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佛教学研究 第68号 008吉田, 哲「ジネーンドラブッディによる意知覚解釈」

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(1)

ジネーンドラブッディによる意知覚解釈

士 口

宇斤 仁コ

O

.

はじめに.

ディグナーガ

(

D

i

g

n

a

g

a

,紀元後

*

4

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-

5

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Prama

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u

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・(

v

r

t

t

i)

(PS

PSV)

を著して,仏教認識論・論理学の基本的枠組みを作った。

PS

PSV

において彼は,知覚

(

p

r

a

t

y

a

k

a

)

と推理

(

a

n

u

m

a

n

a

)

の二種の認識

手段

(prama

l)

a

)

のみを認め,その他はそれが正しい設である限りこの二 磁のいずれかに含まれる,という仏教認識論の基本的枠組みを設けた。そし て , 知 覚 に 関 し て は , そ れ の 特 徴 を 「 無 分 別J

(

k

a

l

p

a

n

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n

i

r

v

i

-k

a

l

p

a

)

とした。その知党の一種として意知覚が列挙される。後述するよう に,この意知覚には外界の対象の認識と,食(欲求)などの自己認識,とい う二種の知党(もしくは二側面)があるが,今回はその中で,特に前者に焦 点を当て,

PS

PSV

の複注であるジネーンドラプッディ(J

i

n

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r

a

b

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h

i

, 八世紀)の

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j

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a

-

/i

k

a(PST)

にある意知覚解釈を検討したい。 意知覚は仏教認識論の知覚説において多くの問題をもつものの一つである。 そもそもディグナーガのいう怠知覚とは何なのか,ということは言うまでも ないとして,彼の後に登場するダルマキールティの志;知党説とディグナーガ のそれとが内容的に同じものなのかどうかなどの問題がある。しかし,怠知 覚に関するディグナーガの論述は簡略であり,そこから取り出すことが出来 る情報は多いとは言えない。それに対して,ダルマキールティは意知党を詳 しく規定しており,実際にはダルマキールティによって意知党の特徴が明確 にされたと言うことが出米る。まずはディグナーガの,それに次いでダルマ

(2)

ジネーンドラプッディによる意知覚解釈 キールティの意知覚説を再確認し,そしてこれについてのジネーンドラプッ ディの解釈を検討したい。

1

.ディグナーガの意知覚説.

ディグナーガは

PS

PSV

第一軍において,感官知についての議論の後に, 意知覚について次のように述べている。

m

a

n

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manasa

p

r

a

t

y

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k

amb

.

)

また意〔による知覚〕も,対象と食などの自己認識は,無分別である。

(

P

S

1

6

a

b

)

また意〔による知覚〕も,色などの対境を所縁とし,無分別なるもので あり,直接経験という形で起こる

(

a

n

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b

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v

a

k

a

r

a

-

p

r

a

v

t;

t

t

a

)

。また, 食などについての自己認識も,感官に依拠しないから,意知覚である。 この部分のチベット語訳は,上掲の(b b)に相当する部分は(1) r食,目良, 療,楽,苦などにおいても自己認識は感官に依拠しないから意知覚である」 もしくは, (2)r食,眠,擬,楽,苦などは感官に依拠しないから,自己認 識という知覚である」となるであろうが, (1)は上掲の(a

a)も(b

b)も 「意知覚J

(

m

a

n

a

s

a

q

l

p

r

a

t

y

a

k

am)

について述べていることになる一方,

(

2

)

(

a a

)

は「意知覚J を

(

b

b

)

は「自己認識J

(

s

v

a

s

a

m

v

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d

a

n

a

)

を 述べていることになろう。(1)はプラジュニャーカラグプタによって引用さ れるものや,ジネーンドラプッディの

PST

によって支持されると考えられ るが, (2)の読みが支持される可能性もある。 ま た デ ィ グ ナ ー ガ は ,

PS

PSV

ば か り で な く

r

因 明 正 理 門 論 』

(3)

ジネーンドラプッディによる草;知覚解釈

(

λ

砂弓yamukha)においても

r

意地J・(

manasa)

なる知覚を挙げるので, 彼には意知覚を述べる必要性があったと考えられるが r色などの対境」を 認識するという機能は通常の感官知のそれと重複しかねず,彼の知覚説の体 系に混乱を招く可能性すらあったはずである。それにもかかわらず彼が意知 覚を挙げる理由としては,彼自身が述べるように他派の説を顧慮する他にも, 何らかの権威ある先行学説を自らの学説中に保存するためであるとも考えら れよう。その先行学説のーっとしては『喰伽師地論J(Yogacarabhumi)に 説かれる「意受現量J

(mano

'

n

u

b

h

a

v

a

-pratyak~a) などが見出される。デ ィ グ ナ ー ガ も 「 意 知 覚 」 を 「 直 接 経 験 の 形 で 起 こ るJ

(

a

n

u

b

h

a

v

a

-a

k

a

r

a

p

r

a

v

r

t

t

a

)

と表現しており,その表現上の類似も彼の窓;知覚と『喰伽 師地論』の「意受現量Jとの聞の関係を示唆するであろう。『喰伽師地論』 では「怠受現量」を「世間現量」と規定し r出世智Jなどの特殊な知の対 象と区別しているが,ディグナーガもこの意知覚とは別に「ヨーガ行者

(

y

o

g

i

n

)

の知」を挙げている。また,上掲筒所に挙げられる「自己認識J も瑞伽行派との関係を想起させるものである。 その一方,

r

jffiJ昆達磨大毘婆沙論』には,意識

(

m

a

n

o

-v

i

j

n

a

n

a

)

に「有分 別」なものと「無分別Jなものとがあるとされ

r

定J取(

samadhD

にある 者の意識は「無分別Jであるとされる。また,説一切有部においては物質的 対象は物質的感官によって認識された後に意識によって認識されると考えら れている。 また,Abhidharmakosabhã~ya

(AKBh)

には,経典中の「見・附・覚・ 知」という詩句の意味に関するこつの説が挙げられている。その第一の説の 中に次のような記述が見られる。

yad manaQpratyak

a

b

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v

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v

i

j

-natam i

t

i

/

意の現前の修習によって証得され,各自に知られるべきものが r知ら れるもの」である。

(4)

ジネーンドラプッディによる意知覚解釈 この中の“

mana

p

r

a

t

y

a

k

a

"

という語句が注意されるのであるが,これ についての詳細な説明は

AKBh

当該箇所では為されていない。しかし,普 光の r倶舎論記』は,第一の異説を「有余の経部師Jの説として,それにつ いて説明している。それによると,意識が知覚とされる場合, (1)五識の直 後に起こって五境を認識する意識と, (2)定の中にあって、法(法処)を認識 する意識と, (3)定の中にあって色・声・香・昧・触・法の六境を認識する 意識という都合三種の場合があるという。この中, (2)と (3) とは『婆沙 論』に見える定中の意識と同じと考えられるが, (1)はダルマキールティが 知覚の一種として挙げる「感官知を等無関縁として生じる意識」と同構造の ものとも考えられる。また,

AKBh

の第九章では r五〔根〕の増上力に引 かれた意識」という表現が見られる。

2

.ダルマキールティのく知覚としての意識>.

ディグナーガによって,意知党はともかくも仏教認識論の知覚説中に取り 入れられたのであるが,彼の簡潔な記述もあって,十分に規定されていると は言い難い。この意知覚を詳細に規定したのはダルマキールティ

(

d

h

a

r

m

a

・ 側

k

i

r

t

i

, *600-660)である。 ダルマキールティが

NB

においては) r感官知j,

(

2

)

r等無間縁として の感官知によって生じる意識j,(3)r一切の心・心所の自己認識j,(4)rヨ ーガ行者の知J という四種類の知覚を列挙することはよく知られている。そ の中で r等無関縁としての感官知によって生じる意識」が今回検討してい るく色などの対象を認識する意知覚〉に対応する。そして,ダルマキールテ ィはこの四種の知覚の中の (2)と (3)を一応は区別して規定している。と ころで,ダルマキールティの考える知覚としての意識の発生過程を概略的に 示すと次のようになる。まず,感官知

I

が生じるが,その

I

は,

1

が生じ るT2の直前の瞬間Tlの外界対象Alを認識する。そして ,1の直後の瞬間

T3

に意識

M

が生じ,そのとき ,1は等無関縁

(

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r

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r

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t

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)

(5)

ジネーンドラブッディによる怠知党解釈 として

M

発生の原因となり

.M

I

の対象

Al

の直後の瞬間

T2

における対 象A2を対象(所縁縁:

a

l

a

m

b

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y

a

y

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)

とするとき

.M

はA2を対象と した知覚である。 この意識の発生過程の特徴は,意識にせよ感官知にせよ対象がそれを認識 する知よりも一瞬間前に存在するという点である。これは,説一切有部など が,感官と対象と知は同時に生起する, と主張するのと異なる点である。ダ ルマキールティはこの知覚としての意識に関連して次のように述べている。

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V

1

1

1

2

4

6

)

〔結果よりも〕先に存在しないものは〔結果の生起について〕無能力で あるから,また, (結果の生起と同時のものは,すでに結果が生起して しまった〕後からは無用であるから,あらゆる原因は〔結果よりも〕先 にある。したがって,対象は自らの知と同時ではない。 ダルマキールティはこのように知覚としての意識についての議論をより一 般化して,あらゆる悶果関係を,直前のものから直後のものが生じるという 形に集約させるのである。このような立場を取ることによって,彼自身によ る「認識手段の定義」との矛盾や,盲人の意識が色を知覚するなどの不都合 を回避している。 ダルマキールティによって再規定された知覚としての意識にも,後に,そ の発生時点などに関する見解の相違が仏教認識論・論理学派の中に生じたよ うである。そして,独立した知覚の一種と見なされなくなる場合さえある。 ダルマキールティの後も,彼の説は踏襲されるが,その場合でも,例えばダ ルモーッタラはこの知覚としての意識を,定説であって積極的に論説するこ とは出来ないと述べている。そのように,志知!党はただ定説として尊重され るにとどまり,実際上のー怠義が失われてゆく傾向が指摘されている。

(6)

ジネーンドラプッディによる意知覚解釈

3

.

ジネーンドラブッディの意知覚解釈.

このような意知覚に対して,ジネーンドラフーッディの解釈は,ダルマキー ルティに忠実であると考えられる。意知党の発生過程などについてはダルマ 岡 キールティをそのまま踏襲していると考えられる。しかし,

PST

は,ダル マキールティの著作に対する注釈とは異なり,より

PS

PSV

の記述に配慮、し なければならないという立場にある。それは,ダルマキールティの学説に従 いつつも,

PS

PSV

の文言から離れることが出来ないからである。以下, そのような点に留意しつつ,ジネーンドラ 7-ツデイの意知覚に関する記述の 中に彼の解釈方法の一端を見てみたい。

3

.

1.‘

a

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t

h

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r

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v

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s

a

r

p

v

i

t

t

i

'

の解釈. ω すでに指摘されているように,ジネーンドラ 7-ッディは,

PS

1

6

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b

中の ‘

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h

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r

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v

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t

i

'

という複合語を独特な仕方で解釈する。それは ‘

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r

t

h

a

r

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g

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s

v

a

s

a

r

p

v

i

t

t

i

'

(対象と食などの自己認識)を‘

a

r

t

h

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'

(対象)と ‘

r

a

g

a

d

i

s

v

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'

(食などの自己)と‘

s

a

r

p

v

i

t

t

i

'

認識)とに分解し,‘

s

a

r

p

v

i

t

t

i

'

は‘

a

r

t

h

a

'

と‘

r

a

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v

a

'

との両方に結び付けられるというものである。 従って,‘

a

r

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r

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は‘

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(対象の認識)と

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t

i

'

(食などの自己認識)という二種類の‘

s

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t

t

i

'

認 識)を述べる表現であると考えている。‘

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r

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i

'

という語 をこのように分解する解釈は,確かにダルマキールティが

NB

等で r感官 知を等無関縁として生じる意識」と「一切の心・心所の自己認識J とを区別 することに従うものであり,

PS

の記述をダルマキールティに即して理解す ることが出来るものにしている。 3.2. ‘anubhavãkãraprav~tta' の解釈.

(7)

ジネーンドラブッディによる~;知覚解釈 また,ジネーンドラ 7.ッディは,ディグナーガの「直接経験という形で起 こるJ

(

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r

a

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r

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a

)

という表現について解釈を行っているが, これも,ディグナーガ自身の意図が明確にならない以上,これについてのジ ネーンドラ7"ッディの解釈に対する評価も定め難い。しかし,彼の解釈を見 ると,

PST

p

.

5

3

1

1

.

1-8:

anubhavakaraprav

r

:

ttam i

t

i

/

anubh

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utpannam anubhavakaraprav

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utpannam i

t

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/

anubhavakaraprav

r

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t

a

m

"

について。「直接経験J

(

a

n

u

b

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a

v

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と は,直接経験

(

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u

-1

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u

)

するための手段という意味である。「形相」

(

a

k

a

r

a

)

とは顕現である。しかし,それ(形相=顕現)は直接経験と いう形でないものもある。たとえば想起などのそれ(形相=顕現)であ る。だからそれ(直接経験ではない形相)を除外するために「直接経 験」に言及するのである。「直接経験」という「形相」をもつもの,そ れがそのように

(

a

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a

v

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k

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r

a

という複合語によって〕述べられてい るのである。【問]ところで「それJ とは何なのか。{答】先に述べた道 理により,感官知に他ならない。その「直接経験」を「形相Jとするも の(=感官知)によって「起こるJ,(すなわち〕生起したものが r直 接経験を形相とするものによって起こるJ ものである。〔つまり r意知 覚は〕感官知という等無関縁によって生み出されるJ,ということが述 べられたことになるのである。 ここで注意されるのは,‘

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の中の‘

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(8)

-ジネーンドラプ'"ディによる底知覚解釈

a

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a

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'

を所有線合語

(

b

a

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u

v

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i)と解し,それが感官知を修飾している とする解釈である。「直接経験という形相J

(

a

n

U

1由

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a

のが感官知であるということには特に問題はない。感官知は対象を直接経験 する知であり,想起や推理におけるような間接的な認識ではないからである。 しかし,その感官知を等無関縁として生じる意識の形相はどうなるのであろ うか。このジネーンドラプッディの解釈に従えば,その意識もまた分別を欠 き,色などの対境を認識するものであることは分かるが,その滋識自体の形 相についての言及はこのPSVの筒所にはないということになる。むしろジ ネーンドラブッディはこの‘

a

n

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a

v

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k

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r

a

p

r

a

v

r

t

t

a

'

という筒所以外に, ダルマキールティの「感官知を等無関縁として生じる意識」という内容を読 み込み得る部分を見出せなかったのではないだろうか。だからこそ,意識の 形相に関する言及がこの一節から失われるという犠牲を払ってでも, ‘

a

n

u

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h

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v

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k

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r

a

-

'

を感官知を表示対象とする所有複合語であると敢えて解釈 して,ダルマキールティの学説に沿った内容を読み取ろうとしたのではない だろうか。 このジネーンドラブッディの解釈は知覚としての意識を扱う PV111 239

-2

4

8

に対するデーヴェーンドラプッディの注釈 (Prama苧avarttika仰先iika, 0.0 PVP)や,シャーキャブッディの複注 (Pramanavartti初,

t

i

k

a

,PVT)にも確 認されない。もっとも.PVPにしても PVTにしても,前者はダルマキー ルティのPVに対して,後者はPVPに対して注釈する立場にあるので,ジ ネーンドラプッディに比べればディグナーガの PS,PSVの語句や表現に拘 束される度合は温かに低いであろう。従って,態々ジネーンドラ7-ッディの ような解釈を施す必要もなかったであろう。 その一方で,ジネーンドラプッディはその知覚としての意識の対象に関し て次のように述べている。

PST p

.

5

2

1

1. 14-17:

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(9)

-ジネーンドラブ'"ディによるな知覚解釈

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a

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d

y

a

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k

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a

v

i

yam

evetyavagaccha /

/

【問]それでは,どのようにしてそれ(=意識)はその対境が限定され るのか。【答】どのようにしてかというと,それ(意識)に或る特殊な 等無関縁〔となる感官知〕がある場合,それは〔その感官知〕自身の対 境から生じた直後の色等の瞬間と同時に作用するものに他ならず,それ (=意識)を生起させるのである。だから,それ(=意識)はまさに上 述のもの(=感官知の対境の直後のもの)を対境とするものに他ならな い,と理解せよ。 ここでのジネーンドラブッディの答は,ただダルマキールティの見解をな ぞっているだけである。しかし,最後には「…と理解せよ」と命令形で締め 括っているのが興味深い。これは,先に見たダルモーッタラのように,ジネ ーンドラ7.ッディも,知覚としての意識をただ定説として承認しているだけ で,その積極的な存在意義については消極的な評仰

i

にとどまっているとも考 伺 えられる。 以上のようなジネーンドラプッディの解釈を採附して改めて

PS 1 6

a

b

PSV

を読むとすれば次のようになるであろう。 また意〔による知覚〕も, (1)対象〔の認識〕と, (2)食などの自 己の認識は,無分別である。

(

P

S1

6

a

b

)

また意〔による知覚〕も, (1)色などの対境を所縁とし,直接経験

(

a

n

u

b

h

a

v

a

)

を形相とする〔感官知〕によって起こり,無分別である。 また, (2)食を始め〔あらゆる知〕における自己認識は, (物質的〕感 官に依拠しないから,意知党である。 このように,ジネーンドラブッデイの解釈によって,

PS 1

6

a

b

には(1)感 官知によって引き起こされ,色などを対境とするものと, (2)食を始めとす

(10)

ジネーンドラプッディによる怠知覚解釈 るあらゆる知の自己認識という,意知党の二つの下位分類が示されていると 理解することが出来るであろう。そして(1)はダルマキールティのいう 「感官知を等無間縁とする意識Jと,

(

2

)

は「一切の心・心所の自己認、識J と内容が一致することにもなる。このように,ジネーンドラプッディは

PS

1

6

a

b

PSV

がダルマキールティの知覚説と同じ内容をもつものにしている。

4

.

小 結 .

以上のように,ジネーンドラ

7

.

ッディの意知覚解釈は概ねダルマキールテ ィに忠実であるから,

PST

の記述からディグナーガ本来の意図を明らかに することには限界がある。ジネーンドラブッディの意知覚解釈は,知覚とし ての意識に積極的な意味付けを行なうというよりは,ディグナーガの論述が ダルマキールティの学説に沿って理解され得ることを示すものとなっている。 従って,ジネーンドラプッディの解釈は彼の独自性に乏しいものかもしれな い。しかし,例えば

PS

PSV

の‘

a

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a

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a

-k

a

r

a

p

r

a

v

r

t

t

a

'

と.いう語句についての

PST

の解釈などは,デイグナーガの記 述がどのようにダルマキールティ流に解釈されるかを示す例であろう。また,

PS

PSV

が当時どのような形で学ばれていたかを示していよう。 ダルマキールティは

P

V

I

I

I

P

V

i

n

I

において,知覚としての意識に関し て,対象と知が同時であるか否かという問題や,また,知の対象が知の原因 に他ならないことなどを論じる。それによって対象と知との同時性を主張す る見解は否定されることになり,そこでの論述は「経量部説」を代表するも ののーっとなっている。彼はディグナーガの意知覚説を注釈するという形を 取りながらも,対象と知の時間的関係や因果関係の考察へと向かっている。 ジネーンドラ7"ッディはそのようなダルマキールティによる発展的成果を, ディグナーガの文言の中に埋め込むいう役割を,彼の解釈方法によって果た していることが確認できる。

(11)

〈参考文献・暗号〉 く 一 次 資 料 〉

ジネーンドラプッデイによる怠勾l党解釈

AKBh Abhidharmakosabh匂la:Abhidhanna -Koshabha抑 ,Edited by Prof.

P. Pradhan. K. P. J ayaswal Research Institute

Patna

1967 (Pradhan.) /

Abhidharmakosa & bh匂la

0

1

λ

carya vasubandhu with

hutarth aCommen-Mη

1

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caηla YaSomitra Part !, II.Critically ed. Swami Dwarikadas Sastri.Bauddha Bharati.Varanasi.1981 (Sas試tri.)

AK仁V 5.争酔μh仰ut師d俳'ar付付il'haAb劫hid初hanna昭αUり'Y励akh卸')Ja:争S静μh伽u師ぜげFh加a Ab肋hid初harm仰tωa問t句δy励励5'kh卸'Ya

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taDurveka MiCra 's Dharmottaraprad似, Edited by Pa

l

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Q

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ita Dalsukhbhai Malvania, Kashiprasad Jayaswal Research Insti -tute, Patna, 1955 PV Pramanavartti初 11 (prama1)asiddhi) : 宮 坂 宥 勝 rpramanavarttika -kartikaJ (rイ ン ド 古 典 研 究JJ2, pp. 1-219, 1972) / Prama1Javarttika 111 (pratyak~a),及ぴ戸崎口979J 所械のものを使用。 PVin Prama1Javiniscaya 1:(Sanskrit text (Skt.))Dharmakirti包PramanavinIS -caya Chapter1 and 2 Cniically edited

by Ernst Steinkellner

China Tibetology Publishing House, Austrian Academy of Sciences Press, Beijing - Vienna 2007 PVP Prama1Javarttikapanjika(by Devendrabuddhi) :デルゲ版No.4217,北 京版NO.5717

PVT Pram仰avarttika{ika(by SakyabuddhD:デルゲ版 No.4220,北京版

No.5718

PS Prama1Jasamuccaya: cf.PSV

PSV Prama苧asamuccayavrtH:Dignaga's PramaI)asamuccaya

Chapter 1

by

Ernst Steinkellner, 2005, (www.oeaw.ac.at/ias/Mat/dignagCLPS_l.pdf) (チベット訳は Hattori[1968J所載の校訂テキストを使用。) PST Prama1Jasamuccaya{ika !:Jinendrabuddhi也 Vi5alamalavati Pranui1J

'samuccaya/ikaChapter1, Part 1: Critical Edition, by Ernst Steinkellner, Helumut Krasser, Horst Lasic, China Tibetology Research Center, Austrian Academy of Sciences

China Tibetology Publishing House

Austrian Acad -emy of Sciences Press, Beijing -Vienna 2005

(12)

ジネーンドラブッディによる底知覚解釈 く二次資料〉 片岡 [2007]片岡啓 rPrama1)asamuccayatfka ad 1.1和訳J(r市アジア古典学J 2.九州大学大学院人文科学府・文学部 インド哲学史研究室.2007. pp. 1-80. 所載) 片岡 [2009]片岡啓 rr集量論J1 9の問題点一一デイグナーガとジネーンドラ プッディ一一J(r印度学仏教学研究J58-1. 2009. pp. 455-449.所l政) 桂 [1982]桂紹隆「因明正理門論研究[五]J(r広島大学文学部紀要JVo 41.2. 1982.pp.82-99所載) 岸根 [2001J伴根敏幸「チャンドラキールティの自己認識説批判 J (Ir江島悲教博 士追悼記念論集 空と実在』春秋社.2001.pp. 117-129所載) 久間 [2008]久間泰賢「ジネーンドラプッディにおける「怠による知覚」と 「自己認識J J (三重大学人文学部哲学・思想学系/教育学部哲学・倫理学教 室 r論集J13,2008,pp.91-100) 武閏・若原・背原 [1998]武田宏道・若原雄日目・背原令知「共同研究『イ具合論』 破我品の研究(ー)J (r仏教文化研究所紀要』第37集,1998,pp.17-40所紋) 戸崎 [1979J r仏教認識論の研究上巻』大東出版社,1979 長 友 日984JJj三友泰潤「仏教論理学派における意知覚 (manasapratyak写a)に ついてJ(r論集』東北印度学宗教学会11.1984. pp. 23-43所放) 長友 [1989]長友泰潤「意についてJ(8"南九州大学園芸学部研究報告J19,1989, pp.145-153) 長友 [1993]長友泰潤「意における知覚についてJ(r塚本啓祥教授還暦記念論文 集知の避道一仏教と科学一J1993.pp.390-404所載) 林 [2001]林鹿仁「意知党発生の時機に関する三つの説ー特にprajnakaragupta 説を中心にーJ(r印度学仏教学研究J50-1. 2001. pp. 205-208所載) 原田 [1997]原田和宗「愛欲などの自己認識J(B"印度学仏教学研究J46 -1, 1997, pp. 190 -193) 舟橋 [1987]舟橋一哉 r倶合論の原典解明一業品一』法蔵館,1987. 船山[1995J船山徹 r8世紀ナーランダー出身注釈家覚え書きー仏教知識論の系 講一J

(

q

:

)

本仏教学会年報J60. 1995. pp. 49 -60.所載.) 船 山 [2000]船 山 徹 「 カ マ ラ シ ー ラ の 直 接 知 覚 に お け る 「 意 に よ る 認 識J (manasa) J (r留学研究1569.2000.pp.105-132.) 朴 [1999]朴基烈「ディグナーガの意知覚 (manasapratyak号a)説J(f印度学 仏教学研究J47-2. 1999.pp. 105-109所載) 御牧 [1988]制l牧克己「経最部J(岩波講座東洋思想第8巻 rインド仏教1..岩 波書底 1988. pp. 226-260.) 村上 [2005J村上徳樹 rサパンの意知覚説の設定についてJ(r印度学仏教学研 究J53. 2005. pp. 201-203所載)

(13)

ジネーンドラブッディによる怠知覚解.釈 矢板 [2005J r仏教知識論の原典研究:瑞伽論凶明,ダルモッタラティッパナカ, タルカラハスヤIJ,成岡山新勝寺成田山仏教研究所, 2005. Franco [2005] Eli Franco "On Prama1Jasamuccayavrtti6ab again". (Journal 01 lndian PhilosoPhy(2005) 33, pp. 631-633) Hattori [1968J Masaaki Hattori.Dignaga On Perc

e

ρ

tion, being the Praか'aks 。戸ariccheda

0

/

Dign句α'sPrama1Jasamuccaya /rom the Sanskrit j示。rgments and the Tibetan versions, Translated and annoted by Masaaki HATTORI, Cambridge, Massachusetts, Harvard University Press, 1968.

Nagatomi [1980] Masatoshi Nagatomi."Manasa-pratyakSa: A conundrum in the buddhist pramaQa system".(Sanskrit and lndian Studies (Studies 01 Classicallndia, vol.2), Essays in Honour

0

/

Daniel H.

H

.

lngalls, D. Reidel Publishing Company, Dordrecht, HoIland; Boston, U .S.A; London, England,

1980, pp.243-260) 註及ぴ文献 (1) Prama ~ as,αmuccaya, -v

r

tti: Ernst Steinkellner氏 の 還 元 テ キ ス ト : Dignaga's PramaI:1aSamuccaya, Chapter 1, by Ernst Steinkellner, 2005 (www.oeaw.ac.at/ias/Mat/dignagaYS_1.pdf)を使用させて項いた。 (2) r分別を欠く」というデイグナー庁の長11党の定義はダルマキールティによっ て次のように修正される。

PVin p. 7.12: pratyalq;arp kalpanapo1ham abhrantam (c k. 4ab') / (知覚と は,分別を欠き,誤りなきものである。) (3) Cf. Hattori [1968] p.27; Nagatomi [1980J:特にNagatomi [1980]はデ ィグナーガの意知党が r対象認識」と「自己認識」という二つの側面を合わ せもつ可能性を指摘している。 (4) Cf.船 lLJ[1995] p. 58. (5) ジネーンドラプ・ソディによる意知覚解釈については,久間 [2008]も参照さ れたい。 (6) 服部正明氏の校訂による岡チベット語訳は次の通り(和訳は本稿筆者・による もの): (K)

yid kyang don dang chags la sogs rang rig rtog pa med pa yin (PS 1 6ab)

yid kyang yul gzugs la sogs pa la dmigs shing nyams su myong ba'i rnam pas 'jug pa ste, rtog pa med pa nyid do. 'dod chags dang zhe sdang dang gti mug dang bde ba dang sdug bsngal la sogs pa la yang rang rig pa dbang po la mi ltos pa'i phyir yid kyi mngon sum mo. (Hattori [1968J p. 181, 1.10・15)

(14)

ジネーンドラプッディによる意知覚解釈 (意もまた,対象と食などの自己認識は無分別である (PS1 6ab)。意もまた, 色などの対境を所縁としつつ,直接経験という形相をもって起こり,無分別に 他ならない。食,眠,療,楽,苦などにおいても自己認識は感官に依拠しない から意知党である。) (V)

yid kyang don dang chags la sogs rang rig rtog pa med pa yin (PS 1 6ab)

yid kyang yuI gzugs la sogs pa Ia dmigs shing nyams su myong ba'i rnam pas 'jug pa ste, rtog pa med pa 'ba' zhig go. 'dod chags dang zhe sdang dang gti mug dang bde ba dang sdug bsngalla sogs pa ni dbang po la mi bltos pa'i phyir

rang rig pa'i mngon sum mo. (ibid. p. 180

. 110・15) (意もまた,対象と食などの自己認識は無分別である (PS16ab)。意もまた, 色などの対境を所縁としつつ,直接経験という形相をもって起こり,無分別に 他ならない。食,眠,擬,楽,苦などは感官に依拠しないから,自己認識とい う知覚である。) 特に問題なのは,自注の後半部分,つまり「食などの自己認識Jに関する部分 の読みが異なることであるが,本稿で主として扱う「色などの対境を所縁とす る」意を述べる部分は一致している。;cf.Hattori [1968],p. 27, pp. 92-94, 朴 [1999]p. 106. (7) Cf. Hattori [1968] p. 92, note 1.45, p. 94, note 1. 47. (8) Cf.長友 [1989]

[1993] (9) r因明正理門論J(r大正JVol.32 p.3b):意地ユモ亦P有

3

離主諸ノ分別!.P佐ダ讃行 シテ転三九又F於

2

ル食等三諸ノ自

i

詮分ヘ諸/修定者/離主ル、教分別三皆ナ現量0,.,)0 (桂 [1982,]p. 87参照。) manasam aprüpãdivi~ayãlambanam avikalpakam anubhavakaraprav

:

r

-笠呈!!!'!:agadi$U ca svasarnvedanam indr匂anapek号atvanmanasa叩 pratya -k!?am (PSV on PS 1 6ab). yoginam apy agamavikalpavyavakil1J.am arth -amatradarSanam pratyaksam (PSV on PS 1 6cd). r因明正理門論』の記述は大体において上掲PSVの下線部に対応するが, また因明正理門論』になかったと考えられる部分(下線部以外)は, PSV において追加されたものと考えられる。そして,主としてその追加部分に,後 代 に 議 論 の 的 と な る 問 題 が 含 ま れ て い る と 考 え ら れ る 。 た と え ば , “in -driyanapek$atvat"という部分は,意知覚が感官に依存しないことを述べて いるのであるが,ダルマキールティは意知覚(意識)を「感官知を等無間縁と して生じる」というように再規定し,ディグナーガの記述との聞に若干の組欝 を生じているのではないだろうか。後の注釈家たちにも両者の矛盾を回避しよ うとして苦慮した痕跡が認められるという (cf.長友 [1993]p. 400)。また,

(15)

ジネーンドラブッデイによる志知覚解釈 “rupadivi号ayalambanam"という表現は,この意知覚に,感官に依存せず, かつ r色」などの外界対象を所縁とするという特殊な性格を付与している。 側 Cf.脚注側

1

)

r瑞 伽 師 地 論 』 巻 十 五 (r大 正J30, 357c) : cf.矢 板 [2005]p. 29, 107-108 : 原田 [1997],p.191参照。 ( 12) PS 1 6cd

&

PSV: tatha yoginal11gurunirde~ãvyavakïrl)ãrthamãtradrk (PS 1 6cd) / / yoginam apy agamavikalpavyavakirl)am arthamãtradar~anal11 pratyak~am. (同様に,またヨーガ行者たちには,師の教示を交えずに,対象 のみを見る〔という知党がある)(PS 1 6cd)。またヨーガ行者たちには,教え についての分別を交えずに,対象のみを見るという知覚がある。):ジネーンド ラプッディはこのヨーガ行者の知を「解脱の原因J(moksahetu)と説明する (cf.PST p. 57, 1. 4.)。また,一切知者 (sarvajna), す な わ ち 仏 陀 に 備 わ る 認識手段を意味することもある (cf.船山 [2000]pp.116-121)。 (13) しかし,チャンドラキールティ (CandrakirtDは自己認識説は本来経量部 の 主 張 で あ り , そ れ を 唯 識 学 派 が 取 り 入 れ た と 考 え て い た , と い う 。 岸 根 [2001]

p. 119参照。 ( 1心 『阿昆達磨大昆婆沙論』巻七十二

U

'

大正.nVol.27. p. 374b) : 問7。此/六識身,、幾"有分別。幾何無分別。答7。前五識身ハ目佳ダ無分別ナルノミ。 第六識身ハ或ハ有分別、或ハ無分別ナ九且7在

t

定二者ハ皆ナ無分別。不

t

t

定ニ者,、 容

t

有生分別ー。計度分別ハ遍7輿ニ不定ノ意識ー倶ナルが故ユ。此ノ中且ク説

2

眼 識

t

刻星ノ 分別意識三。 cf.船山 [2000],pp. 110-111; p. 127 (fn. 18). ( 15) Cf. AK 1 17ab

44cd

48a. ( 16) AKBh on AK IV 75 (p. 246)

tavadahu

り一一

yatpancabhir indriyai

pratyak明111tad d将tam/ yat parata agamital11tac chrutam / yad yuktyanumanato rucitarp tan matam / yad mana

pratyak号abhavanadhi科hital11pratyatmavedyal11tad vijnatam iti / ete ca panca vi号ay功 pratyekal11dr持ai ti va krtva vya va -hriyante, ~rutã mata vijnata iti va/明科ho'nyatra dr号明diti nasti gand -hadi?lu vyavaharabhavaprasa白ga

り/

tasmad yuktir apy e号ayuktir na

bhavati /

purvãcãry~ evam ahuQ - tad drl?tarp yatpratyak~ïkrtarp cak~u~ã /

~rutal11 yac chrotreりaparata~ cagamitam / matal11yat svayal11cintitam / vijnatal11yat pratyatmal11pratisal11veditam adhigatal11 / (まず、ある者た ちは〔次のように〕述べる。「五〔極〕の感官によって知覚されるところの ものは「所見J(drsta)で あ る 。 他 者 か ら 教 え ら れ る と こ ろ の も の は 「 所 間J(sruta)である。論理による推理にもとづいて認められるところのもの

(16)

ジネーンドラプッディによる意知覚解釈 は「所党J(mata)である。窓の現前の修習によって証得され、各自に知ら れるところのものは「所知J(jneya)である。また、これら五境は各々、あ るいは「所見」と言語表現され、あるいは「所間」、「所党」、「所知」と〔言 語表現される〕。第六〔境〕は、 r所見」以外である。だから、香などに対し て言語表現がないということにはならない。従って、〔昆婆沙師たちの〕そ の論理も正しくない」と。先軌範師は〔次の〕ように述べる。「眼によって 知覚されたもの、それは「所見」である。耳により〔知覚され〕、あるいは 他者から教えられたもの、それは「所Il~)J である。自ら考察したもの、それ は「所党」である。各自に認識され証得されたもの、それは「所知Jであ る」と。) r阿毘達j砦{具合論』巻十六 (f大.ll:JVol.29. p. 87c) : {鼻異異!:.説第一]有余師ノ説市付ク 。若シ是レ五桜ノ現ニ所;証スル境 伝説ス,伽ルいい,、名ケ刊子為王所F間Ð~土。若シ運?自心土以 2種種ノ理士比度け所C 許:"-11-名ケテ為 ~jiJf 党土。若シ~ノ現ニ証セルハ名ケテ為2所知土。於F五境ノ中三一一容 Z 起三見ト問ト覚ト知い 四種ノ言説Z。於 i'j-,第六ノ境三除ア見'有:三。由グ此ニ覚ノ名"~ド f無tニ所レ目スル。 香等ノ境ノ言説"~~~無ニ。故ニ彼ノ理言モ亦タ為2無Z ト理。 【異説第二]先軌範師,、作訪日

t

是ノ説士。

l

現ノ所

Z

パ現見?名行為

2

所見土。従:他 伝問セルヲパ名付為

2

所聞と。自ラ運

P

己心当者ノ所

Z

思構三ル名付為

2

所党土。自宇内ニ 所:受7ル及ピ自ラ所tヲ証M 名ケチ為空所知!と。 (Jカ Pradhan. 及ぴ Sastri.は“manaQpratyak~abhãvenãdhi~thitaf11"であるが, 舟橋 [1987]p.356,注(5)のチベット語訳にもとづく訂正に従う。

r倶合論記』巻十六 (f大正.sVol.41.p. 261a13-20) : r有余師説」ヨリ至11-亦 為非理」三者、経部ノ答

:

'

1

有余ノ経書

I

s

m

l

i

ノ説

3

7

「若シハ是レ五根ノ現:吐ノ所証ナル五境,、 以

γ

分明ヤヲ故二名

2

所見と。若シハ依

f

教量三

f

Jf:!:他ノ伝説三六境ヲ名門為三所開土。 若シハ依

Y

比批三連?自己ノ心Z以全種種ノ理士比度シテ所

C

許え六境ハ名付為空所党土。

若ン,ハ、怠意識/依 ~Tチ現量三証Ã)\.ル六境,、名名ケけテ為~ji,所庁知土斗。 若シ,ハ、窓識,ハ、親シクマi従a追~~五五.識-~後麦ニ起:

現量ユシ汁テ証±三.五五百.境土二。 若シ,在

t

定ニ意識

7通ジテ証:三六境Z。

(

1功 AKBhp. 464 1.23 -465 1.3 (Sastri.pp. 1200 1.5 -1201 1.2): pancanarp dar~anãdyãkañk号al)ãsambhavãt, tadvijnananarp ca / atas tadadhipatya -dhyahrtam atra manovijnanam indriyam ity uktam / yac ca tat kevalarp mana-adhipatyadhyahrtarp manovijnanam, naiva tadanye手arp vi号ayam aka白l王将ti/ ato nasty e号ado切り/(五〔根〕は見ることなどを追及すること が有り得ないから、また、その〔五根の〕識もそうであるから、その〔五根 の〕増上〔縁〕によって引かれた意識が、ここ (f六 生 経J)で「根J

G

n

-driya)と述べられたのである。また、凡そ意の増上〔縁〕によって引かれた だけの意識は、それ〔意〕以外の対境を追求するのではない。従って、これに

(17)

ジネーンドラブッディによる底知党解釈 過失はない。) ; ibid. pp. 464 1. 15 -465 1 3 . (Sastr. pip. 1199 1. 10 -1201 1. 2) 参 照 。 な お , デ ィ グ ナ ー ガ のAbhidhannakosamarmad抑zで は , こ の 部 分 は 引用されていないようである。武削・若原・青原 [1998Jp.22参J!(~。 ( 20) 船 山 [1995J p. 58参照。

ω

NB [pp.56-67J(スートラを抽出) : tac caturvidham (1.7) / indriyaj -nanam (1.8) / svavi~ayãnantaravi$ayasahakãri I) endriyajñãnena samana-ntarapratyayena janitarp tan manovijnanam (1.9) / sarvacittacaittanam atmasarpvedanam (1.10) / bhütãrthabhãvanãprakar~aparyantajarp yogij -nanam ceti(1.11) / (それ(知党)は四極である。感官知と,自身の対境の直 後の対境と

l

司i時に作用する等無関紙としての感官知によって生じるところの意 識と,あらゆる心・心所の自己認識と,実在の対象についての修皆の卓越の極 限によって生じたヨーガ行者の知lと,である。) 仰 Cf. PVT [D211b6-212a2

P261bl-4J;戸 崎 [1979]

pp.343-345.

ω

シャーキャブッディはPV111 240についての複注で,昆婆沙例 (byebrag tu smra ba)と経量部 (mdosde)に言及している (cf.PVT D21Ob7-211a5, P260a5-b5)

4) Cf. PVP (D202a6・b3,P236a8・b6),PVT (D211b6・212a3,P261b1・6);戸 崎 [1979J, p. 344参照。 (25) PV 11: pramaI)am e.lvisamvadijnanaD}, arthakriyasthitiI:t avisarpvadanam …・(PV 11 1abc')(認識手段とは, !吹かない知である。効果的作用が確定しているこ とが,欺かないことである。 pramaI)yarp vyavahareI)a ~ãstram .mo・ hanivartanam, ajnatarthaprakaSo va

(PV II5abc)(日常的i舌動〔という 観点〕からすれば,無知を止める教説も認識手段性をもっ。また, (認識手 段とは〕未知の対象を知らしめるものである。) ダルマキールティの意識説は特にPVII5の「未知lの対象を知らしめる」と いう認識手段の定義との矛盾を回避している。 側 Cf. Hattori [1968J pp.93-94;戸崎 [1979Jpp.345-34~ 御牧 [1988J p.246 -250:林 [2001J;長友 [1993J:村上 [2005J. 仰 NBTp.63: etac ca siddhantaprasiddharp manasarp pratyak号arp/ na tv asya prasadhakam asti pramal)am / (そして,この窓知党は定説として周知 のものであるけれども,これ(怠知覚) (の存在〕を立証する認識手段は存夜 しない。) ( 28) ダルマキールティの後の仏教論理学派における定;知党の扱い方については, 長 友 [1984J及ぴ,長友 [1993Jに通観されている。それによれば,八世紀の カマラシーラもダルモーッタラ同様,意知覚を定説によって確立されているも のとし,詳説することはない(カマラシーラの意知覚の扱いについては,船山

(18)

ジネーンドラプッディによる意知覚解釈 [2000]参照)。十一世紀初頭に活躍したジターリは,外界対象を認識する意 知覚を知覚として列挙しない。ジターリと同時代人であり,やや遅れるとされ るヴィドャーカラシャーンティはダルマキールティの説を跨襲する。十一世紀 後半以降とされるモークシャーカラグプタはダルマキールティの説を踏襲する と同時に,意:知覚は経典によって確立しており,その存在を決定するものはな いとする。 側 そこでもジネーンドラ7"ッディはサンスクリット文法学の知識を使うなどし て,ディグナーガの用いる表現をダルマキールティの学説に従って解釈しよう と し て い る (cf.Hattori [1968] p.93, note. 1. 46;久 間 [2008]p. 98, note (17) )

PST

p.52 1. 41-14 . nanu ca rupadayo vi号ayaeva. tat kimartharp vi・ 興yagrahal)am

I

analambyamanarupadivyavacchedartham, na hy avi

-jnayamana vi手ayabhavanti

I

upacarel)a tu tajjatiyatayavi号ayavyapade~a1.I

syat, na tu mukhyavi手ayatvam

I

】tasyapunas te vi号ay功

I

anantaram indriyajnanasya prakrtatvat tasyaiva

I

rupadivi!?ayal)arp vikaro riipadivi・ 号ayavikara

1

.

I

.

sa alambanam yasya tat tathoktam

I

samudayavikara号a

-嘆hyã~ca bahuvrihiruttarapadalopa~ ceti vacanat samasa uttarapadalopa~

ca suvarl)ala白karaiti yatha

I

ka

punarvi号ayasyavikara

I

yas tena janita uttarak号al)avi~e号功,sa tasya vikara iti vyavahriyate, na tv avasthite dhar -mil)i dharmantaranivrttau dha口nantaravirbhava

t

:

I

sankhyaparikalpitasya paril)amasya ni手iddhatvat

I

tad etad uktarp bhavati

一一一

indriyajnanavi手 ayajanitasamanantararupadik!?al)alambanam iti

I

([問】しかし,色等は対 境 (vi~aya) に他ならないではないか。その「対境J (vi~aya) という言及は 何の目的があるのか。【答]現に所縁とされていない色等を排除するためであ る。というのも,現に認識されていないものが対境となるのではないからであ る。同種のものとして〔第一義的な対境でないものが) r対境」と呼ばれるこ とがあるかもしれないが,第一義的な対境としてではない。【問]ではまた, それら (r色等の対境」というのは〕は何の対境なのか。【答}それこそが論述 の前提であることにより,感官知の〔対境の〕直後である。色等の諸対境の変 化したもの (vikara)が「色等の対境」の変化したものであり,それを「所 縁J としてもつもの,それが〔その所有複合語によって〕そのように述べられ ているのである。「また,集合と変化したもの〔を意味する〕第六格〔に終わ る語からなる〕所有複合語になり,そして,最終要素は脱落するJという規定 にもとづく複合語であり,後の語 (=vikara)が脱落しているのである。「賞 金製の飾りJ(suvarnalankara)という場合と同様である (cf.MBh 1 pp.423 -424)0 [問】ところで,対境の変化したものとは何なのか。{答]それ(対境) によって生み出された特殊な直後の瞬間が,それの変化したものである,と表

(19)

ジネーンドラブッデイによる;底知覚解釈 現される。しかし,恒常的に存在する基体において,一方の属性が帰滅し,他 方の属性が顕れるというのではない。サーンキャ学派が想定する展開 (parit:t ama)は否定されているのであるから。したがって,次のように述べられてい ることになる。 r(意知覚は〕感官知の対境の直後に生じた色等の瞬間を所縁と する」と。)

久間 [2008]p. 92-94において "artharagadisvasarpvitti"についてのジネ ー ン ド ラ プ ッ デ ィ の 解 釈 が 和 訳 と と も に 考 察 さ れ て い る 。 .cf.Hattori [1968] p. 92,朴 [1999J,pp.106-107.

1

)

PST p. 511.18-11 . manasaqt cetyadi / caaabdal).samuccayarthaり/ arthaaabdo 'yarp jneyaparyayal). / ragadinarp svarp ragadisvam / svaaabdo 'yam atmavacanal). / arthaa ca ragadisvarp ca, tasya sarpvittir arthar -agadisvasal!lvitti

与/

sarpvedyate jnayate 'nayeti sal!lvitti

与/

sarpvitte

pratyekam abhisambandhal). / savikalpika manasarp pratyak伊m // (rま た,意の……」云々。「また」という語は放列(/集積)を意味する。この (PS 1 6 abの)r対象 (artha)Jという語は〈知られるべきもの>(jneya)の 同義語である。「食等の自己」と云うのは食などにとってのそれ自身である。 この「自己 (sva)Jという語は自分自身を表現している。「対象」と「食など の自己」と〔という並列複合語〕であって,それ(=対象と食などの自己)の 「認識」が「対象と食などの自己認識J(artharagadisvasarpvittil).)である。 「認識J(samvi ttj)とは,認識するための, (すなわち〕知るための手段,と いう意味である。「認、識J(samvittj) (という語〕は (r対象J(artha)という 語と「食などの自己J(ragadisva)という語〕それぞれに結ぴつく。「無分 別」であるそれ(=認識)が意知覚である。) 仰 Hattori [1968]においては,“manasamapi rupadivI!;;ayalambanam avi -kalpakam anubhavakarapravrttarp"は“Themental [perceptionJ which, taking a thing of color, etc., for its object, occurs in the form of immediate experience(anubhava) is also free from conceptual construction." (p.27 11. 17-19)と英訳されている。 側 直 前 の “anubhava吾kara"という複合語の分析で使用された“tad"のこ とであろう。この複合語は所有複合語であると分析されたので,それではその “anubhava.akara"を所有するものは一体何なのか,ということである。 倒 PSTサンスクリット校訂テキストの詳細な注記により,ジネーンドラブッ デイが PS,PSV第一章,特にディグナーガの自説部分を注釈する際に,デー ヴェーンドラフーッデイのPVPを盛んに用いていることが分かる。 (35) この「限定」とは,ある対象が時間的空間的に限定されることをいう。通常 は,対象が存在する時,及ぴ存在する場所において,その対象は把握されねば ならない。この限定がなければ,対象の有無にかかわらずその対象の知が生じ

(20)

ジネーンドラブッディによる怠知覚解釈 るからである。 側 ディグナーガはPS1 5の直後のPSVにおいて,個々に言及される知覚の種 頚は他派を顧慮したものであると述べている。 cf.PSV on PS 1 6ab: evam tavat pancendriyajarp pratyak号ajnanarp nirvikalpam. paramatapek伊rp catravi~e号aI)am, sarve tv avikalpakaeva.;ジネーンドラブッディも,デイ グナーガが意知覚などの感官知以外の知覚を列挙するのは,他派の見解を顧慮 してのことであると説明している。 cf.PST p. 49, l.14 -p. 51, l.7. 間 PSTp. 51

ll.11-12 (38) PST p. 53, 1.14 -p. 54, 1.1 ragadigrahaI)arp

spa持asarpvedanadar~anã-rtham / sarvajnananam atmasal11vedanasyapratyak~atvãt / (r食などJと いう表現は,特に目立つ認識を示すためである。あらゆる知の自己認識は知覚 てあるからである。) ( 39) PST p. 56, 1.5: indriyanapek号atvad iti / rupindriyanirapek号atvad iti bhavah / (r感官に依拠しないから」とは,物質的感官に依拠しないから,と いう趣旨である。) 制的 PVin p.19, 1.3 -p.20, 1.7. 臼1) Cf.片岡 [2007J,片岡 [2009J

キーワード ジネーンドラプッディ,意知覚,意識

参照

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