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駒澤大学佛教学部論集 20 024石井 修道「中国唐宋代の禅宗史の研究状況と問題点」

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(1)

56

) 駒澤大學佛教學部 論集 第20號 平成元年10 月

中 国

唐宋代

禅 宗

研 究 状 況

問題 点

 井  修  道

   じ   

 

私は 一昨

昨 年

に二

書を刊

する こ と が で きた。 一 , 『

宋代 禅宗

史の 研 究1)』 で あ り, 他の 一 , 『

宗 史

  

真 字法 眼 蔵 』 に 学ぶ2)』 で あ る。 私の それ らの 著の研 究の課 題 も, 本 日発 表す る 「 国唐 宋 代の

禅 宗

の 問題」 であっ た。 こ れ らの 二 つ の

著作

刊行

した

も, その

研 究

をつ づ け た い と

え て, その

に もい くつ かの 論 文 を

い た。 その 間に, 私の 研 究 分

して、 私の 研

か ら厳 しい

題を私 自 身につ きつ け ら れ て お り、 決 し て安 閑 と し て

まで ど うりに 研 究を進め て行け ない 現 況に 立 た されて い る。 今回の 発

は 、

の 二 つ の

著作

べ た とこ ろ と大い に 重 複 す るところ もあるが, 四つ の

を立て て進め た い と思 う。

 

そ もそも, 中 国

の 近 年の 研

は, 今回の 田中 良昭氏の 発 表に あ るよ うに ,

文 献に が向け られて来た。 その 中で ,

っ て も

大の

研究成 果

は, 胡

氏の

神会

684

−−

758

)の 解 明で あ っ た 3) 思 う。私 達が伝 承 し て きた禅 宗

開祖

菩提 達 磨に して も, 禅 宗六 祖の曹 渓 慧 能 (

638

〜 713 )に して も,

沢 神

きに して

え るこ とはで き ない 4)5)。

 

菩提

磨と梁の 武 帝が出会っ て 問 答 をし た とい う話は , 「菩 提

摩 南

是非

論」 の 独 狐

うよ うに ,

神会

創作

した もの で あっ て,

神会

に あ っ た話を

神会

え た もの では ない 。

 

ま た, 六

祖 慧能

記や

思 想

は , 「

祖壇 経

』 で しば しば

り伝え られ て い る が, 六

祖 慧能

子である

荷沢神 会

が, その 六

祖慧 能

の思

を, 『

南陽

和 上

解 脱禅 門 直 了性 壇 語』 に 受け継い だの で は ない。

実は全 く逆で あ っ て , 『

壇 語

』 一

499

(2)

中国唐 宋代の禅 宗 史の研 究 状況 と問題 点 (井)

57

か ら 『

』 へ と

立 した もの であ る。 私は , 敦 煌 本 『 祖壇 経 』 の 最 近の 研 究 につ い て は , こ こ に 同

して い る 小川 隆 氏の 論文 に注目 してい る 6)7) 。

 

この よ うに

煌 文

砺究

は ,

荷 沢神会

解 明

飛 躍

的に

ん だ こ と が第 一 あ げ られ る と思 わ れ る

籍は , もち ろ ん荷 沢

会の 時代で終わ る訳で はない 。 今回 出

してい る岡

和 雄 氏は , レ ンニ ン グラー ドの オル デ ン ブル グ ・ コ レ クシ ョ ン の 中の 『景 徳 伝 燈 録』 巻

11

の 写 本 を調 査 し, 報 告 してい る 8) 。 『

景徳

伝 燈

』 は , 北 宋

代の

1004

に 一

成 を た も あ る

時代

はずっ と下るの で あ る 。

 荷沢神 会

す る

煌文

よ り

の もの もこ の よ うに

か に

存在

は して い る。 中で も, 四 川 地 方の 禅 宗 史 を解 明 す るに は 欠 くこ との で きない 『

代 法

宝 記』 や , 田中 良 昭 氏がパ リの フ ラン ス 国民図 書 館で発

し, 紹 介 したペ リオ本

3913

は ,

宗の 歴

の 祖 師の 伝 燈 を

密教

的に 改

した 文

で極め て興味あ る もの で あ る9)。   し か しな が ら, 次の よ うなこ と が言え るの で は ない か と思 う。   周知の よ うに , 六祖 慧 能の 門 下の中で, 永 く法 系が継 承 さ れ て い くの は , 青 原

思 (

673

741

) と

南嶽懐 譲

677

744

)の 二 人 の

で あ っ て ,

荷 沢神 会

統 は , 一

唐末

に は

亡 して し ま う。

思 や その

子の 石

頭希

遷 (

700

791

) お よ び南嶽

懐 譲

や その

馬 祖 道一 (

709

788

)の

き や 思 想 を解 明 す る た め に は , 敦 煌 文 献で は で き ない と言 うこ と で ある。 私の発 表 は , そ れ

に , 田

中良

昭 氏に 続い て , 石

頭 希

遷や馬 祖 道 一

禅 宗教 団

宋 の

1279 年

までを

問題

たい と思 う。   この 間に は, 大 きな 問題は い ろ い ろあるが, 先に も述べ た よ うに 四 つ の 柱 を立 て て み た。 四つ と

うの は, 次の よ う な もの であ る。

   

一 , 「

宝林伝

』 と

馬祖教 団

を め ぐる

諸 問題

   二 祖 堂 集 』 と雪 峰教 団 をめ ぐる諸 問題

   

三 , 黙 照

をめ ぐ る諸

   

四, 中 国

を め ぐ る

諸問題

 

こ れ らの 四つ の

事柄

に つ い て , その 主 な研

究成

果 を 示 し, 私に とっ て問

とな る とこ ろを

指摘

し, で き る

りにおい て ,

された課 題 と私と の かかわ りを

べ て み たい 。

 従

っ て ,

回 の

発表

は ,

め て

人 的 な

心の

問題

もあっ て , 必 ず しも

(3)

(58 ) 中 国唐宋 代の 禅宗史の研 究状況 と問題 点 (石 井 ) 宋 時 代を網 羅 的に で は , か と言っ て , 唐 宋 時 代 を

え る場 合に おい て, 決 して

けて通る こ との で き る もの だ とは , 私は

え て は い ない 。 二  宝林 伝 と馬 祖 教 団 をめ ぐ る諸 問題

 

私は 日

本曹

の僧 籍 を もつ で あ る。 中 国 と出

家 事情

が異 なっ てい る の で 、

奇異

に感ぜ られ る か も し れ ない が, 私は 日

の道 元

師 (1200 − 1253)の

え を 信 奉す る者である。 最 初に こ の よ うに 述べ たの に は 理 由が あ る。

 

研究

は ,

う な ら ば, 歴 史 的

実の

明 を優 先させ,

禅宗教 団

過程

よ り,

虚構

をあ ば くこ とに

急性

で あ っ た。

学者

に は ,

虚構

をすべ て切 り捨て よ うと し た 人 もかつ て はあ っ た。 現

で は 「

虚構

」 と

わ れ る もの も, 歴 史 的 な産 物で あ り, その 意 味づ けが問わ れ , や せ細っ た歴 史観が 改め ら れ て , 総 合 的 な研 究へ と進んで い る。 もしも, 歴 史 的 事 実 だけ を追 求 し, 虚 構 を捨 て て し ま えば,

初期

の 中 国

は ほ と ん ど無 くな っ て しま うで あろ う。

 

た と えば , 先に 取 り上 げ た禅 宗開 祖の 菩提 達磨 と

の 武 帝の 出会い は , 歴 史 的

事実

で は ない これ を歴 史的

事実

だけ を

優先

させ て

て て し まっ て も,

意味

もない こ とに な ろ う。 こ こ で 言 う歴 史的

実とは , その 話 を

荷沢神会

創作

した こ とを明 ら か に し, い かな る意 図で創 作 し た か を探 り, その創作 が どの よ うな意

を もつ か を

究 する必

が あ る と言え よ う。

  宗教集 団

る私

達多

くの 日

学者

は , それ

に ,

従来

集団

伝承

壊 され るこ と を恐れ, ただ

目的に既 成 事実 を維 持 するこ とに 一

っ た こ と もあ っ た。

の 私

は , 過 去に その よ う な態

を取 っ た学 者 と 一

い る。 私

は , まず第 一 禅 思 想の もつ 魅 力を十分に

したい と

えて い る だ けである。

 

恐 ら く禅 宗に

して何 ら の 信 仰 を

ち合わ せ る こ との ない くの 中国研 究 者

々 と私

とは ,

研 究方法

や そ れ よ り出て く る成 果 との 間に は , 大 きな差 異は ない もの と考 え る。 た だ私 個 人に とっ て は , そ れの み で は ない こ と は ,

に 述べ たい と思 う。

 

禅 宗で は , 仏 教 を開かれ た釈 迦 牟尼 仏か ら中 国に

宗 を伝え た

菩提

達 磨の 間に

祖 師

え が っ た と し,

菩提達磨

28

代 目に

えてい る。 中 国や 日本 に え られ てい るの は , 北 宋

代の

1004

年に成 立 した 『

景徳

燈録

』 の 説に

づ い て伝 承 してい る もの で あ る。 一 497 一

(4)

中 国唐 宋代の 禅宗史の 研 究状 況と問題 点 (石 井 ) (

59

 実

は , こ の西 天

28祖説

立 したの は ,

801

に 成 立 した 『

宝林 伝

』 が

め て で あ る。  この 西 天

28

祖 説が どの よ うな紆 余 曲 折 を経 て成立 し た か は , 敦 煌 禅 籍に よっ て 始め て明ら かに さ れ た もの で あ っ て, これ ま た

近 年

禅宗 史研 究

大 の

果で ある。 この こ とを

心 に ま と め たの が,

中国禅宗史

名著

で あ り,

典 と

っ て も よい の が,

の 『

初期 禅宗史書

’°) 』 で あ り、

1967

5

月に 公刊 された 。  こ の は , この 分 野の 研 究 を進め る人に とっ て絶 対に 欠 くこ との で きない もの であり,

研 究

を深め て い くほ ど,

さ れ た課 題に つ い て も

山の問 題

提起

の 指 摘 が随

発見

で き る もの で あ る。 この

は, 西天

28

祖説

完 成

で あ る 『

宝林 伝

』 で もっ て 初 期 禅 宗 史が締め く くら れ てい る。 それ だ けに , 『宝 林 伝 』 が 占め る

要で あ り, 私 も 『

宝林

伝』 の

現は , 禅 宗の 歴 史に おい て 画 期 的 な もの で あ る と思 うの で あ る。

 

とこ ろで , 『

』 は , 「

8

に よ る と, 遼の 道

が 詮

暁等

に 経 録 を

め させ て

偽妄

だ とし, V 六 祖

経g と共に

い た こと が

え られ , その

影 響

もあっ て か永い

, 多 くの 人

に利 用 さ れ る ことは なか っ た 。

 

とこ ろ が, 周 知の ご と く,

1932

年に

盤 大 定 氏が 京 都 粟田 の 青 蓮 院にお い て、 その

巻 6

を発 見 し,

研究

した 【’ 。 一

中 国

におい て も,

翌年

1933

に 山 西

趙 城 県広勝 寺所

金版

大 蔵 経か ら, 『

林 伝

』 の

巻 1

よ り

5

まで と,

8

都合

6

発 見

された。 それ らは ,

1935

年に , 上海の 影

宋版 蔵 経

か ら 『宋 蔵 遺

』 と して出

さ れ た もの で あ る 12) 。

 

中国の

禅 宗史

研 究者

に とっ ては ,

未発見

7

9

10

3 巻

を研

で きるこ とを強 く

の で あ るが, そ れは

の とこ ろ

実現

してはい ない 。 日

究 者の 協 力に よ り, 残 りの

3

巻が発 見 さ れ るこ とは 充分に あ る もの と私は

えて い る。

 

こ の よ うに して ,

現存

する

7

研究解 明

は ’3川 )’5)’6) , 田

中 良昭氏

心 とす る

が駒 沢 大 学 禅 宗 史 研 究

に おい て 目下訳

本を出

して お り,

現 在

の とこ ろ ,

巻 4

ま で既に 出版 を してい る17) 。 この 駒 沢 大 学 禅 宗 史 研 究 会 は, それ 以

に , 『慧 能

慧能

記 と

す る

ls) 』 を 出版 してい る。

 

それ で は , 『

』 は , い かな る人 々 に よ っ て, 何の た めに , どの よ うな経

に おい て

られ たの で あろ うか。 この 疑 問の解 明に は , その 研 究に か らむ種々 一 一

(5)

60

) 中国唐宋代の禅宗史の 研究状況 と問 題 点 石 井

問題

し た 上でなけれ ばで きない の で あ るが , 中 国

禅 宗

史の

究の 上 で は ,

も興

深い問 題の 一 あ ろ う , と私は思 っ てい る。

 

現 存す る内 容か ら考え ら れ る撰述の 目的は , 一 定 説 見て い る 。 な んの

に 『

宝林

』 が

か れ た かは,

禅宗

開祖

であ る菩 提

磨が, 釈

の 教 え を正 し く

えた

第 28代

目の

であるこ とを

立 す ること で あ っ た と

え よう。 こ れ が,

一 の

の 目的で あ り, い ま 一 目的が あ る

え られ るが , その こ とは後 に述べ

 

菩提 達

磨 を

開祖

り上 げ た

団は, い わ ゆる の東 山法 門の 正 系 を主張 する北 宗 禅の 々 で あっ た と言 っ て よい 。 や がて ,

中国

に お い て ,

荷 沢神会

出現

は, 菩 提 達 磨の 正 系

7

と は誰で ある か , とい う大

題 をか か げ るこ とに な る。 それ は , 第

7

祖 と は , 神 秀 (

606

? −

706

で あ る普

651

739

)では な く して , 外 ならぬ 慧 能の 弟 子で あ る 自分 だ, と

うの が ,

荷沢 神会

の 主

で あ り,

を根 拠 に強 引 な まで の 論 戦 を始め たの であ る。 普 寂が第

7

祖で あ る こ と は , 長 安 ・洛 陽の 人 達に とっ て 当然の こ と と思 わ れ てい た し, 荷 沢 神 会の 主張は 最 初か ら認め られ る もの で は な か っ た。

 

と こ ろ が, 唐

を 大 き くゆ る が す安

山 ・ 史思 明の 反 乱 が起 こ り , この 反 乱に よ っ て北 宗 禅の 支 持 基 盤が

壊 し, かえ っ て この 反 乱に

じた

荷沢神会

が 反

軍資

金を香

水銭

献納

する こ とに よ っ て

活躍

したの で ある。 結

的に は ,

史の

は 終

かい ,

普寂

神会

の 立 場は逆 転 し, 完全に

会が

7

祖となっ たの である。

荷沢神会

7

立は,

6

慧能

で ある こ とを 意 味 してい た。

神会

躍に よっ て ,

菩提達

磨か ら第

6

祖 慧 能は, 不 動の もの と なっ たの で ある。

会は , 釈迦

尼 仏 か ら菩

提達 磨

まで の 祖 師の

数は , 『

多羅

経序

』 に

づい て

8

しか

えず,

慧能

までを

13代

えて い た。 その後 に 神 会の 影響 を承 け な が ら, 『法 蔵m

24

祖 説 り入 れ 歴 代 法 宝 記 』 な どの 説が 生 ま れて

る こ とに な るの で ある 。

 周知

の よ うに , 『

付法蔵

縁伝

巻 6

で は 、 第

24

祖の 師 子は, 弥 羅

王 に斬 り 殺さ れ た こ とに っ てい る 。 その 説を 認め る と, どうし て も

提 達 磨 まで法は

わ っ て こない の で あ る。 『宝 林 伝 』 は , 神 会の伝 衣 説 を利 用 して, 師子 が殺 さ れ る前に 婆 舎斯多に 僧 伽 梨 衣 を証 拠 と して法を伝え た こ と を

説す るの で あ る。 こ れに よっ て,

師子

婆舎斯 多

の 伝

立 す る と

に ,

な婆須蜜 系

の西 天

28

祖 説 を主 張 したの が 『

林伝

』 で あ り,

に 言 っ た ように その 説は現在 の

495

(6)

中 国唐 宋代の禅 宗 史の研究状況と問題 点 (石 井 )

61

に まで受 け継が れて

たの で あ る。西天

28祖

が伝わ っ た ことを証

する も の と して , 『宝 林 伝 』 で は , 伝 法 偈を根 拠 に した 。 この こ と を論 じ た す ぐれ た

文 が, 水 野 弘元氏の 「 伝

法偈

に つ い て19)」 で あ る。 水 野 氏は, パ ー リ仏

の 研 究 に おける世 界 的 な権 威

で あ り,

沢 大 学の

り うる

大 な 学 者で ある が, 水 野 氏に は , 初

の 禅 宗 史に 関 するす ぐれ た研 究が沢山 あ るの で ある。 今 紹 介 し た もの もその 一 っ で ある。   水 野 氏の 論 文は , 柳田氏の 研 究に も大 き な影 響 を与え た。 その 結 果, 敦 煌 本 「

祖壇

経』 と 『

宝林

伝』 の

前 後関係

確 定

し,

壇経

』 に あ る 「伝

頌」 を ヒ ン トに して , 『

林伝

』 は 「

伝 法偈

」 を

根 拠

に 西 天

28祖

立 し た と

うの で あ る2°)21) 。

 禅宗

伝 衣よ る

6

相 承説 その は

沢 神

あ る が, 『六 祖

経』 は , 六祖 慧 能で留 まっ た伝 衣 に 代わ る もの と して , 『

』 その もの を 伝える人 を慧 能の 正

と主張 し た の であ る。 こ れは 『

』 が伝 授 本であ る と

う主 張である。 伝 授 本 説は既に 伝 衣 説の批 判

展で ある が, その

に成 立 し た 『

宝林

伝』 は ,

祖壇

』 の

6

代の伝 法 偈 を発

させ 、 さ らに 西 天

28

代の伝 法

説 を創

したの で あ る。  以上の紹 介に よ っ て 『宝 林 伝」 の撰 述 目的の 一 つ は理解 され たと思 う。 それ で は , 他の 一 撰 述 目的 と は

 禅 宗

系 譜

正 統 性 を主 張 して 編 集 され た

作 を, 禅

宗 史

の 研 究 者 は 「燈 史 」 と呼 んでい る。

山氏の

著の 『初 期 禅

史 書の 研 究』 の 基 本 的な 構 想は ,

1954 年

の 「燈 史

22) 」 とい う論 文で す で に

示 さ れ てい る。 こ の 「燈 史 」 とい うの は , 自派の

譜の 正 統 性 を

主張

す る とこ ろに その 特 色がある か ら, 「燈 史 」 の 一つ であ る 『宝 林 伝』 も最終 的 な系 譜 を確か め るこ と が で きれば, それ を 主張す る

団が どの

であ るか が

るは ずで あ る。 『

宝林

伝』 の

場合

, 残

なが ら

10

が現

しない の で , 推 測に よ る外はない 。 水

野弘

は , 『

祖堂集

2

に あ る

那連 耶舎

が馬

祖道

一 の

活躍

予言

して い る こ とに注目 し, 元来 こ の 讖は , P宝 林 伝 』 に も あ っ た もの で 、 先に の べ た伝 法 偈の 問 題 を

め て , 馬 祖 道 一 を収

』 で あっ た ろ う, と

推測

した。 そして , 『宝 林

』 の

作者

を馬 祖 門 下 と

測 したの で ある。

 柳

もその

継承

し, さ らに

内容

検討

まで

ん で,

曹渓慧能   南嶽懐

   

1馬祖 道 一 統を 主張 する ため に こ そ 『

林 伝

』 は 編まれ た もの と言わ れ

(7)

62

) 中 国唐宋代の禅宗究状 況と問題 点 (石 井) るまでに の で あ る。

 

以上の は、 こ れ らの

成果

に よ っ て禅 宗 史の 学 界の 定 説 と して研 究は 進ん でい る23)24)25) 。 さ らに, こ の 説は , 駒 沢 大 学の 椎 名 宏 雄 氏の 「『

宝林

研究

26) 」 に よっ て確 実な もの とな っ た 27) 。 椎 名 氏は , 日

に 伝わ る 『

伝 燈 録 」 の 注 釈 書の

かれ る 『

宝林伝

』 の 文 を,

現存

しない

7

9

10

に つ い て 収 集 し, 結

の とこ ろ, 巻

10

に は , 馬祖

と石

希 遷の

まで

在 し た こ とを 明らか に したの であ る。

 

また,

椎 名氏

は ,

文の

で , 『

宝林 伝

』 の 六

慧 能の

に つ い て詳 し く 検 討 し, 『林 伝 J の 六祖

は 『

曹渓

』 の影

が大 きい こ とを指

したの であ る。 こ の

果は, 六 祖 慧 能の 研 究に有 意 義な

唆 と な る もの で あ り, 私 も 『

経』 の

立 過 程 を

究す る上 で

用 し28 ), 「 『

渓 大 師 伝

29)」 な どの論 文に おいて ,

た な

推測

っ たの であ る。 『宝 林 伝 』 は 馬 祖

団と深 い 結びつ き が あ るこ と が確 実に な っ たの であ る が,

祖 教 団の研 究 それ 自体 も大 き く進 展 する こ と にな っ た 3D, 。

 駒

沢 大

石 川

山氏の 「

馬祖教 団

展開

とその

支持 者達

31 ) は , 示

ん だ

文であ り32),

地方

発展

した

禅宗

か な分

33)3‘) を大 著に

れ た駒 沢 大 学大学院 出身の

知 学 院大 学の

哲 雄 氏の 『代 禅 宗 史35) 』 は , その 成 果で あ る 。

 

鈴 木 氏に は, 『中 国

禅 宗

名索 引

wa) 』 の

著述

が あ り、

駒 沢大 学

編 纂

に な る 『禅 学大 辞 典37) 』 と共に , 私の

究に とっ て , 欠かすこ との で き ない 本で あ る 。  さ らに 馬 祖 道の人の 研 究は , 入 矢 義 高 氏の編に な る 『馬 祖

en38

) 』 と し て訳

本が出

され た。 私 もその 訳 注に

加 した 一で あ る が

の メン バーの 一 あ る 西

芳男 氏

に よ っ て 「

祖の

記39 )」 が

しく論 じ ら れて い る 。 ま た, 中国に おい て は ,

氏に よっ て , 馬 祖の 舎利 の 石 函 が紹 介さ れ 4° , 温玉

氏の 荷 沢 神 会の碑 銘の

紹介

と共に4’) , 大 変 な刺 激 を うけて い る 42) 。   馬 祖の の 一西 堂 智 蔵 (738 − 817) が い が, 私が 『輯 県 志』 に 基づい て紹 介 した西

堂智蔵

2

は43) , その

に思わぬ

展 開

示 す

こ とに な っ た。 西 堂 智 蔵が馬 祖

団に おい て, 重 要な位

を 占め た こ と は

違い ない 。 西 堂 智

は 百 丈 懐

749

− 814) と並 び

せ ら れ る

馬祖

で あ り,

晩 年

馬祖

活躍

ま で

を支

えたのは,

百丈 以上

で あっ た と

え るであろ う。 『宝 林 伝 』 の作 者 を, 水 野 氏は, 馬 祖 門下の中で, 大 珠 慧海に近い 人 と推 測 する 一

493

(8)

中国唐宋 代の 禅 宗 史の研 究状 況と問題 点 (石 井) (

63

) が’9) ,

は ,

朝鮮 半島

との

きを

強調

して, 西

堂智蔵

を 出 して い るの で あ る44)

 

い ま, それ らの 推 論の決 着は誰に もで きない と思 うが, 私は , 最

南陽

慧 忠 の

方 宗 旨批 判に つ い 45)」 と言う論 文 を書い て, 馬祖 教 団の 分

に つ い て

じて み た 。 西

堂智 蔵

2

に , 西

堂 智蔵

と興

善 惟

寛 (

755

817

) と 間に

立 があっ た と

べ て い るの であ る が, その 対 立に つ い ての 推 論で あ る。 私の説が支

さ れ るか どうか は ま だ ま だ

討を 必

と す る が, 『

』 と馬 祖 教 団 をめ ぐ る諸

題 6) は興 味つ きな か も難 問 題が多 く存 在 す ると言 えよ う。

 

その , 馬 祖 教 団の 問 題に おい て見逃せない もの が , 清規の 成 立に

する 研 究であ る。 百 丈

海は ,

務の 独 自の 思想 を

立 し,

規を制 定 して

宗 の 独

た し た の で ある。

沢 大 学

総 長鏡 島

氏の 「『

永 平清

」 の

背景

と して の 『百丈

規』」 (『

禅 師

とその

辺 4

 

)は , その

れ た

研究

で あ り,

題 点に つ い て は そ れ に

り, こ こで は割

す る こ とに したい 。

 

こ こ で ,

馬祖

問題

で付 け加え たい こ と が あ る。 馬

団 を 「洪 州 宗 」 とか 「江 西 宗 」 と呼ん で, 荷 沢 宗との 優 劣 を論 じ, 荷 沢 宗の 優 位 を論 じた人に 圭

780

− 841) がい る。

 従

来, 『中華 伝地 禅

承 襲図』 と仮 称 さ れ て い た著 述 が, 卍 字 続 蔵 経に 収め られ てい る。 私は

名古

屋 の

真福寺

所 蔵

されて い る その

紹介

す ること がで き た。 その

は , 『

裴 休拾 遺問

』 と呼ば れ ,

北 宋期

本の 写

で あ り, 「承 襲 図 」 と言 うの は , その 一

分の ま さに 「系 譜 図 」 に付 され た名 前であ る こ とが判 っ た、 そ れ故に 正

名称

の 一

遺問

』 と呼 ばれてい た も の と

わ れ る。

 

私は

福 寺文庫の 『

休拾 遺 問 』 だ けで は な く, 「「 祖 壇 経 」 の 恵 听

の 祖

介 す るこ とが で きた49)50。 恵 听

の研 究は, 郭 朋 氏か ら

紹介

して い ただい た こ と が あ る5’) 。

 

と こ ろ で, 圭

宗 密の 著 作は 52)53)5‘ , 近 代 研 究

に も大 きな影 響 を 与 え た が, この こ とは良い影

ば か りで は ない と思わ れ る55)59) 。 もともと, 宗 密の 捉え た洪 州 宗 とは 、

田氏は

黄蘗希

運の 『法 要 」 の 世 界を まと め た もの で あ ろ うと把

し て お ら れ56),

黄蘗

弟子

の 臨

済 義

玄 (?− 866 )の

祖 師 禅

の 魅

分類

で きて い ない と

わ れて き た57 )。

 

私 の

沢 大 学

吉 津 宜 英 氏は , 『華 厳 禅 思 想 史 的 研 究as) 』 と言 う著 書

(9)

64

中国唐 宋代の禅 宗 史の研 究状 況と問題 点 (石 井 ) を 公

して , 圭 峰

密 を批 判 的に

り扱っ て い る。 もともと, 圭 峰 宗 密は法

華厳

学 を狂わせ た と言 う華 厳 研 究か らの

も あ っ た。 吉

氏は , 「

」 と 言 う独 自の 呼

宗密

え,

華厳 禅

は ,

で も

で もない 「

本 来

成 仏

」 に づい て , 強 く自 己主 張 する新 しい 思 想 と位

づけ るの で あ る。

が道 元

禅師

は ,

密の 思 想 を外 道 と極め つ けて い るの で あ る 。

 

そ こ で, 宗 密の 「洪 州

」 の 分

が不 十分であ る だけ で は な く,

有名

な 五

禅 の

も不 十 分で ある ことを, 私 は 「 の 分 類に つ い て59>」 と

う論文 で

指摘

    き さ く じよ うと し、 「

錯 承 当禅 」 な る 分 類 を新 た に 提唱 し,

の 再評 価 を 試 み て み た。 「泊 錯 承

当禅

」 とは , 「 や う く自 己

完結

して そこに

けそ うに な っ た が, その よ うに な らずに

ん だ」 とい う意 味を

ん だ もの で , どこ まで も自已の 安 住の 地 を求め ない で, 無 限に 自 己を空 じて行 こうとする

設定

した もの で あ る。 この 「

泊錯

当禅

」 を

分 類

す るこ とに よっ て , 宗 密 が分 類 で きなか っ た石

を捉え るだ けでは な く 見 落 とされてい 禅 思 想の 魅 力が

直 しで きるの で は ない か と

え たの で あ る。 この よ うに 、 宗 密の 問 題は , 馬 祖 教 団と決 して無

で は ない し, 当時の石

頭 系

と も関わ りを もつ もの で ある。 三

 

堂 集 』 と雪 峰

団 をめ ぐ る諸問題

 

敦 煌 文 献に 比 して勝る と も劣らな い 発見 は , 『祖 堂 集

20

巻であ ろ う。

麗 版 大蔵 経の 蔵 外 補

と して 海 印

よ り発 見 され ,

1924 年

に 紹 介 さ れて注 目 さ れ るよ うに なっ た。

 

この 『

堂集

』 の

研究

も,

に よっ て

積極

的に すすめ られた 。 すなわ ち 「祖 堂 集 資 料価 値 ( 祖 堂 集本 文 研 究 (6’

B

に よ っ て本 格 的 な研 究 が始 まっ たの で ある。 それ が , や がて 『

堂集 索引

s3 冊 と な っ て一

索 引が

成 し62) ,

もが

便 利

使

用で き るこ と と な っ たの で あ る 。その

に , 『

語 録63) 』 の 抄 訳 もあ り, ま た従 来の 研 究に利 用 さ れて い た 『

景 徳

伝 燈 録』 に はない 『祖 堂集 』 独 自の 唐 代 禅の 魅 力 ある話 をつ ぎつ ぎに紹 介さ れ て来たの であ る が,

最近

に な っ て , 『

純 禅

時代

64) 』 『

続 純禅

時代

65 )』 『

の 山河 66) 』 と して , まとめ られて公

された。   柳田 氏 の 著作は , 従 来の 日本の 中国禅 宗 史の 研 究で 果 た され るこ との なか っ た 現

語 訳が何 と言 っ て も画

的で あっ た。 日本に は独 自の訓 読 法 が伝 統 的に

存在

するが,

の 語

の 中に は , 文 語 文では な く して口 語文 が沢山

ま れ て い る。 そ 一

491

(10)

中国唐宋代の 禅宗史研 究状況 と題 点 (石井) (

65

) れ故に 口語 文は, どう して も

来の 文 語 調の 訓 読 法で は 十 分で ない とこ ろ が あ っ た。 禅の 語 録の 現 代 語 訳は, 必要 欠 くべ か ら ざ る もの であ っ た 。 た とい 訓読 法が

踏襲

され た と して も, 最

語録

の訓

読法

は , 口

文 を活か した新た な 訓

法で

め ら れ て い る。 現 代 語 訳は , 異な る言語の国々 の 研 究をする場 合に お い て 当然で あ っ たの で あ るが , なかなか伝 統 的な殻 を破る こ と が で き なか っ たの であ る。

 

私 達が現 代 語 訳 を進め て行 く上に おい て, 強

な助

言者

を うるこ と が で きた。 それは,

田 氏と同 じ

花園

に お られ る 入 矢 義

氏で ある。 入 矢 氏は , 元

中国

専 門家

で あ り, 元 曲をは じめ と す る白話の

研 究

永年

に わ たっ て従 事 されて きた の で ある。

 

私は

1981 年度

1982 年度

2

年間

京 都 大

人 文 科

研 究 所

であ っ た

田聖山氏を指 導 教 授 と して , 内地 留 学 をする機 会 に 恵 まれ た。 その 時,

田氏の

究会

は も ち ろ ん

加 したが, 入

氏の

園大

の 講

をは じめ ,

文化

研究所

研究会

加す る こと がで き, 入

矢氏

指導

け るこ と がで き た。

 

入矢 氏は先ほ ど

た よ う 中 国文学が

門で あ っ た が, 氏の 話で は , 「 ちら が専 門か判 らない 」 と言わ れ る程に, 最 近の成 果は 禅 学に関 する もの が ほ と ん どであ る。 入

氏の 読み方が, 伝 統 的 な読み と どれほ ど異 なる か は, 今 年の 正

され た

岩 波文庫

の 『

済録

6’) 』 を, そ れ 以

出版

さ れ た

岩波

本の 日

済 宗

の 伝 統 的 な読み方 と比べ ば, 一 瞭 然で あ る 。

 

この 入

氏の 指

の 下に 出版 さ れ た現 代 語 訳が, 筑摩 書 房の 「 の 語 録」 の シ リー ズ

20巻

で 梶 ) , 目下

17巻

刊 行

わ っ て い る 。

の 成

も入

矢 氏

導に よ る ところ大 な る ものがある。 入 矢

義高

氏の 存

は ,

近年

の 中 国

の 研 究に 大 き くプラ ス に 作 用 した と言えよ う。 その 成 果 を踏 まえ た古 賀 英 彦 氏の 「禅 語 録 を読む た めの 基本語彙 初 稿゜S) 」 は , 便 利 な辞 書で ある。

 少

し話 が

横道

にそれ た ようで あ る が ,

び 『

祖堂 集

』 の

問題

り たい 。 『

堂集

』 の 成 立は, その 文 中に 「南 唐 保 大

10年

」 と記 さ れ て い る。 西 暦の

952

年に 当た る が, 「

唐 保 大

10

」 の

年号

は ,

重要

意味

を も ち あ わ せ てい るの で あ る。 『

』 の編 集は, 福

建 省

州 招

慶 院

禅徳

っ て な さ れ た 。

住持

は , 「

祖堂集

』 の

文の

者で あ る

修 禅 師 省 燈である。 この 招 慶 院の 省

は , 雪 峰

存 (

822

908

保福 従展

(? −

928

た る る。

(11)

66

中国唐宋代宗史研 究状 況と問題 点 (石 井 )

 

泉 州が南

に 支 配 され る 以前は , 五代十国の 一

と言 う国で あ り,

は 王 氏一族の

配 す る と こ ろ であ っ た。

で も, 忠

王の 王審 知は, 大

仏 家で あっ た が 、 この 王審 知が

保護

した

禅 宗教

団が,

雪峰 義

存の

団で あっ た。

 

柳田氏は , 「祖 堂 集 資 料 価 値 一の

で ,

の 王

禅 宗

関 係 を詳 しく

じてい る 。 ま た

招慶省燈

もで き うる限 り推 測 して検 討 を加 えたの である が, い ま 一

南唐

」 と 『

祖堂集

』 の 関 係 を

か め ること がで き なか っ た の であ る 。

 

論 文の 「泉 州 福 先 招 慶 院の 浄 修 禅 師

省燈

と 『祖 堂

69) 』 」 は , 『

志』 に あ る招 慶 省 燈の 伝 記7°)をて が か りに ,

南唐

と 『

』 の

係 を よ り詳 し く論 じた もの で あ る が, 特に 『

』 と泉 州 刺 史 留 従 効の 関 係や 『祖 堂 集』

12

の 記

が極め て 多く記 され て い る こと を述べ あ る 。 こ の 私 の 成 果 は 、

の 『

文化

7D 』 の

解説

問題

に され てい る。

 

こ の 課 題 は , さ らに

日談 が あ る 。こ こ に 同席 し てい る北 京大学 留 学 中の 小川 隆氏が, 留 学生 の 旅 行で泉 州 開 元 寺 を訪れ , そこ で購入 した 『泉州 開 元寺 志 』 と 『紫 雲

士 伝 』 を私の 所へ 送っ て くれ た 。 そ れ 以

に 私は 『

志』 に よ っ て招

慶省燈

の没 年だけは確か め て い たの で あ るが

推測

づ い た。 と こ ろ が, 驚 くべ き事に , 『紫 雲 開 士 伝 』 に よれ ば, 生没年が

892

972

判 明 るの である。 これ が正 しけ れ ば, 私の

884972

の 説は

め な け ればな ら ない の で あ る。 ただ, 『

紫雲 開

』 の

招 慶省橙

の 示

子は 十

信頼

で きる が, 世

寿

81

を その ま ま認め る とすれ ば, 玄 沙 師 備 と の 関 係 な ど が不 明に なっ て 来 て ,

問題

る よ うである。

 

さて ,

雪峰

題 を

し別の

角度

か ら

言及

してお き たい 。 『

祖堂集

』 の

に は あ る話

して, 別の 人 が コ メン トしたの が 記

されて い る 、 これ を 「 語」 と総 称 して お きたい 。

 

この

した人々 を分

した

は, ほ とん ど

雪峰 教 団

の 人々 で あ る と す る。

方法

で ,

1004年

立 した 『

景徳伝燈録

』 の

著語

分析

する と,

終 的に

した人 達は ,

眼 宗の 人々 に 限 ら れ る。 私は大

院の

代に, 柳田

の 成 果を応用 して , 『景 徳 伝 燈 録 』 を分 析 したの で あ る が , その 時の 成 果を踏 ま え て , 『

代禅

宗 史の

研究

』 の

第 1 章

の 「『

景徳伝燈録

』 の 歴

性格

」 を

い たの で ある。 『

景徳

伝 燈

』 の編

は ,

眼 文

885

958

の 承 天

道原

であるか ら、 当然の 結 果で あろ うと思わ れ る。 法 眼 宗の 教団は呉 越に 発 展す るが, その 地 一

489

 

(12)

国唐宋 代禅宗 史の研究状況 と題 点 (石 井

67

) を支 配 した

氏一族の 呉 越 と 『景 徳 伝 燈 録 .1 は深 く結びつ い てい こ と は予想 さ れ る の で ある 。分 析の結 果 も, その 通 りで あ っ た。

 

とこ ろで, 『

燈録

a の

成は, 五

に 分 類さ れ た

特色

を もっ てい る 。 そ して, その

に 成 立す る

著述

に は, 五

の 分 類を前

と す る もの が

くあ る。 た と えば 、晦

巌智

昭の 『 』 な どは, その 代

的な

著述

で あ る。 さ らに , 一 般の辞 典

宗の

に は , 必 ず五家に つ い て

べ ら れ てい る。  その 内 容は , まず 湖 南 省で瀉 山霊 祐 (771 −

853

) が活 躍 し, その 弟 子の 仰 山 慧

(807 − 883 ) が江 西

活躍

し, 五

家最

初の

仰 父 子に よる

が 成 立 した, と

さ れ るの が通 例で あ る 。 その

西

に お い て

良价

807

869

) と曹 山 本 寂 (

840

901

)に よ る曹 洞 宗が, 河 北 省に おい て臨 済 義 玄に よ る臨 済 宗 が唐 末に 成立 す るの で あ る。 や が て五代に なっ て, 広 東

に 雲 門文偃 (

864

−−949) に よ る

雲門宗

が成立 し,

最後

に な っ て江

蘇省

の 金 陵に

根拠

をもっ た

法 眼文益

眼 宗が成立 して, その 門下 は

に 大 きな

勢 力

を もつ に 至 るで あ る 。大体 , 五 家の説 明は , こ の よ うに な さ れて き たの であ る。

 

五 家 を分

したの は ,

眼 文 益の 『宗 門 十

』 が最 初 と言わ れて い る。 その

内容

は 極め て便 宜的 な分 類であっ たの で ある が, そ れ が

くの人

に 伝え ら れ る こ とに な っ た。 私は, こ の よ うな 五

の 分 類で , 禅 宗 史を捉え るこ とに 疑 問 をも ち, 「

72) 」 の

文 に

問題提起

を して み た。

  法

眼 文 益は ,

今述

べ た よ うに , 五

年代

を異に し, さらに

地 域

に して,

か らだんだんに 法 眼 宗 まで成 立 した こ とを述べ 。 私は そ う で は ない と思 う。

眼は 金 陵に

る前に 江 西

省撫

山 に 住 持 して い た。 そ の

, その

辺に は ,

本 寂

の 洞 山

恵敏

(? −

948

) が

曹洞宗

慧 寂

子 の 山光 湧 (

850

948

) が瀉 仰

を, 灌 渓 志 閑の 弟 子の 雲 蓋 懐 濫 (

874

934

が臨

済宗

を, 広

東省

韶 州に

雲門

文 偃が

門 宗 を, それぞれに宣

して い るの を 目 の 当た りに て,

己の

団 を加えて

分類

した もの と

え る。 そ れは ,

眼が

山に 住 持 した と考えられ る

924

年か ら

928

年の

山の 周 辺

禅 宗

教 団勢 力で あ っ た と思 うの で あ る。

 

こ の こ と を認め う る とすれば , 五

の 分 類は , 北 宗 禅と南宗 禅以降に 生 じ た南

分派活動

程と

える の は , 反

省す

べ きで あ ろ う。

雪峰義 存

822

− 908 ) と

趙州従 論

778

− 897 )の

分 類

も必

であ ろ う。 また全 く判 らない が,

州 と

済の

明す る必要が あ り, 私の 試み た

金 鋪 と雑

鋪の 分 類な ど, 今 後に

(13)

68

) 中 国唐宋 代の 禅宗史の研 究状況 と問題点 (石井)も試み られて い い か と思 うの で あ る。

 

こ れ らの 問 題 と関 係 する 日本に け る中 国

禅宗史

研究

欠 点

に つ い て も一言 付け 加 えて お きたい 。 日

で は ,

宗派

と して

と臨

宗が現 存 して い る。

宗 史の研 究は ,

に も述べ た よ うに , そ れ ぞ れの

派に所

して い る研 究 者に よ っ て鋭

続 け ら れて きた。 その

研 究者

が宗 派に 所 属 する こ と か ら, 他の

と は 比べ

らない 情 熱 を もっ て解 明 しようとする よい 面が あ る一

で ,

自派

の 系 譜 を遡 及 する極め て狭い 宗 派 研

が生まれ た こと も

事実

である。

 

そ れ故に

洞宗や 臨

宗の

法 系

禅 者の 研 究が遅れ た と言っ て よい で あ ろ う。仰 山

慧寂

雲門文偃

な どの

研 究

に よ い

果が な かっ たの も

事実

で あ る。 その 点で、 入

矢義高氏

の 「

雪峰

と玄

73) 」 の

論文

は ,

雪峰

とその 門 下の 玄 沙 師

(835 − 908) や雲 門文偃を取 り 上 げ た もの で, 興 味 深い 成 果 で あ る 。特 に 玄 沙に も

門に も思 想の 深 ま りが段 階的 に 認 め ら れ る と言 う発 言は注 目 し て よい と思 われ る 。同 じ入

氏の

仕事

と して , 『玄

』 の 訳 注 本が上 ・ 中の 二 冊 出 版 さ れ て い る し74) 下 冊 も

い てい る 。 さらに 『南 泉

』 の 訳注

も刊 行 の

準備

と聞い てい る。

 

二 の

問題

に つ い て, 最 後に 一言 加て お き たい こ あ る

逸書

の 中で発 見 され るの を望 む とすれ ば

か , と い う

質問

が も しあっ た とすれ ば, 私は 南嶽 惟 頸が撰 述 した 『続 宝林 伝

4

巻だ と

え たい と

えて い る 。 こ の本は, き っ と

禅 宗

魅 力

載 してい る こ とで あろ う。 中 国の どこ かで,

発 見

され る こ とをひそかに

期待

したい 。

 

発 見を

っ て, こ の 分

研 究

を お ろ そかに でき ない が, こ の 『続 宝 林 伝

4

巻に 関 係 す る重 要 な課 題が ある。 それは , 『

伝 燈

』 の

編 者

の 承 天

原は , 『祖 堂 集 』 の

存在

を知っ て い た か どう か と

問 題

であ る。 現 在の段 階で は, 知 らなか っ たで あ ろ うと

わ れて い る。

 

しか し共 通の

共 通話 題は, 恐 ら く共通の原 典 があっ たの で は ない か, と想

され る が, その共 通の原 典の 一 続 宝林 伝 』 が考 え ら れ るの で あ る 。 この 問 題興 味 深論 文は , 椎 名宏 雄 氏の 「『

集』 の 編 成75)」 で あ る。 『

集」 の 独 自の 説で ある

雲巌 曇

晟 (

780

841

)の 「

未 悟

」 の

問題 を含

め て, 『

祖 堂

集』 の 性 格の 分

は ,

後に ま だ続け な け ればな らない で あ ろ う。 四

 黙

と看話 禅 をめ ぐる諸 問 題 一

487

(14)

中国唐 宋代の 禅宗史の 研究状況 と題 点 (石井)

69

  先

に も

た よ

曹洞 宗

らか に したい と

う気

ちが強 くあ る。 日

本 曹

祖の

師は , 中 国 禅 を沢 山批 判 して い る。 その 問題は ,

四 の 問 題で, まとめ て後に 述べ たい が, こ こ に取 り上 げよ うとする黙 照

に つ い て も, 道 元禅 師は 言 及 してい る。

 

黙 照

を 大成 し たの は , 宏

正覚 (

1091

1157

) と言 う曹洞 宗の人で あ り, 看

話禅

大成

し た の は , 大

慧 宗杲

1089

1163

) と言 う臨

済 宗

で あ る

の流れ を主張 する道 元

師は, 当然の こ と と し て, 宋

評価

さ れ る大

慧 宗

杲 を否 定 して, 宏 智 正 覚の 方 が大 慧 宗 呆 と は比 べ もの に な ら ない 程す ぐれ た 人 で あ る と, 『

索仙 陀

婆7E )』 の

べ て い る。 当然 と言っ たの は , 宗 派 に

属 す

人 を高

評価す

るの は ,

自然

の な りゆ きだ か らである。 た だ

べ る よ うに 道 元禅 師は 宗 派 禅 を批 判 し てい るの で こ の 表 現に は

題が

ろ う。

 

と ころで , 道 元 禅 師の評 価は別 と して も, 宋 代

を代 表 する人は, 大

慧 宗杲

で あ り77, その 大 慧が大 成 した

, あ るい は 公

案 禅

とい う もの は,

唐代

に は な か っ た

宋代禅

徴で あ ろ う。大 慧が

を大

した後の 禅 思 想は , その 歴 史 を一変 し,

話 禅の 隆 盛をみ るに い た り, や がて中 国 禅の 性 格 を決 定づ けて行 く こ とに な る。 大

は ,

性格

に , 大

経 験

を 大 き く

入 したの で あ る。 その経

段 階

的に

追体験

方法

と して、 公

を用い た の である 78) 。

 

こ の方 法は、 大 慧 自 身も

べ てい る が, 修 行 者 を大悟 させ るの に大 変 効 果 的で あ り, その 指 導 経験 を通 して大 慧は 自信 をもっ た方法 と して採 用 して行 くの で あ る。

代表

的な 公

が, 「

の 公

」 で あ る。

 

強調

す る大

に とっ て ,

大悟

を認めない

集 団

は , に がに が しい 存

で あ っ た 。 その 最 も大きい 集 団が,

照 禅 を 主張 する曹 洞 宗であ っ た の で あ る。 そこ で , 大 慧は しきりに 悪口 と して 「黙 照 邪 禅 」 との の し り攻 撃 した 。 大慧以降に お い て も, 臨 済

の 看 話 禅 を

ずる人々 に よ っ て , 黙 照

邪禅

判はずっ と

承さ れたの である。

黙照

攻撃

は,

臨済 宗

か らの

へ の

批判

であ り, 二 つ の

集 団

は破

的 な 対 立 を くりかすこ とになるの で ある。

 

先に

た よ に ,

洞 宗に 属 する道 元禅 師は , 逆に 大 慧 をは じ め とする臨 済

批判

した。 中 国に おい て は ,

洞 宗 も

り入 れて

変化

して行 くが, 日

で は ,

力が臨

済宗

力 を上回 っ た し,

性 格

済 宗

と し て主 張 するの が 主 流で あ っ た か ら, 江 戸

時 代

の 面山

瑞 方

1683

1769

康 普 説79 ) 」 な どは , 明らか に 大

慧批 判

を く りか え してい る。

(15)

70

) 中国唐 宋代の禅 宗 史の研 究状 況と問 題点 (石 井)

 

大 慧 に は , 沢 山の著 述がある。 大 慧の 主 張は , は っ き り してい る こ と も あ っ て, 多 くの 人 達に 直 接 に 受 け入 れら れ て

っ た。 『

慧書

8°) 』 は , 大

士 に

え た

手紙

で あ る が, この

に も

んでい た居 士 を大 慧の 主張の 方へ 導 い て

っ た こ と が うか が え る。 大 慧は 出家

だ けで は な く, 一知 識 人へ 影 響 をあたえた81) 。 大 慧の 看 話 禅は, 朱子に も影

を与え たの であ る 82 ) 。

 

著作

は ,

く入

した こ と も

手伝

い , また 『大 慧

』 が

流 行

し た こ と も あ っ て, 比較的 正 しい 評 価 が与え られ , 研

さ れて

たの で あ る 83)s‘ 。   しか し, 大慧の 批 判 した相 手の 黙 照 禅の 研 究は十 分で はなか っ た。 駒 沢 大 学の

総長

もつ と め た

宇井伯寿 氏

する イン ド哲 学や イ ン ド仏 教の 大 家であ る が, こ の

井 氏に 『禅 宗 史研 究

3

冊 の 著 作が あ る。特に 『

禅 宗

史 研 究 SS) 』 は , 曹 洞 宗 を 中心 に 述べ た もの で , 宋 代の 曹 洞 宗に つ い て も言 及 して い る。 これが従

宋代

洞 宗の研 究 成 果の 中で最もす ぐれ た もの で あ っ た。

 

と ころ が,

宇井

氏の

研 究

に は ,

宋代

の 基

的な

資料

が ほ と ん ど

活用

さ れ て い な か っ た 。 私は 「 『攻 婉集』 に み ら れ る

料ac)」 の 論文 で宇 井 氏の 成 果 を全面 的に め るこ とがで きたの で あ る。

 

私が こ の 論 文で新た な 資 料が活 用で きた の は , 陳垣 氏の 『釈 氏

疑年録

』 が あ っ たか らで ある。

垣 氏の

研 究

の 広 さと

資料批判

に は ,

驚嘆

してい る 。

 

さ らに

い な こ とに こ の論文 と同

時期

に, 日本の大 分 県の泉福 寺に所 蔵 さ れてい た

宋版

の 『

宏智録

』 を調 査 し、 「

録 考

8η 」 の 論 文で発

する こ と がで きた。

に この 宋

の 「

智 録

6

冊は, 江 戸

時代

流布本

対照

した

影 印

と して

名著

普 及

か ら刊行で き たの で あ るSSJ。   柳田聖 山氏 も宋 代 禅の論 文 を書き, 黙 照 禅の性格 が しだい に明らか に な っ て き たS9)9°)。

は 「

慧普覚禅師年譜

研 究

91)」 で大

慧宗杲

伝記

検 討

した。

同時

宏智

や 兄

子の

了 (1088 − 1151)の

を重ね

せ て検 討 して

く う ちに92) , 大慧が 黙照 邪 禅 と して攻 撃 した最大の 相 手は , 福 州 雪 峰山の 真歇 清 了の指 導 する曹洞 宗 教 団で あ るこ と が判っ た。 大慧は その 黙 照 邪 禅の批 判 を通 し て,

を形 成 して行 っ た こ と が明らか に な っ たの で あ る 93)94)95)96)

 

曹洞 宗 教 団の解 明は , 現 地 調 査 を重ね る うちに , 新た な知

も増えて きた。 今 回 の 私の 中国 訪 問は, ち ょ う ど

10

回 目に あ た る。

1979

3

月に 駒 沢 大 学 第

1

次 中

国仏教 史蹟参観 団を結成

し,

昨年

10

回 目の

訪 中

た した。 こ の

して い る

永井政

は , その

駒沢

学訪 中団

10

回 すべ てに

加 した が,

京都

へ の 一

485

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