開始以後の展開 その2
著者 山本 悠三
雑誌名 東京家政大学博物館紀要
巻 16
ページ 45‑58
発行年 2011‑02
出版者 東京家政大学博物館
URL http://id.nii.ac.jp/1653/00010319/
The Circle of Towns, Villages and the General Meeting Part2
Yuzo Y
amamoto 山本 悠三部落会、町内会と教化常会
国民精神総動員運動開始以後の展開 その2
3 教化(部落)常会と「部落会町内会等整備要領」
(1)教化(部落)常会の組織化
教化(部落)常会の設置にあたりその前提となる部落(会)の容認や区画の確定は「農村自治制 度改正要綱」によりひとまず明確になったものの、部落(会)自体が選挙粛正運動の「臨時的組織 の如く考えられて」いたため「其の活動不振を免れ」ない状況にあったと言われていた。それでも 精動運動が開始されると「其の使命重大なるを痛感されて活動を促進するに至」り「実践網要綱」
でもその意義が唱えられるに至った。
部落会に関して内務省が行った調査によれば昭和14(1939)年8月までに部落会設置勧奨の訓令 または通牒を発した府県は24、運営の中心人物養成を目的とした講習会を開催した府県は8であっ たが、その調査結果から「全般的に組織を完整し活動も100%であると云う地方は殆どな」く「大 体に於て全県的に相当の活動を見つつあるもの」は数県に過ぎないとあった。その一方で府県の各 町村によっては「古来の良風を存続して又は新なる組織を以て優秀なる成績を挙げて居る向が少く ない」ともあり1)、部落会の設置状況は各地で様々な様相を呈していたことになる。
では「部落会等運営の基幹たるべき常会の開催」2)はどのような状況にあったのであろうか。そ れを語る前に当時の常会を取り巻く概観について見ておきたい。常会の普及にあたっては既述した ように静岡県の土方村や庵原村杉山、そして数府県で推進されてきた指定教化町村等への視察が有 効なことは知られていたが、そのほか「常会員の毎月必読すべき」指導書の発行が薦められてい た。これは連合会が昭和 11 年度の「主なる施設事業計画」の一つに「部落教化常会の勧奨」を掲 げ、そこに勧奨に「必要なる資料等をも作製し広く頒布せむ」3)とする指示を受けたものと思われ る。
児童教育学科 歴史学研究室
同じく内務省の調査によれば最も早い事例として石川県から昭和11年9月創刊の『部落常会資料』
(月刊)が県下の部落町内常会に配布されている(発行部数 2 千冊)。ちなみに石川県では同年 6 月 に部落常会設置訓令が出されるなど「常会指導には熱心」で「社会教育関係では最も頻繁に資料を 発行していた」4)府県の一つといわれていた。また昭和 12 年に愛媛県の『時報』、昭和 13 年に新潟 県の『常会彙報』、栃木県の『国民精神総動員時報』等、昭和 14 年に千葉県の『常会資料』、奈良 県の『常会の栞』、島根県の『常会の友』等全部で20府県からの調査結果が集められていた。殆ど が昭和 13 年以降でしかも半数以上は昭和 14 年に発行されている5)。同年は「全土に挙がる常会開 設の声」6)が聞かれ、後述する『常会』が創刊されることになる。
そこで新潟県の場合をみておくと、昭和 13 年 10 月創刊の『常会彙報』が県下市町村、学校、農 会その他の各種団体、精動実行委員等に配布されている(発行部数 1 万部)。発行部数は大分県の
『躍進二豊』(昭和13年)、熊本県の『熊本県常会報』(昭和14年)の各1万7千冊に次ぐ部数である が、新潟県ではこれより前の同年3月に部落常会の確立が精動運動、銃後産業拡充方策の「円満な る遂行」に結びつくとの判断から、昭和 13 年度予算に 1 万円が部落常会指導費として計上され
「愈々積極的に全県に亘つて常会活動の振起に乗り出すこと」となった。また蒲原郡鳥屋野村下所 島部落でも 3 月 5 日更生部落常会が開始され、月 1 回の常会開催による部落内の融和振興の促進が 申し合わされた。
また佐賀県では 3 月 2 日に部落常会に関する講演会が開催され参会者は 3 百数十人に達し、古谷 幹事から「国民精神総動員の恒久的方策としての部落常会について」と題する講演が行われた7)。 さらに鳥取県では昭和12年度から4カ年計画で1年に50町村下の各部落に常会を設置する計画が打 ち出され8)、それまで部落常会の普及率が「全国第一の栄冠をかち得て」いた長崎県では昭和12年 から13年にかけてさらに全県下に普及する計画を打ち出した9)。それに対して未結成部落への設置 勧奨の通牒を発するため準備中の島根県は昭和12年3月の時点で部落常会設置数は全部落数3千余 の2割程度にしか過ぎなかった10)。
これらの事例からみて部落会同様各府県の常会開催の動向も様々であった。連合会は昭和 13 年 度の主な「施設事業」の一つとして再び「教化常会設置の勧奨」を掲げ、国民生活の単位は一町村 にあり部落は「更に最小の単位」であるが、「教化の実績も究極に」は部落に求めざるを得ないた め「町村中枢機関運営の妙は部落常会を開設することによりて発揮せらる」とした11)。それは常会 開設の意義を再確認するとともに、常会開設に向けての檄を飛ばす意味合いもあったといえよう。
この奨励に応えた反応が幾つかの府県でみられた。例えば兵庫県は市町村教化網の敷設が進んで いる府県の一つであったが、市町村教化網の「組織運営の万全を期し、その細胞化を図るため」既 に昭和12年10月15日に県下各市長村長、学校長宛に部落会、町内会設置の勧奨をしていた。その 後自治制発布五十周年の昭和 13 年 4 月 17 日には「更に隣保協同組織の整備強化を図りて、自治教 化の恒久的実行機関たらしむべく」県下各方面に通牒を発した。その通牒によれば隣保協同組織と して市部には市以下区、町、部、組、隣保、各戸の体系を図示し、町村にも町村以下部落(大字、
町)、組、隣保の体系を図示して、それぞれの運営にあたって教化常会の役割を説いた。そして 9
月末までに組織の完成を目指すこととなった12)。
また和歌山、三重両県では部落常会に関する指導者講習会を開催している。指導者講習会の開催 は先述した「実践網要綱」の附記のところで「常会指導者ヲ訓練スル」には「適当ナル期間講習会 ヲ開催スル」とあることに関連するものと思われるが、そのうち和歌山県では 10 月 6 日〜12 日に かけて県下 3 村を会場に行われた。参加者は郡内町村長、小学校長、産業組合関係者等 60 名から 150 名ほどに達した。そこでは部落常会に関する講話を連合会主事の古賀幾次郎が担当したほか、
各町村常会、各部落常会等の実地見学を試みた。また、三重県では10月12日〜16日にかけて県下 3 村を会場に行われた。参加者は 60 名〜70 名くらいで、和歌山県同様古賀主事の講話のほか同じ く部落常会の実施視察が行われた。そのうち会場の一つとなった河芸郡黒田村では農家組合単位に 開催される20カ所の部落常会を参加者が別々に視察したところ、「その成績は凡ての参加者何れも 口を揃えて賞賛すると言う上乗のものであ」った。三重県は全国でも稀にみる部落常会の普及率を 示しており「実施成績が相当の徹底をみつつある」といわれていたが、そのことは視察者にも「十 分に察せられ、斯種運動進展の為に誠に欣ばしき事」とされた13)。
とはいえ全国的にみると常会の設置状況は昭和 14 年末に至るまで顕著な進展を見せていたわけ ではなかった。同じく内務省の調査によれば昭和14年の末までに、市レベルでは4割、町村レベル では5割2分であった14)。常会設置が進展しにくい背景には何があるのであろうか。
その一つとして考えられることは「部落会町内会の組織体と常会開催とを明らかに区別して従来
『部落常会』の名称を以て組織と運営形態を混同せるを除去し」15)、あるいは「部落常会を以て同時 に地域組織たる部落会の名称とする例は少くないが混同の虞があるから此の際改むべきである」16)
というような指摘が複数みられる。部落会、町内会とは「組織体」で「その地域に於ける共同生活 の道場」であるのに対して、常会は「活動体であ」り「住民相互がその生活をよくする実地訓練」
であるが17)、上述の指摘はいずれも部落会と部落常会との区別が不明確であったことを示してい る。それは常会に対する世上の認識の一端を示すものであったと考えられる。また「『模範的な常 会なら教化村へ行け!』と云う頼母しい声を各地に於て耳にする」との指摘がある18)。それは常会 の具体的なイメージを指定教化町村に求めよということであるが、裏返せば依然としてそこにしか モデルケースを求められない実情を物語っていたことにもなる。
こうした事情は連合会関係者に市町村教化網の「徹底の方法として……教化常会の解説を奨励し 来つた」が「之れが容易に一般の容るる所とならず、所謂先駆者の悲哀をなめ」たとの認識を生み 出すことになる。そこで常会の設置、拡大を推進するにあたり「常会は如何なるものなりや、常会 は如何にして開くべきか等その理論と方法について」の「初歩的指導の要求繁く、指導資料の提供 を希望する声」が「甚だ高い」という状況への対応が必要となるのであった19)。
この時期に多くの常会関連の出版物や解説書が刊行されたのはそうした必要性に迫られたためで あることはいうまでもない。一覧表式に並べてみると佐々井信太郎『常会の組織とその運営』(昭 和 14 年)、児山忠一・播磨重男『部落会町内会等の組織と其運営』、伊藤博『部落会、町内会とそ の常会の話』、古谷啓二『常会の話』、平林広人『常会立国論』、鈴木嘉一『隣組と常会』(以上昭和
15年)、三重県自治振興会編『常会』、宮西一積『常会の理論と実際』、同『常会の意義とその運営』
(以上昭和 16 年)、中央教化団体連合会編『常会の礼儀と作法』、古谷啓二『常会運営の実際』(以 上昭和 17 年)、同『正しい部落常会の開き方』(昭和 18 年)等がある。その殆どが昭和 15(1940)
年以降に集中しているのは後述する「部落会町内会等整備要領」の提出にともない、その意義や役 割への関心が高まったためと考えられる。
それら常会関連の著書の中から教化常会の提案をした佐々井信太郎の『常会の組織とその運営』
(全 193 頁)を紐解いてみよう。佐々井は先に『国民生活建直し方策と新興精神』(昭和 7 年)を出 版しており、佐々井にとって同書は常会関係では2冊目の著書にあたる。また連合会としては『国 民生活の更新と教化常会』(昭和11年)に次いで2冊目の常会関係書であるが、『国民生活の更新と 教化常会』は連合会の加藤咄堂理事と古賀幾次郎主事によって執筆されたもので佐々井は直接関係 してはいない。
『常会の組織とその運営』では「教化常会開設の声は漸く全国に漲り……国民生活上不可欠の施 設として、その効力はもはや決定的」で「国民精神総動員運動において実践網と称し、力をこれが 普及に效されつつあることも亦偶然ではない」が「施設方法の実際を詳知するにおいて未だ適切な る参考資料を求むるに難い」状況にあり、連合会としては先に「『国民生活の更新と教化常会』を 世に送つたに過ぎない」ので同書を「新に発行するを得た」(はしがき)とある。そこには同書の 出版の意図が示されていたといえよう。
同書は常会の由来やその意義、方法等から説き始めており入門書に近い形式となっている。そう した形式は前出の『常会の話』や『正しい部落常会の開き方』でも共通している。後者の『正しい 部落常会の開き方』では部落常会の開催範囲を「三十戸乃至五十戸が一番気分の出る範囲でありま す」(p.45)とあるように砕けた文体で解説をしている。そのことは常会への理解を絶えずその段 階から説き始めなければならないことを意味していたともいえるが、『常会の組織とその運営』で 佐々井が「各種団体と常会」に深く論及していることに着目しておきたい。佐々井によれば町村に は農会、産業組合、青年団、衛生組合等少なくとも 10 幾つもの団体があるため、町村長は各種団 体の取扱いに手を焼くことになる。そこで「多過ぎてバラバラになつて居る団体を整理統合する」
には常会が必要となり、常会を通して「町村の為にという点を徹底して行く方法を終始やつて居り さえすれば……町村の為にという根本観念に立帰る」ことになる。そのため問題が生じても「先ず 常会を開いて常会の席上で万事相談をする」ことで解決に至る。つまり常会は「各種団体の母親の やうな女房のやうな立場を作る」というものであった(p.81〜p.85)。
この主張は以前から佐々井の持論でもあった20)。「各種団体と常会」の関係はこの間「実践網要 綱」で説かれ「改正要綱」では常会の役割こそ触れられないものの各種団体の調整が論じられ、こ の後「整備要領」でも明記されることになるが、そこには佐々井の主張が反映されていたといえよ う(この点は後述する)。
(2)『常会』の創刊
連合会は昭和 14 年度の事業計画の一つに「常会指導者に対し時局の正しき認識と各般の教養並 に実際運営上の指針を与え」るため、7 月から『常会』の創刊を打ち出すに至った21)。それには精 動運動の開始以来「実践機関としての常会の活躍は目覚ましいものがあり、常会に依らずんば運動 の徹底は期し難し」との認識がある一方で「全国的に見て尚未だしの感ある常会を一層普及徹底す ること」が必要であるとともに、常会が本来の使命を遂行するためには正しい運営方法を実践する 人々に理解して貰うことが必要なためであった。その背景に地方での実施状況には「必ずしも完璧 とは言」えない事例として、常会の基本知識が不足していたり指導者の信念及び方法が不十分なこ とが指摘されている22)。
連合会としてもそれまで全国各地での常会指導のための講習会の開催や『常会の組織とその運 営』その他の出版物により「実践的、文書的指導に心を注いで来たので」あったが、「時局の推移 は益々常会の練達を必要とし」ており「常会の精神と知恵への要求は更に一層の進展を齎」すこと になった。そこで「新しく何等かの方法による常会解明の機運が醸成され」たため「新しき指導標
『常会』の誕生」が必要となったのである23)。
『常会』の創刊が発表されたのは昭和 14 年 4 月であったが、直前に開かれた連合会の理事会で創 刊が決定され、さらに具体的な概要が精動運動の「新展開に対処すべ」く 5 月 5 日〜6 日に開催さ れた連合会主催の全国加盟団体緊急主務者会議(以下主務者会議と略す)で検討されるに至った。
主務者会議は従来全国大会に付随して開催されてきたが、今回は「緊急」であったためかそれまで の慣例は無視され主務者会議のみが開催されている。
主務者会議を経て連合会では創刊に向けて「各部総かかりの下に着々とその計画が進められ」て いたが、各府県からも希望や意見が寄せられていた。それは「この種の指導書の刊行が痛切に要望 されて居るかを如実に」知らせるものであり、同時に「本誌の使命が益々重大性を加えると共に 我々の責任の愈々重きを痛感」させるものであった。その際編集者が「力点を置かんとする事」は
「現在の地方に於ける各種常会が、どういう点に悩み、どういう点に工夫がなされねばならぬか、
又どういう点が指導の上に必要か等々という様な細かい点について飽くまで当事者の立場から応病 与薬的な効果をねらつての編集態度を取りたい」というものであるが、「この事が又地方当事者の 最も望んで止まない点ではなかろうか」との判断であった24)。
そして 10 点に及ぶ雑誌の特色を掲げた。その中には「時局に対する正しい認識が深められる」
とか「平易で面白くて誰にもすぐ役に立つ」というように『常会』に限らず一般誌にも共通する謳 い文句もあるが、『常会』という雑誌の特色を打ち出しているのは「常会の正しい運営と指導の方 法が会得される」、「指導者としての信念と教養が得られる」あるいは「指導の材料が豊富に与えら れる」というような項目であろう。それらはこれまで述べてきた『常会』の「進むべき道を端的に 表現したもので」あり、そこに創刊を期待する各地の要望が集約されていたともいえよう。
『常会』の発行部数は1万5千部とされるが25)、昭和14年の創刊時(7月創刊号)からその部数で あったのか。それとも途中から拡大してその数値に達したのかは明らかではないとしても、「読ん
で直ぐ役に立つ常会手引きの新雑誌」の巻頭記事は福島県太田村の飯野次郎と秋田県下北手村の小 田島留吉の「常会指導の苦心談」であった。その題目にある「苦心談」の語句には『常会』の創刊 に至る経緯や創刊に寄せる関係者の感慨が込められていたようにも思われる。ちなみに太田村は昭 和9年度に下北手村は昭和10年度にそれぞれ連合会から聖旨奉体指定教化町村に選出された町村で あった。
『常会』創刊号の記事をみておくと、「常会講座」があり第1回目は「常会の意義」であるが「常 会講座」は後述するようにその後も続いていくことになる。また「全国各地の常会運動の展望」は 3 つのブロックから構成されている。その 1 つ目は「全県の常会運動」で「高知県の部」と題して 高知県社会教育主事大川与平の寄稿記事がみられる。2 つ目は「我が村の部落常会の実際」と題し て三重県阿山郡島ケ原村の小学校長増森彦兵衛、岡山県赤磐郡高陽村の村長国塩達太、石川県河北 郡宇ノ気村の地方改良主事大和七郎等 3 人の寄稿記事がみられる。そして 3 つ目は「町会と隣保常 会の実際」と題して「神戸市湊区の隣保常会」を湊区長道添哲夫、「名古屋市の連区常会」を連合 会幹事の古谷、「東京市の町会」を東京市区政課の平林広人の 3 人が寄稿している。そのうち「我 が村の部落常会の実際」の寄稿記事を執筆した 3 人の所属する町村はいずれも昭和 9 年度に聖旨奉 体指定教化町村として選出されたものである。先の太田村、下北手村も含めて『常会』創刊号に掲 載された実践例はいずれも聖旨奉体指定教化町村であるが、そのことは「模範的な常会なら教化村 へ行け!」を文字通り『常会』の誌面で実行していたことになる。その他「常会指導の秘訣を探 る」ための座談会が掲載されている。そこでは各府県の常会指導者により「忌憚なく語り合」われ ているが、創刊号はまさしく常会に関する題材で満たされた観がある。
第 2 号にあたる 8 月号も創刊号のスタイルを継承している。「各地の常会運動の展望」をみると
「町内一致で常会運営の吉田町」、「小倉市の御民組常会」、「長崎県下の部落常会」、「全県下の町村 は皆常会(石川県)」等の記事が寄せられており、第2回の常会講座(題目は不明)並びに第2回の
「常会指導の秘訣を探る」が掲載されている。
そこで具体的な記事の内容が確認出来る昭和 15 年 10 月号以降の『常会』について検討すること にしよう26)。その頃の誌面をみると創刊号から開始された「常会講座」が続いているほか、「伝達 と報告」、「常会ところどころ」、「協議・懇談・申合せ」、「研究・体験発表」、「常会教程」等の諸項 目から構成されている。翌 16 年後半から「常会現地報告」が加わるが「常会ところどころ」を改 題したものと思われる。その後昭和17年4月号から内務省地方局内の自治振興中央会常任理事上浦 種一の「部落会町内会運営読本」がシリーズで連載されるなど(昭和18年6月号まで)誌面構成に 多少の変化はあるが、諸項目は基本的には変化することなく続いている。以上の誌面構成のうち
「常会ところどころ」→「常会現地報告」に紹介された各地の実践例に常会の実態が語られている と思われるので、実践例を幾つか拾ってみておきたい。
(3)「常会ところどころ」→「常会現地報告」にみる実践例
昭和15年10月号所収の「常会ところどころ」には景山鹿造「東京府の常会」、岡崎市「常会の成
績と指導者」、高知県長浜町「苦労もあるがなくてはならぬ常会」、岡山県富家村「全村民一つ心 で」等が掲載されている。そのうち吾川郡長浜町は昭和10年度選出の、川上郡富家村は昭和9年度 選出の聖旨奉体指定教化町村の一つである。
まず戸数 1500 戸、人口 7500 人で「土佐の鎌倉と称へられる」長浜町からの報告では町吏員、小 学校教員のほか産業組合、農会、商工会等の役員、そして各常会長等の指導者が参加して「中央常 会」すなわち町常会が毎月 26 日に開催されていた。各常会長とは町下の各部落常会の責任者であ るが、部落常会は各部落ごとに「特別の事情無き限り毎月一回開催」され「町当局より指導員が出 席」して「町是の大綱を基礎として指導」にあたった。中央常会開催の翌 27 日に再び上述の指導 者が集まり翌月の常会の指導について打合せを行うとともに、そこで纏まった内容を印刷して配布 していた。長浜町では指導者の参考資料として高知県自治協会から配布されていた『常会弘報』
(昭和14年1月創刊、発行部数4000冊)を活用したほかに、連合会発行の『常会』を購入していた が「之れが非常に役立つと云ふので皆に喜ばれて居る」とのことであった。長浜町下の部落常会は
「何れも成績優良」といわれていたが、そのうち「特色のある常会」として大字横浜中ノ谷常会の 事例がみられる。そこは戸数26から成る報徳社が結成され、「人格識見共に立派な」常会長のもと に「鐘を打てば全員直ちに会場たる公会堂へ集合する」といわれていた。この部落常会では「少金 額の頼母子講を行」い、報徳社の積立金払い込みを行った後で懇談、協議、訓話等をしていた。そ の活動は「殆ど一家の如き感があ」り、この部落は「思想の穏健なこと、話合の纏まる事は敬服に 値する」とのことであった。
また富家村には「老若男女全村民を以て会員」とする教化振興養民会が組織されている。内部は 男子部と女子部に分かれており、それぞれ戸主会、主婦会という名称で呼ばれているがいずれも 23 の支部がある。そのうち大きな支部では 30 戸、小さな支部では 10 戸くらいを構成単位としてお り、毎月 15 日から 26 日までの間に各支部で常会が開催されている。このほか青年団は別に 3 支部 あり、各支部で常会を開いている。各支部常会の上に村常会があるが、村ではこれとは別に社会教 育、産業、経済、済世保安、衛生の 5 つの部会がある。この部会長が集まって月 1 回開催の村常会 の原案を作成することになっているが、村常会は全村の「一円融合の生活発展の鍵となる」ため
「最も慎重な期間を必要と」されるものであった。そして村常会の決定事項は教化振興養民会を通 して村民に徹底されていくことになる。
次に11月号所収の「常会ところどころ」には横山正人「岡山県の常会」、山形県長井村「我が村 の部落常会」、北海道東鷹栖村「光明へ棹さして」、「秋の夜に見る和やかな部落常会―鳥取県山守 村明高部落の常会見学記―」、柴田正次「部落の更生と常会」、鈴木静子「一二三会から常会へ」等 が掲載されている。前号の2町村と同様本号掲載の西置賜郡長井村は昭和10年度の、川上郡東鷹栖 村は昭和 13 年度の、東伯郡山守村は昭和 12 年度のそれぞれ聖旨奉体指定教化町村の一つに選出さ れている。そしてこの後の「常会現地報告」でも事例として紹介される町村の殆どが聖旨奉体指定 教化町村である。
そのうち旭川市に隣接し大部分が「純農村」の東鷹栖村では「未だ若くして既に、在職十一年に
達せんと」し「名村長として知られ」ていた武田信之助が「道庁の勧奨」により昭和 11 年 10 月に 横浜市で開催された国民生活建直し指導者講習会に出席した。そこで「物心一如、道徳精神の一円 融合を中心とする指導精神を体得して帰村し」た後「奮闘の第一歩が始まつた」といわれている。
帰村後の 11 月中旬農閑期を利用して村会、区長会、農事実行組合長会、青年会、婦人会、教育部 会等の各部を招集して協議をするとともに、自身は全村を巡回して翌年の4月まで報徳結社と常会 の必要性を説いた。その際「協力する同氏の要請が必要」と痛感したため小学校長や訓導、助役、
農会の技手等を講習会に参加させたり、札幌で開催された短期講習会にも「村の重立つた人々を出 席させ」た。
このような準備段階をへて昭和14年9月から講習会に参加した人々を10数名づつ4班に分けて報 徳結社指導班を編成し、総動員で各部落を巡回させたところ2週間程度で38の報徳結社の結成に成 功した。また村長を会長に役場、学校、産業組合、農会等の各種機関及び神官、僧侶、郵便局長等
「村首脳部」を網羅した村常会を組織して毎月20日に常会を開催した。そして毎月1日〜16日まで に各部落常会を開催したが、そこには村長以下の「村首脳部」も指導のために出張した。このよう にして東鷹栖村では「国家の非常時に処し」て国民貯蓄、銃後後援、生産拡充、配給統制、生活改 善、国民教化等々の事業が「一村常会の機構を通じて整然と行われてゆく」ことになり「本村の村 民生活は、全く常会とは切つても切れぬものとな」ったとある。
長浜町や東鷹栖村では報徳結社が常会に深くかかわった事例が紹介されているが、これ以降の
「常会ところどころ」で紹介される各町村での実践例でも報徳結社の動向が確認出来る。例えば静 岡県浜名郡和知村(昭和 10 年度選出の聖旨奉体指定教化町村)では「村の報徳社員は僅でありま して、村全体が報徳ではありません」として報徳社を積極的に受け入れたという雰囲気は見られな いものの、「二宮先生の報徳訓」を「取入れました」のは「先生の教が現在に即して最も善いと」27)
判断したからとあることから、その影響力を無視することは出来なかったと考えられる。
常会運営にあたり先述した富家村では教化振興養民会という組織が機能していたが、そうした事 例は徳島県勝浦郡多家良村でも全村学校更新会が同様の役割を果たしていた。全村学校更新会は昭 和 12 年 11 月に「自治の総合機関」として創設され直後に多家良村自治振興会へと解消されるが、
それは「徳島県最初の実践組織」であった。自治振興会は総務部、社会部、教化部、産業部等に分 けられ、それぞれの部門の責任者に各部落常会長を加えた形で会議が行われていた。また村内を 5 大字に分けたが、そこで実施される大字常会は「一種の連合常会制度」であった。また 42 の農事 改良実行組合を設け、これに例会を開催させることで「全村一致の体制下に勇ましくも更生のス タートを切つた」といわれている28)。なお同村では昭和 13 年度選出の聖旨奉体指定教化町村の一 つである。
この他にも各地の実践例が多く寄せられているが、いずれも「常会なくして部落なし」29)、ある いは「常会無くして村治なし」30)との結論が引き出されている。それは実践例から引き出された結 論と思われるが、常会を実践していく上での前提でもあったように思われる。
また「常会運営の鍵は、何といつても、指導者その人にある」31)、あるいは「部落常会の中心に
なつてお世話下さる人々を、正則的に厳格な指導訓練をいたしまして、常会指導に対する十分の認 識と自信を持たしめ其の熱意と決心を強くして、ジットしていられない気分をつくり上げることが 最も大切な事であります」32)とあるように常会の実践にあたっては指導者の養成が問われていた。
それは「実践網要綱」でも指摘されていたが、さらに「指導者間の連絡統制」が「成否を支配す る」とも言われており33)、村長や小学校長等の個人的な力量に頼ることなく複数の人員によるチー ムワークの必要性が問われていた。それは明治期の模範村の教訓に基づいていたともいえる。模範 村では「一、二の優秀なる幹部の超人的な努力」による成功例があったが、その人物の死去や移動 により「転落する」事例が指摘されていた。つまり「中心人物が倒れた時には、失脚した時には、
模範村でなくな」るのであった34)。そのため「之が防止策として町村に統一的組織を作り、総合体 制の確立によつて、其の恒久的発展を保持すべきこと」35)が教訓として導き出されていたのであ る。その教訓は指定教化町村の運営にも通じるが、東鷹栖村で村長が「協力する同志の養成が必要 であることを痛切に考え」て助役や小学校長などを講習会に派遣したことはまさにその教訓を生か した行動でもあったといえよう。
(4)「部落会町内会等整備要領」とその経緯
部落の容認や区画の確定、常会の普及は精動運動に対応しつつ展開してきたが、未分化の部分を 残したまま昭和15年9月11日の内務省訓令「部落会町内会等整備要領」へと収斂されることになる。
「整備要領」に至るまでの経緯を明らかにしておきたい。
この時期の常会を巡る動向としては「地方教化の実効を期すべく」常会に「着目し近く全国的に
……乗り出さんと」した文部省と「自治振興の立場から常会の解説を勧奨せんとし」た内務省、さ らには「農村更生の実践網として」の「常会を重大視しつつあ」る農林省との間での綱引きとして みることが出来るであろう36)。このうちまず文部、内務両省間の動きをみておきたい。文部省は昭 和 14 年 6 月 26 日文部次官通牒「常会ノ指導施設ニ関スル件」を発して「常会幹部及社会教育委員 等ヲ対象トスル常会指導者、協議会ノ開催」を指示する等常会への対応を明らかにしていた。内務 省は同じ時期常会指導の基礎づくりを行い年末に『常会普及状況』としてまとめた。先述の市町村 常会の設置数はそこに示されたものである。
その一方同年9月14日に地方局長から各地方長官宛に「市町村ニ於ケル部落会又ハ町内会等実践 網ノ整備充実ニ関スル件」を発して部落会、町内会に関する明確な準則を示した。そこでは「地方 自治振興発展ノ根基ヲ強固ナラシムル」とともに精動運動等の「重要国策ノ趣旨ヲ徹底」すること が謳われていたが、部落会の語句に着目しておきたい。前年の「改正要綱」では部落とされていた が、ここでは部落会と表記されている。そのことは部落会の区画確定がこの間にほぼ決着した事を 示唆するものであったと考えられよう。それは既に数回の論議を経て明らかになってはいたが、
「概ね五十戸内外の地縁、血縁の強固なる共同生活体たる、小字乃至は小組とでも称すべき範囲を 最上」として、それに「部落の名を冠称していると云う状況にあ」るというものであった。その際
「この部落と云う呼称には厳密なる定義はな」いものの、部落有財産所有者としての「大字の地域」
が「広大に過ぎる」ため「小字、小組を部落と云うも、或いは常識的解釈」とするもので37)、部落 の概念及び部落会の範疇はこのあたりに落着したとみるべきであろう。
そうした経過の後内務省は翌年の9月11日に「部落会町内会等整備要領」を発表するに至る。文 部省も直後の10月15日に改めて「常会ノ社会教育的活用並ニ指導ニ関スル件」を出すことになる。
そこでは「各種常会ノ活用」は「社会教育ノ徹底ヲ図ル為最モ有効適切ナル方途」とあり「内務省 ト打合済ニ付」との注釈がみられる。このことは常会への対応は内務省が一歩先んじていたことを 示すものであった38)。
そこでまず「整備要領」の項目を見ておきたい。項目は大きく1、目的、2、組織の2項から成り、
2 の組織の下に一、部落会及町内会、二、隣保班、三、市町村常会の中項目が配置されている。そ のうち一の部落会町内会にはさらに10の小項目が、二の隣保班には6つの小項目が、そして三の市 町村常会には4つの小項目がある。そのうち一の部落会町内会の小項目の中から行論にかかわりの あると思われるものを選んでおく。
1、市町村ノ区域ヲ分チ村落ニハ部落会、市街地ニハ町内会ヲ組織スルコト 2、部落会、町内会ノ名称ハ適宜定ムルコト
5、 部落会ノ区域ハ行政区其ノ他既存ノ部落的団体ノ区域ヲ斟酌シ地域的共同活動ヲ為スニ適当 ナル区域トスルコト
10、部落会及町内会ニハ左ノ要領ニ依ル常会ヲ設クルコト
イ、 部落常会及町内常会ハ会長ノ招集ニ依リ全戸集会スルコト 但シ区域内隣保班代表者ヲ以 テ区域内全戸ニ代フルコトヲ得ルコト
ロ、 部落常会及び町内常会ハ第一ノ目的ヲ達成スル為物心両面ニ亘リ住民生活各般ノ事項ヲ協 議シ住民相互ノ教化向上ヲ図ルコト
ハ、部落会及町内会区域内ノ各種会合ハ成ルベク部落常会及町内常会ニ統合スルコト
この小項目を検討するにあたって内務事務官柴田達夫の詳細な解説があるのでそれに依拠してい くことにしたい39)。
まず名称は「従来古く用いられた地方的な慣称」でもよいが、部落会、町内会が地域的組織であ り「特定目的のため設立せられた職能的目的団体と異る」ことから、農事実行組合、衛生組合、自 衛組合等のような「職能的機能を示す名称」は不適当とされた。それらのうち農事実行組合との関 係については後述することにしたい。また区域に関して部落会は「隣保団結の自然的結合を基礎と する住民の共同生活単位」であるから「地位的共同生活ヲ為スニ適当ナル区域」ということにな る。それには旧来の精神的結合の有無、地形的条件、現在の社会的経済的活動単位、常会開設の便 宜、戸数等が考慮されるが、区画が確定された場合は区画内の各種団体の活動を「一元的に統制す ることが部落会町内会本来の使命を全うせしめる上」で必要となる。そこで部落や町内を単位とす る各種団体の活動範囲を部落会町内会の区域と一致すべく整理統一が必要となるというものであっ た。
そこで言われている「各種多数との関係」については別に項目を設けてさらに説明が加えられて
いる。部落や町内には「各種多数の団体」があり「相互無統制に活動している」が、部落会や町内 会は「地域的住民組織として其の地域内の凡ゆる公共的機能を達成すべき総合目的を持」っている ため、各種団体に対しても「統合を図らなければならない」とする。そのためには部落会町内会に 総務、経済、教化、厚生、軍事援護、警防等の部制を設け、各種団体長を各部長とすることで「職 能的活動の統合を図」ったり、わけても部落常会と農事実行組合の会合を「共通ならしめる等の方 途を講じ」て、農事実行組合に部落会の経済的機能を分担させることで部落会への統合を図るとい うものであった。
以上のことから「整備要領」では各種団体のうち特に農事実行組合との関係に苦慮していること が窺われる。それは内務省と農林省との関係でもある。農林省は「経済更生指定町村でも、農事実 行組合などで、月並会が開かれ、常会と同じような歩調で進」40)んだ事例があるが、それは農林省 関連の各種団体を部落会町内会に「一元的に統制」することで、あるいは農事実行組合の総会を部 落常会と合同させることで地方自治体への農林行政の影響力を排除する狙いがあったと考えられよ う。
以上のことからみて「整備要領」は部落会町内会さらには常会を巡る文部省、農林省との確執を 経た後の内務省の構想が具体化されたものであったことになる。そして「整備要領」はこれまで
「実践網要綱」に明記された常会の役割や各種団体と常会との関係。また「改正要綱」に明記され た町村と各種団体との関係及び部落の容認問題や区画の確定等々地方行政にかかわる様々な課題の 帰結点に位置するものでもあったといえよう。
おわりに
これまで主に精動運動開始以降の部落会、町内会と教化常会との関係を論じてきたが、本稿を終 えるにあたり若干事実関係の確認をしておきたい。
昭和初頭における報徳仕法の実践から佐々井信太郎が導き出した常会構想は、昭和 10 年前後ま で静岡県下の土方村や連合会による聖旨奉体指定教化町村で実践されていたものの、実践の範囲と してはまだ限られていた。その後昭和 13 年 4 月 17 日の「国民精神総動員実践網要綱」の実施にあ たって常会が有効な手段として採用されると、それまで「単なる私設的組織」41)であった段階から 公的な段階へと飛躍することになった。常会史とでもいえる領域があるなら、そこが一つの画期と なるであろう。
また「実践網要綱」には常会に関する必要事項が微に入り細を穿つように記載されていることか らみて、論証するまでには至らないものの、作成にあたって佐々井や古谷等連合会の関係者が深く かかわっていたことは疑う余地のないところである42)。常会に関する専門知識を持つ集団や個人が それ以外に存在するとは考えられないからである。そして「実践網要綱」こそは連合会関係者に とって常会構想を全国的な規模へと拡大させていく上で絶好の機会にほかならなかったといえよ う。
佐々井の常会構想は昭和恐慌下で疲弊する農村(後に都市も含めて)の復興に向けた救済策とし
て生み出されたものである。その際佐々井は各町村に存在する農会、農業実行組合、産業組合等多 数の各種団体間に生じる確執や反目が町村復興の支障となるため、「住民相互の親交を進める方法 として」各種団体の会合を「悉くこの報徳常会に合流せしめる」ことを説いていた。そうすること で円満な町村運営の実施を試みようとしてのであった。「実践網要綱」にも各種団体が会合を行う 場合に「各別ノ会合ヲ行フ必要アル場合ノ外」は「当該市町村ノ常会ニ合流スルモノトス」と記載 されているが、それは佐々井の意向を反映するものであったと考えられる。
ところがその一方「実践網要綱」が「自治新興の立場から常会の開設を勧奨せんとした」内務省 と「事実上密接な連携」をとって作成されていたことは、その後の常会運営に内務省の意向が強く 働くことを意味するものであった。というのは市町村に存在する各種団体の中には文部省や農林省 の関連団体も多数あるため、地方自治を統括する立場にある内務省の意向を市町村へと伝達する際 他の行政組織との間に指揮系統の錯綜が生じることになる。そのため各種団体を統制して指揮系統 を簡素化する必要が生じることになるが、その作業は文部省や農林省との摩擦を生むことになり簡 単に解決するものではなかった。
そのため各種団体の統制に関しては昭和13年10月31日の「農村自治制度改正要綱」で「町村と 町村内の各種団体との関係を調整し町村内の各種団体等の活動の連絡協調を図るべく」町村会に各 種団体の代表者を加入させることで、また町村長に各種団体を統制する職務権限を与えることで、
各種団体の活力を町村長や町村会等地方自治体の行政機構に吸収することにより内務省の指揮系統 へと一元化することが図られていった。
その際本来町村復興の支障となる各種団体の確執や反目を解消するための常会が、地方行政機構 の末端にあって各種団体の一元化を果たす役割を求められるようになる。常会のそうした役割に関 しては既に「実践網要綱」にも記載されていたが、それがさらに明確化されるのは昭和 15 年 9 月 11 日の「部落会町内会等整備要領」における「各種(団体の)会合ハ成ルベク部落常会及町内常 会ニ統合スル」であった。その間に部落常会開催の前提となる部落の容認問題や区画の確定等を解 決する手続きが繰り返されていたことはいうまでもない。
このような常会の有様を佐々井はどのように受け止めたのであろうか。佐々井は「整備要領」の 発表直後に「常会の設定を強調し始めてから今日のように全国的に興隆するようにな」ったが、そ れには「内務省がその必要を痛感して部落や町内会に対して、全国的に一斉に、しかも短時日にそ の私設を整備させようとするに至つた」ためであり、その「状況を見ると、まことに感慨無量なる ものを禁じ得ない」として常会の発展と内務省とのかかわりを再確認する。そして「その全国的に 発展しつつある今日の常会の有様を通観する」とき「常会の本義に通達して行はれているもの」も あるが、「ただ形式的に格好をととのえているもの」もある。また「その運営内容にも常会の指導 に比較的徹底したものもある」一方で「極めて幼稚なものもあつて常会の開催に苦難を感じつつあ るものが多く」あり、「これを全国的に整備して完全な域に到達するまでには、今後尚ほ時日を要 することは云うまでもない」との認識を示した。
それは常会の現状が佐々井にとって必ずしも満足のいくものでないことを示すものであったが、
それに続いて「今日までに行われた各地の常会」には「市町村長がこれを経営し努力したもの」や
「上意下達の機関として設けられたもの」、あるいはこれまで指摘してきたように「各種団体の調整 を必要として設けられたもの」、さらに「町村経営の必要からのもの」そして「民間の方から経済 物件の配給或は自己の要求の満足を得んがためにその必要を感じたもの」などがあり、「いづれも この私設を感じた動機が、常会によつて何等かの便宜を得んとするをその立脚点としていると見る べきものが少なくない」とも述べられていた43)。
そこには本来常会に内在していた多様な可能性が示されており、中には佐々井の思惑を越えた方 向へと進むものもあったのではないか。その中で「整備要領」に示されたように、部落会町内会の 末端組織として「地方行政上に正式にとりあげられ」たことで、この後常会は「新政治体制に即応 し」つつ「新しく息吹を始めた」44)ことになる。それが佐々井の意図するところであったとする結 論を下すことはやや性急かとも思われる。
1) 児山忠一「部落会及町内会の整備充実」(『地方行政』昭和14年10月号所収)
2) 安井英二「部落会町内会等の整備に当りて」(『斯民』昭和15年10月号所収)
3) 『教化運動』36・5・1「主なる施設事業計画につきて」
4) 長浜功『国民精神総動員の思想と構造』(明石書店 昭和62年)p.105.
5) 平林広人『常会立国論』p.152〜p.154.
6) 『教化運動』39・4・15「全土に挙がる常会開設の声」
7) 『教化運動』38・3・21「全県下に漏れなく部落常会設置」
8) 『教化運動』36・12・11「四カ年計画で全県下に部落常会」
9) 『教化運動』37・3・5「長崎県で部落常会を」
10) 『教化運動』37・3・25「『部落常会』を結成」
11) 『教化運動』38・4・11「昭和13年度に於ける本会の主なる施設事業」
12) 『教化運動』38・7・11「全県下に組織細胞」
13) 『教化運動』38・10・23「和歌山県、三重両県で部落常会講習会開催さる」
14) 鈴木嘉一『隣組と常会』(昭和15年)「常会普及状況」p.169〜p.174。柴田達夫「部落会町内会等整 備要領」(『地方行政』昭和15年10月号所収)
15) 村田五郎「部落会町内会等の整備」(『斯民』昭和15年10月号所収)
16) 前掲柴田「部落会町内会等整備要領」
17) 伊藤博『部落会町内会とその常会の話』(昭和15年)p.13.
18) 古谷啓二「常会運動史考」(『斯民』昭和15年10月号所収)
19) 『教化運動』39・6・15「雑誌『常会』の創刊」
20) 『教化運動』32・8・3「農村救済策としての報徳式仕法に就て」で「各種団体の連絡を保ち、住民 相互の親交を進める方法として会合を悉くこの報徳常会に合流せしめる」としているが、この主張 はそれまでの実践の過程から導き出されたと考えられる。
21) 『教化運動』39・4・1「昭和四十年度事業計画概要」
22) 『教化運動』39・4・15「雑誌『常会』の準備進む」
23) 『教化運動』39・4・1「雑誌『常会』の発刊」
24) 『教化運動』39・5・15「雑誌『常会』の誕生近し」
25) 前掲『隣組と常会』p.27.
註
26) 『常会』は立命館大学図書館と東京市政調査会の市政専門図書館に所蔵されているが、昭和14年分 の全部と昭和15年の9月号まではいずれの図書館でも欠本である。その後も欠本が多く昭和17年2 月号以降になると纏まった冊数が残されている。そのため以上の記事は『教化運動』に掲載されて いる雑誌広告によるものである。
27) 静岡県和知村「理想郷の建設へ」(『常会』昭和16年6月号所収)
28) 徳島県多家良村「軌道に乗つて来た」(『常会』昭和15年12月号所収)
29) 柴田正次「部落の更生と常会」(『常会』昭和15年11月号所収)
30) 前掲岡山県富家村「全村民一つ心で」(『常会』昭和15年10月号所収)
31) 前掲山形県長井村「我が村の部落常会」(『常会』昭和15年11月号所収)
32) 愛知県鳳来寺村「総て村長を中心に」(『常会』昭和15年12月号所収)
33) 長崎県八上村「常会を教化的に運営」(『常会』昭和17年1月号所収)
34) 中央教化団体連合会編『市町村指導の体験を語る』(昭和16年)p.44.
35) 『教化運動』39・4・1「町村と宗教家への切望」
36) 前掲「雑誌『常会』の誕生近し」
37) 『教化運動』39・3・15「教化常会の健全なる生長の為に」
38) 前掲『国民精神総動員の思想と構造』p.133〜p.135を参照。
39) 前掲「部落会町内会等整備要領」(『地方行政』昭和 15 年 10 月号所収)及び柴田達夫「部落会町内 会等整備要領解説」(『斯民』昭和15年10月号所収)
40) 『常会の話』p.23.
41) 飯野次郎「部落常会指導の体験」(『地方行政』昭和15年10月号所収)
42) 『市町村指導の体験を語る』では昭和15年9月11日に内務省から訓令が出ると「報徳社の佐々井先 生と私(古谷―引用者注)に常会指導の要綱の下案を作るように命じられました」(p.38)とある。
一つのヒントになり得る。
43) 佐々井信太郎「常会の回顧と将来の展望」(『常会』昭和15年12月号所収)
44) 小田成就「今後の常会活動に就て」(『斯民』昭和15年10月号所収)