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日本人による朝鮮文学研究(五人十一人)の始まり
川村湊
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こんな詩のような「創刊のことば」を巻頭に載せて創刊された雑誌が
あった。
じぶんの研究が進んだからといって 気ばらず
意見の相違に気色ばむこともなく 根気よく共通の場をもとめ
貴重な資料を手に入れた時などでも 快くなかまたちのために役立て
それぞれの思想や信条に違いはあっても なによりも
朝鮮を愛し朝鮮文学を愛し くつに名声を期待するわけでは もちろんなく
ただ
日本人としてのじぶんと朝鮮を 文学の研究をとおしてむすびつけ そこでえた成果を
日本と朝鮮の親善と連帯を願う人びとの 共有の財産としていくために
朝鮮文学を おそらく死ぬまで
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こつこつと学びつづけていくだろう
最後の行に「サフイフモノニワタシハナリタイ」と付け加えたくなるよ うな文章だが、これは一九七○年十二月一日付の発行日を持つ『朝鮮文学 一一紹介と研究』の創刊号の「創刊のことば」の一部である。発行所は
「朝鮮文学の会」。発行所の住所は、早稲田大学法学部大村研究室内であ
る。創刊同人は五人、大村益夫、梶井鱗、石)'|節(後に石川節子)、長 聲善、山田明(後に田中明)のうち、当時、誰一人として朝鮮語、朝鮮
文学を研究することを職業としていた者はいなかった。大村益夫は、大学 に勤務する学者だったが、中国語・中国文学の研究者であり、梶井砂は中 学校の理科の教師、山田明は新聞社勤務、長璋吉はソウルでの遊学(韓国 文学の修士課程大学院への留学)から帰ってきたばかりのヒネた就職浪人 生といったところだった。
そんな彼(彼女)たちだったから、やや青臭い、いかにも書生っぽいマ ニフェストを自分たちの同人雑誌の巻頭に掲げて、朝鮮と朝鮮文学に対す る「思い」を訴えてみようとしたのだろう。この『朝鮮文学一紹介と研 究』は、日本人が主体的に朝鮮文学に関わろうとした、最初の同人雑誌 だった。もちろん、商業雑誌や一般誌に朝鮮文学の紹介や研究が掲載され ることはほとんどなかった。また、ごくわずかあっても、それは在日朝鮮 人の文学者や研究者によるものであって、日本人主体のものは、まったく いっていいほどなかったのである。
日本人主体ということに、特別な意義を認めるのは、別に民族主義的な 考え方に重きを置くからではない。戦前(戦中)においては、朝鮮半島は 大日本帝国の植民地として日本化され、朝鮮文学は「日本文学」へと同 化、解消されることを強要されていた(朝鮮語ではなく、日本語で文学作 品を創作することが奨励、あるいは強制されたのである)。日本人(文学
者)は、そうした〃甘帯時ilL((日本帝国による植民地支配の時代)〃の朝
鮮文学の抹殺の政策と、「日本文学」化の風潮(コロニアリズム)に対し て責任や反省を感じるべきだったのに、ごく一部の文学者以外にそうした 問題が戦後の日本文学の世界で語られたという事実は見られなかったので ある(田中英光、湯浅克衛、林房雄、村山知義など、戦前の「朝鮮文壇」
と関わり、その「日本文学」化への強制に手を貸した日本人文学者は、少
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なからず存在していたのに関わらず)。
もう一つの問題は、戦後(解放後)の朝鮮文学が、朝鮮半島の政治的、
軍事的な南北分断に伴い、北半分に成立した朝鮮民主主義人民共和国(北 朝鮮)と、南半分に成立した大韓民国(韓国)という分断国家(社会)の 影響を受け、ほとんど別個の道をたどることになったため、日本において も、その紹介や翻訳、研究が南北別々に行われることになったということ だ。それは、単純に地域的に"分断”されただけでなく、イデオロギー的 に対立し、それぞれ互いの存在を否定したり、敵視するような関係に置か れ、「韓国文学」と「北朝鮮文学」とは、別個の紹介者、研究者によって 行われてきたという事実である。
朝鮮総連と韓国民団という二つの民族組織、団体に分かれた在日朝鮮人 (在日韓国人)の組織は、それぞれ文化組織や団体、その情宣・広報を目 的とした新聞や雑誌などの媒体を持っていたが、そこではそれぞれ自国の 側の文化や文学を紹介・研究するのにとどまり、南北両方の文化・文学を 見渡そうとする視点は、むしろ双方の側から否定されてきたといってよ い。
『朝鮮文学一一紹介と研究』の創刊号には、巻末にそれぞれの「同人の 弁」を載せている。そのうち大村益夫は「進軍ラッパは聞こえない」とい う文章の中で、「われわれの会に会則はない。しかし最小限、この会が (一)日本人の、少くとも日本人を主体とした会であること、(二)白頭山 以南、玄界灘にいたる地域に生きた、そして生きている民族が生み出した 文学を対象とすることを、原則として確認しよう。われわれの心に、三八 度線はない」と書いている。
この大村益夫の言葉通り、『朝鮮文学一紹介と研究』には、韓国、北 朝鮮の双方の文学作品や評論などが翻訳され、紹介された。もっとも、実 際には北朝鮮のものは少なく、韓国のものが多かったのは、単純に北朝鮮 の作品が紹介者の手に入りにくく、日本人読者を対象とするのに適当と思 われる作品が少なかったためであり、イデオロギー的分断のためではない だろう。現在に至るまで、北朝鮮の文学作品を、単行本や雑誌掲載のもの であっても、日本で入手する道はほとんど開かれていない(もちろん、こ のことと、北朝鮮で日本人読者に紹介すべき優れた文学作品が書かれてい るのかどうかということとは別問題だ)。
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創刊号の「同人の弁」は、五人の創刊同人の″本音〃と、筆者の`性格と いったものを垣間見させる文章として興味深いものがあるので、少々紹介 してみよう。梶井隊は「もう一人ではない」という見出しで「わたしはこ の会の同人の一人であることを誇りに思う。/しかし正直のところ、本職 が中学校中の理科教師というわたしにとって朝鮮文学の勉強をずっとつづ けていくことは、けっしてらくなことではない。/理科の教材研究と朝鮮 文学では、頭の切り変えもなかなかたいへんだし、朝鮮文学を勉強するた めの時間と場所の確保では、今までも苦しみつづけてきた。/これからも こうした条件は、たぶん変らないだろう」。梶井砂は、後に富山大学に開 設された朝鮮語・朝鮮文学の教師として招かれ、専門的に研究と教育に携
わることになるが、この頃はまさに全然別々な"二足の灘〃を履いてい
たのである。
五人のうち唯一の女性である石川節は、「だが、オンドルのぬくもり も、チャングパンのすわり心地も知らずにあの長く暗い時代を生きて来た 朝鮮人の書いた朝鮮文学を前に、私は何を発言できるのだろう。遠い感じ がする(「何を発言できるか」)」と書いている。専門的な研究者ではな く、アマチュアの、非職業的な研究者に徹する覚悟のようなものをうかが わせる。後に同人の多くは大学での専門的な研究職に就くことになるが、
「朝鮮文学」の職業的な研究者というものが、現実的なものとしてほとん ど考えられなかった時代でもあった。
「東京の雑踏を歩いていると、ふっとそのままソウルの街角に通じてし まいそうな気になる。アリスのような鏡はいらない。四つ角か横丁があり さえすればいい。四つ角をまがるか、横丁をのぞきこむかすると、ソウル のにおいが鼻をつき、新聞売りの呼び声や、大衆料理屋のサファンエ(給 仕、雑役などをする子供)の景気のいい呼び込み、リヤカークン(リヤ カー引き)の掛け声、女学生のおしゃべり、サラリーマンのたのしげな口 論など、もっともっと限りのないことばが聞こえてくる(「朝鮮語の手ざ わり」)」と書いているのは、長璋吉である。
前に記したように、一年間のソウル遊学から帰ってきたばかりの彼は、
『朝鮮文学一紹介と研究』に「<ソウル遊学記〉私の朝鮮語小辞典」とい う軽妙なエッセイを連載し、単行本として刊行して(北洋社刊、後に河出 文庫)、〃洛陽の(ごく一部の)紙価”を高めることになるのだが、その
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『私の朝鮮語小辞典』の世界にそのまま入り込んでゆきそうな「同人の
弁」である。
山田明は、「ようやくわれわれの雑誌を出すはこびとなった。ある朝鮮 人から『日本人が朝鮮文学に心を寄せて雑誌を出すのは初めてだ。ありが とう』と感謝されたが、さて日朝両国のかかわりの長さ深さを比べると、
これは日本人側の怠惰を指摘されたようで紐促たるものがある。またある 日本人は『このところ朝鮮に対する関心が高まりつつあり、時機のいい出 発だ」と祝福(?)してくれたが、時機のよしあしは当方のかかわり知ら ぬことである。もしわれわれがもう十年早く朝鮮語の勉強を始めていた ら、十年早く雑誌が出せたであろう。いずれにせよ、時勢粧いとは無縁な
話である(「異質な人間の共通意思」)」と、時代や時勢に荷るつもりなど
全くないことを、少々無愛想な感じで書いている。
これは、一九七○年十二月という創刊の時期、時代をやはり少し意識し た発言といえるかもしれない。七○年日米安保条約の反対運動は不発に終
わったが、学生運動、学園闘争は糟臘をきわめ、その中でかつての日本
のアジア侵略への糾弾、アジアへの日本人(人民、大衆層)の加害責任が ようやく語られるようになった(ただし、それが表面化されるようになる のは、東アジア反日武装戦線を名乗る「大地の牙」「大地のさそり」など の爆弾闘争グループが出現するようになってからである)。小林勝のよう な植民地朝鮮で生まれ育った日本人の文学者が、朝鮮(朝鮮人)に対する 蝋罪感に基づく小説(「パンチョッパリ」「蹄の割れたもの」など)を発表
したり、季振筬、釜岩総などの在日朝鮮人文学者の文学世界での活動が活
発化するのがこの頃であるし(季恢成が「砧をうつ女」で、在日朝鮮人作 家として初めて芥川賞を受賞したのが一九七一年)、まさに「朝鮮に対す る関心が高まりつつあ」った時期であり、時代であったことは間違いな
い。社会的広がりでいえば、釜鍾老の事件、韓国における釜竺向の釈放運
動(の日本への波及)など、社会的、政治的事件もまた、こうした「朝鮮 に対する関心」を高めることに大きく寄与した。
しかし、こうした政治的、社会的な面での「朝鮮に対する関心の高ま り」こそ、『朝鮮文学一紹介と研究』の創刊同人たちが、拒否したかっ たことの一つであったかもしれないと思われる。「創刊のことば」にある
「朝鮮文学を/おそらく死ぬまで/こつこつと学びつづけていくだろう」
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という言葉や、「朝鮮文学を愛し朝鮮文学を生涯の仕事とする(大村益 夫)」という言葉に示されているように、終生の天職として選んだ朝鮮
(文学)について、「蒔匿時齢は変わろとままよ(「人生劇場」)」といった
気概が同人たちには共通していたと思われるからだ。時代や社会の変化や 変貌に左右されることのない、"常識的〃で(偏向したイデオロギーや思 想・信条ではなく)、良い意味での”アマチュアリズム”による朝鮮文学 への関わり方(専門的、職業的偏椅から逃れた)。『朝鮮文学一紹介と研 究』が目指したのは、こうした理念であり、理想だったのである。
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創刊号の話から、いっきょに終刊号へと話は飛ぶが、『朝鮮文学一紹 介と研究』は、一九七四年八月二十日に通算十二号を出して終刊した。休 刊や停刊ではなく、終刊であるところに、同人たちの堅い意思が見える。
創刊同人五人のうち、田中明が五号で退会し、途中で小倉尚、朝長ノリ、
高木英明、牧瀬暁子、梶村真澄が加入し、終刊号まで同人として残ったの は、田中以外の創刊同人四名と、小倉、牧瀬、梶村の七人だった。各号の 巻末に同人や投稿者の投稿コラム欄としての「さらんばん」があり、そこ には大庭さち子、猪野睦、宮塚利雄などの投稿があった。また、同人では
ないが、新島淳良の訳詩が掲載されたこともあった。釜恵懸の同人に対す る手紙釜充稽の雑誌への批評など、韓国での評判を翻訳して載せる場合
もあった。
終刊号の巻末に、大村益夫が、十二号までの「歴史」を振り返る文章を 書いている。それによると、一九六○年代後半から、早稲田大学の大村研 究室で毎週一回、数人のメンバーによって朝鮮文学の短篇を読む勉強会が 行われ、それが「朝鮮文学の会」の前史である。また、それとは別に、メ ンバーの多くが重なる、『韓国現代文学史』の輪読会があり、これらのメ ンバーに、岩波書店発行の『文学』の「朝鮮文学特集号」に原稿執筆の依 頼があり、それらの論文は、一九七○年十一月号の同誌に掲載された。
その当時、文学研究の世界でもっとも権威のある雑誌とされていた『文 学』誌上で、「朝鮮文学」が特集されたということも、画期的なことだっ た。この特集は当時『文学』の編集者だった田村義也(後の装頓家)の発
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案・企画だった。後に少し紹介する田中明の「朝鮮文学への日本人のかか わり方」の論文などは、朝鮮文学を日本人が研究することの意味と意義と を追求した、朝鮮文学研究の礎石となるようなものだった。その時に『文 学』から受け取った原稿料と、蓄積していた会費とが、『朝鮮文学一紹 介と研究』発行の費用となった。
この文章の中で大村益夫は、この勉強会と、雑誌発行を続ける過程にお
いて、同人以外では、義挙準の貢献が大きかったことを語っている。次
のような具合だ。
その中でも尹学準さんの好意を忘れる事ができない。尹さんはここ数 年間早稲田大学の講師として朝鮮語を教えている。わたしもその生徒の 一人である。尹さんは同人ではないけれども、翻訳上の疑問点に答えて くれたり、時には翻訳原稿と原文と対照してくれたりした。書店まわり の際も、つごうがつく限り、いつでも快くみずから運転して車で本を運 んでくれた。尹さんの献身的行為はなみの人のまねできる事ではない。
ただし、わたしたち同人があまりふがいないので、尹さんは歯がゆかっ たのか、時として会の組織原則をとびこえる事をやってくれた。会を愛 するあまりの事なので、好意は好意としても、頭をかかえこむ事も時に
はあった。
わたしたちの会はあくまでも日本人のグループであって、わたしたち が主人である。尹さんは「この人たちはすぐ差別するんだから」と冗談 にひがんでいたが、家を訪ねれば奥さんは最大級の歓待をしてくれた。
しかしながら、尹さんからの援助はそれまでであって、それ以上のも のではない。なまはんかな「事情通」の人たちが、尹さんが資金を出し て会を牛耳っているように中傷したが、これはわが会に対する侮辱であ る。
尹学準は、『朝鮮文学一紹介と研究』の発行母胎である「朝鮮文学の 会」の前史の勉強会・研究会から、講師役を受け持っていた。ネイティ ブ・スピーカーであり、文学研究者として法政大学の日本文学科に学んだ 彼は、日本文学の知識とともに、韓国文学や北朝鮮の文学に通じた、数少 ない在日朝鮮人文学者だったのである。しかも、当時、朝鮮総連の文化運
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動の強い影響下にあった在日朝鮮人の知識人・文学者たちは、日本人によ る朝鮮文学の勉強や研究の動きに、概して協力的ではなかった。北朝鮮支 持の組織や団体のものならともかく、日本人主体の、しかも南北に偏らな いことを強調し、イデオロギー上の不偏不党を会の原則としていた「朝鮮 文学の会」に、講師を派遣したりして、勉強の便宜を図つたい協力する ことなどありえなかった。そうした中で、尹学準が「朝鮮文学の会」に、
いわば創刊同人五人十一人として″参加,,したのは、彼自身が書いている 通り(「錦鯉たちとどじょう一匹」『朝鮮・言葉・人間』所収)、朝鮮総連 の文化組織である在日朝鮮人文学芸術同盟(文芸同)から追放され、総連 の影響下から離れていた(離れざるをえなかった)からであるだろう(戦 後の在日朝鮮人文学史における、組織的および個人的な対立や葛藤、党派 的抗争や分裂などの過程はまだ明らかとなっていない。大村益夫のいう
「中傷」は、当時の総連系の組織、個人から流された可能性が大きい)。
尹学準自身は、『朝鮮文学一紹介と研究』との関わりについては、こ う書いている。
しかし、正式な同人ではなかったが、この雑誌に対する思い入れはこ とのほか強いものがあった。そもそもこの会の温床が早大語研の教室で あったことから、とりあげる作品の選定から翻訳の相談にもあずかるよ うにならざるを得なかったし、編集会議にも欠かさず出た。他の同人の ように月々の会費は払わなかったが、その代り、いくらにもならなかっ たが、早大からいただく給料だけは全額会にカンパした。そして、とき には自分の置かれている立場も考えないで、おのれの意見を強引に押し つけたりもした。たとえば、八号を出した後、雑誌を停刊して会も解散 しようという意見が出された。そのとき、これにもっとも反対したのは 私だった。善意からではあったが、いうまでもなくはなはだしい越権で ある。後で思ったことだが、わが組織の文芸同で果し得なかった思いの たけをここにぶつけたということだろう。とんだお門違いというもの だった。
繰り返し書いてきたように、『朝鮮文学一紹介と研究』の存在の意義 は、この雑誌が一九七○年代に、南北両方の現代文学を紹介し、その研究
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の基礎を築いたということと、朝鮮文学に関する日本人主体の最初の関わ りであったということだ。尹学準が、最初から「朝鮮文学の会」と『朝鮮 文学一紹介と研究』の″縁の下の力持ち”として振る舞ったのは、こう した意義を認識していたからであり、在日朝鮮人としての自分が表に出る ことで、「日本人主体」という、会と雑誌の存在意義が薄れるという危倶 からだった。
もちろん、これは「日本人主体」という美辞のために彼が黒幕や黒衣と して意図的に"姿を隠していた〃ということではない。文学研究は、「主 人持ち」ではいけないという原則が、政治、民族団体としての朝鮮総連 と、その文化組織である文芸同の政治的党派性に辞易し、絶望していた在 日朝鮮人文学者の尹学準には強くあったはずであり、日本人主体の朝鮮文 学研究を補佐するのが、文芸同を追放された在日朝鮮人文学者としての自 分の選ぶべき道だということが、彼にはしっかりととらえられていたから だろう。彼は、だからこそ一介の協力者としての位置に甘んじながら、そ の会と雑誌の存続に関しては、「はなはだしい越権」ではありながらも、
その存続を強く主張しなければならなかったのである。″お門違い〃だと 頭で十分に解っていながらも。
いずれにせよ、『朝鮮文学一紹介と研究』という場面において、「それ ぞれの思想や信条に違いはあっても/なによりも/朝鮮を愛し朝鮮文学を 愛し/くつに名声を期待するわけでは/もちろんなく/ただ/日本人とし てのじぶんと朝鮮を/文学の研究をとおしてむすびつけ」ようと考えてい た日本人五人と尹学準との、幸運な出会いと協力がそこにあったのであ り、「朝鮮文学」を何よりも、「文学」として愛する姿勢が、この五人と+
一人には共通していたのである。
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十二冊の『朝鮮文学一紹介と研究』における翻訳の業績は、創土社か ら一九七三年と七四年に刊行された『現代朝鮮文学選(I、Ⅱ)』として
結実している。この二巻を通じて、甫筵賞の「司会棒」、美iii室の「恨
水伝」、向i鱗Iの「いたち」、種E熱の「総督の声上釜皆翰の「パビ
ド」、徐墓源の「馬鹿列伝」など、『朝鮮文学一紹介と研究』に紹介され
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た作品が、衣装も新たに選集として刊行された。終刊号の裏表紙裏(表 三)の広告では、全三巻となっているが、実際に出されたのは(1)と (Ⅱ)の二巻だけである。「編訳・朝鮮文学の会」として、第一巻の巻末に 尹学準が全体の「解説」を書いている。その中で、『朝鮮文学一紹介と 研究』の創刊同人の一人である田中明の「朝鮮文学への日本人のかかわり 方」(『文学』一九七○年十一月号)を引いて、こんなことを書いた。
一時期、朝鮮および朝鮮文学に対する一種のブームみたいな現象が起 きたとしても、それはしょせんは「政治情勢、または情勢論に便乗した もの」であり、「主観的な'情勢論や運動に役立つ道具」としてのみ関心 があって、それが過ぎれば当然霧消してしまうものに他ならないといい ながら、その原因を「朝鮮を文化の総体としてその価値を客体視する目 が抜け落ちていた」からだと指摘した。そして彼は「朝鮮を文化の総体 として独立した歴史の所有者と見ること」ができるのには、朝鮮文学に 対して主体的に取りくむことがなによりもまず必要であろう。あたかも 主人が下僕に「みつくろいで訳して見せてくれ-」というのではな く、言葉の体得によって「日本人による作品の選択、日本人による翻 訳」なくしては真の意味での連帯はあり得ない。田中明はつづけてこう もいっている。「言葉の体得によって、その国の人びとの生の営みのう ちへ模を打ちこむ者がいなくては、ある民族の真の姿に近寄ることは不 可能である。その異域に対する関心がいかに善意であるにせよ、その模 なくしては、外的条件によっていかようにも変改・歪曲を蒙る脆さを抱 きつづけるのである」-と。
尹学準と、『朝鮮文学一紹介と研究』の同人たちとが、よく共鳴して いた例証として引いてよい文章だろう。日本人のために在日朝鮮人が朝鮮 文学を紹介、翻訳する例はそれまでもありえたのだが、それは結果的には 日本人の主体的な朝鮮文学との関わりを奪うものではなかったのか。本当 に自分たちに必要なものを、自分たちによって翻訳して読もうとすること こそ、その異国語による文学に対する敬意であり、異文化に対する体得的 な理解であるはずだ。そうした主体的な努力や接近なしに、「朝鮮文学」
と関わろうとすることは、そうした日本人自身の意志の真撃さを疑わせる
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ものであり、そこに介在する在日朝鮮人たちの真剣な作業を蔑ろにするこ とでしかない。尹学準には、『民主朝鮮』や『鶏林』などの、主に総連系 の雑誌を通じて、プロパガンダと本当の文学の紹介との差違に気がつかず にはいられなかったのである。
『朝鮮文学一紹介と研究』創刊号一終刊号までの十二冊は、前記のよ うに、直接的には『現代朝鮮文学選(I、Ⅱ)』という翻訳作品集と、長 璋吉の『ソウル遊学記~私の朝鮮語小辞典』、『普段着の朝鮮語一続・
私の朝鮮語小辞典』の二冊のエッセイ集を生み出したが、朝鮮文学の「研 究」や「評論」ということでは、それほど大きな成果を残したということ はできないかもしれない。大村益夫、梶井畦による資料紹介、資料案内の ほかには、長璋吉の「お母さん子は告発する一一九五○年代の韓国文学 について-」などが、批評、研究という名に価するもので、誌名にある
「紹介と研究」のうち、「紹介」はともかくとして「研究」のほうは籏か
にされていたといっても過言ではないだろう。
しかし、そうした研究、批評の手薄さは、日本における朝鮮文学の「研 究」や「批評」の土台となる、ほかならぬ日本人の「朝鮮文学」へのかか わり方への真剣な検討という作業の緊急さに、より多くの場所と時間を割 かなければならないためだったと思われる。それまでの日本人による朝鮮 文学の研究史(そういえるものがあったとすれば、だが)の検証、日本に おける朝鮮文学の紹介・翻訳・評論・研究の現状の把握と問題点。もちろ ん、朝鮮文学を南北に限定しないだけではなく、朝鮮文化としての総体の 価値観の中で客体視する視点の鹸成などが、もっとも緊急に追求されるべ きテーマとしてあったのだ。梶井捗が「日本の中の朝鮮文学」というエッ セイを終刊号に書き、後にその研究を深めていったのも、田中明が「朝鮮 文学の会」を離れた後も、『ソウル実感録』や『常識的朝鮮論のすすめ』
で、日本人と朝鮮(文化、文学)とのかかわり方を追求していったのも、
『朝鮮文学一紹介と研究』によって種が播かれ、それが芽吹いた結果と
いえるのである。
しかし、現在改めて、その芽吹きがどのように変質し、朝鮮文学の紹介 と研究とが、日本においてどのような段階にあるのかを考えれば、時間は ただいたずらに流れたとしかいえないかもしれない。現在においても、日 本人によって書かれた-冊の朝鮮文学史も、その本格的な解説も、完全な
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個人全集(挙搬や季鮪や線にについても)の翻訳も、私たちは持ち得
ずにいるのだから。
五人十一人による『朝鮮文学一紹介と研究』が礎石となって築いた、
日本人による朝鮮文学研究。それが、三十年後の現在に、どのような発展 と展開を見たのかを、現代の私たちは直視し、再検証すべき義務を持つだ ろう。しかし、まずその前提として、『朝鮮文学一紹介と研究』の足跡 を、もっと精密に、詳細に検証する必要がある。拙論は、その序論の
「序」にしかすぎない。
翰鮮文学!
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(「朝鮮文学」創刊号の表紙)