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『宗教研究』139号

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(1)

――目次――

1,

我国プロテスタントにおける信徒構造の変遷:基督教主義教育を通してみた一試論, 井門富二夫,

Change in the social structure of Japanese Protestantism: tentative study based on Mission School, Fujio

IKADO, pp.1-35.

2,

「切支丹宗門来朝実記」考, 海老沢有道, On “Kirishitan-shūmon Raichō Jikki”, Arimichi EBISAWA,

pp.36-62.

3,

カント宗教論における「宗教」の意義:理性と神の問題をめぐって, 舘熈道, On the meaning of

“Religion” in the philosophy of Kant: Reoson and God, Kid

ō TACHI, pp.63-97.

(2)

関 する研究には、

が 、それを受容れ・

とであった ,ニは、

的 仕置づげを、試み よう とするものであった ,

れ ・ よう が、宗派の

層の存在こそ、重要 税 されるべぎであると思 う 。

めるべ き 現象が 、如

同様に、 或 程度欲求

。後に説くよ う に 、 我国プロテスタントに於ける信徒構造の変 逢

信徒構造の変遷

間宮二天

(3)

ていたものと思わ ロテスタントが 、伝 治 以来、宣教師が常 一 " 一

るから、特に集団と

的 性格﹂等という 概 るが、この両者の関

てある。故に本論の ある。

タント史を取上げ

場は異なれ、特に 、 されているかを示す 文献の分析と共に実体調査の必要も考えられ、 それに よ る歴史的資

括を示すものであり 舌口しておぎたい。︵ 3 ︶ ゑは比較的﹁知識 ︵ 4 ︶

聯 して、我国の近代

0 社会的限界づ け、 11&

(4)

度 信徒数統計表︵千分比︶に ︵ 亮一マ ぬ ぬ ︶ 我国フロテスタ ソト に於ける信徒構造 0 変毯 一 キリスト択の 分布 ( 戦役 ) + 今屯

。 ゐわ 長坂井な ・市人チ 奈隈 ㌔あ 岡ハヵ t ‥ 乙楯 人言舌

仏 ロ占Ⅲ 仮え k 仮 めヰ 介吟を

めて来に。この状態を、海老 ︵ 5 ︶ 会 に教会が多かつた﹂と規定

体 どの様な人々であり、 又

、その現状の一端を呈示し

したかを語る一つの手掛り してみよう。

徒の全国的分布を考えてみ スノ 。 ︵ ニリ ︶

つての有利不利は、土地の

ぅ, 即ち、﹁文化的に未開拓

集散の激しい土地︵漁村, 漁

% 方 ︵奈良・和歌山など︶ 、交

利 である。その逆に、﹁大都

五点、或は切 麦丹 以来の伝統

る, 之は、地理的・物理的

のように、基督教の我国に 於

の 関係等々の、歴史的原因 け 原 的 前 通 港 な 歴 よ Ⅰ - ど せ 沢 に

(5)

に す 化 二 つ る 同 で の 基督者職業調査 ( 昭和 8 年

) C 第二

%

欽慕昔者数割合

査 )々 の の 布 こ

と三

に な調 大部 を・ 内 ヵ l 業

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官吏、

公吏

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、 重 層

教育家

大筆 学食

医療事業

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都ム・ ま 二図 生層 吏

と き に 教 い 更 触 育 ど 陸 海 軍 人

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い 余 な 会社員、 銀行員

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商 て 東 る 派 し が 戦 中 旬 よ よ ぅ の と 行 あ が で が 買 っ

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の で 後 識 の 、 拳 、 あ の 層

道 打 ら 披 対 教 の 緒 ろ 郡 長 さ

に属

教育 る

教勢 強 ・ ね 、 す 会 と 果 。 市 崎 れ 1%

(6)

層 (A ) (B ) と 学 人草・高専卒及び 在学中

24

44

0%

笘 高校・旧制中卒及 び 在学中

5

2

サ 昇 胚

小 学 校 卒 以 上 1

% 18 ス 男 Ⅱ フ 了く

4

あ 手記 ミ @b 職 教

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4% ア,又 ( 吏

2

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信 徒 虫を 構 職

6

3

管 道 一 汗 戴

基 業 余 本土 蓮

医 者

1 0 生 が 農 業

0 0 倍 徒 店 員

0 2 の 大 別 何 業 0 0 部 分 不 10 15

1 0 め 年 16 20

て 21 25 Ⅰ 2 2 ア る

26 30

4

3

差 令

3 Ⅰ

35

36 五 40

5 @c は 、 ・ - 。 1

"""" 50 リ已 Ⅰ

4

1

青 51 歳以上

6

5

三図 ) の 比 較 自勺 多 して、各教会共 第 の 二教会の内容を示 呈示してみよう。即ち、教育程度に於て優れ、 職業的には中産知識 割 近くが、大学・ 高 図 と同様な結果を見 出したにすぎない。

(7)

""" / Ⅰ

校 信徒の多い事実。

に於、て 進歩的である

つて、規準となるも のであり、記憶される必要がある。

の 結果からみて 妥

道 遅滞の原因を 、対

の 検討即ち伝統的な

であった。対象の研

﹂ そ 求められるべぎである。

念 独断等と よ ばれる現象を考察する上に於て 、 社会科学的立場か

いかに利用せられた ︵ 騰 ︶

に 明確化する手段は

る 。この制約は何時

﹁閉鎖性﹂の解明の 前提が呈出されるものと思 う 。

、 後に詳細を記述

である。宣教師の報 122

(8)

プロテスタントは 、

基督教徒分布の記録 すれば、それが、 ぃ は 基督教 再 移入当時

。 う 乙女色みてⅠも 、 プ ロ

される。今日、多く

信徒を申 核 とする 初

日の信徒層の基礎と

々は、明治初期に 於

よ う で全く質を異に

家主義、或は官僚

れて来たものと考え

的と云えぬ妥協的な

的なものでない﹂と

される。﹁批判的﹂

に 、﹁信徒の絶対 少 セ 我国プロテスタ ソト に於ける信徒構造の変 浬

(9)

註 ︵ 1 ︶﹁宗教研究﹂一二三号 大

︵﹁東洋文化﹂十号︶等 参昭

究 の中、森岡清美、工藤英一氏等の労作がある。

を 始めとする高木安夫氏の一通の労作等

頁 ︵ 6 ︶﹁地理と歴史﹂、創刊号 三 0 頁| 二セ 頁

予定 ︵ 軸 ︶ベネデイクト、﹁民族﹂ 一 Ⅰ 父頁

日ト︶の 0 Ⅱ 0 井山の占い コ年 ⅠⅡ ドの Ⅰ げ仁 ・ , ︵い のいい ︶Ⅰ ソ ・いは。

O Ⅱ ぎヲ丹 。由の パ コ目 由でかコ ・:︵卍の。の︶ で ・㍉ め

一 Ⅰハ頁

ント の信徒構造を背

計上の変化は 、たえ

の二大戦争、産業革

の後、大正、昭和の

信徒の特殊性の出現

於て 、 語りたい。

な役割を果した

八 124

(10)

2 質を取上げ、それ

の 交替を問題にする

時代を取上げよう。

ている。︵明治初期

始めとして、 Z を 取

こととする。︶

る 藩閥政府が 、自

故国家としての方向 的に国粋主義となっ て 表れた。

みを意味するもの

な 家族国家では、 急

り 、この優越意識の

意識は 、 後に所謂 島

ョン にまで発展す ︵ 2 ︶

、 絶えざる つ まづ き Ⅰ 3 ︶ となったのである 我国プロテスタントに於ける信徒構造の変遷 九

(11)

ぃ 者、西欧文物に興味を 止まりえたい 者 こそ、 将 強力な中央集権を目指 川 滅亡以来、下級武士と 経過に於て、一方では 尤 なり、他方では、社会 周 などが伝道の端緒を っか 抱 き 、 又 来の信徒 す 新政府 地方ブル 大な浮浪 辺期 をめ むことと それに近 であった は、やっ ヂョヮヂ 士族 層 の くる解体 なった。 つ ぎ得る 。之が 、 ぎばやに 1 に分散 出現と、 農民居、 社会不安

に 庶民的地位に ︵ ア Y ︶ プロテスタント信徒居の藤芳的形態であった。 措置を行って 、徳 ﹂の新秩序確立の 民権運動の地盤と に 、天理教金光教

っ たかは、単に 無関心でありえな

。時の政体

支柱であ っ

、宗教に無

0 戦に、一局 ろ う 。 に 矛盾す たという 関心とな 見の見物 はならない。徳川 一 O 26

徹底的に排除され

形に於て、居留地 伝

えぬ事情であった。

(12)

と、 望の 4 ム 第十 七日 薮師 が政府 はげロとなつ この経営の結 二号,を、基督 我国 ブ戸 の 圧迫政策に従っ た。こうして、 プ 実の形で出現した 教対策として取上 テスタ ソト に於ける て 自然につくり上げた伝道学校 ロテスタントの勢力温存 は、 必 から、これまた当然、都市中心 げた天皇制国家官僚と基督教の 信徒構造の変 娃

令 対立は、ここから始まっている。︶ 27 一一

小規模の公立学校

む 一部を除いて、 没 民権運動と基督教は 政府に対抗し ぅ る地位を占めることが出来た。︵ 5 ︶ 安の量の尤 太 さと、

代 市民倫理の一翼 に 展開することが出来た。

、初期信徒の倫理

ものである。後に両

信徒は、﹁ 旧 社会か ら ほ うり 出された 者 ﹂であった。 は 、斯様な解体 知 の 従事が考えられた 、共生活状態は全く 層 が求めたものが、

(13)

自利の要具に供し

リタニズム﹂とし

となる事に於て

、一

ことである。事実、

艮一

親切に英語を教へ

する﹂︵

7 ︶という当時

よって更に激烈なも

りつく。社会に対す

しろ表面的存在を去

抑えて表面に上っ

倫理は、斯様な現

不満の中に破滅す

ネルギ

一は

大とな

出来るのである。数多く起つたリバイバル

や、

生口への忍耐は

、こ

の点から分析出来る。

Ⅰ 28

(14)

の 強い批判態勢に ,ば

たことと 呉 る点であ ノの 。 一一一一 我国プロテスタ ソト に於ける信徒構造の変 妊

厳格な倫理性が 、宗

の ﹁閉鎖性﹂、 換 舌口

への心理的断層はこ は 、後期信徒の出現をまたねばならない。

全的不満を媒介に

歩 的にして甚だ清澄

るを免れぬ、彼等は

る 。﹂後に説明する

両者の宿命的な類似

る 。片山潜が、﹁ 代 を 志さしめた﹂理由

あるに 違 ひな い ﹂ か ︵Ⅱ リ ︶

リヂェシ スの線上に ︵は︶

修得とそれに伴 う市

(15)

ま ︵ 1 ︶宗教研究 一 三三号一四一頁以下 ︵ 3 ︶ つ げ百の㍉の @ ヂ @ 廷 ・の甘の で ・ N.

統合﹂︵ 上 ・ 下 ︶︵﹁思想﹂一九五四年二月三月︶ 一四

。しかし出世の最

上の学校 は 未だ完備

ぶもの﹂ , ︵ 1 4 ︶ として 賑わ ﹁東京大学、工部大学の生徒を始めとして、

中学校令による た 事実が、初期信徒

立 学校におかれたか

した洋学生が多い。

が 、学生の大方が寄 の 情熱が信仰となる を致したるは二 股の 師 、牧師の任ずる所と ︵Ⅱ︶ の 予見と、初期信徒の積極性に対する讃美とが 含まれていると思 う 。 Ⅰ 3O

(16)

一五 我国プロテスタントに於ける信徒構造の変転 Ⅰ

問 、執狂的なリバイ 政 い ま

︵ 巧 ︶﹁六合雑誌﹂ 簗 二三号 W. 治 十五年五月

年 が、 彼の信仰には少なからず敬意を払っていたので、 丈二 一 Ⅰハ頁

四十八号明治二十六年四月︶ 3

時代の終焉から 始

再編成されてゆく、その伝聞起点でもあった。 基底を国権論に置

た 。欧化時代には

底の浅いものであ ︵ 6 ︶安部磯 雄 ﹁社会主義者になるまで﹂一頁

造 隼 或は大隈重信等の要人を考えてみよう。

︵は︶片山潜﹁自伝﹂六八 |七 0 頁 、七七頁

民 族学 研究﹂一七巻二号︶ ︵Ⅱ︶・相沢 煕 ﹁日本教育百年史談﹂ 一 0 八頁以降 明治十七年中学食が施行され、つづいて森有 礼が丈

たという。 れてくる。 二巻 二 0 四頁、井深梶之助の同額 ︵ m ︶﹁万朝報﹂一八九 セ年 四月二十目

︵Ⅱ︶ コ 小崎全集﹂第六巻三三四 | 五頁 はこの為である。

(17)

一 %/

人の退学をみる

︵ⅠⅠ ノ

に確実な伝道

基督教、即ち

西

ではなく、むし

︵ⅡⅠ︶

為 だけの第二義

から出て高度化

途上にある貸本

︵ 5 ノ

化の政治的配慮として表われるものであれば、

この﹁上からの

た 。この対立の

令 第十二号に至

る 激 近 王 す 的 官 に 荒 神 文 の こ 措

北伐

萎 る な 吏 よ に は 情 完 と ろ 欧 層 に 、 文 が 至 132

(18)

授 厨 ア 於

キ目

する 信 宏 佳 生

義郎

%

よ る も の で あ つ ナ, Ⅰ し か し 基 督 教 主 義 学 一 校 七 の よ う ケ ア し 官 立 校 の 増

@ /

タクタク ︵ 8 ︶

された停滞は、勿論、第一に斯様な

ルノ義務 昌 昔カサル

とならない。これは

主義であった。宣教 ハ 6 ︶

放言した﹂と報告して

如 ぎものであった。

で 行われた基督教

英語教授﹂の租界的

のが少なかったので、当然﹁洋学 年

った ,まず学生は、﹁教育設備が スノ ることになった﹂官立校に 憧慢し ︵ 7 ︶

因 ﹂となり、それにもました打撃

給 如 去ま

妥協や防備から、 替 教主義学校にみられる衰退は 、そ

(19)

堵ん 冶旦 屯田 巳 士 -P イ ぅ忽

日 ⅠⅠ " から﹁ 生 同時に、

産 ま 業 れ

の ら 展 し 開 い と 層 一 そ で れ あ は っ 伴 て

@

所 期 "" 。 。 。 / オ クレク /h レ o00 / 化吻 パ ・ d 。 @ 。 ル沖 。

耳サ

巧打 ガ乃 地主 俺 33 坪Ⅰ ダソ h ガ

朋が仰け佗が

千件 治前 謂俸 て 第五図 ) 一八

この強い逆潮の中

を 維持してぎた情勢

詰 り とみた方か 適 ︵ 9 ︶

二十年を境にして、

く 終っている。文そ

業 革命により 組替

教正義学校の衰退と

にものと考えること

に 、欧化時代 迄に獲

ることが出来よう。

かった事実の裏

曜 学校生徒の大塔 勢 を 呈示してみよう。 校 のみならず、 公 ︵ 騰 ︶

をみたが、この 出

政府政策の安定化

るこの急激な増勢は 、

自己の子供に﹁教育﹂ 1 錠

(20)

我国フロテスタ ソト に於ける信徒構造の変 受 一しⅠ ノ

てあらわれるが、 Z つ す @"- 笘 "'""" @@ 牙フ 甘 Ⅰ @ ト @-- - し ち マ " め よ 明 治 末期に至ればこの 推 ヰ 百冊 八 は 更 百拝 五 亡 , :, 『 "" てよ

百 Ⅱ 皿 拠 , な 見 出, 1 である。しかしこの 当蒔 ﹂にあって 丁 以 て 、それは単なる制度の充実に終らず、 生徒の具体・的な著増とな 学 今在竜の梵学歩合 俺弟 ( セ

Ⅰ " 日 に 藝ョ / ) Ⅰ りゥト

9,

ト ・ 与 0

校後

の の 発公

連立

0% ヌ Ⅰ ヱ / J ク ⅠⅠ J 仏子 中 ( 中 学 校 ) 学 ( 女 学 校 ) 年捷

学校数教員数生徒数学校数教員数生徒数

1 | 1 14 168

1 |

1 268 I

| 285 I

| |

l

44

1

312

1

6,051 1

(21)

が 、政府 め 無 常幼稚園が、 少くとも、 現 余塵が、幼児 の報告による 員で、。 ヨこ 先生 伝 には、 ﹁信者の子 つては此の比

教会 経

れる。

、その

宣教師

國は満 ︵ 珪 ︶

ぅ 。この傾向はこの後にもつづいて、例えば、 ブゼル

校 にあ

の 盛況 日曜学校増加率

明治

14

(1

1)

25

" 校 一 一

""""

8%

人 一 ク 21 年 (1 ㏄

8) 272 12,559 ク 23 年

(1896)--""

一 514 一 24.115. , l ク 29 年 (1896) 3 1 3 1 1 l

( 第八図 ) ら に ち 層 の ( 停 タ は れ 於 日 へ 膨 第 滞 ン 教 が て 曜 の 脹 八 ト 員 ち は 学 浸 の 図 表 の 志、 論証される。之はプロテス 正義学校等の表面的実勢の 驚異 恥 か勝 宙か恭レ ひいか ば減少を来したものと考え では、欧化時代の啓蒙がこ 前には、邪教観念の庶民

Ⅱ いなかった。 又 、二十年代 という面にもよるであろ ,フ 二 O

(22)

これまでの信徒にあっては﹁洋学﹂を 媒介とする成人の入信がその殆どを占め ていた。ところが以上の報告 や、 或は か 一 ミスの報告︵第九図︶1 ,, ︶よれよ、︵ t t 4 ︶ 表面 的 我勢の衰退とは逆に、日清戦争前後に は 、むしろ幼児洗礼、幼児教育に於て 潜 往信徒の増加を見出すのである。我々は ここに新しい信徒層の胎動を見逃すこと が 出来ない。之は初期に於ては見られな かつた現象であり、明らかに、信徒 層の 交替を考えたければならない。即ち今後 の ミッション・スクールの生徒居、或は 青年会の人々 、 がどの様な種類の者で構成 されるか、 又 どの様な心理の下に基督教 が 信奉されるかは、初期とは 臭 った目で 一一一 我国フロテスタ ソト に於ける信徒構造の変 薫 Ⅰ 8 ㏄ 年と

1896

年 ( 反動期 ) に於けるプロテスクント 勢 力 め 比較

l

| ー め ノ

-""""""

B, 教師 ""

1 l 1 洗礼を ぅ けた 者

4,431

2.513

],918

初見洗礼者

468

人 Ⅰ

.068

6 ㏄

男子学校 ( 寄宿学校 フ

18

東交 20

l

同 学 生 致 l

6

Ⅰ・Ⅰ Ⅰ Ⅰ・ よ 5 女子学 按 ( 寄宿学校

)

43

日 雇 学

556

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同生徒数

@4,115

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30

624

6,509

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神 学 2I 佼

同生徒

350

223

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取扱 " 患 ・者数

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152

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一 ( 第 九 図 ) を 呈し居るを ば 、 年川坊秘干 夫の るので八時四 もあれ 殺 倒す

(23)

一一一一

この

ぎは、教会に於て早くから感知せられ、

幼児教育と、夏期

れば一応成功であっ

であろう。即ち

、之

える様な教

著増を

意味で時

全体にわ

の頃、維新の元勲

立か

、最早時代と共

かろうか。

報告している。

、政府の宗教政

十二号が施行され、

よる基督教伝道の浸

支持︶対策の終焉で

ければならない。

にくらべて優先した

138

(24)

色様 士 「 掲 技 極官 歪毒 国 ク め 久国 て は 師一

践将範五

テ ク 重校 孝丸 なを 校 l タ 一 る 似、 の 一 ソ 亡親, て 寄人 ト

囚俘合宿

0 に l 女監 舎頁 於

五清と

を け

頁をな

一 信 徒 構 造

た 現化 変 浬

し、

大士 睦 二 と 軍 頁 何不

異ぁ徒ど

プロテスタント 信徒増加数 Ⅰ 人 6 1

年年年

年年年

ヂ台

Ⅰ 明

代 ㏄ 時 2 ヒ 午 ) 18 年 19 代 年 ( ︵ 3 ︶相沢 煕 前 屈、 る、 のヰ才し Ⅴ 展 、 漸 、 開 、 増、 でヰはⅩ あ

" る 、 @ 、

㌔、 信、 徒、 反 、、、 て 後期︵ 弟 五 " 図、 )

み、 ら、 マ ⅩⅩⅠⅠ マ るもの イ Ⅰあつ 木 Ⅰ。 急激な増加は、むしろそ の不安定さを示すもので ある。この増加 挙を 、後 期の漸進的な増加と比較 、Ⅹ マ ⅩⅩ してみよう - 上図はある 、ⅩⅤ、 ト Ⅹ、マママⅠ い みでの潜在信徒の鮪 在 化であり、その限りに 終

一は共と

-

欧化、急

会た

六七つ

会頁 さ れ 八 l て

い、

が 九

︵ 5 ︶﹁平野義太郎論文集﹂第一巻 三 0 四頁 ︵ 6 ︶﹁ フ エリス和英女学校 史 ﹂九七頁 ︵ 7 ︶安部、前掲吾一 0 八| 一一一頁 げ山 ﹁自伝﹂ 一 0 八|一 0 九頁

会 もこれに似た状況を示していた。

照 ︵ 膿 ︶相沢、前掲青二一 0 、二一九、二二一頁 ︵ 皿 ︶内田魯庵﹁バクダソ﹂︵クリスマス︶ よ り ﹁植村正久とその時代﹂三巻三六九頁以下 ︵は︶ 、、のゴ 由の侍 ず コ ミ 0 せ 0 ロ ト の コ由 :つの 0 ㏄︶ づ ・㏄の 収 ︵ B ︶栗原基、﹁ / ゼル先生辰﹂二六三頁以下

コの ぃコ Ⅰ 笘づ p コ :︵ ト ㏄の㏄︶Ⅰ・㏄ 印 ㏄

者 には勝海舟、 彊沢楡 首導が考えられる。 ︵ M ︶㌧ げ括已 , レ @ ぎ日 ・ やの の1 0

︵ 穏

し えたいのである,

(25)

二四 4

らかとなって来る。従来の中産 層 にあっては、 教育界、宗教界、

治者の広い層を形成

が 、片山潜が、﹁ 耶

て日 我輩の教会には

0 番頭や商店及び 諸 ︵ りこ ︶

変遷が画かれている。

ると、今迄 行 詰 っ を 戦線から締め出す

の 開催等々 、 様々な

な 伝道層の胚胎を物 語っている。

正による内外雑居

され、基督教主義学

る 政府のゼスチュア

しているよ う に考え

指摘する よう に 、彼

る 。しかもその語学 1 め

(26)

が 特権階級たるの恩典に浴し﹂ている ょ の 伝道分野にも広まり、﹁教会は学生が多 月報を出そ ﹂︵ 8 う ︶という成行になっていつた ば 基督教Ⅱ西欧的教養︵洋学の後身︶ と考 識 としての プ ロテスタンテイズム﹂の拡大 えに、﹁・帝大や専門学校を卒業すれば、他地 我国フロテスタ ソト に於ける信徒構造の変転 う にみえたのは当然で - く 、卒業して出て行 っ 。熱烈な信徒として 生 えられがちで、卒業後 こそあれ、決して信仰 方 へ出て行く者が多い 二五 の の の 涯 た あ

正義学校に於ては、 + よⅠ ア ﹂

へし

宙 Ⅱの 0% 白の曲 串 0 コに 反 の形式こそ歴然たる

産 階級の子弟にお き ︵ 5 ︶ 点は 、学生数の多い

教 青年会三十年史を

が 判明する。 であった , ⋮⋮ 思

政府の教育官営統一

論 賢明であったと 言

に 勃々たる不満を抱 ︵Ⅰ 1 ︶ かざるを得なかった , ﹂

(27)

一一山、 ノ を 有している,之を げで、地盤の拡大は ている理由を、同時 めて集ったよ う であ があった﹂などと 喧 。まことに壮観 と云 ︵Ⅱ︶ つ * に トよ う市 しあ 二り 。 士且 % 果の大きいかわり のメ ムバ l は大学の の 大学のようなもの ︵ⅡⅡ︶ かあり行なかった。 あった。日露戦争 くの青年信徒を送り が 社会に認められた カ るものに、日露戦争 拡大化するに つ れ 、 の 特徴であった団体 142

(28)

暖昧 化し、一方彼等 的な家の 力 は弱まっ たが、逆に社会的圧力が壁になって来た。 生の全数は約二万 ︵ れ Ⅱ︶ 0 。この 強 勢をみれ

の 三千人の卒業後の

ぅ 。しかしまず我々 業 家の高率が目につ 二七 我国プロテスタントに於ける信徒構造の変 悪 134 たが、彼等の批判を 大ではなかつた。とこ タ生縛和牛

キヤ 施 ァ ⅠⅡ "@ """-. ス "

ⅠⅠⅠⅠⅠ 仔 メナⅠ 5 Ⅰ ァ / ダ ノブ 召 Ⅰ イは *S 仔紹 昔 者 初 む 文 俊 」 」 期 つ 官 存 と の に づ 丈 す し 増 く け 校 る て 九ロ 元 ら る に こ の で) べ わ 展 と 独 あ て げ 開 の 立 る は で し 多 @ ニニ Ⅹ ろ は て か を 初 か な か っ

督教

て、

徒は くな た 青年 た 社 つ む 会 主 。 会 た し の 義 破 局 と ろ 宿 学

等辺

も 、 桂 枝 に 期 老 信 が の

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弘 。 捧 ま 日 道 「 研 げ 金 曜 0 % 言胃 る 吉日 学 括 り 、 者 が 校 摘 出 「 の 全 の す

さ 学 卒

郁生

生活の衰退を意味してもいる, ︵第十図︶ 的な初期信徒に較べて親に ノ

(29)

述 した基督教主義学校内の学 道に 志望する者の率はこれよ に 、この悲劇を見出すのである 製 資本主義に毒された俸給主 開放五十年大会の席上であれ この様な絶対少数の自意識と 示教と教育の衝突以降の、基督 生の質の変化が思い出されなければ ︵ 勿 ︶ りも余程 多 かつたよ う に思はれる。 基 。彼等の展開は、ホルトムの云 う よ う 治者の出世主義が、彼等の批判に限界 程 さわがれた問題、即ち卒業して職を 、環境の出世主義 によ る所が多大であ 者の少数意識で以て始めている。そこ か

-

調法

・ 明

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あ 学

払 仮枕

戸 J Ⅰ / ク / ひ ( 第十一図 ) 彗

コ幸恵

は嚢莫

再調苦く。

摘 伝 ム 参

加の

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るさ

彼は教しす

く督

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の云を学でを

進校学

l

ナる教

話 " 目 ・ Ⅰ 44

(30)

、政府政策の高度化

かったよ う に思われ

る 程度、指導者であ せたとみるべぎである。

、結局彼らの信仰

の 立場を弁護しょう

くなったとみられる,

以てしても人心の

様な プ ロテスクン ト

の 敵は、最早 力 の 弱

督 教への嫌悪は 、政

の絶対少数意識が 、

君 と共に階級闘争の

への﹁天国真理の反

る 程度、当時の労働

ンに 於てすら前記の

的 放縦は、中産知識

於ては、常に秩序 と 道徳的内省が重要視されていた。 二九 我国プロテスタントに於ける信徒構造の変 幸

(31)

と 庶民の関係に適用

ロ になったと考えられ

とは自ら異 る 所があ

消極的な反抗、即ち

る 手切に急であった の プロテスタントの

ることにより、その 緊張傾向は理解出来るのではなからりか。

なり、内村鑑三に

なるのである

形で自給化を急が

体 となって存在して から、むしろ ざお 識層 に敏感に受取ら 対して独立するとい フ アウストによれば・ 三 ① 14

意識して展開して

,ン報 昔の重要部門

強い愛国王 義 がこの

(32)

我国フロテスタントに於ける信徒構造の変遷

+ 図

駒 七ゴ 力年 彼等の信徒層を拡大させると共に、彼等の

会 に置ける絶対少数的立場をぬ き

-

さしならぬ まで高めていつたとみるべ 占 。であろう,この ダ数を意識するが故の優越感と劣等感の緊張 彼等の﹁閉鎖 陸 ﹂の根底を為すものであ 結論的にい うと 、明治後期は降の信徒 層に は 、次第に俸給生活者を中心とする勢力がっ

一一一一

よ 於 る 操 絶 も 般 く て 。 作 苅 の 社

逃れられるわけで 史的弾力を失って い よって内村は、﹁ 福

の 病根に鋭いメスを ︵ 托 ︶

ている。この論旨の

るが、予言者として

憧れながら 反 近代 主

を 考えることが出来 教会 六 ・一に安定して 再臨運動に走り、 思 資本主義の高度化 は

(33)

珪 ︵ 1 ︶ 隅谷 、前掲専一一三頁、参照 ︵ 2 ︶片山潜、﹁自伝﹂ 三 一八頁

頁 の 諸統計参照 ︵ 4 ︶﹁明治学院五十年史﹂三五 セ頁

之候ヒ ﹂

ぃピ ︵明治三十九年本科卒業人 肉 其代 池 ︶ 漣 三 0 九頁以降

とを、改めてお断り しておぎた い 。 。この研究のすす

一一一一一

いる,紙数と資料の

︵第十二図︶に

指導者の死没がみ

148

(34)

我国プロテスタ ソト に於ける信徒構造の変 痩 、 @ 十 @ Ⅰ「 じ 名 、 某 、 内 、 頃 、 前 外トま、 を是 が、 で " 久 挿 、 珪 、 内 学 、 徒 , 英 珪 Ⅹの "f 七 で、 総 Ⅰ 氏 あ 、 妾賂の つ、 は、 言 た、 百 Ⅰ ミ青写 の 、 名、 に

漸、

く、

十、

通 、 名、 学 、 位 、 珪 " が " の Ⅰ @ 菩 ft 数 、 宿、 倍 、 生、 加、 ニ、

ても明らかである。

︵ 8 ︶﹁本郷教会創立五十年﹂九二頁 ︵ Ⅰ︶ ハ ク 一一六頁 ︵ 騰 ︶ ク 一一七頁、一六五頁

︶ コ

Ⅱの神す 0 円 田 すい臣 で由 コ % つ牢 s., 勺 申し㏄ 持 一寸 ヴ Ⅰ ら ・Ⅰ・㏄Ⅱ

︶ で

Ⅰ・の㎏㏄ ︵ 田 ︶﹁明治学院五十年 杷 ﹂四五 0 頁 。

昇天践を経過した後には、 ブユ リス女学校では、 ﹁現在生 律 府県別

寄宿生は消滅してしま ふ 。 ︵ M ︶﹁ 開教 五十年記念講演 集 ﹂六五頁

一一一一一一

(35)

ふ 方がよいと思います﹂

の 数字がむしろ当てにならないことを述べている。 ︵ 耳 ︶㌧ ず ︵ er の ,ぎぎ 一 つ ・︶ か荘

諭 している。 ︵㎎︶Ⅱ 笘 E の ︵・ 日ぎ , Q. ㏄の

言葉によって人体明瞭である。 ︵ 勿 ︶ホルトム﹁前掲 善 ﹂一一 0 頁 。

と マッチする所が多いので、引用しておぎた

三四

使の如くみられた﹂︵一一一 | 一一二頁︶ % ︶﹁新紀元﹂十二号三九年十月十日 末 ・下向 江 、﹁旧友諸君に告ぐ﹂ % ︶﹁ 英理 ﹂第一年十二月号 幼 ︶吊り 由岸の Ⅰ ぃぎ呂,せ ・ お ・ づ ・のの 幻 ︶内村老・三香菓十三巻感想 % ︶末永三郎﹁日本近代思想史研究﹂ ﹁ 反 近代主義の歴史的 笹末 ﹂二五一頁

(36)

我国フロテスタ ソト に於ける信徒構造の変 轟 三五

以下︶に研究されている。

調の基礎が固められるものと思ふ。 ︵ 鴇 ︶ 註 十五参照

(37)

あるまい。︵ ヱ ︶しかし 現われた切麦 丹観が の 切麦 丹 迫害、特に 道心を起したものの える。 ゑ想 統制と、鎖国 時代を生み出した 反 の 徴が現われ初めて て、 仁政行はれ困窮

海老澤有道

﹁切麦

宗門

来朝実記﹂

Ⅰ 52

(38)

止ま

弘めよといふ

あたはじ。

批判し、

嘆ずる仏僧の腐敗堕落、また同集義和書

ヒに

びんか

努力を傾けた

C カ

耶蘇の変

艇冊

行く。

ていたが、元和

でに実施されっ

︵ り十

観念によって

、戦

あった。

する動ぎが現われ

キリシタン教訓

吉利支持

ヒ耗整転旺

,吉利

凡退治

﹁切麦

宗門来朝実記﹂

三セ

そ が て 功 に あ 武 と と と

(39)

入 り 3 年 神 に つ よ 女

通して荷 う という

たりする有様とな ていた。

つあり、その改革

と 、幕府創業の精

保五 ︵ 一セ二 0 ︶ とはい う までもな

洋学への傾斜は町

制約精神の興起、 ︵ 4 ︶

全書ともい う べ き 寺島良安 編 ﹁ 倭漢 三才図絵 目 正徳二年一七一二判 の 如 ぎ

知識が急速に失 、貞享

︵一六八五︶ 善哉 有 Z 分

瑚免百籍

制禁

訳書

アイ㌧・

0

セゆ

ココロ

, い曲︵・

イラ などの国名地名 三八 15

に 訴えるには余りに

社会への奉仕的意図 すべぎであった。

(40)

︵ 7/

リシタン知識の再興

﹁政談 ヒ 酩に

タラバ、吉利 支

味 サセ産立毛北山 感ぜられるのである。

の 流入・洋学への

政の弛緩の打開策と

ことが効果的となつ

つて徳川の治政に対 幕政の意義を広く認めしめるべぎであった。

読まれ、理解せら

ぬ し、教理的にも 一

スリル感のあ , 0 もの

を 得て、民衆のキリ

キリシクン稗史 類 ・ 排耶 俗説書が成立するのである。

書 が著名である。

的なものであり、 か ﹁切麦 丹 宗門来朝実記﹂ 考 三九

(41)

口 O

が 現存しているが、 れる。が、後者が明

物 、鵜飼 徹 定の印刻

﹂の他にも抄出されて

ぅ 。本書異本とし れら諸異本そしてそ

つて、本書の書誌的

るかも決定すること

者も殆 んどのものが

れていることなどか とが認められる。

・幕末における 排

0 本書が、書名に 謂

の 触れた所及び チ| ︵ 9 ︶

があるが、註する 関 ゲ篤 ︶

六七︶ 年 西田仁兵衛 写本による。 156

(42)

註 学 統マ

@

)日下)

幸 "

何席古文博

照の宍の本

発 大事 利

展学 清孝

と と に 発 南 ヒ つ展

蛮 ュ い の 十あ 年必 らいし。 窪 似、 存 す さ

宗 し た マ の て

門 、 よ

考然

た土

月、

る 義 不 を 平 底 の 民 矛 に 先 , 悟 な ら そ せ ら / ヮ の て ナ二 う ぬ と , @ - し 寸 ヌ っ @ り 円 ll @ 諸 伏 談 の 節 夫 の 政 御 を ぬ、 指 節 摘 , 已 、 し ャま 、 切

四ず弛

ま支

一 信 邪 長 宗 の 門 亜 ,じ、 と

対外

政と し 白勺 て 危 の 険 初 め

ノ 一一︶参照。

が l

ドの ・ ︵ ざコ ざくイヌ 0 ヴ 0 ︶の㏄ ト

(43)

元亀 二 ︵一五 ゼ 大王評定の語に 之 物を舶に 潰 、日本へ渡す 貿易を独占して 慶長十四︶ 年か 略 出来ぬと初亥 う にこの種の書 ぎっても常に論 スパニ ア の南蛮 国 ぜ の 円 ら い が ら 核 宗 の た ︵ 90 ︶

時からキリシタン∼ 示 ︵ 2 ノ 宗門来朝としたわ け

力 により工事中の二 ︵ⅠⅠ︶

几 ︵大棟二年︶ 末、 四二 支丹 宗門来朝に筆を起す ,

六二深く 、 外には神

法を此土に良人、切

也 。

年 一月、滞在十一

(44)

の 労力を有しなかつ

の 東亜貿易における ⅠⅠ 父 ︶

右 の﹁・真教の本意 井

掲 けるにとどめる。

理解出来なかった 根 本師原因があると考える。

天運が選ばれる。

事の奇術を得たる 故

﹂とく 也 。

語 が続く。破天連に尤もらしい説明があるが、 むしろ一般には 伴天

流 発音に従えば パァ

十二月︶入洛した イ ︵ く 0 ︶

徒の邦文書簡の宛名 ︵ ムリ ︶

親しまれ、正しくそ

られるが通常当時日

は 用いているから、

般 にはイルマンを用

長 にも謁見した プ ロ ﹁切麦 丹 宗門来朝実記﹂ 考 四三

(45)

口四 ︵ 7 ︶

︶ 年 十二月京都地区

コ として記され、 同 ︵ 8 ︶

た イエズス会日本 修

のような聞 き 憤れぬ

に 常のことであり、

ハ 通音から作られた人名とすべぎであろう。 貿易贈答品の名が 挙げられ、最後に

四拾二グ 国を表したり

し 、聖母マリアの ロ

・キリシタン ヒ はじめロスピリツアル修行 L 軒

﹁歌舞伎草紙﹂に

そうしたことから コ

り 、 漸 肥前の国長崎

早くてそのくらいの年月を要したのであるが、 長崎開港は一五七一

てはやや近いと云え ノ O

の Ⅱの・ ヒ皓 Ⅰ軋の︶のめの・の・︶の 160

(46)

I6 口五 ﹁切麦 丹 宗門来朝実記﹂ 考

出し 窃 中にて 謂取 、直 ク に安土へつれ行ける。 て つ を 賜り安土の城に居 住し拾ふ

来居城は岐阜であ

安土城は未だ姿を現わしてはいない。 京都 へ呼 愛す へき よ る 。信長公尤の事 、 然らは 擾 照会御里といハ碑 り ふて御家人を可 造と

け 氏の支配を受け L た脹哺 。

2

︶﹁室町家御内書案﹂︵﹁改訂

群集魚ヒ所収︶。

01

一一頁。

アルメイ

かとされるが、本稿三八頁参照。

めの

Ⅱ 0

Ⅱ口ト切

り ㏄

用ゆ

@

∼・ 0

0 で・

0 ド

・の・㏄㏄

1,

㏄ ゆ

0 下ヲが

︶ 包

㍉の

,づ

・のの

日 鎖国史詩

二三頁、三五頁以下。

い の

︵ 9

弓弓

0 ガ

・の・

肚 ㎏も

かめ

・の

0 Ⅰ

く 11.

の 0

︵ 托

︶Ⅱ

ヴミ

か り・

肚 0

(47)

オルガンティノの入洛は前記のように一五 ︵ ヰ Ⅰ︶ 漸くの思いで入洛したものであった。しかし しろ次の事を伝えたものと思われる。新村 博 め がコ % 。せり = 幅 コ ミ らの安土訪問を伝えたもの 城 に参上、再び歓待され、諸大名はもちろん する よう に寺を賜った話その他からも後者と 靱 異国人江州安土に着ければ、信長仰に 先 休息 手首 岸 常人とは替り長元足金、頭ちいさく 髪 髭は鼠のいろ、年は五十年 と見 へたり。身に に 合せ風俗塵 ぎ体 、馬 璃 のや ぅ 戒香道を頭にか 異国人を始めて見た日本人の印象を語り得 書かれた頃の読者の好奇心をこの条はそそり すれば彼 は 極めて丈の高い人で、人々が驚い 一五八 0 ︵天正八︶年には安土にすでに ゼズ 十宗論蜂の後のことでもあり妙法寺接待は ハ 7 ︶ されるわけである。なお﹁あ いと ﹂は アビト 服 である。 四六 のため堺に滞留したのち 0 この伴天連謁見は 、む 私は伴天連の正式訪問 昌ァ ー ノつ げ・㌧ , b この 一 え たものと考える。後述 見る方が一致点が多いようである。 九月六日信長へ目見へす。 く、 爪は熊のことく長門 く u みぢ かく細長く 、左 りま へ け 、懐中にも香袋を入、 薫 Ⅰ じ 口中渡りけり。 ら 信じていた口実記し め うが、 ヴ アリニ ァ ー ノと もないことになる。ただ のではないし、かの 安 らの年次錯誤だけは解決 のみか裾も長い黒い法 162

(48)

163

徒 - 杢には大儒文教

よ う に文教 院 曲直瀬 ︵ⅠⅠ︶

八 で、のち一五八四 ︵ 2 ︶

とすれば、その改宗

しろ信長の前で プロ

ム リ ム 仙人に七 % 論に トよ れノ ロ目

ることが出来よう。

たとフ ロイスは記している。︵ 3 ︶

しまず七堂がらんを 建立ある。 則 、時の年号をⅠ以て U 永條寺と号す,

るが、建立は一五

る ・布教正許の時のこ

古屋を購入したもの ﹁切麦 丹 宗門来朝実記﹂ 考 四セ ︵ 5 ︶の 笘 Ⅱ 田叶の Ⅰ H, 丘 ・ 靭ヰ 註 ︵ 1 ︶の pq ︵笘の M. 用・ ひ om せ l. び on

のの ︵ 2 ︶新村出陣土蕃㍉南蛮 広記旺 六八、七 0 頁 。 ⅠⅠ・ 侍ド ・ め,ト ︵ 3 ︶ 巾 Ⅱ 0 卸 ・ 0 づ ・ 住 ︵・の・ ト ㏄ 肛 1. 目めⅡ

円ぺ円

拐や・荘印 ︶・など外国史料にも伝えられている。 ︵︶の べ ㏄ 1 ︶ののめ︶・ ド宙仁ざ ︶ ゅひゅ ・ロロ・ め丹め|め卜ひ

(49)

註 ︵Ⅰ︶可のの マ の・の日ロ︵ ゴ ・ づ ・︶ q. コ ・ Ao

報 のの r ︵笘の H ︵・ 由 ・田切目 1. ト 切の

れそうな有様 ︵ 5 ︶

とも云えよ う

ものであろう り 安土に土地を与えられたことは

谷川竹両三 れ 田を填させ、伴天連に神屋敷 被下

特筆するとこ

とすることな

智光 と 一同し

ぎさ けんで 訴

ヴィレ ラ の ︵Ⅰ 1 ︶

ものでもあろ

ぇ るはずもない

れた作為であろ ︵ 8 り の 跡を思わせるとされている。

毯 ゆ支丹 史話 L 一二九 | 一五 0 頁 参照。

史 四八 ︵ 4 ︶

" ての

く、む

行にょ

ら せら ︵ @0 ︶ ろである。

王位を

紫辰殿 ける。

伴天連

でに 焼

ゅ 政に

の 模倣 164

(50)

考 ﹂ のの的 仁 二色 捨 ・口口・︶寸寸 1. ト Ⅰ ゆ

︵ 8 ︶姉崎博士前 拐蓋 八一六頁。 。南蛮より出家を呼 て 五百頁の地を寄進す。

に 見えるだけで、 史 しろ逆になる訳であ

ぅ して読者に繰返し

て すといふ。 此 両人を 相添 、三人一所に目木へ渡しけり。

スは 新村博士が早

者を グレ 。 コ リョ・ デ

医師ではない。 セス

に 京都布教の中心火

フロイスとし、 リイ

は 正しく当時にお け

上ったのはフロイス

より遠く関東にも 伝 ﹁切麦 丹 宗門来朝実記﹂ 考 口元

(51)

記されたことは 注 日功ロ凹と丁してぱ仏かハ ン で

ン ・ロレンソに宛て ︵ 5 ︶

ね 。

の 内にて相応の地を

することからも、

どとあるのはここか

められるまま投薬し

作為せられたもので はあるまい。 の ・ め靱 ㍉ ま ︵ 1 ︶新村博モ前掲 書セ 0 頁 。

﹁ - Ⅹ ︵ 4 ︶の口耳曲 り 5 曲・㏄ 9 め仁一ⅠⅠ 0 が, 0 口 ・ 由 n. の・ 肌 ㏄ 参照。 ︵ 5 ︶㌧がの ガ 0. の 日ツす ・Ⅰ・ め ︶・ ロ ・ ひい

︵ 6 ︶ 馬 Ⅱ。田の , 0 づ ・ 0 ざ ・の・肚ののー。 ト のの

0 人身心にも 姦 する

ゑ 物の為に京都へ登る移入政事 也 。 五 O 66 , ︵ 4 ︶

ケ スミスは ゲリゴ

(52)

いた時代の姿であ っ

十六年六三九刑 永 が 、 排 耶の目的を忘れたかのように、

よくをかま へ 。

ね 云々

を 嘆 き、

く やむ 事おムし 。

ていたのであるが、

り 、その精神の理解

% し得ぬ八枚にと っ ハ 丹 4 ︶

文,は 省いて - しまうた

、征服手段に結び付けようとしながらもなお、 キリシタンの慈恵・ 五一 ﹁切麦 丹 宗門来朝実記﹂ 考

こに描写せられた

年間には京都に数 箇

っ たに違いない。 教 ︵ 0 イ︶

人 が神寄せたことが報ぜられてい,・ 0 。

難治難病の世を渡り

十 の 物 か八九 ツは本 巾 イハ u

今 甘は錦を身にまと ひ、 恩を感ずる ハ 数をしらず。

(53)

て 唱えられたもの 、 転びイルマン・ 0 い 0 ぺ 0 守の定めた もちろん一般信徒も 実義巳 司崎 八十 篇ヒ 羅尼を 唱え、潜水 修 専を拝ましめている ことは本書の宗教的影響として注目される。 この﹁ セ 日の勤行﹂ののち

ある。次の

々 こ |

し 。然らば

へは、皆々 ごとく セ 目引 統 り勤をなす。 ﹁三世の 罪滅す へ 偉 、 教乃 しだことを物語っている。 続 / 、説教も征服説の伏線として掲げられるが、 永劫 ぅ かむ事なし。 これ耶蘇尊を敬さる故 地 。 五二 168

(54)

けている問題に対し ﹁切麦 丹 宗門来朝実記﹂ 考 69 五三 、未来は此 仏の力 に よりて助かる事異なし 記の描いた天帝の替 幅 対に結合させ得 よ

代の 、殉教覚悟の教化を伝える語も 、 Ⅰ 候閉 、 其儀承 知に候ハ 、 可申明埜 脚 丈

る ︶ 。 ざらに修行として ぅ へたるものを右の 甚痛口みロ 血流れ出る。

目ぉぢ

% 苦業 帯 般 信徒も熱心。︶ こ t き : , 石 引用に続いて まて 皆 耶蘇の建互に 悪人 成 とも耶蘇を敬 石 となる。

(55)

170

照 。

︵ 2 ︶の 笘 Ⅱ 田笘の H, h. ㏄㏄の く

照 。

管区長宛書簡の ar ︵おゲ ダまぺ 社会活動 及 南蛮医学 L 参照。

れる。

人の為に難行苦行し

とて拝せ け り。 此委 は 美々しぎ 女 、帝王の冠をいたた き 結構成衣裳に 而、

は、 是は此宗門の口

るところて、 排 邪説 五四

イゾ ・ ゼラ ルさ ュぃ 。 晋三と悪心以下に続

当代人に容易に理解

ていることは注目す るに足りよう。

密を守る誓約をな︵ 5 ︶ し 入信する行法に影響したものと認められる。

(56)

71 ﹁切麦 丹 宗門来朝実記﹂ 考 五五

の 不便 千 海難のため Ⅰ 2 ︶

生糸貿易に廻転して が ︵伝道モ︶を称したのである。 人 是も泉州墨付百姓 室 @ 善 五郎 と 走者

∼ヨば 0 であ ヮ 0 が 、

病を 息 い 、身代 限

もない。そして 既

食を与える話が出

より大王へ仝 俺何 百 に り こ

の,て

れにならない

愛 が伝えられ

重要なもの 天の像﹂とし

られよ う 。 国 加賀 因め 同宿とせり。 え たに違 い

北宗門の

来ないか

生活、迫

け、 寺の

ているか

(57)

Ⅰ ハ

長 にかけて年平均

も 、この種の書の性

略する,

Ⅰ八五

審 0 ヲ之モ

く 0 ァ

之プ揺づ

Q ヰヒ 0

0 も︶

-L

ゆ臼ト ・㏄・の

の肚|

㏄の㏄

頁 参照。

破天連を追放しょ

最早手遅れで

候ハ

、一

% 起り

けれは、信長打

う なづ

き 我一生の不覚他。

創作としては成功し

︵Ⅰ

l ︶

つているのである

-

I72

(58)

士 として登場させ、 ﹁切麦 丹 宗門来朝実記﹂ 考 五セ 17 0 ず い れ て 秀 シ 註 ︵ 1 十 Ⅰ︶ Ⅱ 六 リ ハツ︶ 侍 ハワの M.h. 仁 沖りハツ

㏄ め コロが・ 巾甫 Ⅱ げ ・ ト ㏄の N. ロ ・は の

︵ 3 ︶︵ す ま ,目 リトレ・ い の・㏄Ⅰ お日南蛮寺釣語 ヒは ウルガ ソ の名を巷 - げている,

れよ うと 画策、 ま

客 としてハビアン

教 後の㍉破提宇子 b

専攻略に辛苦した ︵ ア P ︶

一史眼を有しだものとも云い得ようか。

彼 宗門は非 敬に組せ

滅と聞て驚 、佐久間

百歩よし人質を信長 へ 潰しける。俊之南蛮寺滅亡の事は禰正ミけり。

名 高山右近はかね

難 な立場に立たさ

外史料に記されて ︵ くり ︶

したとは見えていない --

(59)

詰 ︵ 1 ︶ 円羅 山女 隻む奉 五六、﹁ 排 耶蘇 し 。

私 ︵ 4 ︶ 弔笘 ㏄かの・力 め ︶ 俺ぎコ ・ ロ ・ レの煥

吟 放 1 ﹂︵﹁国語と国文学﹂昭和二十八年八月︶。 五八

たものとする藤田 寛 ︵ り乙り

ので、より詳しくな

なものであったろ う 。

、史実として確認す ︵ⅠⅠ︶

葬儀の後、ハビアン

の 先頭に立ち将軍 ま ︵ 4 ︶

来るかも知れない。

せられ、南蛮寺を ︵ く Ⅰ︶

0 から省略するが、 こ

支 円宗門とも破滅せ

第 たるべぎ事﹂ 飽 鮪節

も 捕えられず、在洛 ︵ 6 ︶

のバア二ノレ で 叙宙叩の ︵ 7 ︶

した阿南 陀 給に よ る ものではない。 174

(60)

もとこの両者は創作人物と見るべぎであろう。 五九 ﹁切麦 丹 宗門来朝実記﹂ 考 味 ﹂。 ︵ 6 ︶ し ㏄ 迂幸 のの・Ⅰ , Ⅰ 0 の中︵ オ 0 由 軋ま 目 0 この迫害の時﹁はびやんは肥前国に 迩下 ︵ⅠⅠ︶ 一八 0 六 ︵慶長十一︶年のころであった。 ま という。 ぬるに天正十六年九月の頃、泉州堺の者、天 人車上げるは只今将 辺 に若たる沙汰 仕候 。 夷 Ⅰ 町口 卍 人 にてさま

Ⅰの 尊,を仕 ⋮⋮ 専 灰分にて御焼 せ 見る へしと :::三日過て 佐 々大卒右衛門徒 ば 、両人長ロ り ロ先太ぎ成 鉢 にオ 一 姦人、紙を せ有 て 本の紙と成る。 これを手始めに様々の奇術をなし、女中 追放令は天正十五年六月十九日であり、 京 すれば当然天正二①年1三一年ごろでな げ し 、従来日本医史学家がこの両名を南蛮 医 彼らは全く現われていない。堺には早くか マン﹁ やぅ ほ う軒メウヰ ﹂は内科であった

たりする。秀吉の伴天連 くらましてから四年以上と に 附すべぎであろう。しか ︵ り乙 ︶ らない。信頼すべぎ史料に ︵ 3 ︶ れているが、その一人 ィル に生 るわけであるが、もと Ⅰ い Ⅰ 珪 Ⅹ 匹 村の トゆ oP 弓 ・枯ト 日 ︵ イイ ︶の 笘 Ⅱ日の㏄Ⅰ H. h. めひ の の痒 Ⅰロロ。 百 @

事実であるが、それは 一

田 と改名、医を業とした

へ 待機嫌 何 として参る⋮⋮ 両

治 も珍 敷仕 、別冊子づまの 名

も せ よ我 前へつれ来り術をさ

成事致し見す へ しと 被 仰けれ

有 する事、莫の魚のことし。

(61)

六 O

天文運気及び奇蹟 家 として描かれてい

。この魔法観も侵略

、興味的な中にも 個

て、国 そのものが、

、ひ 、警戒心に訴えよ

と 望んで入信した ょ

か 記されているのも

として奇術を行った

た よ う に役人をから

還俗、伴天連の魔法

類を読む中、利 嘱禽

た 何として注目され る 。 るが、 照す 月影も俄にくも 見 へて 、 白 き 物を若 は、 むかしいまた 木 176

(62)

に逢 とも 頓両 天上 ぺ Ⅰ 、一ノ ﹁切麦 丹 宗門来朝実記﹂ 考 ﹁日本社会事業大年表 L の 如 ぎがある。

元 @ Ⅱ

もなくのことであったろ う 。 学ヒ 一八 0 頁 参照。

ノ 二︶ 参昭 。

保 相模守の入浴 吟

、そ . れが 噸立 大冊 叩に書

省ュざ、

吉の時雑言を吐 き御

行ぬ 奴等位 と思召 、

人 ともに粟田口にて 罪科に行れけり。

説 に過ぎず、殉教

が、 コ当代記 L に

ことあり、此処

複相 尋に 、博士隠首 2 曲 令 言上間如此

Ⅰ 鮪

て 訂正す 司 出目 代詞﹂と年月が一致する。

参照

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