三
業
度
人
の
制
の
変
遷
武
内
孝
善
は
じ
め
に
三業度人の制の 変遷 (武 内)周
知
の よ う に 、弘
法 大 師 空海
( 以 下 、 空 海 と 略 称 す ) は 、 そ の 最晩
年
の 三 ヶ 月 あ まり
の あ い だ に 、真
言宗
・ 東 寺 ・( 1 ) 亠 咼 野 山 を 未 来
永
劫
に 存続
発 展 さ せ る た め の布
石 を 、矢
継 ぎ ば や にう
た れ た 。 そ の 一 つ に 、 承 和 二 年 ( 八 三 五 ) 正 月 に勅
許
を み た真
言
宗
に お か れ た 三 人 の年
分度
者 、 す な わ ち 三 業度
人 の 制 が あ る 。真
言
宗 に お か れ た 年 分 度 者 は 、 空 海 の 上表
時 に は 三 人 で あ っ た け れ ど も 、 仁 寿 三年
( 八 五 三 ) 四 月 に 三 人 、 延喜
七年
( 九 〇 七 ) 七 月 に 四 人 の 加 増 が み と め ら れ 、 最終
的 に 十 人 と な っ た 。 こ の 間 、 た だ 単 に数
が 増 え た だ け で は な か っ た 。 東 寺 ・ 金 剛 峯寺
・神
護
寺 三 者 の あ い だ で 、 課 試 と 得 度 の 日 時 ・場
所 な ど を め ぐ っ て の 対 立 が み ら れ 、 三業
度
人 の 制 度 は 三者
の 利害
が か ら ま っ て、 目 ま ぐ る し い 変 遷 を み た の で あ っ た 。( 2 )
三
業
度 人 の制
が お か れ た 当 初 の 形 態 に つ い て は 、 か つ て 論 じ た こ と が あ る 。 そ こ で 本 稿 で は 、仁
寿 三年
以 降 を中
心 に 、 真 言 宗 に お か れ た 年 分度
者−
三 業度
人 の 制ー
の 変 遷 を 年代
順 に お い 、変
革
の 首 謀 者 と そ の 内 容 、 お よ び そ の意
図す
る と こ ろ に 光 を あ て て み る こ と に し た い 。 一NII-Electronic Library Service 智山学報 第五 十 六輯 一
空
海
に
よ
る
三
業
度
人
の
制
の新
設
真 言宗
に お か れ た 三 人 の年
分 度 者 、 す な わ ち 三 業 度 人 の 制 は 、 空 海 の 上表
文 に も と つ い て 、 承 和 二 年 ( 八 三 五 ) ( 3 ) 正 月 二 十 三 日付
の 太 政官
符 に よ っ て 勅 許 さ れ た 。 こ の と き は 、 三業
− 胎 蔵 業 ・ 金 剛 頂 業 ・声
明 業 の 名称
と 学 習 す べ き 経論
等 が定
め ら れ た に 過 ぎ な か っ た 。 以 下 に 取 りあ
げ
る 太 政 官 符 類 で た び た び 言 及 さ れ る年
分 度 者 の 選考
方法
、 試 度 の場
所 ・期
日 な ど の 細 則 に つ い て は 、 同年
八 月 二 十 日 付 の 太 政官
符
で 規 定 さ れ た 。 よ っ て は じ め に 、 こ の根
本 の 規 定 か ら 紹介
す
る こ と に し た い 。 ま ず 、 太 政官
符
の 本 文 を あ げ て お く 。 太 政官
符す
応 に 真 言
宗
年
分 度 者 の 学業
を 試 み 、 並 に 得度
の 日處
を 定 む べ き の事
も よ エ ま 右 大僧
都 傳 燈大
法 師 位 空 海 の 表 に 侮 く 。 謹 ん で 太 政官
今
年 正 月廿
三 日 の 符 を按
ず る に俗
く 。真
言宗
の 年 分 度 者 て へ り は 、 三 密 の法
門 に 准 じ て 、毎
年 三 人 之 を 度 す べ し 、 者 。 其 れ 真言
は 傳 法 之 人 に あ ら ざ れ ば 課 試 を 聴 さ ず 。 伏 し て 請う
。 傳 法 阿 闍 梨 遺 属 相 承 の 者 と 、 傳 法 を 許 さ る る 一 兩 人 と 、 相 ひ 共 に省
寮
を 経 ず 、 金 剛峯
寺
に於
い て 文義
し 十 条 を 課 試 せ し め よ 。 太 政官
去 る 延 暦 廿 五 年 正月
廿 六 日 の符
に 准 じ て 通 五 以 上 の 者 を 以 っ て 及第
と為
、す
な わ お ん た め ち 状 を 具 し て官
に 申 さ ば 、 例 に 依 っ て 裁 下 せ ら れ ん 。 但受
戒
の 後 六 年 。 彼 の寺
に 住 し て 国 家 の奉
為 に 三密
の法
て へ り こ う う け た ま わ 門 を 修 せ し め ん、 者 。従
二 位 行 大 納言
兼 皇 太 子傅
藤 原朝
臣 三 守 宣 す 。 勅 を 奉 る に 、 請 う る に 依 れ 。 但 し 九 月 な ( 4 > 廿 四 日 を 以 っ て、 永 く得
度 の 日 と 為 せ 。 空海
の 最 晩 年 の考
え が 披 瀝 さ れ て い る こ の官
符 は 、 い く つ か の 注 目 す べ き 内 容 を も つ 。 私 が 理 解 し た と こ ろ で は 、 N工工一Eleotronlo Llbrary三 業度人の 制の変遷 (武内) つ ぎ の 七 項 目 に 整 理
す
る こ と が で き る 。 す な わ ち 、 第 一 は年
分 度 者 の 数 に つ い て 。 三 密 の 法 門 に准
じ て 三 人 と 定 め ら れ た こ と 。第
二 は 度 者 の 資 格 に つ い て 。 「 伝 法 の 人 に あ ら ざ れ ば 、 課 試 を聴
さず
」 と あ っ て 、 密 教 を 誤 り な く体
得
し 、 次 代 に相
承 す る だ け の資
質 を そ な え た 者 に だ け 、 課 試 を受
け る こ と が 許 さ れ た こ と 。第
三 は 課 試 者 に つ い て 。 真言
密
教 の 正 嫡 と し て 付 属 さ れ た 伝 法 阿 闍 梨 と 、 次代
に 法 を 伝 え る こ と を 許 さ れ た 一 ・ 二 の 者 と が 相 は か り 、 監督
官
庁
で あ る 治 部省
・ 玄 蕃寮
の 立会
い を う け る こ と な く、 独自
に 課 試 を 行う
こ と 。第
四 は課
試 の 場所
に つ い て 。 金 剛峯
寺 に お い て行
う
こ と 。第
五 は 課 試 の方
法
に つ い て 。 文義
十 条 を 出 題 し、 五 問 以 上 で き た 者 を 及 第者
と す る こ と 。第
六 は及
第 者 の 取 り扱
い に つ い て 。 課試
の 結 果 を つ ぶ さ に記
録
し て 太 政 官 に申
し 送 り 、 及 第者
に は規
定 に し た が っ て度
縁
を賜
い 、 受 戒 の あ と 六年
間 金 剛峯
寺
に 住 ま わ せ て 、 国 家 の奉
為 に 三 密 の法
門 を修
せ し め る こ と 。 第 七 は 得 度 の期
日 に つ い て 。勅
命 に よ り 、毎
年
九 月 二 十 四 日 と す る こ と 。 の 七 項 目 が 規定
さ れ た 。 空海
が こ の 三業
度 人 の 制 に 託 し た こ と は 、東
寺 長者
み ず か ら が 中 心 と な っ て資
質
の す ぐ れ た学
生 を 選 び 、 十 入道
一尊
法
の 修 行 と経
論 の学
習 の た め に 六 ヵ年
の 籠 山 を課
し 、 行 学 を兼
ね そ な え た国
家
に 有 用 な僧
を 養 成 す る こ と であ
り 、 こ の こ と を も っ て 、 真 言密
教 の永
続化
を は か ら れ た も の 、 と私
は考
え る 。 二先
行
研
究
の
検
討
三 業 度 人 の 制 に つ い て 記す
代 表 的 な 先行
研 究 と し て 、 つ ぎ の 四 つ を あ げう
る 。 一199
一NII-Electronic Library Service 智山学報 第五 十 六輯 (
1
) (2
) (3
) (4
)承
和 二年
( 八 三 五 ) た る 変 遷 を た ど る と き 、 私 は つ ぎ の 一 覧 表 に あ げ た 九 つ の 太 政官
符
類 を あ げう
る 。 「 は じ め に 」 試度
の場
所 ・ 期 日 な ど 規 定 の 細 部 が 目 ま ぐ る し く 改 変 さ れ た こ と を 物 語 っ て い る 。 そ れ は さ て お き 、 先 に あ げ た 先行
研 究 は 、 こ れ ら 九 つ の 太 政官
符
類 す べ て に 触 れ て は い な い 。 九 つ の 太 政官
符 類 と 先 行 研究
が と り あ げ た 官符
類 を 一瞥
す る と 、 次 の よ う に な る 。 〔 5 ) 荒木
良
仙 『 度 及 度 縁 戒 牒 の 研 究 』 一 九 二 五 年 九 月 刊 〔 6 ) 栂 尾祥
雲 『 日 本 密 教 学 道 史 』 一 九 四 二年
入 月 刊 ( 7 ) 和多
秀
乘
「 真 然 大 徳 の 御 生 涯 」 一 九 九 〇年
九 月刊
(繍
珊 働 伝 燈 国 師真
然 大 徳 伝 』所
収 ) ( 8 ) 山 口 耕栄
「 伝 統 教 学学 道 と
事
相 」 一 九 九 〇 年 九 月 刊 ( 同 右 ) 正 月 、 三 業 度 人 の 制 が最
初 に 置 か れ て か ら 最終
的 に 十 名 と な っ た 延 喜 七年
( 九 〇 七 ) 七 月 に い こ れ ら 九 つ の 太 政 官 符 類 は 、 も 記 し た よ う に 、 た だ 単 に 度 者 の 数 が増
え た だ け で な く 、 東寺
・ 金 剛峯
寺 ・ 神 護 寺 の利
害
も か ら ん で 、 年 月 日 事 績 荒 木 栂 尾 和 多 山 ロ 承 和 二 年 ( 八 三 五 ) 正 月 二±
一. 日 真 言 宗 年 分 度 者 の 設 置 ( 太 政 官 符 ) ○ ○ ○ ○ 同 年 八 月 二 十 日 細 則 の 勅 許 ( 太 政 官 符 ) ○ ○ ○ ○ 仁 寿 三 年 ( 八 五 三 ) 四 月 十 七 日 真 済 に よ る 改 革 ( 太 政 官 符 ) ○ ○ ○ ○ 元 慶 六 年 ( 八 八 二 ) 五 月 十 四 日 真 然 に よ る 改 革 ( 太 政 官 符 )O
○ 同 八 年 ( 八 八 四 ) 同 ( 官 符 力 ) ○ ○ ○ 仁 和 元 年 ( 八 八 五 ) 六 月 二 十 二 日 同 〔 玄 蕃 寮 牒 ) ○ ○ 寛 平 七 年 ( 八 九 五 ) 神 護 寺 分 三 人 の 試 度 を 改 め る ( 官 符 力 ) 同 九 年 ( 八 九 七 ) 六 月 二 十 六 日 益 信 に よ る 改 革 ( 太 政 官 符 ) ○ ○ 延 喜 七 年 ( 九 〇 七 ) 七 月 四 日 寛 平 法 皇 に よ る 改 革 ( 太 政 官 符 ) ○ ○ 一200
一 N工工一Eleotronlo Llbrary先
行
研 究 は 、 概 説書
・ 通 史 な ど の制
約 も あ っ て 、 分 論 じ ら れ て い る と は言
い が た い と い え よ う 。 大 き な推
移 は 記 し て い る け れ ど も 、 細 部 に つ い て は 必 ず し も 十三
真
済
に
よ
る
改
革
三 人 か ら 六 人 へ 三業度人の制の変遷 (武 内) 空 海 が
真
言 宗 の 行 く末
を 案 じ て新
設 し た 「 三業
度 人 の 制 」 に 、 最 初 に 改革
の 手 を く わ え た の は 、第
二 代 東寺
長
者 と な っ た真
済
で あ っ た 。真
済 は 承和
三年
( 八 三 六 ) 、 還学
僧 と し て 入 唐 を 試 み た が嵐
に 遭 っ て 失 敗 、 以後
、 神 護寺
に ( 9 ) 十 二 年 間籠
山 し て 修 行 に は げ ん だ と いう
。 そ の徹
底 ぶ り が 嵯 峨 上 皇 の 目 に と ま り、 内供
奉
十 禅 師 に抜
擢
さ れ た と も伝
え ら れ る 。 神護
寺
に お け る 事 績 の な か 、 特記
さ れ る の が 五大
虚 空 蔵 菩 薩 を 安 置 し た多
宝 塔 の 建 立 で あ っ た 。 そ れ は さ て お き 、 真 済 の 上 表 に 応 え て 出 さ れ た仁
寿
三 年 ( 八 五 三 ) 四月
十
七 日 付 の 太 政 官 符 が 『 類 聚 三 代格
』 巻 二 に 伝存
す る の で 、 そ れ に よ っ て真
済
の改
革 を み て み よう
。 まず
、 太 政官
符 を 読 み 下 し に し て 全 文 あげ
る と 、 つ ぎ の よう
に な る 。 太 政官
符
す
応 に真
言
宗 年 分度
者 三 人 を加
増
す べ き の事
右
、 少 僧都
伝 燈 大法
師 位真
済 の表
に僞
く 。 先帝
、 去 る承
和 二年
正 月廿
三 日 を 以 っ て 、 殊 に年
分 度者
を 賜 い 、毎
年
九 月 廿 四 日 、 金剛
峯
寺
に 於 い て 課 業 を 試 定 し 、 得 度 せ し む 。 今 天台
・ 華 厳 宗 の 如 き は 、 亦 加 益 せ ら る 。 伏 し て 望 む らく
は 、 六度
に準
依 し て度
三 人 を 加 え 、 即 ち 神護
寺
の 宝塔
所 に於
い て 試業
・剃
髪 し 、 聖 躬 の 増 長 宝 寿 をて へ り 護 り
奉
ら ん 。 伏 し て請
う 、 天 恩 允許
し て所
司 に宣
付 せ よ 、 者 。 権 中納
言 従 三 位 行兼
春
宮 大夫
左 近衛
中 将 陸 奥 出 羽 按 察 使藤
原朝
臣
良相
宣 す 。 一201
一NII-Electronic Library Service 智 山学 報 第五 十六輯 ま く 勅
を
奉
る に 、真
言 秘 教 は 至 理 幽 邃 な れ ば 、 其 の 門 を 尋 ぬ る 者 、 聞 奥 を 究 む る こ と 罕 れ に、 其 の 流 れ を捐
む 者 、 根 源 を 測 り 難 し 。 法 師 、 志 弘 道 に 深 く 、心
利 生 に 在 り 。 大 法 の 未 だ 広 ま らず
、 学 徒 の 猶 少 な き を 憂う
。 欸 誠 を ね が は お よ 写 出 し て 、 以 っ て 慇 懃 を 表 す 。宜
し く 来 請 に依
っ て 、 並 び に 得 度 せ し む べ し 。羨
く は 功 徳 の 覃 ぶ 攸 、 宇 内 殷 富 に し て 人 物穏
快
に、 福祚
長久
に し て宗
社
遠 く 存 ぜ ん 。 宜 し く 所 由 詳 ら か に 此 の 趣 を 知 ら し む べ し 。 や や 但 し 金 剛 峯 寺 は 、 道 程 稍 遠 く し て 往 復 艱険
な れ ば 、 試業
の 阿 闍 梨多
く 疲 倦 を 生 ず 。 今、 須 ら く伝
法 の 阿 闍 梨 と 付法
の 証 師 三 人 と 与 に 、東
寺 に於
い て前
後
を 論 ぜ ず 、 同 じ く 共 に 二 月 以 前 に 試 み畢
る べ し 。 文義
通 五 巳 上 の 者 を 以 っ て 及第
と 為 し 、即
ち 状 を 具 し て 官 に申
せ 。 例 に 依 っ て 符 を 下 さ む 。 も ウ ぼ ら 其 の分
配 の 宗業
・ 習 読 の経
論 は 、一 承
和
二 年 正 月 廿 三 日 の符
に 同 じ 。 但 し、 前 の 三 人 は 先 に 定 む る 日 を 改 め 、先
帝
の 国 忌 御斎
三 月 廿 一 日 に 、 金剛
峯
寺 に 於 い て 之 を度
し 、 後 の 三 人 は 、毎
年 四 月 三 日 、神
護 寺 に於
い て 之 を 度 す べ し 。受
戒
の 後 、 各 お の 両 寺 に 住 し 、 六 年 の後
、 山 を 出 る こ と を 聴 す 。 ( 10 ) 仁 寿 三 年 四 月 十 七 口202
一N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
こ の 太 政 官 符 は 、 大 き く 二 つ の
部
分 に わ か れ る 。す
な わ ち 、 真 済 の 上 表 文 を引
用 し た 部 分 と 藤 原良
相 が と り つ い だ 勅答
の 部 分 の 二 つ で あ る 。 こ の こ と を念
頭
に お き、 右 の 太 政官
符 を要
約 し 、箇
条 書 き に し て み よう
。1
、 事 書 き に は 「 応 に真
言宗
年
分 度者
三 人 を加
増 す べ き の事
」 と あ る 。2
、 少 僧 都 伝 燈 大 法 師位
真済
の 上 表文
は 、 つ ぎ の と おり
で あ る 。 ア 、 先 帝 は 承 和 二 年 正 月 二 十 三 日 を も っ て年
分 度者
を 賜 っ た 。 そ の と き 、毎
年 九 月 二 十 四 日 、 金 剛峯
寺
に お い て 課 試 し 、 得 度 さ せ る 、 と 規定
さ れ た 。三業 度人の制の変遷 (武内) ( 11 ) イ 、
最
近 、 天 台 ・華
厳
宗
に 年 分 度 者 の 加 増 が 認 め ら れ た 。 ウ 、 つ い て は 、 真言
宗
年
分 度 者 も 、 六 度 に準
拠 し て 三 人 の加
増 を お 願 い し た い 。 そ の 三 人 は 、神
護寺
宝 塔所
に お い て 試業
・得
度
さ せ 、 聖体
の増
長 宝寿
を 祈 念 さ せ た い 。 何 と ぞ 天恩
允 許 し て い た だ き た い 。3
、 藤 原良
相
が と り つ い だ 勅答
は、 つ ぎ の と おり
で あ る 。 エ 、 真済
の 志 は 弘道
に 深 く 、 心 は 利 生 に あ り 、 大法
の い ま だ 広 ま ら ざ る を 歎 き 、学
徒 の な お 少 な き を憂
う
る 気 持 ち は よ く 分 か っ た 。 上表
文 に よ り 、 得度
さ せ る こ と を認
め よう
。 オ 、 た だ 、 金 剛 峯 寺 は 京 か ら 遠 く 、往
復 の 道 中 に 困 難 が多
い の で 、 試 験 を担
当 す る 阿 闍 梨 の 疲 労 が 大 き い 。 よ っ て 、伝
法 阿 闍 梨 と 付 法 の 証師
三 人 に よ り 、 東寺
に お い て 、 二 月 以 前 に 課 試 を終
え な さ い 。 カ 、文
義 ( + 条 ) のう
ち 、 五 問 以 上 で き た者
を 及第
と し 、 そ の 名 を 明 記 し て 官 に 申 し 出 れ ば 、 前 例 に任
せ て 符 ( 度 縁 ) を 下 付 す る 。 キ 、 三業
の 分 け 方 と学
ぶ べ き 経 等 は 、承
和 二 年 ( 八 三 五 ) 正 月 二 十 三 日付
の官
符
に 同 じ で あ る 。 ク 、 先 に お か れ て い た 三人
の 得 度 は 、 こ れ ま で の 期 日 を改
め 、 先帝
( 淳 和 天 皇 ) の 国 忌 に あ た る 三 月 二 十 一 日 、 金 剛 峯寺
に お い て行
い 、 ケ 、 今 回新
た に お か れ た 三 人 の 得 度 は 、 毎 年 四 月 三 日 、 神護
寺
に お い て行
い な さ い 。 コ 、 受 戒 の後
、 そ れ ぞ れ 三 人 ず つ 金 剛峯
寺 ・ 神護
寺 に住
ま わ せ 、 六年
の籠
山 を 終 え た あ と 、 山 を 出 る こ と を 許 す 。 こ こ で 、 承 和 二年
( 八 三 五 ) 八月
、最
初 に 規 定 さ れ た内
容 と相
違 す る 事 項 を整
理 し て み よう
。相
違 す る の は 、 オ ・ ク ・ ケ の 個 所 で あ る 。 順 次 、 そ の 違 い を 列 挙 す る 。 オ 、 課 試 ・得
度
と も 金 剛峯
寺
で 行 う よう
規 定 さ れ て い た が 、 往 還 の 道 中 に 困 難 が多
い と の 理 由 で 、課
試 を東
一203
一NII-Electronic Library Service 智山学 報第五十六輯 寺 で 二
月
以 前 に 行 う よ う に 改 め ら れ た 。 ( 12 ) ク 、 得度
は淳
和 天皇
の 誕 生 日 で あ る 九 月 二 十 四 日 に 金 剛峯
寺
で 行 う 規定
で あ っ た の に 対 し て 、 さ き に 下 賜 さ れ て い た 三 人 の 年 分度
者 は 同 天 皇 の 崩 御 さ れ た 三 月 二 十 一 日 を 得度
の 日 と 改 め ら れ た 。 ケ 、新
た に 加 増 さ れ た 三 人 の年
分度
者 の 得度
を 、 四 月 三 日 、 神 護 寺 に お い て行
う
よう
規 定 し た 。 以 上 が 、新
た に 三 人 加 増 さ れ た こ と に と も な い 、 大 き く 改 め ら れ た 点 で あ る 。 つ い で 、微
妙
で は あ る が 、 変 化 が み ら れ る と こ ろ を 記 し て み た い 。 そ れ は 、 試 験 を お こ な う 課 試 者 に つ い て で あ る 。 承 和 二年
八 月 の 時 点 で は 、 真 言 密 教 の 正嫡
と し て付
属 さ れ た伝
法 阿 闍梨
と 、 次 代 に法
を伝
え る こ と を 許 さ れ た 一 ・ 二 の 者 と が 相 は か り 、 監 督官
庁 で あ る 治 部省
・ 玄 蕃寮
の 立 会 い をう
け る こ と な く 、 独 自 に 課 試 を 行う
こ と 。 と規
定 さ れ て い た 。 し か る に 、 オ に 「伝
法 阿 闍 梨 と 付 法 の 証 師 三 人 」 と あ り 、 こ の 当 時 、 四 人 に よ っ て 課 試 を 行 っ て い た こ と が知
ら れ る 点 で あ る 。 ま た 、 こ こ に は 「 治 部 省 ・ 玄 蕃 寮 の 立会
い 」 に つ い て の 記 載 は な い 。真
済 が 天 台 ・ 華 厳 宗 の動
向 を 鑑 み て 、 あ ら た に 三 人 の 加 増 を 申 請 し 勅許
さ れ た こ と は評
価 で き る け れ ど も、 こ の加
増 分 は みず
か ら 管 理 ・ 経 営 し て き た 神 護寺
分 で あ っ た 点 に は 、 何 か 釈 然 と し な い も の が 残 る の は 私 だ け で あ ろう
か 。204
一N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
四
真
然
に
よ
る
改
革
承
和
二年
へ の 回 帰年
分 度者
の 制 度 に 積極
的 に 改 変 を 加 え 、 空海
の 上 表 に よ っ て 規 定 さ れ た 最 初 の 制度
に も ど そ う と奮
闘
し た の が 、 第 五 代 の東
寺 長者
・真
然 で あ っ た 。 真 然 に は 、改
革 の 記 録 が 二 つ 伝 存 す る 。 す な わ ち 、三 業度人の 制の変遷 (武 内) ( 13 ) ( 一 )
元 慶 六
年
( 八 八 二 ) 五月
十 四 日 付 太 政 官 符 ( 『 類 聚 国 史 』 巻 第 百 七 十 九 ) ( 14 ∀ ( 二 )仁 和 元 年 ( 八 八 五 ) 六 月 二 十 二 日 付
玄
蕃 寮牒
( 『 金 剛 峯 寺 雑 文 』 、 『 東 宝 記 』 八 ) の 二 通 の文
書 で あ る 。 順次
、 検 討 を 加 え る こ と に す る 。第
一 は 、 ( 一 ) の 元 慶 亠 ハ年
( 八 八 二 ) 五 月 十 四 日付
の 太 政官
符 で あ る 。 ま ず 、 『 類聚
国史
』 巻 第 百 七 十 九 に も と つ い て 、官
符
の 本 文 を あ げ て お く 。 い は紀
伊
国 伊 都 郡 金 剛 峯寺
別 当権
律
師 法橋
上 人 位 真 然等
申
牒 に俗
く 。贈
大
僧
正 空 海 、 去 る 延 暦年
中 、 名 山 を 歴 択 し て始
め て 斯 の寺
を 建 て て 、鎮
国 護 法 を 為 す な り 。 承和
二年
、勅
有
っ て年
分 度者
三 人 を賜
う
。 即 ち 九 月 廿 四 日、 天皇
降
誕 の 日 辰 を 以 っ て 、便
ち 此 の 伽藍
に於
い て試
度
す
。仁
寿
三年
に 至 っ て 、彼
の 山途
路 闊 遠 ・ 往 還 に 艱多
き を 以 っ て 、東
寺
に 於 い て試
度 す 。 し ず自
後
、 金 剛道
場
闃 か に し て 人 稀 な り 。故
の僧
正 真 雅 、 其 の 此 の如
く
な る を歎
き 、 旧 に復
さ ん こ と を 陳請
し 、 未 だ 裁許
を 蒙 らず
し て 、 僧 正 遷化
す
。今
、当
年
の 学徒
は 絶 え て 度 せず
。 既 に 先 皇 の 勅命
に 違 い 、 亦 本師
の 宿 願 に 乖 け り 。海
印
・ 貞 観 ・安
祥 ・ 元 慶等
の 寺 の 例 を 検ず
る に 、各
お の 本寺
に於
い て 試 度 す 。請
う
、 山 場 に於
い て、 課試
せ ん と 。太
政
官
商 量 す ら く、 国 家制
を 施 す は 緇 侶 に 宜 し き を 得 し む 。 凡 そ法
門 に 在 り て は 、 喧 訟 無 か ら ん こ と を 欲 す 。縦
い 南 嶽 の 学徒
を し て 、遂
に 其 の 所 を 失 わ ざ ら し め な ば、則
ち 山中
輩 下 何 ぞ嫌
猜 有 ら ん 。仍
ち須
ら く彼
の寺
の勾
当 ・老
宿 等 を し て 、 其 の学
優 長 に 心 行 整斉
な る者
を簡
び 、 相 共 に 平署
し て東
寺
に 送 達 し、 一205
『NII-Electronic Library Service 智山学報 第五 十六輯 之 を 待 ち て 、 毎 歳 課 試 す べ し 。 若 し 当 年 、
科
第 に 及 ぶ 者無
く ん ば 、 後年
、 其 の闕
分
を 補う
べ し 。 専 ら 高 野 の 人 を 尽 し て 、他
寺 の衆
に 関 せ ざ れ 。 ( 15 ) 然 れ ば 則 ち先
後 本 師 の 凝 誠 自 ら 全く
し 、彼
我 紛競
の 愁 緒永
く 断 た ん 。 つ ぎ に、 三 段 に 分 か っ て 要 約 し て み よう
。 い は最
初 に 、 「 紀 伊 国伊
都
郡 金 剛 峯寺
別 当 権律
師 法 橋 上 人 位 真 然等
申
牒 に儒
く 」 と あ っ て 、 真 然 ら の 奏 状 が つ ぎ の よう
に 引 用 さ れ て い る 。1
、 承和
二年
( 八 三 五 ) の勅
許
の内
容
を 記す
。 ア 、勅
に よ り 、 年 分 度 者 三 入 を 賜 っ た 。 イ 、 九 月 二 十 四 日 の 天 皇 降 誕 の 日 辰 を も っ て 、 こ の 伽 藍 ( 金 剛 峯 寺 ) に お い て 試度
す る こ と と 規 定 さ れ た 。2
、 仁寿
三 年 ( 八 五 三 ) の勅
許
の 内 容 と そ の 後 の 高 野 山 の様
子 を記
す 。 ウ 、 仁寿
三 年 ( 八 五 三 ) に い た り 、 高 野 山 は 遠 く 往 還 に 艱 難 が多
い の で 、東
寺
に お い て 試度
す
る こ と に な っ た 。 げ き エ 、 そ の 結 果 、 高 野 山 の 金 剛 道 場 は ひ っ そり
と し て い て ( 闃 と し て ) 、 人 影 を み る こ と は 稀 で あ る 。 オ 、 故 僧 正 真 雅 は 、 こ の よう
な 状態
を 歎 か れ 、 旧 に 戻 す べ き こ と を 陳請
さ れ た が 、 裁許
を得
な い で 遷 化 さ れ た 。 カ 、 い ま 、 学 徒 は 絶 え て し ま い 、 得度
も な さ れ な い ま ま で あ る 。 キ 、 こ れ は 、 先帝
の勅
命
に 違 い 、 ま た 本 師 ( 空 海 ) の宿
願 に も そ むく
状 態 で あ る 。 ク 、 海印
・ 貞 観 ・ 安祥
・ 元 慶 寺 な ど の 例 を み る に 、 み な 本寺
に お い て 試度
が 行 わ れ て い る 。 一206
N工工一Eleotronlo Llbrary三業度人の 制の変遷 (武 内) ケ 、 ぜ ひ 高 野 山 の 金 剛
道
場
に お い て 、 課 試 を行
い た い 。3
、 つ い で 、 以 上 の 申 牒 に 対す
る 官 裁 と お ぼ し き文
章 が 記 さ れ て い る 。 コ 、 太 政官
は 、法
門 に あ っ て 諠 譁 ・訴
訟 の類
が お こ る こ と は 望 ま な い 。 サ 、 南嶽
学
徒 の 立場
を 明確
に す れ ば 、 嫌 猜す
る こ と も な い で あ ろう
。 シ 、 金 剛峯
寺
の 勾 当 ・ 老 宿等
が 「 其 の 学 優長
に し て 心行
整 斉 な る 者 」 を選
び 、 東寺
に 書 類 が 送 達 さ れ る の を待
っ て 、 課 試 を行
う
。 ス、 も し 、 当 年 、 及第
す
る者
が無
い 場 合 は 、後
年
、 そ の闕
分 を 補う
と よ ろ し い 。 金剛
峯
寺 分 は 、高
野 の 人 を専
一 に充
て 、 他 寺 の衆
を 交 え る こ と は し な い 。 こ こ で は 三 つ の こ と を 指 摘 し て お き た い 。 げ き第
一 は 、仁
寿 三年
( 八 五 三 ) か ら 三 十年
た っ た 高 野 山 の 惨 状 で あ る 。 「 金 剛道
場
闃 と し て 人稀
な り 」 と あ っ て、 三人
の年
分 度者
を 選出
す る に も こ と 欠 く 有様
が 垣 間 見 ら れ る の で あ る 。 元 慶 三 年 ( 八 七 九 ) 正 月 三 日 に 示寂
し た 故僧
正真
雅
も 歎 き、 旧 に復
す べ き こ と を 陳 請 さ れ た と いう
か ら 、 こ の 状 態 は 長 く つ づ い て い たも
の と お も わ れ る 。第
二 は 、朝
廷
の 対 応 で あ る 。 金 剛峯
寺分
は 、 及 第 者 ・有
資
格 者 が で る ま で確
保 し て お き 、決
し て 他寺
の僧
を も っ て補
充
す
る こ と は し な い と す るけ
れ ど も 、真
雅 ・真
然 が 訴 え た 真 意 が 十 分 に 理 解 さ れ て い た と は 思 わ れ な い 。第
三 は 、 右 の 要 約 に は 記 さ な か っ た け れ ど も 、真
然申
牒 の 冒 頭 に お か れ た 一 文贈
大
僧 正 空海
、去
延
暦年
中 、 歴 二 択名
山 一 始建
二 斯寺
一 、為
二鎮
国 護法
一 也 、 で あ る 。 つ ま り 、 空 海 が 高 野 山 と か か わ り を も っ た 時 期 お よ び 金 剛峯
寺
建 立 の 目 的 が 、 空 海 の馨
咳 に 接 し え た 最 後 の 人物
と も 目 さ れ る 真 然 に よ っ て記
さ れ て い る 点 で あ る 。 空海
が 嵯 峨 天 皇 に高
野 山 の 下 賜 を お 願 い さ れ た と き の 上表
文 に 、 一207
一NII-Electronic Library Service 智山学報第五十 六輯 空 海 、 少
年
の 日、 好 ん で 山 水 を渉
覧 せ し に、 吉 野 よ り 南 に行
く こ と 一 日 、 更 に 西 に 向 っ て 去 る こ と 両 日 程 に し て 平 原 の 幽 地有
り 。名
づ け て部
野 と 陸 う 。 計 り み る に 、紀
伊
国伊
都
郡 の 南 に 当 れ り 。 四 面 高嶺
に し て 痘跨
鷺
繿 た り 。 景 は 国 家 の懿
に義
は 諸 の 修 行 者 の為
に蕪
を勢
L
戴伊
て ・ 聊 か 修 禅 の 一 院 を 建 立為
・ と 記 さ れ て い る こ と を 踏 ま え て 書 い た と も い え よ う 。 し か し な が ら 、 空海
が 計 画 さ れ た 金 剛峯
寺
伽 藍 の 完 成 に 後半
生 を さ さ げ た 真 然 が 、 高 野 山 開 創 の 原 点 、 空 海 の 御 心 に お も い を 馳 せ た こ と ば と し て み た と き 、 注 目す
べ き も の と い え よう
。N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
第 二 は、 ( 二 ) の
仁
和
元 年 ( 八 八 五 ) 六 月 二十
二 日 付 の 玄蕃
寮 牒 で あ る 。 こ の 牒 は 、 後 世 の 史料
集 、 す な わ ち 大治
( 17 ) 二 年 ( 一 一 、 一 七 ) 七 月 の 奥 書 を も つ 「 金 剛 峯 寺 雑 文 』 に は じ め て 見 ら れ る点
が 若 千気
が か り で あ る 。 け れ ど も 、 十 四 世紀
半 ば に成
立 し た 『 東 宝 記 』第
八 巻 に、 三 業 度 人 の 制 に か ん す る 一 連 の 太 政 官 符 類 の 一 つ と し て 収 録 さ れ て い ( 18 ) る の で 、 信 頼 し て よ い と 考 え る 。 そ こ で 早速
、 本 文 を あ げ て お く 。 玄 蕃 寮 牒す
僧 綱 応 に 阿
闍
梨 及 び 証 師 を し て 専 一 に真
言宗
年
分
三 人 を 試 み し む べ き の事
い は 牒 す 。省
六 月 卜 九 日 の 符 に俗
く 。 太 政 官 去 る 二 月 十 五 日 の 符 を 被 る に 僻く
。 権 少僧
都
法
眼 和 尚 位真
然 の奏
状 に俗
く 。 謹 ん で 太 政 官 去 る 承和
二年
八 月 廿 日 の 符 を案
ず
る に 俗 く 。 故 大僧
都
伝 燈 大 法 師 位 空 海 の奏
状
に僞
く 。 夫 れ真
言 宗 は 、 伝 法 の 人 に 非ざ
れ ば 、 課試
を 聴 さ ず 。伏
し て 請 う 。伝
法
阿 闍 梨 遺 属 相 承 の者
を し て 、 伝法
を 許 一208
一三業 度人の制の変 遷 (武 内) さ れ た る 弟 子 一 両 人 と
与
に 、省
寮
を 経 ず し て 、 金 剛峯
寺 に於
い て 、 文義
十 条 を試
課
し て 、 即 ち 通 五 已 上 の 者を
以 っ て 及第
と為
さ む 。て へ り 但 し 、 受
戒
の 後 、 彼 の寺
に 住 し て 、 国 家 の奉
為 に 三密
の 法 門 を 修 せ し め ん 、 者 。 廿箇
年
、 其 の 時 未 だ勅
使
有 らず
。 仁寿
三 年 に 至 っ て 、 更 に官
符 を 下 し て 、東
寺 に 於 い て 試 度 の 事 を行
な わ し め 、後
に 勅 使 を 賜 い 、 監 試 を 告 げ加
う 。 し か よ 爾り
し 自 り 以 降 、 山后
寂
寞 に し て 緇 侶 跡 を 絶 つ 。 已 に 先 師 の 表 懐 に 違 い 、 更 に後
輩 の 疑 論 を起
す
。 之 に 因 っ て 、 去年
奏
聞 し て、高
野 に復
せ し む 。て へ り 但
請
う
ら く は、年
分 の復
旧 、勅
使 を 陳 せず
、伝
法
阿 闍 梨 、付
法 の 証 師 と 与 も に 相 共 に 試 度 せ ん 、 者 。 中納
言
従 三 位 兼行
右
衛
門 督 源朝
臣 能 有 宣す
。 て へ り 勅 を 奉 る に、請
う
る に 依 れ 、 者 。 て へ り 省宜
し く 承 知 す べ し 。 宣 に 依 っ て 行 え 、者
。 て へ り 寮宜
し く 承知
す べ し 。件
に 依 っ て 行 え 、者
。 僧綱
、 状 を察
し 、件
に依
っ て 之 を 行 え 。牒
す 。 ( 19V仁
和 元年
六 月 廿 二 日 内 容 を要
約 す る 前 に 、 こ の 玄 蕃寮
牒 は い か な る性
格
の 文書
で あ る か、 を み て お こう
。 な ぜ な ら 、 こ の牒
は 、 いく
( 20 ) つ も の文
書
・ 上表
文 が 入 れ 子 状 態 に な っ て い る の で 、 そ こ を 正確
に 押 え て お か な け れ ば 、 内 容 が 正 しく
理 解 で き な い か ら であ
る 。 こ の 牒 は 、 上 の 役所
か ら 下 の役
所 に命
令
を伝
達 し た と き の文
書 の 一 つ で 、 太 政官
↓
治 部省
↓玄
蕃
寮
↓ 僧 綱 と 下 達 す る 最終
段 階 の も の で あ る 。 す な わ ち 、 こ の 牒 は 、仁
和
元 年 ( 八 八 五 ) 二 月 十 五 日 付 で 太 政 官 か ら治
一209
一NII-Electronic Library Service 智 山学 報第五 十六輯 部 省 に 下 さ れ た 官 符 、 そ れ を う け と っ た 治 部
省
が 玄 蕃 寮 に 下 し た 同 年 六 月 十 九 日付
の治
部 省 符 の 内 容 を 、 同 年 六 月 廿 二 日付
で 玄蕃
寮 が 僧 綱 に 下 達 し た と き の 文書
で あ る 。 こ こ で 、内
容
の 要 約 を 記 そ う 。1
、 こ の 玄 蕃 寮 牒 は 、 仁 和 元 年 〔 八 八 五 ) 二 月 十 五 日付
の 太 政 官 符 、 こ れ を う け と っ た 同年
六 月 十 九 日 付 の 治 部省
符 の 内 容 を 、 玄 蕃 寮 が 僧 綱 に 下 達 し た と き の 文書
で あ る 。2
、 二 月十
五 日 付 の 太 政 官 符 に は 、 権 少僧
都法
眼 和 尚 位真
然 の奏
状 が 再録
さ れ て い る 。 そ れ は 、 以 下 の 三 つ の 部 分 か ら な る 。3
、 まず
、 (1
) 承 和 二年
( 八 三 五 ) 八 月 二 十 日 付 の太
政 官 符 が 引 用 さ れ る 。 そ の内
容 は 、 ア 、真
言宗
は 、伝
法 の 人 に し か 課 試 を ゆ る し て い な い 。 イ 、 し た が っ て 、 課 試 は 伝法
阿 闍梨
遺 属 相承
の 者 と 伝法
を ゆ る さ れ た 弟 子 一 両 人 が お こ なう
。 ウ 、 こ の 課 試 に は 、 治 部 省 ・ 玄 蕃寮
の 役 人 の 立 会 い を 排 し 、 金 剛峯
寺 に お い て 文 義 十 条 を 課 し 、 五 已 上 の者
を 及 第 と す る 。 エ 、 及 第者
は 、受
戒 の の ち 、 高 野 山 に 住 ま わ せ 、 国 家 の お ん た め に 三 密 の 法 門 を 修 行 さ せ る 、 と 記 さ れ て い る 。 オ 、 高 野 山 で は 二 十 年 間 、 こ の 規定
に も と つ い て 、 年 分度
者 三 入 の課
試 を お こ な っ て き た が 、 こ の 間 、勅
使 を 請う
こ と は な か っ た 。4
、 つ い で 、 (2
) 仁 寿 三年
( 八 五 三 ) に 下 さ れ た 官 符 に ふ れ 、 カ、 仁 寿 三年
に い た っ て 、東
寺
で 課 試 を お こ な う こ と に な り 、 い つ し か 勅使
を 賜 い 、 監試
が 加え
ら れ る こ と に な っ た 。 一210
一 N工工一Eleotronlo Llbrary三業度人の制の変遷 (武 内) キ 、 こ れ 以 降 、 高 野 山 は
寂
寞 と な り 、 学 徒 も絶
え て し ま っ た 。 ク 、 こ の よう
な 状 態 は 、先
師 ( 空 海 ) の表
懐 に 違う
と と も に 、後
輩 の疑
論
を 惹 起 し て い る 。5
、 そ こ で 、 (3
)前
年
奏 聞 し( 21 ) ケ 、 金
剛
峯
寺 で課
試 を お こ な う 旧 規 に 返 し て い た だ き た い 、 と お 願 い し た 。6
、 こ こ で 、 さ ら に お 願 い い た し た き こ と は 、完
全 に 旧 規 に 返 し 、 勅使
の 派 遣 を 廃 止 し 、伝
法 阿 闍梨
と付
法 の 証 師 と で試
度
す る こ と を 認 め て い た だ き た い 。 こ の 真 然 の奏
状
に 対 し て、 光孝
天 皇 は 全 面 的 に 真 然 の 訴 え を 聞 き 届 け ら れ、 ひ と こ と 「請
う
る に 依 れ 」 と し て 太 政官
符
を く だ さ れ た の で あ っ た 。 こ の 玄 蕃 寮 牒 か ら は 、 数次
に お よ ぶ 高 野 山 か ら の 訴 え が 功 を 奏 し 、 こ の 時点
で 、 承和
二 年 ( 八 三 五 ) 八 月 の 最 初 の規
定
に ほ ぼ 復 旧 さ れ た こ と を 知 りう
る 。五
益
信
の改
革
ふ た た び 東 寺 で
課
試 をー
男
女 を と わ ず 、 生存
中
に 従 一位
に 叙 さ れ る こ と は稀
で あ っ た 平安
時
代 の は じ め 、破
格 の 昇 進 を と げ て従
一 位 に 叙( 22 ) さ れ た 一 人 に 藤 原 淑 子 が い る 。 こ の 淑 子 の 病 を 祈 っ て 験 を
え
た こ と か ら 信頼
を 得 、檀
越 と し て 円 成 寺 の 開 山 と な り 、 の ち に は 淑 子 の 推薦
に よ っ て 、寛
平
法
皇 の 出家
・ 灌 頂 の 大 阿 闍 梨 を つ と め た の が益
信
で あ る 。 益信
は 、真
然 示 寂 の( 23 ) あ と を
う
け て 寛 平 三年
( 八 九 一 ) 九 月 、第
六代
の 東寺
長者
と な っ た 。 こ の 政 治 力 を バ ッ ク に 、 益信
は寛
平
九年
( 八 九 七 ) 、年
分度
者 の制
度 の改
革
を 断行
し た 。 そ の と き の 記録
が 、寛
平 九 年 ( 八 九 七 ) 六 月 二 十 七 日付
の太
政
官
符 で あ る 。 一211
一NII-Electronic Library Service 智山 学報第五 十 六輯
官
符
は 、 こ れ ま で の 経緯
を 書 き つ ら ね て い る の で 、 長 文 で 、 か つ 煩 瑣 で は あ る が 、前
例 に な ら っ て 、 全 文 を あ げ て お く 。 太 政官
符 す治
部
省 応 に 旧 に 復 し て 東寺
に 於 い て 真 言宗
年
分 学 生 六 人 を 課 試 す べ き の 事 右 、案
内 を 検ず
る に 、 去 る承
和 二 年、 大 僧都
空 海 の 表 に 依 り 、 三密
の 法 門 に准
じ て 、 初 め て 真 言 宗 分 三 人 を 置 け り 。 爾 後 、毎
年
九 月 廿 四 日 、 天 皇 降 誕 の晨
、 金 剛峯
寺
に 於 い て 之 を 試 み 、 之 を度
せ り 。 降 っ て 仁 寿 三年
に 及 ん で 、少
僧 都 真済
の 表 に 依 っ て 、 六 度 に 准 じ て 三 人 を 加う
。但
し 、 真済
の神
護寺
宝 塔所
に 於 い て 試 業 ・剃
髪
せ ん と の請
に 由 ら ず、 即 ち 伝 法 の 阿 闍 梨 、 付法
の 証 師 と 与 も に東
寺 に 於 い て 、 前後
を 論 ぜ ず 、 同 じく
共 に 二月
以 前 に 試 み畢
り 、 前 の 三 人 は 、 先 の定
日 を 改 め て 、 先帝
の 国忌
・ 三 月 廿 一 日 、 金 剛峯
寺 に 於 い て 之 を 度 し 、後
の 三 人 は 、毎
年 四 月 三 日 、神
護寺
に 於 い て 之 を度
す
。 元慶
六 年 に 至 っ て 、 権 律師
真
然等
の 牒 に 依 っ て 、 更 に官
符 を 下 し て 僻く
。 金剛
峯
寺 の 勾当
・ 老 宿 等、 其 の 学 業 優 長 に し て 心 行整
斉
な る 者 を簡
ん で 、相
共
に 平 署 し て東
寺 に 送 達 し 、寺
は あ ず か 之 を 待 っ て 、毎
歳 課 試 し、 専 ら高
野 の 人 を 尽 す ま で 、他
寺 の 衆 に関
らず
。 あ ま ね 同 八 年 、 権 少 僧 都真
然 の奏
状 に 依 っ て、 試 度 を南
嶽
に 復 せ ら る 。 但 し 、 旁 く 三 密 の家
を 尽 し 、 一 山 の侶
に 限 る 。仁
和 五 年 、 権 大 僧都
真 然 の 奏 状 に 依 っ て 、 件 の年
分 、高
野 に 於 い て 専 ら 高 野 の 分 を 試度
す 。 去 る 寛 平 七 年 、 新 た に 格 制 を 下 し、 神 護寺
年 分 三 人 は 、 彼 の 寺 に 於 い て 、 二 月 以 前 に 之 を 試 度 す 。 然 れ ば 則 ち、 承 和官
符 の 後 は 金 剛 峯寺
に て 試度
共 に 之 を 行 い 、 仁 寿 の 勅 旨 以 降 は 、 東寺
に 在 っ て 之 を試
み 、 両 山 に帰
っ て 之 を度
す 。 一212
一 N工工一Eleotronlo Llbrary三業 度人の制の変遷 (武 内) 元 慶 八 年 の 格 は 、 試 度 を
高
野 に復
す と雖
も 、 遍く
学
生 を 本 宗 に 求 む 。仁
和
五 年 の 制 は 、 金 剛 峯寺
に 於 い て独
り
一 門 を試
度 す る の 後 、 其 の 仁寿
所
課
の 三 人 は、 則 ち 寛 平 に い たり
遂 に 、神
護 の 一寺
に 任 す 。而
る に 今、 権 大僧
都 益 信 の 奏 状 に 俗く
。よ 六 人 の
年
分 は 、惣
て 東寺
に 於 い て 試 む べ き の 状 、 官 符 明 白 な り 。 此 れ 自り
の 後 、東
寺
に於
い て 課 試す
る こ と 、 已 に年
代 を 経 たり
。 而 る に皆
、 根本
の 東寺
を 去 り て 、 更 に 枝葉
の 山 寺 に 移 る 。て へ け
伏
し て 望 む らく
は 、殊
に 天 恩 に 沐 し て 、 旧 の 如 く 試 を東
寺 に 復 せ ん 、者
。 従 三位
守
権 大納
言 兼右
近 衛 大 将 行 民部
卿春
宮 権 大夫
侍
従
菅 原 朝臣
11
宣 す 。 勅を
奉
る に 、 高 野 ・神
護 の年
分 の 試 度 、 一 山 に於
い て 之 を 惣 べ 、 或 い は 両處
に 之 を 分 つ 。 彼 此 の申
請 の 意 、 愛 憎 に 渉 る 。 再 三 の変
復
、 理 り 軽 忽 に 似 た り 。 之 を 仏 教 に 揆 り 、 之 を 政途
に論
ず る に 、 処 置 定 ま ら ざ る こ と 、 誠 に 慙 愧 す べ し 。ま か 仍 っ て 須 ら
く
、 学 生 を 選 挙す
る の 務 は 、 遍 く 東寺
・ 両 山 に 委 せ 、若
し 三處
の外
、 此 の挙
に 預 か ら ん と 欲す
る の た と い よ 輩有
ら ば 、仮
令
先自
り
常 に他
寺 に 住 す と も 、 師 に 随 っ て 宗 業 を 学 習 す る は 、復
須 ら く 願 に 任 せ て 三處
に分
到
す
べ し 。 い よ い よ ま す ま す 彌益
練
熟 修行
し 、 傍 人 の為
に 、 推 譲 せ ら れ 、 然 し て後
に 、 理 に任
せ て挙
し て試
場 に 進 め し め よ 。 三處
の 所た だ 司 、 実 に
依
っ て 選定
し 、 阿容
し て 人 を 失 う こ と得
ざ れ 。 唯 課 試 の 日 は 、勅
使
及
び宗
の 僧綱
の東
寺 別当
為 る 者多
少
、 彼 の 両寺
の 座 主 ・ 別当
、 及 び 東寺
定
額僧
等
の 中 の 証 師為
る に 堪 え た る者
一 人 を率
い て 、 旧 に依
っ て 、毎
年
二 月 以 前 、東
寺 に 於 い て 之 を 試 み よ 。不
得偏
称
異
党 妨 客、 同宗
遞 引未
生損
傷
、 本業
の 試 訖 ら ば 、即
ち
半 分 は 金 一213
一NII-Electronic Library Service 智山学 報第五 十六輯 ( マ マ ) 剛
峯
に お い て 三 月 廿 一 日 に 出 家 せ し め 、半
分 は 神 護 寺 に 帰 し て 、 四 月 三 日 に 入 道 せ し む る の 後 、 住 山 の 限 は 既 に 仁寿
の 格 の如
く せ よ 。 当 年落
第 し 、後
年 補 闕す
る は 、 並 に 元 慶 の 符 に 同 じ 。 夫 れ 両 山 以 っ て学
生 を求
む る は 、先
師 の 旧 迹 を 尋 ぬ る なり
。 お ( 於 い て ) 一寺
に 会 し て 、 以 っ て 課試
を 行 な う は 、宗
業 の 深 淵 を 逐 う な り 。 山 に 口 感 有り
、 寺 に 於 い て 愁 い 無 し 。未
来 際 を窮
し て 其 の 訟 を 断 ぜ ん と欲
す 。 又 頃年
聞 く が 如 き は 、 他宗
に し て 竟 に 真言
宗 に 入 る 者 、 或 い は 遜 逐 名 号 忽 に 師 資 を改
め 、 或 い は 規 階 の 業 を 避 け て 纔 か に 秘 密 を 視 る 。 済 々 た る 門 徒 と雖
も 、 頗 る 党 を 樹 つ る が 如 し 。 而 も 悠 々 た る教
理 は 殆 ど 是 れ 虚伝
な り 。 よ い 今自
り
以 後 、 之 を 忌 み 之 を 慎 み 、 先 師 の 本 願 を し て 軽 う しく
地 に 墜 す べ か ら ず 。 彼 の 一尊
法
、 忽 に 濫 り に 転 授 す 。 况 や 三 密 門 能 く 開知
を 惜 し ま ん や 。 良器
に 至 っ て は 、制
の 限 り に 在 らず
。 凡 そ 厥 の 両 山 に 選 挙 し東
寺
に 試 た ま た ま あ て へ り 定 せ ば 、偶
其
の 理 を 失 はず
、 将 に 其 の 人 に 遇う
こ と を 得 ん と す べ し 、 者 。省
宜 し く 承知
す べ し 。 宣 に 依 っ て 之 を 行 え 。符
到 ら ば奉
行
せ よ 。 右中
弁
源 朝 臣右 少 史 大
春
日 ( 24 ) 寛 平 九 年 六月
廿 六 日 つ ぎ に 、 官符
の内
容
を 要 約 す る 。2
か ら9
ま で が 益 信 の奏
状 で あ り 、10
は宇
多
天 皇 の 勅答
で あ る 。1
、 事 書 き に は 、 「 応 に 旧 に 復 し て東
寺
に 於 い て真
言 宗年
分学
生 六 人 を 課 試 す べ き の事
」 と あ る 。 つ ま り 、 真済
の 奏請
に も と つ い て 下 さ れ た 仁 寿 三年
( 八 五 三 ) 四月
の官
符
の内
容 に も ど す こ と を命
じ た も の で あ る 。2
、承
和 二年
( 八 三 五 ) 、 大 僧 都 空海
の 上表
に よ り 、 三 密 の法
門 に 准 じ て 、 は じ め て 真 言宗
分 三 人 が 置 か れ 、毎
一214
一 N工工一Eleotronlo Llbrary三業度人の制の 変遷 (武内)