 如何是奪人不奪境.曰: 新出紅爐金彈子, 破闍梨 鐵面門.又問: 如何是奪境不奪人.曰: 蒭草乍分頭腦裂,亂雲初綻影猶存.又問: 如何是 人境 奪.曰: 躡足進前須急急,促 當鞅莫遲遲.又問: 如何是人境 不奪.曰常憶江南 三月裏,鷓鴣啼處百花香.又問曰: 臨済有三句,當日有問: 如何是第一句.臨済曰: 三要 印開朱點窄,未容擬議主賓存.風穴隨聲便喝.又曰: 如何是第二句.臨済曰: 妙解豈容無 著問,漚和爭赴截流機.風穴曰: 未問已前錯.又問曰: 如何是第三句.臨済曰: 但看棚頭(190) ― 303 ― 『臨済録』における「臨済三句」の形成過程(呉) 弄傀儡,抽牽全藉裏頭人.風穴曰: 明破即不堪.於是南院以為,可以支臨済.幸不辜負興 化先師,所以付託之意. ここには南院慧顒が臨済の禅を風穴に伝えようとする宗派的自覚が相当に強く 出ていることがはっきりと見られる.しかし,このような南院と風穴との長い問 答は,古いテキストである『天聖広灯録』には出てこない.知られる限り『禅林 僧宝伝』が初出である.全体の内容はやはり宗派的伝承として編纂され,「臨済 三句」や「四料簡」を伝承の法として臨済から興化・南院を経て風穴に至る師資 相承を示す文脈が見られ,「臨済三句」も既に風穴の語ではなくなり,臨済から 代々受け継がれてきたものとされている.つまり北宋末の『禅林僧宝伝』風穴伝 になると,「臨済三句」を『景德伝灯録』に據って臨済の語とし,さらに「四料 簡」をも加えて臨済宗の綱領を示そうとする強い意識が現れている. また,恵洪とほぼ同時代の円覚宗演もまた『臨済録』を重開する際に,その底 本とする古い「四家録」系統の『天聖広灯録』に見られぬ「臨済三句」を「三玄 三要」とともに,臨済の語として,初めて『臨済録』の「上堂」に加えたので あった.このことは宗演や恵洪らの北宋末の臨済宗の動向を反映しており,それ が『臨済録』の形成に深く関連しているのである.今回取り上げた「臨済三句」 は,北宋末以後,宗祖たる臨済の語として定着し,その一方,風穴は,ただそれ を継承したものとされ,南宋の『古尊宿語録』に引き継がれて,定着してゆくの である.「臨済三句」はこうして形成されたのである. 1)衣川 2017,241–242を参照. 2)衣川 2017に「『臨済録』のテクストにはふたつの系統がある.北宋初期に作られた単行本 (いま伝存せず)を源流として,(一)「四家録」に收録され,『天聖広灯録』・南京図書館本 『四家録』・明版『四家語録』に展開する系統と,(二)「四家録」を黄龍慧南が校訂し,さ らに円覚宗演が重開して『続開古尊宿語要』・『古尊宿語録』に引き繼がれる系統とに分か れる.元代以後の単行本は『古尊宿語録』から抽出別行させたものである」という. 3)柳田 1960,90. 〈参考文献〉 衣川賢次 2017「臨済録の形成(改稿)」『 臨済録 研究の現在: 臨済禅師一一五〇年遠諱 記念国際学会論文集』禅文化研究所,229–272. 柳田聖山 1960「南院慧顒―中国 臨済禅創草時代に関する文献資料の綜合生理,覚書その2―」『禅学研究』50: 81–102. 〈キーワード〉『臨済録』,臨済義玄,『景徳伝灯録』,臨済三句,『天聖広灯録』,風穴延沼 (花園大学大学院)