"A wise passiveness"の普遍性 : 禅者にふれた Wordsworth
著者 深沢 幸雄
雑誌名 主流
号 37
ページ 18‑37
発行年 1976‑09‑25
権利 同志社大学英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014910
18
A Wise P a s s i v e n e s s " の普遍性
一一禅者にふれた Wordsworth一 一 深 沢 幸 雄
1
Wordsworthが1793年初頭,生涯はじめての精神的危機に逢着し 此 の夏の SalisburyPlain旅行で味わった内心の苦悩と,自然から受けた強 烈な印象は『序曲Jl (Prelude)に記されているが当時の彼は,病的と も思えるほどの,或る異常な心身の興奮状態に置かれていた この時ま で自然を単に自然として扱っていた彼は,自らの思想的(フランス革命に 対する), 個人的な(Annette Val10nへの〉悩みを脱却する手がかりと して自然を観じはじめ,そこに人事を通して自然を眺めるようになってき ていたが,この自然観は,更に深化されて,後の TinternAbbey"に 見られる Thestill, sad music of humanity'として表わされるに至る までには,いまだに明確な形で把握されてはいなかった.1795年秋頃の長 詩 Guiltand Sorrow"は, W ordsworthがこのような自然と人事への 関心が未だ重なり合った,不安定の状態のもとで書かれている.この作品 に,その影響が明らかにうかがえる Godwinの思想は, 度重なる彼のフ ランス渡航で嘗めた革命の推移に対する不信と,自らの期待を裏切られた 幻滅が,彼をして抽象的理論を拠り所にせしめた結果,一時彼が全面的に 受け入れるようになったものであることは,また『序曲』の語るところで あるメ それまで彼が人間社会の問題を究明しようとして唯一の道しるべ (one guide)としていた独立の知性 (an[independent intel1ect)は,や がて次の如くくずれていった.
A Wise Passiveness"の普遍性 I 10st
All feeling of conviction, and, in五ne, Sick
,
wearied out with contrarieties,
Yielded up moral questions in despair, (The Prelude, X, ll, 898‑901)
19
だがこζにいたるまでの聞の過程〈特に私的な恋愛事件については〉を 辿る場合, W ords‑worthは,おのれの魂の発展の忠実な記録であるべき
『序曲』の中でそのことをあまり明瞭に語っていない.ところが彼の生涯 で最も苦悩を味わったと思われるこの時期5 (1795年の秋か, それに前後 する時期〉に,移しい詩篇の中の唯一の戯曲 The Borderers円が,こ の間の『序曲』の叙述の不明瞭さを補うかの如く執筆されている.
この戯曲と前述の物語詩 Guiltand Sorroω円は, W ordsworthの諸 作品中,特異な性格をもっこ篇で,これらは,作品そのものより,むしろ この当時の作者の思想的推移を知る点で極めて注目すべきものである.特 に戯曲中の登場人物Oswaldをめぐって,この人物を, Godwin主義の権 化として彼 (Wordsworth)が描いたと主張する Legouis6や,理性に反 した行動をした Oswaldを描くことによって真の Godwinismを彼は主 張したとする Garrod7の立場と,これと全く反対に ,W ordsworthは, すでに乙の戯曲で, Godwinの benevolence円の思想、による肯定的人生 観を表現しているとする Meyer8,RountreeS の立場があるが,実のとこ ろわれわれは,明瞭で説得的な説明をまだ持っていないようである.それ は,W ordsworthが Lyrical Balladsの序文で述べているように I長 きにわたる深いJ(long and deeply)膜想の末に9 かつて体験されたもの が,種々に有機的に結びついて,やがて普遍的な経験に高められて一個の 詩となるまでには複雑な創作過程が10あり, それがこのような比較的,客 観的に描こうと構想されている戯曲にもあてはまることに起因するであろ
20 A Wise Passiveness"の普遍性
う.この点は暫らく措くとして, 戯曲の中の Oswaldの次のような言葉 には,自然の壮大な形象が,人聞の知的精神に与える力を語っていると同 時に,冷徹な理知で人事をさばこうとするいわば半 Godwin主義的なと ころがないであろうか.そして又,この作品の翌年にかかれたExpostula‑ tin and Reply及び TheTables Turnedの詩句と共通した語 (v.p.26 supra, p. 28 infra.)の表現 (mighty,dissect, impress等の〉が, ζの戯 曲中にすでに次のように用いられているところから Wordsworthは, この頃すでに確固たる自然観を生み出す心の芽を内にもち,前述の最悪の 状態から恢復しつつあったとことが十分察せられるのではあるまいか.日
く,
1 perceived
What mighty objects do impress their forms To elevate our intellectual beings;
(The Borderers," 11. 1807‑10)
再iVedissect
The senseless body
,
and why not the mind?(op. cit., ll. 1166‑7)
かつて若い学生達に向って「化学書など焼いてしまってGodwinを読めJ と忠告した彼カ2119上記二短詩で, 1自然の知慧J (Spontaneous wisdom) にめざめよと説くように変った Wordsworthの思想的な動きは,詩の題 の示す如く,正に turnthe tables (局面転換〕だったのである. ζの意 味において, Expostulationand Reply円 と TheTables Turned"
は,彼が Godwin思想、に行きづまりを感じた自分の姿に, 新しい衣 をまとって生まれ出たことの宣言とも云うべきものであり, 戯 曲 The Borderers "はいわばその間の過度的作品とも言えるであろう.
A Wise Passiveness"の普遍性 21
2
かくして到達したこの二短詩は,今更事あたらしく持ち出すまでもなし この詩人のもつ「思想」の精粋を直裁明瞭に epitomizeしたものであるば かりでなく,詩人の原体験が,複雑な経過をたどって,一個の詩に結実した とζろの Wordsworth独特の確たる自然観を示すものである, 因みに再 篇とも LyricalBalladsに収められ, TinternAbbey"と並ぶ佳篇であ り,しかも M.H. Abaumsの指摘する如く12 一旦書き上げた詩に,long and arduous revision 'を付すことの多い Wordsworthが,後に全然改ざー んを加えなかった数篇に属するものである.この二詩の中,先づ Expos晒 tulation and Reply円で, W ordsworthは,意志にかかわりなし五官を
通じて受ける印象により,おのづとわれわれの心を動かす様々な「大いな る力 (powers)Jの存在を認め I賢明なる受動状態に身をおいて (Ina wise passiveness)ひたすらこれに従うと心を養うことが出来る」と説き,
「ーとして自ら生ずることのない,この永遠に語りつづける森羅万象の中 にあって, われわれは何を外に探し求めねばならぬのか」と問う. 更に The Tables Turned円においては Iかかる自然の事物の真生命の光 (the light of things)に透入し, 自然のもたらす限りない教えを師とし,
おせっかいな分別知に曇らされて,もののもつ美しい姿形を「頭」で分析 して歪めるな」と説きつづける.また前者の詩で,
Where are your books? ‑ that light bequeathed To Beings else forlorn and blind!
(11. 5‑6)
と幾分 ironicalな響きをもっ詩句は,後者にあっては,最初から,quit your books;' と叱正にも似た強い語調で出発している.これらの自然に 対する wisepassivityをうたった詩の直哉性は, W ordsworth詩中他に
22 A Wise Passive即時"の普遍性
類を見ないものであり, iW ordsworthは, 世紀の変わる以前にすでに最 高の域に達し終っていて, 1798年の TinternAbbey円にすら, 概括化,
知的勾い,拒漠さの徴候が見える」と指摘したBlythが, 上記二篇のほ かに ToMy Sister"をも高く評価しているのは興味深い13 一方また a wise passivenessとは一体何か.緑の森から受ける衝動は,何をわれわ れに teachするのか.intellectはどうして meddlingなのか.両篇に共 通して見られる booksとは果たしてどんな含みをもっているのか. 先に 直裁明瞭にと記したが,これらの詩句の意味するところを明らかにするこ
とは必ずしも容易ではない.
かつて MatthewArnoldは, W ordsworthを評して 'Hispoetry is the reality, his philosophy...is the illusion'とL、ったことがあるが14
しかし「彼の詩と哲学」は, Her bert Readが言うように 'strands that twist through the whole course of his life'というべきであろう15
Wordsworthの一連の思想乞例えばその自然に接する態度を pantheism ないし anlmlsmで,万物一体の理を mysticismで, また幼時の買の豊 かな Visionをplatonismで,或いは彼の独特な感覚経験を empiricism で等々概括化して片づけようとすることは,あまりにも一面的にすぎ,強引 に思われてならない16 W ordsworth研究は, これまで殆ど常に Prelude が描く想像力の危機と再生をめぐってのこの詩人の詩魂の急速な展開につ いての関心に終始してきているが,一旦作り出されて,そこに「出来上っ ている作品」が語りかける意味は,もっと「普遍性Jのあることを重視せ ねばならないのではないか. この意味において MelvinRaderが,その 著Wordsworthの中で PeterBurraの Poetry is never the slave of phi1osophy ,の言葉を引用し, W ordsworth was too far great a poet to be enslaved to any philosophical movement'と言っているのは首肯
される17
A Wis巴Passiveness"の普遍性 23
3
仏教,とくに大乗仏教である禅では,一切有情の総体から切りはなされ た「個」である「自己」のみにたより,個を窮極の実在であるかの如く考え て,自性 Csvabhava)のみに執するζとが罪である. もともと小乗仏教で は,人間のもつ業を,個人的に解釈していたが,やがて大乗仏教になると,
業を単に個々の自己に限ることなし宇宙的な「全」としての個を自覚す るようになり,業の「地」の面,即ち「全体的」な面,言いかえれば一切 衆生の救済を強調するようになっていった.つまりは「知的には自己と考 えられているものの中に自己以上の何ものかを徹見し,意的には自己を越 えてしかも自己を意志し実行する」ことが罪の浄化であって,大乗教徒は
「自己でないもの,しかも自己の中にあるもの」を仏性とよんで
r
宇宙 とその雑多性とを併わぜこれを自らの中に保有するものと,自己とを同ー のものたらしめよう」と努めた.この場合,仏性を覚ろうとする努力から 生ずる心理経験はr
受動性」の心理と結びつくものであるとして,鈴木 大拙氏は, ζのあとに Expostulationand Reply円の第6・7スタンザ を引用している18 (大拙氏は1902年『新仏教』第3巻. 5号・ 6号にも Ex‑postulation and Reply"の最後のスタンサ、と TheTables Turned"の第1およ び7スタγザを引用して泰西の詩の中の禅を説いている.注参照.)
われわれが
r
受動性」という時,普通この心理を宗教的な意識として 経験する場合が多いようである.即ち有限である人間が,その無力さを感 得し,無限な「或る者」へ「自己」のすべてをゆだねることを意味するも ので,一方の「自己」が他方の「或る者」から何らかの力を受ける場合を 考えて,両者を別々の二つの存在として見る傾向がある.そこで当然「自 己Jとは何かr
自己」の範囲と「他」との境界はどこにおくかという問 題が生じてくる.Readは,Icon and ldeaでr
自己は波のように動いているもの」であり,これに「焦点をあわすことができぬ」ものであると
24 A Wise Passiveness"の普遍性 し,次のように述べている.
われわれが自己としてなんらかの瞬間に抽出するものは,じつはわれわ れの注意力が一定のイメージをあつめて或る「意識状態
J .
或る反省の 瞬間をむりに構成させている固定した点にすぎない. しかしこの意識 の状態は「自己」とよばれるものの意識ではなし たんに自己の辺境 (frontier)にある或る一定点の意識にすぎない.彼によれば,われわれは自己を ibetrayする」ことはできても iknow する」ことは出来ないのであって iあらゆる芸術はこの意味で無意識の 自己漏洩であるが,必ずしも漏洩された自己の自覚ではない」としている19
更に鈴木大拙氏によれば i自己」という観念は,とらえにくいものであ るが,厳密な意味での「個」は,事実上存在し得ないもので9 個は単に存 在の一面に過ぎないとして,個々の「自己」が一つはなれて,それだけで,
それ自体で在るものと考えるのは illusionであると言っている20
それ故に自己と,それとは全く関わりのない全然自己以外の者との対立 を考えるのは誤りであり,われわれが,一見自己は自己であって,他者は それ以外のすべての物のように受け取り易いのは,日常の生活で,われわ れが,相対する二元の世界に起居している錯覚におちいっている場合が少 なくないからであって,この二つを別々に概念化して,あたかもそれぞれ の一つ一つが,それ自体独立した真実のものであるかのように観る習慣づ けが恒常化されてしまっているからである,したがって, i自己」と「他者」
とが絶対に分離している場合がもしあるとすれば,そこには受動性は全く 感ぜられないのであって i自己」の側に「他の力」を受容する力がある から受動を感ずる事実があり i他の力」は全く空白な「自己」に入って いくことはあり得ない. i自己」をなくして,そこに後から「他の力」が 入ってくるのではなし自分以外の全宇宙と自己とを同時に同ーのものた
A Wise Passiveness"の普遍性 25 らしめようとする時,はじめて「受動性」のはたらきが生ずるのである.
自即で他即自と言えよう2ら われわれは,説明上「受動」と「能動」と二 つのものを概念上区別して,便宜上,言葉で表わしているが,絶対的な受 動性はあり得ない.受動的であるというこは,受け入れようとする何物か がそこに動いていることを意味するもので,強い内部の能動的な心のはた らぎが全然見られないところに,受動性の活動はあり得ないことは明白で ある.この辺の消息を Wordsworthの言葉を借りて言えば
r
日と耳とが知る大きな世界すべてを半ば創造し知覚する22J ( of all the mighty world / Of eye and ear
,
‑both what they half create, /
And what perceive; )のである.又自然と嬰児とを次のようにうたう時,From nature largely he receives; nor so Is satisfied
,
but largely gives again,
(The Prelude, II, 11. 267‑8) Creates
,
creator and receiver both,
W orking but in alliance with the works Which it beholds.
(lbid., 11. 272
ー の
人間も自然も等しく,受動的,受容的面と,能動的,創造的面をかね備え て,互いに独立しながら相互に同ーの法則のもとに影響し合い
r
見る被 造物と協力して働らきJr
受け入れるとともに創造する」同時i
生の中に,わ れわれは Wordsworthの想像力を見ることができる. ここには,経験が 受動的であるとする英国経験主義の伝統は見られないといってよいであろ う23 (なぜ、ならカントが言ったようにすべては mitder Erfahrungであ るにしても,だからと言って ausder Erfahrungではなく, 自然に対す るこのような apri‑o‑riなものを経験主義の人の用いる associationでは26 A Wise Passiveness"の普遍性
説明がつかないからである24.) W ordsworthが「内からの活動と外から の活動の均衡J(A balance, an ennobling interchange / Qf action from within and from without)を得て,そこに「最高の力J(best power)を 見て,人間の内の精神と自然の中の力が,或る無限の普遍的な力の下にあ るという意識25を持ったのは Salisbury平原通過 (1793夏)当時であっ たが 5年後にして明確な形を取るに至ったのが次の一節であると言えよ
hフ
Nor less 1 deem that there are Powers Which of themselves our minds in
ψ
ress ,.That we can feed this mind of ours In a wise passiveness.
4
受動とは同時に創造することであることを考察してきたが,それでは,
どうして「身体が健全であればおのづと賢い考えが湧き出るJ (Sponta‑ neous wisdom breathed by health)のであり,又「心の快活によってお のづから事物の真相に到達J(Truth breathed by cheerfuln巴ss)できる のであろうか. ToMy Sister"の詩で, W ordsworthは次のように言
﹀ つ
Our minds shall drink at every pore The spirit of the season.
(11. 27‑8)
「人間の身の内に,皮膚が細かな毛穴から外気を吸い込むように,心に霊 気をのみこむ」ということは,心身の健全を要求しているものであって,
ζれを妨げる一切のものを忌避することを意味する.これは,生々はつら
A Wise Passiveness"の普遍性 27 っとして「生きて動くものJを自己の中に直覚し,自覚することによって 真実を体得することを願っているものであって¥賢明なる受動性」を可 能ならしめる心の準側状態,即ち一点の曇りもない心的状態を求めたもの で,言いかえれば wIse passivityを「体験する」ことの出来る心的状態 を述べたものである.
The eye ‑ it cannot choose but see; W e cannot bid the ear be still; Our bodies fee1, where'er they be, Against or with our will
(Expostu1ation and Rep1y," 1 .117‑20) こζには「見るJ I聞く」行為と I見るJ I聞く」感官或いは主体との 開に間際は全くない,能動と受動とが同時に一体となっている。この主体 と客体の合ーは, Tintern Abbey円では,
Until, the breath of this corporea1 frame And even the motion of our human b100(l A1most suspended, we are laid asleep In body, and become a living soul:
(11. 43‑46)
とやL高潮した感情の吐露となってうたい出されている.そこにはいかな る自己分析も働らく余地がない.正に「そのまま」の状態である.一見,
全く自己の存在を忘れた単なる忘我慌惚の状態に受けとられ易いかも知れ ないが,そうではない.禅書, ~臨済録』示衆四に次の如き言葉がある.
師示衆云,道流,仏法無用功処.
祇是平常無事,厨尿送尿,著衣喫飯,
28 A Wise Passiv巴n巴師"の普遍性 困来即臥愚人笑我,知乃知荒.
古人云,向外作工夫,総是廉頑漢.
儒且随処作主,立処皆真.
けだし,
r
計らいを加えるところに仏法は無い」ことを言ったものである26このような WisePassivityを妨げているものが, W ordsworth言うと ころの meddlingintellectである. 即ち概念・知識だけで積み重ねられ て,人間自らを動きのとれないものにする「分別知」である.学問とか,
書物とかといった知的な匂いのするものである. このことを示す2・3の 例をあげれば次の如きものがある.
Where are your books? ‑ that light bequeathed To Beings else forlorn and blind!
(Expostulation and Reply," 11. 5‑6) lJp! up! my Friend, and quit your books.
(The Tables Turn巴d,"1. 1) Books! 'tis a dull and endless strife :
(lbid., 1. 9) And bring no book: for this one day vVe'll give to idleness.
(To My Sister," 11. 15‑16)
「書物Jという語が示しているものは,われわれの人為的,意図的労作,
言いかえれば,主に理知のはたらきであるが,この場合,詩人は,それを 全く拒否しているかのような印象を読者に与えているかも知れない.しか しこれは,われわれが,知的でないもの,人間の知性で汚されていないも の,直覚的に把握される純一無雑なものを体得する場合,それらが,先に 述べたような「真の」受動性と密接に結びついているものであることを強
A Wise Passiveness"の普遍性 29 調していることに基いているのであって,全面否定ではないことにすぐ気 づくのである.
r
書物」の否定ではなく,知的分析を越えた預域に立って,知的なものをふり返る態度である.W ordsworthのこの点での詩的表現は,
次の TheTables Turned"で更にはっきりした形となっている.
Sweet is the Iore which Nature brings; Our meddling intellect
Mis‑shapes the beauteous forms of things:‑
W e murder to dissect.
(11. 25‑28)
Tintern Abbey"で, W ordsworthは少年の頃を回想して
r
高い巌,そして深い暗い森,それらの色と形は,この私にとって9 一種の食慾感覚,
そして愛だ.この肉眼の助けを借りぬ一切の精神的興味,又頭でつくった 高速な魅力などに用はない.J (76‑83行〉とうたったが,この言葉に措か れ,暗示されているものは,思想を解剖したり,知性を分析した結果では ない.だが当時の自分を反省して「その時はもう来ないJとなげき,自然 の中に新たな救いを求めようとし,殆ど信仰にも似た気持でそれに迫って いくのだが,それは
r
おせっかいな知的分析Jが,成人とともにつのっ ていくことを物語ることでもあり,彼がしばしば幼時への回想に言及する 理由もここにある.知的分析は,分析として,それ自身の意義を認めても,事実そのものの 体験とはならないのであって,そこに何らの批判分析をも加えない「自分」
と「物」との葎然たる生命の全一的働らぎがあることを知らねばならない.
Wordsworthの作品を一貫して流れている最も主要な特性は, 彼自身の Lyrical Ballads序文の言葉を借りて言えば
r
題材を凝視することによ ってJ(to look steadily at my subject)到底「車偽」の潜入する余地の ない真撃な態度で対象を「観る」ことである.すでに自分と物とのへだた30 AもiVisePassivァ巴ness"の普遍性
りを意識するところに,自然、に対する愛など生まれてくる筈はない.見ら れる対象 (theobject seen)を意識せず, 見る自分 (eyethat sees)も なしなお且つ対象はそこに在り,眺める自分がそこに居る.それでいて この間に両者を流れている何物かを感ずる態度は27 東洋的一如の世界28
と軌をーにするものである .ilV ordsworthの場合序文でいう「長く深
< J
訓練せられてきたものヲ養なわれてきたものが,時間・場所を同一にした 次元で,詩となって表出するのであって9 分析結果ではない.さもなけれ ば「分析解剖して9 事物の真生命を逸してしまうJ (murder to dissect) jっけである。か〈して,
One impulsεfrom a v己rnalwood l'vlay teach you more of man, Of moral evil and of goodラ
Than all sages can.
(The Tables Turned," 1. 121‑24)
という詩句ば, mor呂!など教えてもらいたくない詩人たちゃ,言葉でつま った書物がなければ困ってしまうような (To Beings else forlorn and blind!) moralist達を当惑させるであろうが9 森が我らに何を教えるかと いう間lこ対する答は,ただ「森は教えるJである.仏教の華厳思想は「理 事無醍Jとし寸言葉を使うが9 乙れは,われわれが,感性と知性の世界及 び霊性の世界の二つの世界 lこ住んでいて,それが二っとも「そのままで一 つ」であることを意味する語である i事J(又は「色J)は眼識の対象と なるもので9 形あるもの,限られたもの9 われわれの分別の対象になるも のであるが9 形がなくなれば波びる運命にある無常のものである.
r
理」(又は 7空J)は,空無の意であるが9 勿論「有Jに対する相対的な「無」
ではなく,絶対迭をもったもので9 それ自俸がすべてのものを包む限定の
ないものであって,~る者 lこ「対して」在るものではない. 事と理は,
A Wise Passiveness"の普遍性 31 概念上二つに区別してはいるものの,互いに鋒融していて,仏教の言葉で
「円融無瑛」しているのである. 分析を主とする知(intellect)の差別界 は
r
我」の一念で支配されているので,この「我」を一切すてて,名誉,権力等々のあらゆる附属品を排除して,人間の本然の姿を直視することを 仏教では説く29 ここでわれわれは Wordsworthの言う 「人間本来の 生地のままの高貴さJ(the native and naked dignity of man)を想起す る.古来「禅の本質Jは色々の言葉で指示されているが,要するに,この
「自己本来の面白」である30 西国幾多郎氏以来の伝統によれば「絶対無」
である31 分別知を捨て去り,霊性の明鏡の前に一真人にならなければ事 物の真生命を体得できないとする. w臨済(禅師語〕録』上堂三に日し
上堂.云,赤肉団上有一無位真人.常従 汝等諸人面門出入.未証拠者,看看32
Wordsworthが 'impulse'という時, このような真人の直覚的な知慧 の上に立って発せられたものとして解釈してよい.われわれの明鏡にたと えられるべき,かかる知慧を,仏教では般若 (Prajna)と呼んで,我々の 知識,つまり分別識(Vijnana)と区別しているが,分別識が自己を中心に して何か対象をこしらえて分析する働らきを有するのに対して,般若は決 してこの分別識を否定したり,無視したりするものではなし分別識が般 若によって自らの姿をよりはっきりと見つけ出し,自らの働らくべき場所 を会得するようになる Wordsworthが先に murderto dissectといっ たのは,このような意味において, 決して intellectを否定し去っている わけではない. 唯むつかしい学問上の抽象 (Enoughof Science and of Art)よりも, 自然から受ける,又自然によって内に生ずる「無心」の状 態が却って真理をもっともよく把握しうることをうたっているのであって,
a heart / That watches and receivesといった表現にこれを見ることが できる.即ち本章で述べてきた如し理知が限界に到達したとき,その境
32 A Wise Passiveness"の普遍i生
界をのりこえて後得られる Spiritualな経験事実が Wordsworthにうか カ2えるであろう.
5
最後に, このように meddlinginteIIectを越えて「透入する事物の生 命の放つ光J(Come forth into the light of things)とは, どういうも のかを考究してみよう.
Wordsworthは, Hawksheadの少年時代,Prelude 1巻で述べている ように,わなで小鳥を捕えたり, (318,,‑,322行), Ullswater湖でボートを 無断で漕ぎ出した (372行"‑'427行〉項や Esthwaitewaterでのスケート の項は,自分と外界の間に,確かに異質なものを感じ,自分を自然への闇 入者と眺めて, そこに自分とは別の存在である 'aspirit'を感じていた が,一方では次のように宇宙とおのれとの神秘的な一体感もあった.
Oft in those moments such a holycalm Did overspread my soul
,
that 1 forgot That 1 had bodily eyes, and what 1 saw Appear'd like something in myself,
a dream,
A prospect in my mind.
(The Prelude, II, 11. 367‑371)
この頃,まだ Wordsworthには, はっきりと白地の意識が反省されてい なかったようであるが, しかし上述の 'aspirit'は,Tintern Abbeyに 至っては
r
あらゆる思考するもの,あらゆる思考のあらゆる対象を動か し,万物を貫流する A motion and a spirit' Jと化して,宇宙的,空間 的なひろがりを持つようになり,やがて精神から物質へ,物質から精神へ とspiritualizeされていった. かくして常に事実に基礎を置いた当初の生 々しい Wordsworthの個人的色彩の濃い即物的なものが,単なる客観的A W ise Passiveness"の普遍性 33 自然、描写の域を越えて,後に,例えば「水仙」や「郭公」に見られるよう に,現実の感覚でとらえられた実体が,目に見えない不可視の世界に転化 されていく時, ζこにわれわれは, W ordsworth的 Visionの生成を見る.
即ち,幼少時に自然現象から受けた強い感動は,当時はっきりつかみ得な かったものの,次第に,このように「物」でないもの,外形の拘束を脱し て,非実体であり遍在的である「物J, の世界を通じて精神的な世界を感 得し,遂には「習慣的自己を脱却し,抽象的な思考の世界を棄てて,彼の いわゆる『壮大な耳目の世界』に没入する機会を得たとき,日常の感覚世 界がそのまま浄化されて,ここに自他一如の赫突たる浄光界33Jを現出す
る至ったのである.
このような世界に立って Wordsworthが 'wesee into the life of thingsラ (TinternAbbey) とか, comeforth into the light of things'
という時,人聞が「心」を通して「物」に
i
動きかけr
物」がその「心」を映して「人」に響応する態度を見ないであろうか.物は物だけでなくな って,物の心が人の心と相交わって一つになる姿が i物の真生命J
r
物 の放つ光」という言葉で表現されているのではなかろうか.というのは,実在とは,主客未だ別れる以前の直接経験唯一つしかないとする西国哲学 などにあっては,主観より独立した客観的実在としての自然は抽象的概念 にすぎないのであってへ 仏教でいう「事々無瑛」の世界,即ち絶対現在 の体験35を通してのみ「物のいのち」をはじめて知ることを得るからであ る.W ords worth の詩と思想は,常に感覚の世界に根をおろしているこ とは否定できないが ,Prelude最終巻の有名な Snowdon山上での自然の 印象の中で,
To rouse them, in a world of life they live, By sensible impressions not enthrall礼
But quickn'd
,
rous'd,
and made thereby more fit34 A Wise Passiveness"の普遍性 To hold communion with the invisible world.
(The Prelude, XIII, 11. 102‑105)
と語り invisibleな力とまじり合うことによって「物の生命」をとらえ ようとしている.われわれが五官の上に立って,理知で見ている世界は,
最も抽象的な世界であって Spiritualな世界こそ具体性をもったもので ある.
but there is higher love Than this
,
a love that comes into the heart With awe and a diffusive sentiment; Thy love is human merely; this proceeds More from the brooding Soul, and is divine.(lbidη11. 161‑5)
かく言うとき,彼にとって,地上の一つ一つのものが,すべて自己と同 じ精神的な存在として,甲乙なく厳然とじてそζに映じたのであり,自分 が対象そのものになってしまう時の体験事実が[""愛」となって感得され たのである. [""事物の生命」とは,上記引用の「静かに膜想するひとの魂 から生まれる」神聖な愛にほかならない.次の ToMy Sister"にあっ て,これは一層明瞭である.
Love. ,now a universal birth, From heart to heart Is stealing, From earth to man, from man to earth:
‑ It Is the hour of feeling. (11. 21‑24)
これは単なる汎神的な神の愛ではない.物と物との間の能動的な詩的関
A Wis巴Passiveness"の普遍性 35 係,大地iこ対する月の愛,星に対する蛾の愛である36 無論,感情移入と いったものではなくして, 人間の心の絶対的なはたらきであり, 無限の 慈悲から生れる働らきそのものであり,相手のある慈悲ではない.それは Wordsworth言うところの auniversalbirthをもつもので,向うにもの をおいて,それと相対して,それを包む愛ではない。愛で包むものも,又 包まれるものもない.いわば愛そのものの働らぎが,天地到るところに発 動しているのであると詩人がうたっている Iそのもの」である.従って the hour of feelingという時,この feelingは emotionの意ではなく,
intiutionの意であり,物と物とのこ物に貫き合う interpenetrationの意 味に解すべきである.このようになってはじめて I物のいのちJをわれ われは透観できょう. (We se己 intothe life of things)
注
1 The Prelude (1805‑6), X, 250ー75(ed. by de Selinconrt, Oxford: Clarendon Press, 1959.)以下,本論に引用する「序曲」の詩句は, 1805‑6年稿 (1959年刊.
2版)による.なお引用した'vVordsworthの詩は,すべて ThePoetical lVorks ザ lV.Wordsworth, ed. by de Se1incourt and Helen Darbishire, (Oxford: Clarendon Press, 1940‑1949)による.
2 lbid., XII, 312‑53.
3 Herbert Read: Wordsworth, (London: Faber and Faber 1949,) p. 50. 4 The Prelude, X, 806‑30.
5 W ordsworthのいわゆる「危機」についての持期は俄かに決めにくいが Todd によれば, 1794年11月の Keswick滞在中から,同年12月末より翌1795年1月は じめにかけての Penrith滞在までの時期であろうと言っている.(F. M. Todd:
Politics and the Poet, (London: Methuen, 1957) pp. 78‑84参照〕
6 Emile L巴gouis: The Earか Lifeof William Wordsworth, 1770‑1798, (London: Dent, 1897) tr. by 1. W. Matthews, pp. 269‑278.
7 H. W. Garrod: lVordsworth, (Oxford, 2nd ed. 1927) p. 91.
8 Georg巴WilburMey巴r: Wordsworth'sFormativ巴 Years,"in University of 1¥11ichigan, Language and Literature, Vol. XX.
9 Tomas 1. Rountre巴 ThisJvlighty Sum of Things, p. 13. 10 Preface to Lyrical Ballads (1800).
36 A Wise Passiveness"の普遍性 11 Herbert Read: Wordsworth, p. 177.
12 The Mirror and the Lamp (New York: Norton, 1958), p. 113.
13 R. H. Blyth: A 品 開eyof English Literatuse, (Hokus巴idoPress, 1957) pp. 236‑7.
14 Matthew Arnold: Wordsworth ' Essays in Criticism, 2nd Series. (London:
Macmillan, 1888).
15 H. Read: Wordswοrth, p. 31.
16 主著書をあげてみれば英国経験主義・哲学の流れを汲むものとするものにまず,
Aurthur B巴atty:協TilliamW ordsworth‑His Doctrine and Art in their Historical Relation, 1922, Part 1, chap. 1, p. 15.
神秘主義的立場に立つ見解のものとして F. W. H. Myers: Wordsworth, 1881, p. 128.
C. F. E. Surgeon: iV1ysticism仇 Eng.
ι
sh Literatur・e',1913, III: 'Nature Mystics', pp. 59‑68.ルソーの影響を重視するものとして
G. M. Harper: 1杭II必m Wordsworth, 1929. pp. 84‑8. Irving Babbitt: Rousseau and Romanticism, 1919, pp. 248‑50. C. H. Herford: The Age of Wordsworth, 1925, p. 155. C. H. Herford: Wω‑dsworth, 1930, p. 44.
William Garrod: Wordsωorth, 2nd. ed. 1927, pp. 98‑9. 等があり,この他ドイツの先験哲学に類似性をみとめる
A. C. Bradley: A Micellaηy,1929,English Poetry and German Philosophy in the Age of W ordsworth.
など由主ある.
17 Melvin Rader: Wordswor叫,A Philosophical Aρ,ρroach, (Oxford: Claren‑ don Press, 1967) p. 3.
18 W鈴木大拙全集~ (岩波書応)VII, p. 368. I仏教生活と受動性j.大拙博士に は,このほか, 1914年『禅の第一義』第4I宗教の極致これ禅」の中の「西詩中 の禅」で TinternAbbey"の93‑102行の引用が見られる. w全集~ XVIII p. 270参照.
19 ハーバード・リード『イコンとイデア~ (みみず書房〉 宇佐見英治訳 1970, p. 121.
20 W鈴木大拙全集~ VII. p. 360.
21 入矢義高
I
JlP J
参照.r
禅文化』第57号pp.10‑11. 22 Tintern Abbey Lines," 11. 105‑7.23 Iワーヅワスとディヴィッド・ハートレーの哲学」前JII俊一「若きワーズワ
A Wise Passiveness"の普遍性 スJ(英宝社)pp.332‑4.
24 西国幾多郎 w哲学概論~ (岩波書広)pp. 93‑4. 25 The Prelude, XII, 11. 376‑9.
26 朝比奈宗源訳註『臨済録IJ (岩波文庫)p. 52. 27 The Prelude, XII, 11. 378‑9.
28 W鈴木大拙全集IJ1. p. 102.
37
29 The Essence of Buddhism by D. T. Suzki. (1970). Rev. ed. (Hozokan), pp. 47‑9.
30不思善不思惑正与疫時那笛是明上座本来面目. (六祖宝壇経.行由第一.十六 了).大灯国師仮名法語参照.
31 西田幾多郎「一般者の自覚的体系J (W全集』五巻)p. 451. 32 W臨済録IJp. 28.
33 前川俊一
w
若きワーヅワスIJp. 286.34 西国幾多郎 w善の研究~ (岩波書后)p.71及び p.121. 35 W鈴木大拙全集J]XXI, pp. 133‑5.
36 R. H. B1yth: A Survey of English Literature, p. 238.