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員宗連合拳曾研究紀要
一 一 第 二 輯 −
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輯 第 口 論 親 驚 聖 人 員 筆 六 字 曾 挽 第 三 回 大 曾 研 究 費 表 ︵ 昭 和 三 一 、 六 、 三 ︶高田傍来の﹃数行詮﹄同県本について:::・・・生
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いわゆる高田の異本 聖人撰述の﹃顕揮土翼貫教行詮女類﹄について、その清書本が高田山専修寺に停来するといい、 これを﹁高田の異 本﹂とよぴならされてきた。従来﹁高田の異本﹂と帯されてきた﹃数行詮﹄は、貴重な法質物として、容易に乙れを 拝見することのできないものであった。大正十五年四月、立教開宗七百年記念大法曾執行のとき、専修寺で法貧物の 展観があり、﹃敢行置﹄が一般に拝見のできた最初であった。 一 部 六 冊 の 、 いわゆる﹁高田の員本﹂が、はじめて翠 者の自にふれた。乙れより先、専修寺で、聖人員筆等の法賓物の篤員二十枚を撮影したことがあり、多数の聖人自筆 本が加わっていた。そしてその寓異は、却って宗外にながれたようで、宗内には一向に見受けられなかった。その内 に ﹁ 行 文 類 ﹂ 二 莱 ﹁ 異 梯 土 文 類 ﹂ 一 葉 が あ っ た 。 いわゆる﹁高田の異本﹂は、聖人の自筆本とおもわれていた。その 筆蹟の年時については、異慧上人撰述の﹃顕正流義妙﹄に、 ﹁ 撰 集 シ タ マ フ ト コ ロ ノ 数 行 謹 一 部 六 巻 異 筆 − 一 書 シ 、 建 長七年乙卯冬ノコロ、員梯上人額智上人ニナラヘテアタヘタマフ。 ︵ 乃 至 ﹀ 御自筆ノ数行詮、御自筆ノ銘文ノ御影子 今停持ス﹂とある一節に依り、建長七年、聖人八十三歳の異筆とおもわれてきた。 ﹁ ナ ラ ベ テ ア タ ヘ タ マ フ ﹂ と 停 え 宮 岡 田 停 来 の ﹃ 数 行 登 ﹄ 異 本 に つ い て高田侍来の﹃数行詮﹄員本について られているから、雨上人へ同時に一部ずつ付属されたかともよまれる。それはともかくとして、員慧上人が﹁今ニ停 あ る か ど う か 、 ﹁ 高 田 の 異 本 ﹂ が 、 持ス﹂ということは事買の記録とみなければならぬ。その﹁御自筆ノ数行詮﹂が、近来のいわゆる﹁高田の異本﹂で ﹁御自筆﹂と確認できるかどうかを、まず調べてみなければならぬ。 事信書潟木・事選寺霊童 教忍封校本奥書 六要紗曾本 肯 定 す 石 ﹃ 西 方 指 南 抄 ﹄ ・ ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹄ 第一花、世に流布した寓異についてみてもよく判るが、ここに聖人の自筆本として確認され、血宇界の人達の等しく 数行信設・行文類 ﹃ 倉 崎 肌 異 像 銘 文 ﹄ 等 々 の 闇 熟 し た 聖 人 の 筆 致 と 比 較 す る こ と に 依 っ て 、 こ れ を 同 一 人 の 筆 致 と は 認 め ら れ な い 。 第二に、自筆本としてはありえない筈の誤篤がある。たとえば﹁浬襲経﹄の引文のうち、﹁大王屈駕往彼﹂の﹁駕﹂ 字が﹁加局﹂のニ字になっており、左に別筆とおもわれる小字で﹁駕ィ﹂という校異が施されている。 こ れ は 離 誤 に
属 す る ’ も の で 、 離 す べ か ら ざ る も の が 誤 っ て 離 さ れ 、 一字が二字にうつし誤られたものとみるべきである。 第三に﹁化身土文類﹂の倉田喝をみると、本文をおわったところの竿葉、が切り取られている。伺のために切取られた も の で あ ろ う か 。 ﹁ 教 文 類 ﹂ ・ ﹁ 信 文 類 ﹂ ・ ﹁ 異 僻 土 文 類 ﹂ の 各 省 尾 に 、 本 文 と は 別 筆 で 、 そ の 別 筆 は 顕 智 上 人 の 筆 で ﹁ 親鷺御入滅、弘長二歳壬成十一月廿八日午時、御歳九十歳也、同廿九日午時、専信、遠江圏池田住倍、額智、下野園 高田住信、御舎利晴畢﹂という識語がある。最後の容として、そこにも識語があったかのように考えられる箇所であ る。忍明鑑撃が、本山賓庫の文書を調査中、第十八市国選上人代の記録のひとつ﹃賛暦十二壬午年六月三日御目録﹄ のうちに曝涼のときの法賢物の奥書をしるしであるところに、 ﹃数行詮﹄のそれを護見し、明治四十五年の春﹃数行 信詮﹄刊行の際、開版奉告式に参列した講師・鑑間半・輔講の皐職に、ひそかに内示しただけで、爾来極秘に付せられ ていたものである。昭和廿三年、第廿二世莞猷上人の指示によって公開することとなり、その年八月廿五日東海地巨 梯 教 文 化 講 座 で ﹁ 宗 典 の 書 誌 皐 的 研 究 ﹂ を 講 申 す る と き に 、 は じ め て そ の 問 題 に ふ れ 、 やがて﹃高田一敬皐﹄第一瞬に ﹁ 高 田 停 来 の 数 行 設 真 木 を 尋 ね て ﹂ と 題 し て 護 表 し た 。 ﹁ 化 身 土 文 類 ﹂ の 容 尾 に 、 筆 者 の 奥 書 と し て 、 ﹁ 以 彼 六 巻 草 本寓書之、筆師専信之、建長七歳乙卯六月廿二日午時畢害之﹂とあり、 つ い で 他 の 三 冊 の 奥 に 書 、 き 加 え ら れ た も の と 同様の識語が記録されてあったことを知らされた。 こ こ に お い て 、 こ の 一 本 は 、 建 長 七 年 、 聖 人 八 十 三 歳 の と き 、 専信が見寓をゆるされたものであることが判る。 ﹃三河念梯相承日記﹄には、建長八年、彼が員僻上人に随従して上搭した乙とを惇えている。しぼん\聖人の膝下を 訪れて聞法をかきねたものであろう。 いま、彼自身の記録するところによって、その底本が﹁彼六巻草本﹂であった こ と が わ か る 。 聖 人 の 自 筆 本 に よ っ て 、 親 し く 書 官 局 し た も の で あ る 。 いわゆる﹁高田の異本﹂は、専信書篤本である ことを認めなければならぬ。資元五年、聖人七十五歳のとき、昔時六十六歳の倉蓮が見篤をゆるされた乙とは、寛永 高田停来の﹃数行麓﹄同県本について
有国侍来の﹃数行讃﹄異本について 四 版の﹁信女類﹂奥に停えることで知られているが、 その書寓原本は簿わっていない。かような次第であるから、聖人 の 在 世 中 に 見 寓 を ゆ る さ れ 、 し か も 、 その書寓の原本が、現存している唯一のものが専信書寓本なのである。南勢小 野江本築寺に捕する﹁本山第二購霊賓目録御賓物﹂と題する記録に﹁元文戊午従三月十一日至五月十一日於京師、従 五 月 廿 臼 至 六 月 廿 日 於 坂 陽 開 帳 ﹂ と し る さ れ 、 そのうちに﹁一、数行信詮六巻、前五容聖人筆、後一巻専信房筆﹂と い う 一 項 目 が あ る 。 ここに﹁後一巻﹂すなわち﹁化身土文類﹂について﹁専信房筆﹂とあるのは、先にのぺた専信の 書寓を記録する奥書の存在を物語るものとみられる。全容を﹁聖人筆﹂と見倣しながら、奥書のある﹁後一巻﹂は、 正直に﹁専信房筆﹂と記したものであろう。東西雨京に、出開帳の展観がおこなわれた諦である。奥書の切取りが行 われたのは、余程後のことと思われる。衣に述べようとする一本の散逸した後に、 これを聖人の異本に擬して等重し ょうとする意園でもあって、方めて行われたことではあるまいかともおもわれる。 専 信 書 寓 本 は 、 ﹁大正新修大購経﹄の第八十三容績諸宗部十四所牧の﹃顕揮土異貫教行謹文類﹄に封校を施したが、 このときはじめて本文が公開された。昭和に入ってから、常磐井発棋法嗣︿現在の法主︶が﹁数行信讃の校訂﹂を﹃ 高田皐報﹄に連載して、本文加軸の宝貌を衣 A 護 表 さ れ て い る 。 ﹃親驚聖人全集﹄の﹁数行信誼﹂には、全面的な封 校 が 施 さ れ る で あ ろ う 。 散過したか御自筆本 従来のいわゆる﹁高田の異本﹂の貫態が、専信書寓本であり、依然貴重な存在であることを認めると同時に﹁高田 停来の数行謹異本﹂ということについて、別な文献によって考えられなければならぬ黙がある。 − 身 田 玉 保 院 に あ る 美 濃 紙 四 枚 綴 の 文 書 に 、 ﹁ 嘗 門 主 法 語 ノ 事 、 国 選 、 右 之 通 稽 シ 候 ﹂ と あ る 。 これによって、専修寺第十八世園遵上人
︵ 在 職 、 資 磨 八 年 | 文 化 八 年 ︶ の 住 職 後 間 る な い 頃 の も の と お も わ れ る 。 そ の − 節 に ﹁ 一 、 出 縄 文 類 ノ 事 、 賞 山 賓 歳 ニ 担 親 筆、並ニ桑畑専信執筆ノ本、都合二本コレアルヨシ﹂とある。前に述べた専信書烏本が専修寺に停来すること、この 玉保院文書に﹁桑畑専信執筆ノ本﹂とあるに依つでも知られ、首時現存した、その本が、たしかに﹁専信執筆ノ本﹂ と い わ れ て い た こ と が 明 瞭 で あ る 。 ﹁都合二本コレアルヨシ﹂という他の一本、すなわち﹁租親筆﹂と記されたもの が ﹁尊信執筆ノ本﹂とは別に、昔時現存していたことを物語る文献によっても、そこに﹁専信執筆ノ本﹂よりも、 より貴重な一本が惇来していた乙とが案ぜられる。 ここに、自坊の蔵書中に、安永八年開板の﹃敢行信詮六要紗曾本﹄十冊がある。その﹃数行誼﹄の本文に朱の書入 れがあり、訓鈷の校異が掘され、文字の異同も注意されてある。各冊︵ニ・四の二冊にはない︶に朱で奥の識語がある。 ︵教︶以員海停寓正本加勲、嘉永七年歳在巾寅五月−日以悦静院和上簿寓正本加貼、沙問教忍謹記 三︿行︶嘉永七年歳在甲寅五月八日、以憤静院大和尚正惇之寓跡加酷、沙門教忍謹記 五︵信︶嘉永七年歳在甲寅五月十七日以憤揮院和上正惇之寓跡加勲、標数忍謹記 六︵詮︶嘉永七年歳在甲寅五月十九日以玄亀老納停寓正本加勤、理教忍頓首百奔書 七︵員︶嘉永七年歳在甲寅仲夏下旬第二日、以悦閉院大和尚侍寓正本加貼、理教忍謹記 八︵化︶維時嘉永第五歳在甲賀仲夏廿五日、以悦閉院玄亀老納正惇之寓跡符貼、理教忍謹記 九︵化︶嘉永七年歳在甲寅五月廿八日、以悦静院大和上正樽篤跡加鮎、梯子教忍謹記 十︵化︶南無阿輔陀樹、此書朱駐依越福井仙幅所持之御正本奔寓之本改貼、彼奔馬年時者則寛永三丙寅年黄鐘廿入目、 拝寓人程呉海也、今年文政九丙成歳五月廿八日加鮎畢、天保弘化年間拝見本剃御異本以正之也、金光寺主樟忍阿柴諌 右以和上之正本加軸今亦加朱薦、嘉永七歳在甲寅六月朔日書畢、此書者以御翼翰符貼書者不許他見、来照寺主稗教忍 高 田 停 来 の ﹃ 数 行 誼 ﹄ 員 本 に つ い て 五
高 田 停 来 の ﹃ 数 行 ﹄ 詮 同 県 本 に つ い て ム ノ 、 謹 書 ︵ 花 押 ︶ これらの識語、なかんづく第十冊にあるものに依って、四つの事買が知られる。第一に寛永三年十一月廿八日に、 福 井 仙 幅 寺 の 呉 海 が 、 ﹁御正本﹂を拝見して改貼しおわったこと、第二に、文政九年五月廿八日、北勢柳金光寺忍阿 が員海の改貼本によって加貼しおわったこと、第三に、忍阿は、天保・弘化の聞に本山の﹁御異本﹂を拝見して、加 賠本を正したこと、第四に、嘉永七年六月一目、来照寺教忍が、忍阿の加勲本により、 ﹁ 六 要 妙 曾 本 ﹄ の 本 文 に 朱 を 以 て 封 校 を 施 し お わ っ た こ と で あ る 。 ﹁御正本﹂といい﹁御異本﹂という﹃教行詮﹂は、寛永三年に員海が拝見し、 天保弘化の聞に忍阿が拝見しており、しかも内容に惇えるところをみれば、それは﹁専信執筆ノ本﹂とは異ったもの で あ る 。 専信書寓本と封照してみればわかることである。 こ こ に 、 前に提示した玉保院文書にある ﹁ 曽 山 費 繭 ニ ﹂ ﹁ 都 合 二 本 コ レ ア ル ﹂ と い う う ち の ﹁ 租 親 筆 ﹂ の ﹁ 慶 文 類 ﹂ が 、 その﹁御正本﹂であり﹁御異本﹂なのではあるまい か と お も わ れ る 。 そ し て 専 信 書 寓 本 の 底 本 と な っ た も の と は 別 の も の で あ る 。 一 拍 井 仙 一 踊 寺 は 火 災 の た め 頭 書 が 焼 失 し た とのことで、呉海の加勲本はなく、また柳金光寺にも、忍阿の加鮎本が現存せず、 いずれへか散逸し、重々遺憾なこ とであるが、自坊にある教忍の香入本が、それらの轄寓次第をものがたつており、 ﹃ 敢 行 詮 ﹄ の 始 終 を 通 じ て ﹁ 御 正 本 ﹂ と い い 、 ﹁御異本﹂というものの貫態をったえているようにおもえることは幸である。 聖人ののこされた重要な著述を拝見すると、その自筆本には、漢字に圏護がつけられている。 こ ん ﹂ に 、 ﹁ 和 讃 ﹂ に い た っ て は 、 その自筆本や書寓本に、漢字のすべてに付けられているのをみうける。また小さなものでも、 ﹁ 震 旦 園 十四代﹂のような自筆断簡にさえ、圏護がつけられている。 い ま 、 教 忍 書 入 本 に よ る と 、 そ の 原 本 で あ る ﹁ 御 正 本 ﹂ に 、 圏 震 の 施 さ れ た 箇 所 、 が 、 随 所 に あ っ た こ と を 物 語 っ て い る 。 ﹃数行詰﹄に圏設の存在することは、聖人の他の著 述 と 封 照 し て 、 首 然 の こ と と 考 え ら れ る 。 いましばらく教忍の書入本によって﹁化身土文類﹂をみると、清音符とし
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を付けたものが使わ れ、また∞が呉音入聾綬音の濁音符として使われておる。∞は清濁雨様につかわれている。他のいずれの著述において みるよりも、より多い種類の圏震がみうけられる。重要な宗典には必ず備えているであろう圏震が、 ﹁ 御 正 本 ﹂ の 原 本にあったことが認められる。しかるに、 乙の原本であるべき﹁御正本﹂また﹁御異本﹂とよばれるものが、今日見 首 ら な い の は 遺 憾 で あ る 。 いずれにしても、弘化以後に散過したものとみるべきである。 現存諸本に封校して 近頃まで聖人員筆の三本とよばれてきたのは東西雨本願寺と専修寺に秘臓するものであるが、前記の﹁御正本﹂を、 か り に ﹁ 数 忍 書 入 本 ﹂ ︵ 教 忍 本 と 略 稿 、 のち散逸本という︶とし、まず専修寺惇来の専信書寓本と封校してみる。専信 本には、第一冊の外題に﹁顕器開土異貫教行詮文類﹂第一とあり、綿序には﹁頼回市土異質敢行設文類序﹂とある。そ して第六冊の屠題には﹁顕揮土異貫教行誼文類﹂六とある。終始、題挽は﹁顕静土異質敢行詮文類﹂である。数忍本は、 キヨノヱシ人砂 は じ め 外 題 に つ い て は 記 し て な い 。 本 文 の 文 字 の 異 同 が あ る 。 例 え ば 総 序 に ﹁ 除 一 一 疑 一 獲 ニ 詮 一 ﹂ ︵ 専 信 本 ︶ と あ る の が 、 キ セ チ ケ イ 子 リ キ チ リ ﹁ 除 ニ 疑 一 皆 む 徳 一 ﹂ と あ る な ど で あ る 。 ま た 音 訓 の 異 同 が あ る 。 ﹁ 易 往 一 捷 径 ﹂ ︵ 専 信 本 ︶ と あ る の が 、 ﹁ 易 ニ 往 一 捷 径 ﹂ トシスグチチリ とあるなどである。音も訓も施されていない。専信本は、教忍本に惇える異本の系統に属する書寓本ではないことが 認められる。専信本は、音訓の加貼が、より多くなっているところから、数忍本に惇える異本よりも後に加筆された も の 申 営 、 底 本 と し て の 見 寓 本 で あ る と い う 様 に 考 え て み れ ば 、 こ こ に 一 躍 、 ﹁教忍本﹂の停える﹁散逸本﹂は、専信 本 に 先 行 す る も の と い え る 。 攻に、東本願寺に現在秘癒される草稿本と封照してみると、草稿本の第二柑の表紙はとれているから外題は判らな 高田侍来の﹃数行謹﹄異本について 七高田侍来の﹁数行設﹄異本について /¥ いが、纏序の初に、上部は紙が棋けているけれども﹁習土異貫教行誼文類序﹂とあるから、外題は、おそらく﹁顕揮 土真貫教行謹文類﹂であったであろう。然し教忍本が外題に燭れていないことは前述のとおりであるが、屠題は﹁額 テ 品 タ シ え ハ レ テ − − フ カ ヘ タ マ フ − 一 沼 町 土 異 貫 教 行 謹 文 類 ﹂ で あ る 。 ﹁ 教 文 類 ﹂ に ﹃ 平 等 覚 経 ﹄ の 文 を ひ い て ﹁ 線 三 知 ニ 悌 意 一 若 不 コ 妄 − 在 ニ 悌 透 一 侍 ニ 悌 一 也 ﹂ ゆ 品 ヲ チ ザ レ ハ ム T リ ミ 夕 刊 フ ユ テ ユ ヘ ユ ︵ 草 橋 本 ︶ と あ る と こ ろ が 、 ﹁ 珠 知 一 一 悌 意 − 若 不 下 妄 在 エ 悌 透 一 侍 h悌 一 也 ﹂ と あ り 、 縁 と 預 の 文 字 の 異 、 妄 に ﹁ ワ ス レ ﹂ と い う 動 詞 の 迭 り 蝦 名 を つ け る の と 、 ﹁ミタリニ﹂という副調に使うのと訓を異にしておる。妄・忘は古くは音義遁 用 し た も の で あ る 。 い ま ﹃ 平 等 覚 経 ﹄ を み る に ︵ 大 正 毅 一 二 i ニ 八 O ︶ ﹁ 柏 原 知 伸 意 若 不 忘 在 悌 謹 侍 梯 也 ﹂ と あ り 、 忘 字 が使つである。宋元明三本も高麗識もかわりがない。 ﹁ 預 ﹂ 字 も 同 様 で あ っ て 、 ﹁ 繰 ﹂ 字 は い ず れ に も な い 。 聖 人 の 嘗 初 の 所 臨 見 本 は ﹁ 縁 ﹂ 字 に な っ て い た も の に 相 違 な か ろ う が 、 後 に 、 ﹁議﹂字の本を、より正しいものとみとめられ たから、字を改められ、還り字の﹁メ﹂を添え、更に左に﹁アラカシメ﹂の訓をも添えるという周到ぶりが見受けら 専 信 本 で は 、 れるのではなかろうか。かように考えてみると、散逸本は、草稿本の後に成ったもののようにおもわれる。ところが 二 ヲ シ ミ ハ ν テ ュ ヅ カ 咋 。 テ マ ヅ ラ A ト ﹁ 縁 三 知 ユ 梯 意 一 若 不 ニ 妄 一 在 一 一 悌 謹 一 侍 悌 一 也 ﹂ と な っ て お り 、 本 文 は 草 稿 本 と 一 致 し て お る 。 障 っ て 散 逸本の成立は、専信本の底本よりも後であるといわなければならぬかと思う。 こ乙に再慮、前に考えた散逸本・専信 本の順に異る草稿本・尊信本・散逸本という順がかんがえられる。 衣に西本願寺に現在秘賦される﹃数行謹﹄の巻屠には、切取りの筒所があるようで、宮崎博士の﹃異宗書誌皐の研 究﹄によると、加賀弘願寺に賦した轄馬本を校合した一本が大谷大撃に購され、 それによって西本願寺本の奥書のつ づきの文が知られ、そこに﹁文永十二歳﹂の年脱があり、書湾年時を示すものかという読のあることが記されている。 こ の 本 に あ る ﹁ 正 信 念 悌 偏 ﹂ 文 を み る と 、 ﹁ 館 一 信 同 府 乱 九 慶 一 昨 ︺ と い う よ う に 、 左 右 雨 貼 を 施 さ れ て あ る 。 か の 草 稿 Z テ 反 u ム 買 い ろ い ろ 書 、 き 替 え ら れ 、 結 局 ﹁ 獲 信 見 敬 大 慶 人 ﹂ と な っ て お る 。 専 信 本 に は ﹁ 館 一 陣 町 一 応 仇 九 慶 蔀 ﹂ と あ り 、 本 で は 、
散逸本には﹁島二信一見肱九慶配︺とあり、西本願寺本には﹁獲﹂字に﹁ウレハ﹂と﹁エテ﹂の爾様の讃方がつけられてい デ ゆ ヲ シ ハ ル レ デ エ ヅ ヵ 、 タ マ ヲ 一 一 る。そして﹁卒等畳程﹄の文は﹁綜レ知一一併意一若不レ忘在ニ悌透一侍レ悌也﹂とあり、﹁侍﹂字に草稿本の﹁ツカヘ ヘ タ テ マ ヅ ラ ム ト タマフ﹂と、専信本の﹁ツカヘタテマツラムト﹂が、あだかも左右に付けられておる。西本願寺本は、草稿本・専信 本の後に成立したようにおもえる。草稿本・専信本・西本願寺本・散逸本という順がかんがえられる。 寧蓮が寛元五年六十六歳で見寓をゆるされたという一本の系統﹃教行信詮﹄寛永版について、等蓮本というものを 九 ﹀ ヂ ﹄ 、 。 句グみ l i v ﹁教文類﹂の﹃無量害時経﹄の引文中、専信本に﹁明鏡揮影﹂とある四字を原本についてみるに、 ﹃ 大 正 購 ﹄ ﹁明替鏡影﹂ともある旨を脚註に示しているが、宋元明三本高麗菰何れも﹁明鏡静 力 、 ミ キ ヵ 、 ミ キ ヵ 、 ミ キ 影﹂となっておる。いま、専信本には﹁鏡揮﹂、西本願寺本に色﹁鏡揮﹂とある。散逸本にも﹁鏡替﹂とあるが但し ごニ|二六六︶には、流布本に 校異に﹁器問鏡ィ﹂とある。寛永版にだけ﹁静鏡﹂とある。散逸本では、後人が異本たとえば、等蓮見寓本系統のもの に依って校呉を付けたものかとおもわれる。﹁静鏡﹂は、経文を調べることに依って﹁鏡習﹂と正されたとみるべきで あろうから、専信本に先行するものと考えれば、草稿本・倉蓮本・専信本・西本願寺本・散逸本の順になる。 員慧上人の﹃顕正流義紗﹄に依って、員悌穎智雨上人へ一本ずつ付属されたことが語り惇えられたのではないかと 述べたが、顕智上人は、専信本に識語をかいており、しかもそれは専信と共に従事した葬迭の記事である。頴智上人が 停 持 さ れ た の は 、 その専信本のことであったのではなかろうか。現に北勢三日市脊一拍院に惇わる聖教箱の蓋に、 顕 智上人御所持、御本書﹂とある。いまそこに牧められている﹃数行謹﹄六冊は別の本で、箱書とはご捜しないが、あ る時代に、専信本が三日市に持ち出されたことがあり、後専修寺に返還のときに別の一本をその箱に入れ替えられた も の で あ ろ う 。 ﹁延慶二年巳酉七月七日令書寓之﹂という日付を含む、顕智上人自筆の﹃抄出﹄が、専修寺に停来し ておる。そのうちに﹁信文類﹂三心結揮の文の﹁異貫信心必具名競云々﹂の一節が抄出されている。これを専信本に 高田停衆の﹃数行鐙﹄異本について 九
高田侍来の﹃数行詮﹄同県本について
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照 合 し て み る と 、 ほとんど一致する。その一節中の﹁貴賎維素﹂に﹁シソ﹂の音蝦名があり、 ﹁ ヨ キ ヒ ト 、 イ ヤ シ キ ヒ ド 。 、 ア マ ・ ホ フ シ 、 オ ト コ ﹂ の 左 訓 が あ る こ と 、 ﹁ 専 信 本 ﹂ と 同 一 で あ る 。 さて異傍上人惇持の﹃数行詮﹄については、今日まで知られていないが、 その所寛本のことを考える唯一つのてが か り は 、 ﹃ 経 理 文 聞 書 ﹄ と 題 す る も の で 、 これは上人が、開山聖人よりの閣議日を集めた上人の手記で、専修寺に惇来 するものである。上人の自筆本として唯一の遺編である。一念轄の﹁樫云専信者︵乃至︶ 悌 也 ﹂ の 一 節 で あ る 。 専 信 本 に ﹁ 形 レ 無 一 一 二 心 一 ﹁ ﹁ 形 レ 無 一 三 行 一 ﹂ と あ り 、 散 逸 本 に も ﹁ 形 レ 無 一 三 心 一 ﹂ ﹁ 形 レ 無 ニ ニ 行 一 ﹂ ム ソ タ チ カ タ チ ・ デ キ と あ る 筒 所 が 、 ﹁ 形 三 無 − 一 二 心 一 ﹂ ﹁ 形 三 無 一 三 行 こ と あ り 、 ﹁ 形 ﹂ に ﹁ カ タ チ ﹂ の 訓 を 施 し 、 ﹁ ニ 心 な き か た ち な り ﹂ ﹁ 行 文 類 ﹂ 則是南無阿繭陀 と よ ま せ 、 ﹁形﹂を動詞とせず、名詞的なよみ方にされていることは、他に例をみないところである。員悌上人が、 殊更にこの一文だけを﹃経理文聞書﹄に記録しておられるのは、上人の上洛の頃、開山聖人によって読みられた改貼 を付属されたものであろうか、あるいはまたそうした改貼ぞ含む一本を付属せられたのではなかろうか。いずれにし て も め ず ら し い 一 節 の 文 で あ る 。 かように諸本を封照することによって考えられることは、専修寺侍来の﹁数行詮﹄について、従来のいわゆる﹁高 田 の 異 本 ﹂ は 、 専 信 書 篤 本 で あ り 、 それは草稿本・倉蓮本の後に成った異本を底本にしたものと考えられる。また、 それが顕智上人の侍持本であったことが併せ考えられる。そして忘れられた﹁高田の異本﹂として、 いわゆる﹁散遡 本﹂を問題にしたい。それは、前記諸本や西本願寺本よりも後に加筆されたものではないかと考えられるものである。 教忍、さかのぼっては忍阿の奥書を信.するとき、異海の﹁御正本拝寓﹂までにおよぶ事賞をかんがみ、 ﹁ 散 逸 本 ﹂ の 護 見 さ れ る 日 を 侯 っ て 、 これにまつわる謎の解けることを希う。多忙の問、僅に一端をとっての見方、定めて濁断の こととおそれる。ひたすら、諸賢の指導を倹つばかりである。後期﹁無量書経﹄の阿禰陀偶観
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後期無量寄経の問調陀伸は初期無量害経のそれと大差はないようであるが、初期無量害経が阿輔陀梯の入滅を説く のに謝して、後期無量寄経が入滅を説かない鮎に先ず注意すべきである。初期無量害経も阿輔陀僻が無量需であるこ とを、力を霊して表現しているのであるが、全く突然に 阿 輔 陀 悌 、 至 ニ 其 然 後 一 般 泥 一 但 者 、 其 蓋 棲 亘 菩 薩 、 便 嘗 三 作 伸 綿 ニ 領 選 智 典 主 ﹁ 教 下 授 世 間 及 八 方 上 下 、 所 − 遍 度 一 諸 天 人 民 蛸 飛 嬬 動 之 類 へ 皆 令 レ 得 一 一 梯 泥 沼 之 遅 ﹁ 其 善 稿 徳 、 賞 三 復 如 ニ 大 師 同 調 陀 悌 一 。 ︵大阿禰陀経巻上・大正・十二・三 O 九・上。同・二九一・上参照︶ といって、阿繭陀悌が入滅されると、観世音菩薩がその後を衣いで悌となられることを記しているのである。従って 初期無量蕎経では無量毒とは計ることができないという意味であって、買は有量︵有始有終︶であるということにな る。阿繭陀悌は現在梯として説かれているのであるから、揮命骨一併を固執する小乗悌教とは根本的に異るのであるが、 この嘗時としては裡等が入滅されたことが前提となっていて、その表現が未だ幼稚であることを示している。 それでは後期無量脊経は阿禰陀併の寄命無量を如何に説明しているか。先ず調曹は初期無量害経とよく似た表現で 後期﹃無量害経﹄の阿捕陀傍観後期﹃無量害経﹄の阿預陀悌厳 あって、計算することができない、ということによって無量寄であることを説明している。故に説需の文もやはり異 の無量でなくて、買は有量であるとも言える。しかし貌曹が初期無量寄経と異っているととろは、阿輔陀併の入滅を 読かない貼である。乙れは注意してよい貼である。唐曹はまた表現が異っていて、﹁阿難、彼悌寒命、無量無謹、不レ 可 レ 知 ニ 其 劫 数 多 少 ﹁ ﹂ と極めて簡皐に説明している。党本は唐課よりも詳説している。このように後期無量毒経は三 本ともに表現は異っているが、同調陀併の入滅を説かない貼は︸致しているのである。これは偶然のこととは考えら れないのであって、阿輔陀傍観の大きな展開を示している。換言すると、初期無量脊経が前生に無敷の修行を修して 成僻された樫等が入滅されたことを認める、般若経典成立以前の部振梯教の僻陀観の常識によって、阿繭陀僻を説明 しているのに劃して、後期無量害経は般若思想の影響によって、阿繭陀梯が人格的なまた利他的な報身併であること を明かにする必要から、本庄談甘 g w m w の形式と思組を用いてはいるが、その報身悌が樫寧のような入滅される僻陀 でないことを意識しているところに、法身の思想が裏ずけとなっているのである。すなわち樟等の正貴内容に念じら ① れていた妙有的梯陀は無始無絡の悌陀であったのであるが、初期無量害経の阿輔陀悌観はこの鮎の表現が幼稚であっ た が 、 後 期 無 量 寄 経 の 阿 繭 陀 僻 観 は 一 歩 進 ん で 、 無 終 の 無 量 害 時 で あ る こ と を 意 識 し て い る の で あ る 。 後期無量害経が樟等の正覚内容に念じられていた妙有的悌陀を、阿繭陀悌として表現しようとする努力は護起序に も 見 ら れ る の で あ る 。 す な わ ち 初 期 無 量 寄 経 の 序 述 を 更 に 増 慶 し て 、 調 帯 で は ﹁ 今 回 世 等 、 住 ニ 奇 特 法 ﹁ : : : 今 日 天 寧 、 行 ニ 如 来 徳 一 ﹂ の 五 徳 瑞 現 の 文 を 入 れ て い る 。 ま た 唐 曹 は ﹁ 世 隼 、 今 者 入 ニ 大 寂 定 一 行 ニ 如 来 行 ﹁ 皆 悉 園 満 善 能 建 − 一 立 大 丈 ② 夫行己の文を附加している。ところが党本は原始経典より二つの警除を用いて、光顔観々としている稗尊を形容し、
そ し て 貌 曹 と 似 て い る ﹁ 費 者 の 所 在 ﹂ ﹁ 勝 者 の 所 住 ﹂ ﹁ 一 切 智 性 の 所 住 ﹂ ﹁ 大 龍 の 所 住 ﹂ に 住 し 給 う と 述 べ て い る 。 そこでこのような後期無量寄経の修飾は何ぞ意味しているかが問題であるが、 こ れ に つ い て 宮 本 正 倉 博 士 は 中 部 第 一 五一の﹃乞食清閉経﹄盟主唱
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応同一のものであることを指摘されて、阿含ではそれに績く大人住と空住の悌教解脱観になっているが、大無量寄経 は悌住・勝利者住・一切智人住・大龍住の威神を示すことになっている。すなわち如来が三世諸悌如来を憶念して伸 住 ∞ ロ 仏 門 同E m
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は問調陀併を語るのに常に燃燈怖の出世から始めているのであって、 これは初期・後期ともに一貫しているのである。 ところが典課は﹁衣復有悌﹂と課し、漢課は﹁復攻有悌﹂と掴押し、調曹は﹁次有如来﹂ ﹁ 衣 名 ﹂ と 課 し て い る か ら 、 燃燈併を最古悌として世自在王併を最も新しい併と理解しているようである。そして列名されている悌は綿て過去梯 であって、英語が一悌毎に﹁己過去﹂といい、漢曹は最後に﹁皆己過去﹂といい、説課も最後に﹁如此諸梯皆悉巳過﹂ と記しているから問題はないのである。要するに世自在王併は過去併の中で最も新しい併であり、法購菩薩はその最 新の併について護心修行したという意味である。これに封して唐課と宋需は反封に燃燈併を最新の併として、世自在 壬併を最古の僻としているのである。すなわち唐課は列名のはじめに﹁於ニ彼悌前一﹂といい、宋需は一⋮怖ととに﹁叉 彼 悌 前 有 レ 併 出 レ 世 ﹂ と 記 し て い る 。 そして唐・宋二課と究本はこの列名の諮併を過去併とは明記していないのである。しかし茨下に世自在王悌の奪命を四十劫と明記しているから、列名の諸悌も過去悌と理解すべきである。従って 世自在王悌は過去悌の中で最古の悌であり、法蔵菩薩はその最古の悌の下で護心修行したという意味である。伺故に 乙のような反封白説、き方がなされているかということを推測すると、漢課されている諸種の無量害経の原本には現存 の 党 本
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忌喜と同じように、 こ こ の と こ ろ に 百 円 。 宮 冨 −B
仲 間 同 何 回 世 の 語 が あ っ た の で あ ろ う 。 故 に HVRMH を 如 何 に 掴 押 す か に よ っ て 、 攻 前 の 義 と 次 後 の 義 に 分 れ る の で あ る が 、 官 民 仰 と い う 語 は 何 れ に も 課 さ れ る の で あ る 。 すなわちZ
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の よ う に 衣 前 の 義 と が あ る の で あ る 。 現に究文大経を最初に調拝された南傑博士は衣後の義に課していられるし、荻原博士は次 前の義に課していられるのである。故に冨’E
の 語 の 解 樺 だ け で は 、 世自在王悌が過去悌の中で最古の併である か、或は最新の悌であるか、 世 自 在 王 悌 が 燃 燈 梯 よ り も 古 い の か 、 新しいのかは決定することができないのであ る そこで攻に考えねばならぬことは、種電と燃燈悌の出世の聞に幾何の時聞が経過していると記しているかである。 燃燈梯は梯停を初めとして諸種の経典に述べられている梯であって、通常は樟寧が、前生において菩薩として修行中に ③ その出世年代には種々の説があるのである。また無量害経の 成道の記別を授けた悌として知られているのであるが、 諸本も理舎と燃燈併の出世の聞が種々に表現されていて一定していないのである。また嘗時の梯教界の事情を見ても、 有部の設と般若系の諸経典とも説が異っているから、決定ずけることは不可能である。要するに宮自の語を次前の 義 と 攻 後 の 義 と の 雨 万 に 解 回 押 し た 乙 と が こ の 貼 か ら も 首 肯 さ れ る の で あ る 。 さらにこの問題と関連して考えねばならぬことは法蔵菩薩の修行期間である。すなわち理等と燃燈悌の年代的聞き と、法蔵菩薩の修行期間との比較によって、世自在王併と燃燈併と伺れが古い悌と考えるのが至嘗であるかというこ 後期﹃無量脊経﹄の阿弧陪傍観 一 五後期﹃無量害経﹄の阿漏陪悌穆 一 六 ③ とに解決の方向が示されているのである。換言すると無量寄経の諸本は法蔵菩薩の成僻されたのを十劫の昔としてい るのである。故に無量寄経では法蔵書薩の修行期聞に十劫を加えることによって、世自在王悌の出世年代を逆算して よい乙とになるのである。従って稗等と燃燈僻の年代的聞きと、法蔵並口薩の修行期聞に十劫を加えた劫敷と、何れが 多いかによって燃燈悌と世自在王併の新古が推定できることになるのである。無量毒経諸本によってこれを表示する と 衣 の 遇 り で あ る 。 燃燈悌より稗寧まで 法蔵菩薩の修行期間 呉 課 摩詞借祇巳来其劫無央数不可復計 無央数劫 凡 十 劫 漢 課 過去劫大衆多不可計無謹幅不可議及 無央敷劫 凡 十 劫 現 諦 過去久遠無量不可思議無央数劫 不可思議兆載永劫 凡歴十劫 唐 課 過阿借祇無数大劫 無量無数不可思議無有
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右の表を見ると、英曹と漢語と調書は燃燈悌より樺寧までの期聞が、法蔵菩薩の修行期周に十劫を加えたものより長 い劫数であると表現している。故に燃燈併が世自在王悌よりも古いと考えていることが明かであって、宮司ロ を次後 の意で課しているのと一致するのである。また、唐曹と党本はこれと反封で、四梓等より燃燈悌までの期間より、法蔵強口薩の修行期聞に十劫を加えた期間の方が長い劫教であると記述しているから、世自在王崩怖が燃燈俳よりも古いと考 えていることが明かであって、 ℃
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をかハ前の意で課しているのと一致するのである。ただ宋需はこれらの経のよう に判然としないようである。 乙れを要するに燃燈備と世自在王怖との先後の考え方が、無量寄経の諸本の聞に相違があるのである。すなわち無 成 量 立 寄 と 経 考 の え 諸 ら 本 れ の る 中 規 で 欝 早同⑦主
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あ 、 宝 最 三 も そ 早 し い て比較的おそく成立したと思われる唐課と宋課と党本は、世自在王帥怖を燃燈僻よりも古い僻であるとしているのであ る。乙れは経典の記述に従って、事買の通りに理解したのであるが、次に問題を一歩進めて、それでは同じ無量寄経 の諸本で伺故にこのように異っているのであるか。これは翠なる先後・新古の問題でなくて、思想的、数理的に考察 すべき問題である。換言すると、 これは静土数々理の展開を示す重大な酷であると理解するのである。 四 蓋し揮土数々理の中心である阿繭陀併観の展開は、梯陀論︵轄簿観︶の展開と深い関係があるのである。そして梯陀 論の展開途上において燃燈併が語一られるようになったので、 それは恐らく部涯の分裂前であろう。従って部源によっ て燃燈併の停承が異っていたのであろう。最初に無量寄経が成立した時には燃燈僻を過去僻の中で最古悌と考えてい た部慌の読を用いたと思われる。しかしそれでは無量脊経の趣意に相醸しくないのである。すなわち阿繭陀傍は裡等 よりも勝れた併でなければならないのである。それには稗等の修行期間よりも阿繭陀併の修行期間の万が長時である 乙とを明かにしなければならない。そこで最初は燃燈併を最古併とする設を用いていたが、すでに部振の中において 後期﹃無量毒経﹄の阿踊陀傍観 七後期﹃無量害時経﹄の阿弧陀悌硯 i¥ ③ さえ、燃燈悌以前に多くの梯陀の出世を説くものが出て来たのであるから、無量寿経は中迭において、世自在王悌を 燃燈悌よりもさらにさらに古い悌として、法蔵菩薩が長時の修行の結果、最も勝れた梯陀となられたと説くようにな ったのである。これによって阿捕陀悌の偉大さが合理的に説明されることとなったのである。また乙の結果、問調陀 梯が無始無終に近い表現をとるようになったのである。 しかしこのような内面的展開を促した外面的事情も考慮しなくてはならないであろう。それは理隼をして正費を成 就せしめた法口町民
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”を問調陀併と表現しているのであるから、最初から無始無終の意味を現わさねばならなかっ たのである。それが初期無量害経に現わされずに、後期無量害経になって無始無絡に近い表現をとるようになったの は、梯教の梯陀観が展開しているからであり、それは般若思想の影響と見なければならないであろう。すなわち根本 ① 悌 数 以 来 、 理 等 が 古 仙 の 遣 を 歩 ま れ た と か 、 四 押 骨 骨 の 畳 ら れ た 法 は 悌 の 出 世 未 出 世 に 拘 ら な い 法 界 常 住 の も の で あ る と いうことは悌教徒の信念であったから、部一服悌教ではこれを樟等の偉大さを語る説明として用いたのである。その法 がさらに具瞳化され人格化されて過去悌が考えられでも、 それは理容に模して説かれたのである。般若経典が出現す ると、との法を中心として理尊も般若波羅蜜の出生するものとしたのである。換言すると、部漉悌教では理骨骨が中心 であり表面にあって、法は裏面に隠れていたのであるが、大乗梯教の興起とともに樟寧の精神に復闘して法を中心と して表面に出したのである。同調陀梯も大乗悌教の立場から理解すると法の人格化と見るべきである。そこに無始無 絡に近い表現をとっている意味があるのである。 五 然しここに注意せねばならぬことは、同調陀梯が燃燈悌よりも古い世自在王悌の下で護心修行されたとしても、圃押倉より勝れた梯陀であるとはいえても、阿調陀梯が最も勝れた僻陀であるということは出来ないではないかというこ とである。すなわち法蔵菩薩には世自在王梯という師併があり、本願を輩すに際しては諸俳の申土を手本としている ではないかということである。このことは初期・後期の無量蕎経に一貫しているのであるが、 これは悌数々理史の上 から見て如何に理解すべきものであろうか。私見によると、 こ れ は 偶 数 の 併 陀 観 の 基 本 的 立 場 〆 で あ っ て 、 師 悌 が あ る ということが印度の外道の榊観とも、またキリスト教の紳観とも異る濁白なものであるわけである。すなわち悌教の 梯陀は法の創造者でなくて法の開願者である。これは樟等にも明確に意識されていたのである。法の開頼者とは、法 ⑩ の活動によって法を費謹したという自費である。自己を覧らしめた法に封レて品尊重恭敬することである。このような 回押曾の自費を承けているから、本生談において稗寧の本生の修行を説く場合には必ず師悌とか授記併を説くのである。 法 蔵 菩 薩 に 世 自 在 王 梯 と い う 師 梯 が あ り 、 本 願 を 護 す に 首 っ て 諸 併 の 回 目 土 を 観 見 す る と い う 乙 と は 、 こ の 程 舎 の 正 覚 内容の自費と、本生談に一貫する師梯・授記併の思想を耀承しているのであって、 乙れこそ梯教え理の正しい停統の 上に立っていることを示しているのである。従って無量害経が阿繭陀僻を最寧の掛として表現しようとすることと矛 盾はしないのである。むしろここに同調陀併が僻数以外の宗教からの影響を受けているとする皐読が誤っているので あって、正しい偶数々理の展開に従っていることを示しているのである。 要するに無量害経に説く阿調陀傍は樫働時の正覚内容に自覚されていた法であり、員空に印する妙有的僻陀である。 併の出世と未出世にかかわらない法界の異理であって無始無終のものである。このことは初期無量害経では未だ明か にされていないが、親需においてやや明かになり、唐詩と党本において一段と開顕されている。そして宋需になると、 ﹁ 世 倉 告 言 、 彼 梯 如 来 、 来 無 レ 所 レ 来 、 去 無 レ 所 レ 去 、 無 生 無 減 非 二 過 現 未 来 ﹁ 但 以 ニ 酬 レ 願 度 p生 現 在 − 両 日 方 己 ︵ 大 正 十 二 二 三 二 ・ 下 ︸ 後 期 ﹃ 無 量 害 時 経 ﹄ の 阿 漏 陀 傍 観 九
後期﹃無量害時経﹄の阿調陀傍観 二 O といって、阿調陀悌の法身の面を明瞭に述べているのである。 ﹁ 来 無 レ 所 レ 来 、 去 無 レ 所 レ 去 、 無 生 無 滅 非 一 通 現 未 来 一 ﹂ と い う 法 身 の 面 が 明 か に な る と 、 ﹁ 但 以 一 一 酬 レ 願 度 p生現在ニ西方こという報身の面は方便 ︵ Z H M M凶 M1m ︶ であるということ で あ る が 、 が 同 時 に 明 か に な る の で あ る 。 それだけに時代的にも最も新しいものであろう。無量害経の銭述は初期・後期を一貫して問調陀悌を報身 この宋曹に一不されている問調陀併観は無量毒経の阿捕陀悌観としては最も勝れたもの 悌としているのである。師悌を語り諸悌の静土を親見して本願を護し、長時の修行をして十劫の古に成備したという ことは、組て報身梯としての表現である。しかし報身悌は法身帥怖を開顕するために語られているものであり、法身悌 は報身帥仰の裏面に含まれていたものである。無量寄経は教理史的に展開するに従って、’次第にこの裏面に含まれてい た法身悌の義を明かにしてきたのである。また阿調陀悌を報身悌の一面だけであるとすると、法蔵菩薩は従因至果の 菩薩に限らなければならないが、向調陀悌が報身悌にして同時に法身悌であることが明かになると、法蔵菩薩が従果 降因の菩薩であって、衆生を救済するための悌であることを明確にする報身悌であることが知られるのである。親驚 る の で あ る 。 聖人の同調陀悌観がこの無量毒経の教理展開の必然の方向において、而かも究寛的なものであることは容易に知られ 註① ② ③ ④ ⑤ ⑤ ⑦ @ ﹃印度事悌数事研究﹄第四巻第一披の﹁禰陀思組の根源とその展開﹂の拙論参照。 泉芳環著﹃党文無量害経の研究﹄二八頁以下参照。 ﹁日本悌数皐曾年報﹄第十七披・一 O 三 一 O 四 頁 。 泉芳環著﹃拙見交無量害経の研究﹄九三頁以下の﹁世自在王悌は燃燈悌より前か後か﹂の論文参照。 赤沼智並行著﹃原始悌数之研究﹄に援められている﹁燃燈仰の研究﹂の論文参照。 漢隷の卒等覚経は﹁凡十八劫﹂としているが、元−明の二本は﹁凡十小劫﹂となっていて、日穴諜と一致する。 ﹁龍谷大事論集﹄第三四四放の﹁後期無量議経の教理的展開﹂の拙論参照。 有部では燃燈仰を一阿帰国略劫九十一一劫前としているが、この設では燃燈併以前に第一阿借稲劫に七高五千悌、第二阿借祇劫
⑩ ① に七高六千悌が出世されたことになる。﹃大昆婆沙論﹄巻百七十八・﹃大智度論﹄巻四参照。 ﹃幣阿合経﹄巻十二・大正・二・八 0 ・下。﹁南侍大蔵経﹂巻十三・一五四頁。 ﹃雑阿合終﹄巻四十四・大正・二・一二二二・上。﹁南侍大蔵経﹄巻十二・二三八 i 二 四 O 頁 。 後期﹃無量寿軽﹄の阿弥陀仏観
﹃敢行信澄﹄の悌性論
﹃数行信詮﹄
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論
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悌 性 の 意 義 梯性は成悌の本性であり、因性であり、可能性であり、叉果性である。 果位に於て梯性を語るは、梯果能く併因を成、ずるが故である。その非情伸性を説くは、真如が法界に遍満して、理 事無碍、事 R 無 碍 な る が 故 で あ る 。 非 同 盟 ℃ 一 非 有 、 こ れ を 中 道 と 名 く 。 中 道 は 梯 性 で あ る 。 中 遣 を ま た 第 一 義 空 と 云 う 。 第 一 義 空 は 最 高 の 哲 理 で あ る 。 最 深の世界観である。第一義空の知見は菩提心の貰現である。菩提心は成悌の因種である。揮土真宗に於ては横超の大 菩 提 心 を 説 く 。 空中には我執なく、我慢がない。執相を離るれば諸法は貫相である。貫相は第一義空である。貰相般若に却したる 観 照 般 若 に 瞳 達 す れ ば 、 ﹁ 偲 ﹂ も 悌 性 な れ ば 、 ﹁ 空 ﹂ も 亦 悌 性 で あ る 。 一 ニ 諦 園 融 の 思 想 は 大 衆 の 精 華 で あ る 。 衆生の身中に限定された悌性有りと云わぱ、此の義然らず。第一義諦の上から云えば、衆生と悌性と同参なれば、 衆生即ち悌性、悌性即ち衆生である。これを一切衆生悉有併性と云う。本願二飛に立脚すれば、 ﹁ 若 不 生 者 、 不 取 正 費﹂の本願海の中に一切衆生悉有僻性がある。悌知見 ︵ 真 智 無 知 に し て 賓 相 を 悟 了 す ﹀ よりすれば森羅寓象皆是れ悌性であって、煩悩即ち菩提である。生悌不二、 迷悟一如なりと雄も、生備の起原、謂く知り難し。 一切諸法は因繰より生じて貫瞳あることなし。固鏡智に映ずる諸法は無自性である。故に無自性は悌性である。然 りと雄も、煩悩を断ぜずしては悌性は見えぬ。大信心を獲得せずしては悌性は他家の賓である。如来地に到ら、ざれば 梯 性 は 開 顕 し な い 。 ︵ 員 併 土 巻 参 照 ︶ ニ、悌性論の種々の立場 併性論は諸法因縁、第一義空、員如、貫相、頼耶線起等の立場、叉は理事無碍、事九八無碍、六 大無碍、三諦園融、十不二門等の立場、叉は輔の立場、叉は併、如来、担架、悌智観照の立場、 又は究寛一乗︵絶封内及相封門﹀ の立場に立って種々の梯性論がある。 龍樹菩薩の﹁中論﹂に日く ﹁衆の因縁生の法は、我却ち是れ無なりと説く。亦是れ蝦名と箆す。亦是れ中遣の義なり。未だ曾て一法も、因縁 より生ぜざるは有らず。是の故に一切の法にして、是れ空ならざるもの無し。衆の因縁生の法は、我即ち是を空な りと説く。何を以ての故に、縁具足和合して物生ず。是の物は衆因縁に属するが故に自性無く、自性無きが故に空 なり。空も亦復空なればなり。但し衆生を引導せんが震の故にのみ、押収名を以て説く。有と無とのこ透を離るるが 故に、名けて中道と属す。是の法には性無きが故に、有ときロふことを得ず、亦空も無きが故に、無と言ふことも得 ず、若し性相有らば、則ち衆緯を待たずして而も有ならんも、若し衆縁を待たずんば、則ち法無し。是の故に空な ら ざ る 法 は 有 る こ と な し 。 ﹂ ﹃数行信澄﹄の傍性論
﹃数行信設﹄の悌性論 二 四 ﹁是の故に経申に説く、若し因縁法を見れば、則ら能く悌を見、苦・集・滅・遁を見ると矯すと。若し人、 一 切 法 の衆縁より生ずるを見れば、是の人は印ち能く悌の法身を見、智慧を増益す。﹂ ︵ 額 四 諦 品 ︶ と。是れ即ち諸宗悌性論の原理であり、根嬢である。亦買に法界の大員理である。此の中﹁無自性悌性﹂あり、 遍 満 悌 性 ﹂ あ り 、 ﹁ 中 道 悌 性 ﹂ あ り 、 ﹁ 員 如 僻 性 ﹂ あ り 、 ﹁ 買 相 悌 性 ﹂ あ り 、 ﹁ 第 一 義 空 一 悌 性 ﹂ あ り 、 叉 天 蓋 で 云 う と こ ろ の ﹁ 三 因 悌 性 ﹂ ︵ 法 華 玄 義 ︶ あ り 、 ﹁ 一 二 軌 悌 性 ﹂ ︿ 同 玄 義 ︶ あ り 、 華最で云うところの﹁三種悌性﹂ ︵ 孔 目 章 ︶ あ り、員一百の六大無碍の悌性論︵印身成悌義︶がある。各その義異りと離も根本原理は同一である。則ち因縁法を観じ、 不可得空に悟入する観照般若の異智乙そ悌性そのものである。唯識家に在りでは、無漏種子の有無に就て悌性を談ず。 是 印 ち 五 性 各 別 論 で あ る 。 三因は正因、了因、縁因である。一一一軌は異性、観照、賛成である。三種は自性住、引出、至得果の悌性である。 因 縁 郎 空 、 因 縁 部 悌 性 の 義 を 受 け て 道 一 万 調 師 は 、 その著﹁悌性の容﹂に日く﹁悌性の義を知らんと欲すれば雷に時 節因縁を観ずべし﹂と。是れ亦﹁十二因縁印悌性﹂とか、 ﹁ 無 常 郎 悌 性 ﹂ と か 、 ﹁ 無 悌 性 ﹂ と か 、 ﹁ 惑 業 苦 即 ち 三 因 梯 性 ﹂ と か 、 ﹁無明の貫性印梯性﹂等の読のある所以である。要は無分別智︵無二智、無心︶を得るに在る。 因縁印空の義を徹底せしめて、道元禅師は同じく﹁悌性の巻﹂に於て、 ﹁ 悉 有 悌 性 ﹂ の ﹁ 有 ﹂ の 意 味 を 述 べ て 日 く 、 ﹁悉有の言、さらに始有にあらず、本有にあらず、妙有等にあらず。いはんや縁有妄有ならんや、心境性相等にか かはれず。しかあればすなはち衆生悉有の依正、しかしながら業増上力にあらず、妄縁起にあらず、法爾にあらず、 一 脚 遇 修 謹 に あ ら ず 。 ﹂ と。未だ観照般若の知見を瞳得せず、因縁空を悟了せざる者には、如何なる表現法を用いても、 ﹁ 悉 有 悌 性 ﹂ の ﹁ 有 ﹂ の真意を停えることは出来ぬ。悌性論の難しさは買に蕊に在る。
嘉 群 大 師 士 口 蔵 は 、 ﹁ 三 論 玄 義 ﹂ の ﹁ 悌 性 義 ﹂ に 於 て 十 一 家 の 悌 性 論 を 翠 げ て 一 々 日 疋 れ を 批 判 し 、 その結論として日 く ﹁ムユ家相侍して悌性の義を明さぱ、非有非無非本非始にしてまた嘗現に非ず σ 乃至悌性そ至論すれば理買に本始 に非ず。ただ如来方便して衆症の無常の病を破せんがための故に、説いて一切衆生、悌性本来白有と言ふ。この因 縁 を も っ て 僻 遣 を 成 ず る こ と を 得 。 た だ 衆 生 方 便 な き が 故 に 執 じ て 僻 性 の 性 、 現 相 常 梁 な り と 一 言 ふ 。 ﹂ ︵ 天 親 の ﹁ 悌 性 論 ﹂ 、 無 着 の ﹁ 賓 性 論 ﹂ 参 照 ︶ と、更に湛然の述せる天憂哲撃の中核とも云うべき﹁十不二門﹂は、中観哲撃と共に、悌性を論ずるに首って最良の 資糧である。十不二とは、色心、内外、修性、因果、染淳、依正、自他、一二業、権買、受潤の不ニを云う。 ︵ 維 摩 経 不二法問品、法華玄義参照︶ 悌性論の比較宗教墜に於ける位置 悌性論及び成悌思想は世界宗教史に比類がない。悌性は比較宗教事に於ける重要なる位置を占 めて居る。今後益々悌性論を研鎖し、以て本願一乗を光顕せねばならぬ。 悌性に類似せる思想は、婆羅門教に於ける﹁紳我︵
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︶ ﹂ で あ り 、 ギリシア哲撃 ︵ プ ラ ト ン ︶ の ﹁ イ デ ア ﹂ ︵E
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とであり、 ﹁ ロ ゴ ス ﹂ ︵ 円 。m O
回 ︶ で あ り 、 一 神 教 の ﹁ 神 ﹂ で あ り 、 ヨ ハ 、 不 惇 の ﹁ ロ ゴ ス ﹂ ︵ 円 。 雪 印 ︶ で あ り 、'
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ゲル論理撃に於ける自然と有限精神の原理たる ﹁ ロ ゴ ス ﹂ ︵ 円 。 問 。 回 ︶ であり、また創世紀に於ける﹁神の像︵イメ i ツ ︶ ﹂ ︵ 同B
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︶である。また﹁霊魂﹂であり、 ﹁ 心 霊 ﹂ で あ り 、 ﹁ 宇 宙 心 霊 ﹂ で あ り 、 ﹁ 神 性 ﹂ ︵ 口 町 宮 山 門 司 ︶ で あ り 、 ﹁ 一 珊 璽3
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﹂ で あ り 、 ﹁ 聖 霊 ﹂ ︵ 白 色 可 の FO 鳥 山 図 。 守ω
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民 同 ︶ で あ り 、 ﹁ 永 遠 の 生 命 ﹂ ︵H
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包 戸 店 。 ︶ で あ る 。 ﹃数行信設﹄の梯性論 一 一 五﹃ 数 行 信 麓 ﹄ の 悌 性 論 一 一 六 叉 カ ン ト の ﹁ 物 日 韓 ﹂ ︵
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甘 さ で あ り 、 エ ク ハ ル ト 及 ス ピ ノ l ザの﹁紳﹂であり、叉へ 1 ゲルの﹁榊﹂であ り 、 ま た ﹁ 精 神 ︵ 冨 吉 弘 と で あ る 。 之を要するに、欧米一般の宗教思題は、天地高物を創造し、之を支配し、人間の運命を司る濁一員一珊を立てて、是 を最高の思想、最高の宗教と考えておる。彼等は諸行無常を設かず、諸法無我を論ぜず、業道自然を談ぜず、また迷 悟染曹の因緯を知らず、因縁空の思想が無い。随って八不中道、三諦園融の翼理などは夢にも知らざるところであ る 。 彼 等 は 紳 の 超 越 ︵ 寸 同 自 由B
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︶と内在 ︵H
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︶ を語ると雄も、人聞が神そのものに成り得らるると いう思想も、教読も、遣法も無い。新興宗教亦然りである。神と人間とは永久に隔紹しておる。故に併教に説くとと ろの梯性義の如、きは彼等の到底理解し得ぎるところである。因縁説と創造説と、何れが真理として蔦世を照らすであ ろうか。員理の光顕は吾人の双肩に懸っておる。梯性論の重要性は日々増大しつつある。 四 古来異宗の俳性論 古来異宗の傍性論は意見まちまちにして、今日尚定読を見ない。 梯性論は難解難入である。その故は、悌性の問題は傍身論、心性論、宇宙論、異如論、衆生論、本願論、罪悪論、 滅罪論、浬襲論、往生論、成俳論、修費論等、殆んど悌教の全野を覆う慶範圏の問題であるからである。 異 宗 古 来 の 梯 性 論 を 略 記 す れ ば 、 ﹁ 西 吟 ﹂ は 自 性 悌 性 を 許 し て 、 本願、往生によりて之を開顕すると説き、 ー「 知 空 ﹂ は 如 来 蔵 傍 性 ︵ 勝 重 経 、 天 親 例 性 論 参 照 ︶ を用い、値伸、遇三賓によるべき旨を説き、 ﹁ 若 森 ﹂ は 性 の 他 力 と 、 修 の 他 力 を 述 べ 、 ﹁ 月 釜 ﹂ は 正 因 ︵ 如 来 性 の 遍 満 ︶ と 縁 因 を 説 、 去 、 ﹁ 法 霧 ﹂ は 真 如 悌 性 に 立 脚 し 、 聖 母 印 二 門 に つ き て 性 と 修 と を 分 ち 、 ﹁ 石 泉 ﹂ ﹁ 義 山 ﹂ は 本 具 梯 性 を 許 容 し 、 ﹁ 深 働 ﹂ は 本 有 併 牲 と 信 心 梯 牲 と を 立 て 、 ﹁ 善 譲 ﹂ は 光 寄 の 正費 を 悌 性 と 矯 し 、 覧 瞳 よ り 見 て 悉 有 悌 性 な り と 一 五 い 、 ﹁鮮明﹂は聖母二門につきて性に於て具有を許し、 ﹁ 智 量 ﹂ は 法 性 の 遍 満 ︵ 還 浦 悌 性 ︶ に つ き て 本 有 と 談 じ 、 ﹁圃月﹂は伸知見に立ちて箪木園土の悌性を許し、衆生は無梯性と云 ぃ、同時に輔陀翼謹の遍満を談ず。 ﹁ 道 振 ﹂ に 至 り て 無 自 性 傍 性 を 語 る 。 ﹁ 柔 還 ﹂ は 信 心 併 性 を 強 調 し た 。 ︵ 一 刺 子 上 教授の﹁古来の悌性論﹂参照︶ 之を要するに従来は一般に、浬繋経の﹁悉有悌性﹂と﹁信心悌性﹂を談ずるを常としたのであるが、近来は﹁無自 性 悌 性 ﹂ ﹁遍満梯性﹂を強調するようになった。然しながら今尚悌性を論ずるに、翠徒の多くは悌性有というも、悌 性無というも、有無相封の見に囚われ、梯性を植物の種子、叉は物理撃のエネルギー、叉は磁力或は電気の如く考え、 存在観念の上より是を談じ、凡愚の分別智を以て、之を客観親しておるかの如、き感がある。是はその出費馳に於てす で に 誤 っ て お る 。 五、悌性論は果上の法円である。 悌性論は果上の法円である。須らく梯知見に立脚し、浬襲 ︵ 法 身 、 般 若 、 解 脱 ︶ に立脚し、本 願に立脚して論ずべきである。有無の見に囚われて論ずべきではない。 浬襲経に日く﹁衆生悌性は諸伸の境界なり﹂と。果上の法門は、悌知見の前に展開したる浬襲の−法、 ︵ 悌 、 如 来 、 翼 如 、 法 性 ︶ 、 諸 法 の 賓 相 で あ る 。 貫 相 は 沖 漢 に し て 境 智 を 能 所 に 紹 し て い る 。 非 因 非 果 の 一 法 は 、 ﹁ 性 郎 遭 ﹂ 、 ﹁ 郎 事 而 翼 ﹁日え是好日﹂等、事え無碍の原理に障って、暫く因人に附興せられ、衆生の趣入︵悟入︶に立脚し、教と云い、 遭と云い、或は乗と云う。故に教・行・詮、八正遁、六波羅密、四諦、十二因縁等の法門皆是れ梯性である。叉法を 見、法に入り、法に住する観照の悌智是れ悌性である。法門を果上即ち梯智︵第一義空︶ の世界に捲上ぐれば、法門 ﹃数行信麓﹄の傍性論 二 七
﹃数行信設﹄の悌性論 二 八 は 法 門 の ま ま そ の 痕 跡 を 留 め な い ︵ 不 可 得 ︶ 。 悌 眼 に 映 ず る と こ ろ 貫 相 ︵ 第 一 義 空 ︶ の 外 に 諸 法 な く 、 法 門 は な い 。 梯性論は固より桝陀の大慈悲衆生引入の数法である。但し諸悌如来出現の一大事国総は、 一 切 衆 生 が 如 何 に し て 併 性を顕開すべきかの大問題である。我等幸に弘願の一法に遇うことを得た。 ﹁若不生者﹂の本願、不可思議功徳の名 践は、光明無量、寄命無量の如来正費を樫現︵具現︶して我等を招喚したもう。慶しい哉。 六、真宗併性論の立場 大浬換の世界には聖揮ニ門の別は無い。故に併知見に立脚するとき、聖揮二門の梯性論は互に 許容する面を持っておる。慢りに諸宗の梯性論を排斥すべきではない。 ﹁ 法 雷 徹 ﹂ 第 二 組 、 謙 敬 院 瓜 生 津 隆 英 師 ︵ 第 一 一 組 は 光 明 坊 断 鎧 師 で ゐ る ︶ の ﹁ 梯 性 説 ﹂ に 日 く 、 ﹁之に反して静土異宗に於ては願力所成の法円であるから、掛智の跨節に於て悉有悌性と談ずるのである﹂と。叉