別
編
講演記録
本 セ ンターは1997年11月 26日に設置後 10年 を迎 え,これを記念 して1997年11月 8日 に講演会 並 びに遺跡見学会を催 した。
講演会 は新納泉 セ ンター調査研究室長 の司会 の もと
,小
坂 三 度 見学 長 に よる開会 挨拶 の の ち,稲
田孝司セ ンター長 に『縄文時代 の くらし― ドング リ穴 と落 し穴―』,狩野久文学部教授 に『「津 島」 の地名 の 由来』 と題す る講演 を頂 いた。本稿 は狩野教授 の講演 を記 録 した もの で あ る。
「津島」 の地名の由来
岡山大学文学部教授
狩 野
久
私 の話 は地面 の上 の話 です。津 島遺跡 の名前 の由来 とな ってお りますが
,津
島の地名 が ど う い う意味を持 った地名 なのか とい うことを今 日はお話 しさせていただ こうと思 ってい るわけで あ ります。私 も実 は津 島中に住んでお りますが,津
島 とい うと ころ は 「津 島京 町Jも
あれ ば「津 島東町」 もあれば 「津 島一」 とい うの もあ りま して
,津
島の下 の地名 が10もあ る大変大 き な地名であ ります。江戸時代 には津 島村 といいま した。 この地名 の意味を少 し考 えてみたい と 思 うわけであ ります。地名 といい ます のはみ な さん もご存 じの通 り
,い
ろんな事情 で付け られ るわけです。物 の本 に よ ります と地名 にはまず人文的な地名 とい うものがあ ります。人文的な地名 とい うのは例 え ば人間がそ こに住んでいた ことに関連 して人間の生活活動に応 じて付け られた よ うな地名,田
画を開 く「墾 田」 とい う地名
,あ
るいは人間が通 る道沿いには 「追分」 なんて地名が 日本全国 あち こちに ござい ますけれ どもそ うい う人 間の生活活動 に関連 した よ うな地名 です。時代 もい ろいろ重 な ってお ります。古い時代 の地名だけではな くて,岡
山の町のなかには岡山の城下 に 関連す る地名 とい うのがず いぶ んた くさん ござい ますね。 弓 ノ町,紺
屋 町 とか,そ
うい う職人 たちが住 んでいた ことに関連 して付け られている町の名前 とい うもの もあ ります 。 この よ う に,人
間の生産活動,生
活活動に関連 して付け られた地名 とい うのは一つの大 きな地名の分類 頂 であ ります。 も う一つ は 自然地名 とい って,自
然 の山や平地等 々の 自然 の地形,地
物 に基づ いて付け られた地名。これ もず いがんた くさん ございます。「・・・原」とい うのはず いがんた くさ んあ ります。 自然地名 とい うの も一方の極にた くさん ございます。そ うい う地名が古い時代か ら新 しい時代 まで層 を成 して今 日の地名を形成 しているわけであ ります。そ うい う地名の研究 も日本 で もよくや られているわけです。「地名学研究所」 とい うの も民間で奈 良県 に ござい ま す が,そ
うい うところの方がいろいろとや ってお られ るのですけれ ども,まだ 日本 では地名 の研究 は遅れていると思います。 ヨー ロッパや韓 国
,中
国で もそ うなんですが,国
立大学 のなか に地名 の講座がい くつかあるそ うなんです。地名言語学 とい うような学問分野 まであると伺 っ てお りま して,そ
うい う点では 日本 の地名研究 とい うのはそんなに進 んでいない。 しか しいろ んな ことが分か ってきてい るわけであ ります。 さてその地名がいつ頃か ら生 まれただろ うか,発生 しただ ろ うか。地名が文字で表現 され る時代 はいつか ら始 まったのか。 これ は地名に限 ら ず
,人
名,そ
の他 の表現 も含 めて文字を使 いだ した段階以降の話であ りま して,こ
れが いつ頃 か ら始 まったのかは よく分か りません。最近熊本県で木の甲の留め具の裏側に文字 らしいもの が ある。それは どうも4世紀 くらいの遺跡か ら出て きた。そんな時代にそんな所 で文字を使 っ ていたのだろ うか,私
もそ んな ことに関わ っていて呼び出され ま して拝見 して きま したけれ ど も,文
字 の よ うな,文
字 でない よ うな,田
圃 の 「田Jの
字 であ る よ うなそ うでない ような字が 書 いてあ りま した。『魏志倭 人伝』 に よ ります と,日本 か ら中国に行 った使いが倭 の卑弥呼の手紙 を持 ってい っ た と言 うことにな ってお りますか ら,と もか くそ うい うものを書 いて持 ってい ったんです。 で すか ら文字を書 く人は卑弥呼のそばにいた ことは間違いない。 しか し
,そ
の程度 であった と思 うんですね。それ以上に文字を書 く人がた くさんいた とは思えない。今現在分か ってお ります 文字 を使 っている実例で申 します と,和
歌 山県 の隅 田八幡神社 の鏡 の銘文 に文 字 が書 い て あ る。その中に地名が出て くる。「意柴沙加宮J(お
しさかのみや)と
い う地名。 ご存 じの ように 日本人は中国か ら漢字を受け入れて文字を使い始め ま した。中国の文章の表現法は 日本語 と違 い ま して,主
語,述
語,目的語 とい う配置ですね。中国語は英語 と同 じ表現法であ ります。そ うい ういわゆる漢文その ものを使 うとい うことも勉強 しま したけ ども,そ
れだけでは 日本語を 表 現す ることはで きない。特 に固有名詞は ど うに もな らないわけであ りますか ら,そ
うい うも のについては漢字の音 を借 りて 日本語 を表現 しま した。それがいわゆる万葉仮名 といわれ るも のです。奈良時代の万葉集はそ うい うもので歌を表現 しているのであ ります。「意柴沙加」も漢 字 の音を借 りて地名を表 しているわけです。 オンサ カとい うのは大和 の地名であ りまして,後
には 「忍坂」 とい うように表 します。 これは現在確認 されている遺例で漢字を借 りて地名を表 現す る最初 の例です。443年 とい うのが隅 田八幡の鏡 の比定 されている年代 です が
,千
支 の年 号 しか書いてない ものですか ら60年 先か,60年
後か とい う摩 うな議論があ りま してなかなか決 ま らないんであ りますけ ども,今
一応443年 とい うことになってお ります。 そ の次 に古 く表 現 されている例 としては例 の埼玉県 の稲荷 山鉄剣,稲
荷 山古墳か ら出ま した鉄剣 の銘文 にや っぱ り地篤があ りま して,そ
れ は 「斯鬼」(しき)とい う地名であ ります。これ も大和 の地名であ り ますけれ どもこんな字を借 りて表現 してお ります。古い時代の地名の表記の例 としまして,こ
れ は471年 の ものです。 この ように して地名 の表記が行われて きま した。
さて
,資
料1をご覧 くだ さい。 そ こに 『和 名抄』 と象 霧 卓 夏 寡 賃 算 甘
措 み 奪 亀 ぞ 堰 焉 Ff辛 奪 を 手 蟄 馨 民 〔
抄』という のはご 存じ の通 誰夏 塁 嘗 占
り,10世紀
,980年
代 に作 君 屯兄
鎌 られ た漢和 辞 書 で あ りま
只ォ
鼻
慧
彙
葉 遅
a t妄
tFl t
す。 日本最古の漢和辞書で
猿
疼 あ ります。漢和辞書である
と同時に百科辞書みたいな ものであ ります。源順 とい う人が作 った本であ りますが
,こ
の本に「国郡之部」 とい うのがあ りまして,日本全 国の国郡 の名前が こんな風に して挙が ってい るわ けであ ります。今 ここに掲げ ま した ものは江戸時代に印刷 された本か ら取 った ものであ ります が
,そ
れ をち ょっと見ていただ きます と,こ
れ は も う皆 さんおな じみの地名がた くさんあるわ けであ ります。郡名が和気郡か ら上道郡 まで ございますが,例
えば邑久郡,今
の邑久町か ら長 船,牛窓 にかけての地名であ りますが,「邑久」とい うのは今 日まで地名が残 ってい るわけです ね。「靭負」,「土師」,「須恵」,「長沼J,「 尾 沼J,「尾張」,「杯梨」,「石上」,「服部J,こ
れ らは ほ とん どあの近辺に大字の名 として地名が残 っています。それは別に邑久郡に限 りませんで,今問題 の この地域の御野郡 をご覧頂 きます と,これ も全部残 っていますね。「枚 石」,「廣 世J,
「出石J,「 御野」,「伊福」,「津 島」,これみ んな残 っていますね。伊島 とい うのは伊福 と津 島を 合わせた地名だ と思いますが
,そ
れ で よろ しいですか。 こ うい う地名を合わせ るときは大変民 主的にや るものであ りま して,ど
ち らかの地名がそれを乗 っ取 るとい うことがないんですね。そ してすべて漢字で二字で地名が書いてあ りますが
,そ
の下に割書で,万
葉仮名 で地 名 の読み 方が書いてあ りますね。「廣世」は 「比 呂世」 と下に書 いて ございます。 これが『和名抄』の特 徴 であ りま して,日本語 としては ど う読むか とい うことを全部示 しているわけであ りま して,た また ま無 い ところが ございますが
,こ
れ は要す るにの ち まで伝わ らなか った だ け で あ りま す。 もともとはそ うい うように 日本語 の読み方を示 しているわけであ ります。地名の漢字表現法は
,国
の名前は もとよ りであ りますけれ ども,郡
の名前 も,郷
の名前 も全 部漢字二文字で表現 していますね。一つ の例外 もない。今現在の地名 も二字の表現 が大部分で す。 これは朝鮮半島で もそ うです し,中
国で もそ うです。地名 とい うものは二字で表す ものだ とい うル ールがあ りま して,そ
のル ール に従 って 日本 で もある時期に二字の地名表記に変 えた わけであ ります。それが資料2の『続 日本紀』 として掲げておる資料であ ります。和銅六年,西暦 でいいます と713年
,奈
良に都が変わ りま したのが710年 であ りますか ら,そ
の3年
後 の こ::軸 と :〔 〔il:をみ ?]::: 言 ::il: ョ :S§
ぎの「そ の君[の内に生れ る云 々」とい うのは,「
る記事なんです。その 「風土記 」を作 らせた記 した よ うに君【・郷の名は好 き字を付け よと言 う たわけです。ただ重要な点が この記事 には抜け 点か とい うと漢字二字で表す とい う内容が抜け 字 で表す とい うのが この ときの政 府 の正 確 なる す。漢字二字 で地名を表す のは この ときか らし 果
,ど
うい うことが生 まれたか と言い ます と,分か りに くい
,つ
ま り表現 されている漢 字か らは地名の意味がほ雷
:塾
【好よ とん ど分か らないそ うい う地名が発生 しま した。それか ら地名の
ゴ
ム
:
阜じ 読み も)F常 にわか りに くくな りま した。なにせ二字で何で もかん
々
虫 を
驚っ
でも 表 現 せ にゃ い か んと いう こ と に なっ た わ け で す から ,当 時 の 墓
:四粛 τ
人 は相 当首をひね って考 えたわけです。 日本 の地名には難読地名
名
a惣
泳咤 が多い といわ れ ます が
,そ
れ は こ こか らは じま った のですね。伝
Z
`そБ
「遠敷」,遠いに敷 くとい う字を書 く地名は これは福井県にご親戚がおられ るか,あるいは福井 県 に住 んでいた ことがある方 でない とまず この地名は読めない地名であ ります。「おに ゅ うJ
と読むわけであ りますね。「遠
Jと
い う字は「おん」とも読みますね。親鸞上人大遠忌 とい うよ うな ことを申 しますね。仏教用語 とい うのは古い音を伝えてお りまして,奈
良時代 に唐 の時代 の音 とい うものが伝 え られてそれ までの呉音をやめるとい うことに したんですが,仏
教用語 に はそれが残 ったのです。「敷Jの
字 は古 い読み方 も新 しい読み方 も変わ らず 「ぶ」であ りますか ら,この 「おん」 と「ふJを
合わせ る と 「おに ゅ う」 となるのです。だけ ども読 み方 は こんな 風 に大変難 しくな りま した し,意
味 もですね,遠
い と敷 くとい う字か ら意味を考 え ると大変 な 間違 いを して しま う。遠 くに敷物 を敷 くとい うような地名 とは全 く違 いまして,こ
れ は元 々は「小丹生
Jで
す。「丹生」 とい う地名 な ら日本全国にた くさんあ ります。水 銀朱 の採 れ る とこ ろ,丹
の採れ るところ とい う意味であ ります。「小丹生」の「小」とい う字は これは上に着ける 接頭語的な言葉 ですか ら,そ
んなにた くさん丹は採れなか ったのか もしれ ません。 これが もと もとの意味なんです。全国の地名は こ うい う風 に表現 されていたわけなんです。地名の読み方 も難 しくな りました し,地
名 の意味 も全然分か らな くな ったわけですね。 これではいけない と い うことで風土記を作 らせて,地
名 の元 々の意味は こ うなんです よとい うことを書 かせたわけです。風土記を作 らせた 目的の一つはそ こにあ ったんですね。 もちろんその土地か らどんな も のが採れ るか とい うことも書かせ ま した。 しか し
,残
念 なが らこの備前 の国の風土記は残 って お りません し,若
狭 の国の風土記 も残 ってお りませんので これか ら申 し上げ ます津 島の地名の 意味 とい うものが全 く分か らないまま今 日まで きた とい うわけであ ります。そ こで
,津
島の地名 の意味をそ うい うことを前提 に して考 えてみたいわけであ ります。先ほ どご紹介下 さった新納 さんは,津
島 とい う地名 は,元
々海辺が近 くまで きていたか ら,そ
うい うことに基づ く地名 ではないか,と考 えて きた,とお っ しゃいま した。そ うい うことに も津 島 の地名 の意味 は関係 あるんですけ ども,これ は ど うもそ うい う地形・地物的な 自然地名ではな いんです。 とい うことが この資料3の木簡 で明 らかにな りま した。 この平城官木簡,今
か ら15年 ほ ど前 に平城官跡 で出上 した木簡であ ります。大 きさは
18 cmぐ
らいであ ります。 これを よ んでみ ます。表 と裏に書 いてあ ります。右側が表 で,左
側 が裏 です。備前国,三
野郡,この三 野郡 の 「みJの
字 が 「御Jと
い う字を使 っていない。数字 の 「三」 を使 ってい る。和銅六年か ら地名にはいい字を着けな さい としま したか ら,そ
れか ら 「御」 の字を使 いだ しま した。だか らこれ も以前 の使 い方 なんです。それ まではいるんな字 を使 っていま した。漢字 とい うのは同 じ音 でいろいろな字が あるわけですか ら,い
ろいろな字を使 ったわけです。三野郡を 「三」 の 字 で表す のは和銅六年 よ りも古 い ものですか ら,年
紀 は書 いてない ものですけれ ども,そ
うい うぶ うに推定 していいわけであ ります。そ うい う推定 を さらに確かめますのが,問
題 の里名表 記 です。郡 の次に里 の第前があ ります。里 とい うのは後 には郷 の名前であ りますが,「津嶋 砕 里Jと
あ るわけ ですね。津 島の 「津」 の字はち ょっと くず した字にな っています。 さんず いな ど棒 を引 っ張 って書 いています。 島は今 の簡単な島ではな くて,山
が外 にでるやつですね。部 の字は 「おおざ とJを
だんだん省略 してい って 「マ」 の よ うな字にな っている。古い ときはい か に もおおざ との よ うな書 き方 な ん です が,だ
ん だ ん棒 も短 くな りま して,最
後 に は も う「マ」みたいにな ります。 これは別 に 日本人が発明 した略体ではな くて
,中
国に古 くか ら先例 が ある。かな り古い時代に この ∵ の使 い方 はあ ります。で,裏
にい きます。ち ょっと発掘す る ときに傷 めて しまい ま して肝心の所が少 し読みに くいん で あ ります けれ ども,上
の字 は まず「庸
Jと
い う字で読 んで よい,この字は ご存 じの ように当時の租税制度 で調庸 とい うのがあ り ます。調 とか庸 とかは地方 の特産物 を都 に出す ときの税 の種類 であ ります。庸 とあ りま してそ の次は 「津嶋 ヤJな
んです。その次 の字が これは 「木上」 と書 いていますが,これ は人の名前 です。「津嶋 ヤ 木上」,「津JleヤJが
要す るに名字で,「木上」 カミこの人 の名前 です。その次は「一俵」。俵です。これは ここまで申 し上げ ます と,そうい うことか な とお気づ きか と思います が
,津
鳴 ヤ 里 の津嶋 宰木上 とい う人が庸 としてお米を,これ は米 と考 えていい と思います。塩 もあるんですけれ ども
,米
でいい。米を一俵都へ運 んだ。その時の俵 に くっつけた,要
す るに荷札なんです。
先 ほ ど申 し上げ ま した よ うに三野郡 の三野 の字 の書 き 方
,そ
れか ら津嶋 ヤ 里 とい う,津
嶋郷 を津Jleヤ 里 とい うか うに書 く書 き方,つ
ま りこれはまだ二字 で書 く以前 の書 き方,そ
うい うことか ら考 え ま して,和
銅六年 以前 の ものです。 これは平城官跡か ら出ていますか ら,平
城 官 に都 が変 わ った和銅三年 か ら,和
銅六年 までの もの と 考 えていい。 ですか らこの米俵 は平城官 を造 って ま もな く,あ
るいは造 りつつ あるときに この備前 国三野郡か ら 徴用 された人た ちのお米 と して都 に送 られた ものなんで す。庸 とい うのはそ うい う労役 に従 った人 の食料 で あ り ます。そ うい うもの と考 えていいわけであ ります。そ う いた します と,津
島 とい う地名 は 自然地形 的な 自然地名 の ように一見見 えますけ ども,津
嶋部 に もとづ く地名 で あ る ことがわか ります。津嶋部 とい うのは人間 の名前 であ ります。津嶋部 を名乗 る人が ここに住 んでいた
,か
な りた くさん住んでいた。一人,二
人住 んでいた のでは村 の名前にはな りません。かな り集中 して津嶋部を名乗 る人が住 んでいた こと に よ りま して,こ この村の名前が付け られたわけです。津 島はそ うい う人文地名だ とい うこと にな ります。この ような例 は全 国にた くさん ございま して,「・・・部」を名乗 った人たちに基づ く 地名 はず いぶ んた くさんあ るわけです。 岡山で も磐梨君[に物部 とい うのが あ ります。 邑久郡 に は服部,服 ,部
と書 く「は と りJと
い うのがあ ります。赤坂郡には軽部 とい うのがあ ります。津高郡 には健 部が あ ります。 これ は今 の建部 です。 これ らはいずれ もた また ま もとの部 も二字 な ものですか らそ のまま地名 にな ってお りますが
,津
嶋部 の よ うに三字 にな って表現がはみ 出 るものは部を無 くして しま うか,あ
るいは 「…べJが
入 る よ うな漢字になお して しま うか しま す。例 えば こ うい うのがあ るんですね。 岡山に もある真壁。真壁 がや は り部 を含 む地名 であ り ま して,これ は元 々は 「真髪部」 なんです。 これを二字で表現 しよ うとして苦労 して壁 の字を 使 ったわけですね。漢字二字 で ど う表現す るか とい うことで こ うい う字 を使 ったわけです。 で すか ら 「一部」 に関わ る地名 とい うのは二字 でそ の まま表現 され てい る もの もあ ります し,こうい う風 に別 の字 を用 いて二字 で表現す る もの もあ ります し
,津
島の よ うに部 を除 いて二字 で 表現す る もの もあ る。上道郡 に 「日下」 と書 いてい る ものが あ ります。 これ は 「日下部」 なん です。「日下」 は 「くさかべ」 と読むん じゃないですか。 しか し漢字での表 現 は部 を除 いて い る。「津 島Jは
「つ しまべ」とは読んではいなか ったか もしれ ません。ですか ら津 島の地名は津 資 料 3 平 城 宮 本 簡lle部に基づ く地名だ と,まず そ う考 えていい とい うことにな りま した。
それ ではそ の津嶋部 とはなにか とい うことにな ります 。 これ は実 はなか なか難 しい もので
す。津llle部はいわゆ る部民です。そ うします と
,津
Jle部を管理・所有 していた氏族がいない といけない。た とえば大伴部です と
,大
伴連 とい うのが中央 の貴族 でいるわけですね。それが所 有 してい る部民だ とい うことにな るわけです。物部は物部連が所有 していた部民,「・・・部」と称 す るのはそ うい う豪族,そ
れ も主 として中央 の豪族が所有す るものであ りま した。津 島はそれ では どうい う氏族 を考 えた らいいのか,い
ま,文
献 に残 ってい る 「つ しま」 を名乗 る豪族 は2 つ あるんです。一つは津 島直 です。 この直 (あた い)と
い う姓 は地方 の豪族 に与 え られた姓で ある。特 に国造 とい う地方官をある時期 に大和朝廷 は地方に第 きますけ ども,この国造に与 え た姓 が 「…直」 であ ります。ですか ら直 を名乗 る豪族 はた くさんいます。津島直は どこの豪族 か。 これは玄界灘 に浮かが対馬 の豪族 です。対馬は後 の律令国家 にな ります と二つ の郡か ら成 り立 ってい ます。上県郡 と下県郡,厳
原 か ら美津 島が下 県郡,そ
の北 の方 が上県郡 とい い ま す。 ですか ら時代 を さかのば らせ る と,二
人 の国造がいた とい うことにな るんですが,そ
のいずれ もが津 島直を名乗 っているんです。 これが津 島直です。津島連 とい うのは,これ は中央 に いた豪族 であ りま して
,大
和 の国に本拠地 を持 っている豪族 であ ります。 この津 島連は後 で出 世 をいた しま して,津
島朝 臣 とい う姓 を もらい ま した。朝臣 といいます と貴族 の仲間入 りを し た よ うな姓であ りますが,津
島朝 臣は奈 良時代 か ら平安時代 のは じめにかけて伊勢神宮の大官 司をや ってお る氏族 であ ります。彼 らが独 占 してい るわけではないですが,三
〜 四人伊勢神官 の大官司にな ってい る人がいます。私はは じめ津島朝臣 (連)と
津 島直 は全 く別 の氏族か な と 思 ってお りま した。律令 国家 の宮廷祭祀 とい うのは 「神祇官Jと
い うのが東ね てお りま して,これは太政官 と並 んで一つ の大 きな官僚機構 を作 っていたわけであ ります。神祇官は中臣氏 と 忌部氏 とい う二つ の氏族 が中心 にな って伝統的に律令国家にな りま したあ とも実際の官廷祭祀 をや って るわけです。津 島直 も津島朝臣 もその中臣氏にいずれ も従 っていた豪族 であ ります。
まず津 島直ですが,これ が部民を所有す ることがで きるとな ります と
,何
らか大和朝廷 との関 係 とい うものがなけれ ばな りませ ん。対馬の豪族が独 自に部民を もつ とい うことはまず考 え ら れ ない。津 島直は奈良時代 にな りま して も神祇官 の中である特別 な任務に就 いています。神祇 官 の中に 「伯」「副J「 祐 」「 史Jと
い う四等官がいますが,そ
の下にいろんな専 門職 が い ま す。その専 門職 の一つに 「 卜部」がいるわけです。「 卜部」は 「占部」 とも書 きますが,津
島の 方 は この 卜の方を書 く。つ ま り占いをす ることを専門職 とす るのが 卜部であ ります。 この 卜部 を構成す る人が20人 いる。20人 の うち10人 が津 島直が率 いる対馬 の人を もって構成す るとい う ことにな っている。 あ と10人 の うち,5人
は壱岐の人,後
の5人
は静 岡県 の伊豆 の人である。伊豆 は伊豆半 島ではな くて伊豆大島な ど
,伊
豆7島のほ うの島民であ ります。かたや 日本列島の西 の壱岐
,対
馬 の人た ちが,か
たや東 の伊豆 の島々の人たちが官廷祭祀 に関わ り,
卜部 とい う専 門職にな って宮廷 に出かけて きてい るわけであ ります。卜部 とい うのは何 をす るのか とい うと
,亀
の甲の占いをす るわけです。亀 の甲羅を長方形に薄 く削 って,そ
こに小 さな長方形 の 切 り込 みを入れ てそれ を焼 くわけですね。焼 いた ものが表側 に ど うい う裂 け 目で 出て くるか と い うことで吉凶を 占 うわけです。 国の大事 の場合,天
皇 が どこかに行幸す るとい う場合,そ
う い う様 々な国の大事 の際に この 卜部は活躍す るわけであ ります。その 卜部 の半分を占めている のが津 島直であ ります。 この人たちは毎年対馬か らは るばると海を伝 って大和へや って くる。毎年や って くるのが大変だ ったわけで大和 に住み着 く人たち もだいが出て きた。 あるいは都に 住み着 く人たち も出て きた。それを京 卜部 とい っていた。 この京 卜部 の中で出世 した のが津 島 連 ではないか
,私
はその よ うに想像 してお ります。ですか ら津 島直 も津 島連 も根 っこは同 じで す。 そ うい う 卜部 の仕事 をや りな力きら,官
廷祭祀 に関わ り合 いなが ら,神
祇官 の中で出世 して い ったのが津 島連 であ り,そ
してその中には伊勢神官 の大官司に もな った人がい る。 しか し律 令 国家 はなぜかそ の京 卜部 は京 卜部 として認 めなが ら,何
人か は現地か ら必ず来 る ことを厳命 しま した。卜部 が都 に住 んでい る うちに人術 の霊威 が消失す る ことを きらったのか も しれ ませ ん。 この占いがいつか ら始 まったか とい うことが問題 なんですね。今は奈 良時代 の神祇官の話 を しま した。亀 卜は律令国家にな って初めて始 まったわけではあ りません。時期ははっき りし た ことは分か らないのですけ ども
,亀
甲の 占いは もちろん中国か ら到来 した もの。例 の甲骨文 字 な どももちろん亀 の甲羅 を使 ってお るわ けであ ります 。 これ が一 番 最 初 に伝 え られ た のが や っば り対馬・壱岐なんですね。それがだいたい,考
古学 の所見 では,た
ぶん5世紀 ぐらいだ ろ うといわれてお ります。それ まで も占いはや っていたんですが,これ は シカの肩押骨や動物 の骨を焼 いてや っていたんです。 しか し,亀
の甲の占いは も うち ょっと進歩 した 卜術法 なので す。そ うい う占いを中国か ら受け入れた対馬 の豪族 たちを大和 の朝廷 が注 目をいた しま して, これを宮廷 に迎 え入れたのは多分6世紀 も終わ り頃, 7世紀 に入 っていたか も しれ ません。 し か しまだ部民制 の時代 で,対
馬 の豪族 た ちは大和 にや って くるのに船 でや って きま した。そ し て この備前 の三野 の地 で一服す る,体
養 を とるわけです。そ の世話係 を した のが津鳴部 であ り ます。そ うい う摩 うに考 えていいん じゃないか と思いますね。そ うい うことが考 え られ るとし ます と,ち
ょうどこの6世紀 の後半 とい うのは欽 明朝 の ころです。 白猪屯倉や児 島屯倉 とい う のが吉備 におかれた ころです。わ ざわ ざ蘇我 の大臣が吉備へ出かけて きて屯倉 をおいた とい う 記事 が『 日本書紀』 に出て消 ります。つ ま り児 島屯倉 な どは港 としての機能が重要視 された屯 倉 であ りま しょうか ら対 馬 の豪族 が大和 にや って くる ときは そ うい う港 も利 用 され た で あ ろう。そ うい うことも考 え られ る と思い ます。
地面 の下 の遺跡 も大事 で あ りますが
,地
名 も大変大事 であ ります。地名 は時代 の重 な った歴史 が凝縮 して我 々の周辺 に残 ってい るわけですね。 この地名 を改変す る とい う話 が1960年代 に あ りま した。郵便物 の配達 を簡便 にす るために住所 の表示を変 える
,そ
れ で 日本全 国のそれ ま であった地名がかな り無 くな りま した。 しか し,反
対運動 な ども起 こ りま して,自治省はや っ ば り地名 は大事に しな さい とい うことで住所表示改変 の動 きは止 ま りま した。そ うい うことを 思い ます ことと,津
島の遺跡 に関 しま してはやは り6世紀 以降 も注 目され る遺跡 である とい う ことを最後 に申 し上げて雑ぱ くな話を終わ らせていただ きます。 あ りが と うございま した。口貯竿I B 29日
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1大学構内遺跡調査研究年報 151碑 斡笈 編集
1発行 爾H大学藝藤文化財調査殖菊セ
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