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19 13 キリスト教社会の中に息づいてきた様々な反ユダヤ教的エピソードを寄せ集め そこに資本主義の黒幕でありフランス人とは異なる人種であるユダヤ人という近代的な要素を加え ジャーナリストとしてのドリュモンの筆力によって構成されたのが ユダヤのフランス である セム (=ユダヤ人) 対アーリア (=

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はじめに  19世紀末フランスにおける反ユダヤ主義の隆盛 は、一冊の書物の出版に端を発している。当時無名 のジャーナリストであったエドゥアール・ドリュモ ン(Edouard Drumont, 1844⊖1917)が書き上げた上 下巻1200ページにも及ぶユダヤ人攻撃の書『ユダヤ のフランス1(La France juive, 1886)は、19世紀フ ランス最大のベストセラーとなり、大衆の反ユダヤ 主義感情を醸成する土壌を作り上げた。『ユダヤの フランス』が爆発的に売れたという事実は、反ユダ ヤ主義史においては単なる文化史的エピソード以上 の重みを持っている。フランス反ユダヤ主義史上最 大の出来事であるドレフュス事件(1894⊖1906)に おいて大衆の反ユダヤ主義感情は目に見えるかたち で爆発することになるだろう。事件の最初のハイ ライトともいうべきドレフュス大尉の位階剥奪式 (1895年1月5日)において「ユダヤ人ドレフュスに 死を」と叫ぶ大衆の姿は国際的にも大きな衝撃を与 え、テオドール・ヘルツルによるシオニズム着想の 契機となったことはよく知られている。ユダヤ系将 校の冤罪をめぐるドレフュス事件にさいして、ドレ フュス大尉逮捕の一報をスクープ(1894年10月29日 号)し、大々的に反ドレフュスの論陣を張って世論 をリードしたのは、ドリュモンが『ユダヤのフラン ス』の成功を基に創刊した反ユダヤ主義日刊紙『リ ーブル・パロール』(La Libre parole, 1892⊖1924)で あった。事件発生時は新聞の片隅に載っただけの陸 軍におけるスパイ容疑事件は、『リーブル・パロール』 の徹底的な反ユダヤキャンペーンと、「ユダヤ人ド レフュス」めぐるメディア報道によって一気にユダ ヤ人の国家への裏切りをめぐる物語へと書き換えら れるのである。  ドリュモンの『ユダヤのフランス』は上下巻合わ せて1200頁に及ぶ長大な書物であり、どの頁を繰っ ても展開されているのは単純な二元論に基づくユダ ヤ人攻撃である。同書から限りなく引用することが できる、全てがひとつの結論に集約されるドリュモ ンの反ユダヤ主義的言辞の数々を一つ一つ追うこと にさしたる意味はないと思われる。重要なのは、現 代のわたしたちから見れば荒唐無稽で、ベルナール・ ラザールのような同時代人からも「疑似歴史学2 と看破されていた『ユダヤのフランス』が、なぜ19 世紀フランス最大のベストセラーとなり、著者が 「反ユダヤ主義の教皇3」とまで呼ばれることになっ たのかについて、様々な角度から問うことである。 ドリュモンが近代フランスの反ユダヤ主義に及ぼし た影響の大きさについては、これまで先行研究が繰 り返し指摘してきた。レオン・ポリアコフを先駆者 とする反ユダヤ主義史研究はそれぞれにドリュモン と彼が刷新した人種主義的反ユダヤ主義について論 じているし、膨大な蓄積のあるドレフュス事件研究 は、事件で爆発する大衆の反ユダヤ主義感情を準備 した書物として『ユダヤのフランス』をたびたび取 り上げている4。また、ドリュモンの同時代から常に、 彼とその反ユダヤ主義を熱狂的に賛美する者も存在 する。『リーブル・パロール』においてドリュモン とともに活動したラファエル・ヴィオ5やジャン・ ドロー6といった反ユダヤ主義者たちは、著書で堂々 と自分たちの先導者に対する賞賛を書き連ねている。 さらに、20世紀フランスを代表するカトリック作家 ジョルジュ・ベルナノスは、『良識派の大恐怖7』に おいて、日和見的と言われた第三共和政に対するア ンチテーゼとして「祖国の預言者」ドリュモンとそ の反ユダヤ主義を積極的に評価している。  先行研究を踏まえつつ要約すれば、ヨーロッパ・

Journalism and the diffusion of anti-Semitism in the late 19th century France

Edouard Drumont and La France juive

鈴 木 重 周

Shigechika SUZUKI

19世紀末フランスにおける反ユダヤ主義の拡散とジャーナリズム

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キリスト教社会の中に息づいてきた様々な反ユダヤ 教的エピソードを寄せ集め、そこに資本主義の黒幕 でありフランス人とは異なる人種であるユダヤ人と いう近代的な要素を加え、ジャーナリストとしての ドリュモンの筆力によって構成されたのが『ユダ ヤのフランス』である。「セム(=ユダヤ人)対ア ーリア(=キリスト教徒であるヨーロッパ人)」と いう二項対立によって歴史上の全ての事象を説明す るドリュモンの論理については、フランスはもちろ ん、わが国においても先行研究がある8うえに、か つて拙論でもふれている9のでここでは繰り返さな い。本稿の前提として強調するべきドリュモンの 「功績」は、従来のキリスト教的「ユダヤ嫌い」と、 最先端の学問である人種理論を接合することによっ て、異なる人種「セム」としてのユダヤ人像を提示 し、アーリアとセムの絶えざる人種間闘争としてフ ランス史を解読してみせたこと、そしてキリスト教 的反ユダヤ教主義と近代の「科学」による人種理論 とをつなぎ合わせて、新しいタイプの反ユダヤ主義 (antisémitisme)を拡散させたことの二点に集約さ れるだろう。  反ユダヤ主義を大衆へと拡散させ、フランス反ユ ダヤ主義史最大の出来事の一つであるドレフュス事 件へと向かう道を舗装整備することになった『ユダ ヤのフランス』について、本稿では、同書を19世紀 末フランスのジャーナリズムとの関わりに着目して 考察する。これまで『ユダヤのフランス』にみられ るドリュモンの反ユダヤ主義について多くの研究が 詳らかにしているが、1886年4月14日に出版された 同書が、どのような経緯をたどってベストセラーと なったのかはあまり知られていない。実際、無名の 著者によって出版された同書が出版され、人々の話 題となり爆発的に売れていく過程において、何より も大きな役割を果たしたのがジャーナリズムであっ た。加えて、重要な事実でありながらこれまで文学 史においてほとんど論じられることのなかったのは 『ユダヤのフランス』の出版と拡散の過程において 黒幕として大きな役割を演じた作家アルフォンス・ ドーデ(Alphonse Daudet, 1840⊖1897)の存在である。 以下、『ユダヤのフランス』ついて、19世紀末フラ ンスで黄金期を迎えていたジャーナリズムとの関わ りを主題としつつ、ドリュモンとドーデの同時代人 の証言を読み合わせながらその出版と拡散の過程を 明らかにしたい。 第一章 『ユダヤのフランス』の出版と受容 1. 黒幕としてのアルフォンス・ドーデ  「今日ドリュモンが正式に彼の著書の近々の出版 を知らせてきた。ユダヤ人に対する攻撃の書であ る。その本はカトリックと反動派の内心の満足を満 たすために、ユダヤ共和主義の途方も無い勝利につ いて書いている10」。19世紀フランス文学史におけ る貴重な証言者であるエドモン・ド・ゴンクールは、 『ユダヤのフランス』出版前のドリュモンの様子を こう書き留めている。1885年の3月にかねてから病 床にいた妻ルイーズを亡くしたドリュモンは、勤務 していた『リベルテ11(La Liberté)を同年末に辞 し、翌年からカトリック系で発行部数の少ない『モ ンド12(Le Monde)に籍を移すと、既に書きためて いた『ユダヤのフランス』の出版の可能性を探って いた。しかし、無名のジャーナリストによる膨大な ユダヤ人中傷文書を出版しようとする書店はなかな か見つからなかった。そこで尽力したのが、時の流 行作家アルフォンス・ドーデであった。ゴンクール がドリュモンと出会ったのもドーデの紹介によるも のである。ドーデこそ、『ユダヤのフランス』の出 版において大きな役割を演じた人物であり、彼の戦 略なくてはドリュモンの著作が世に受け入れられる ことはなかった。  普仏戦争の敗戦によって翌日からドイツ領になり フランス語を話すことができなくなる独仏国境のア ルザス地方の小学校での一場面を描き、「フランス 万歳!」と締めくくられるドーデの代表作「最後の 授業13(« La dernière classe », 1873)は、発表され るやいなや敗戦後のフランスの読者に大きな共感を 呼んだ。ここでドーデは、ドイツに割譲されフラン スから切り離されるアルザスにおける「国語」を題 材として愛国心を描いた。そもそも南仏ニーム出身 のドーデが、普仏戦争の争点となったアルザスを文 学テキストにおいて恣意的に理想化していることは 疑いなく、「最後の授業」に溢れる著者のナショナ リズムと愛国イデオロギーについては既に多くの 研究が指摘しているところである14。「最後の授業」 は、やがて息子レオンへと受け継がれる作家のナシ ョナリズムを考えるうえで興味深いテキストである が、本稿にとって重要なのは、作家自身の反ユダヤ 主義者としての側面である15。当時、ドーデ家の近 所に住んでいたドリュモンは頻繁にドーデ家に出入 りしていた。文壇の大物であったドーデのサロンに

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は、作家バルベー・ドールヴィイやエレディア、『フ ィガロ』編集長のフランシス・マニャールといった カトリックかつ反共和主義的な思想を持つ知識人た ちが集っていた。とりわけ、ドーデのユダヤ人嫌い は有名であった。後にアクシオン・フランセーズの 中心人物となるレオン・ドーデは、当時の父につい てこう回想している。「アルフォンス・ドーデはユ ダヤ人が嫌いであり、熱烈な愛国者であった。不朽 の『月曜物語』によって、彼は1871年の敗戦後にひ どく痛めつけられた血まみれの祖国の声を伝えてい たのだと言えるだろう16」。この「ユダヤ人嫌いの 愛国者」が、なかなか『ユダヤのフランス』の出版 の目処が立たずにいたドリュモンを励まし、草稿に 目を通した。出版界に顔が利くドーデは、出版社主 であるシャルル・マルポンを説得し、印刷代を著者 が負担することを条件に出版の約束を取り付けたの みならず、7000フランもの保証金を、『ユダヤのフ ランス』への訴訟を恐れる同社に対して約束したの である。地位も経済的余裕もない一介のジャーナリ ストにすぎなかったドリュモンに対して、大作家ド ーデが与えた援助は単なる友情の粋を超えている。 ドーデ家の評伝を著したクレベールは「ドリュモン の生彩あふれる言葉使い、論客としての才、『リベ ルテ』紙での政治論争、怪しげな事件を解決するこ とと政治上の陰謀を告発することに対する執念を高 く評価していた17」ドーデが「たちまちドリュモン の思想に我が意を得た18」と述べている。作家自身 が持つ愛国心とユダヤ人嫌いをドリュモンの口から 語らせようとする思惑があったことは想像に難くな い。ともあれ、ドーデの助力によって、1886年4月 6日に『ユダヤのフランス』の原稿は出版社マルポ ン・フラマリオンに持ち込まれ、4月14日に7フラン で第一刷2000部が発売されることとなる。 2. 『フィガロ』の書評と他メディアへの波及  本節では、『ユダヤのフランス』に対する他ジャ ーナリズムの反応と、メディアの相互作用によって ある同書が知名度と読者を獲得していく状況を明ら かにしたい。  出版の黄金期であった当時のフランスでは、ある 書物が出版されればいくつかのメディアは書評とい う形で新刊書の紹介をすることが広く行われてい た。『ユダヤのフランス』に関してもそれは例外で はなかったが、出版翌日の4月15日に早くもユダヤ 系『アルシーヴ・イスラエリット』誌(Les Archives israérites)が「あらゆる攻撃、暴言、能う限りの侮 辱が我々の宗教に向けられている」と憤りを表明し た。一方カトリック系メディアを代表する『クロワ』 紙は自らも反ユダヤ主義者として知られるジョルジ ュ・ド・パスカル神父の署名入りでドリュモンに対 する共感を表明し、ユダヤ人に対する「戦友」であ る「現代のゴリアテ」を支えようと読者に呼びかけ ている19。このように、出版直後に反応したのは、『ユ ダヤのフランス』から「敵」として攻撃を受けたユ ダヤ系メディアと、ドリュモンに先駆けてユダヤ人 を公然と攻撃していたカトリック系メディアである。 いわばこの両者からの反応は想定されるものであり、 この時点では、『ユダヤのフランス』は「ユダヤ対 カトリック」という宗教問題の枠を超えるものでは なかった。「投げ込まれた爆弾はなかなか作動しな かった20」のである。  ここで手を打ったのはまたしてもドーデであった。 レオン・ドーデは当時の様子をこう回想している。    「よし」と父は言った。「ドリュモンの本は売 りに出された。だが彼の周囲には沈黙したまま だ。この沈黙を破る方法を何としてでも見つけ なくてはいけない。マニャールのところへ話を つけに行こう21」。  ドリュモンと『ユダヤのフランス』を取り巻く環 境が変わり始めるのは、高級日刊紙『フィガロ』Le Figaroの一面に編集長フランシス・マニャールの署 名入りで紹介記事が掲載されてからである。以前か ら友人として「父に大いなる愛情を抱いていた22 マニャールは、共通の知人であるドリュモンの著書 を、たとえ酷評であっても『フィガロ』で取り上げ てくれるようドーデから依頼を受けた23。当時、編 集長として毎日時評「パリの声」を書いていたマニ ャールは友人の求めに応じて、第一面の『ユダヤの フランス』の紹介記事を掲載するのである。  『ユダヤのフランス』を読んで感動し、後にドリ ュモンの側近となる作家ジャン・ドローはマニャー ルについてこう述懐している。  フランシス・マニャールは当時、日々『フィ ガロ』に短く、節度ある、明晰な記事を寄稿し ていた。それは『フィガロ』の保守的で、上品 かつやや攻撃的な記事を好む読者を喜ばせるも のだった。当時の彼のお気に入りのテーマは、

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修道会の財産没収に関する法をつくりあげよう としている共和主義権力に向けての苦言であっ た。(中略)『フィガロ』のユダヤ人読者にも配 慮したこの手練の記事は人々の好奇心を刺激し、 販売の合図を告げたのである24  マニャールによる1886年4月19日の「パリの声」 は、時の首相に語りかける形式で始められている。 ドレフュス事件期にはバレスやL. ドーデら反ドレ フュス派知識人が集うメディアとなった『フィガ ロ』は、1886年の時点ですでに保守的な読者層を獲 得していた。紙面は共和主義者たちを冷笑的に扱い、 カトリックを支持していたことを想起しておかなけ ればならない。  私はド・フレイシネ閣下にドリュモン氏の風 変わりな書物である『ユダヤのフランス』から いくつか抜き出して読んでいただくことを約束 しよう。そこには激しい怒りにまで至る心の底 からの信念があり、ときおり燃え上がる雄弁が どんなうわさ話でも受け入れてしまう子どもっ ぽい盲信と結びついている。(中略)ドリュモ ン氏は長年の間『リベルテ』紙に寄稿し、最近 は『モンド』紙の主筆を務める文士である。彼 はいたるところにユダヤ人を見出してしまう強 迫観念に囚われているようだ。他の妄想に苦し むものならばそこに公安やイエズズ会、フリー メーソンを見出すことだろう25  ドローの言う「お気に入りの」主題でマニャール は、ドリュモンの思想をはっきり「子どもっぽい盲 信」、「強迫観念」と指摘している。しかし、以降は ドリュモンが訴える「ユダヤ人の財産の没収」は共 和主義政府が教会に対してやっていることと同じだ と述べ一定の共感を示したあと、マニャールは『ユ ダヤのフランス』の立場はユダヤ人あるいは共和主 義者の富裕層に対する「カトリック社会主義」であ ると論じる。そして、パリ大司教の事実上の機関紙 である『モンド』に在籍するドリュモンが本当に社 会主義を推進できるのかと疑問を呈した後、「ここ には何人たりとも逃れることのできない病の徴候が ある。それを免れることができるのは、何も見ず、 何も聞こうとしない政府のみだろう」と社会病理の 「徴候」としてのドリュモンの思想に一種の同情を 示し、現政府に対する皮肉をもって時評を終えてい る。『ユダヤのフランス』を貶すでもなく賞賛する でもなく、かつドリュモンの人となりと同書の要点 を簡潔に伝えるマニャールの評が『フィガロ』の一 面に掲載された影響は計り知れない。マニャールの 記事を見つけたドーデは「よしきた!マニャールは ついに手をつけたぞ。これから本は飛ぶように売れ る。ああ、私は心から満足だ!26」と叫んだという。  「共和主義対教会」という図式が一流紙である 『フィガロ』で示されたことにより、様々な立場を 代表するメディアがこぞってドリュモンの著書を取 り上げたのである。『フィガロ』の翌日から一週間 にわたって『ユダヤのフランス』に言及し続けた共 和派の『タン』紙Le Tempsをはじめとして、当時最 大の発行部数を誇っていた『プチ・ジュルナル』(4 月27日)とライバル紙の『マタン』Le Matin(4月19 日)、『プチ・パリジャン』Le Petit parisien(4月29日)、 ボ ナ パ ル テ ィ ス ト の『 プ チ・ カ ポ ラ ル 』 紙Petit Caporal(4月25日)、リベラル派カトリックの『ソ レイユ』紙Le Soleil(4月25日)、造船業者の機関紙 『ジュルナル・ド・ルーアン』Le Journal de Rouen, (4月23日)、急進派の『ランテルヌ』La Lanterne紙 (4月25日)、社会主義の『ラントランシジャン』紙 L’Intransigeant(5月11日)などがそれぞれに話題の 書を論評し始めた。次章で詳しくみるように、ジャ ーナリズムを源泉として世の中の全ての事件をユダ ヤ人と結びつける『ユダヤのフランス』の論法は、 どんな社会問題にも対応可能であり、それゆえあら ゆる党派に働きかけることができたのである。  3. 「獣じみた決闘」の顛末  『フィガロ』による書評掲載は思わぬ事件を引き 起こす。『フィガロ』を読んで『ユダヤのフランス』 を手にとったオルレアニスト系日刊紙『ゴーロワ』 Le Gauloisの編集長アルチュール・メイエル27が、『ユ ダヤのフランス』において自身が「ユダヤ人」とし て繰り返し中傷されているのに怒りドリュモンに決 闘を申し込んだのだった。メイエルとドリュモンの 決闘は話題を呼び、多くのメディアの関心事となっ た。決闘はドーデ立ち会いのもと、4月24日午後3時 に決行されることになる。ゴンクールは決闘直前の ドリュモンの状況を伝えている。  今晩、土曜日に『ゴーロワ』の編集長メイエ ルと、ドーデとアルベール・デュルイ氏の立会 で決闘することになっているドリュモンと食事

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をした。ドリュモンが来たとき、神経を高ぶら せ、興奮気味で、滑稽なほど陽気な声で言った。  「今日は55人ですよ。呼び鈴は鳴りっぱなし です。家へやってくる人たちを見て、往来の 人々が立ち止まり始めました。入ってくる人た ちはみんな異口同音に「ありがとうございまし た。私たちが感じていたことを書いてくれまし た」と言うのです。(中略)2000部出したのに もう一冊も残ってないのです。マルポンは再版 しろと言ってきて、印刷機八台を設置するとい うのです...」28  1886年4月22日付のゴンクールの日記によって、 マニャールによる『フィガロ』での紹介からわずか 3日後には『ユダヤのフランス』初版2000部が売り 切れ、著者の自宅には続々と読者が詰めかけている 様子をうかがうことができる。決闘はドーデ立ち会 いのもと、4月24日午後3時に決行されるが、メイエ ルが剣を手でつかみ、そのままドリュモンの左太腿 を刺すという規則違反を犯し、「汚いユダヤ人!豚 め!ゲットーへ消えろ!」とわめくドリュモンを 彼と引き離す形で決闘は中止される29。この、まさ に「三面記事」的な決闘事件はメディアにとって格 好の題材であったことは、先に上げた『ユダヤのフ ランス』を取り上げたメディアの大半が、決闘後の 日付になっていることからも明らかである。例えば、 当時最大の発行部数を誇っていた『プチ・ジュルナ ル』の編集長アンリ・エスコフィエは「獣じみた決 闘」と題された記事において、率直に決闘のスキャ ンダルで一躍有名になったドリュモンを無視できな いことを認めている。  わたしたちは、巨大な二巻本で『ユダヤのフ ランス』と名付けられた、エドゥアール・ドリ ュモン氏による、大いに騒ぎを巻き起こしいく つかの決闘を引き起こしている著作については 何も語るまいと心に決めていた。『ユダヤのフ ランス』はわたしたちが関わり合いになりたく ない、顰蹙を買う本の手合である。著者はユダ ヤ人たちを執拗な憎悪で追い回し、社会主義革 命と同じ結論にたどり着くのだ。それは、財産 没収であり、それに逆らう場合は死である。私 たちの慎みを止めさせたもの、それはエドゥア ール・ドリュモン氏とアルチュール・メイエル 氏との決闘である(...)30  結果的にまたしてもドーデの戦略は功を奏し、『ユ ダヤのフランス』をめぐる言説が『フィガロ』の書 評から次々とメディアに波及していくことになる。 その副産物としてのメイエルとの決闘は、思わぬ形 で注目を浴び、『プチ・ジュルナル』のような他と は桁の違う数の読者を持つメディアに報じられるこ とによって、ますますドリュモンの知名度は上がり、 その著作は人々の興味を引くトピックとなった。ま た、ドリュモンが決闘の場で周囲の人々に「キリス ト教徒がユダヤ人にやられたのをご覧になりました か」と言って回った31ことから、「善良なアーリア が卑怯なセムにいいようにやられる」という『ユダ ヤのフランス』の主題が「実証」されることになり、 少しずつドリュモンを公然と支持する論説がカトリ ック系メディアや社会主義系機関紙に掲載されるよ うになった。ジャーナリズムを源泉とする『ユダヤ のフランス』は、メディアによる書評と著者が起こ した三面記事的事件によって時代の中心へと踊り出 るのである。 第二章 ジャーナリズムとしての 『ユダヤのフランス』 1. カトリック擁護の「歴史書」  著者の自費(その金はドーデが工面した)により 2000部のみ印刷された「1200頁の中傷文書」が、な ぜ出版一年後には145版を数え、累計15万部とも言 われる大ベストセラーとなりえたのか。前章では、 『ユダヤのフランス』がどのような経緯でスタート ダッシュに成功したのかについて、ドーデの動きを 中心として当時の状況から明らかにした。本章では、 とりわけ『ユダヤのフランス』のジャーナリズムと しての側面に注目してみたい。時に「メディアが作 り出した事件」と言われるドレフュス事件に関して ジャーナリズムが果たした大きな役割についてはい くつかの先行研究は明らかにしている32が、大衆か ら知識人までを巻き込み19世紀末フランス文化史に おける一大事件となった『ユダヤのフランス』の出 版とその拡散にも、近代フランスにおけるジャーナ リズムの発展が深く関わっていた。それは、同書が ベストセラーとなってドリュモンの反ユダヤ主義が 人口に膾炙していく過程において多くのジャーナリ ズムが一役買ったというだけではなく、著者ドリュ モンが「歴史書」と定義した『ユダヤのフランス』

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そのものが、非常にジャーナリズム的な要素を多く 持つテキストであるということである。  ドリュモンは『ユダヤのフランス』を、「テーヌ はジャコバン派の征服を描いた。私はユダヤ人の征 服についてそうしよう」(FJ:V)という一文で書き 起こしている。当時無名のジャーナリストでしかな かったドリュモンが、上下二巻本で総ページ数1200 に及ぶユダヤ人攻撃の書の冒頭で、近代フランスを 代表する歴史学者イポリット・テーヌに自らを重ね 合わせようとしていることは興味深い。そもそも、 『ユダヤのフランス』には「現代史試論」という副 題が付されており、ドリュモンが同書を歴史研究の 学術書として読者に提示することを狙っていたこと は明らかである。確かに、異様なほど長大な同書に は、テーヌやジュール・ミシュレといった歴史学者 の名が散見されるだけではなく、古代カルタゴのハ ンニバルから同時代の政治家レオン・ガンベッタに 至るまで多くの歴史的人物が登場している。加え て、文献学のエルネスト・ルナンや医学者ジャン= マルタン・シャルコーら19世紀フランスの「知」の 最先端を担う学者たちが『ユダヤのフランス』では 自説を裏付ける権威として引かれている。ドリュモ ンは『ユダヤのフランス』内で自著を「厳密な分析 による著作」(FJ:53)、「歴史研究の業績」(FJ:397)、 「社会研究の書」(FJ, II:177)と事あるごとに定義 しており、彼が自らの「歴史書」をテーヌやミシュ レの系譜に連なる「知」の範疇に位置づけようとす る並々ならぬ執念が感じられる。しかし、実証的な ドリュモン伝を著したコフマンが、「ドリュモンの 野望は、教養も学識もなくとも新しいテーヌになる ことであった33」と、この「熱狂的な論争家」によ る「反知性主義的反動の書」を痛烈に批判している ように、『ユダヤのフランス』における「分析」に はいかなる学術的な裏付け作業もなく、全ては著者 による例証なき「事実」の提示と、根拠なき断言に よって成っている。コフマンは、『ユダヤのフラン ス』について論じた一章を「1200ページの中傷文 書」と題し、「この本は小説でも歴史書でも文学で もない。誹謗文書だ」(『エコー・ド・パリ』)、「こ れは狂信的な憎悪の書である。誹謗文書というより 中傷文書である」(『プチ・パリジャン』)との当時 多くの読者を獲得していた大衆紙各紙による論説を 紹介している34。どのページを繰っても実名入りで ユダヤ人が攻撃されている『ユダヤのフランス』は、 当初、同時代のメディアからは単なる中傷文として 受容されることになる。その一方で、コフマンが「反 知性主義的」と断じたこの「歴史書」が、19世紀末 最大のベストセラーとなって大衆に受け入れられた だけではなく、モーリス・バレスやシャルル・モー ラス、レオン・ドーデといった次世代の右派知識人 を代表する錚々たる面々に影響を与え、その帰結と して、フランス史における最大の出来事のひとつで あるドレフュス事件期の反ユダヤ主義の爆発がある ことは紛れもない事実である。そして、『ユダヤの フランス』出版後の反応は批判的なものばかりでは なく、とりわけ一部のカトリック系メディアはドリ ュモンの反ユダヤ主義を全面的に支持していた。重 要なのは、当初、ドリュモンはカトリックを守る立 場で『ユダヤのフランス』を執筆したということで ある。伝統的にフランスのカトリックは反ユダヤ的 主張を度々展開してきた。『ユダヤのフランス』以 前には、後にカトリックによる反ドレフュス派の中 心となる聖母被昇天修道会による『クロワ』紙や信 徒のための巡礼情報誌として創刊され、徐々に総 合誌へと路線変更する週刊誌『巡礼者』(Le Pèlerin) といったメディアが、時折反ユダヤ主義的主張を紙 面に展開していた。とりわけ、信者を顧客に多く抱 えるユニオン・ジェネラル銀行の放漫経営による倒 産(1882)が、ロトシルト(ロスチャイルド)やフ ルトといったユダヤ系銀行家の策謀によるものであ るというキャンペーンが繰り広げられ、財産を失っ たカトリック市民の反ユダヤ感情を煽り立てた。ユ ニオン・ジェネラル倒産をめぐって一部メディアに よって報道された一連の反ユダヤ主義的言説は、ロ トシルト家に象徴されるフランス社会で成功を収め たユダヤ人の存在を大衆に強烈に印象付けることに なった。倒産の年にはシャボティー師による『我ら の支配者ユダヤ人』(Les juifs nos maîtres, 1882)やオ ーギュスタン・シラクの『共和国の王』(Les Rois de la République, 1882)といった、近代資本主義とユ ダヤ人を結びつける言説が登場し、短命に終わった ものの反ユダヤ主義を全面に打ち出す『反ユダヤ』 (L’Antisémitique, 1883⊖1884)なる週刊誌も創刊され、 ドリュモンに影響を与えることになる。これらカト リック的反ユダヤ主義言説をそのまま借りながら 『ユダヤのフランス』は「倒産の黒幕であり政府の 援助を受けているロトシルト家」(FJ:492)等と繰 り返すことになるが、重要なのは、カトリックの立 場から見れば、共和主義政府と「ユダヤ」とは密接 に結びついているということである。

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 カトリックとしてユダヤ人を攻撃するドリュモン の『ユダヤのフランス』の背後には、1870年代から 続く、第三共和政と教権主義との熾烈な戦いがある。 端的に言って、カトリックは第三共和政によってこ れまで教会が保持していた既得権益を次々と失うと いう危機に直面していた。実際、公教育は教会と切 り離され、カトリックが「伝統的な家族を破壊する」 と反対していた離婚法も成立した。これらを主導し たのは共和主義者たちであり、その代表は政教分離 を推進したフリーメーソンのジュール・フェリーや、 離婚法の成立に関わったユダヤ系のアルフレッド・ ナケといった非カトリックの政治家であった。工藤 庸子は、1905年に成立する政教分離法の成立と政教 両派のつばぜり合いについて論じながら、離婚法を めぐる国民議会での議論の最中にナケに対して「あ からさまなユダヤ人差別の言辞」が反対派の司教か ら投げられたことを紹介している35が、共和主義者 とカトリックとの政治的争いは日に日に激しさを増 していた。   2. 19世紀末フランスのジャーナリズムの隆盛  出版の自由が保証され、各党派が自由に意見を表 明できる場が用意された19世紀末フランスならでは とも言えるが、この状況下でこそ、『ユダヤのフラ ンス』のような、一方的にある「人種」を攻撃する 書物が何の咎めもなく出版されることが可能になっ た。ドリュモンは度々「出版界をユダヤ人が牛耳っ ている」と主張したが、実際のところ、共和主義政 府によって保証された出版の自由の恩恵を最も受け ているのは何を書いても国家権力によって処罰され ることのなかった彼自身と言えるだろう。  『ユダヤのフランス』の出版時のフランスは、世 界で最も出版の自由が保証され、多くのメディアが 生まれては消えてゆくジャーナリズムの黄金期を迎 えていた。同書が爆発的に売れ、大衆に受け入れら れた背景として、まずこの事実を確認しなければな らないだろう。19世紀半ばのナポレオン三世による 第二帝政期から、普仏戦争敗戦と皇帝の失脚により 誕生した第三共和政期にかけて、政府は度々出版に 関する法改正を行ってきた。七月王政が発布したジ ャーナリズムに対して煽動罪を適用する法に加え (1839年2月)、刑事裁判をもって処罰できる法(1851 年12月)を制定するなど第三の権力たるメディアに 対しての検閲による締め付けを強化していた第二帝 政が終わると、第三共和政は全面的に出版の自由を 保証する法律の制定を目指した。  1881年7月29日に発布された「出版の自由に関す る法」は、第三共和政下で最も重要な法律の一つで あり、出版に関するあらゆる政府からの検閲、警告、 懲戒を廃止し、メディアを創刊することの完全な自 由を保証するものであった。ある人間が自分の意見 を表明する場として、新聞や週刊誌、隔月誌等のメ ディアを創刊したいと思えば、紙面に発行人と印刷 者を記せば出版が認められた。これはメディア史上 画期的な出来事であり、以降、19世紀末のフランス では、数々のメディアがパリ及び地方都市で創刊さ れては消えていった。ある調査によれば、1892年に は実に2161のメディアがパリに存在し、そのうち の553紙(誌)は一年前には存在していなかった36 19世紀中葉からのアメリカ人技術者による印刷技術 の革新も相まって、世紀末フランスの出版界は空前 絶後の活況を呈していたのである。さらに、教育大 臣ヴィクトル・デュリイの教育改革による識字率の 向上37やフランス全土での鉄道の整備による販売網 の拡大などの要因も加わり、1880年台には日々印刷 される新聞の合計はフランス全土で300万部に達し ていた。この1881年法によって、多くの政治的主張 がメディアによってなされるようになり、職業とし てのジャーナリストも数多く生まれた。『ドレフュ ス事件と出版界』の著者であるパトリス・ブーセル によれば、1885年パリにジャーナリストは1000人お り、10年後には2800人を数えている。ドリュモンも また、パリに1000人いるジャーナリストの中の一人 であったと言えるだろう。  当時のジャーナリズムがいかに盛況だったのかを 知るために、『ユダヤのフランス』がドーデの戦略 によってスタートダッシュに成功し、初刷が完売し たのちの販売状況と、その後の類書への波及、地 方への拡散の状況を確認しておきたい。先に見た ように、1886年4月22日の段階で店頭から姿を消し た『ユダヤのフランス』は発売翌月の5月には20000 部に発行部数を伸ばしつつさらに増刷を重ね、一 年後には62000部を売り上げることとなる。同書は 1914年には200版をこえる19世紀最大のベストセラ ーとなった。重要なのは、ジャーナリズムで繰り返 しドリュモンの反ユダヤ主義が論じられることによ って、ドリュモンが主張する「ユダヤ問題」が既成 事実化してしまったことである。『ユダヤのフラン ス』出版をもって直ちにフランスに反ユダヤ主義が 根付いたわけでは当然ないが、以降、有力メディア

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は移民問題などを扱う際に「反ユダヤ主義」という 用語を使うようになった。そもそも、「反ユダヤ主 義」という言葉はドイツ由来であり、ベルギーを 経てフランスに輸入された38。『ユダヤのフランス』 とそれを取り巻く喧騒の中で反ユダヤ主義という言 葉と概念は定着し、同書のドイツ語訳によって「帰 郷」を果たすことになる。『ユダヤのフランス』は ドイツの他にもイタリア語、スペイン語、ポーラン ド語へと翻訳され、ドリュモンの反ユダヤ主義はヨ ーロッパ中に拡散されることになる。一方、フラ ンスの出版界においては一種の「反ユダヤ主義本」 ブームがおこる。ドリュモンの先達とされるトゥ ースネルの『ユダヤ人、時代の王』(Le Juifs, rois de l’époque, 1845)がマルポン・フラマリオン社より再 版され(1886)、同じく反ユダヤ主義の古典である グージュノ・デ・ムソーの『ユダヤ人、ユダヤ教そ してキリストの民のユダヤ化』(Le Juif, le judaïsme et la judaïsation des peuples chrétiens, 1869)も同年に 再版された。反ユダヤ主義本が売れることを確信し た出版社は、次々と『フランスはユダヤ化していな い』、『カトリックの、無神論のフランス』、『ユダヤ 人問題の真相』といった類似本を全て『ユダヤのフ ランス』と同年に出版した。ドリュモン自身は、マ ルポン・フラマリオン社から好条件を提示され『ユ ダヤのフランス』の読者からの反響をまとめた『世 論の前のユダヤのフランス』(La France juive devant l’opinion, 1886)を発表し、33000部を売り上げる。 こうした喧騒の中で、ドリュモンのもとには共感を 訴える多くの人が集まるようになり、その中には、 後に『リーブル・パロール』でドリュモンの右腕と なるガストン・メリーをはじめとする地方の若者た ちもいた。  ドリュモンが『ユダヤのフランス』を出版してか ら『リーブル・パロール』紙を立ち上げる6年の間 に、そもそも反ユダヤ主義的だった『クロワ』紙に 加え、アンリ・ロシュフォールの『ラントランシ ジャン』紙、ポール・ド・カサニャックの『ロト リテ』(L’Autorité)等のメディアはその反ユダヤ主 義的傾向をはっきりと示すようになった。パリで は、『社会と宗教を守るための反ユダヤ人同盟』な る新聞が創刊される。アンリ・デポルトなる自称神 父による、『リーブル・パロール』以前のほぼ唯一 のパリにおける反ユダヤ主義メディアである。さら に、地方ではマルセイユの『反ユダヤ主義のフラ ンス』(La France antijuive)、リールの『反ユダ公』

(L’Anti-Youtre)が相次いで創刊され、ラファエル・ ヴィオはナントで反ユダヤ主義週刊誌『プープル』 (Le Peuple)を創刊しユダヤ系経済人を攻撃してい た。ヴィオは後に『リーブル・パロール』紙上で同 郷のユダヤ系作家マルセル・シュウォブを攻撃する ことになる39。『ユダヤのフランス』というメディ アによって、パリから地方まで反ユダヤ主義は届け られ、それぞれの地のメディアによってさらに拡散 されていくのである。 3. 「三面記事」化とマッチポンプ構造 ――『ユダヤのフランス』の論法  歴史学者ノワリエルは『フランスにおける移民、 反ユダヤ主義、人種主義 19世紀から20世紀まで』 において、ドレフュス事件を「反ユダヤ主義、人種 主義、外国人嫌悪とった他者への憎悪を示す用語が 史上初めて表舞台に登場する時期」ととらえ、「フ ランスの反ユダヤ主義の出発点」としての『ユダヤ のフランス』の影響力を重視している40。ドリュモ ンの反ユダヤ主義言説がどのようなメカニズムで読 者である公衆へと受け入れられるのかを問うノワリ エルは、『ユダヤのフランス』成功の鍵を「三面記 事化41」ととらえている。「三面記事」fait-diversと は、19世紀フランスにおけるジャーナリズムを語る 際に取り上げられることの多い用語であり、直訳す れば「雑多な出来事」という意味を持つ言葉の日本 語における定訳である。新聞の一面に載るような政 治経済に関する重大な出来事ではなく、犯罪、事故、 有名人のスキャンダル等の報道の総称である。「三 面記事のなかでは突拍子もない出来事、信じられな いような惨事、身の毛もよだつ犯罪(とりわけ殺 人)」が語られ42」、読者の好奇心を大いに刺激した。 『ユダヤのフランス』の続編『ある世界の終わり』 において「私は常に可能な限り200ないし300の新聞 で「三面記事」(強調はドリュモン)を読み、それ を拠り所としている。たくさんの「三面記事」の中 にこそ有益なものが存在するのだ43」と語るドリュ モンを引きながらノワリエルは、「パリ中が知って いることだが」、「~という事件はまだ皆の記憶に新 しいが」といった新聞特有の話法を取り入れた『ユ ダヤのフランス』に見られるいくつかのドリュモン 的文体(le style drumontien)を引用し、以下のよう に分析している。

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ドリュモンはユダヤ人像を こしらえた。その 人物は大新聞の「三面記事」欄に見られる数多 くのありふれたステレオタイプの「寄せ集め」 からできているのだ。しかしそれらの間に何ら 結びつくものはないのである。ドリュモンが新 しかったのは、「ユダヤ人」が公衆の敵ナンバ ー・ワンであると読者を説得するためにあらゆ る要素と等号で結んだことであった44  ノワリエルのこの指摘は、『ユダヤのフランス』 とジャーナリズムとの関係を考察する本稿にとって 極めて重要である。ドリュモンがヨーロッパに伝統 的に存在した反ユダヤ教的フォークロア(キリスト 殺し、聖体冒涜、儀式殺人)等を寄せ集めたことは 当時から既にラザールなどが指摘しているが、ユダ ヤ人攻撃の書執筆にあたりドリュモンが参照してい たのは反ユダヤ主義言説のみではなく同時代のジャ ーナリズムだったのである。人々が日々メディアを 通して目にする様々な三面記事的事件から要素だけ を抽出し、それを混ぜあわせてユダヤ人と結びつけ る。ここに、ジャーナリストとしてのドリュモンの 面目躍如たるものがあり、『ユダヤのフランス』が 大衆に受け入れられた大きな理由がある。『ユダヤ のフランス』の最終部には詳細なトピックを付けた 目次と人名索引が付されており、読者は1200ページ の書物を、雑誌をめくるように気になる事項から読 むことができた。『ユダヤのフランス』とは、一人 のジャーナリストが、過去の文献や他メディアから の引用を「ユダヤ人」を「アーリア人」の敵役とし た物語に加工することによって作り上げたものであ る。しかもその読み物は参照性に優れた、「当世ユ ダヤ事典」とも言うべき一種のジャーナリズムとし て大衆に提示されたのだった。19世紀末フランスの 「三面記事」を語るときに必ず取り上げられるのは 100万部近い発行部数を誇っていた大衆紙『プチ・ ジュルナル』であるが、「裏切り者」との見出しが 付けられ、1895年1月13日の同紙の一面に掲載され た、位階剥奪式でサーベルを折られるドレフュス大 尉を描いた有名な挿絵は、まさにドリュモンが『ユ ダヤのフランス』で行った「ユダヤ人の三面記事 化」の象徴的な帰結と言えるだろう。  「あらゆる要素を同等なものと見なす」ドリュモ ンの筆は、「三面記事」から拾ってきた様々な出来 事の要素を加工し、フランス人が反感を覚えそうな いくつかの要素と結び付け、「ユダヤ人」と等号で 結びつける。それは、主にドイツ人 、内通者 、資 本家、国家破壊者、移民、疫病保持者、神経症者と いった諸要素である。各要素はそれぞれに連結可能 であり、例えばユダヤ人がドイツ人と結び付けられ、 そこにスパイの要素が加われば敵国ドイツのために 働くユダヤ人内通者というドレフュス事件の祖型が できあがる。さらに、「ドイツのユダヤ人の代表で あるロトシルトの銀行によってフランスの民衆の富 は搾取され、その金はドイツとユダヤの繁栄に寄与 している」というドリュモン一流の論理には、「ロ トシルト」というユダヤ系フランス人のアイコンの なかに「ドイツ」、「内通者」、「資本家」、「国家破壊者」 といった諸要素が融通無碍に結びついている。ロシ アのアレクサンドル2世暗殺を契機に発生したポグ ロムによってフランスに多くの東方ユダヤ移民が押 し寄せているという報道を元に、ドリュモンは、「貧 者としてやってきた移民はフランスの有力ユダヤ人 の援助によりすぐに金持ちになる。そして不衛生な ユダヤ移民が持ち込んだ疫病はやがてフランス人に 感染し神経症を引き起こす」という物語を作り上げ る。ドリュモンの論理においては、社会の耳目を集 める諸要素が「ユダヤ」と結びつき、読者の好奇心 を誘うトピック―例えばシャルコーの神経症研究は 当時の三面記事で人気を博した話題であった―によ って因果関係が作り出される。ドリュモンが次々に 提示する挿話が真実なのか、理にかなっているのか が重要なのではない。『ユダヤのフランス』におい ては、「ユダヤ人の悪事」をめぐる数限りないトピ ックが参照性を備えた圧倒的な情報量をもって提示 され、慣れ親しんだジャーナリスティックな文体で 読者に語りかけられたということが重要なのである。 読者がまだ知らない秘密を白日の下に出すというジ ャーナリズムの主要な機能を装いながら、ドリュモ ンは全ての解をユダヤ人とする膨大な「三面記事」 群を作り出した。『ユダヤのフランス』は、日々他 のジャーナリズムを読み、そこに源泉を求めたジャ ーナリストの手腕で描き上げられた、本質的にジャ ーナリスティックな書物なのである。後にドリュモ ンが創刊する日刊紙『リーブル・パロール』はドレ フュス大尉逮捕をスクープし、反ドレフュス報道の 先頭をいくメディアとして大いに発行部数を伸ばし たが、『ユダヤのフランス』の読者にとっては、連 日報道されるドレフュス45の「悪事」はドリュモン によって暴かれていた既知の事実のように感じられ た。ドリュモンが『ユダヤのフランス』に書いてい

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たことは、『リーブル・パロール』の報道によって 次々と「証明」されていくのである。このマッチポ ンプ的構造によって、ドレフュス大尉は「フランス の敵」として認知されていく。 むすびとして  本稿では、『ユダヤのフランス』が大衆に受け入 れられる過程においてに、当時黄金期を迎えていた フランスのジャーナリズムが必要不可欠なものであ ったことを述べてきた。アルフォンス・ドーデの尽 力によって、無名の著者ドリュモンの書物は何とか 出版され、その後は有力紙への書評掲載とそれにと もなうスキャンダルの相乗効果によってドリュモン と『ユダヤのフランス』が一躍有名になる爆発的に 販売部数を伸ばしたこと。そして、内容からみれば 『ユダヤのフランス』そのものは、決してドリュモ ンが自称したような「歴史書」ではなく、本質的に 「三面記事的」なジャーナリズムであったこと。以 上二点の要因は、フランスの反ユダヤ主義を起動さ せる契機となった『ユダヤのフランス』を考える上 で非常に重要な事実であると思われる。ポリアコフ はフランス反ユダヤ主義の特徴を「ユダヤ人に流さ れたインクの量の多さ46」にみたが、いかなる言論 も許される第三共和政期のジャーナリズムは、反ユ ダヤ主義の拡散を結果として後押しすることにな る。19世紀末フランスで暴力を伴ったポグロムは起 こらなかったが、以降、ユダヤ人に対するレイシズ ムが言葉によって日々繰り返されることになる。そ の急先鋒を担ったのはドリュモンが立ち上げた反ユ ダヤ主義メディア『リーブル・パロール』であった。 1894年10月29日にドレフュス逮捕の一報を『リーブ ル・パロール』がスクープした時、読者は『ユダヤ のフランス』に書かれた通りの出来事が起ころうと していると感じたに違いない。しばしばメディアが 作り出した事件と言われるドレフュス事件は、すで に『ユダヤのフランス』から始まっていたのである。 【注】

1 Drumont, La France juive, essai d’histoire comtemporaine. C. Marpon et E. Flammarion, 1886. 以下、FJと略記し本文中丸括弧内に引用頁と ともに記す。なお、本稿が参照しているのは43 刷版である。

2 Bernard Lazare, L’Antisémitisme. Son histoire et ses

cause, Édition de l’AAARGH, 2002(1892), p. 110. 3 Frederic Busi, The Pope of Antisemitisme : the

Career and Legacy of Edouard-Adolphe Drumont, University Presse of America, 1986.

4 ドレフュス事件およびフランス反ユダヤ主 義史に関する主要な先行研究としては次の も の が 挙 げ ら れ る:Léon Poliakov, Histoire de l’antisémitisme, L'Europe suicidaire (1870⊖1933), vol.4, Seuil, 1991(1977) ; Zeev Sternhel, La doite révolutionnaire 1885⊖1994, Seuil, 1978; Michael R. Marrus, Les Juifs de France à l'époque de l'affaire Dreyfus, Edition Complex, 1985; Winock, Nationalisme, l’antisémitisme et fascisme en France, Seuil, 1990; Pierre Birnbaum, La France de l’affaire Dreyfus, Gallimard, 1994; Philipe Oriol, L’Histoire de l’Affaire Dreyfus, tome. 1, L’affaire du capitaine Dreyfus, 1894⊖1897, Stock, 2008. 5 Rafaël Viau, Vingt ans d’antisémitisme, 1889⊖1909,

Charpentier, 1910.

6 Jean Draut, Drumont, la « France juive » et la « Libre parole », Déterma, 1998(1935).

7 Georges Bernanos, La Grande peur des bien-pensants, Grasset, 1931.

   ベルナノスは評伝に「エドゥアール・ドリュ モン、祖国の預言者」という副題をつけようと 構想していたが版元のグラッセにドリュモンの 名を書名から削除するように要請された。Cf. Philippe Dufay, Bernanos, Perrin, 2013, p.89. 8 ドリュモンを中心的に取り上げた日本語論文と しては、内田樹「決闘者―エドゥアール・ドリ ュモンと『ユダヤ的フランス』」、『神戸女学院 論集』、41⊖3、神戸女学院大学、1995年3月、2⊖ 19頁、加藤克夫「E.ドリュモン『ユダヤ人のフ ランス』を読む」、『言語文化研究』、8⊖2、立命 館大学、1996年12月、41⊖72頁がある。 9 鈴木重周「セム族としてのマルセル・シュウォ ブ」、『ユダヤ・イスラエル研究』、第27号、日 本ユダヤ学会、2013年12月、13⊖23頁。 10 Edmond et Jules de Goncourt, Journal. Mémoires

de la vie littéraire, II⊖1866⊖1886, Robert Laffont, 1989, p. 1213(Le 5 janvier 1886).

11 穏健中道派の日刊紙で社主はユダヤ系のペレー ル家。

12 パリ司教座の事実上の機関紙で発行部数は少な い。強硬な教権主義で知られる。

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13 『エヴェヌマン』紙(L’Événement)の1873年5 月13日号が初出。後に『月曜物語』(Contes du lundi, 1873)に冒頭を飾るコントとして収録さ れる。 14 例えば、当時アルザスの「国語」はフランス語 ではなくアルザス語であり、アメル先生がフラ ンスから赴任してきた「フランス人」であるの か生粋の「アルザス人」であるのかによって読 解が全く異なる。日本語論文としては、中本真 生子「シンボルとしてのアルザスとその現実― 「最後の授業」を中心に」、『言語文化研究』、立 命館大学、8⊖1、1996年、115⊖132頁、が物語を めぐる問題点を紹介している。 15 文学テキストにおいて作家の反ユダヤ主義感情 をはかろうとする場合、例えばドーデであれ ば「サルベットとベルナドゥー」(« Salvette et Bernadou », 1873)や「漂白の王族」(Les Rois en exil, 1879)におけるユダヤ人登場人物の悪 意ある表象によってその証と結論づけるアプロ ーチも存在するが、登場人物の表象が直ちに作 家の反ユダヤ主義に結びつくものとは言えない だろう。例えば、19世紀においてユダヤ人を金 銭と結びつけて悪しざまに描くことは珍しくな く、バルザック(『ゴプセック』)やゾラ(『金 銭』)においても頻繁にユダヤ=金銭の図式は あらわれている。ドーデの反ユダヤ主義を考え るには、文学テキストではなく、ユダヤ人攻撃 の書『ユダヤ人のフランス』に対して彼が実 際に行った数々の援助をまず考慮に入れる必 要があるだろう。Cf., Michaël Prazan, L’Écriture génicudaire, l’antisémitisme en style et en discours, Clémann-lévy, 2005, pp. 37⊖53.

16 Léon Daudet, « Au temps de Judas », dans Souvenirs et polémiques, Robert Laffont, 1992, p. 534. 17 Jean-Paul Cléber, Une famille bien française, Les

Daudet, 1840⊖1940, Presse de Renaissance, 1988, p. 205⊖206.

18 Ibid., p. 206.

19 La Croix, 16 avril 1886.

20 François Broche, Léon Daudet, Le dernier imprécateur, 1992, p. 85.

21 L. Daudet, «Édouard Drumont ou le sens de la race», dans Les Œuvres dans les hommes, Nouvelle Librairie nationale, 1922, p. 147.

22 Ibid.,

23 Kauffmann, op.cit., p. 10. 24 Jean Draut, op.cit., p. 5.

25 Francis Magnard, « Échos de Paris. La politique », Le Figaro, 19 avril 1886.

26 L. Daudet, « Fantômes et vivants », dans Souvenirs et polémiques, p. 96. 27 メイエルは祖父にラビを持つユダヤ系フランス 人であるが、本人はカトリックに改宗し、保守 反動派に一定の支持者を持つオルレアン公の側 近としても知られていた。彼が編集長を務め る『ゴーロワ』紙はブルジョワジー保守派層に 向けた高級紙であり、ドレフュス事件期には反 ドレフュスの論陣を張った。メイエルがドリュ モンに対して怒ったのは、『ユダヤのフランス』 における反ユダヤ主義ではなく、自らの過去の 行為を「ペテン師のユダヤ人」として同書内で 中傷(II, p. 183)されたことであった。その意 味で、この決闘は反ユダヤ主義者同士によるも のとみることもできる。

28 Edmond et Jules de Goncourt, op.cit., p. 1244⊖ 1245(Le 22 avril 1886).

29 「互いに殺し合うために常軌を逸した行動をし ている二人のちっぽけな男の姿はまったくもっ て滑稽だった」というドーデの感想をゴンクー ルは伝えている。Edmond et Jules de Goncourt, op.cit., p. 1247(Le 25 avril 1886).

30 Henri Escoffier, « Les duels féroces », Le Petit Journal, 27 avril1886.

31 Edmond et Jules de Goncourt, op.cit., p. 1244-1245(Le 22 avril 1886).

32 Patorice Boussel, L’affaire Dreyfus et la presse, Armand Colin, 1960を古典として、近年ではパ リ第一大学のメディア史研究者ドミニク・カリ ファ編纂による浩瀚な論集も出版され、ドリュ モンについてもいくつかの論者が主にドレフュ ス事件と『リーブル・パロール』紙の関わり について触れている。Cf. Dominique Kalifa(dir.), La Civilisation du Journal, Histoire culturelle et littéraire de la presse française au XIXe siècle, Nouveau Monde edition, 2011.

33 Grégoire Kauffmann, Edouard Drumont, Perrin, 2008, p. 84.

34 Ibid., p.82.

35 工藤庸子『近代ヨーロッパ宗教文化論』、東京 大学出版会、2013年、415頁。

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36 Marcel Schwob, Chroniques, éditées par John Alden Green, Droz, 1981, p.128, n.55. 37 ルイ・シュヴァリエ『三面記事の栄光と悲惨』 小倉孝誠、岑村傑訳、白水社、2005年の小倉に よる「解題」に詳しい。 38 エミール・ゾラ『時代を読む』藤原書店、2002 年、245頁の菅野賢治による注を参照。 39 R. Viau, « Le cuistre Marcel Schwob », Le Petit

Journal, 27 octobre 1899.

40 Gérard Noiriel, Immigration, antisémitisme et racism en France (XIXe⊖XXe siècle), Fayard, 2007, p.208.

41 Ibid., p.213.

42 シュヴァリエ、前掲書、191頁。

43 Drumont, La Fin d’un monde. Essai de psychologie sociale, Sanibe, 1889, p. XXVIII.

44 Noiriel, op.cit., p.214. 45 『ユダヤのフランス』には代表的なユダヤ姓と して何度もドレフュスという名詞が登場する。 大尉のことを指しているわけではないが、「ド レフュス」という姓そのものがドリュモンの読 者にとってはユダヤ人を象徴するものの一つと なっていた。 46 Poliakov, op.cit., p. 284.

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