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(1)

消 極 的 一自 自 由

由 論︵八︶1

︵六︶

三︑J・Sーミルの自由観︵五︶

    ︵4︶ ﹂・S・ミルの﹁個人に対する社会の権威の限界について﹂の見解

    i  ﹁個人と社会との関係﹂に関するJ・Sニミルの立場

 前回までのようにJ・S・ミルは︵消極的︶自由について述べたが︑﹃自由論﹄第四章にいたって︑﹁個人に対する

社会の権威の限界について﹂︵Oh島①=工員8島Φ㊤葺ゲ︒葺団ohωoo凶Φ昌︒く①﹃島︒ぎ賢く観§﹁︶という表題のも

とに︑その冒頭でまず﹁では︑個人の自分自身に対する主権はなんであるのか︒社会の権威はどこから始まるのか︒      ︵1︶人間の生活のうちどれほどが個人に割り当てられ︑どれほどが社会に割り当てられるべきものなのか﹂という問題︑

すなわち個人自由と社会的権威のそれぞれの固有の領域と両者の関係︑大ざっぱにいえば﹁個人と社会の関係﹂の問

題を提起している︒

 このみずから提起した問題に対して︑ミルは取り応えず一応﹁個人には︑生活のうち個人が主として関係する部分

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      ︵2︶が属し︑社会には︑社会が主として関係する部分が属すべきである﹂という漠然とした立場を打ち出している︒

 それでは︑ミルは個人の領域と社会の領域を画然と区別したかというと︑そうでもない︒かれは︑ベンサムのよう

には︑社会を個人の単なる集合体ないし総計とはみなしていない︒その例を挙げれば︑︑・・ルは﹁社会契約のうえに築     ︵3︶かれていない﹂といって社会契約説を否定しているし︑﹃功利主義論﹄においては﹁社会状態︵§oω09巴ω冨8︶は︑

人間にとってまったく自然で︑まったく必要で︑そしてまったく慣習化しているので︑普通でない状況にあったり意

識的な抽象化の努力によったりする場合を除いては︑人間は自分自身を団体の一員以外のものだとは決して考えない

のである︒そして︑この連想は︑人類が野蛮な独立状態から隔たっていくにつれて︑ますます固く結合される︒それ

ゆえ︑社会状態に不可欠な条件はいかなるものでも︑自分がそのなかに生まれ︑そして人間の運命であるところの事      ︵4︶態についてのすべての人間の考えの切り離すことのできない部分にますますなるのである﹂︑あるいは﹁あらゆるひ      ︵5︶とは︑現在でさえ︑自分自身を社会的存在︵㊤ω09遂げΦぢ駒︶であるという非常に根強い考えをもっている﹂と述べ       ︵6︶て︑人間は社会から﹁だれでも完全に孤立して︵生存しうる︶存在でない︵宕づ窪ω8諺Φづ二同Φξ一ωo冨8住げΦぢαq︶﹂

ことを示し︑有機体説ではないかと思われるような見解すら呈示しているのである︒

 いずれにせよ︑社会的存在である人間が社会のなかで生活すれぽ社会の保護を当然受ける︒そうなれば︑ ﹁社会の

保護を受けているひとはみな︑その恩恵に対して当然報いなけれぽならない﹂し︑そして﹁社会のなかで生活してい

るという事実は︑各人が他の入びとに対してある一定の行為規則︵P OΦ同け①帥﹈P 一一昌① O出 OO冨自二〇け︶を守らざるをえない      ︵7︶ということは︑不可欠である﹂ということになる︒このように︑社会的存在である人間は︑ 〃ある一定の行為規則〃

を守るべきことを︑ミルは主張している︒

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消極的自由(六)

 その守るべき行為規則として︑かれは二つ挙げている︒すなわち︑ ﹁第一に︑相互の利益︑つまり法律の明文条項

あるいは暗黙の了解によって権利︵ユoq罧ω︶とみなされるべき一定の利益︵8二巴昌ぎ8おω3︶を侵害しないことで

ある︒そして第二に︑各人が︑社会やその成員を危害や妨害から守るために負わされる労働と犠牲の分担︵それはな

んらかの公平の原則にもとづいて決められる︶を引き受けることである﹂と述べ︑さらに ﹁これらの条件を︑社会      ︵8︶は︑その履行を控えてしないように努める人びとに対して代価を払って強制しても︑正当化される﹂と︑かれは付け

加えている︒

 これだけにとどまらず︑ミルは言葉を続けて以下のようにいっている︒すなわち︑ ﹁以上が︑社会がしてよいすべ

てではない︒個人の行為は︑法で定められた他の人びとの権利を侵害するにいたらないまでも︑他の人びとに有害で

あったり︑あるいはかれの福祉に対する当然な配慮に欠けていたりするかもしれない︒違反者は︑そのときには︑法

によってではなくても︑世論によって公正に処罰されてよい︒あるひとの行為のどの部分かが他の人びとの利害に害

を与えるように影響を与えるや否や︑社会はそのような行為に対する司法権をもっている︒そして︑それに介入する       ︵9︶ことによって全体的な福祉が増進されるか否かは︑討論の余地がある﹂と︒人間が社会において他者と共同生活を営

んでいる以上︑このミルの言は当然である︒

 けれども︑ ﹁あるひとの行為がそのひと自身以外のいかなるひとの利益にも影響を与えなかったり︑あるいはかれ

らが望まないならばかれらに影響を与える必要がないときには︵当該関係者がすべて成年に達しており︑普通程度の

理解力をもっているものとする︶﹂話しは別であって︑右のような﹁問題がはいる余地は全然存在せず﹂︑︑︑︑ルは﹁その

ような場合にはすべて︑その行為をなし︑その結果に責任を負う完全な法的︑社会的自由︵づ臼h①9蹄ΦΦ畠︒ヨし︒σqp一

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      ︵10︶窪Qω09巴︶が存在すべきであるしと強調している︒

 要するに︑J・S・ミルは︑人間の行為を大きくは﹁自分自身に関する行為﹂︵ωΦ一hへΦαq費侮冒oq8ロ9︒一︶と﹁他

入に関する行為﹂︵o夢9ω−おσqp︒﹃象雷αq8質α二9︶との二つに分けて︑前者に関しては個人自由の絶対性を力説し︑後

者については︑社会的強制を受けざるをえないという見解を展開して︑いわぽ行為に関する〃二分法〃の立場に立

ち︑そのような観点から﹃自由論﹄第四章でその表題である﹁個人に対する社会の権威の限界について﹂論じている

のである︒

 このようなミルの立場は︑﹃自由論﹄にいたってはじめて示されたのではなくて︑﹃自由論﹄刊行の十一年前に出版

された﹃経済学原理﹄︵℃︻冒9宮Φωoh℃oヨ一〇9︒一国080ヨざ一︒︒ら︒︒︶においてすでにあらわれている︒すなわち︑同書

第五編第=章第二節において︑ ﹁政府の干渉に対する反対論−干渉それ自体の︑それを維持するための基金の徴

税の強制的性格﹂︵Oげ①一Φo二〇拐εαqoく①コ∋o巨一昌8疑窪二8t島Φ8ヨO巳ωo蔓6白蝋9興ohけゴ①冒8﹃<①昌江︒昌

冨Φ界︒﹃oh夢Φ一⑦<楓ohh痛手8の弓Oo詳δの表題のもとに︑その冒頭で︑﹁政府の干渉の権威的形態は︑それ以

外の他の干渉がもっているものよりもはるかに制限された合法的行動領域しかもっていないということは︑一見して

すら明白である︒どんな場合でも︑それを正当化するためには︑はるかに強い必要性が必要とされる︒他方︑それが

絶対的にかつ堂々と排除されなけれぽならない入間生活の大きな諸部門︵冨﹃αq①αΦ冨ニヨ①曇ωohげ=ヨ︒ロ一竃︒︶が存

在する︒社会的結合の基礎に関してどんな理論をわれわれれが採用しようとも︑そして︑どんな政治制度のもとにわ

れわれが生活しようとも︑すべての個々の人間を取り囲んでいるひとつの円環︵9︒ぼ︒冨碧︒§αo︿①蔓一昌暴く置三巴

プβヨρ⇒σ①ぎαq︶が存在しており︑ひとりのひとの政府であろうと︑数入のひとの政府であろうと︑多数の人びとの政

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消極的自由(六)

府であろうと︑いかなる政府もそれを踏みこえることは許されるべきでない︒また︑思慮分別をそなえた年令に到達

したあらゆるひとの生活のなかには︑そのひとの個性︵一づ自凶く一己信9一詳︽︶が︑いかなる他の個人からも︑またいかなる

公衆全体からも︑制約されずに君臨すべき部分が存在する︒人間存在のなかには︑このように周囲を壕で囲まれてお

り︑権威的介入が侵すことのできないある神聖な領域︵ωo目︒ω冨︒Φ5プロヨ碧Φ×圃ω8昌︒①夢彦Φづ貫魯︒げΦO費︒琶島︑

p。趨¥言Φ匹⇒oヨ窪夢︒ユ叶9︒二く①ぎ霞器品8︶が存在する︑あるいは存在すべきであるということは︑人間の自由や

尊厳︵冨ヨ碧砕①oαoヨ︒﹃&守q巳け団︶に最小の敬意でも表明するひとなら︑いかなるひともこれを疑問としないであ

ろう︒解決されるべき点は︑どこにその限界をおくべきかということであり︑入間生活のどれほどの大きさの領域を

この権威的介入から取り除かれた領域が包合するのかということである︒わたくしは︑それは︑内面的生活であろう

が外面的生活であろうが︑個人の生活にのみ関係して︑他の人びとの利害に影響をおよぼさないところの︑あるいは

模範となるという道徳的影響を通じてのみ︑他の人びとの利害に影響をおよぼすところの︑あらゆる部分を包含すべ

きである︑と理解する︒内面的意識の領域︑すなわち思想と感情の領域に関しても︑またただ個人的なものにすぎな

くて︑他の人びとに対してなんらの影響をも与えないところの︑少なくとも苦痛や損害を与えないところの外部的行

為の領域に関しても︑なにが善でありなにが悪であるかということに関する︑またなにが賞讃に値するものでありな

にが軽蔑すべきものであるかということに関するかれらの意見を︑できるかぎりの力をもって主張しかつ弘めること

は︑すべての人びとに対して許されるべきであり︑とくに思慮深くかつ教養のある人びとの場合にはそれはしばしば

義務である︑がしかし他の人びとをその意見にしたがうように強制することは︑その際に使用される力が法律外の強       ︵H︶制であろうと法律によって行使されようと︑許されるべきでない︑とわたくしは思う﹂と︑述べている︒

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 そして︑﹃経済学原理﹄刊行の十一年後に︑﹁用いられる手段が法的刑罰という形の物理的力であろうと︑世論とい

う道徳的強制であろうと︑強制と規制という形での個人に対する社会の取り扱いを絶対的に支配する資格のあるひと

つの非常に単純な原理を主張する﹂という目的で書かれたのが︑﹃自由論﹄なのである︒そして︑その﹁ひとつの非

常に単純な原理﹂︵8①く①員ω巨亘Φ嘆冒︒甘一Φ︶とは︑﹁人類が︑個人的にであれ集団的にであれ︑だれかの行動へ

の干渉において正当化される唯一の目的は︑自己防衛︵ω①一や嘆089ざ昌︶である︒すなわち︑文明社会の成員に対し

て︑その意思に反して︑権力が正当に行使されうる唯一の目的は︑他の人びとに対する危害の防止︵8bおく︒算ゴ9︒村ヨ

80夢曾ω︶である︒かれ自身の幸福は︑物質的なものであろうと道徳的なものであろうと︑十分な正当化の根拠には

ならない︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝だれの行為でも︑そのなかでかれが社会にしたがわなけれぽならない唯一の部分は︑他の

人びとに関係する部分︵一げ9け ≦プ一〇ゴ OOづOO﹃昌ω O↓げ①﹁ω︶である︒単に自分自身にのみ関係する部分︵夢︒づ9︒答≦ゴ凶︒ゴ

ヨ①おξ8コ︒雲霧三ヨωΦ罵︶においては︑かれの独立は当然絶対的である︵三ωぎα8Φ巳︒昌8ジohユσq重層9げωoピ8︶︒

かれ自身に対しては︑すなわちかれ自身の身体と精神に対しては︑個人は主権者である︵○く葭ぼヨω①拝︒︿巽三ω      ︵12︶o窯ロげ︒身陰︒コO日冒9夢①ぎ畠一く乙q巴δωoく輿①お昌︶﹂ということである︑とミルは記している︒

 また︑同書第五章の冒頭の部分で︑かれは︑﹁本書の全教説を構成する二つの公理︵島Φ寒︒ヨ㊤×一巨ω︶﹂として︑

﹁第一に︑個人は︑自分の行為に対して︑それが自分自身以外のひとの利害に関係しないかぎり︑社会に対して責任

がない﹂ということであり︑﹁第二には︑他の入びとの利害を害するような行為に関しては︑個人は責任があり︑も

し社会が︑社会的刑罰あるいは法律的刑罰がその防衛のために必要であるという意見をもつならぼ︑個人はそのいず      ︵13︶れかの刑罰にしたがわせられてよい﹂ということである︑と主張している︒

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消極的自由(六)

 右のような〃二分法〃の主張に関して︑ミルは〃利己的無関心〃という誤解をもたれることを懸念して︑ ﹁この学

説が利己的無関心︵ω①一h一ωげ 一昌住一hh㊦﹁①旨OΦ︶の学説であって︑人間はお互いの生活行為にいかなる関係ももたず︑そし

て人びとは︑かれ自身の利害がからまないかぎり︑お互いの善行や福祉にかかりあうべきでないと主張していると考       ︵14︶えることは︑この学説についての大きな誤解である﹂と述べて︑〃私利を図らない努力や〃利他心などを説いてい

る︒たとえぽ︑﹃自由論﹄においては︑前言に引き続いて︑かれは︑﹁他の入びとの幸福を増進しようとする私利を図      ︵15︶らない努力︵α一ω一コけ①同Oω一①α Φ×①﹁け一〇コ︶は︑減少させるどころか大いに増加させる必要がある﹂といい︑﹃功利主義論﹄

においては︑﹁あらゆる文明国においては︑絶対的君主を除いては︑すべてのひとが対等者をもっているので︑各人

は他のひとと平等の立場で生活する義務がある︒そして︑あらゆる時代において︑すべてのひととこれ以外の立場で

恒久的に生活することは不可能であるような状態へと︑少しつつ進んでいるのである︒このようにして︑人びとは他

の人びとの利害をまったく無視するような状態を︑かれらにとって可能だと考えることができなくなる︒人びとは︑

少なくとも比較的大きな侵害はすべて差し控え︑そして︵たとえかれら自身の保護のためのみだとしても︶それらの侵

害に絶えず抵抗する状態において生きていると考えるしかない︒かれらはまた︑他の人びとと協力し︑かれらの行為

の︵少なくとも当座の︶目的として︑個人の利益ではなくて集団の利益をかれら自身に提示するという事実を熟知し

ている︒かれらが協力しているかぎりは︑かれらの目的は他の人びとの目的と同一視される︒そこには少なくとも︑

他の人びとの利益はかれら自身の利益であるという一時的な感情が存在する︒社会的結合の強化と社会の健全な成長

は︑各個人に︑他の人びとの福祉を実際に考慮に入れることにより強い監置的関心を抱かせるだけでなくて︑それは

またかれ自身の感情を他の人びとの善とますます同一視するように︑少なくとも他の人びとの善を実際にもっと大い

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に考えさせるようにする︒各人は︑あたかも本能的に︑自分自身を︑当然他の人びとに考慮を払う存在だと意識する

ようになる︒他の人びとの善は︑各人にとって︑人間存在の物理的条件のどれとも同じように︑当然かつ必ず注意を

払われるべきものとなる︒そこで︑どの程度この感情をひとがもっていようとも︑もっている以上は︑かれは︑利益

と共感︵一旨け①HΦω一 ①昌O ω︽日b9◎けげ団︶という二つの最強の動機によって︑この感情を示すように︑あるいは他の人びと

のなかにあるこの感情をかれの力の最大限を発揮して奮いたたせるように駆りたてられる︒そして︑たとえひとがこ

の感情を全然もっていなくても︑かれは︑他のどのひとにも劣らず︑他の人びとがこの感情をもつことに対して大き

な利害をもつのである︒その結果︑この感情のどんなに僅かな芽生えでも︑共感の感染力と教育の影響力によってと         ︵16︶らえられかつ養育されるしと説いて︑社会で共同生活を営む個人における〃協同〃私利を図らない努力〃利他心

の不可土性と重要性を指摘し︑さらにはキリスト教の〃隣人愛〃が功利主義道徳の理想であることを強調して﹁ナザ

レのイエスの黄金律のなかに︑われわれは功利の倫理の完全な精神を読みとる︒人びとにして欲しいと︑あなたがた

が望むことを︑人びとにもその通りにしなさい︑そしてあなたがた自身のようにあなたがたの隣人を愛しなさいと

いうことは︑功利主義道徳の理想的極地である﹂と述べ︑その理想に近づくための手段として︑ ﹁第一に︑法律と社

会的仕組みが各個人の幸福や︵もっと実際的にいえぽ︶利益を︑できるだけ全体の利益と調和するようにするべきこ

と︒第二に︑人間の性格に対して非常に巨大な力をもっている教育と世論が︑その力を︑各個人の心のなかに︑かれ

自身の幸福と全体の善との間の断ちがたい関係を︑とくに個人の幸福と︑全体の幸福への配慮が指令するような様式

の消極的および積極的行為の実行との間の断ちがたい関係を打ちたてるように︑用いるべきである﹂と論じ︑そして

﹁そうすれば︑人間は︑自分自身に対する幸福と全体の善に反する行為の両立の可能性を考えることができないのみ

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ならず︑全体の善を増進しようとする直接的な衝動が各個人において行為の習慣的動機になるかもしれないし︑そし       ︵17︶てその衝動と結びついた感情が各人の情操的存在面で大きく顕著な場所を満たすかもしれないようになるであろう﹂

と︑主張している︒

 以上のように︑J・S・︑ミルは︑ベンサムや父ミルなどの功利主義とは異なって︑それを批判した批判的功利主義

者ないし質的功利主義者であって︑個人と社会の密接な関係︑人間の社会的存在性︑利己的無関心の否定︑個人の利

益と全体の善や福祉との調和︑協同や私利を図らない努力や利他心の不可欠性︑隣人愛の最高道徳性などを強調して

いる︒このような枠組のなかで︑他の人びとの〃利害や〃権利に害を与えないかぎりにおいて︑ミルは︑個人の

行為の自由の基準を見つけだそうとしたのである︒

消極的自由(六)

 註

︵1︶ 卜ω.寓目層O乃至び9蔓.目ぼ︒①国ωω亀ωげ団冒げ昌ω梓§旨旨凶F目9≦o﹃犀.︒︒Ω霧忽β﹁9︒這巳り℃・露●

︵2︶ 同玄αこ戸O卜︒.

︵3︶ Hσ一αこO・㊤卜⊃.

︵4︶9ω.≦芦ご三二匿三ωヨ軍..冒ゴωけ§二孟=⁝q艶凶一霞きδ戸=σ︒二郷p巳幻①買︒︒︒︒ロ豪富︒Ω︒<︒ヨヨ①ロ♂9●ξ

  昌b口︒>oざ戸μO認..璽戸卜⊃O・

︵5︶ぎ昇讐戸ωい

︵6︶︸.ω・竃葺○昌=げ①簿団剛8●葺二戸㊤︒︒陰

︵7︶暮5・o●㊤卜⊃.

︵8︶ 同σ凶αニロ・㊤b︒.

.︵9︶ぎ岸り窓.㊤卜︒1ω●

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(10)

︵10︶

︵11︶︵12︶

︵13︶

︵14︶

︵15︶

︵16︶︵17︶ 一げ置.噛戸OQ︒・卜ρ竃語り℃ユ暑旦①ωoh℃o葺ざ目白8ぎ8ざOoぎ29≦o蒔ωoh︸9昌ωε餌二竃已u<oピ目旧おPおミ讐唱㊤︒︒刈1︒︒.匂●ω曹寓旨噂Oづピま臼ξ旧oO.〇一辞二弓戸H心1α・一げ誌こ戸二伊毎置こ戸㊤ω9ぎ乙二〇●Oω︒

同げ置二〇P卜︸¢iωO.

ぎ乙こロ●δ●

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    11 個人の行為の自由の基準

 前述のように︑J・S・ミルは︑個人の利益と全体の利益や福祉との調和︑協同︑私利を図らない努力︑利他心︑

隣人愛などの社会的徳を重視するが︑しかし自分自身に関する徳を決して過小評価してはならないことを︑﹃自由論﹄

のなかで︑﹁わたくしは︑自分自身に関する徳︵ω①一h占Φσq9︒a冒σq乱暮ロ︒ω︶を過小評価しようとは思わない︒それは︑

たとえ社会的徳︵島︒ω09曵く葺ロΦω︶に劣るとしても︑その重要さにおいて僅かしか劣るにすぎないのである︒この      ︵1︶両方の徳を育成することが︑等しく教育の仕事なのである﹂と指摘し︑そこから﹁ひとりであれ多数であれ︑だれで

も︑成年に到達している他のひとに対して︑そのひとが自分の生活を自分の利益のために自分が選んだ仕方で処理し

てはいけないということは︑正当でない︒かれは︑自分自身の幸福にもっとも利害関係をもつ正にそのひとなのであ

露と論じ・その理由を﹁強い個人的愛着をもつ場合を除けば・他のいかなるひとがそれにもちうる関心曳かれ自

身がもっているものと比較すれば︑些細なものである︒社会が個人としてのかれにもつている関心は︑ ︵他の人びと

(11)

消極的自由(六)

に対するかれの行為に関するものを除けば︶断片的でまったく間接的である︒他方︑自分自身の感情と環境に関して

は︑もっと普通の男女すら︑他のいかなるひとによってもたれうるものよりもはるかに優るところの︑それを知りう      ︵3︶る手段をもっているのである﹂と︑述べている︒

 このような観点から︑J・Sニミルは︑自分自身にのみ関する事柄においては︑社会の干渉を排して︑個人の行動

の自由を認めようとするのである︒すなわち︑かれは︑ ﹁自分自身にだけ関係のある事柄においてかれの判断と目的

を支配しようとする社会の干渉は︑一般的な推測にもとつかなけれぽならないが︑その推測はまったく間違っている

かもしれないし︑そしてたとえ正しくても︑個々の場合には︑外部からのみ見つめている人びとと同じくらいにしか

そのような場合の事情を知っていない人びとによって︑どうも間違って適用されそうである︒それゆえ︑人間の事柄

のこの領域においては︑ 〃個性はその固有の活動領域をもつのである︒人間のお互いに対する行為においては︑人

びとが予期しなけれぽならないことを知ることができるように︑一般的規則が大たいにおいて守られるべきことが必

要である︒しかし︑各人自身に関係のある事柄においては︑各人の個人的自発性︵プ一ω 一口住頃く圃住偉国一 ωUO昌榊9目①圃叶嘱︶が

自由に己れを働かす権利をもっている︒かれの判断を助けるための考慮や︑かれの意思を強固にするための勧告は︑

他の人びとによってかれに与えられてよいし︑そして押しつけられてすらよい︒けれども︑かれ自身が最終的な判定

者︵夢︒臨づ巴上山σq①︶なのである︒忠告や警告に逆らってかれが犯しそうなあらゆる誤りは︑他の人びとがかれの       ︵4︶善だと思うことをかれに強制する害悪にくらべればはるかにまさっている﹂と︑力説している︒この言をみるとき︑

自分自身にのみ関係する事柄において個人の行動の自由を認めるミルの論拠には︑前述の人間の〃自由〃そのものや

〃尊厳〃の尊重と並んで︑ 個性〃と自発性〃の重視が存することが︑一目瞭然としてわかるであろう︒そして︑

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そのような自分自身にのみ関係する事柄における個人の行動の自由において︑その個人が忍ばなければならないある

種の〃不便があることを︑ ﹁わたくしが主張したいことは︑次のことである︒すなわち︑自分自身の善には関係す

るが︑しかしかれと他の入びととの関係において他の人びとの利害に影響を与えないような部分に対してひとが受け

なけれぽならない不便︵μ昌OO口く⑦旨一①口OΦω︶は︑他の入びとの好意的でない判断と密接に結びついている不便だけであ

︵5︶る﹂と︑指摘している︒

 他方︑個人の行為でも︑他の人びとの利害や権利に関係して︑それに有害な影響をおよぼす場合はどうであろう

か︒これに関しては︑前項においてある程度述べておいたが︑さらに補足すれば︑J・S・ミルは﹁他の人びとにと

って有害な行為は︑それとはまったく異なった取り扱いを必要とする﹂と主張し︑ ﹁他の人びとの権利の侵害︑行為

者自身の権利によっては正当化されえない損失や損害を他の人びとに対して負わすこと︑他の人びととの取引におけ

る詐欺や二枚舌︑他の人びとに対する有利な立場の不公正で公明正大でない利用︑危害から他の人びとを守ることを

利己的に差し控えることですら︑これらは道徳的非難の正当な対象であり︑そして重大な場合には︑道徳的報復と処         ︵6︶罰の正当な対象である﹂と論じている︒そして︑﹁これらの行為のみならず︑そのような行為に到達するような性向﹂       ︵7︶は︑﹁そのひと自身に関する徳や欠陥﹂とは違って︑﹁まさしく非道徳的であり︑そして嫌悪を生じさせうる非難の正      ︵8︶当な対象である﹂ことを︑ミルは次のように指摘している︒

 すなわち︑個人自身の徳や欠陥に関しては︑ ﹁もしかれが︑自分自身の善に役立つなんらかの資質において卓越し

ているならぽ︑そのかぎりにおいては︑かれは賞讃の正当な対象となる︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝もしかれがそれらの資質

において大いに欠くことがあるならぽ︑賞讃とは反対の感情が生じるであろう︒かなりの愚行︑そして︵この言葉に

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(13)

消極的自由(六)

反対がなくはないかもしれないが︶趣味の低劣さないし堕落と呼ばれうるかなりのものがあり︑それを明らかに示す

ひとに危害を与えることは正当化されえないが︑そのことはかれを当然かつ正当に嫌悪の対象にしたり︑あるいは極

端な場合には軽蔑の対象にしたりするしし︑また﹁われわれは︑だれかに対して好意的でない意見をもっているなら

ば︑その意見にもとづいて︑そのひとの個性を抑圧するようにではなくて︑われわれ自身の個性を働かすという形で︑

さまざまな行為をなす権利をもっている︒われわれは︑かれとの交際を求める義務はない︒われわれはそれを避ける

権利をもっている﹂のであって︑さまざまな形で﹁ひとは︑直接には自分自身にのみ関係する欠点のゆえに︑他のひ      ︵9︶との手で非常に厳しい処罰を蒙ることがありうる﹂と︑いっている︒

 だが︑ミルは︑その処罰は他の人びとの利害や権利に有害な影響をおよぼすときに与えられる処罰とは根本的に異

なると強調して︑以下のように述べている︒すなわち︑﹁かれがこれらの処罰を受けるのは︑かれの欠点それ自体の自

然の︑そしていわぽおのずからそれによって生じる結果であるかぎりにおいてのみなのであって︑処罰が処罰のため      ︵10︶に意図的にかれに課されるからなのではない﹂と︑断じている︒したがって﹁軽率︑頑固︑うぬぼれを示すひと1

節度ある生活を送れないひと一︑有害な耽溺から自分自身を抑制できないひと1感情と知性の快楽を犠牲にして

動物的快楽を追求するひと一は︑他の人びとに好感をもたれることが少いものと︑予期しなけれぽならない﹂とい      ︵11︶い︑これに対して当人は﹁不平をいう権利をもたない﹂とダメ押ししている︒

 以上のような結果︑ミルは︑前述のように︑ ﹁自分自身の善には関係するが︑しかしかれと他の人びととの関係に

おいて他の人びとの利害に影響を与えないような部分に対してひとが受けなければならない不便は︑他の人びとの好       ︵12︶意的でない判断と密接に結びついている不便だけである﹂と︑主張するのである︒すなわち︑ ﹁個人の欠点は︑本来

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(14)

不道徳︵一9ヨ︒﹃巴三Φω︶ではなく︑どんな極端にまで押しすすめられても︑邪悪︵ぞざ吋︒曾Φωω︶になるものではな

い﹂し︑また﹁これらの個人自身の欠点はある程度の愚かさあるいは人格的尊厳と自尊心の欠如の証拠であるかもし

れない﹂が︑しかし﹁それらの欠点は︑個人が他の人びとのためにも︑自分自身への配慮が義務づけられているよう       鎗︶な他の人びとに対する義務の不履行を合むときに︑はじめて道徳的非難の対象となる﹂というのである︒

 その理由に関しては︑ミルは︑個人的義務と社会的義務の相違︑個入的義務の意味︑および自由と人類の幸福との

関係を説いて︑以下のように論じている︒すなわち︑ ﹁われわれ自身に対する義務と呼ばれるものは︑状況が同時に

それを他の人びとに対する義務ともしなければ︑社会的に義務的なものではない︒自分自身に対する義務︵9蔓8

0pΦω①5という言葉は︑それが思慮分別以上のなにものかを意味するときに︑自尊︵ω①嵩占①ω℃①9︶や自己発展︵ω①一や

OoくΦδ燭ヨΦ巨︶を意味する︒これらのいずれに関しても︑だれもその同胞に対して責任がない︒なぜならば︑これら      ︵14︶のいずれに関しても︑個人がその同胞に対して責任ありとみなさないほうが︑人類の幸福のためになるからである﹂

と︒この言葉のなかにも︑ミルが︑自分自身にのみ関係する事柄において個人の行動の自由を認める論拠として︑

前述の個人の〃自由そのもの︑〃入格的尊厳︑個性︑〃自発性〃などと並んで︑それらに相い通じる〃自尊と

〃自己発展を挙げ︑それらが入類の幸福に連なることを指摘していることがはっきりとわかる︒かれは︑さらに念を

押すようにして言葉を続けて︑ ﹁ある人が思慮分別や人格的尊厳の欠如によって︑当然招くかもしれない価値評価の

喪失︵けΦげ 一〇ωω Oh OO⇔ω一寸Φ﹁9ρけ凶O﹈P︶と︑他の亡びとの権利に対する侵害のためにかれに当然帰すべき非難との間の相      ︵15︶違は︑単なる名目上の相違ではないのである﹂︑思慮分別や人格的尊厳の欠如のために他の人びとの価値評価を喪失

するような﹁かれは︑われわれにとって︑憐みの︑そして恐らくは嫌悪の対象であるかもしれないが︑しかし怒りや

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(15)

消極的自由(六)

憤りの対象ではない︒われわれは︑かれを社会の敵のように取り扱わないであろう︒もしわれわれが︑かれに興味と

関心を示すことによって︑善意をもって関与しないとしても︑われわれがなしても正当化されると思うもっともひど       ︵16︶いことは︑かれをかれ自身に放置しておくことであろう﹂と︑記している︒      ︵17︶ さて︑これに反して他方︑﹁他の人びとにとって有害な行為は︑それとはまったく異なった取り扱いを必要とする﹂

といって︑それについてミルが論じていることはさきに記した通りである︒また︑かれは︑ ﹁もしかれが︑かれの同

胞を︑個人的にであれ集団的にであれ︑保護するために必要な諸規則を破るならぽ︑話しはまったく別である﹂とも

述べ︑ ﹁その場合は︑かれの行為の有害な結果は︑かれ自身のうえにではなくて︑他の人びとのうえにふりかかるの

である︒そして社会は︑あらゆる成員の保護者として︑かれに報復しなけれぽならない︒また︑かれに︑処罰という

明白な目的のために︑苦痛を課し︑そしてそれが十分に厳しいものであるように注意を払わなければならない︒この

場合には︑かれはわれわれの法廷における犯罪者であって︑われわれはかれを裁判するように要求されるだけでなく

て︑われわれの判決を執行するように要求される︒前の場合には︑かれになんらかの苦痛を課すことは︑われわれの

役割ではない︒ただし︑われわれ自身の事柄の調節の際に︑われわれがかれに許しているのと同じ自由を行使するこ      ︵18︶とから付随的に生じるかもしれない苦痛は除いてである﹂と︑主張している︒

 右のように︑ミルは︑一応人間の生活のうちの﹁自分自身のみに関係する部分﹂と﹁他の人びとに関係する部分﹂

とを区別しているが︑しかし﹁多くの人びとはその区別を認めることを拒むであろう﹂といい︑かれ自身も両者の部

分の画然と区別しがたいこと一この点についてはすでに指摘したが︑なお補足すれば一を︑ ﹁社会の一員の行為

のどんな部分であろうとも︵と質問されるかもしれない︶︑他の成員たちにとってどうでもよいものがありえようか︒

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(16)

いかなるひとも︑まったく孤立した存在ではない︒ひとがかれ自身に重大にあるいは恒久的に有害ななんらかのこと

をすれぽ︑必ず︑その害は少なくともかれの近親者や︑そしてしぼしぽ近親者をはるかにこえた人びとにまで達する

   ︵19︶のであるしと論じて︑それらの例をいくつか示し︑﹁あるひとがかれ自身に対してなす害悪が︑かれと緊密な関係のあ

る人びとに︑かれらの共感と利害関係を通して︑重大な影響を与えることがありうるし︑そしてそれよりも少ない程      ︵20︶度においてではあるが︑社会全体にも影響をおよぼすことがありうることを︑わたくしは十分に認める﹂と述べるの

であるが︑にもかかわらず︑たとえ一身上の事柄でも︑他の人びとに対する義務不履行の場合にはそれからはずさ

れることを︑かれは﹁この種の行為によって︑ひとが︑だれか他のひとあるいは他の人びとに対する明白な特定の義

務︵㊤象ω江雷9雪q霧ω一σq再び一Φ〇三一σqp︒鉱8︶を破るようになるときには︑この場合は自分自身に関する事柄の部類か       ︵21︶らはずされて︑言葉の本来の意味における道徳的非難に服するものとなる﹂と断じ︑不節制や浪費による借金返済や

家族の扶養・教育の義務の不履行や︑理由はなんであれ人殺しは処罰されても正当であるが︑ ﹁その怠慢の原因や︑       ︵22︶その遠因となったかもしれないかれ自身にのみ関係する誤りに対しては︑道徳的非難の対象とはならない﹂と述べて

いる︒ すなわち︑ ﹁あるひとが︑純粋にかれ自身にのみ関係する行為によって︑かれに義務づけられた公衆に対するある

明確な義務を履行することができないときは︑かれは社会的犯罪を犯していることになる﹂のであって﹁要するに︑

個人あるいは公衆のいずれに対しても︑明白な損害があったり︑あるいはその危険があるときはいつでも︑その問題       ︵23︶は自由の領域の外へと取りだされて︑道徳や法律の領域のなかにおかれる﹂のである︒だが︑ ﹁公衆に対する特定の

義務をなんら破ることもなく︑また自分自身以外のだれか特定の個人に明白な害を与えることもない行為によって︑

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(17)

消極的自由(六)

あるひとが社会に対してひきおこす単なる偶然的な︑あるいは推定上のともいえるかもしれない危害しに関しては︑

﹁その際の不便は︑入間の自由というより大きな善09αqお簿葭四〇〇畠︒︷ぎヨρづ︷話①Qoヨ︶のために︑社会が耐      ︵24︶えることのできるものである﹂と主張して︑前述同様︑この種の〃不便は〃人間の自由のために耐えなけれぽな

らないし︑また耐えることのできるものであるとしている︒

 このような︑社会的義務の不履行に対してはきわめて厳しい態度をとるが︑そうでないかぎりは個人の自由を極度

に尊重・擁護するという基本的立場に立つJ・Sニミルは︑当然のことながら︑﹁この問題に関して︑あたかも社会

は︑その知力の弱い成員を合理的行為をなすことができる普通の水準にまで引き上げる手段を全然もたず︑かれらが

非合理的ななにごとかをなすまで待って︑その後にかれらを法的にあるいは道徳的に罰する以外にないかのように論      ︵拓︶じることは賛成できない﹂と︑断じている︒かれは︑社会はその成員たちの存在のはじめの全期間︑すなわちかれら

の幼年時代と未成年期の全体にわたって︑かれらに対して絶対的権力をもって支配していたので︑ ﹁もし社会が︑そ

のかなりの数の成員を︑遠い将来について思いをめぐらす動機に関する合理的考察によって行動させられえないよう      ︵26︶な単なる子供に成長させるとすれば︑社会自身がこの結果について責められるべきである﹂と︑強調している︒

 このように︑﹁社会は︑教育の全権力で武装されているのみならず︑世論︵㊤お︒①ぞΦΩo且巳8︶の権威が︑自分

自身で判断することにもっとも少なくしか適していない人びとのうえに常に行使する支配力で武装されており︑また       ヘ  ヘ  へ知人の嫌悪や軽蔑を招く人びとのうえに落ちるのを阻止しえない自然の罰︵旨卑ξ巴b窪巴二Φω︶によって支援を受け

  ︵︶ている﹂ので︑社会は絶大な権力をもっていて︑自由を踏みにじりかねない危険性を常に蓋しているといわざるをえ

ない︒そこで︑ミルは︑ ﹁それゆえ︑社会に︑社会は︑これらすべてのもののほかに︑さらに︑個人の個人的な事柄

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(18)

      ︵28︶において命令を発したり服従を強制したりする権力を必要とするなどと勝手に主張させてはならない﹂と強調し︑そ

のような﹁個人の個人的な事柄においては︑正義と知恵とのあらゆる原則︵㊤昌嘆冒9且Φω9甘ω↓凶8きOb巳昌︶

にもとづいて︑決定は︑その結果を待つことになる人びとにまかせられるべきである︒また︑行為に影響を与える悪       ︵29︶い手段ほど︑良い手段の信用を失墜させ︑それを挫折させがちなものはないのである﹂といって︑ミルは︑社会権力

の個人的事柄への介入は不可であり︑それは個人自身の自由にゆだねるべきであることを力説している︒にもかかわ

らず︑社会が権力的に個人的事柄に介入する場合には︑気力と独立心のある性格︵≦αq霞︒筆意価首α①づ︒ロユ︒馨︒げ甲       ︵30︶旨9興︶のひとは反抗するであろうことを例示している︒

 そして︑純粋に個人的な行為への社会の干渉の第一の例として︑ミルは︑ 〃公衆の意見 ︵芸oo嘗巳80h9①

醤巨ざ︶︑すなわち支配的多数歯〃︵き︒<①護巳ぎ騎ヨεo葺団︶を挙げ︑それは﹁社会的道徳や他の人びとに対する

義務の問題に関しては︑しぼしぽ間違っているとはいえ︑それ以上にしぼしぼ正しいようである﹂が︑﹁その同じ多

数者の意見は︑個人の自分自身の行為の問題に関しては︑少数者のうえにひとつの法として課されると︑正しくある

のと同じくらい問違っていることもある﹂といい︑その理由について﹁なぜなら︑これらの場合には︑世論が意味す

るものは︑せいぜい︑他の人びとにとってなにが善であり悪であるのかということについての一部の人びとの意見で       ︵31︶あり︑しかもそれすら意味しないことが非常にしばしぽであるからである﹂と述べて︑ 〃世論〃なるものの実態を鋭

くつき︑また〃公衆とか〃社会なるものは﹁もっとも完全な無関心さをもって︑公衆が非難する行為をなす入び

との快楽と便宜を看過し︑公衆自身の好みのみを考える︒自分たちが嫌悪するものはどんなものでも︑それは自分た

ち自身に対する害悪だと考えて︑自分たちの感情を侮辱するものだとして憤る人びとが多く存在する﹂ものだし︑﹁個

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(19)

消極的自由(六)

人の行為に干渉する際には︑公衆は︑自分たちのとは違った行為と感情を極悪だとすること以外には︑ほとんどなに

    ︵32︶も考えないしと︑論じている︒そして︑ ﹁この判断基準を少し変装したものが︑あらゆる道徳家と思索的著述家の九       ︵認︶割によって︑宗教および哲学の命令として人類に明示されている﹂といい︑﹁哀れな公衆は︑これらの教えを適用し︑

そして︑もしかれらが善悪についてのかれらの個人的感情においてかなり良く一致しているとすれぽ︑そのかれらの      ︵詞︶感情を全世界に対して義務的なものとしてしまうこと以外に︑なにを一体なしうるであろうか﹂と述べている︒

 右のように︑個人自身に関する事柄においても︑ミルの多数者や世論などの横暴や専制に対する強い批判がみられ

るのである︒そのようなかれが一応描いている理想的な社会や公衆とは︑ ﹁すべての不確かな事柄においては︑個人

たちの自由と選択︵けげΦ h﹃①①山Oヨ 鋤昌O OプO一〇① Oh 一コら︸<凶口⊆麟一ω︶にまかせて妨害せず︑普遍的な経験が非とする行為

を差し控えるようにかれらに要求するだけである﹂ようなものであるが︑しかしかれは﹁自分の監察権になにかその

ような制限をおいた公衆が︑どこに見られるのであろうか︒あるいは︑いつ公衆は普遍的経験を知るように努力する

     ︵35︶のであろうか﹂と論じて︑そのように理想的な社会や公衆の実現に関して︑﹃自由論﹄で強い疑問を投げかけている︒

 そして︑ミルは︑個人の自由を犯すあらゆる普遍的傾向の存在を指摘して︑﹁道徳取り締り黒影︵ヨ霞巴0900︶

と呼ばれうるものの領域を拡張して︑それが個人のもっとも疑う余地のない正当な自由を犯すようになるのは︑すべ      へ36︶ての人間の傾向のなかのもっとも普遍的なもののひとつである﹂と述べ︑次のようなその豊富な実例を示すと同時

に︑それらに関するかれ自身の見解を明らかにしている︒

 第一の例は︑ ﹁その宗教的意見が自分たちのものとは異なる喜びとが︑自分たちの宗教上守るべき事柄︑とくに宗      ︵37︶教的禁欲を守らないというそれだけの理由で︑入びとが抱く反感である﹂これに関しては︑まず豚肉を食べることに

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(20)

対する回教徒の憎しみと禁止の例を挙げ︑これに対して︑ ﹁このような禁止を非難することを支持しうる唯︸の根拠       ︵認︶は︑個人の趣味や個人の自分自身に関する事柄には︑公衆は干渉すべき権利を全然もっていないということである﹂

と断じている︒次に︑スペイン人の大部分が︑ローマ・カトリック以外のやり方での礼拝に関して︑神に対する最大

の不敬かつ冒濱だと考えている例を引き︑これについて﹁われわれが進んで迫害者の論理を採用して︑われわれは︑

われわれが正しいがゆえに他の人びとを迫害してもよいが︑他の人びとは︑かれらが間違っているがゆえに︑われわ

れを迫害してはならないというのでないかぎり︑われわれは︑われわれ自身に適用されたならぼはなはだしい不正と       ︵39︶して憤るような原理を認めないように︑気をつけなけれぽならない﹂と︑論じている︒さらに︑︑︑︑ル自身の国である

イギリスのコモンウェルス時代やニュー・イングランドにおける清教徒の大衆娯楽や個人的娯楽の禁止を挙げ︑この

例は﹁われわれがその危険をすべて通過してしまったのでは決してない自由への干渉﹂であり﹁いまだにわが国に

おいては︑その道徳観念や宗教的観念によれぽ︑これらの娯楽を非難する人びとの大集団が存在している﹂のであっ

て︑それは主として〃中産階級に属しており︑ ﹁この階級はイギリスの現在の社会的政治的状況における支配圏勢

力であって︑このような感情をもつ人びとがいつか議会で多数を占めるかもしれないことは︑決してありえないこと

ではない﹂と論じ︑﹁社会の残りの部分の入びとが︑かれらに許されるべき娯楽を︑これらの厳格なカルヴィニストた

ちやメソジストたちの宗教的道徳的感情によって規制されるのを︑どうして好むであろうか︒かれらは︑社会のなか

のこれらのでしゃぽりな信心深い成員が自分自身の事柄に身を入れることを︑かなり断固として望むのではないだろ

うか﹂と主張し︑ ﹁このことがまさしく︑自分たちが間違っていると考えるいかなる快楽をも︑だれにも享受させて       ︵40︶はならないと勝手に主張するあらゆる政府や公衆に対して︑いわれなければならないことである﹂と︑説いている︒

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(21)

消極的自由(六)

 第この例として︑J・S・ミルは︑現代世界の民主化傾向にともなう自由抑圧一多数者の専制・横暴iの危険

性を指摘している︒たとえば︑当時においてかれが民主的な社会体制に向う傾向がもっとも完全に実現されていると

判断したアメリカ合衆国を例にとって︑そこでは﹁自分たちが張りあうことを望みえない派手で高価な生活様式の出

現が不愉快な多数者の感情が︑かなり効果的な奢修禁止法として作用し︑そして合衆国の多くの地方においては︑非

常な高額所得者が︑民衆の非難を招かないような所得のなんらかの使い方を見出すことは︑実際には難しいというこ

とが事実だといわれている﹂が︑そのような事態は︑誇張だとしても︑ ﹁公衆は︑個人の所得の使い方に関して拒否

権をもっているという考えと結びついた民主的感情の︑考えうる可能な結果であるのみならず︑多分起こりうる結果

  ︵41︶である﹂と述べている︒

 このような事態の可能性は︑ ﹁社会主義者の意見のかなりの普及を想像しさえずればよい﹂と︑︑・ルはいって︑その

際は﹁非常に少額のもの以上の財産や肉体労働によっては得られないなんらかの所得をもつことは︑多数者の目には

不名誉なこととなるかもしれない﹂と論じ︑現実に原理上これと類似した意見が︑職工階級の間にすでに広く普及し

ていて︑主としてその階級の意見にしたがわなけれぽならない人びと︑すなわちその階級自体の成員のうえに圧倒す

るようにのしかかっている﹂と主張して︑職工階級の多くの労働者たちの︑優劣を無視した同一賃金制や︑すぐれた

技術と勤勉による収入格差の否定︑熟練工の高収入に対する腕力的制裁や道徳的制裁による阻止などの例を挙げてい

︵42︶る︒

 このようにして︑ミルは︑ ﹁仮定の場合を長々と述べるまでもなく︑今日ですら︑個人生活の自由へのはなはだし

い侵害が行なわれており︑そしてさらに一層大きな侵害が成功の見込みをもって脅かしているのである﹂と現状を訴

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(22)

えると同時に︑再び社会や公衆の独善的横暴について﹁公衆には︑かれらが間違っていると思うすべてのことを法に

よって禁止するのみならず︑かれらが間違っていると思うことを攻撃するためには︑かれらが罪なしと認めるものを      ︵43︶すべて禁止する無制限の権利があると主張する諸意見が提出されている﹂ことを指摘して︑それらの例としてかれは

次の三つの例を挙げている︒

 第一の例は︑飲酒にふけることを阻止するという名目のもとにおける︑イギリスの一植民地とアメリカ合衆国の約

半数の人びとによる︑医学的目的以外の発酵性飲料水の法律による禁止である︒これについて︑ミルは︑この主張者

の〃社会的権利︵ω09巴﹁お冥ω︶を盾にしての主張に対して︑そのような言い分は﹁あらゆる他の個人にあらゆる

点でまさに自分が行動すべきであるように行動させることは︑あらゆる個人の絶対的な社会的権利であって︑そのど

んな小さな点でも怠るものはだれでもわたくしの社会的権利を侵害しているのであり︑立法府にこの苦情の除去を要       ︵44︶求する資格をわたくしに与えるのである﹂というのと同じであるといい︑それは﹁非常に奇怪な原理﹂であって﹁自

由に対する個々のいかなる干渉よりもはるかに危険なものである﹂と批判し︑そのような学説は︑結局は︑ ﹁相互の

道徳的知的および肉体的完成にさえもの既得権化した関与をあらゆる人びとがもっていて︑それは各権利者によって       ︵45︶かれ自身の基準にしたがって定められる﹂ものであると論難している︒

 第二の例は︑安息日遵守法である︒ミルは︑週に一度ある特定の日にみなが休業する習慣は非常に有益なもので︑      ︵46︶﹁各人に他の人びとによるこの習慣の遵守を保証することは︑許すべきことであり︑正当なことである﹂と一応は述

べているものの︑しかし﹁この正当化は︑他の人びとが各個人のこの習慣遵守においてもっている直接的な利害関係

にもとづいているのであって︑ひとが自分の余暇を使うのが適当だと考えて︑みずから選んだ職業には適用されな

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(23)

消極的自由(六)

い︒また︑それは娯楽の法的禁止には少しもあてはまらないしと述べ︑かつ日曜日の法律制定による娯楽禁止に関し       ︵47︶ては﹁いくら熱心に抗議されても抗議されすぎることはない﹂と断じている︒

 第三の例は︑イギリスの新聞によるモルモン教に対する迫害の言葉である︒ミルは︑モルモン教の致命的欠陥をい

くつも指摘しながら︑だからといって︑ ﹁わたくしは︑いかなる社会も他の社会に対して文明化されることを強制す

る権利がある︑とは思わない︒悪法によって苦しむひとが︑他の社会からの援助を懇願しないかぎりは︑かれらとま

ったく関係ない人びとが干渉して︑それに直接関係をもつすべての入びとが満足しているように思われる事態が︑そ

れになんらの関与も関係もない︑巡幸マイルも離れたところに住む人びとにとってスキャンダルであるという理由か

ら︑終止符が打たれるべきであると要求するのを︑わたくしは認めることができない︒もしかれらが望むならぽ︑か

れらに宜教師を送らせて︑それとは反対の説教をさせれぽよい︒また︑なんらかの公正な手段︵モルモン教の教師を

沈黙させることは公正な手段ではない︶によって︑それと同じような教義が自分たち自身の国民の聞に広まるのに反

対させれぽよい︒もし︑野蛮が世界を支配していたときに︑文明が野蛮に勝ったとするならば︑野蛮が完全に鎮めら

れた後で再び生きかえって文明を征服するのではないかという心配を口に出していうことは︑まったく杞憂にすぎな

い︒一度征服した敵にこのように屈服しうるような文明は︑まず非常に堕落したものになっているので︑それが任命

した聖職者や宣教師も︑また他のいかなるひとも︑その文明を支持する能力をもたず︑その労をとろうともしなくな

っているに違いない︒もしそうであるならば︑そのような文明は退去通告を受けるのが早ければ早いほど良い︒それ

はただ悪くなる一方の路をたどり︑ついには︑ ︵西ローマ帝国のように︶精力的な野蛮人たちによって滅ぼされて再         ︵48︶生させられるであろう﹂と︑力説している︒

87

(24)

88

 以上︑J・S二・・ルの﹁個人に対する社会的権威の限界について﹂の見解を︑ω﹁個人と社会との関係﹂︑および

㈹﹁個人の行為の自由の基準﹂という二つの面から︑できるだけかれの言を引用しながら論じてみた︒これらを通じ

て筆者が痛感したことは︑かれが︑個人の自由︑人格的尊厳︑個性︑自発性︑自尊︑自己発展などをきわめて重視・

尊重し︑これらなくしては人類の幸福がありえないと主張していることである︒しかし︑そうだからといって︑かれ

が個人はなにをしてもよいといっているかというと︑そうではなく︑J・ベンサムや父︑ミルのような︑原子的個人の

単なる集合体が社会だという機械主義的な原子的社会観をとらず︑個人を社会的存在とみなし︑ときには有機体説に

近いことをいっている場合すらあるくらいである︒それゆえ︑人間の生活には﹁自分自身にのみ関係する部分﹂と

﹁他の人びとに関係する部分﹂があるとはいってはいるものの︑画然と二つの部分に分けているわけではなくて︑﹁自

分自身に関係する行為﹂が他の人びとに影響をおよぼす場合が十分にありうることを︑しばしぼ繰り返えして述べて

いる︒したがって︑ミルの﹁二分法﹂は決して単純な二分法ではないのである︒そうしたなかで︑かれは︑明白な損

害を他の人びとの利益や権利に与えない限ぎり︑ ﹁自分自身に関係する部分や事柄﹂においては個人の自由や人格的

尊厳や個性や自己発展を最大限に尊重して︑個人の行為の自由を認めなければならないと強調しているのである︒こ

のことに関して︑かれは︑すべての個人を取り囲む社会を円環〃になぞらえ︑その円環のなかにはいかなる権威も

介入しえない神聖な領域が存在し︑そこでは個性がいかなる公衆からも制約されずに君臨し︑個人が絶対的な主権者

だというのである︒そして︑他の人びとは︑そのために多少の影響を受けても︑その不便は〃人類の幸福〃や〃人間

の自由という〃より大きな善のために忍ぶべきものだし︑また忍ぶことのできるものだとしている︒そのような

(25)

神聖な領域への介入として︑ミルはまたもや多数者や世論や社会の専制・横暴を取り上げて︑これを激しく批判して

いる︒ただし︑個人の領域のものであっても︑他の入びとや公衆や社会に対して明白な損害を与えたり︑その危険が

あるときは︑話しは別であって︑その問題は個人自由の領域の外へと取りだされて︑道徳や法律の領域のなかにもち

こまれ︑社会や公衆が介入して処罰すべきであるとしているのである︒すなわち︑ ﹁自己防衛﹂と﹁危害防止﹂のた

めには社会の権威的介入を認め︑義務不履行者に対して厳しい態度を示している︒このようなミルの見解や立場は︑

自由と民主主義の現代においても︑十分に尊重されるべきものである︑と筆者は主張したい︒

消極的自由(六)

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旨置こロ・O心.

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ぎ置こO.8.

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守置二〇.㊤①.

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ぎ達こO.8.

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89

(26)

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(R) (8) (8)

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(g) (8) (8)

Ibid., p.97.

Ibid., p. 97.

Ibid., pp.97‑8.

Ibid., p.g6.

Ibid., p.98.

Ibid., p.98.

Ibid., p.99.

Ibid., pp.99‑1oo.

Ibid., p.1oo.

Ibid., p.1oo.

Ibid., pp.1oo‑101.

Ibid., p.101.

Ibid., p.101.

Ibid., p.101.

Ibid., pp.101‑2.

Ibid., p.102.

Ibid., p. 102.

Ibid., p.103.

Ibid., p.103.

Ibid., p. 103.

Ibid., p. 104.

Ibid., p.103.

Ibid., p.104.

8

(27)

︶  ︶卜︒っoO︒っ︵  ︵ ︶  ︶①oっO寸︵  ︵州寸

︶  ︶㎝寸︒っ可︵  ︵ ︶  ︶寸寸め寸︵  ︵り寸    卜寸α○寸︵  ︵

Ibid。, p.104.

Ibid., p.105.

Ibid., p.106.

Ibid., pp.106−7.

Ibid., pp,107−8.

Ibid., p.108。

Ibid., p.108。

Ibid., p.110.

Ibid., p.110.

Ibid., p.111.

Ibid., p.111.

Ibid., pp.113−4.

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参照

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