(
56
) 駒澤大學佛教學部 論集 第20號 平成元年10 月中 国
唐宋代
の
禅 宗
史
の
研 究 状 況
と
問題 点
石
井 修 道
一 は じ め に私は 一昨
年
と昨 年
に二 冊の著
書を刊行
する こ と が で きた。 一 つ は , 『宋代 禅宗
史の 研 究1)』 で あ り, 他の 一 つ は , 『中国禅
宗 史話真 字 『正法 眼 蔵 』 に 学ぶ2)』 で あ る。 私の それ らの 著の研 究の課 題 も, 本 日発 表す る 「中 国唐 宋 代の
禅 宗
史の 問題」 であっ た。 こ れ らの 二 つ の著作
を刊行
した後
も, その研 究
課題
をつ づ け た い と考
え て, その後
に もい くつ かの 論 文 を書
い た。 その 間に, 私の 研 究 分野
に対
して、 私の 研究
仲間
か ら厳 しい問
題を私 自 身につ きつ け ら れ て お り、 決 し て安 閑 と し て今
まで ど うりに 研 究を進め て行け ない 現 況に 立 た されて い る。 今回の 発表
は 、私
の 二 つ の著作
に述
べ た とこ ろ と大い に 重 複 す るところ もあるが, 四つ の柱
を立て て進め た い と思 う。そ もそも, 中 国
禅
の 近 年の 研究
は, 今回の 田中 良昭氏の 発 表に あ るよ うに ,敦
煌
文 献に 目が向け られて来た。 その 中で ,何
と言
っ て も最
大の研究成 果
は, 胡適
氏の荷
沢神会
(684
−−758
)の 解 明で あ っ た 3)と 思 う。私 達が伝 承 し て きた禅 宗開祖
の 菩提 達 磨に して も, 禅 宗六 祖の曹 渓 慧 能 (638
〜 713 )に して も,荷
沢 神会
を抜
きに して考
え るこ とはで き ない 4)5)。菩提
達
磨と梁の 武 帝が出会っ て 問 答 をし た とい う話は , 「菩 提達
摩 南宗
定是非
論」 の 独 狐沛
の序
に言
うよ うに ,荷
沢神会
が創作
した もの で あっ て,神会
以前
に あ っ た話を神会
が伝
え た もの では ない 。ま た, 六
祖 慧能
の伝
記や思 想
は , 「六祖壇 経
』 で しば しば語
り伝え られ て い る が, 六祖 慧能
の弟
子である荷沢神 会
が, その 六祖慧 能
の思想
を, 『南陽
和 上頓
教
解 脱禅 門 直 了性 壇 語』 に 受け継い だの で は ない。事
実は全 く逆で あ っ て , 『壇 語
』 一499
一中国唐 宋代の禅 宗 史の研 究 状況 と問題 点 (石井) (
57
) か ら 『壇
経 』 へ と成
立 した もの であ る。 私は , 敦 煌 本 『六 祖壇 経 』 の 最 近の 研 究 につ い て は , こ こ に 同席
して い る 小川 隆 氏の 論文 に注目 してい る 6)7) 。この よ うに
敦
煌 文献
の砺究
成果
は ,荷 沢神会
の解 明
が飛 躍
的に進
ん だ こ と が第 一 に あ げ られ る と思 わ れ る 。敦
煌禅
籍は , もち ろ ん荷 沢神
会の 時代で終わ る訳で はない 。 今回 出席
してい る岡部
和 雄 氏は , レ ンニ ン グラー ドの オル デ ン ブル グ ・ コ レ クシ ョ ン の 中の 『景 徳 伝 燈 録』 巻11
の 写 本 を調 査 し, 報 告 してい る 8) 。 『景徳
伝 燈録
』 は , 北 宋時
代の1004
年
に 一応の完
成 をみ た もの で あ るか ら ,時代
はずっ と下るの で あ る 。荷沢神 会
に関
す る敦
煌文献
よ り後
の もの もこ の よ うに確
か に存在
は して い る。 中で も, 四 川 地 方の 禅 宗 史 を解 明 す るに は 欠 くこ との で きない 『歴代 法
宝 記』 や , 田中 良 昭 氏がパ リの フ ラン ス 国民図 書 館で発見
し, 紹 介 したペ リオ本3913
号
は ,禅
宗の 歴代
の 祖 師の 伝 燈 を密教
的に 改変
した 文献
で極め て興味あ る もの で あ る9)。 し か しな が ら, 次の よ うなこ と が言え るの で は ない か と思 う。 周知の よ うに , 六祖 慧 能の 門 下の中で, 永 く法 系が継 承 さ れ て い くの は , 青 原行
思 (673
−741
) と南嶽懐 譲
(677
−744
)の 二 人 の弟
子で あ っ て ,荷 沢神 会
の系
統 は , 一時
的に 栄えて も ,唐末
に は衰
亡 して し ま う。青
原行
思 や その弟
子の 石頭希
遷 (700
−791
) お よ び南嶽懐 譲
や その弟
子の 馬 祖 道一 (709
−788
)の教
団の 動き や 思 想 を解 明 す る た め に は , 敦 煌 文 献で は で き ない と言 うこ と で ある。 私の発 表 は , そ れ故
に , 田中良
昭 氏に 続い て , 石頭 希
遷や馬 祖 道 一の禅 宗教 団
よ り ,南
宋 の滅
ぶ1279 年
までを問題
に したい と思 う。 この 間に は, 大 きな 問題は い ろ い ろあるが, 先に も述べ た よ うに 四 つ の 柱 を立 て て み た。 四つ と言
うの は, 次の よ う な もの であ る。一 , 「
宝林伝
』 と馬祖教 団
を め ぐる諸 問題
二 , 「祖 堂 集 』 と雪 峰教 団 をめ ぐる諸 問題三 , 黙 照
禅
と看
話禅
をめ ぐ る諸問
題四, 中 国
禅
と道
元禅
を め ぐ る諸問題
こ れ らの 四つ の
事柄
に つ い て , その 主 な研究成
果 を 示 し, 私に とっ て問題
とな る とこ ろを指摘
し, で き る限
りにおい て ,残
された課 題 と私と の かかわ りを述
べ て み たい 。従
っ て ,今
回 の発表
は ,極
め て個
人 的 な関
心の強
い問題
もあっ て , 必 ず しも唐
(58 ) 中 国唐宋 代の 禅宗史の研 究状況 と問題 点 (石 井 ) 宋 時 代を網 羅 的に 述べ た もの で は ない が , か と言っ て , 唐 宋 時 代 を
考
え る場 合に おい て, 決 して避
けて通る こ との で き る もの だ とは , 私は考
え て は い ない 。 二 『宝林 伝』 と馬 祖 教 団 をめ ぐ る諸 問題私は 日
本曹
洞宗
の僧 籍 を もつ 身で あ る。 中 国 と出家 事情
が異 なっ てい る の で 、奇異
に感ぜ られ る か も し れ ない が, 私は 日本
の道 元禅
師 (1200 − 1253)の教
え を 信 奉す る者である。 最 初に こ の よ うに 述べ たの に は 理 由が あ る。近
年
の禅
宗
史の研究
は ,言
う な ら ば, 歴 史 的事
実の解
明 を優 先させ,禅宗教 団
の成
立過程
よ り,虚構
をあ ば くこ とに急性
で あ っ た。学者
の中
に は ,虚構
をすべ て切 り捨て よ うと し た 人 もかつ て はあ っ た。 現在
で は 「虚構
」 と言
わ れ る もの も, 歴 史 的 な産 物で あ り, その 意 味づ けが問わ れ , や せ細っ た歴 史観が 改め ら れ て , 総 合 的 な研 究へ と進んで い る。 もしも, 歴 史 的 事 実 だけ を追 求 し, 虚 構 を捨 て て し ま えば,初期
の 中 国禅
は ほ と ん ど無 くな っ て しま うで あろ う。た と えば , 先に 取 り上 げ た禅 宗開 祖の 菩提 達磨 と
梁
の 武 帝の 出会い は , 歴 史 的事実
で は ない 。 これ を歴 史的事実
だけ を優先
させ て捨
て て し まっ て も,何
の意味
もない こ とに な ろ う。 こ こ で 言 う歴 史的事
実とは , その 話 を荷沢神会
が創作
した こ とを明 ら か に し, い かな る意 図で創 作 し た か を探 り, その創作 が どの よ うな意味
を もつ か を研
究 する必要
が あ る と言え よ う。宗教集 団
に属
する私達多
くの 日本
人学者
は , それ故
に ,従来
は集団
の伝承
を破
壊 され るこ と を恐れ, ただ盲
目的に既 成 事実 を維 持 するこ とに 一生懸
命で あ っ た こ と もあ っ た。今
の 私達
は , 過 去に その よ う な態度
を取 っ た学 者 と 一線
を画 して い る。 私達
は , まず第 一 に 禅 思 想の もつ 魅 力を十分に解
明 したい と考
えて い る だ けである。恐 ら く禅 宗に
対
して何 ら の 信 仰 を持
ち合わ せ る こ との ない 多 くの 中国の 研 究 者 の方
々 と私達
とは ,研 究方法
や そ れ よ り出て く る成 果 との 間に は , 大 きな差 異は ない もの と考 え る。 た だ私 個 人に とっ て は , そ れの み で は ない こ と は ,後
に 述べ たい と思 う。禅 宗で は , 仏 教 を開かれ た釈 迦 牟尼 仏か ら中 国に
禅
宗 を伝え た菩提
達 磨の 間に代
マ祖 師へ と教
え が伝わ っ た と し,菩提達磨
を28
代 目に数
えてい る。 中 国や 日本 に 伝え られ てい るの は , 北 宋時
代の1004
年に成 立 した 『景徳
伝燈録
』 の 説に基
づ い て伝 承 してい る もの で あ る。 一 497 一中 国唐 宋代の 禅宗史の 研 究状 況と問題 点 (石 井 ) (
59
)実
は , こ の西 天28祖説
を確
立 したの は ,801
年
に 成 立 した 『宝林 伝
』 が始
め て で あ る。 この 西 天28
祖 説が どの よ うな紆 余 曲 折 を経 て成立 し た か は , 敦 煌 禅 籍に よっ て 始め て明ら かに さ れ た もの で あ っ て, これ ま た近 年
の禅宗 史研 究
の最
大 の成
果で ある。 この こ とを中
心 に ま と め たの が,中国禅宗史
の名著
で あ り,今
や古
典 と言
っ て も よい の が,柳
田聖
山氏
の 『初期 禅宗史書
の研
究’°) 』 で あ り、1967
年
5
月に 公刊 された 。 こ の 著は , この 分 野の 研 究 を進め る人に とっ て絶 対に 欠 くこ との で きない もの であり,研 究
を深め て い くほ ど,残
さ れ た課 題に つ い て も沢
山の問 題提起
の 指 摘 が随所
に発見
で き る もの で あ る。 この著
は, 西天28
祖説
の完 成
で あ る 『宝林 伝
』 で もっ て 初 期 禅 宗 史が締め く くら れ てい る。 それ だ けに , 『宝 林 伝 』 が 占め る位
置
は重
要で あ り, 私 も 『宝林
伝』 の出
現は , 禅 宗の 歴 史に おい て 画 期 的 な もの で あ る と思 うの で あ る。とこ ろで , 『宝
林
伝 』 は , 「釈
門正統 』巻
8
に よ る と, 遼の 道宗
が 詮暁等
に 経 録 を定
め させ て偽妄
の書
だ とし, V 六 祖壇
経g と共に焚
い た こと が伝
え られ , その影 響
もあっ て か永い間
, 多 くの 人達
に利 用 さ れ る ことは なか っ た 。とこ ろ が, 周 知の ご と く,
1932
年に常
盤 大 定 氏が 京 都 粟田 の 青 蓮 院にお い て、 その巻 6
を発 見 し,後
に研究
した 【’) 。 一方
,中 国
におい て も,翌年
の1933
年
に 山 西省
趙 城 県広勝 寺所蔵
の金版
大 蔵 経の 中か ら, 『宝林 伝
』 の巻 1
よ り巻
5
まで と,巻
8
の都合
6
巻
が発 見
された。 それ らは ,1935
年に , 上海の 影印
宋版 蔵 経会
か ら 『宋 蔵 遺珍
』 と して出版
さ れ た もの で あ る 12) 。中国の 初
期
の禅 宗史
の研 究者
に とっ ては ,未発見
の巻
7
と巻
9
・10
の3 巻
を研究
で きるこ とを強 く望
むの で あ るが, そ れは今
の とこ ろ実現
してはい ない 。 日中
の研
究 者の 協 力に よ り, 残 りの3
巻が発 見 さ れ るこ とは 充分に あ る もの と私は考
えて い る。こ の よ うに して ,
現存
する7
巻
の研究解 明
は ’3川 )’5)’6) , 田中 良昭氏
を中
心 とす る我
が駒 沢 大 学 禅 宗 史 研 究会
に おい て 目下訳注
本を出版
して お り,現 在
の とこ ろ ,巻 4
ま で既に 出版 を してい る17) 。 この 駒 沢 大 学 禅 宗 史 研 究 会 は, それ 以前
に , 『慧 能研
究一慧能
の 伝記 と資
料に関
す る基礎
的研
究ls) 』 を 出版 してい る。それ で は , 『宝
林
伝 』 は , い かな る人 々 に よ っ て, 何の た めに , どの よ うな経過
に おい て作
られ たの で あろ うか。 この 疑 問の解 明に は , その 研 究に か らむ種々 一 一(
60
) 中国唐宋代の禅宗史の 研究状況 と問 題 点 (石 井) の問題
を解
明 し た 上でなけれ ばで きない の で あ るが , 中 国禅 宗
史の研
究の 上 で は ,最
も興味
深い問 題の 一 つ で あ ろ う , と私は思 っ てい る。現 存す る内 容か ら考え ら れ る撰述の 目的は , 一応の 定 説を 見て い る 。 な んの
為
に 『宝林
伝 』 が書
か れ た かは,禅宗
の開祖
であ る菩 提達
磨が, 釈尊
の 教 え を正 し く伝
えた第 28代
目の祖
であるこ とを確
立 す ること で あ っ た と言
え よう。 こ れ が,第
一 の撰
述の 目的で あ り, い ま 一つ の 目的が あ る と考
え られ るが , その こ とは後 に述べ たい 。菩提 達
磨 を開祖
に祭
り上 げ た集
団は, い わ ゆる の東 山法 門の 正 系 を主張 する北 宗 禅の 人々 で あっ た と言 っ て よい 。 や がて ,中国
に お い て ,荷 沢神会
の出現
は, 菩 提 達 磨の 正 系の 第7
祖 と は誰で ある か , とい う大問
題 をか か げ るこ とに な る。 それ は , 第7
祖 と は , 神 秀 (606
? −706
) の 弟子 で あ る普寂
(651
−739
)では な く して , 外 ならぬ 慧 能の 弟 子で あ る 自分 だ, と言
うの が ,荷沢 神会
の 主張
で あ り,伝
衣説
を根 拠 に強 引 な まで の 論 戦 を始め たの であ る。 普 寂が第7
祖で あ る こ と は , 長 安 ・洛 陽の 人 達に とっ て 当然の こ と と思 わ れ てい た し, 荷 沢 神 会の 主張は 最 初か ら認め られ る もの で は な か っ た。と こ ろ が, 唐
代
を 大 き くゆ る が す安禄
山 ・ 史思 明の 反 乱 が起 こ り , この 反 乱に よ っ て北 宗 禅の 支 持 基 盤が崩
壊 し, かえ っ て この 反 乱に乗
じた荷沢神会
が 反乱
平定
の為
の軍資
金を香水銭
で献納
する こ とに よ っ て活躍
したの で ある。 結果
的に は ,安
史の乱
は 終息
に向
かい ,普寂
と神会
の 立 場は逆 転 し, 完全に荷
沢神
会が第
7
祖となっ たの である。荷沢神会
の第
7
祖
の確
立は,第
6
祖
が慧能
で ある こ とを 意 味 してい た。神会
の活
躍に よっ て ,菩提達
磨か ら第6
祖 慧 能は, 不 動の もの と なっ たの で ある。神
会は , 釈迦牟
尼 仏 か ら菩提達 磨
まで の 祖 師の代
数は , 『達
摩多羅
禅経序
』 に基
づい て8
代
しか考
えず,慧能
までを13代
と数
えて い た。 その後 に 神 会の 影響 を承 け な が ら, 『付法 蔵因縁伝m の24
祖 説 を取 り入 れ た 『歴 代 法 宝 記 』 な どの 説が 生 ま れて来
る こ とに な るの で ある 。周知
の よ うに , 『付法蔵
因縁伝
』巻 6
で は 、 第24
祖の 師 子は, 弥 羅堀
王 に斬 り 殺さ れ た こ とに なっ てい る 。 その 説を 認め る と, どうし て も菩
提 達 磨 まで法は伝
わ っ て こない の で あ る。 『宝 林 伝 』 は , 神 会の伝 衣 説 を利 用 して, 師子 が殺 さ れ る前に 婆 舎斯多に 僧 伽 梨 衣 を証 拠 と して法を伝え た こ と を創
説す るの で あ る。 こ れに よっ て,師子
と婆舎斯 多
の 伝法
を確
立 す る と共
に ,新
たな婆須蜜 系
の西 天28
祖 説 を主 張 したの が 『宝林伝
』 で あ り,前
に 言 っ た ように その 説は現在 の禅
宗教
一495
一中 国唐 宋代の禅 宗 史の研究状況と問題 点 (石 井 ) (
61
)団
に まで受 け継が れて来
たの で あ る。西天28祖
に法
が伝わ っ た ことを証明
する も の と して , 『宝 林 伝 』 で は , 伝 法 偈を根 拠 に した 。 この こ と を論 じ た す ぐれ た論
文 が, 水 野 弘元氏の 「 伝法偈
に つ い て19)」 で あ る。 水 野 氏は, パ ー リ仏教
の 研 究 に おける世 界 的 な権 威者
で あ り,我
が駒
沢 大 学の誇
り うる偉
大 な 学 者で ある が, 水 野 氏に は , 初期
の 禅 宗 史に 関 するす ぐれ た研 究が沢山 あ るの で ある。 今 紹 介 し た もの もその 一 っ で ある。 水 野 氏の 論 文は , 柳田氏の 研 究に も大 き な影 響 を与え た。 その 結 果, 敦 煌 本 「六祖壇
経』 と 『宝林
伝』 の前 後関係
が確 定
し,敦
煌本
『六 祖壇経
』 に あ る 「伝衣
付法
頌」 を ヒ ン トに して , 『宝林伝
』 は 「伝 法偈
」 を根 拠
に 西 天28祖
を成
立 し た と言
うの で あ る2°)21) 。禅宗
の 伝 衣に よ る6
代
相 承の 説 その もの は荷
沢 神会
の創
作で あ る が, 『六 祖壇
経』 は , 六祖 慧 能で留 まっ た伝 衣 に 代わ る もの と して , 『六 祖壇
経 』 その もの を 伝える人 を慧 能の 正系
と主張 し た の であ る。 こ れは 『六祖壇
経 』 が伝 授 本であ る と言
う主 張である。 伝 授 本 説は既に 伝 衣 説の批 判発
展で ある が, その後
に成 立 し た 『宝林
伝』 は ,敦
煌本
『六祖壇
経 』 の東
土6
代の伝 法 偈 を発展
させ 、 さ らに 西 天28
代の伝 法偈
説 を創作
したの で あ る。 以上の紹 介に よ っ て 『宝 林 伝」 の撰 述 目的の 一 つ は理解 され たと思 う。 それ で は , 他の 一 つ の 撰 述 目的 と は何であろ うか 。禅 宗
の 自派
の系 譜
の 正 統 性 を主 張 して 編 集 され た著
作 を, 禅宗 史
の 研 究 者 は 「燈 史 」 と呼 んでい る。柳
田聖
山氏の名
著の 『初 期 禅宗
史 書の 研 究』 の 基 本 的な 構 想は ,1954 年
の 「燈 史の系
譜22) 」 とい う論 文で す で に提
示 さ れ てい る。 こ の 「燈 史 」 とい うの は , 自派の系
譜の 正 統 性 を主張
す る とこ ろに その 特 色がある か ら, 「燈 史 」 の 一つ であ る 『宝 林 伝』 も最終 的 な系 譜 を確か め るこ と が で きれば, それ を 主張す る集
団が どの系
統であ るか が判
るは ずで あ る。 『宝林
伝』 の場合
, 残念
なが ら巻
10
が現存
しない の で , 推 測に よ る外はない 。 水野弘
元氏
は , 『祖堂集
』巻
2
に あ る那連 耶舎
の讖
が馬祖道
一 の活躍
を予言
して い る こ とに注目 し, 元来 こ の 讖は , P宝 林 伝 』 に も あ っ た もの で 、 先に の べ た伝 法 偈の 問 題 を含
め て , 馬 祖 道 一 まで を収録
して い たの が 『宝林
伝 』 で あっ た ろ う, と推測
した。 そして , 『宝 林伝
』 の作者
を馬 祖 門 下 と推
測 したの で ある。柳
田氏
もその説
を継承
し, さ らに内容
の検討
まで含
ん で,曹渓慧能 南嶽懐
譲1馬祖 道 一 の 正 統を 主張 する ため に こ そ 『宝
林 伝
』 は 編まれ た もの と言わ れ(
62
) 中 国唐宋代の禅宗史の研究状 況と問題 点 (石 井) るまでに な っ たの で あ る。以上の 説は、 こ れ らの
成果
に よ っ て禅 宗 史の 学 界の 定 説 と して研 究は 進ん でい る23)24)25) 。 さ らに, こ の 説は , 駒 沢 大 学の 椎 名 宏 雄 氏の 「『宝林
伝』逸
文 の研究
26) 」 に よっ て確 実な もの とな っ た 27) 。 椎 名 氏は , 日本
に 伝わ る 『景徳
伝 燈 録 」 の 注 釈 書の 注の部
分に引
かれ る 『宝林伝
』 の 文 を,現存
しない巻
7
と巻
9
・10
に つ い て 収 集 し, 結局
の とこ ろ, 巻10
に は , 馬祖道
一 と石頭
希 遷の章
まで存
在 し た こ とを 明らか に したの であ る。また,
椎 名氏
は ,同
じ論
文の中
で , 『宝林 伝
』 の 六祖
慧 能の章
に つ い て詳 し く 検 討 し, 『宝林 伝 J の 六祖章
は 『曹渓
大師伝
』 の影響
が大 きい こ とを指摘
したの であ る。 こ の成
果は, 六 祖 慧 能の 研 究に有 意 義な示
唆 と な る もの で あ り, 私 も 『六祖
壇
経』 の成
立 過 程 を研
究す る上 で利
用 し28 ), 「 『曹
渓 大 師 伝 』考
29)」 な どの論 文に おいて ,新
た な推測
を行
っ たの であ る。 『宝 林 伝 』 は 馬 祖教
団と深 い 結びつ き が あ るこ と が確 実に な っ たの であ る が,馬
祖 教 団の研 究 それ 自体 も大 き く進 展 する こ と にな っ た 3D, 。駒
沢 大学
の 石 川力
山氏の 「馬祖教 団
の展開
とその支持 者達
31 )」 は , 示唆
に富
ん だ論
文であ り32),地方
に発展
した禅宗
の細
か な分析
33)3‘) を大 著に著
され た駒 沢 大 学大学院 出身の愛
知 学 院大 学の 鈴木
哲 雄 氏の 『唐五代 禅 宗 史35) 』 は , その 成 果で あ る 。鈴 木 氏に は, 『中 国
禅 宗
人名索 引
wa) 』 の著述
が あ り、駒 沢大 学
の編 纂
に な る 『禅 学大 辞 典37) 』 と共に , 私の研
究に とっ て , 欠かすこ との で き ない 本で あ る 。 さ らに 馬 祖 道一 その人の 研 究は , 入 矢 義 高 氏の編に な る 『馬 祖の 語en38
) 』 と し て訳注
本が出版
され た。 私 もその 訳 注に参
加 した 一人で あ る が ,他
の メン バーの 一人 であ る 西 口芳男 氏
に よ っ て 「馬
祖の伝
記39 )」 が詳
しく論 じ ら れて い る 。 ま た, 中国に おい て は ,陳
柏泉
氏に よっ て , 馬 祖の 舎利 の 石 函 が紹 介さ れ 4°) , 温玉成
氏の 荷 沢 神 会の碑 銘の紹介
と共に4’) , 大 変 な刺 激 を うけて い る 42) 。 馬 祖の 弟子 の 一人 に 西 堂 智 蔵 (738 − 817) が い る が, 私が 『輯 県 志』 に 基づい て紹 介 した西堂智蔵
の第
2
碑
は43) , その後
に思わぬ展 開
を示 す
こ とに な っ た。 西 堂 智 蔵が馬 祖教
団に おい て, 重 要な位置
を 占め た こ と は間
違い ない 。 西 堂 智蔵
は 百 丈 懐海
(749
− 814) と並 び称
せ ら れ る馬祖
の弟
子で あ り,晩 年
の馬祖
の活躍
ま でを支
えたのは,百丈 以上
で あっ た と言
え るであろ う。 『宝 林 伝 』 の作 者 を, 水 野 氏は, 馬 祖 門下の中で, 大 珠 慧海に近い 人 と推 測 する 一493
一中国唐宋 代の 禅 宗 史の研 究状 況と問題 点 (石 井) (
63
) が’9) ,柳
田氏
は ,朝鮮 半島
との結
び付
きを強調
して, 西堂智蔵
の弟
子説
を 出 して い るの で あ る44)。い ま, それ らの 推 論の決 着は誰に もで きない と思 うが, 私は , 最
近
「南陽
慧 忠 の南
方 宗 旨の 批 判に つ い て45)」 と言う論 文 を書い て, 馬祖 教 団の 分裂
に つ い て論
じて み た 。 西堂智 蔵
の第
2
碑
に , 西堂 智蔵
と興善 惟
寛 (755
−817
) との 間に対
立 があっ た と述
べ て い るの であ る が, その 対 立に つ い ての 推 論で あ る。 私の説が支持
さ れ るか どうか は ま だ ま だ検
討を 必要
と す る が, 『宝林
伝 』 と馬 祖 教 団 をめ ぐ る諸問
題 6)に は興 味つ きない , しか も難 問 題が多 く存 在 す ると言 えよ う。その 外に も, 馬 祖 教 団の 問 題に おい て見逃せない もの が , 清規の 成 立に
関
する 研 究であ る。 百 丈懐
海は ,普
請作
務の 独 自の 思想 を確
立 し,清
規を制 定 して禅
宗 の 独立
を果
た し た の で ある。駒
沢 大 学総 長鏡 島
元隆
氏の 「『永 平清
規 」 の背景
と して の 『百丈清
規』」 (『道
元禅 師
とその周
辺 4所
収
)は , その優
れ た研究
で あ り,問
題 点に つ い て は そ れ に譲
り, こ こで は割愛
す る こ とに したい 。こ こ で ,
馬祖
の問題
で付 け加え たい こ と が あ る。 馬祖
の教
団 を 「洪 州 宗 」 とか 「江 西 宗 」 と呼ん で, 荷 沢 宗との 優 劣 を論 じ, 荷 沢 宗の 優 位 を論 じた人に 圭峰
宗密
(780
− 841) がい る。従
来, 『中華 伝心地 禅門
師資
承 襲図』 と仮 称 さ れ て い た著 述 が, 卍 字 続 蔵 経に 収め られ てい る。 私は名古
屋 の真福寺
文庫
に所 蔵
されて い る その古
写本
を紹介
す ること がで き た。 その著
は , 『裴 休拾 遺問
』 と呼ば れ ,北 宋期
の刊
本の 写本
で あ り, 「承 襲 図 」 と言 うの は , その 一部
分の ま さに 「系 譜 図 」 に付 され た名 前であ る こ とが判 っ た、 そ れ故に 正式
な名称
の 一 つ が 『裴休
拾遺問
』 と呼 ばれてい た も の と思
わ れ る。私は
真
福 寺文庫の 『裴
休拾 遺 問 』 だ けで は な く, 「「六 祖 壇 経 」 の 恵 听本
の 祖本
も紹
介 す るこ とが で きた49)50。 恵 听本
の研 究は, 郭 朋 氏か ら紹介
して い ただい た こ と が あ る5’) 。と こ ろ で, 圭
峰
宗 密の 著 作は 52)53)5‘) , 近 代 研 究者
に も大 きな影 響 を 与 え た が, この こ とは良い影響
ば か りで は ない と思わ れ る55)59) 。 もともと, 宗 密の 捉え た洪 州 宗 とは 、柳
田氏は黄蘗希
運の 『伝心法 要 」 の 世 界を まと め た もの で あ ろ うと把握
し て お ら れ56),黄蘗
の弟子
の 臨済 義
玄 (?− 866 )の祖 師 禅
の 魅力
を分類
で きて い ない と言
わ れて き た57 )。私 の
駒
沢 大 学の友
人の 吉 津 宜 英 氏は , 『華 厳 禅の 思 想 史 的 研 究as) 』 と言 う著 書(
64
) 中国唐 宋代の禅 宗 史の研 究状 況と問題 点 (石 井 ) を 公刊
して , 圭 峰宗
密 を批 判 的に取
り扱っ て い る。 もともと, 圭 峰 宗 密は法蔵
の華厳
学 を狂わせ た と言 う華 厳 研 究か らの評
価 も あ っ た。 吉津
氏は , 「華
厳禅
」 と 言 う独 自の 呼称
を宗密
の説
に与
え,華厳 禅
は ,教
で も禅
で もない 「本 来
成 仏論
」 に 基づい て , 強 く自 己主 張 する新 しい 思 想 と位置
づけ るの で あ る。我
が道 元禅師
は ,宗
密の 思 想 を外 道 と極め つ けて い るの で あ る 。そ こ で, 宗 密の 「洪 州
宗
」 の 分類
が不 十分であ る だけ で は な く,有名
な 五種
禅 の 分類
も不 十 分で ある ことを, 私 は 「禅 の 分 類に つ い て59>」 と言
う論文 で指摘
き さ く じよ うとう し、 「泊
錯 承 当禅 」 な る 分 類 を新 た に 提唱 し,菩
薩禅
の 再評 価 を 試 み て み た。 「泊 錯 承当禅
」 とは , 「あ や う く自 己完結
して そこに腰
を落
ち着
けそ うに な っ た が, その よ うに な らずに済
ん だ」 とい う意 味を含
ん だ もの で , どこ まで も自已の 安 住の 地 を求め ない で, 無 限に 自 己を空 じて行 こうとする禅
を設定
した もの で あ る。 この 「泊錯
承当禅
」 を分 類
す るこ とに よっ て , 宗 密 が分 類 で きなか っ た石頭
系
の禅
を捉え るだ けでは な く, 見 落 とされてい た禅 思 想の 魅 力が見
直 しで きるの で は ない か と考
え たの で あ る。 この よ うに 、 宗 密の 問 題は , 馬 祖 教 団と決 して無縁
で は ない し, 当時の石頭 系
の禅
と も関わ りを もつ もの で ある。 三『祖堂 集 』 と雪 峰
教
団 をめ ぐ る諸問題敦 煌 文 献に 比 して勝る と も劣らな い 発見 は , 『祖 堂 集 』
20
巻であ ろ う。高
麗 版 大蔵 経の 蔵 外 補版
と して 海 印寺
よ り発 見 され ,1924 年
に 紹 介 さ れて注 目 さ れ るよ うに なっ た。この 『祖
堂集
』 の研究
も,柳
田聖
山氏
に よっ て積極
的に すすめ られた 。 すなわ ち 「祖 堂 集の 資 料価 値 (一遡 や 「祖 堂 集の本 文 研 究 (一 )6’B
の論
文 に よ っ て本 格 的 な研 究 が始 まっ たの で ある。 それ が , や がて 『祖堂集 索引
s3 冊 と な っ て一字
索 引が完
成 し62) ,誰
もが便 利
に使
用で き るこ と と な っ たの で あ る 。その間
に , 『禅
語 録63) 』 の 抄 訳 もあ り, ま た従 来の 研 究に利 用 さ れて い た 『景 徳
伝 燈 録』 に はない 『祖 堂集 』 独 自の 唐 代 禅の 魅 力 ある話 をつ ぎつ ぎに紹 介さ れ て来たの であ る が,最近
に な っ て , 『純 禅
の時代
64) 』 『続 純禅
の時代
65 )』 『禅
の 山河 66) 』 と して , まとめ られて公刊
された。 柳田 氏 の 著作は , 従 来の 日本の 中国禅 宗 史の 研 究で 果 た され るこ との なか っ た 現代
語 訳が何 と言 っ て も画期
的で あっ た。 日本に は独 自の訓 読 法 が伝 統 的に存在
するが,禅
の 語録
の 中に は , 文 語 文では な く して口 語文 が沢山含
ま れ て い る。 そ 一491
一中国唐宋代の 禅宗史の研 究状況 と問題 点 (石井) (
65
) れ故に 口語 文は, どう して も従
来の 文 語 調の 訓 読 法で は 十 分で ない とこ ろ が あ っ た。 禅の 語 録の 現 代 語 訳は, 必要 欠 くべ か ら ざ る もの であ っ た 。 た とい 訓読 法が踏襲
され た と して も, 最近
の禅
の語録
の訓読法
は , 口語
文 を活か した新た な 訓読
法で進
め ら れ て い る。 現 代 語 訳は , 異な る言語の国々 の 研 究をする場 合に お い て 当然で あ っ たの で あ るが , なかなか伝 統 的な殻 を破る こ と が で き なか っ たの であ る。私 達が現 代 語 訳 を進め て行 く上に おい て, 強
力
な助言者
を うるこ と が で きた。 それは,柳
田 氏と同 じ花園
大学
に お られ る 入 矢 義高
氏で ある。 入 矢 氏は , 元来
,中国
文学
の専 門家
で あ り, 元 曲をは じめ と す る白話の研 究
に永年
に わ たっ て従 事 されて きた の で ある。私は
1981 年度
と1982 年度
の2
ケ年間
に 当時
京 都 大学
人 文 科学
研 究 所の 教授
であ っ た柳
田聖山氏を指 導 教 授 と して , 内地 留 学 をする機 会 に 恵 まれ た。 その 時,柳
田氏の 研究会
は も ち ろ ん参
加 したが, 入矢
氏の花
園大学
の 講議
をは じめ ,禅
文化研究所
の研究会
に参
加す る こと がで き, 入矢氏
の指導
も受
け るこ と がで き た。入矢 氏は先ほ ど
述
べ た よ うに , 中 国文学が専
門で あ っ た が, 氏の 話で は , 「ど ちら が専 門か判 らない 」 と言わ れ る程に, 最 近の成 果は 禅 学に関 する もの が ほ と ん どであ る。 入矢
氏の 読み方が, 伝 統 的 な読み と どれほ ど異 なる か は, 今 年の 正月
に 出版
され た岩 波文庫
の 『臨済録
6’) 』 を, そ れ 以前
に出版
さ れ た同
じ岩波
文庫
本の 日本
臨済 宗
の 伝 統 的 な読み方 と比べ れば, 一 目 瞭 然で あ る 。この 入
矢
氏の 指導
の 下に 出版 さ れ た現 代 語 訳が, 筑摩 書 房の 「禅 の 語 録」 の シ リー ズ20巻
で 梶 ) , 目下17巻
が刊 行
を終
わ っ て い る 。柳
田氏
の 成果
も入矢 氏
の指
導に よ る ところ大 な る ものがある。 入 矢義高
氏の 存在
は ,近年
の 中 国禅
の 研 究に 大 き くプラ ス に 作 用 した と言えよ う。 その 成 果 を踏 まえ た古 賀 英 彦 氏の 「禅 語 録 を読む た めの 基本語彙 初 稿゜S) 」 は , 便 利 な辞 書で ある。少
し話 が横道
にそれ た ようで あ る が ,再
び 『祖堂 集
』 の問題
に戻
り たい 。 『祖
堂集
』 の 成 立は, その 文 中に 「南 唐 保 大10年
」 と記 さ れ て い る。 西 暦の952
年に 当た る が, 「南
唐 保 大10
年
」 の年号
は ,重要
な意味
を も ち あ わ せ てい るの で あ る。 『祖堂
集 』 の編 集は, 福建 省
の泉
州 招慶 院
の静
・篶
二禅徳
に よ っ て な さ れ た 。時
の住持
は , 「祖堂集
』 の序
文の撰
者で あ る浄
修 禅 師 省 燈である。 この 招 慶 院の 省燈
は , 雪 峰義
存 (822
−908
)の孫
で ,保福 従展
(? −928
)の弟
子 に当
た るの であ る。(
66
) 中国唐宋代の 禅宗史の研 究状 況と問題 点 (石 井 )泉 州が南
唐
に 支 配 され る 以前は , 五代十国の 一つ の閲
と言 う国で あ り,閾
は 王 氏一族の支
配 す る と こ ろ であ っ た。中
で も, 忠懿
王の 王審 知は, 大変
な崇
仏 家で あっ た が 、 この 王審 知が最
も保護
した禅 宗教
団が,雪峰 義
存の教
団で あっ た。柳田氏は , 「祖 堂 集 の 資 料 価 値6°) 一の
論
文の中
で ,閲
の 王氏
一族
と禅 宗
の 関 係 を詳 しく論
じてい る 。 ま た招慶省燈
の伝
もで き うる限 り推 測 して検 討 を加 えたの である が, い ま 一っ 「南唐
」 と 『祖堂集
』 の 関 係 を確
か め ること がで き なか っ た の であ る 。私
の 論 文の 「泉 州 福 先 招 慶 院の 浄 修 禅 師省燈
と 『祖 堂集
69) 』 」 は , 『泉
州開
元寺
志』 に あ る招 慶 省 燈の 伝 記7°)をて が か りに ,南唐
と 『祖堂
集 』 の関
係 を よ り詳 し く論 じた もの で あ る が, 特に 『祖堂
集 』 と泉 州 刺 史 留 従 効の 関 係や 『祖 堂 集』巻
12
に南
唐の 記事
が極め て 多く記 され て い る こと を述べ たの であ る 。 こ の 私 の 成 果 は 、柳
田氏
の 『禅
の文化
7D 』 の解説
の中
で問題
に され てい る。こ の 課 題 は , さ らに
後
日談 が あ る 。こ こ に 同席 し てい る北 京大学 留 学 中の 小川 隆氏が, 留 学生 の 旅 行で泉 州 開 元 寺 を訪れ , そこ で購入 した 『泉州 開 元寺 志 』 と 『紫 雲開
士 伝 』 を私の 所へ 送っ て くれ た 。 そ れ 以前
に 私は 『泉
州開
元寺
志』 に よ っ て招慶省燈
の没 年だけは確か め て い たの で あ るが , 生年
は推測
に基
づ い た。 と こ ろ が, 驚 くべ き事に , 『紫 雲 開 士 伝 』 に よれ ば, 生没年が892
−972
年
と判 明す るの である。 これ が正 しけ れ ば, 私の884972
年
の 説は改
め な け ればな ら ない の で あ る。 ただ, 『紫雲 開
士伝
』 の招 慶省橙
の 示寂
の様
子は 十分
に信頼
で きる が, 世寿
81
歳
を その ま ま認め る とすれ ば, 玄 沙 師 備 と の 関 係 な ど が不 明に なっ て 来 て ,問題
も残
る よ うである。さて ,
雪峰
教団
の問
題 を少
し別の角度
か ら言及
してお き たい 。 『祖堂集
』 の中
に は あ る話題
に対
して, 別の 人 が コ メン トしたの が 記録
されて い る 、 これ を 「著 語」 と総 称 して お きたい 。この
著
語 を付
した人々 を分析
した柳
田氏
は, ほ とん ど雪峰 教 団
の 人々 で あ る と す る。同
じ方法
で ,1004年
に成
立 した 『景徳伝燈録
』 の著語
を分析
する と,最
終 的に著
語 した人 達は ,法
眼 宗の 人々 に 限 ら れ る。 私は大学
院の時
代に, 柳田氏
の 成 果を応用 して , 『景 徳 伝 燈 録 』 を分 析 したの で あ る が , その 時の 成 果を踏 ま え て , 『宋代禅
宗 史の研究
』 の第 1 章
の 「『景徳伝燈録
』 の 歴史
的性格
」 を書
い たの で ある。 『景徳
伝 燈録
』 の編集
は ,法
眼 文益
(885
−958
)の孫
の 承 天道原
であるか ら、 当然の 結 果で あろ うと思わ れ る。 法 眼 宗の 教団は呉 越に 発 展す るが, その 地 一489
一中国唐宋 代の 禅宗 史の研究状況 と問題 点 (石 井) (
67
) を支 配 した銭
氏一族の 呉 越 と 『景 徳 伝 燈 録 .1 は深 く結びつ い てい る こ と は予想 さ れ る の で ある 。分 析の結 果 も, その 通 りで あ っ た。とこ ろで, 『景
徳
伝燈録
a の構
成は, 五家
に 分 類さ れ た特色
を もっ てい る 。 そ して, その後
に 成 立す る著述
に は, 五家
の 分 類を前提
と す る もの が多
くあ る。 た と えば 、晦巌智
昭の 『人天 眼目 』 な どは, その 代表
的な著述
で あ る。 さ らに , 一 般の辞 典類
の禅
宗の 記述
に は , 必 ず五家に つ い て述
べ ら れ てい る。 その 内 容は , まず 湖 南 省で瀉 山霊 祐 (771 −853
) が活 躍 し, その 弟 子の 仰 山 慧寂
(807 − 883 ) が江 西省
で活躍
し, 五家最
初の濡
仰 父 子に よる瀉
仰宗
が 成 立 した, と書
き出
さ れ るの が通 例で あ る 。 その後
, 江西省
に お い て洞
山良价
(807
−869
) と曹 山 本 寂 (840
−901
)に よ る曹 洞 宗が, 河 北 省に おい て臨 済 義 玄に よ る臨 済 宗 が唐 末に 成立 す るの で あ る。 や が て五代に なっ て, 広 東省
に 雲 門文偃 (864
−−949) に よ る雲門宗
が成立 し,最後
に な っ て江蘇省
の 金 陵に根拠
をもっ た法 眼文益
の法
眼 宗が成立 して, その 門下 は浙
江省
に 大 きな勢 力
を もつ に 至 るで あ る 。大体 , 五 家の説 明は , こ の よ うに な さ れて き たの であ る。五 家 を分
類
したの は ,法
眼 文 益の 『宗 門 十規
論 』 が最 初 と言わ れて い る。 その内容
は 極め て便 宜的 な分 類であっ たの で ある が, そ れ が多
くの人達
に 伝え ら れ る こ とに な っ た。 私は, こ の よ うな 五家
の 分 類で , 禅 宗 史を捉え るこ とに 疑 問 をも ち, 「潟
仰宗
と曹
洞宗
72) 」 の論
文 に問題提起
を して み た。法
眼 文 益は ,今述
べ た よ うに , 五家
が年代
を異に し, さらに地 域
を異
に して,濾
仰宗
か らだんだんに 法 眼 宗 まで成 立 した こ とを述べ た の で あろ うか 。 私は そ う で は ない と思 う。法
眼は 金 陵に来
る前に 江 西省撫
州曹
山 に 住 持 して い た。 そ の時
, その周
辺に は ,曹
山本 寂
の孫
の 洞 山恵敏
(? −948
) が曹洞宗
を ,仰
山慧 寂
の弟
子 の 仰山光 湧 (850
−948
) が瀉 仰宗
を, 灌 渓 志 閑の 弟 子の 雲 蓋 懐 濫 (874
−934
) が臨済宗
を, 広東省
韶 州に雲門
文 偃が雲
門 宗 を, それぞれに宣揚
して い るの を 目 の 当た りに 見て,自
己の集
団 を加えて分類
した もの と考
え る。 そ れは ,法
眼が曹
山に 住 持 した と考えられ る924
年か ら928
年の曹
山の 周 辺の禅 宗
教 団の 勢 力で あ っ た と思 うの で あ る。こ の こ と を認め う る とすれば , 五
家
の 分 類は , 北 宗 禅と南宗 禅以降に 生 じ た南宗
禅
の分派活動
の過
程と捉
える の は , 反省す
べ きで あ ろ う。雪峰義 存
(822
− 908 ) と趙州従 論
(778
− 897 )の分 類
も必要
であ ろ う。 また全 く判 らない が,趙
州 と臨
済の 交渉
も解
明す る必要が あ り, 私の 試み た真
金 鋪 と雑貨
鋪の 分 類な ど, 今 後に(
68
) 中 国唐宋 代の 禅宗史の研 究状況 と問題点 (石井) い くつ も試み られて い い か と思 うの で あ る。こ れ らの 問 題 と関 係 する 日本に おけ る中 国
禅宗史
の研究
の欠 点
に つ い て も一言 付け 加 えて お きたい 。 日本
で は ,宗派
と して曹
洞宗
と臨済
宗が現 存 して い る。禅
宗 史の研 究は ,前
に も述べ た よ うに , そ れ ぞ れの宗
派に所属
して い る研 究 者に よ っ て鋭意
続 け ら れて きた。 その時
,研 究者
が宗 派に 所 属 する こ と か ら, 他の研
究者
と は 比べ物
に ならない 情 熱 を もっ て解 明 しようとする よい 面が あ る一方
で ,勢
い自派
の 系 譜 を遡 及 する極め て狭い 宗 派 研究
が生まれ た こと も事実
である。そ れ故に
曹
洞宗や 臨済
宗の法 系
以外
の 禅 者の 研 究が遅れ た と言っ て よい で あ ろ う。仰 山慧寂
や雲門文偃
な どの研 究
に よ い成
果が な かっ たの も事実
で あ る。 その 点で、 入矢義高氏
の 「雪峰
と玄沙
73) 」 の論文
は ,雪峰
とその 門 下の 玄 沙 師備
(835 − 908) や雲 門文偃を取 り 上 げ た もの で, 興 味 深い 成 果 で あ る 。特 に 玄 沙に も雲
門に も思 想の 深 ま りが段 階的 に 認 め ら れ る と言 う発 言は注 目 し て よい と思 われ る 。同 じ入矢
義高
氏の仕事
と して , 『玄沙
広録
』 の 訳 注 本が上 ・ 中の 二 冊 出 版 さ れ て い る し74), 下 冊 も近
刊と聞い てい る 。 さらに 『南 泉の 語録
』 の 訳注本
も刊 行 の準備
中 と聞い てい る。第
二 の問題
に つ い て, 最 後に 一言 加えて お き たい こ とがあ る 。今
,私
に逸書
の 中で発 見 され るの を望 む とすれ ば何
か , と い う質問
が も しあっ た とすれ ば, 私は 南嶽 惟 頸が撰 述 した 『続 宝林 伝 』4
巻だ と答
え たい と考
えて い る 。 こ の本は, き っ と中
国禅 宗
の魅 力
を満
載 してい る こ とで あろ う。 中 国の どこ かで,発 見
され る こ とをひそかに期待
したい 。発 見を
待
っ て, こ の 分野
の研 究
を お ろ そかに でき ない が, こ の 『続 宝 林 伝 』4
巻に 関 係 す る重 要 な課 題が ある。 それは , 『景徳
伝 燈録
』 の編 者
の 承 天道
原は , 『祖 堂 集 』 の存在
を知っ て い た か どう か と言
う問 題
であ る。 現 在の段 階で は, 知 らなか っ たで あ ろ うと言
わ れて い る。しか し共 通の 禅
者
の 共 通の 話 題は, 恐 ら く共通の原 典 があっ たの で は ない か, と想像
され る が, その共 通の原 典の 一 つ に 『続 宝林 伝 』 が考 え ら れ るの で あ る 。 この 問 題で 興 味 深い 論 文は , 椎 名宏 雄 氏の 「『祖堂
集』 の 編 成75)」 で あ る。 『祖
堂 集」 の 独 自の 説で ある雲巌 曇
晟 (780
−841
)の 「未 悟
」 の問題 を含
め て, 『祖 堂
集』 の 性 格の 分析
は ,今
後に ま だ続け な け ればな らない で あ ろ う。 四黙
照禅
と看話 禅 をめ ぐる諸 問 題 一487
一中国唐 宋代の 禅宗史の 研究状況 と問題 点 (石井) (
69
)先
に も述
べ た ように ,私
は曹洞 宗
を明
らか に したい と言
う気持
ちが強 くあ る。 日本 曹
洞宗
の開
祖の道
元禅
師は , 中 国 禅 を沢 山批 判 して い る。 その 問題は ,第
四 の 問 題で, まとめ て後に 述べ たい が, こ こ に取 り上 げよ うとする黙 照禅
に つ い て も, 道 元禅 師は 言 及 してい る。黙 照
禅
を 大成 し たの は , 宏智
正覚 (1091
−1157
) と言 う曹洞 宗の人で あ り, 看話禅
を大成
し た の は , 大慧 宗杲
(1089
−1163
) と言 う臨済 宗
の 人で あ る 。曹
洞宗
の流れ を主張 する道 元禅
師は, 当然の こ と と し て, 宋代
に高
く評価
さ れ る大慧 宗
杲 を否 定 して, 宏 智 正 覚の 方 が大 慧 宗 呆 と は比 べ もの に な ら ない 程す ぐれ た 人 で あ る と, 『正法
眼蔵
王索仙 陀
婆7E )』 の巻
で述
べ て い る。 当然 と言っ たの は , 宗 派 に属 す
る人 を高
く評価す
るの は ,自然
の な りゆ きだ か らである。 た だ後
に述
べ る よ うに , 道 元禅 師は 宗 派 禅 を批 判 し てい るの で こ の 表 現に は問
題が残
ろ う。と ころで , 道 元 禅 師の評 価は別 と して も, 宋 代
禅
を代 表 する人は, 大慧 宗杲
で あ り77, その 大 慧が大 成 した看
話禅
, あ るい は 公案 禅
とい う もの は,唐代
に は な か っ た宋代禅
の特
徴で あ ろ う。大 慧が看
話禅
を大成
した後の 禅 思 想は , その 歴 史 を一変 し,看
話 禅の 隆 盛をみ るに い た り, や がて中 国 禅の 性 格 を決 定づ けて行 く こ とに な る。 大慧
は ,禅
の性格
に , 大悟
の経 験
主義
を 大 き く導
入 したの で あ る。 その経験
を段 階
的に追体験
す る方法
と して、 公案
を用い た の である 78) 。こ の方 法は、 大 慧 自 身も
述
べ てい る が, 修 行 者 を大悟 させ るの に大 変 効 果 的で あ り, その 指 導 経験 を通 して大 慧は 自信 をもっ た方法 と して採 用 して行 くの で あ る。代表
的な 公案
が, 「無字
の 公案
」 で あ る。大
悟
を強調
す る大慧
に とっ て ,大悟
を認めない集 団
は , に がに が しい 存在
で あ っ た 。 その 最 も大きい 集 団が,黙
照 禅 を 主張 する曹 洞 宗であ っ た の で あ る。 そこ で , 大 慧は しきりに 悪口 と して 「黙 照 邪 禅 」 との の し り攻 撃 した 。 大慧以降に お い て も, 臨 済系
の 看 話 禅 を奉
ずる人々 に よ っ て , 黙 照邪禅
の批
判はずっ と継
承さ れたの である。黙照
邪禅
の攻撃
は,臨済 宗
か らの曹
洞宗
へ の批判
であ り, 二 つ の集 団
は破局
的 な 対 立 を くりかすこ とになるの で ある。先に
述
べ た よ うに ,曹
洞 宗に 属 する道 元禅 師は , 逆に 大 慧 をは じ め とする臨 済禅
を批判
した。 中 国に おい て は ,曹
洞 宗 も看
話禅
を取
り入 れて変化
して行 くが, 日本
で は ,曹
洞宗
の勢
力が臨済宗
の勢
力 を上回 っ た し,曹
洞宗
の性 格
を対
臨済 宗
と し て主 張 するの が 主 流で あ っ た か ら, 江 戸時 代
の 面山瑞 方
(1683
−1769
)の 『建
康 普 説79 ) 」 な どは , 明らか に 大慧批 判
を く りか え してい る。(