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仁斎学の歴史的性格とその基盤

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(1)

仁斎学の歴史的性格とその基盤

li

﹁古学派﹂の再検討のために

ii

a

四 = 一 一

問題の所在

仁斎

学の

内容

(以

と本

号)

仁斎

学の

基盤

仁斎

学の

歴史

的性

問題の所在 格 近世思想史の歩みのなかに近代的思惟への胎動宕さぐろうとする人々は︑いわゆる﹁古学派﹂に高い評価を与える のが通例である︒すなわち﹁古学派は︑近世封建社会の正統イデオロギーである朱子学にたいする最初の批判者とし て登場する︒古尚子派の進歩性は︑なによりもまず彼らが人情や人欲の解放ぞ主張した点︑すなわち朱子学においては 道徳的規範のなかへ押しこめられていた自然的な人間性の解放を主張した点にもとめられている︒この人間性の白然 の肯定は︑換言すれば人聞の個性の承認と解放を意味するし︑個性の解放はまた望人の道がそうした佃性的な浪域へ

仁斎

ハチ

の歴

史的

性格

とそ

の基

(2)

仁斎

学の

歴史

的性

格と

その

基盤

およぶべきではない︑ ︿1

)

という考えに導くじというのである︒

日本における近代的思惟の発生を朱子学的自然

( 2

)

法の解体から直ちに導き出そうとされた丸山真男氏の業績によって尚子間的に確定されたといって上いであろう︒とい うのは丸山氏はその研究において︑近代的思惟の成長をなによりも朱子学的世界観の自己分解過程を通じて︑しかも その際とくに内面的な思惟様式の微妙な変容のうちに追求するという新史た分析方法を具体的に展開されるととによ

ところでこのような古学派︑とりわけ但来学への積極的評価は︑

って朱子学的自然法における規範と自然との連続的構成の分解による﹁人欲﹂

H人情の容認︑肯定とぞの対極におけ

それまでの﹁自然﹂の諮問収に対抗して﹁作為一の

(3

V 

論理の展開を可能ならしめたものとして近代的思惟発生史の上できわめて高く評価されたからである︒ る道規範の客観化H外面化左もたらした古学派とくに狙米常在︑H

しかしこうした古学派への評価は現在もなお充分妥当するものといってよいだろうか︒

つまり古学派にみられる人

間の﹁情欲﹂の容認︑肯定はたしかに封建的リプリズム解体の所産ではありうるが︑しかしぞれがそのま

L

﹁情

欲﹂

の 自然権としての承認へ︑つまり近代的思惟の成長の方向へ連なるものとして拙えられてよいのであろうか︒その後の研 究史の歩みのなかで明かにされた次のような諸事実がか

tふる疑問を必然的によびおこすのであるー︒すなわち第一に伊

藤仁斎が︑たしかに﹁荷も礼儀の以て之を裁く有れば︑情は即ち是れ近︑欲は即ち是れ義︑何の悪しきことか之有らん﹂

(﹃孟子問﹂巻之中)といった人間の﹁情欲﹂に対する寛容を一示しつ与も︑他方で﹁蓋し性は己に有するを以て一Jふ︒道と は人有ると人無きとそ待たず︒本来白有の物にして天地に満ち︑人倫に徹し︑時として然らぎること無く処として在ら

ざること無し︒量に人物各々其の性の白然に伺ひて︑而る後之れ有りと謂ふ

h笠谷れんや﹂と説いて人性と道徳とを峻別

し︑結局人性を教化以前の存在としてそれを倫理化するととなく︑したがってついにその日想郷を人々の日常の現実的

(3)

4 )

営みの彼方に﹁仁愛﹂の世界として確立するに終ったこと︒まだ第二に荻生祖来︑が人聞は﹁活物﹂であるかち﹁縄な

どにて縛りからげたる如く﹂人情や人欲を抑えてはいけないと主張し︑道とはこうした人情や入欲の肯定︑発展をその

重要な内容とするものであ石といLながら︑結局は道H規範を超越的人格だる聖人ぺH先王)の制作になるものと限

定し︑それ故﹁礼楽﹂によって﹁一斗目口腹の飲を節する﹂(弁名)ことに最大の関心をそLぎ︑社会有機体H

封 建 支 配

Fhd体制にとって有用な範囲内に人欽や個性を制限ぜんとしたとと︒きらに第一一一に︑祖来にみられた﹁私的日内面的生

活﹂の﹁一切のリプリズム﹂よりの解放の主張と密切な関連をもっ﹁国学﹂(とくに木居貫長)における人間の自然

そとで解放された人閣は対象的世界との現実的かか

(6

わりあいをなるべく避けた非実践的なものであったことなどの諸事実をこの場合見過すわけにはゆかないのである︒ 的性情の解放が︑結局は内面的心情の世界での人間解放であり︑

だからこうみてくると古学派にみられた人間の﹁情欲しの容認︑肯'定といった事態は︑実は人情や人欲ぞれ自体の倫

理化(日価値化)を最后まで追求するものではなく︑むしろそれらを倫理以前のものとして単に倫理外に追放したに

すぎなかったといってよいのではないだろうか︒とするならばそこにみられた人間把握ハ人性論)はとうていそのま

‑ Aでは近代的思惟体系を支える一支柱たりえぬものであったというととは明かであるう︒

もともと近代的思惟の成長が結論されるためにはその人間観げにおいて︑何よりも人間性の肯定がどこどこまでも主

張されること︑つまり人情や人欲がそれ自体︑人間主体の本来的な自然権として把握され積極的に倫理化されることが

不可蹴の条件であるといってよい︒しかもこの場合︑人情や人欽が倫理化されうるためには︑ぎずなによりも人情や欲

望がそれ白身でともかくも一つの秩序を構成していなければならない︒すなわち﹁情欲﹂そのもの︑したがってその主体

つまり現実には彼らが旧社会のなかでともたる人聞が自らの力で新しい秩序を打ち立てうる条件をもっていること︑

仁斎

学の

歴史

的性

絡と

その

基盤

(4)

仁斎

学の

歴史

的性

碕と

その

基盤

かくも新しい秩序を支えうる新たな労働H生産の諸条件を実際に形成していなければならないというととである︒そ

れ故﹁情欲﹂の倫理化そ内容とする人間性の解放は︑基本的には近世封建社会にあっては新たなブルジョア的生産諸

間係の形成期までは本格的に展開せず︑それまではむしろ一方で都市商人資本の繁栄むなかで部分的︑不具的に追求

ついに開花することたく︑また他方でより本来的じは直接生産者(小経常)による地域的た牛産的︑政治的共同

(8

組織としての﹁村落共同体﹂を基盤に︑むしろ禁欲的な﹁生産者の倫理﹂のなかに追求され展開してゆくものなのであ さ

る︒だから仁斎が﹁情欲﹂の倫理化を結局は放棄し︑人々の日常的な営みから全くはなれた地点に倫理的世界左きずこ れ

うと考えたこと︑また租来が人聞の歓望には限りがないと考え︑もし限りなく欲望の発現をゆるすならば﹁強ば弱を脅

かし︑衆は寡を恭し︑知は愚を詐り︑勇は怯な苦しめの︑﹂ついには﹁大乱﹂に及ぶと結論したことなどは︑いずれも人々

の情欲の世界をどうしても倫理化することのできないアナーキーな斗争状態にあるものとしてしか把握しえなかった

寄生者的︑消費者的立場からの人間認識をついに抜け出していないものであることを示すものといってよいだろう@

さらにこの場合︑忘れてならないことは人情や欲望が真に倫理的に肯定され価値化されるζとによって道学的自然

誌の世界から解放されるためには︑何よりも人々の感情︑とりわけ欲望の実現を可能にする条件︑すなわち人間の肉体

そのものとそれを支える人々の現呆の労働H生産諸条件がたんに形成されるだけでなくすLんで旧秩序から解放され

るということが決定的な重要さをもっということである︒何故なら情欲というものは人聞が自らのもてる諸能力をも

って実際に対象的世界に働きかける過程において発生し︑そしてそこで実現され℃ゆくものであり︑したがって実現の

条件を欠いた情欲は真に情欲たりえないからである︒つまり情欲はそれ自身がつねに対象的世界への働きかけを要求

するというきわめて長践的な位硲吃もっているのである︒この意妹で封娃社会のもとにおいては労働H生産諸条件に

(5)

対する個人的所有の前進}﹂そがまさに人格的自立の基礎であり︑﹁情欲﹂実現の本来的基盤℃あるといえよう︒

この

基盤を欠く時︑人間の﹁情欽﹂は現実そはなれた観念の世界でのみはたらき︑

人間の現実への積極的なはたらきかけ

と全く無縁になる︒だから前述した如き社会的は元での傍観的︑受動的な態度に裏うちされた宜長の自然的な人間性 解放の主張が︑結局は主情主義に位ならなかったと結論されることは当然といってよい︒かくて

ζ

でも人情や人欲L

の肯定︑人間性の真の解放はやはり直接生産者(小経話﹀の個人的所有への前進の基調の上に本来的に求められねば ならず︑結局﹁生産者の倫理﹂としてそれはもともと主張されねばならぬものであったのである︒

ζ

ろで

ζ

みて

くる

と︑

ζれまで二応確定されていた近代思想成立史における古学派への高い評価は左もかくも

改めて再検討されなければなるまい︒

しかもその再検討はこの場合必然的にか与る評価をもたらした丸山氏の分析方 法そのものの再棟討と実は聞く結びついているのである︒つまりすでに明かな如く︑古学派への高い日価は︑封建社 会における正統的な世界像がどのように内面的に崩壊していったかという課題にとりくみ︑近代的意識の成長をとく に内面的な思惟様式の変容のなかにさぐるという観点で主として儒数(とくに朱子学的思惟﹀の自己分解過程にのみ それぞ求めるといった丸山氏の方法そのものがむしろ必然的にもたらしたものなのであった︒だから丸山氏

F U

身が自

らの方法について︑﹁正統的なイデオロギーの解体過程を一一兵返せばそのまぶ近代的イデオロギーの成熟になるという

桜械

的な

一備

rい刊に陥ってしまった︒﹂として﹁封建的イデオロギーを内部から解体させる思想的契松左以て直ちに近代

意誠の表徴とは看倣し難い︒それはむしろ本来の近代意誌の成熟を準備する前提条件とでもいうやへきものである︒

L L

(9V 

自己批判されているのは前述の山題点に多少とも気づかれてのことであったと思われる︒しかし問題はたまたま丸山 氏の方法が陥ち入った単なる偏向にのみひそんでいたのであろうか︒むしろ氏の方法そのものが実はか

Lる偏向を必

仁斎

学の

歴史

的性

格と

その

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仁斎

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格と

その

基麗

/ ¥ .  

然的に生み落すものであったりではないだろうか︒したがってそうした意味で︑丸山氏が実は﹁前近代とは内容的実

質的価値を政治権力が担う社会であり︑近代とは内容的実質的価値そ個人が担い︑国家や社会はこうして自立した絶

対的主体としての個人の利益実現の手段や形式となる社会だ︒だから個人の成立こそが近代そのものなのだ︒﹂

う立場をとりつヘそれ故にその方法が結局は主体的自我日近代的個人の成六史を明らかにするという形で近代思想

成立史を民間同されたのだとして︑問題はだからかLる丸山氏の方法そのものの克服にあると提唱されている安丸良夫

︿

m )

氏の見解にこの際吾々は注目しなければならないのである︒

勿論︑近代社会の形成は︑私的利益の白台な追求という社会的原理にしたがった資本主義の形成として把握される︒

したがって私的利益の追求欲︑つまり﹁私欽)こそが社会発展の主体的原動力となる以上︑自然的な人間性である欲望

を原理として社会を構成しなければならぬという考えや︑そのような欲望の主体であるところに人間の人間らしさを

みようとする考えへの展開として近代思想の成立史を把握することはそれ自身なんらあやまりとはいえない︒だから

この場合︑安丸氏が問題とされたのは︑このように近代思想の成立史そ主体的自我日近代的個人の成立史として担える

とし

ても

その際それが何よりも﹁外的世界に働きかけ︑何ものかを作りあ︑げてゆく詑動的な生産者としての個人﹂

の成立史でなければならず︑けっして﹁白己の内的心情の世界にとじこもるカ弱い自我﹂の成立史であってはならな

いということであった︒つまり思想史の内部の問題として述べれば︑﹁私欲﹂がなによりも﹁生産'者の倫理﹂のなかで

追求

され

るこ

と︑

したがってそこでの人間観がその展開の途上で自然観や社会観の近代的発展と決して対立︑矛盾す

るものであってはいけないということなのである︒だから安丸氏は前述の如き丸山氏の方法を克服する試みとしてそ

の点

に一

同国

立払

され

て︑

とくに﹁牛産力の発展﹂という観点を思想史研先に導入することじよって︑近代的社会観の形成

(7)

には︑生産力︑民主主義︑近代的自我の発展といった一一一つの要素が不可欠なことそ強調され︑﹁とうした三つの要素 の対立や衝突を含みながらも他方で必然的に結びつきあい補いあいながら展開するダィナミッグな過程として近代思 想史をとらえたい︒﹂と主張されたのはその意図からいってきわめて適切であった︒

しかしそれにしてもこの場合安丸氏がせっかく検出された近代思想の一一一つの要素の担い手在ただわにわが同近世后 期の思想的状況のなかに把﹀えられそれ左それぞれ﹁第一に生産力の発展という問題は本多利明︑海保育陵︑佐藤信淵 らの重商主義者によって︑第二に近代的自我の問題は代表的には本国宣長に上って︑第三に革命的民主主義は安藤昌

益によってやL孤独に提起された︒L

と規定されたのははたして充分に適切であったといえるだろうか︒というのは 安丸氏自身も一五われるようにわが国においては﹁なるほど三つの要素は成立することは成立したが生産力発展の主張 は個人主義と民主主義を拒否したきわめて専制的な社会体制の主張と結合するところに成立し︑近代的自我は向我の

社会性在切りすてL

︑内面的世界にとじこもることによって成立し︑革命的民主主義ば生産力の発展と個人主義を歓 望の所産であるという理由によって拒否するところに成立した﹂のであり︑結局三つの要素は﹁それぞれ他の要素を排 除することを通じてのみ成立していた﹂とたえられ︑る以上︑成立したがしかしけヮして結合するととのなかりたこれら

の三つの要素がはたしてそのまL

で近代的社会観の構成要京たりうるのであろうかといら疑問がそこに生じてくる のである︒なぜならこれらの三つの要素はたしかに一方で近代的社会観それ自体の内包すあ構造酌矛盾によってやが ては必然的に相互にはげしい対立︑八刀裂を経験せざるをえなくなるであろうじしかしにも拘らず他方その成立の当初

においては︑とりわけ﹁民富﹂の形成過程にみられる如く︑

卒福な結合(あるいは深刻な対立︑分裂の廻避)を一時的︑経過的になしとげていたのであり︑事実西欧においては

これら一一一つの要素はたしかに生産方の発展を中核として

仁斎

学の

歴史

的性

袷と

その

基盤

λ五

(8)

仁斎

学の

庵史

的性

格と

その

基盤

....... 

この幸福な結合はあまり大きな変容をうげずに十八世紀のブルジョア思想のなかに支でろげつがれていったのである@

安丸氏も一五われるごとくまさに﹁近代社会の形成期には︑民主主義と近代的自我はそれ白身近代的生売力の主体的根

拠であった︒﹂のである︒したがってやはり近代社会閣の形成は基本的には︑やがて全面的に開柁しそれ故に必然的

に相互に分裂しあう一二つの要素の幸福な結合からひとまず出発するものなのであった︒したがってこうした起点を欠

如しそれ故にその当初から﹁一一一つの要素が成立するこ王はしだがそれぞれ他の要素令排除するこ正を通じてのみ成立﹂

したといわれるわポ国近世社会における一二つの要素はあくまでその主与ではただちに近代的社会観の構成要素だりえ

ないものであったことは明白ではないだろうか︒

要するに安丸氏はせっかく思想史研究のなかに﹁空売力の発展﹂という問点を湾入して主体的自我

HE

代的個人の

成立史といった従来の方法在克服されろための秀れ十一着想を提示されつLも︑結周は近世一日期の思想的状況のなかに

近代的社会観の三要素を個別的に指摘されたに止まり︑それらの諸要素を近代的社会観に統一的に構成してゆく茶準

を結局ば提出していないといわざるをえない︒そうしてこの原因は実は次の点にあるのである︒

すなわち安丸氏︑が﹁生底力の兎展﹂という観点を思想史研究に導入するととに上って近代思想史合一舟間成し工うと

しながらも︑実はこの場合これまでのいわゆる﹁人民史観﹂的立場の不充分さを指摘するのあまりに︑この歴史的時

期における生産カ発展の主体であり担い千である直接生産者(農民﹀を﹁民血液即ち一般農民は︑まさに椴びゆぐ階級

であるから︑私たちの当面の課題において滅びゆく階級の允場に立つのがもっとも進歩的であるというのは︑

1

)

意味ではまったくの背理であるOLとしてその分析視角の外部に追いやってしまったとい今点である札﹂なるほど近代

あ る

社会の形成期に

MM

どこにおいても農民層は'たしかに両極に弁解しつL階級王して自らそ存定してゆく︒との意味明︑

(9)

彼ちはまさに﹁滅びゆ︿階級﹂であるととに間遠いはない︒しかしこの場合次の点を問見引決してはならない︒十なはち封

建的諸関係が末解体の限り農民はその内部に不断の分解傾向を内包しつLも依然として由権力に対抗する一

つ の 階

級として結合していたし︑まさたその限りで﹁農民﹂としてその時期における生産カ展開の中核的推進者に他なら

なかったといFつことである︒実際封昨日制のも主における近代社会形成へのすべて胎動はつねに農村︑

し た が っ て

﹁農民﹂を母胎として出発しているととは周知のとおりである︒かの﹁民宮﹂の形成も︑それにひきつどぐブルヅヨ

ア的諸関係の発生もまさに奥村の只中で﹁農民﹂によって担われていたのマあった︒近代社会の形成期はまきに﹁減

びゆ

く階

級﹂

H農民層が実はかえってすべての進歩を代表するといった特別の時期であった︒社会発展史におけるか

Lる複雑さを主口々は充分に理解すべきであろう︒かくて封建制から近代社会への移行期における﹁生産力の発展﹂は

つねに直接生産者日農民たちの主体的成長と全く切りはなすことは出来ないのマある︒封建制のもとでの生産力発展

のか

Lる性格を安丸氏は見逃してしまったわけである︒したがって氏にあっては﹁生産カの発展﹂という貴重な観点

は︑当然のことながら思想史的には労働H生産過程への考察を欠如した﹁富国﹂を核心としたいわゆる﹁重商主義﹂

のうちに追求されるに止まったのである︒こLでは止高一一力の発展︑増大ばその社会的性格を何ら問う所のない単な

る﹁富﹂のより多くの獲得(したがって流通過程でのそれ)という問題に吋限され︑封建制のもとでは生産力の増大

はむしろ何よりもまず直接生産者のもとにおける﹁民百Lの形成として追求さるべきであるという竜安な観点が完全

に脱落してしまった︒

したがって﹁生産力の発展﹂にか

Lわらしめてはじめて切実に理解される近代的自我の成立

も︑また革命的民主主義の主張もついに

E1

な場所で追求されることなく︑さらには﹁民富﹂の形成過程におけるそ

れらの統一のもつ重要な意義も評価されらことがないま与に終った︒だから安丸氏の指摘された宜民にみられた近代

仁斎

学の

歴史

的性

格と

その

基盤

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仁斎

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その

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λ 八

的自我の追求が生産的基礎からの遊献の故についに現実とのか

Lわりあいをさけた非実践的な﹁内面的心情の世界で

の人間解放﹂にすぎなかったものであったのはむしろ当然であるといってよい︒

これを要するにもし近世思想史研究において﹁生産力の発民﹂という観点を導入して近代社会の形成を把握しようと

する

なら

ば︑

わが国においても﹁民富﹂の形成を熱望した直接作産者(小経営)のもとにおいて独特な仕方で三つの 構成要素の結合(それはついに意識されざる結合

H末分化の状態を克服℃きなかったといえる︒)がやはり経過的二

時的にみられたこと︑

(安

藤臼

田益

はま

さに

Lる時点の思想家として評価さるべきであり︑彼にあってはその革命的

U民主主義の要求は他の構成要素となかば意識的に固く結人口していたのであったJこもふからやはり分析を出発させる

べき

であ

ろう

︒ つまり﹁民主主義と近代的白我はそれ白身近代的生産力の主体的根拠であった﹂といわれる地点から 近世期の思想状況が改めて展望︑評価されるべきではなかろうか︒そうしてか与る基本的立場の確認の上に︑一二つの構 成要素の展開がやがて必然的にもたらす対立︑分裂の事態が思想史的に確定されてゆかなければならないのである︒

こうしてはじめて近代思想の成立史そたんに近代的自我の成立史として把握する立場左完全に克服することができる

ので

ある

︒ したがって以下本稿で意凶する古学派の再検討は当然以上の上うな思想史の方法についての再検討と出後に結びつ

いている︒すなはちこふでは人情‑

人欽の容認︑肯定を主たる内容とする古学派における人間性め﹁解放﹂が結局は そこにおける自然観︑社会観の順調な展開をもたらさず︑むしろかえってそれらの展開がそこでの人間観と矛盾し︑対 立さえするに至る誌味をさぐることによって︑改めて古学派思想の世史的性格詮共体的に明かにし︑

さらに近世思想

史ょにおける々の位置乞雄一定しなおすことが主妥な一謀起であるといえよう︒それにしてもこうした古学派の再検討を

(11)

まず﹁仁斎学﹂の分析から出発させるのは次の理由によるのである︒

すなわち朱子学にたいする批判者としての古学派の内部においてこれまでに仁斎学はだいたい狙来学の前駆的役割

たはたしたものとして位置づけられてきた︒つまり朱子学的思惟様式の解体といった点に着目すればそこで決定的な

役割をはたしたのはあくまで狙来学であり︑仁斎学はむしろそれへの一階梯にすぎなかったとされたわけである︒たし

かに思惟様式の転回を促がすという点で仁斎学は狙来学に一歩譲らざるをえない︒しかし思惟の様式の点ではなくそ

の内容の点に注目するならば仁斎学は朱子学批判においてたしかに独自の役割をはたしている︒すなわち仁斎は朱子

学の為政者論的性格にはげしい攻撃を加え︑その﹁徳治主義﹂を理論的に論破するととによって武士支配の道徳的優位

性を否定したのである︒おは現実の封建支配秩序に対する最初のしかもて間接的ではあるが徹底的な攻撃であっ

た︒この意味で為政者論的性格を朱子学から継承し︑新たな論理で現実の封建支配を維特せんとした祖来学が︑他の誰

にもまして仁斎に対して攻撃を加えつ与の理論を展開させたことは決して偶然ではお︒この点では仁斎学は狙来

学と鋭く対立する︒したがってまたこの点で仁斎学が古学派のいわゆる﹁進歩性﹂をたしかに担う代表者であったと

云える︒だから古学派の本来の一面をまさに仁斎学のなかに見出すことができるという意味で﹁仁斎学﹂の分析はと

の場合重要な意義をもっているのである︒

( 1 )

安丸

良夫

﹁近

代社

会観

の形

成﹂

(日

本史

研究

第五

三号

所収

)

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古学

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後述

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(2

)

丸山

真男

﹁日

本政

治思

想史

研究

﹂(

東大

出版

会)

( 3 )

同 右

仁斎

学の

歴史

的性

格と

その

基盤

/¥ 

(12)

仁斎学の一際史的性俗とその基盤

丸山氏が︑その研究において﹁封建社会における疋統的な世界像がどのように内丙的に崩壊して行ったかという課題﹂の解明を

通じて﹁広ぐは日本社会の︑狭くは日木思想の近代化の型︑それが一方同欧に対し︑他方アジア詩国に対してもつ併質﹂を究明

しようと意開門された点かちその独自の秀れた尽想史分析の方法論を評価するととをとの際忘れてばならない︒ぎったく﹁近代の

ヱ九超﹄や﹃否定﹄が芦高︿叫ばれたなかで︑明治維新の近代的側面︑ひいては徳川社会におげる近代的要素の成熟に着目する

ことは私だけでなく︑およそフアヅツズム的歴史学に対する強い抵抗感そ烹識した人々にとっていわば心死の拠点であった︒私

が徳川思相宿主取リ組んだ一つのいわば趨学日的働機もこ与にあった﹂と氏は本書の﹁あとがき﹂のなかで述懐しているのであ

る︒(前掲素口﹁あとがき﹂参照)

だから︑﹁近代意識を内面的な思惟方法の中に探﹂ることによって日本におげる沢一代的なるものの一面たるその﹁後進性﹂た導

き出し︑また他方で﹁近代的意識を主として儒教の自己分解過程にのみ跡づけたこと﹂によってその﹁判明慢性﹂日﹁非停滞性﹂

今一導き出しだ氏の方法はその課題と固く結びついていだのである︒(荷揚品昔︑第一章﹁なすび﹂会昭一)

(4

)

石田一良氏の諸著作︒﹁伊藤仁斎﹂(古川弘女傑)﹁町人女化﹂(一金交堂)お上び﹁伊藤仁訴し(﹁日木守化研究第五巻﹂

所収

l l

新 潮 さ を 参 照

(5

)

安丸庭夫﹁近世思想史における道徳と政治と経済

L (

白木史研究第四九号所収)および︑問原嗣郎﹁茨坐相来における朱

子学の理解と批判﹂{史学雑誌第六十入編第十一けす所収)参照

(6

)

松木一一一之介﹁国学政治思想の研究﹂(有斐閣)および丸山前掲書参照

(7

)

水田洋﹁近代人の形戎﹂(東大出版会ソとくに清一↓章参照

(8

)

河音棺平日長奴制についてのおぼえがき﹂(日求史研究第四九ロヴ所収﹀

﹁村落共同体﹂は︑農奴制の克服過穫で︑小経営生産様式の︑池域的な統一をもった生産共同組織として︑しかも封建的土地所

有に対する直接生産者の共同防衛組織として︑新し︿今迄パラパ一7であった生産共同組織を地域的に統一︑再編成して形成され

るのである︒そh山故それは封透的土地所有に対決して︑うばわれた﹁南有﹂をとりもどそうとすおところの︑農奴制を克服した

小経営生産様式のいわば政治的共同組織なのであり︑きらには﹁民宮﹂の形成そ可能にするための附級的︑政治的組織という歴

史的産物としての性格がひそんでいるのである︒

︿9

)

丸山前掲書﹁あとがき﹂参照

(13)

(叩)以下については安丸氏前掲論女(日宏史研究第阿九号および第五一ニロマ)を参照

(日)安丸氏はその論文‑近代社会観の形成﹂のなかでとれ空で沢代田川相︿史研究において立すの土色昔︑識的に検用きれずきた+刀法

を四つあげ︑それら沿いずれも不充分なものとして批判されていあ︑すなわちそれば第一が唯物論と間余論の対立(唯物論が必

ず進歩的といろ閃式)第三が民衆的六日叫に上り近いものが准一歩的と考える視角︑第一一︑が近代的向我烹殺の成す段︑第四がいわゆ

る﹁

経済

決﹃

r ‑

論しで4ある︒だが主口々は氏の折判の費電なとと吟認めつつも︑しかし古川会の研究成果の枇判に当っては︑柑問e

眠︑

た考

慮が必要であることそ︑主張せずにはいられない︒すなわち渇会の研究成果の不充分きそ指摘すお場介には︑その不究分きが甘需木似し片山正しい方法によりつ

L

も︑それの展開の末熱さから出ている場合と︑方法そのものの誤りから出ている場合を十分に区別

する心要がある︒私見によれば氏のあげた四つのうち第一と第二は前者であり︑第三と第四は後者であり︑したがってその両者

ははっきりと区別する必要があると芳︑予告︑廿靖木酌にはだしい方注や紘一水しつ﹂ぞれが思組問史の芦秩論として充分に展開されて

いない欠陥をこそ克服するととによって慣に新しい方法が昨す‑きれるのではないだ丸︑っか︒安丸氏のすぐれた方経論についての

提一言も実はそうした作業のための一つの成果であるとむしろ考えられるのであお︒

(竹

山)

拙稿

﹁安

藤島

益の

封建

制批

判と

その

背景

パ門

︑同

﹂(

同士

山社

大口

終済

山学

論養

柏田

一六

c︑

一二

回す

およ

び肉

nT問

mm

vp 一

参照

安藤問問益は自らの理想社会H﹁自然世﹂において﹁夜耕﹂すなわち曲目業生産そ唯一の生資的併働正芳倣し︑それをひだすら直接

生産者H農民の人格的白白と平等の某礎と把えていた︒つまり彼は﹁曲町業問題検業太的には何より

J h

人格H牛驚カの視点から

農民問題として解決しようとしていた﹂のであった︒まさに﹁労働去が自分自身の生産手段を私有することは小経営の基礎ゼあ

り︑小経営は︑社会的生産の発展のための︑および労働者自身の自由な個性の発展のための一の必要条件である︒﹂(マルク

ス)また﹁向営農民の自由な土地所有﹂は﹁との場合︑それは人片付的自立の発展にとっでの慕礎をなしており︑農業そのものの

発展にとって一の必要な煩過点であお

o

﹂(マルグス)のであった︒以上のよろな日間誌の独自の牛一斉力相搾ぞ簡単に見逃しては

E︑

ν γ

ν

(日)相良亭﹁近世日木儒教運動の系譜﹂(弘女堂)とくに第三重ーを参照

なおこの点については次節以下を参照されたい︒

(は)田原嗣郎﹁一次生狙来における仁斎学の批判﹂(北大史学第六号所収)参照

仁斎学の歴史的性絡とその盤基

(14)

仁斎

学の

歴史

的性

格と

その

基麗

九 仁斎学の内容

出発しようとする気運を生んだという事情のなかに︑

近世思想界における古学派の拍頭は︑朱子学や陽明学の対立から来る後世儒学への疑惑が︑直接に儒教の古典から

1そのイデオロギー的原因を持っていた︒したがって京都の町家

に生まれついに市井に一生を過した儒者であった伊藤仁斎ハ一六二七

i l i

O

五)が︑幕藩制自然秩序の基礎をほ

りくずしつL

急速に成長してきた庶民の生活体験を背後に︑朱子学の静的

H観照的性格と為政者論的性格日﹁徳治主

劃りそ批判しつ与︑それが現実に武士以外の階級をもふくむ普遍的な身分制原理たることを拒否せんとして自らの独

自の思想体系H﹁仁斎学﹂を構成しようとした時︑彼はやはりその学問的作業を文献批判

1

1すなわち朱子が自らの

4

U

聖学を構成する基礎とした﹁四童日﹂の権威にたいする批判ーーーからまず出発させたのであった︒

︿5すなはち仁斎件︑﹁論一世間在以て最上となし孟子を以て之れに次ぐとなし︑﹂まず論語を﹁最上至極宇宙第↓﹂の書と

(6

し次の如く論ずる︒

﹁論語の一書は寓世道学の規矩準則なり︑其言至正至当︑徹上徹下︑二子宮増すときは除りあり二字を減ずるときは

人其中にありて其大なるを知らざるが

足ら

ず︑

道此

に至

りて

尽き

︑円

ソナ

此に

て極まる︑猶ほ天地の窮まりなく︑

ごとし︑高世に通じて変ぜず︑四海に準じて速はず︑

あム

大な

るか

な︒

(﹁

論語

古義

﹂)

﹁夫子以前教法時々備はると艇も︑然れども学問末だ聞けず︑道徳木だ明かならず︑直に夫

f γ

に至

りて

然し

て後

(15)

道徳学問︑初めて発揮し得て尽くし︑高世の学者をして︑専ら仁義に由りて行くことを知らしむ︑而して種々の鬼 神卜壁の説︑皆義理を以て之れを断じて︑道徳と相混せず︑故に学問夫子より始まりて︑斬新開聞すと謂ふて可なり︑﹂

(

)

また彼は孟子の学そ以て﹁孔門之大宗嫡派﹂といL次の如く述べている︒

﹁孟子の書は︑高世の為のに孔門の関錦を啓くものなり︑孔子の言は平正明白︑浅きに似て実は深く︑易きに似て実は

難く

︑海

々論

々︑

天に幡り地に根ざし︑其底極する所を知るなし︑孟子に至りて誇々然として其務方を指し︑

其標

的を示し︑学者をして源委の窮まる所を知らしむ︑故に性命道徳︑仁義礼智等の説︑皆当に孟子の一一=口を以て之れが

註脚となして其義を解すベし︑切に論語の字面に従って其意趣を求むべかららず︒﹂(﹁孟子古義﹂)

つまり真に学ばんとすれば論孟の二書に通じて﹁市る後に六経を読むべし﹂(六経とは詩・書・易・躍・楽・春秋

と主張し︑六経の内容のうち﹁論語﹂

﹁孟子﹂に矛盾するものは斥け︑特に﹁櫨記﹂中の一篇だった﹁大学﹂││

朱子が論︑孟二書および﹁中庸﹂と共に﹁四書﹂として篤く信奉した﹁大学﹂!ーを孔子の遺書にあらず偽書なり

とし

て排

撃し

た︒

(﹁大学非孔子遺書弁﹂)またさらに彼は﹁中庸﹂をも批判し︑

(?

) 

を異本よりの挿入と断じた︒(﹁中庸発揮﹂)

その喜怒衰楽の章︑鬼神の章以下

つまり仁斎はこLで論孟二書を規準として﹁四書﹂を批判し︑朱子がその思想的な一貫性を何よりも信じ主張した﹁四

主巴が実はそれぞれ異質的なものであることを誼明したのである︒かくて一貫性を認めることの出来ない﹁四書﹂から一

8

) つの体系ある思想をとり出すことは許されない︒こうして朱子学の基盤は根抵からくつがえることになるのであった︒

それにしても仁斎がこL

で行

った

四書

批判

︑ その異質性の指摘はたしかに朱子学の権威を否定する方法としては有

仁斎

学の

歴史

的性

格と

その

基盤

(16)

仁斎

学の

歴史

的性

格と

その

基盤

効で

あっ

たが

しかしそれに代わる論孟ニ書を規準とした自己の新たな学問体系を権威守つけるには不充分であったと

いわなくてはならない︒そこで吾々は彼の文献批判そ通して形成されてきたその積極的な主張111﹁仁斎学﹂の内容

に目を向けて行かなくてはならない︒

はじめ朱子学佐信奉しつ与も万治元年(一六五八年)の﹁仁説﹂発表以来次第にこれを克服しついに独自の古学を

提唱するに至った仁斎が自ら述べる如く彼の朱子学への疑問は︑それが結局は﹁世儒(中略)徒らに心の不動を以

て存すと為し︑其の物に動か︐さることを欲す︑故に其流遂に坐禅入定の学と為る﹂

(﹁古学先生文集﹂)といった個人の心の不動H

﹁清

浄無

Lと現実離脱をもたらす静的︑観照的性格盈もっている点

に向けられた︒したがって一切の後儒の脚註在排して直接に孔・孟のニ書に就いた仁斎は﹁蓋し聖人は天地を以て活

物となす︑故に易に日く︑復は其れ天地の心そ見るかと︑老氏は虚無を以て道となし︑天地を視ること死物の如く然 ﹁卑者は把提科持の学となる﹂

り︑故に聖人は天道といひ︑老子は天理といふ言各々当るところあり︑此れ吾道の老仏と自ら異にして混じて之れを

(﹁詔一十周字義巻之上﹂)として老仏等異端の道を以て静止的と難じ︑積極的に動態的な世

界観をまず展開する︒すなわち﹁蓋し天地の聞は一元気のみ︑或は陰と為り︑或は陽となる︒両者は口ハ管両間に盈虚︑ 一にすべからざる所以なり﹂

消長︑住米︑感応し︑未だ嘗て止息せず︒此れ即ち日正の天道の全体にして︑自然の気機なり︒蔦化此より出で︑品業

此に由って生ず﹂(﹁語孟字義巻之上﹂)また﹁蓋し天の活動たる所以のものは︑其一元の気あるを以てなり︑

気は猶ほ人の元陽ゐるがごとし︑:・唯々天地は一大活拘︑物を生じて︑物に生ぜられず︑悠久窮りなく︑人物の生

則ち斯気なきこと能はず︑斯気や既に生ず死あるに比せざるなり︑夫れ太虚なさときは則ち巳む︑太虚めるときは︑

(17)

る所もなく︑持生ぜぎる所もなし︑蔦古独り立ちて顧撲破れず︑

止一

一品

に虚

無を

以て

之れ

を目

くべ

けん

や﹂

(﹁

章子

円﹂

巻之

中)

と︒

したがって朱子学の如く大極・大虚を﹁理しとせずに﹁所謂大極といふものも︑亦此の一元気を斥して

一五

ふの

み﹂

(向

上)

と主

張し

その自然把握ヒ当っては被が静止的とみる﹁理﹂詮以て天地の根阪とするととを国く

否定

して

これに代って﹁一元の気﹂の活動から一切の現象を説明せんとしたのである︒したがって彼は﹁理ありて

而して後斯気そ生ずるにあらず︑所謂理とは︑反りて是れ気中の条理のみ︑:::太凡そ宋儒の所謂開ありて市して

後︑気あり︑及び士ふだ天地あらざるの先き︑暴十寛先づ此理あり等の説は︑皆臆一肢の見にして︑蛇を画いて足を添へ︑

頭上に頭を安す︑実に見得るものにあらざるなり︑﹂(﹁一治志字義﹂巻之上)とか︑

﹁理

は本

と死

字︑

物にありて物を平

生物にありては︑生物の理あり︑死物には死物の理あり︑人には人の理あり︑物には物の理あり︑然

れども二冗の気︑之れが本となりて理は気の後あり故に理は以て寓化の枢紐となすに足らざるなり﹂ る

こと

能は

ず︑

﹁(

章子

問﹂

巻之

中)と規定することによっ℃﹁末だ天地あらざるの先き︑

恩十

寛是

れ先

づ此

理あ

り︑

ー一

﹁此理あり︑使ち此天地あり︑

若し此理なければ︑便ち亦宍地なく︑人なく拘なく︑都て該載なく了はる︑理あり︑便ち気あり︑流行して高物を発

古 [ 丹 ︑

寸 ︑ ﹂

(朱子﹁諾類﹂巻一)という﹁理﹂を桜木範障とする朱子学のいわゆる﹁理先気後説﹂と鋭く対立したのであ

る︒すなわち﹁寓物は五行に本づき︑五行は陰陽に木づく︑﹂しかし﹁再び推して陰陽の然る所以に至るときは︑

長 リ も之れを型に帰せざること能はず︑既に理に帰するときは︑則ち自ら虚無に陥らざること能はず﹁(﹁章子問﹂巻之中)

﹁理を以て主となすときは︑必ず禅荘に帰す︑蓋し遣は行ふ所を以て一一一円ふ︑活字なり︑理は存ずる所在以て言ふ︑

宇なり︑聖人は道を見るや実︑故に其理を説︿や活︑老氏は道を見るや虚︑故に其顕在説くや死︑﹂

(﹁

語平

間字

義﹂

巻 之上)であり天地は﹁一大活物﹂であるのに﹁理﹂の哲学は敢えて﹁一再び推して﹂天地の然る所以の珪

H本質を求め

仁斎

学の

暦史

的性

格と

そか

J

九五

(18)

亦斎

学の

闘史

的性

格と

その

基盤

ることによってついにとれを静止︑死の状態において捉え︑結局﹁天地﹂を﹁死物﹂と断じてしまうと批難する.

九六

ペ コ

まり朱子学における﹁理﹂の﹁気﹂に対する論理的優位がついには価値的優位にまで結果し︑生々発展する天地(し

ることを批判したのであっ旬︒ υたがって人倫)の形而上学的把握に終り聖人の意と阻歯するに至

こうして仁斎は﹁天地の化︑生生として窮り無し︒有れば則ち愈々有り︑無ければ則ち愈々無し︒其の有の盛なる

に当りでは︑則ち愈々相倍葎す︒天下の巧を極むと雄も等しきこと能はず︒償し無の極に至れば則ち減し市して又減

す民混然として漸尽す︒跡の尋ぬぺきなし︑これ天地の妙なり︒﹂

(﹁

語孟

字義

﹂巻

之上

)と

﹁易

に日

く︑

﹃天

地之

大徳日ν生﹄と言ふは︑生々して巳まざるは︑即ち天地の遣なり︑故に天地の道は生ありて死なく︑褒ありて散なし︑

死は即ち生の終り︑散は即ち衰の尽くるなり︑天地の道生に一なるの故なり︑父祖身没すと雄も其精神は之れを子孫

に伝へ︑子孫又之れを其子孫に伝へ生々断えず無窮に至るときは︑則ち之れを死せずと謂ふて可なり︑高物皆然り︑

査に天地の道生ありて死なきにあらずや︑故に生ずるものは必ず死し︑棄まるものは必ず散ずと謂ふときは可なり︑

生あれば必ず死あり︑粟あれば必ず散ありと謂ふときは不可なり︑生と死と相対するが故なり︑﹂(﹁語孟字義﹂巻之上)

といった弁証法的とも思える動態的な世界観を展開しつL︑﹁静とは動の止︑悪とは善の変﹂にすぎず﹁天地﹂は不

断の運動において担えられるべく︑運動をはなれては実体は存在しないという半ば唯物論的な有機体論的理解を示す

に至

っ向

uしたがって彼はとLから当然に﹁既に天地始終開聞有りと謂ふ可からざれば︑別ち固より始終開闇無しと

謂ふ可からず︒然れども其の窮際に於ては︑則ち聖人と雄も之を知る能はず︑況んや学者をや︒故に存して之を議せ

ざるを妙となす﹂

(﹁

語孟

字義

﹂巻

之上

)と

か﹁

宋儒

以為

らく

一理の字は以て天下の事を尽すべしと︒

殊に

知ら

ず︑

天下理外の物無しと雄も︑然れども一理の字を以て天下の事を断ずべからざるを﹂

(﹁

童子

関﹂

巻之

中﹀

とい

った

結局

(19)

は個人の主観的認識に帰着する﹁窮理﹂のもつ限界を指摘しつヘ

もてあそ心を高速に翫び︑力そ精徴に弾じ﹂ ﹁若し先づ窮理を以て主と為せば︑

別ち

唯理

宕目

れ求

め︑

(﹁童子問﹂巻之上﹀また人事において﹁専ら理に依って断決すれば︑則

ち残忍刻薄の心勝ちて︑寛裕仁厚の心寡し﹂

ている︒かくして仁斎にあっては﹁聖人天道を日ひ人道そ日ふも末記嘗て理の字を以て之に命ぜず︒易に臼く︑理を

(同上︑巻之中)といった一見反合理主義的な不可知論的認識論そ展開し

窮め性を尽し以て命に至ると︒蓋し理を窮むとは物を以て言ひ︑

と、言 に、五〉

係、

kt、物

ざ、自る、ょ

」 しを、り

て 人 と 天

主(の詞を措くに自ら次第あり︒見るベし︑

性左足すとは人を以て言ひ︑命に至るとは天を以て

理の字を以て之を事物に属して之を天と人

(﹁

語孟

字是

認﹂

巻之

上)

とい

うご

とく

﹁気

中の

条理

としての理がたとえー主張される場合にも︑

明白に天と人への連鎖を絶たれて﹁物理﹂に限定されたのである︒

要するに仁斎の展開したご元の気﹂を中核とした発展的︑動態的な自然観は﹁理﹂の﹁物理﹂への限定︑

しかも

自然認識における不可知論的立場︑

きらには天道と入賞の区別(したがって﹁道﹂リ理

H性の右定)?といった諸結果

を必然的にもた︑りした︒ぞうしてこれらの結果は吋七のすべてが直ちに﹁道﹂H﹁理﹂日﹁性﹂といった把握を基礎に 道徳担範と白熱法則との連続的構成をとっていた朱子学の根本的立場への攻撃を意味していたのであった︒

まさしく仁斎による動態的自然筒の主張は朱子学の静的日観照的自然把握への﹁理﹂の限定と不可知論の展開は 宋学合理主義への︑また天泣と人道の区別の主唱壮その規範?と自然との連続的構成への探刻な批判をそれぞれ内包し

‑ o

T

し 中 心

いまや朱子学体系の基抵は被の手によってくずされはじめたといってよい︒しかもこのことはまた当然に朱

↓十学体系を理念的支柱として形成されていた現実の守分制的自然秩序と﹁徳治主義﹂へのひそかな破壊作業をも意味

して

いた

︒ かくて﹁仁斎学﹂の提起したその独自の自然理解はたんに朱子学の理論的基礎を奪うのみならず︑その現

仁斎学の歴史的性格とその基盤

(20)

仁斎

学の

歴史

的性

格と

その

基盤

/ ¥ .  

実的役割をも否定する結果をうみ出すに至るのである︒

ところでなんといっても仁斎が最も重視し︑最も詳細に展開したのは道徳論││つまり天道から区別された意味で

の﹁人道﹂論であっ苛もちろんこの場合彼の自然観において示された天地の活物性の認誌はただちに人倫の活物性

の理解し一してうけつがれている︒にもかLわらず結局は仁斎がその道徳把握︑人間理解においてきわめて慎重であり︑

まれ

﹁凡

そ聖

人の

所謂

道一

とは

皆人

道か

一以

て之

左ヨ

一日

ふ︒

天道

に至

りて

は夫

の子

牢に

一一

一一

口ふ

所に

して

︑子

賞の

得て

聞く

司か

らず

とな

す所

以な

り︑

﹂ (﹁語走字義一巻之上)といって天道と人道を区別し︑道を主として人道に限定したのは︑規範

L

自然

との連続的構成を有する朱子学合﹁理﹂主義が結局は現実的人同を﹁非自然﹂り悪と見倣す見地(故に理想的人間H

﹁白然﹂とする)から自然

L

一次元を異にする人間の独自の存有形式を否定し︑

したがって︑天道の外に人道がなく充

見において虚無をもって人道をもみざるをえなくなったからであり彼はかさゐ立場を克服しようとしたためであった︒

かくてその品物性において天地と人倫の共通牲を認めつ午︑も︑

しかも仁斎は人倫において︑

した

がっ

てそ

の一

﹁人

道﹂

論においてはそこに独自の法則がつらぬくことそ明かにしようとしたのである︒

人は活物である︒それ故仁斎はその人問調解において性を人間に賦与された﹁一入一理﹂と考え一性﹂

﹁情﹂をかんたん

﹁性は生なり︒人の其の生ると附にして︑加損すること祇さ﹂もので︑且つ

﹁気質を離れて之れを言ふものに非ず﹂︑従って性は﹁人々固有する所﹂で﹁天下の設ぬる所に非ず﹂︑故に﹁人の

J

監は:::万同じからざる有りη:

・:猶ほ梅子の牲は酸く︑柿子の牲は甜く︑某薬の性社福く︑某薬の性は英︑きがごと

に品

品川

逼と

別区

する

朱子

学の

立場

を否

定し

L し

︿﹁

中康

発揮

)﹂

と説

く︒

つまっ性とは刊よりも人の﹁生質

L

であ

り︑

したがって人は一方で水がかから尽きること

(21)

なく流れ出るように側隠︑差︑加吋辞譲︑是非の心をもって生れついているが︑また同時に内からあふれ出るさまざま な情欲左もって生れついている︒だから人にあっては﹁日の美色を視んと欲し︑耳の好音を聴かんと欲し︑

口の美味

を食わんと欲し︑四肢の安堵を得んと欲するししまた﹁父必ず其の子の善を欲し︑子必ず其の父の寿考を欲する﹂(﹁詰 孟字義﹂)のでありこれらはすべて人が生れつきもっている自然の情である︒と述べ﹁気質の性﹂したがって﹁情欲﹂

をそれ自身悪と観ずる朱子学人性論と対立しつヘ

﹁情欲﹂日自然的欲望を﹁生質﹂に固有のものとして無視せ ず﹁荷も礼儀の以て之を裁く有れば︑情は是れ道︑欲は是れ義︑何の悪しきことか之有らん﹂

(

L巻之中)

いった寛容さを示したのであった︒た立仁斎はこL

で一歩進んで人々の﹁生質﹂したがってそれに必然的に内包され

た﹁情欲﹂日自然然欲望をそのまL

倫理化し︑それらの交錯の中から新しい社会規範の原理を構成することは一まず 控えたのであるすなわち︑人々の性質の多様性を認識し︑その自然的欲望を固有のものとして容認しつ与も結局は

( M)  

したがって﹁教化以前の存在﹂と見倣したのであった︒そ

それらをあくまで人間個々人の生得の自然的素質と担え︑

れにしても仁斎がこ与で示した人間理解は﹁性﹂﹁情﹂二別の立場から︑物に接してこれに応じて動く以前の末発の

ぷ 己 心日﹁性﹂を善とし︑物に接してこれに応じて動く巳発の心リ﹁情しを悪として修養の工夫をもっぱら末発の心に注

﹁本然の性﹂を確立せんとした朱子学が︑結局は現実を遊離した場で心の内面性の確立を目指すに止まりかえっ て日用事物応接の場を無視する抽象的な人間把握に終らざるをえないことを攻撃する基盤をきずくものであった︒す なわちその修養が﹁力を労して人を養﹂っている庶民に対してよりも︑

まず﹁心を労して人を治める﹂武士階級に対

して説かるべきであるという朱子学の為政者論的性格がやがて克服されるととになるわけである︒

ところでさきに天連道との続性を否定し︑

いままた人々の﹁生質﹂との連続を一まず否定された﹁人道﹂日道徳は

仁斎

学の

歴史

的性

格と

その

蒸盤

九九

(22)

仁斎

学の

歴史

的性

格と

その

基盤

0  0 

﹁仁斎学﹂にあってどのように把握されているのであろうか︒

仁斎によれば人は相互に往来し交る活物である︒人の本質はこの人が︑﹁以て往来する所﹂に求められなければなら

﹁道は猶ほ路の如し﹂であり人道日道徳は人の往来︑交りがよって以てなりたつところのもの︑人の往来をなり

(

たたしめるものでなければならない︒人の往来︑変りのなかに働くものでなければならない︒したがって﹁道徳は儒く

天下に達するを以て言ひ︑一人の有する所に非ざるなり︒性は専ら己に有するを以て言ひ︑ :

︑︒

中心

︑︑

ν

天下の該ずる所に非ざる

なり︒此れ性と道徳との弁なり﹂(﹁語孟字義﹂巻之上)といわれ人道は﹁一人の有する所﹂︑個人に内在するもので

まミ

o

f t

﹁道は人あると人なきとを待たず︑本来自有の物︑天地に満ち︑人倫に徹し︑時として然らざるなく︑

処と

して在らざるなし︑量に人物各々共性の自然に循うを待ちてしかる後に之有りと謂うベけんや

j一

(﹁

童子

問﹂

巻之

上)

であ

る︒

かくて道は﹁本来自有の物﹂であり天下の達道である︒したがって遣はあくまでも天下の上に実現されなけ

ればならず徒らに一身上の実現のみが目指されてはならない︒﹁天下を離れて独り其の身を善くするを欲し︑﹂

﹁ 天

下の従否を顧﹂(﹁且息子間﹂巻之上)ないものは異端である︒道を天下に実現するということは﹁人と己とを合して之

を一とす﹂ることで人倫的合一を実現することである︒

(向

上)

ため

であ

る︒

﹁己を修め徳を立つるも将に以て天下の人を安んぜんとす

このように彼は﹁人道﹂日道徳が﹁天下の達道﹂であり個々人の﹁性 る ﹂

Lから相対的に独立した客観的規範であるこ

ら 導 く 所

あ り 徳 し

物 も 済主の る 際 所 あ り

し一

とを主張した︒

﹁道徳の二字︑亦甚だ相近し︑道は流行を以て言ひ︑徳は存する所を以て言ふ︑道は自

(﹁

語孟

字義

L巻之上)というごとく徳は内容の資質であり道は発動する作用と

刊して担えられている︒ぞれ故道と徳とは切りはなして考えられず徳もまた結局は人性から相対的に独立したものと考

(23)

えられたのである︒かくてこLから彼の周知の主張︑﹃仁義礼智の四者は皆道徳の名にして性の名に非ず﹄(﹁語孟字義L

巻之上)が正しく理解出来る︒すなわち仁斎は朱子学が﹁性﹂の本質を﹁理﹂とし︑仁義礼智そかL

るものとしての

﹁道徳﹂はもともと﹁性﹂と具って起主観

的︑客観的なものであると述べたのである︒つまり仁義礼智ば伎においては︑﹁木然の性として人聞に本来与へられ

︹向日﹀たものではなく︑人聞がまさに実現すべく課せられたイデi的な性格を帯びてゐる﹂のであった︒かくて仁斎にあっ ﹁性﹂に備われるもの

つま

り︑

﹁理いの条日であるとした点を批判し︑

て道徳規範は一方で﹁人の外に遣なく遣の外に人なししというごとく自然界から分離され︑さらに他方で上述のごと

く人性より超越させられたのである︒

だがそれじしてもまさに﹁人の外に道だく道の外に人なし﹂であり道徳とは人倫の泣に外ならないから結局それは

人性に対して全く無関係な外部的なものとなりきることは出来ない︒だから仁斎は﹁道は性より出ずるというに非

ず ﹂

とみながらもやはり﹁性を離れて独立するに非ず﹂﹁若し性に循うと否とを論ぜざれば則ち以て道の邪正を且

るな

し﹂

(﹁童子間﹂巻之上)といムつ与︑人々が彼らにとって超越的な道徳にしたがい︑徳を行いうるのは︑元来人

性の外にある徳を身に得ることが出来る可能性︑がその﹁生置﹂のなかにそなわっているからであると述べる︒

す な

わち孟子の怯善説を継承しつL

徳 ︑

(すだわち仁義雄智)の﹁四端﹂(こ与では﹁端﹂は米子学のいう如くたんなる

﹁叫

相川

相﹂

では

なく

﹁端

Lなりと解釈している︒)たる側隠の心・茸思の心・辞諜の心・是非の心が情欽と共に本来

ひとしくそなわっていると云う︒つまり﹁四端は人聞が11iそれ自身は客観的H自立的存在たる111道そ実現すべき

アンヲ

l r (

悶)素地として人性に与えられているのであるOL

得ず︒唯其れ善なり︑ Z

︑ ノ

Jh

︐ 刀 F ‑

﹁蓋し人の性善ならざれば︑仁義瞳智の徳を為さんと欲するも

故に能くに仁義瞳智の一徳在成すを得﹂

(﹁

語孟

字義

﹂巻

之上

)

るの

であ

る︒

人々はかくてその

仁斎

尚子

の歴

史的

性格

とそ

の基

(24)

仁斎

学の

歴史

的性

格と

その

基盤

﹁生質﹂にしたがいつL

﹁四習を道徳によって拡充してゆくベきであ切それにしてもこの場合にも

﹁憤

欲﹂

を 不吉に抑任しではならない︒何故ならそれは﹁生質﹂に本来園有のものであるからであり︑また道というも﹁道は猶 ほ路の如きなり︑人の往来する所以なり﹂といわれるように各自の平生行為する所にあるからである︒こうして朱子

学実践倫理のリゴリズムは破壊される︒

﹁常道は是れ至道︑畳に天地の問︑常道を外にして︑而して別に所謂至道な るものあらんや︑詰道即ち一王道なるを知らば︑是れ前工学︑常道の外別に所謂至遣ありといふは︑円五れ異端︑何んとな

れば

天地

の道

至親

至切︑帰宿する所の処を論ずること︑子臣弟友︑日用常行の間に過ぎずして︑而して若し夫れ

至言妙道と称し︑紗正悦惚︑高きを極め遠きを窮むるものは︑都て空言に帰す︑何んとなれば口言ふべくして身行ふ

とと

能は

ず︑

心思ふべくして之れを物に施すことを得ず︑高うして本なく︑文にして実なくんば︑何の至一一=口妙道か之

れあ

らん

(﹁

同志

会筆

記﹂

)と

Lまた士事の入欲の私無きも亦形骸を具え人情を有するものの能く為す所に非

ず︑聖人は此を以て白ら治めず︑亦比を以て人に強いず︑﹂﹁愛右断ち欲を減さんと欲すれぽ則ち是れ柱を矯め直に

過ぎ一語然たる至情は一斉に絶滅し将に形骸を亡い耳目を塞ぎて後止まんとす︑此れ人人の能く為す所に非して通天下

の道

けい

非ず

(﹁

童子

L巻之上)と述べる所以である︒

こうして仁斎はその人間理解︑ひいては﹁人道﹂H

道徳論を展開しつヘ道徳規範を自然界から︑

またさらに一ま

ず﹁人性﹂から相対的に独立な申告観酌存在であると主張することによって規範と白然との連続的構成の上に立つ朱子

(MH

祭休系の解休を促進すると共に︑他方で人々の﹁生質﹂に同有のものとしての﹁情欲﹂在容認し︑しかも﹁愈々山中近

なれば則ち愈々光明なり﹂(﹁土息子関﹂選之上)として道徳の平日勿性︑卑近性を強調し︑道がなによりも実は人倫日用

常行の道であることを主張した︒こ弓して仁斎壮まさに為政者論的性格の朱子学︑がそのま

Lではも壮やとうてい普遍

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