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賃銀論はいかにあるべきか?

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(1)

賃 銀 論 は い か に あ る べ き か

?

(後

篇)

1 1

修正主義的諸偏向の克服のために1

111

﹁:::党派闘争こそが︑党に力と生命とをあたえる︒党があいまい模

糊︑としていて︑明確な限界︑がぼやけていることは︑その党の弱さの最

大の証拠である︒党は自己を純化することによって強くなる︒:::﹂

(一八五二年六月二十四日付︑ラγサIルのマルク久あて手紙より)

山 本

ま え が き

一賃銀論は︑決定的な意義をもつものではないか?

二賃銀論は︑たやすくわかるものか?

三賃銀論でとくに重要な論点ば︑なにか?

山 労 働 力

H商品の正しい把握

間労賃が不合理きわまる形態であることの徹底的理解

間賃銀奴隷制度の暴露

四﹁同一労働同一賃銀﹂論の修正主義的性格

山﹁公正な一日分の労働にたいして公豆な一自分の賃銀﹂の意義

国﹁同一労働同一賃銀﹂の意義と本質

(以

上︑

前日

写所

載)

賃銀論はいかにあるべきか?

七 九

(2)

賃銀論ぷいかにあるべきか?

六 五

﹁社

会主

社義

会に

おけ

る賃

銀﹂

の問

簡単な要約

(以

上︑

本号

所載

) 四

﹁ 同 一 労 働 同 一 賃 銀

﹂ 論 の 修 正 主 義 的 性 格 さきに本稿第二節の中でふれておいたように(本誌前号︑七八!七九ページ)︑

﹁同一労働同一貫録!﹂というスロー

ガンの反動的・弁護論的意義をあきらかにするために︑まず︑このスローガンにたいして対照的な意味をもっ﹁公正

な一日分の労働にたいして公正な一日分の賃銀!﹂という︑歴史的なスローガンについてみてみよう︒

ω

﹁公正な一日分の労働にたいして公正な一日分の賃銀!しの意義

知周

のよ

うに

マル

グス

は︑

その著﹃賃銀︑価格および利潤﹄の最後において︑

しかも賃銀制度にふくまれている一般的隷属状態のことをすっかりぬきにしても︑労働者階級は

これらの日常闘争の究極の効果を誇大視したりしてはならない︒かれらの忘れてならないことは︑かれらが結果とた

たかっているだけであって︑これらの結果の原因とたたかっているのではないということ︑かれらは下向運動を阻止

しているだけで︑運動の向きを変えているのではないということ︑かれらは一時おさえの薬をもちいているだけで︑

﹁そ

れと

同時

に︑

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑病気を根治しているのではないということ︑

であ

る︒

だか

ら︑

かれらは︑資本のたえまない蚕食ぎたは市場の変動か

らたえず発生するこれらのさけがたいゲリラ戦に没頭してはならない︒﹂(傍点!山本) と述べて︑﹁賃銀嗣争﹂そのものの照られた意義を︑したがってまた︑﹁生活体験﹂などを﹁第一の中心﹂として﹁賃銀

関争﹂をいくらくりかえしやってみても資本主義のもとでは病気を根治すること︑つまり労働者の生活の真の保障や

(3)

向上は︑絶対に不可能であるということを︑明確に指摘し︑この指摘にもとさついてひきつづきつぎのように︑真に階級

的なスローガンのあり方を説明しているのである︒

﹁か

れら

は︑

現在の制度が︑かれらにいっさいの貧窮をおしつけてはいるもののこれと同時に︑社会の経済的改

造に必要な物質的諸条件ならびに社会的諸形態をも生み出しているということを理解しなければならない︒かれら

t土

﹁公正な一日分の労働にたいして公正な一日分の賃銀!﹂という保守的なスローガンのかわりに︑

かれらの旗じ

るし

の上

に︑

﹁賃銀制度の廃止!﹂という革命的なスローガンを書きしるすべきである﹂(削川︑ディ

Iツ

版︑

六七

l七

七ペ

ージ

︑傍

li

マル

クス

のも

の︑

ゴシ

ック

体山

本)

では

﹁公正な一日分の労働にたいして公正な一日分の賃銀1

(

﹀ 司 容

U 3 .

m

g

内 ︒ 円 山

E 円 吋 ロ

3 .

スロ

ーガ

ンを

マル

クス

はな

ぜ︑

いったい︑どういうことを意味するものか?

︑︑

﹁保守的なスローガン﹂と規定したのであるか? ﹂のように﹁公正しを第一に前田におしだしている

者 ︒ 円

Wごとは︑

れ ら

カ1

ここでもっとも

大切な点である︒以下簡単にこれらについて考察してみよう︒

まず﹁公正な賃銀﹂とは︑どういうことであろうか?それは︑労働者が買手たる資本家に売りわたす商品︑

つまり労働力川商品にたいして﹁公正な価格﹂が支払われるべきだということを意味する︒

では

﹁公

正な

労働

﹂と

は︑

工こ

込?

φJLVμ

それは︑資本家が買入れた商品日労働力を使用し消費するさい︑

その使用

H消費が﹁公正﹂なものでなければならぬ︑

ということである︒このスローガンについて︑第一に注目されるのは︑

﹁賃銀﹂の高さと﹁労働﹂の量とを直結させないこと︑むしろこの両者をばっさりきりはなして︑

ぞれについて﹁公正な﹂という限定を与えている︑という点である︒それは︑ そ

れが

そのそれ

﹁賃銀﹂を﹁労働﹂に直接結びつけ︑

賃銀論はいかにあるべきか?

(4)

賃銀論はいかにあるべきか?

﹁労働﹂のなタ雰や難易に応じて﹁賃銀しの高さがきまらなければいけない︑過酷な労働でも賃銀はそれだけ多くなっ

ているから文句はない︑労働がやさしくて長くないのだから賃銀が少ないのは当り前だ︑などと主張するような︑

ためごかしの俗物的民理窟とはまったく無縁であって︑むしろ︑ぞれとは反対に︑過度労働と過少賃銀とを根絶する

ことをはっきり要求しているものである︒過度労働と過少賃銀とをはっきり追放するためには︑まず︑﹁労働﹂と﹁賃 銀﹂とを直結する考え方を放郷しなければならぬ︒それらの直結を断一回としてうちくだいているものが︑

実 に こ の

﹁公

正な

(同氏ろという規定なのである︒

それゆえ︑このスローガンでもっとも重要な意義をもってレるのは︑この﹁公正な﹂という一言葉である︒この言葉

をその中心に据えることによって︑このス

? i

ガン

は︑

1

1理論的に明確に根拠づけられてはいないが

ll

労働者の

売りわたすものが労働ではなくて労働力H商品であること︑労働者が汗水たらしてはたらくところの労働そのものは︑

この売りわたされた労働力H商品が買手によワて使用H消費される過程にほかならないのだということを素朴にとら

えて

いる

とレうことができる︒

つぎ

に︑

公つ

正な

賃銀

Lとは︑労働者とその家族の﹁標準的な﹂生活を維持するに必要かつ十分な高さの賃

銀︑ということであって︑理論的に表現すれば︑労働力H商品の再生産費H価値によって規定された高さの賃銀︑と

いうことである︒これにたいして︑

働︑というととであって︑これを同じく理論的に表現すれば︑労働力の正常な再生産ー維持を保障するところの労 ﹁公正な労働﹂とは︑労働者の活r刀の恢復と健康の維持を妨げる恐れのない労

倒︑ということである︒

それ

ゆえ

一方において﹁公正な賃銀Lとして一労働力の再生産費U価値﹂に相当する高さの賃銀を要求すると同

(5)

時に

これに対するものとしてつ公正な労働﹂を︑つまり﹁労働力の維持H再生産に必要なかぎりで

の労働﹂を要求することを示しているこのスローガンは︑資本主義社会における賃銀労働者の経済的要求としては︑

他方

にお

いて

理論的にみて比較的もっとも正しく︑合理的なものと考えられる︒そしてまた︑事実歴史的にみても︑それは合理的

なスローガンとして劃期的な進歩的意義をはたしたものなのである︒

J

だが︑実は︑この﹁公正﹂という言葉そのものの中に︑重大な問題がひそんでいるのである︒

いっ

たい

ー寸

正﹂とは︑どういうことか?

いう

まで

もな

く︑

それは道徳的な意味においての公正︑あるいは︑法律的な意味にお

いての公正︑ということではありえない︒社会的にみて﹁公正﹂か否かということは︑ひとえにその社会の存立の基

盤たる生産および交換を規制する法則からみて云われることであって︑それは︑その生産および交換を支配する法則

を究明するところの科学的経済理論によってのみ︑決定されることである︒

資本主義社会をもふくめてひろく商品生産社会では︑各個人は︑法律的にみてまったく自由・平等であり︑その私

的に所有する生産手段や商品および貨幣をば︑かれの私的利益のために︑自分の個人的意志どおりにどのようにでも

自由に処分することを保証されている︒そこではその私有する商品または貨幣を提供することによってのみ︑相手か

ら自分に必要な商品または貨幣を受けとることができ︑

しか

も︑

かれの自由にしうるものはその私有する商品または

貨幣に限られているがゆえに︑この私的交換は必然的に等しい価値をもっ物同志の交換︑つまり等価交換ということ

にならざるをえない︒この等価交換こそが両当事者にとってもっとも公正なものであり︑したがって﹁公正な価格﹂

ということは︑商品の価値打再生産費に等しい価格︑ということである︒

ところが﹁公正﹂という言葉は︑

ふつ

うに

は︑

それが社会的にみてもっとも公平であり︑望ましいものであっ

賃銀論はいかにあるべきか?

(6)

賃銀論はいかにあるべきか?

八 四

て︑それによって両当事者も社会全体も安泰無事で幸福な将来を保証されることができるものだ︑という意味をもっ ものとして通用しているのであって︑

まさにこの点において右のスローガンはきわめて不合理な危険な一面をもって いるのである︒その不合理な点をつぎに簡単に指摘してみよう︒

①  労働者の提供する商品日労働力の再生産費日価値五

O

にたいして資本家が貨幣五

O

を支払うとすれば︑そのか

ぎりで等価突換であり﹁公正な賃銀﹂といえるが︑

しかし︑結果的にみれば︑資本家は労働力の使用

H消費によって

つくりだされた価値一

OO

を取得しており︑結局労働者は資本家にたいして五

O

のかわりに一

00

を進呈しているこ

とに

なる

︒ つまり︑資本家は不払の剰余価値五

O

をロハで手に入れる︒等価交換の法則にしたがって商品交換をしな がら︑結果的には不等価交換に︑

つまり﹁公正﹂ならざる交換に︑なっているのである︒

①  そこで資本家が支払う五

O

の賃銀はどこから生れてきたかといえば︑

それ以前に労働者との﹃等価交換﹄

を通

じてロハで捲き上げた剰余価値の累積したものからだということがわかる︒

つまり︑資本家がたとえ労働力

H商品の 再生産費

H価値どおりの﹁公正な価格

L

賃銀を気前よく支払ったとしても︑H

それは︑当の相手からロハで措き上げ

た五

O

にほかならない︒

ロハで捲き上げた五

O

を出して︑事がすめばまた一

OO

をふところにいれる︒つまりロハで

持き上げるものがしだいにふくれあがるというのが︑

﹁公正な賃銀﹂とつ公正な労働﹂とによって保証された﹁公正 な取引﹂の実態なのである︒

①  資本制的生産が発展し︑とりわけ機械制大工業が勃興して資本制的生産様式が支配的になるにしたがって︑

必 然的に労働力は資本の増殖慾に比べて相対的にますます過剰となり︑産業予備軍が累進的に生産されるようになり︑

たとえ一部の労働者は﹁公正な賃銀﹂を保証されるものとしても︑他の大部分のものはそれをはるかに下廻る賃銀し

(7)

か与えられず︑さらに他の一部分のものはよりいっそうの窮乏におとしいれられる︒つまり︑資本制的生産の必然的

な発展にともなって労働者階級の窮乏と労働苦がますます増大するのであって︑

それ

は︑

﹁公正な賃銀﹂と﹁公正な

労働﹂とによって排徐されるどころか︑むしろ促進されるのである︒これでは︑

﹁公

正﹂

どこ

ろか

まさに社会的不

公正の激成である︒

就業労働者の取引そのものにおいてすでに﹁公平な分配﹂が保証されるどころか﹁不公平きまわる一方的搾

しかもかれらが働取﹂が保証されており︑社会的にみれば労働者階級の大部分のものが﹁不公平な分配﹂に苦しみ︑

けば働くほどまったくなんらの﹁分配﹂にもありつけぬ労働者がますます増大するこ左がひとつの法則となっている

とき︑この﹁公正な賃銀﹂とか﹁公正な労働しとかいう一言葉そのものば︑かえって︑現在の賃銀奴隷制度そのものが

社会的に﹁合理的しな﹁公正﹂なものであるという観念を植えつけ︑この奴隷制度の存続を保証するという意味をも

たざるをえない︒

2

守 ︑ ︑

φh 4μ  

それにもかかわらず︑このスローガンは資本制的生産の繋明期において︑進歩的な意義をもつものとし

て顕著な歴史的役割を果したものであることを認めなければならない︒この時期においては︑本源的蓄積の進行にと

もない賃銀労働者の数はきわめて大量につくりだされていったにもかかわらず︑

かれらの意識も組織もきわめて低

く︑これにたいして国家権力を支配する資本家階級の側からの搾取と強圧はほとんど無制限に達し︑賃銀は﹁救貧院

﹁十八才の少年の労働日を正味十二時間に制限﹂するという有様で

並み

﹂︑

労働時聞はほとんど限度なく辛うじて

あった︒この資本によるいわば前期的な飽くなを搾取に対抗して︑労働者階級の権利と利益を守るべくかかげられた

のが実にこのスローガンなのであって︑それは労働者の意識水準の向上︑労働組合組織の拡大と発展の上にきわめて

賃銀論はいかにあるべきか?

八 五

(8)

賃銀論はいかにあるべきか?

八六

重要な役割を果したものである︒このスローガンをかかげることによって︑労働者の売っているものはなにか︑賃銀 はどのようなものでなければならないかという問題について明確な労働者的意識をもつことの必要がはっきり示さ れ︑かくして賃銀制度の実体に直面することが可能となったのであり︑このような階級的意識の伸長︑労働者組織の 拡大は︑その当時において決定的な意義をもつものであった︑ということができる︒

以上イからホまでの要点を正しくとらえるとき︑

エンゲルスがその論文﹁公正な一日分の労働にたいして公正な一

日分

の賃

銀﹂

( =

2 5

E E

5

S

E E

=

一八

八一

五年

月七

日号

所載

)の

冒頭

にお

いて

﹁これは︑この五十年来イギリスの労働運動のモットーとなってきたものである︒このモットーは当時︑

一八

二四

年に団結権にたいする恥づベき法律が廃止されたのち︑労働組合の成長期に大いに役立った︒

イギリスの労働者が全

ヨーロッパの労働者階級の先頭に立って行進していた時期

1l

あの光栄あるチャlテイスト運動の時期には︑それは さらに大きな役に立った︒しかし時はすすむ︒そして五十年前には︑

いや三十年前にさえ︑望ましくもあり︑

要必

で もあった多くの事柄が︑

いまでは変ってしまい︑役に立たなくなってしまっている︒このふるい︑多年尊重されてき たモットーも︑こうした事柄にはいるのではなかろうか?﹂と述べ︑その論文の最後において︑

﹁以上述べたことによって︑このふるいスローガンが当時はその目的をもっていたが︑今日ではもはやなんの役に も立たないことはきわめて明白である﹂

(マ

ルク

・ス

ユン

ゲル

ス﹃

経済

学小

論文

集﹄

ディ

lツ版︑四一了

i

一ペ

ージ

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一七

ペー

ジ)

︒ と結んでいるのは何故か︑

ということが理解されるのである︒

れそ

ゆえ

マル

グス

︑が

︑ さきに見たように右のスローガンを﹁保守的な﹂ものとしてしりぞけているとしても︑

(9)

れはとこに引用したエンゲルスの説明とまった︿同じ趣旨にもとづくものであって︑むしろ︑このスローガンのもっ

ているすぐれた歴史的怠義

l

1一ーーをあきらかにしているものと過去における﹁進歩性!一と現在における﹁保守性i

いうべきなのであるc資本制的生産の発展に伴なう諸条件の変化に注志も払わず︑右のスローガンの歴史的意義をE

しく評価することもせず︑ただマルグスの﹁保守的L

とい

う一

言葉

をう

のみ

にし

て︑

そればかり﹁馬鹿のひとつ覚え﹂

式にくりかえしている﹃専門家﹄は︑そのことによってまたしても自分自身の﹁完全無料な理論的無関心﹂をさらけ

出していることになるのであるc

では︑右のような歴史的意義を担ったスローガンにたいして︑﹁労働の量と質に応じての賃銀1﹂とか﹁同一労働

同一賃銀1Lとかいったようなスローガンはいったい︑どんなー忌義をもちうるであろうか?

(2) 

っ同一労働問一賃銀!﹂の意義と本質

われわれは︑響きのよい﹁同一!﹂という言葉にごまかされてその本質を見失うことのないように︑まずこのスロ

ーガンの重要な理論的問題点を順次にとり出していくことにしよう︒

まず最初に強調されなければならないのは︑﹁同一しという一言葉によってあらわされているように︑このスロ

ーガンがきわめて特異な︑はなはだしく歪められた﹁公平﹂観念をその主柱としているという点である︒それは︑﹁労

偶者がその買手に提供した物が同じなのだから︑当然これにたいして同じだけのものを支払うべきだLということで︑

つづめれば﹁同じ物を出したのだから同じだげよとせTである︒これは︑資本主義社会に住んでいる多くの俗

物どもにとっては︑しごくもワともで﹁公平﹂この上もないことのように見えるが︑ただしそう思うのはまだ木物の

賃銀論はいかにあるべきか?

八 七

(10)

賃銀

論は

いか

にあ

るべ

きか

ワ‑

八島

商売人ではないのである︒﹁同じ物を出したのだから同じだけよこぜ'﹂などというのは︑実際の商品取引の世界

ではまったく幼稚な︑お愛掃の素人談義でしかない︒

商品売買で実際に問題となるのは︑売手と賢JJとの間の﹁公平﹂関係であり︑売手の提供する商品価値と買手の支

払う貨幣価値との一同一L関係である︒売手が一(いいの価値物を提供するのにたいLて買手はご一の佃値

(H

貨!

幡)

のス

Iガγで問題になっているのは︑ 八出すか︑あるいは﹁同一しの一

Q

を同ずかということ11!要するに一等価交換しが問題となる︒ところが︑右ただ同じ商品を売る同じ売子︑ど売手との問の﹁同一L嗣係である︒ぞれはた

出す

か︑

だ売手同芯の聞で﹁公平Lに買手から同じ価格を支払ヴてもらおう︑ということをとりきめる乙とになるだけであっ

て︑なるほど売手間志の聞の競争はある程度排除することはできようが︑買手にたいしては︑なんらの影響をも効果

をも及ぼすものではありえない︒

ロこのスローガンがはなはだしく歪められた

じ物を出したのだから﹂という場合の﹁同じ物﹂という点にあらわれている︒商品取引における﹁公正Lとは︑等し ﹁公平﹂観念をその主柱としているということは︑

つぎ

に︑

‑, 

問、

い価値と等しい価倍との交換︑ということである︒ところが︑ことでいう﹁同じ物しは︑なーんらの価値も価格ももた

ない

﹁労

働﹂

というととである︒なんらの価値も印刷格ももちえない﹁物﹂につい℃﹁同じしというのは︑要するに

その

効用

いいかえれば︑使用価仰が同じだという乙とである︒だが︑二つの﹁物﹂の効用または使用価値が﹁同一

﹂だからといって︑ただちにそれらの価値が﹁同‑一だということにはならないc飲料水として役立つ﹁水﹂として

は︑井戸水でも︑蒸溜水でもその効用は同じであり︑

﹁同

じ物

﹂で

ある

が︑

しか

し︑

それらの価値は甚しく異なる︒

ところが﹁同一労働同一賃銀?

﹂を

唱え

る者

は︑

どちらも飲料水としては﹁同じ物﹂だから﹁同じだけ支払えL

(11)

言うのである︒これは︑使用価値そのものから一定量の価値を引き出そうということであって︑まったく実用価値を

もたないタワ言である︒

,  . . . .  

およそ資本制的私的所有のもとでの資本家による資本制的生産を前提するかぎり︑つ剰余価値の法則﹂が貫徹

し資本家はますます果進的に増大する剰余価値を獲得しなければならないのであっ

τ

︑賃銀として支払われる価値額

は労働者が資本家に提供する﹁労働しをもって生みだす価値額よりつねに小さく︑その差はますます拡大せざるをえ

ない︒ところが右のスローガンは︑賃銀が正確につ労働の量と質に応じて﹂支払われることを主張している︒

つま

労働者は資本家に与えたと同じものを受けとるべきだというのであるから︑逆にいえば賃銀は﹁労働﹂によってつく

りだされた価値に正確に対応していて︑一

OO

働け

ば一

00

︑五

O

働けば五

O

ということになっていなければならな

いと主張していることになる︒これは︑あきらかに︑正しい価値概念をまったく混乱させて誤った効用理論におきか

える

こと

であ

り︑

また同時に︑資本家による不払の剰余価値の取得つまり剰余価値の搾取はありえないし︑

また

あっ

てはならない

li

資本主義のもとで

HI

ll

‑ ということを主張するものであって︑骨の髄からの弁護論である︒

このスローガンにとって﹁致命的しともいうべき点は︑労働者が提供した﹁労働しがどれだけの価値をもって

いるかということをどうして評価できるか?ということである︒ある一定の﹁量と質の労働﹂がどれだけの価値を

もつかが評価できなければ︑その﹁提供した価値に応じて﹂などということはたんなるうたい文句になってしまう︒も

ちろん科学的経済理論の見地からみれば

﹁労働﹂がどれだけの価値をもつかということ自体︑俗物的タワ一言であっ て︑評価はもともと問題にはならぬ︒そこで俗物的見地にふさわしく︑﹁労働評価﹂の基準を考えだすことがその﹁課

題しとなる︒ところが︑こと俗物的見地に関しては︑資本家陣営の方がこの種の中途半端な﹃専門家一たちより││

賃銀論はいかにあるべきか?

八 九

(12)

賃銀論はいかにあるべきか?

必要そのものに追られて

1

1はるかに先んじているのであって︑資本家の立場からみてもっとも﹁合理的﹂と思われ

る﹁労働評価﹂基準を手廻しよ︿いくらでもつくりあげている︒そこでこれらの﹃専門家﹄たちは︑この資本家用﹁労 働評価﹂基準をそのまま受けいれるか││たとえば船橋尚道氏のように

1

1

ある

いは

さらに散歩後退して

1

1高

原氏のようにi│労働者の﹁生活体験﹂や﹁生活感情﹂を﹁基準﹂とするというように︑俗物的観念の泥沼の中にい っそうふかくおちこむことにならざるをえない︒

このスローガンは︑労働者のうけとる賃銀が提供する﹁労働﹂の質と量とに正確に応じてきめられるべきこと

を主張しているのであるから︑

いかなる﹁評価﹂によるにせよ︑労働者の提供する労働が比較的やさしくかっ少量で あるならば︑支払われる賃銀はそれに応じていくらでも少額になる︒だから︑

たと

えば

一日

八時

間の

平均

的な

﹁質

の労働にたいして支払われる賃銀を五

O

とすれば一日四時間しか働かないとき

i l

何時間買うかは︑買手の自由で

あるーーには︑賃銀は二五となるのが当然であり︑提供する労働がゼロのとき︑

つまり買手︑がないときには賃銀もゼ ロになるべきだということになる︒また︑

どんな重労働でも︑どんなに労働時聞を延長しても︑買手がその提供され る労働に応じてより多額の︑

たとえば︑六

O

︑七

Q

あるいは九

O

の賃銀を支払うならば文句はない︑

ということにな

司 令

つ支り︑このスローガンによって失業︑半失業による窮乏は︑

﹁提供する労働の分量ゼロー﹂ということで正当化 され︑労働苦︑過度労働は﹁高賃銀による完全支払﹂ということで完全に正当化される︒おまけに資本家による不払

まさに労働者のためどころのさわぎではないのである︒

の剰余価値の取得が完全にインベイされると来ては︑

p、、

このスローガンが実は売手と買手との間のではなく

L

て︑売手同志のあいだの﹁公平﹂関係を念頭においてい るものだということはさきにのべたとおりであるが︑

はたして︑このスローガンによって売手同志の間の競争が排除

(13)

され

﹁公正﹂な分配が達成されて労働者の経済的利益が保証されるか?というと︑事態はまさに反対の方向にす

すむのであるQ

﹁提供する労働が同一であれば賃銀も同一でなければならぬ﹂ということは︑﹁労働が異なるときには︑賃銀も当

然に異ならなければならぬ﹂ということである︒ところが実際には︑具体的な労働は無限に多種多様であって︑その

﹁質と量﹂が同一であるような労働はめったにあるものではない︒労働が千差万別であるとすれば︑当然に賃銀も千

差万別とならなければならぬ︒つまり︑このスローガンを実際に適用するときには当然に﹁すべての異なった労働に

は差別賃銀をf﹂というスローガンに早変りすることになるのである︒

とこ

ろで

﹁提供する労働﹂のつ評価﹂については︑労働者はーーーいや︑

オシャカ様といえどもーーその能力も手

段ももたないから︑これは買手が指し示す﹁労働評価基準表﹂にまかせておかざるをえないし︑

した

がっ

て︑

かれら

の関心はもっぱら︑差別された賃銀の高さにあつまらざるをえない︒そこで︑当然に︑﹁あいつの労働はおれのより

さや

しい

のに

おれより余計とっている﹂とか﹁同じような仕事を同じ時間だけしたのに︑おれの方が少ないのは不

当だ﹂とかいう不満︑が出てくる︒(自分の方が高いときには︑﹁不当だ﹂という声は出ない︒﹁同一﹂論からいえば︑同

一で

ない

とい

う意

で味

どちらも不当であるはずだが︒)取引当事者が売手ばかりで構成されているときには︑これ

らの売手同志の間の不平不満は別にさしたる効果も生まないが︑取引の舞台にはこれら売手のほかに当の相手たる

買手

がお

り︑

しかも︑売手同志の聞の﹁摩擦﹂や不和を最大限に活用しようとかま与えているのが︑この買手である︒

この買手を前にして︑右のような売手同志のあいだの不平不満や﹁摩擦﹂の激化は︑必然的に売手同志がお互いにその売

値を引きさげあうという結果を生みだす︒このようにして︑このスローガンによって売手の聞の競争は排除されるど

賃銀論はいかにあるべきか?

(14)

賃銀論はいかにあるべきか?

ころ

か︑

まずまずはげしいものとなり︑﹁公正しな分配どころかますますみじめな賃銀に甘んぜざるをえないという

事態がっくりだされるのである︒のみならず︑労働者は自分のふところにはいる賃銀の高さ││﹄同一か同一でないか?

ーーだけに注意を奪われ︑売手としての共通の利益のことなどその眼中から消えうせ︑反対にかれ個人の利益だけを

ll

しかも他の売手との対抗関係において

1 1 1

識し

かっこれを追求することになり︑労働者の連帯意識にとって

かわって対抗意識が強められ︑たんなる商品販売者としての私的利益の追求をこととする俗物的個人主義が煽り立て

( ロ ﹀

られることになる︒だから︑このスローガンほど︑買手にとって﹁願ったり叶ったり﹂の﹃根本原則﹄はまたとある

ものではないのである︒

回この場合︑売手のあいだで競争と﹁足のひっぱりあい﹂が激化するのは︑たんに︑賃銀の高さをめぐってだけのことでは ない︒資本制的生産の発展にともなって必然的に累進する産業予備軍の生産という﹁根本法則﹂を考慮にいれれば︑売手同志 の競争が︑﹁売れるか︑売れないか﹂ということではるかに深刻かつ激烈なものとならざるをえないということは︑容易に判 断されうる︒﹁同こなどという俗物的﹁公平﹂観念にかぶれて︑このスローガンを﹁根本原則﹂だなどと推奨している者に とっては︑この﹁同こが実は﹁差別﹂のブルジョア的表現にすぎないものであることも︑﹁売れない﹂ことを失業手当によ ってりっぱにカバーできるなどと主張することが労働者にとっていかに過酷なものであるかということも︑きらきらその眼中

には

ない

ので

ある

︒ ところで︑この売手の間の競争の激化︑個人主義的意識の強化ということに関連して︑このさい指摘しておかねばならない のは︑年令別の差別賃銀の撤廃の問題である︒この問題は︑今日では﹁年功型序列賃銀﹂の撤廃という形でとり上げられ︑い ろいろ重要な問題点をふくむものであるが︑ここでは︑右に述べた基本的方向を明らかにするために︑以下やや長きにわたる

が︑その理論的な問題点を検討しておくことにしよう︒

まずはじめに︑労働力の再生産費について︑つぎの点をはっきりとらえておくことが必要である︒それは︑労働力の担い手 自身にとって現実に必要な生活手段の価値額は年がたつにつれてその大きさが変化していくものだということ︑それにもかか

(15)

わらず労働力の年価値(または日価値︑月価値あるいは週価値)はこの年がたつにつれて変化する必安価値額を全部合計して 平均した積をあらわすものだということである(詳しくは︑拙叫す﹃労働賃銀﹄の第四章﹁労働カ日商品の倒値﹂を参照された

い)︒独身の青年期︑たとえば二O二五才ごろは︑実際の生活必要価値額はある程度低いが︑結婚︑子供の出生によってそ

れはしだいに高くなり︑三人全たはそれ以上の子供が小学校から中学校へ︑さらに上級学校へと進学するにつれて︑それはい

っそう増大する︒この傾向は︑子供が一人前の労働力の担い手として労働市場に出るまでつづき︑それ以後はしだいに下降す

るが︑しかし︑たとえぽ五五才で停年退役したのちも満七O才の平均寿命を全うするまでは︑彼と彼の配偶者との生活必要価

値額は変りなくつづく︒とれらの必要価値額は︑労働力の販売期間中にその販売価格によってカバーされなければならないの

であって︑二Ol七Q才の聞の実際必要価値傾総計を以売期間総数lilたとえばこOI五五才の三十六年

! i

で 除 し た も の が︑いわゆる労働力の年何倍である︑さらにこれを平均細分したものが月価値︑等々である︒同﹂の関係を図で示せばおよそつ ぎのとおりに仕るのであって︑曲線仰は年令︑とともに増減する実際必要価値額(ただし月当り﹀を示し︑直線仰は︑これを労

働力販売期間総数をもっ℃除じた労働力の月価値を示すものである︒

ところで︑現在行われているいわゆる年功型序列賃銀はどうなっているかといえば︑上の図で示されている直線

ω

がそれに

あたる︒この直線制と︑曲線川仰の五五才までの部分とを見比べれば︑つぎのζとが容易に推察される︒それは︑年易型序列賃

銀なるものが︑労働者にとヮての実際必要価値額の増大につれて同じ上うに上田升するが︑しかし︑それは実際の必要額よりも はなはだしく切り下げられた水準においてそうなっているのだということ︑したがって︑それはきわめてゆがめられた形での

﹁必要に応じて﹂の賃銀の即けをとっている︑ということである︒労働刀の担い手である労働者は︑いつまでも青年でいること はできやす︑時のたつにつれて高令者となり︑それと共にその必要生前手段の価値額も増加せざるをえない︒ところが︑かれが

販売する労働力H商品そのものは︑lit多少の熟練度増進をのぞけば

1

1相変らず同じ商品であって︑その価値したがって価

格そのものには変りはない︒そこで︑労働力の担い手たる労働者はその変りない価格をもって︑かれの増大し変化する必要価

値額をカバーしなければならないのであって︑ここにわれわれが十分の注意を払うべき重妥な問題が潜んでいるのである︒

ところで︑現在の日本において︑労働刀のね一い手たる労働者が年をとるにつれて︑労賃が増加することになっているのはな

ぜか?といえば︑その第一の根拠は︑客観的には│l当事者たちの主観的な怠凶を一応ι反外J保すれば││労働者そのひとの

必要価値額が増加することにあり︑きらに︑実際その時々にすん払われている賃銀がいつでもその時の最低必要額をみたすかみ

賃銀論はいかにあるべきか?

(16)

i

万何)

1 2   斜線/部分~ガ、実際必要価値額ヲ示ス

賃銀論はいかにあるべきが?

10  (B) 

2  苫 ら

九四

ο

(列

たさなレかという伝どに切下げられていることにある︒いいかえれば︑青年期 の賃銀がきわめて低いから高令期にはそれが高くならなければやって行けな いし︑またその反対に高令期になればどうにかやって行けるくらい賃銀が高 くなるから青年期のそればかつかつの低さに切下げられることができる︑と いうことである

o乙のように年令とともに上昇する

111

ただし停年時までで︑

あとはゼロになる

l i

長銀形態収︑賃銀は﹁労働者にとっての﹃所得﹄であっ

℃それは労働者の生活の必要をみたすものでなければならないし︑それは当 然に﹃必要に応ヒて﹄でなければたらない一という︑賃銀についての支配的 な小フルジ己ア的観念にもっともふさわしいものであって︑買手は︑一

d y

おいてこの誤った観念を利用して︑賃銀は労働力の担い手たる労働者の倒人 骨﹁必要﹂をみたすものだという口実をもって︑都合のよ︑

y f

噌各様の賃銀

形態をつくりだすことができ︑これによってできるだけの買州きが保証され るととになっているのである(これらのあ叩トについては︑前出拙著の第五

章第

一一

節﹁

労働

H商品の買叩き﹂を参照されたい

) 0

しかし︑この年功型序列賃銀は︑たんにそれが歪められた型での﹁必要に 応じて﹂の賃銀だというだけではない︒買手に'どっては買入れる商品だけが 問題であって︑売手の﹁必要﹂などはもちろん︑﹁二の次ぎ﹂である︒それ の第二の恨拠は︑労働刀の担い手︑が年を加えるにしたがってその特定の作業 に習熟し︑労働の熟練(および強度)を高めるととができ︑これによってか れが担っている商品

H

労働力そのものの﹁質一が高められ︑その再生産費日 価値も当然に増大せざるをえない︑ということにある︒しかも︑機械化があ まりすすんでいない段階においては︑翼手はこのような﹁質﹂の高い熱線労 働力を相当多数必要としたのであって︑このような必要が

i l

他方において

60 

S5 

40 

SO 

(17)

不熟練若年労働者の質援にたいする切下げを吋合製化﹄する必明やその他の事情とあいまゥて;右の年功判明序列賃銀を生み

だしたものということができるのでゐる︒

では︑現在機械化︑合理化がますます大規模におこなわれ︑生産性向上遥かが資本家の手によって熱心におしすすめられて

いるときには︑この賃銀形熊は︑いったいどういうことになるであろうか?当然に熟練労働力にたいする依存度は

ll

iほ

の一部のものをのぞいて

l l

いちじるしく減退し︑高令者の﹃高﹄賃銀はコスト引下げにとってきわめて大きな障害となヮて

くる︒機械化のおかげでわずか半年か一年間養成しただけの若い不熟練労働者で十分事足りるというのに︑なにを好きこのん

︑︑

︑︑

で高令﹃高﹄賃銀の労働者を大勢かかえておく必要があろうか?二十代の青年労働者も五十代の高令労働者もする仕事はま

引たわ舟心ではないか︑まったく同じ仕事をしていながら五十代の労働者に四俗も五倍もの賃銀を与えるなどということはま

ったく不合理ではないか︑同じ仕事にたいしては同じ賃銀を支払うのが当然ではないか︑賃銀ぼすべからく︑労働者が雇主に

じっさいに提供する﹁労働の質と畏に応じて﹂きめられるべきである︒それによって︑雇主は︑高令ヰ告に支払っている賃銀の

3一4あるいは4一宮の賃銀を骨約すかことができ︑そのおかげで製品市場での競争刀が一段と増し︑おまけに肝腎の不労所得

分が大幅にくんとはれあがるとい号︑無上のよろこびが確実に保証されるというのに︑どうして︑﹁労働の質と量に応じての

賃銀!﹂というスローガンホ宮︑このさいかかげないでおれょうか!かくして一雇一主が心を配ることは︑いまや︑右の必要

1 l

つまり買叩きflーにもっともよく合致するよろな賃銀体系と労働評価表とをとくに念を入れて作製することとなるのである︒

このときにあたって︑完手のうちの若い不熟練労働者が︑賀子の事情にはいっさいおかまいな︿︑同じ売手同忠の闘で高令労 働者が同じ仕事をしていながら﹃高﹄賃銀をとっているのを見て︑﹁高令者が年の功で四倍も五倍もの高賃銀をとっているのは︑

不当である︒よるしく同じ仕事には同じ賃銀を支払うべきだ︒同じ賃銀をよこせ﹂といって︑一向一労働同一賃銀!﹂のスロー

ガンをかかげて要求するとしたら︑いったい︑どういうことになるであろうか?賃銀は﹁労働に応じて﹂きめるべきだとい

うこの俗物的主棋は︑貸手にとってもちろん0

Kであり︑すでに買手の手許には念入りに作製した労働評価表が用土芯されて

あり︑これで賃銀の高さは文句なしに正確に﹁労働の質と量﹂に応じてきめられることになる︒そこで﹁同一賃銀﹂の要求に

たいしては︑すでに︑上の関の直線仰が要求どおりまちがいなぐ水平線としてできあがっている︒この水平線の高さは︑労働

者の﹁生活体験﹂などよりもはるかに﹃科学的いに﹃合理的﹄に︑かつまた﹃客観的いに決定ぎれており︑とうてい﹁生活体

験﹂などの粛の立っとこるではない︒おまけに︑﹁向じ賃銀﹂になるならないで同じ売手が仲間同志で足をひっぱりあい︑仲

賃銀論はいかにあるべきか?

九 五

(18)

賃銀論はいかにあるべきか?

九六

間割れして︑買F

がだまっていても売手たち自身が売値を引下げてくれる︒これ以上山片手のお膳立てにぴったり合致した売手 の﹃要求﹄などというものが︑いったい︑ぽかにあるであろうか?日本では︑終戦後まもなく︑日経連が﹁労働の質と量に 応じての賃銀﹂ということを﹁賃銀原則﹂としてかかげたものであるが︑それから十年以上もたつて︑労働者階級の立場に立 っと称する片専門家﹄たちが︑これと寸分ちがわない﹁同一労働制一賃銀!・﹂を賃銀闘争の﹃基本原則﹄としてかつぎまわっ ているのである︒これらの﹃専門家﹄は︑いったい︑なんの﹃専門家﹄であろうか︑そして︑かれらがかかげている﹃基本原 則﹄なるものは︑レョたい︑誰のための﹃賃浪掬争﹄に奉仕するというのであろうか?

年功型序列質︑銀(直線︒)位︑これを正しい方向に引上げることこそ肝要℃あって︑そのためには︑労働力の再生産費(曲

線制)と労働力U

商口問の月価値︿匝液晶判)との甥係を思論的に明慌にとらえることが絶対に必安である︒このことは︑労賃の 本質を科学的経済理論にしたがって厳密に但握することを意味するのであって︑そのためには︑もちろん﹁労働に応じての賃

L

などという見えすいた俗物的偏見を完全に一掃することが先決問題である︒

i コ

さきにのべたように︿本号八九九0

ペー

ジ)

﹁労働の量と質に応じての賃銀﹂ということを﹃合理化﹄するために

は︑ぜひとも︑ある一定の﹁労働)がどれだけの価格をもつべきかという︑労働評価の基準を設定しなけれぽならぬ︒

とミろが︑この方面では︑現実主義者である資本家の方がはるかに実践的であって︑すでに精轍な﹁労働評価表﹂を作製

そこで︑高原氏は︑あるご疋の﹁労働﹂がどれだけの価格をもつべきかという当然の問題を回避しているのである︒

して︑これを﹁労働者の要求額はいくらであるべきかしという問題にすりかえ︑そこで︑その一﹄価基準としての労働

者の﹁生活体験﹂なるものを持ち出してくるのである︒﹁同じ値打の仕事には同じ賃銀な支払え﹂(一二八ページ)とい う﹁基本原則﹂をかかげている高原氏が︑その﹁仕事の値打﹂がどうしてきまるかという決定的な用題をさけて︑

オ1

(19)

を﹁労働者の要求額﹂の問題にすりかえているのは見えすいた論理的ベテンというのほかないが︑しかし︑このように してすりかえられた説明そのものについても致命的な問題がふくまれていることを見逃すことはできない︒問題は︑

はた

して

﹁日常の生活体験﹂や﹁生活感情﹂を基準にすることが正しいか否か︑ということである︒まず︑高原氏

の説明をきこう︒

﹁さて次に︑職場の労働者にむかつて︑

﹁き

み︑

まじめにいっていくらほしい﹂ときいてごらんなさい︒かれは考

えてみて﹁何万円くらいほしい﹂と答えるでしょう︒

(

)

ほとんどいないでしょう︒ しかし﹁その理論的根拠があるか﹂ときき返して︑理論的根拠な

るものをあげる人は︑しかしわたしは︑その労働者の要求したものが︑一番尊いのであっ

て︑多くの労働者が生活体験と生活感情から︑

︒ つ キ ベ

集約されてくるものだと思います︒ 割り出してくるその数字は多く集れば集まるほど︑

賃銀要求の理論的算出はあとからつけられるものです

L 階識的な真理に近

(七

二ペ

ージ

︑傍

およびゴシック体l

山本

)︒

﹁およそ賃銀要求などというものは︑何か絶対的な根拠があってのものではありません︒これは総評の最低八︑

0

00

円にしても︑ーまた今回出された人事院勧告などは︑なおさらです︒:;:わたしは︑前に述べたように︑大衆の生 活体験︑生活感情︑闘争経験などから出してくる大多数の要求のとりまとめこそが︑もっとも妥当なものだというこ

とができることを確信します﹂(七三ページ︑傍点およびゴシック体山本)︒

(日)ここのくだりは︑不用意な読者にはきわめて﹁労働者向き﹂の話し方のように聞えるかもしれぬが︑実はその逆で︑ここ

には意図的な論理的詐術がいくつかかくされているoたとえば︑﹁何万円くらいほしい﹂という答を出した労働者にたいして

﹁理論的根拠を求める﹂なとということは見当はづれも甚しい︒おまけに︑高原氏自身︑理論に反する﹁労働の価格﹂という

俗物的観念をふりまわしているときに︑いったい︑﹁理論的根拠﹂などという言葉の意味がよくわかつて云っているものとい

賃銀論はいかにあるべきか?

九七

(20)

賃銀

論は

いか

にあ

るべ

きか

九八E

えようか?労働者が答に出した﹁何万円という数字が政論的にでになくむしろ感覚的につかまれたものであることは︑高

原氏自身の得意とする﹁生活体験﹂という

F一日葉そのものがこれを明示しているではないか︒ぞれを先刻承知の上でなおかつ

﹁理論的根拠を求める﹂などと云うのは︑なんと見えすいた符学趣味ではあるまいか︒﹁まじめにいってL

など

とい

う言

葉に

しても︑これは労働者や読者を愚弄するものという伝かない︒いったい﹁ふまじめに﹂話をしたり︑話を聞いたりする者︑かど

こにいるというのか?あるいはまた︑労働者がテレビや電気洗濯機をほしいというのは︑﹁ふまじめ﹂な要求だとでもいう

のであろうか?では︑どこまでが﹁まじめな﹂要求で︑どこから上は﹁ふまじめな人要求だというのか?

みられるとおり︑高原氏は︑労働者がその﹁生活体験や生活感情から割り出した数字しが﹁もっとも妥当なもの﹂

だと

か︑

﹁陪級的た莫理に近い﹂と主張している︒︑たが﹁もっとも妥当なもの﹂とか﹁階級的な冥理に近い﹂とかい いったいどういう意味であろうか?その一言葉が正しく使用されるためには︑﹁何故にそうであるか?﹂

﹁生活体験から割り出した数字しが﹁労働者の要求額としてもっとも安当なも

う言

葉は

ということの説明がなければならぬ︒

のだ

Lという意味で一五っているのであれば︑

﹁なぜ︑要求額としてもっとも妥当なのか?しという︑理由主不さねば

ならぬ︒その理由を一五すことなしに︑.

7 7  

﹁労働有の要求額としてもっとも妥当なものだ

Lと主張しているのであ

ればliーそして︑それ以外にはありえないようだが

il

k これは空た︑見えすいた同義反復であって︑まったくノン センスというのほかない︒このばあいには︑それが五千円でも一千円でも︑

いくらであろうと︑みな﹁もっとも妥当

なもの﹂になってしまうのである︒﹁陪級的な真理﹂とい

にしても同じである︒このような言葉をその内容の

説明なしに勝手に使うことは︑

前学的な言葉で読者をゴマカスものというのほかない︒

ところが︑右のような何学的ベテンにもかかわらず︑

ー生活体験や生活感情から割り川した数字L

というのは︑実 際には︑種々様々の個人的境過のもとにあるいろいろの労働者がその種々様々の個人生活を通じて﹁感じとった数字﹂

(21)

であ

って

その大きさは千差万別である︒この種々様々の数字は︑結局のところ︑それらの労働者のその様々の生活

諸条件によってよぎなくされている不足額または赤字をカバーする金額を示すものということができる︒たとえば現

在置かれている特定の諸条件のもとで一万五千円ではどうしても五千円の赤字が出るという労働者にとっては︑

一万五千円プラス五千円︑すなわち二万円がおそらく﹁生活体験と生活感情から割り出された数字﹂ということにな

るで

あろ

う︒

この

労働

者が

!ー

ーい

や︑

その他の労働者でも同じだが││この上もなくきりつめた暮しを立て肉体的最

低必要限度をぎり︑ぎり充たすか充たさないかという程度の衣食住に甘んじ︑文化的生活どころのさわぎでないのに︑

なおかつ五千円の赤字がどうしても出るというときに︑かれが﹁まじめにいって﹂二万円ほしいと云ったとすれば︑い

どんな真理にどれだけ近いものだといえるであろうか?ったい︑この二万円という数字は︑労働力の再生産費をは

るかに下廻り︑肉体的最低必要限度にとどくかとどかないかという︑この二万円の数字は︑いったい︑どうして7も

っとも妥当なものだ﹂などといえるのか?その上︑各労働者の生活諸条件その他のちがいに応じて︑

その

﹁要

求額

も千差万別である︒独身者と家族八人の労働者とのあいだ︑病気がちの家族と借金を少なからず背負いこんだ労働者

と健康で親ゆづりの資産数百万をもっ労働者とのあいだでは︑それらの﹁要求額﹂は天と地ほどの聞きがあるであろ

ぅ︒大まかにいって︑労働者全体について一方の側の者が五万円︑他方の側が三万円という﹁要求額﹂をそれぞれ出

して︑これらの﹁大多数の要求のとりまとめ﹂として三万五千円という数字︑が出たとしたとき︑

いっ

たい

この

コ一

万 五千円という数字のどこを探したら﹁もっとも妥当なもの﹂とか﹁階級的な真理に近い﹂などといえるものが見つかる

(日比﹀だろうか?また︑氏は﹁理論的算出はあとからつけられるものです﹂などともっともらしいことを並べているが︑

いったい︑この三万五千円という数字について︑どのような﹁理論的算出﹂をつけようというのであろうか?

賃銀論はいかにあるべきか?

九九

(22)

賃銀論はいかにあるべきか?

。 。

ばあい﹁理論的算出しなどという氏の言葉は︑ただ御都合主義のコジツケを意味するだけのものだということは︑あき

らかではないか︒さきのこ万円といい︑ここの三万五千円といい︑これらはいづれもまったく﹁根拠あるものしでは

なく︑むしろその反対に︑現在の劣悪な生活水準を﹁もっとも妥当なもの一と認めてこれを合埋化するところのつ階

級的﹂な数字にほかならないのである︒

(同)一多く集まれば集まるほと﹂とか﹁大多数の要求のとりまとめ﹂とかいう高原氏の﹁数をたのむ﹂主張に注意を払う必要

があ

oこれらの言葉は︑たんなる﹁平均﹂数字をもてあそぶことがいかに非科学的であり反階級的であるかを教えているマ

ルクス主義のイロハにたいする完全な無知をあおわすと同時に︑大衆の一根拠のない一感覚的要求を後生大事とあがめたてま

つっているという︑文字どおりの﹁自然発生性への拝路﹂をきわめて率直に爪しているものである︒これら一一つは︑かつてレ

lニンによって徹底的に批判され排撃されたものであるが︑その二つのものがこ

F )

公然

と表

明さ

れて

いる

とは

︑い

った

い︑

どう

いた

ノ一

}と

であ

ずつ

うか

?

﹁生活体験や生活感情﹂にもとづく労働者の﹁ありのままの率直な要求額﹂というものが︑そのままで

はいかなこと﹁階級的な真理にほど遠い﹂ものであるということや︑その﹁要求額﹂そのものが千差万別でそのうち

とこ

ろで

のどれをとっても手政しで﹁もっとも妥当なもの﹂などといえるものがないというζとは︑誰の円にもあきらかであ

って︑﹁理論的算出はあとから勺けられる﹂などという何学的なゴマカジでは素人をも納得させることはむつかしい︒

そこで︑この点から﹁生活体験﹂至上主義がくづれるのをふせぎとめるために︑各個人の要求額のちがいをばA︑

二つの工場のあいだのそれぞれの平均要求額のちがいにすりかえ︑これら二つの要求額

ll

IA

工場は平均四千円︑

工場は平均一一千円1ーーのちがいの﹁理由﹂をあげることによって︑問題をまったく別の方向にそらすことが必要とな

りてくる(ヒ四ページ)︒高原氏が挙︑げているその理由とはどんなことかといえば︑その第一は︑職制などのために

(23)

﹁労働者が心から思っていることを発言できないしというととであり︑その第二は︑﹁労働者のこれまでそだってき

た生活環境からくる常識︑ゆがめられた疋しくない常識が︑要求に差をつけている﹂ということである︒

高原氏が挙げているこの二つの理由にとく左注意されたいcいま問題になっているのは︑どのような高さの賃銀が

﹁もつども妥当なものしであり﹁陪級副な真理に近い﹂か︑ということであるQそして︑そのために︑A工場四千円

B工場二千円という︑二つの異なった数字について検討しようというのである︒ところが︑高原氏は︑この本来の問

題をすりかえて︑はじめから﹁もっとも妥当たもの﹂﹁真理に近い﹂ものは四千円であるときめてかかり︑

n

A V R

+I

Ji

‑‑

場がこの四千円という数字ではなくして二千円という数字を出したのは何故か︑ということだけを追究しているので

ある︒このようなやり方はまったく許されない論理的ペテンというのほかない︒だが︑かりに数百歩ゆづって︑高原氏

の挙げている理由をとり上げるとしても︑この二つは︑とうてい支持されうるものではない︒第一に︑﹁労働者が心か

ら思っている乙と﹂は︑はたして﹁もっとも妥当なもの﹂であるといえるか︑それは個人的事情によって制約された偏

狭な俗物的要求ではないといえるであろうか?

第二

に︑

これまでそだってきた生活環境からくる﹂のではない常

識︑ゆがめられない正しい常識というのは︑

とい

うも

のが

そもそも︑ゆがめられない正しい常識

(

)

﹁生活体験や闘争経験﹂によってひとりでに身についてくるものであろうか? いったいどうして得られるのか︑

︿円

)﹁

ゆが

めら

れな

い正

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常識

﹂な

どと

いう

言葉

その

もの

が︑

まぎ

れも

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形容

矛盾

であ

る︒

いっ

たい

︑高

原氏

が主

張し

てや

まない﹁労働の量と質に応じての賃銀﹂という﹁考え方﹂は︑﹁正しいゆがめられない常識﹂なのか︑そうではないのか?

iひとこまじめに一答えてもらいたいものであるQ

だが︑右のような論理的ベテンと見当ちがいとの二つの理由を挙げてみても︑A工場の四千円という要求額が﹁も

賃銀論はいかにあるべきか?

(24)

賃銀論はいかにあるべきか?

っとも妥当なものLだということはすこしも説明されない︒これは当然である︒なぜならば︑﹁もっとも妥当なもの﹂

とか﹁階級的真理に近いものL

とか

いう

こと

は︑

ただ科学的経済理論の見地からのみ規定されることであり︑

J R

L φ

れ ︑

って必らず︑理論的根拠を一訴すことなしには全然成り立たないものであるからである︒ところが高原氏はすでに御承

知のように︑経済理論も理論的根拠も︑はじめからおしまいまでとり上げず︑もっぱら﹁生活体験﹂第一でいってい

ついに︑この﹁ゆがめられない正しい常識﹂というところで︑最

後のドタン場に追いつめられたようであるQ残された途はただひとつ︑111﹁生活体験﹂の領域から一l

理論

的根

拠﹂

志のである︒だが︑この﹁生活体験﹂至上主義も︑

しか

し︑

ζの飛躍を公言するわけにはいかないリ

生かしてその内容をこれと全くちがったものにすりかえることが必要である︒それが︑ の領域に飛躍するととである︒﹁主活体験﹂という言葉は最後まで

i常識﹂についてのつぎのよ

うな説明である︒すなわち︑氏ほ右の﹁ゆがめられない正しい常識﹂をもヮているということはどういうことかとた

ずね

て︑

それ

は︑

﹁人間らしい生活とはどんなものか﹂﹁日本の労働者の賃銀と世界の労働者の賃銀の比較﹂︑﹁白分

にふさわしい賃銀はいくらでなければならないかしなどということについて﹁階級的に﹂自巴のはっきりした見解を

もっていることだ︑と説明するのである(七

T2

ージ

)

これら一一一つの言葉をほかならぬ﹁生活体験﹂至上主義者が述o

べているのだということを念頭において︑

つぎに︑これらの言葉︑がなにを意味しうるかをみてみよう︒

まず

第一

に︑

﹁人間らしい生活とはどんなものか﹂ということをいつも﹁論議L

(七

五ペ

ージ

)し

てい

ると

そこ

から﹁もっとも妥当な﹂要求額がいくらかということが出てくるであろうか?それにもまして問題なのは︑この

﹁人間らしい生活一という言葉その︑ものである

Qいったい︑どういう種類の消費手段をどれだけ消費するのが﹁人間

らしい生活﹂であって︑それ以下では﹁人間らしい生活﹂ではない︑などということができるであろうか?テレビ

(25)

を︑もてば﹁人間らしい生活﹂となり︑ただのラジオでは﹁人間以下の生活﹂になるというのであろうか?

さが問題になっているときに︑社会的経済的観点をはなれてたんなる﹁人間﹂などというものをとりあげて﹁論議﹂

賃銀の両

するということは︑階級的見地に立つどころか︑典型的な小ブルジョア的自由主義の見地に顛落することである︒賃

まさに経済的な意味での社会的な人問︑すなわち︑労働力リ

銀問題でつねに眼目となっていなければならないのは︑

商品の担い手としての社会的人間であって︑己の労働力

H商品の価値︑すなわち︑その社会的・平均的な再生産費こ

そもっとも肝腎なものだということは︑科学的社会主義のイロハである

Qまた︑もし賃組問題をはなれて一般的な意

味で真に﹁人間らしい生活﹂を問題とするのであれば︑

まさしく賃銀奴隷の地位についての明確な認識こそ出発点と

なるべきであって︑

その

ため

には

﹁労働に応じての賃銀﹂などという俗物的ガラクタは一掃しなければならぬ︒こ

のぱいには賃銀がたとえいかに大幅に'││六万門にも八万円にも

ll

i引上げられようとも︑およそ問題とはならぬ

Q

それはただか静か卦の量の増加にすぎない︒ところが一同一労働同一賃銀﹂論者にはもちろん︑この賃銀奴隷という 本賀規定はわかりょうもないのである︒以上いづれの点からみても︑

うことは︑この場合なんらの意味ももちえないたんなるうたい文句でしかないことは明瞭である︒

﹁人間らしい生活﹂についての﹁論議

1

とい

ちかごろはやりのき口棄であるが︑

かし︑これら両者の﹁比較L

によって︑日本での賃銀の﹁もっとも妥当な﹂額はいくらであるかとか︑ある一定の 第二の﹁日本の労働者の賃銀と世界の労働者の賃銀との比較﹂ということは︑

し と賀の労働﹂がどれだけの﹁価格﹂をもつべきか︑などということは︑絶対に算出できぬ︒それが一不しうるものは︑

ただ日本の賃銀の絶対額が比岐的いちじるしく低いということだけである︒だが︑賃銀が低すぎるほど低いというこ

とは︑なにも

をかさねたり﹁世界と比較一したりしなくとも︑ただ日本の数字を見ただけでもピンとくるはず

賃銀論はいかにあるべきか?

参照

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