開始以後の展開 その1
著者 山本 悠三
雑誌名 東京家政大学博物館紀要
巻 15
ページ 41‑54
発行年 2010
出版者 東京家政大学博物館
URL http://id.nii.ac.jp/1653/00010308/
はじめに
中央教化団体連合会(以下適宜連合会もしくは中央の連合会と略す。その傘下に各府県の教化団 体連合会が置かれる構図となっている)参与で大日本報徳社副社長の佐々井信太郎によって提唱さ れた教化(部落)常会は「市町村教化網の細胞たる」役割を果たすものであるが、当初静岡県下の 小笠郡土方村や庵原郡庵原村杉山で、あるいは昭和 8(1933)年 6 月に福島県で設置された後三重 県や兵庫県等他府県へと拡大していく指定教化町村で試みられてはいたものの、まだ広く人口に膾 炙されていたわけではなかった。連合会でも昭和8年5月に開催された第10回の全国教化団体代表 者大会(以下適宜全国大会と略す。第 1 回は大正 13 年 11 月)で「町村及郷土集落……ニ於ケル月 例教化常会ノ設置促進」が組織的な課題として位置づけられた。
その後昭和10(1935)年9月から10月にかけて府県会議員選挙、昭和11(1936)年2月に衆議院 議員選挙が実施されると、そのいずれにも選挙粛正運動が展開されることになるが、運動の実施方 法として部落懇談会の役割が着目されることになった。というのは部落懇談会が部落(会)の範囲 で開催されることにより住民間の意志疎通が効率よく行われ、選挙粛正運動が円滑に進展すること になったためである。そして部落懇談会を開催するにあたり「特定の目的にのみ集合する」教化常 会が「最も効果の挙がりし」手段として認識されていくことになる1)。とりわけ部落常会は教化
「常会の基本を為すもの」で徐々に「常会即ち部落常会なり」ともいわれるようになっていく2)。 その一方、部落懇談会の開催とその役割への着目は部落(会)の容認へと向わざるを得なくな る。とはいえ明治後期の地方改良運動の実施以降行政町村の機能不全化を招きかねない存在であっ た部落(会)の容認問題は早急に解決出来る課題ではなかった。そのため昭和 13(1938)年 10 月 の「農村自治制度改正要綱」(以下適宜「改正要綱」と略す)を挟んで昭和15(1940)年9月の「部 落会町内会等整備要領」(以下適宜「整備要領」と略す)に至るまで引き継がれていくことになる。
同時に教化(部落)常会の動向もそれに連合していくことになる。というのは教化(部落)常会の 機能発揮にあたり部落(会)の容認や区画の画定が前提となるからである。
山本 悠三
The Cirecle of Towns, Villages and The General Meeting
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Part 1
―Yuzo Y
AMAMOTO部落会、町内会と教化常会
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国民精神総動員運動開始以後の展開 その1
―児童教育学科 歴史学研究室
これらの課題は選挙粛正運動を契機に表面化し「部落会町内会等整備要領」において一応の決着 を見ることになるが、部落(会)の容認や区画の画定並びに教化(部落)常会の整備拡充は「日中 戦争の全面化を機に展開する国民精神総動員運動の実践網組織の体系的な完備が急務とされる状況 に促迫されてである」3)と指摘されているように、その経過を解明していくには国民精神総動員運 動(以下適宜精動運動と略す)下での動向が検討されなければならない。
この課題に関しては木坂順一郎氏、須崎慎一氏、池田順氏等によって検討が加えられてきた4)。 しかし部落会、町内会等が「部落会町内会等整備要領」により「画一的整備がおこなわれ、すべて の人民を居住地において掌握する役割を果し」たと述べられているように5)、部落会、町内会への 住民組織化に主な関心が向けられており、教化常会を組み入れた図式としては必ずしも明確にされ ていない。
そこで本稿では部落会、町内会に教化常会の動向を組み入れながら、選挙粛正運動を起点に精動 運動開始以降を主な対象としてその動向を検討することにある。なお個人的な関心から部落会との 関連に比重が置かれていることをあらかじめお断りしておきたい6)。
1 国民精神総動員運動の展開 (1)国民精神総動員運動の開始
精動運動の展開に関しては既に多くの研究によって明らかにされている。ここでは行論に必要な 限りでその概略を述べるとして、選挙粛正運動から国民精神総動員運動へと続く昭和 10 年代の前 半は、内相を会長に地方制度を調査審議するための地方制度調査会が設置(昭和12年8月)される など地方自治制の再編期にあった。その再編を促すにあたって精動運動の展開は大きな役割を果た すことになるが、精動運動の実施自体が「国民の全部に徹底して真に其の効果を挙げる」には「地 方自治に依頼する所頗る大なるものあるは言う迄もなく……地方自治の任務は愈々重要を加えつつ ある」7)といわれているように、 地方自治制の再編を不可欠とするものであった。
精動運動の開始は昭和 12(1937)年 7 月 7 日に勃発した日中戦争に起因している。日中戦争が勃 発すると第 1 次近衛文麿内閣(同年 6 月 4 日成立)は「現下ノ時局ニ対処ス」べく「官民一体トナ リテ一大国民運動を起サント」して国民精神総動員運動の実施を告げるとともに実施要綱を発表し た(閣議決定は 8 月 24 日)。その実施要綱によれば運動の目標は「日本精神ノ発揚ニヨル挙国一致 ノ体現並ニ非常時経済ニ対スル挙国的協力ノ実行ヲ主ト」するものであったが、そのための「実施 機関」として情報委員会、内務省及び文部省を「計画主務庁」とするほか、各省総掛りで当たるこ とになった。そして「趣旨達成ヲ図ル為中央ニ有力ナ」外郭団体を結成し、各道府県に地方長官を 中心とする官民合同の地方実行委員会を設け、市町村もこれに準じることが示された。その市町村 では市町村長が中心となり各種団体を動員するとともに「部落町内又ハ職場ヲ単位ト」して「其ノ 実行ニ当ルコト」が指示されていた。
また「実施方法」では各地方の対応として道府県にあっては地方実行委員会と協力しながら具体 的計画を樹立すること。各市町村にあっては「総合的」に部落または町内ごとに実施計画を樹立し
て「其ノ実行ニ努」め「各家庭ニ至ル迄浸透スル様努ムルコト」等が掲げられていた8)。「実施機 関」でも「実施方法」でもいずれも趣旨徹底の末端機関として部落、町内等の役割が期待されてい たことに着目しておきたい。
9 月 3 日になると臨時議会を招集して事変への協賛を仰ぐとともに、挙国一致、尽忠報国、堅忍 持久の三大指標を掲げた内閣訓令を出して運動を開始することになった。内閣は先に示された中央 に有力な外郭団体を結成するとの指示を受けて、9月27日内相官邸に松井茂、香坂昌康、中川望等 9 名を招いて国民精神総動員運動中央連盟発起人会を開いた(この 3 人はいずれも直後に結成され る国民精神総動員運動中央連盟の理事に就任する→以下精動運動中央連盟と略す)。ついで 9 月 30 日に 74 団体の代表者を招いて精動運動中央連盟への加入を求め、発起人会の協議によって有馬良 橘を精動運動中央連盟の会長に推した9)。理事は前記の 9 名のほかに 6 名を加えた 15 名である。ま た 74 加盟団体には中央報徳会、選挙粛正中央連盟、産業組合中央会と並んで中央教化団体連合会 が加わっていた。
精動運動中央連盟の結成は選挙粛正運動における選挙粛正中央連盟の役割が「運動の遂行に多大 な成果を収めた」ことに触発されたものであった。その傘下に集まる外郭団体は「団体を単位にす ること」にあったが、その場合でも「民間に於ける団体を出来る丈網羅する方法」と「一定の選択 方針に従つて、若干の最も有力なる団体のみを集める方法」との違いがあり、精動運動中央連盟が 前者、選挙粛正中央連盟が後者であった10)。
この後 10 月 12 日に精動運動中央連盟の結成式が挙行されることになり、戊申詔書発布の記念日 にあたる10月13日から19日までの1週間を精動強調週間として精動運動が開始された。その11月 3日の明治節及び11月10日の国民精神作興詔書の渙発の記念日から始まる国民精神作興週間を経て、
翌昭和13(1938)年2月11日の憲法発布記念日を中心とする肇国精神強調週間へと続いていく。
(2)中央教化団体連合会の対応
ところで精動運動中央連盟の加盟団体はどのような対応をしていたのであろうか。その動向は従 来殆ど明らかにされていないので、一例を教化(部落)常会を提唱した佐々井信太郎が参与をして いた中央教化団体連合会に見ておきたい。
精動運動開始直後の昭和 12 年 10 月 14 日〜15 日、つまり精動強調週間中に連合会は第 14 回の全 国大会を東京で開催した。全国大会は大正13(1924)年の創立以来ほぼ毎年1回のペースで開催さ れており、第13回の全国大会は1年前の昭和11年11月に開催されている。しかし、第12回の全国 大会は昭和10年6月に開催されているから(於大阪市)、第12回の全国大会と第13回の全国大会と の間は1年半にも及んでいることになる。その理由はいうまでもなく昭和11年の初頭に2・26事件 が起こり連合会会長の斎藤実が暗殺されたためである。その後同年9月新会長に清浦奎吾が就任し た。初代一木喜徳郎、2代目山川健次郎、3代目斎藤に続く4代目の会長である。
第14回の全国大会は参加者600名を越える多人数となった。斎藤前会長の慰霊祭を兼ねた前大会 の参加者が500名であったから、今全国大会はそれをも凌ぐ参加者が集まったことになる。今全国
大会では古谷啓二幹事が開会の宣言を述べ、次いで欠席した清浦に代わって顧問の一木喜徳郎が国 民精神作興詔書並びに第 72 回帝国議会開院式に賜る勅語の捧読を行い、さらに松井茂理事長から 参加者一同に対して激励の挨拶があった。
全国大会で検討すべき議題は6つあったが、その中心はいうまでもなく中央の連合会から提出さ れた「国民精神総動員ニ関シ教化団体トシテ採ルベキ方策如何」であった(その他は各府県の教化 団体連合会からの提出議題)。その議題を巡って「愈々舌戦の火蓋」が切られることになったが、
参加者から出された様々な意見のうち高知県の参加者からは部落常会または町内会の振興を計るこ とが「最緊急事である」との提案がみられた。その提案によれば「此の教化常会、部落常会、町内 会」が「活躍しましたならば十分に其の目的を達し得ると思」われることから、「是が実行方法と しては此の組織以外に他に適当な方法はな」く「総動員の実践機関は部落常会が第一」というもの であった11)。
部落常会に関しては福岡県教化団体連合会の提出議題「時局ニ鑑ミ特ニ家長(戸主)ノ教養訓練 施設振興ニ関スル件」でも触れられていたが、その議題に関連して愛知県の参加者からも意見が提 出されている。そこでは国民精神総動員運動の意義を各家庭に徹底させるためには「部落常会を徹 底的に指導誘掖すると同時に、其部落常会をより以上強力な力を以て活動させる為に其部落に婦人 常会を設けて指導誘掖すると云うこと」が説かれていた。教化常会の徹底はそれまでの連合会の課 題であることから全国大会でも議論の中心に据えられたのは当然であるが、愛知県からの提案にみ られるように婦人常会の設置による家庭の主婦層への浸透を計っていたことに着目しておきたい。
全国大会ではその他非常時経済政策への協力にあたり節約の仕方に関する趣旨説明がみられた り、運動の展開にあたり「特にインテリ階級の自覚を望む」(大阪府)という意見、あるいは「事 変の意義重大」のため「基本旨徹底に専念せよ」(愛知県)、「戦時禁酒の断行を叫ぶ」(東京府)
等々の意志決定がみられた。それらはどちらかといえば精神論的傾向を示していたが、この他に
「国民精神総動員の指導方針に関する内容を検討」するにあたって「経済生活の合理化と道徳生活 の改善と此の二つに出ないと思」(岡山県)われるとする意見や、青年団体、婦人団体、教化団体 の関係者を全部集めて協議した結果「要は勤勉力行にあり」(和歌山県)との見解に達したことな どの意見も見られた。精動運動の目指すところは既に指摘したように「日本精神ノ発揚」と「非常 時経済」への対応であったが、全国大会でみられた様々な提言や意見はいずれもそこに通じるもの であった。そのことから全国大会中「舌戦の火蓋」が切られたという描写は、上記の議論を巡って 提言や意見が飛び交わされたことを意味するものであったといえよう。
なお全国大会の決議事項には「各教化団体ノ内部的総動員ト相互協力活動ノ促進」をはじめとし て「市町村教化網ノ整備ト其ノ高度運営ノ発揮」、「部落、町内及各職場ニ於ケル教化常会ノ徹底的 実行」等が挙げられていた。そのうち「市町村教化網ノ整備……」は連合会の年来の課題である市 町村教化網の整備拡充を精動運動の展開に乗じて行うとともに、この機にそれを「高度運営ノ発 揮」へと高めようとするものであった。また「部落、町内及各職場」と教化常会との関連について は高知県の参加者からの提案にみられたが、そこには精動運動の展開を機に部落、町内あるいは各
職場で教化常会の役割をアピールする意図がみられた。そしていずれの決議事項も精動運動の展開 に向けて連合会としての対応すべき課題を示していたことになる。
(3)「国民精神総動員実践網要綱」の発表
精動運動は昭和15(1940)年10月に大政翼賛会へと吸収されていくことになるが、それまでに3 度指導機構が改組される。その第1期は昭和12年9月から翌13年の半ばまでとされている(須崎前 掲論文p.205)。その間に既述の精動強調週間その他が実施されたが、精動運動中央連盟は自治制発 布五十周年にあたる昭和13年4月17日に「国民精神総動員実践網要綱」(以下「実践網要綱」と略 す)を発表した。
その趣旨(「一、実践網設定ノ趣旨」)によればまず「国民精神ノ発揚」の趣旨を受けとめた上で
「国民生活永安ノ基礎ヲ確立スル為ニハ、全国民ヲシテ速ニ政府ノ意図スル所ヲ理解セシメテ之ガ 具現ヲ期シ、又国民ノ志望スル所ヲ遺憾ナク上達セシムル」ため実践網を完備することが主張され ていた。その実践網はさらに「縦ノ伝達系統ヲ明カニ」するとともに「横ニ地理沿革ニ基ク住民ノ 集団的結束ヲ固メ」ることによって「我ガ国古来ノ旧慣タル隣保協同、相互教化ノ美風ヲ発揚シ、
以テ此ノ時局ニ対処スルト共ニ地方自治運営ノ根基ヲ強固ナラシメ」るというものであった。この ことから実践網の完備が「此ノ時局」すなわち精動運動に「対処スル」ための組織であると同時に
「地方自治運営ノ根基ヲ強固」なものとする狙いがあったことになる。
また「二、実践網ノ組織」ではより具体的な組織形態が提示されている。そこでは「町村ノ部」
と「都市ノ部」に分けられ、そのうちの「町村ノ部」では町村における実践網の単位を5戸ないし 10 戸で構成される五人組、十人組等の実践班とすること。五人組、十人組等の実践班には世話人 を置き世帯主、主婦は随時会合を行うこと。部落においては各代表者を中心に毎月全戸の常会を開 催し、そこに世帯主や主婦、家族が参会すること。そして町村においては毎月町村長を中心に各部 落の代表者及び町村内の代表者による常会を開催すること等の取り決めが列記されていた。
一方「都市ノ部」では都市における実践網の単位を5戸ないし20戸で構成される隣組、隣保班等 の実践班とすること。隣組、隣保班等の実践班には世話人を置き世帯主、主婦は随時会合を行うこ と。町の区域を以て町内会を組織し、町内会長を中心として毎月実践班の世話人及び町内の指導者 による常会を開催すること。都市部においては市長を中心として毎月町内会代表者の常会を開催す ること。実践班と町内会との間に組、町内会と区との間に部を「置クコトヲ得」等の取り決めが列 記されていた。
さらに「三、実践網ノ運営」では市区町村における官公庁、学校、各種委員会等は互いに緊密な 連絡を取り合って指導に当たり、実践網の中枢にいる市区町村に協力すること。各種団体も本来の 使命に従って精動運動に協力すべきであり、本運動の徹底を期すべく特定の団体、実践の基幹たる 場合は市区町村長と緊密な連携を保って実践網の活動を強化せしむること。市区町村における各種 団体及び委員が会合を行う場合は当該市区町村の常会に合流すること。常会は上意下達、下情上達 の施設であるとともに実践事項の徹底にあたり最も重要であるため、毎月必ず開催するほか必要に
応じてその都度開催するというものであった12)。
そこには先述した精動運動の開始にあたり実施要綱に示された部落、町内を末端の実行単位とし た仕組みの上に各種の常会を組み合わせることにより、より細部にまで行き届いた実践網の組織が 提示されていた。それは「全国民ヲシテ速ニ政府ノ意図スル所ヲ理解セシメテ之ガ具現ヲ期」すた めの不可欠な組織でもあったと考えられるが、その際「各種団体及び委員が会合を行う場合は……
常会に合流すること」の部分に着目をしておきたい。それは直後の「改正要綱」で各種団体の調整 を論じることや「整備要領」で「部落会及町内会区域内ノ各種会合(各種団体の会合の意味と思わ れる―引用者注)」を「部落常会及町内常会ニ統合スルコト」に関連していくことになるが、その 点に関しては後述することにしたい。
(4)「国民精神総動員実践網要綱」の作成経緯
「国民精神総動員実践網要綱」の作成経緯について若干の検討を加えておく必要がある。従来の 研究では「実践網要綱」の作成には、それより少し前の1月16日に「国民政府を対手とせず」との 政府声明が発せられ、当初の予想とは異なり日中戦争が長期化の様相を呈するようになっていた背 景が指摘されている。そのためそれまでの精動運動が「相次グ週間運動ニ忙殺セラレ之ガ本来ノ趣 旨徹底ヲ欠キ徒ニ労力及資源ノ濫費ニ終ル場合少カラ」ぬことがあり「時局ニ即応セザルモノ」と なっていた。そこで「物資節約、貯蓄奨励、生活刷新、生産増進等経済戦ニ対処スベキ実践運動」
に切り替えられるのであるが、それとともに経済戦への国民の「自発的協力」を引き出すべく「相 互規制的な組織単位の利用が必須となってくる」ことから常会の構想が打ち出されたというもので ある(池田前掲書p.224)。
この解釈には 2 つの点で補足が必要となる。まず 1 点は精動運動は実践要綱において既に「日本 精神ノ発揚ニヨル挙国一致ノ体現」とともに「非常時経済ニ対スル挙国的協力ノ実行」が謳われて いた。したがって当初から精動運動には「非常時経済」への対応が想定されていたことになるの で、長期戦となったが故に後者の路線へ転換したとする解釈は説得力を持たないことになる。それ より「非常時経済」戦への対応は既定の路線でそこに比重が移行したと考えるべきであろう。
もう1点は経済戦への「自発的協力」を引き出すべく「相互規制的な組織単位の利用が必須」と なったため「実践網要綱」にみられるように常会の必要性が説かれたとしても、何故に「相互規制 的な組織単位」が即座に常会へと結びつくのかの説明にはなっていない13)。そこでその解答になる かどうか定かではないが、この間の経緯について別な角度から考察をしてみたい。
精動運動中央連盟では精動運動の徹底を期するため家庭報国実践要項を調査発表し、次いで社会 風潮の一新に関する調査の実施を決定したほかに、全国市町村に普く実践を強化すべく昭和13年3 月に実践網設定に関する調査委員会を設置した。そして内閣、文部、内務、農林各省の関係官及び 有力団体の「斯道の経験深き人々」を 20 名程度委員に任命した上で、中川望、月田藤三郎両理事 の下に 3 月 8 日から 4 月 11 日にかけて 5 回の委員会を開いて討議を重ねていた。この間 3 月 31 日の 第 4 回調査委員会では佐々井信太郎、古谷啓二、林清、平林広人、小林千秋、清水芳一等 6 名から
成る小委員会に検討事項を委託することになった。そこで「慎重論議した結果、この程」成案を得 ることになり、第5回の調査委員会での中川委員長から経過報告と各委員の「熱心な討議」を踏ま え、理事会の最終的な決定を経て「国民精神総動員実践網要綱」が発表された経緯がある。
発表された「実践網要綱」に関して連合会は「全く本会年来の方針たる教化の末梢組織の整備 と、教化常会の運営によりて之れを徹底せしめるものであって、実践主体を既設各組織の活用にお きその拡大強化を期せんことを目的としている」ものであり、「地方教化網の完成は今や切実に要 求せられて居る」との見解を表明した14)。「実践網要綱」で主要な役割を担うとされた教化常会は 前年の全国大会で精動運動に向けて取り組むべき連合会の課題の一つとして確認されたものであ る。それが「実践網要綱」でも唱えられたのであるが、「実践網要綱」の作成過程には連合会参与 の佐々井や幹事の古谷が加わっていたことに着目しておく必要がある。佐々井は3月24日の第3回 の調査委員会で参考案の提出説明を行っていた15)。それらのことから多少の推測を交えるとすれば
「実践網要綱」に教化常会を明記させた背景には彼らの強い提言があったとも考えられる。
「実践網要綱」では続いて「常会例」や「附記」の記載がみられる。前者では「地方の情況に応 じて適宜決定するを可とするも」のを「例示すれば」として具体的な常会の開催方法が紹介されて おり、後者では「全国の常会指導者を訓練する為道府県及六大都市の指導者は中央に於て、市区町 村の指導者は各道府県に於て、夫々適当なる期間講習会を開催する要あり」との指示が出され、指 導者養成のための講習会への参加を促していた(この点に関しては後述する)。さらにそれとは別 に「実践網とは(解説)」が掲載されている。そこには「組織について」、「運営について」、「常会 を開くには」等の項目があり、いずれにも「常会を開くについて最も注意すべきことは通知の方法 であ」ることや「当日は常会の旗を定めの所に掲揚したり」というような実施方法を屋上屋を架す 如く詳細に説かれていた16)。それは「実践網要綱」が実質的に常会の解説書の役割を兼ねていたと もといえるが、それらはまさしく連合会の構想を代弁するものでもあった。
このことから「実践網要綱」には連合会の思惑が込められているが、それに加えて「選挙粛正運 動の最中」から熟していた「東京市の腹案を」も「基礎として、実践網の確立計画を樹て」ていた ところに17)、国民精神「長期総動員」が思想戦から経済戦に比重を移すに従い「自治振興の立場か ら常会の解説を勧励せんとした」18)内務省と「地方自治運営ノ根基ヲ強固ナラシ」めるべく「事実 上密接なる連携」19)をとりつつ、市町村の「補助機関足らしめる恒久的施設」として結実したもの であったといえよう。
2「農村自治制度改正要綱」の提出 (1)選挙粛正運動から自治振興運動へ
「実践網要綱」で教化(部落)常会の構想が打ち出されたとはいえ、その構想が具体化するまで にはもう少し時間が必要であった。その要因としては常会の概念や活用方法がまだ十分浸透するま でに至らなかったためである。昭和 10 年前後のことであるが、貴族院議員が政府に常会を奨励す る意図について質問をした際、政府の関係者はそれを浄会すなわち「家庭を浄めるの会」と解釈し
たことが伝えられている20)。それは常会の認識度を示す一例でもあったが、それに加えて教化(常 会)の単位となる部落(会)の容認問題や区画の確定も「農村自治制度改正要綱」で一応の決着を 見るまで試行錯誤が続けられていく。先に昭和 10 年代の前半が地方自治制の再編期にあったこと を述べたが、部落(会)の容認問題はこの時期の地方自治制にとって主要な課題の一つであったと いえよう。そして再編の端緒が「市町村長を中心とし各種団体、小学校長、市町村内有力者等が悉 く動員せられ」るなど「地方自治が重要な役割を演じ」21)ることになる選挙粛正運動にあったこと は繰り返すまでもない。
選挙粛正運動は「直接に選挙の粛正を図り、国及び地方公共団体の議決機関の浄化を計ることに 主力」が注がれ「大いなる時代の波に乗じて相見るべきものの少なかつた」が、この運動は「選挙 を直接の対象とする」ほか「更に進んで一方平素に於ての国民の公共的教化訓練に力を致すと共 に、他方地方行政の建設的方面に」注がれたことにみられるように22)、自治振興運動へと引き継が れていくことになる。
自治振興運動は「選挙粛正運動の形態を踏襲し」て昭和 11(1936)年から実施されたといわれ ているが23)、その「実施の方式に付」いては同年5月21日に内務省地方、警保両局長から各地方長 官宛に発せられた「選挙粛正運動ニ関スル件依命通牒」に「指示せられ居る所」を「徹底強化に邁 進す」ることにあった。その「指示せられ居る所」とは「単ニ選挙ニ止マラズ広ク政治及ビ自治ニ 関シ今日ノ公民トシテ必要ナル知識ヲ普及スルコト」であり「公共的精神、政治的道義心、責任観 念ヲ喚起振作」するとともに「地方自治ノ浄化刷新ヲ図ラシムルニ依リ実践的訓練ヲ積マシムル」
というものであった24)。
(2)「農村自治制度改正要綱」の趣旨
地方自治制の再編期にあたる昭和 10 年代初頭に派生した自治振興運動は日中戦争下の精動運動 にあって「地方自治体の総動員態勢整備と」も「合致するものであ」ったことから25)、その趣旨は 直後の昭和13年10月の「農村自治制度改正要綱」へと引き継がれていくことになる。「農村自治制 度改正要綱」とは内務省地方局が「部落会町内会の法制化をめぐ」って「はじめて公表」した「明 確な見解」であるが26)、「改正要綱」発表の直接的な契機は農村更生運動に端を発した農林官僚機 構と内務官僚機構との間の農村支配をめぐる勢力抗争にあった27)。
というのは農村更生運動は農林行政の運営方式に新たな要求をすることになったが、その1つが 各種団体の活動の総合化であり、もう1つが部落活動の促進善導であった。そのうち前者は「統一 的総合的なる計画の下に、町村、農会、産業組合、小学校長、教化修養団体等が緊密なる連絡を保 ち、各其の分担に応じて職分を果すことであ」り、後者は「町村の下に社会的事実として存在する 部落を活用し、其の共同活動を促進し、住民の指導督励の徹底を期することであ」った。これらの
「行政運営の方式は経済更生運動の実行上必要欠くべからざるものであ」り「之を契機として農村 行政の運営方式に付新なる問題が提供せられた」というものであった28)。
それに対する内務省側の対抗策として発表されたのが「改正要綱」であった。それは先述したよ
うに昭和12年8月に内相を会長に地方制度の改正に関して調査審議するために設置された地方制度 調査会で論議されてきたものである。地方制度調査会での会議は昭和13年5月までに3回開催され たが、「時運ノ趨勢ニ鑑」み東京都制と農村自治制度に関する問題が取り上げられた。その後特別 委員会を設け 6 月以降地方局案を中心に論議が進められたが、後者に関しては 10 月 18 日の第 10 回 の特別委員会の答申案として採択され、10月31日の第4回の会議で可決されたのであった。
「改正要綱」の提出に至るまでの経緯に関しては前稿で述べた。その際内務省側で論陣を張った 古井喜実によれば地方自治制にあって問題とすべきは「市町村内の融和協和」、「市町村及各種団体 の機能の総合調整」、「部落活動の助長善導」の 3 点であるとした上で、以下のように指摘する29)。 市町村を区域とし市町村住民を対象とする行政機能は市町村で行われる以外に農会、産業組合その 他の各種団体でも行われている。これらは一個の協同体の各一部面を表現し、相合してその協同体 の全行政組織を成すものであるから、市町村と農会その他の団体との間は緊密な連携が保たれなけ ればならないはずである。ところが市町村、農会、産業組合等は相互に連絡協調が図られていな い。そのため行政全般の調和と均整とが破られているので、この状態に改善を加え行政全般の円満 な調和と総合的な発展とを図ることが必要というものであった。
また市町村の下に制度としてさらに下級のものは認められていないが、農村における国民生活の 実情をみると市町村の下に事実上の存在として部落があり、部落において或る種類、或る範囲の公 共的ないし共同的の機能が営まれているというものであった。そしてこの事実を無視して市町村行 政の円滑なる運行及び発展を期待することは出来ないというものであった。古井の主張はそのまま
「改正要綱」に反映されていくことになる。「改正要綱」は全部で7項目から成るが、そのうち大項 目は以下の通りである(小項目は必要な限り各大項目のところで述べる)。
1、町村と町村内の各種団体等との関係を調整し総合団体としての町村の機能を発揚せしむる方 策を講ずること
2、町村の下に適当なる形に於て部落を認め一面町村活動の補助機関として之を活用すると共に 多面部落固有の活動の健全なる発展を図ること
3、町村会の構成を町村の機能に適応する様整備すると共に議員の素質を向上さしむる方策を講 ずること
4、町村長と町村会との間に於ける権限の分配を能率主義の見地より整備すること 5、町村吏員の充足を図り且其の素質を向上せしむる方策を講ずること
6、町村財政の整備充実を図ること
7、町村の監督に付成るべく其の煩を省くと共に適実に其の効果を挙ぐべき方策を講ずること 古井は「改正要綱」に示された地方局案の眼目を農村自治の将来の任務と農村生活の実状とを考 慮し之に即応するよう其の制度を整備することと農村自治をして十分に其の責務を果さしむるよう 行政の能率化と合理化とを図ることの2点にあるとしたが30)、池田順氏によれば1と2が前者、3〜
7が後者に対応するとしている(池田前掲書p.236)。
ここではその指摘を借りることにして、「改正要綱」の趣旨をより体現する前者つまり1と2を主
に検討することにしたい(後者については必要な限りで触れる)。
内務省側にあって「改正要綱」に関する積極的な発言を試みたのは古井のほかに坂千秋、吉岡恵 一等がいる。そのうち吉岡の主張によれば「物事総て必要なる処には新しい工夫が生れ、新しい使 命を持つた組織が生れて来る」ように日本の農業もその発展を期待すべく技術方面での発展には
「目醒しいものがある」が、その一方で農業関係の各種団体は農業保護や農民保護の「道具として 生れて」おり、しかも「其の数の余りに多きが故に、最近では町村内に於ける各種団体の問題とし て屡々議会に於ても論議され、世論に喧しいところとなつている」と指摘する。そして各種団体の うち最も「問題となるのは」農業関係であるから、農業関係の各種団体を中心にそれ以外の産業経 済団体も含めて検討を試みる必要があるとして次のような見解を述べるに至る。
農業関係の団体のうち「現在最も多くの会員を有し、実際の勢力を有するのは」農会であるが、
それは「組織としても最も整備され、系統的に観ても統制が良く執れ」た団体である。また産業組 合中央金庫の「資本の背景を有」する産業組合も「農家の経済に直接関係するだけに農民の生活に 食入つていることは農会に勝るものがあ」る。その他農業関係の団体としては農事実行組合、養蚕 実行組合、負債整理組合等がある。また産業経済団体としては商業組合、商工会議所等がある。さ らに「法令を以て定められている」在郷軍人分会、水利組合等「住民の一般生活に関係する」もの や、「法令に根拠を有しない」団体として戸主会、青年団、婦人会等があり「町村住民としては真 に覚えて居るだけでも一苦労であろうと想像される程の団体数」が存在している。
このように「各種団体の乱立は誠に凄まじいもの」となっている。内務省が昭和 10 年 10 月 1 日 現在で全国の標準的農蚕山漁村518町村を調査したところ、福岡県のある村では町村の区域を単位 とする団体が 21 あった。これは町村の区域を単位とする団体であるが、部落あるいは郡、市を単 位とする団体で法令に依拠するものや任意のものを含めると更に多くなる。「斯の如く多くの団体 が乱立する」と「其の間に必ず事業の重複或は矛盾が生じる」ことになる。例えば農会、産業組合 のように「同じく農業に従事する者を対象」とする場合、「農業に従事する者の福利増進に関する 施設」(農会法第1条)と「産業又は経済の発達を企画する為」に行う事業(産業組合法第1条)と の間には密接な関連があるが、それ故「同時に矛盾、重複は避けがたい」ものとなる。そのため農 民が「何れに頼つて宜しきや迷うのみ」でなく「団体間に反目軋轢を生じ、農民の福利増進の為の 団体が却つて福利減退の結果を齎すことは実際屡々見る所で」あった。
団体乱立による弊害にはその他団体ごとに会合を必要とするため、時間的に不経済となることや 度々の会合が時間の浪費に加えて経費の負担をも生じることになる。また農業や漁業のように天候 によってはすぐに働きに出なければならない職種は「暇を潰されるというよりは時機を失し不経済 な結果を招く」ことになるというものであった。各種団体は必要あって作られてきたとしても、乱 立の状態にあり弊害すら認められる現状では「何等か此の弊害を除去し更に改善する方策」が必要 となる。そこで地方局案として「町村内の各種団体等との関係を調整す」べく次の3点が提案され る次第となった。
イ、町村の権能中に町村内の各種団体等の活動を総合調整する機能を包含する趣旨を明らかにす
ること
ロ、町村会の構成中に各種団体等の代表者を取入るると共に其の職務権限として町村長の諮問に 応じ各種団体等の活動の総合調整に関し必要なる事項を審議する機能を加ふること
ハ、町村長の職務権限として各種団体の総合調整に関し必要なる意見の呈示を為し及当該監督官 庁に意見を提出し得る機能を認むること
この提案は「町村が小なる団体なることを考え」て「統制作用を本案の如く町村会をして行はし むるが最上の策」とあるように、町村会に権限を集中することによって行政系統の引き締めを計ろ うとするものであった。そこでは「町村会の構成中に各種団体の代表者を取入るる」とあるように 町村会に吸収を図っている。しかも「本案は何等既存の各種団体を解体せしめむとするもので」は なく「強制はしないが任意に放置する」というもので、そこに町村会と各種団体との微妙な力関係 を読み取れる。その力関係は「町村会が団体自身の事業迄容喙しようとする」ものではないが、一 方「団体は町村の方針又は他の団体の事業に矛盾する限度に於て町村全体としての方針に基き制限 を受くることがある」というものであった。さらに町村長の職務権限が提示されていたが、「町村 長に其の町村内の総理大臣たるの地位と権限とを与えなければならぬ」31)とする見解すらみられた。
つまり総合調整の趣旨は町村に行政上の権限を集中することにより各種団体間の事業の矛盾、紛 争等の調整をすることにあったといえよう。農会と産業組合、産業組合と漁業組合、愛国婦人会と 国防婦人会との間には反目軋轢があり、各種団体間の争いや系統団体間の争いは町村内の団体間の 争いとなり、町村内の団体間の争いが系統団体の争いを誘発するという相関関係となるため「住民 の迷惑は非常なもの」となっている。そこで総合調整することにより「町村計画の樹立、事業の分 担、協力という如き問題」に関して「自由に、懇談的に話合つて町村全体の方針を協議する」こと が必要となる。懇談の形式で話が纏まらぬ場合には町村の行政は円滑に行われず、多数決により少 数派に押付けをする政治とは少なくとも町村行政では再考すべき点があるというものであった32)。 そこには農林行政関連の団体に対する批判が顕著であるが、それは「改正要綱」の主眼が「農林 行政系列下の諸団体による「産業自治」を町村行政の系統下におく点にある」と述べられているよ うに(池田前掲書p.236)、農林行政に対する内務行政の対抗策として発表されたことを示すもので あった。
(3)部落の容認問題
次に「町村の下に適当なる形に於て部落を認め一面町村活動の補助機構として之を活用すると共 に多面部落固有の活動の健全なる発展を図ること」について検討をしておきたい。この問題は既に 前稿で検討を試みたが、行論に必要なため重複を厭わず述べておく。
部落の必要性が再認識されるようになったのは選挙粛正運動下で部落懇談会の果した役割からで あったが、日中戦争開始後の精動運動下にあっても銃後後援事業(出征将兵遺家族の救護慰問、凱 旋兵士の歓迎、傷病兵の見舞、戦死者の慰霊等々)、軍需品供出、労力の移動調整等に「自治の細 胞組織」としての部落の「活動に負うところが大」33)であった。また物資調整や物価調整にかかわ
る事務に関しては「如何なる山村に付ても一応調査せねばなら」ぬが、その作業にもおのずと部落 の役割が重要なものとなる。ちなみにそうした作業にかかわる町村吏員の負担も膨大で戦争前の2、
3 倍となったが、町村吏員は明治中期からこの時期まで「殆ど増加して」はいない。そのため「町 村の事務殊に国よりの委任事務の増加が著し」くなるにつれて「町村吏員の充足を図り且其の素質 を向上せしむる方策を講ずること」が不可欠となり、「町村吏員を官吏に任用し得る途を拓くこと」
や「国費を以て町村吏員の教養施設を講ずること」が打ち出されたのである34)。
ところで部落が地方改良運動以来行政町村下にあって否定されるべき存在であったことは既に述 べたが、その一方で「部落の実在という事実に対しては如何とも為し難かつた」ことから「部落の 問題はむずかしいことの一つ」であったと言われている。内務省は部落を「成るべく町村に統一し たい」ため部落を否認する方針から、部落有財産を出来る限り町村に統一することにより「現在の 町村の基礎が培われて来た」のであった。しかし「世の中は推移し、各種の事情」が変化するにと もない部落を何等かの「弊害少なき形に於て認め、之に色々働きを為さしめて行く」ことが考えら れ、それまでの「方向とは稍々違つた方向に於て、部落の制度」を再検討することになった。
その際部落の容認が「折角今日の如き発展を遂げた町村」の基礎を害しないようにするため、部 落を「強固なものとせず且それは何処迄も町村の内部組織に止」め、部落に関する「事項を定める 場合には町村条例を以て定むる」とされた。その町村条例は町村会の決議を経て決まることにな る。また部落で経費を徴収する場合には町村長の承認が必要とされた35)。このように部落の活動に は行政町村からの縛りが幾重にも架されていたのである。したがって部落が「町村活動の補助機構 として」活用されることはあっても、「部落固有の活動の健全なる発展」は著しく制約されていた と考えるべきであろう。
そのため部落を「あくまで部落固有の健全なる発展的活動を図る」場としたり「如何なる部落 も、自然的な地の利によつて結ばれて居るという部落の特性」を強調し「経済的産業的部落とし て、一定地域の定住部落民が、その土地の使用収益を最も能率的に活用し得る範囲の部落を、自然 諸条件を充分に考慮して、これを法制化するの標準たらしめ」36)るとするような部落観は内務行政 下で推進された部落対策とは対局に位置するものであり、実現する可能性の極めて少ないもので あった37)。
それでもこの時期部落が容認されたのは選挙粛正運動から精動運動下での役割が無視出来なかっ たことに加えて、町村制度自体にも部落の容認を促す要因があったことを指摘しておきたい。とい うのは「本当の意味の基礎的自治団体として」町村制を考えた場合、現在の町村の「区域は広きに 過ぎるものであることは、従来屡々唱えられ」ていた。そこで「町村内に必ず部落」を設けて「之 を以て農山漁村に於ける多様なる自治生活の基礎たらしむるに至」れば、「町村の機能は専ら町村 内に於ける多様なる社会関係(部落及各種産業団体等)の総合調整と云ふ点に集中せられる」ので
「町村の特質は精神的又は心理的の団結たる点に存するよりは、寧ろ行政的又は政策的の団結たる 点に存することとなり、自然発生的見地よりは、寧ろ技術的見地に於て町村の構成を考えてよいこ とになる」38)というものであった。
それでは行政町村の下に認められる「適当なる形」の部落とはいかなる形態であったのか。それ は小項目の第 1 項(全 6 項目)に掲げられているように「部落を基礎とし町村条例を以て区を分ち 得る」というものである。要約すれば部落を行政町村の基礎とすべく町村条例を以て区画(もしく は区域)を定めるというものである。その区画こそが部落懇談会や部落常会を開催する際の単位と なるものであるが、部落会の整備にあたりその区画を明確にすることは「先ず第一に着手すべきこ と」39)でもあった。
その際「部落を認めて区となすに適当なる区域として」考えられるのは旧村、大字であるが、そ れらは「多少大に失し、且現在活動をしているものが少ない」状況である。また「庶務便宜の為」
に設置された行政区は「場合に依つて非常に大なるものが存在するが小に過ぎて区として活動する に不適当なるものは少かろう」と考えられた。その一方農事実行組合は「大に過ぎて区として活動 するに不便なるものも少かろう」と考えられる。そこで「行政区と農事実行組合とが一致する場 合」には「其の区域は大体に於て自然部落とも一致するであろうし、区として採用するに適当で あ」るから、区は「四、五十戸程度のものが理想とされ」、「地理的事情、其の他の事情が許す限度 に於て」その程度の「ものに纏める必要がある」40)というものであった。
註
1)児山忠一「部落会及町内会の整備充実」(『地方行政』昭和14年10月号所収)
2)平林広人『常会立国論』(昭和15年)p.37。『教化運動』昭和14年3月15日(以下39・3・15と略す)
「教化常会の健全なる生長の為に」。教化常会は連合会によって提唱されたが、徐々に町村常会、町 内常会または部落常会等と呼唱されていくことになる(『教化運動』37・5・11「五人組の組法朗読 会に就て」)。
3)池田順『日本ファシズム体制史論』(校倉書房 平成9年)p.220.
4)木坂順一郎「大政翼賛会の成立」(『岩波講座日本歴史』19巻所収 昭和51年)、同「日本ファシズ ム国家論」(『体系・日本現代史』3巻所収 日本評論社 昭和54年)、須崎慎一「翼賛国家論」(『近 代日本の統合と抵抗』4巻所収 日本評論社 昭和57年)、池田前掲書等
5)前掲木坂「日本ファシズム国家論」p.37.
6)そのため「農村自治制度改正要綱」と同時に提出された「東京都制案要綱」に関しては全く触れて いない。「東京都制案要綱」に関しては赤木須留喜『東京都政の研究』(未来社 昭和52年)第3章
「東京都制の展開と国民細胞網」を参照のこと。
7)古井喜実「農村自治制の改革と今後の農村政策」(『斯民』昭和13年9月号所収)
8)『資料日本現代史』10巻(大月書店 昭和59年)p.46.
9)翼賛国民運動史編纂刊行会編『翼賛国民運動史』(昭和29年)p.26〜27.
10)小林千秋「国民精神総動員運動概論」(『自治研究』昭和13年2月号所収)
11)『教化運動』37・11・4「国民精神総動員の秋」
12)「昭和 13 年度国民精神総動員中央連盟事業概要」(『国民精神総動員運動 民衆教化動員史料集成』
第2巻所収 昭和63年 p.107.)
13)池田前掲書ではこの他「相互規制的な組織単位の利用が必須となってくる」ことから実践網要綱が 出されたとあるが(p.224)、実践網要綱は4月17日に出されたのに対して組織単位の利用が必須と なることを確認した次官会議決定「経済戦強調週間実施要綱」は6月30日であるから、それを根拠 とすれば矛盾することになる。
14)『教化運動』38・4・21「末梢教化組織と常会を枢軸とする実践網の徹底へ」
15)赤木前掲書p.462〜464.
16)前掲「昭和13年度国民精神総動員中央連盟事業概要」p110〜114.
17)平林広人『大東京の町会・隣組』(昭和16年)p.250.
18)『教化運動』39・5・15「雑誌『常会』の誕生近し」
19)木村清司「自治振興運動の目標」(『斯民』昭和13年7月号所収)
20)古谷啓二『常会の話』(昭和15年)p.28.
21)前掲「農村自治制の改革と今後の農村政策」
22)前掲「自治振興運動の目標」
23)前掲「農村自治制の改革と今後の農村政策」
24)『内務時報』昭和11年6月「法例通牒」
25)前掲「自治振興運動の目標」
26)阿利莫二「地方制度(法体制崩壊期)―部落会町内会制度―」(『講座日本近代法発達史』6 巻 勁 草書房 昭和34年)
27)前掲「地方制度(法体制崩壊期)―部落会町内会制度―」
28)前掲「農村自治制度の改革と農村政策」
29)古井喜実「発程せられた新自治政策」(『斯民』昭和 11 年 7 月号所収)。この期の内務官僚の考えに ついては前稿「部落会、町内会と教化常会」で述べた。
30)前掲「農村自治制の改革と今後の農村政策」
31)森丘正唯「『農村自治制度』批判」(『斯民』昭和13年9月号所収)
32)吉岡恵一「町村内に於ける各種団体等の総合調整」(『斯民』昭和 13 年 8 月号所収)。この他吉岡は
『地方行政』昭和 13 年 8 月号、12 月号に「町村自治制度改正要綱」(一)(二完)、『自治研究』昭和 13 年 8 月号、9 月号、10 月号に「町村自治制度改正要綱案」(一)(二)(三)をそれぞれ発表してい る。その際「農村自治制度と称しているが之は調査会に於て都制と対比して農村の二字を冠したの であつて町村制の意味である」としている。
33)小林千秋「町内会論」(『自治研究』昭和13年4月号所収)
34)前掲吉岡「町村自治制度改正要綱案」(一)(二)(三)
35)坂千秋「農村自治制度改正案の骨子」(『斯民』昭和13年7月号所収)
36)布施辰治「農村自治制度改革原案について」(『法律時報』昭和13年9月号所収)
37)同様の見解は弓家七郎「農村自治制度改正要綱批判」(『斯民』昭和13年9月号所収)でも「部落に 対しては相当の自治権を与えて、基本的自治団体としての発達を促すようにすることが必要」とあ り、このような部落論の裾野の広さが窺われる。
38)入江俊郎「町村の新使命」(『自治研究』昭和 13 年 9 月号所収)。この点に関しては佐藤達夫「レ フェレンダムの一票として」(『斯民』昭和13年9月号所収)でも「現在の町村は精神的隣保団結の 単位としては大に失する。併し之も近代的行政施設に付ての効率上、経済上の要請から来た巳むを 得ざる事象であつて、此の趣旨に於ては町村の合併は益々奨励せらるべく、今後の町村は寧ろ府県 に代るべき上位の自治体として発達せしむべきである。而して一方に於て町村の従来の職能を分化 して、極く卑近な原始的な隣保共同事務、例えば衛生(消毒財散布、清掃等)、警備(交通事故防 止、夜警、照明灯等)の如き程度の仕事を処理せしむる為に、従来事実上の自治単位たりし部落を 制度上の自治単位たらしめ、之が財務其の他に付ての監督統制も充分ならしむることは極めて適切 な措置である様に思われる。此の場合部落に付ても前記各種団体にして部落を単位とするものとの 間に於ける調整の問題があるが、之は町村の場合に比べて其の徹底的整理統合は可能且容易である 様に感ぜられる」との指摘がある。
39)柴田達夫「部落会町内会等整備要領」(『地方行政』昭和15年10月号所収)
40)吉岡恵一「『部落』―町村制度改正の一資料」(『斯民』昭和13年11月号所収)