中井 遼『デモクラシーと民族問題 中東欧・バルト諸国の比較政治分析』
(勁草書房,2015 年)
小 林 祐 介
は じ め に
第 1 節 デモクラシーと民族問題 第 2 節 歴史と民族問題
お わ り に
は じ め に
「民族問題が,民族集団間の対立に至る場合もあれば,そうではない場合も あるのはなぜか」(中井,2015,3)。中東欧・バルト諸国は,いくつかの共通性 があるにも関わらず政治的民族関係に差異が存在する,というのが本書の始ま りである。本書では,民族政治に,民主的な競争がどのような影響を及ぼすか について一つの解を示すべく,中東欧・バルト諸国 10 カ国1)を対象とした分 析が行われている。
第 1 節 デモクラシーと民族問題
本書の構成は 2 部立てであり,「理論と実証」と題された第Ⅰ部と,「事例研 究」と題された第Ⅱ部に分かれている。著者の工夫によって,関心に応じてど ちらかの部だけを読み進めても問題のないような組み立てで,読者の興味に幅 広く対応出来るようになっている。
) 対象となる国は,エストニア,ラトヴィア,リトアニア,ポーランド,チェコ,スロヴァキ ア,ハンガリー,スロヴェニア,ブルガリア,ルーマニア(中井,2015,3)。
第Ⅰ部にも第Ⅱ部にも属さない第 1 章「イントロダクション:政治的民族関 係」では,本書の導入として,本書の目的,研究の意義,本書を読む上での前 提となる定義,構成・方法論・特徴について述べられている。その中で,本書 の研究対象でありまた不明瞭な存在である民族にまつわる諸概念,用語につい て詳細に定義されていることは,特筆に値する。
第Ⅰ部「理論と実証」
第 2 章「中東欧と民族問題:問題の所在と既存研究検討」(以下第 4 章まで第
Ⅰ部に属する)では,民族問題と政治について各国の差異を浮き彫りにしつつ,
この地域における既存研究を網羅的に検討している。ここで取り上げられてい る先行研究は「民族対立不可避論」(中井,2015,35),「制度論・国際介入論」
(中井,2015,43)の 2 つであり,それぞれについてはっきりとその限界を示し ている。その上で,本書の核である著者の仮説へと道を繋げている。
第 3 章「政党間競争と民族政治:実証理論とモデル」では,2 章で示された 既存研究の限界を踏まえ,エスニック・アウトビッディング(民族的競り上げ)
論に「依拠しつつも,ポスト共産主義国特有の政治状況も検討することで適宜 その修正と拡張を行い,オリジナルな仮説を提唱し,現実に起きている政治的 民族関係を説明するためのモデル」(中井,2015,16)を示している。既存のエ スニック・アウトピッティング論として,中東欧諸国を説明する際に用いられ てきたホロウィッツの議論では,民族集団内での競争にも焦点を当て,「疑心 暗鬼と合目的性に基づいたメカニズムが,穏健派政党と急進派政党の両方に働 くため,双方が,ライバル政党よりも自民族の利益を優先しようと,その主張 と政策の内容をより過激なものへと釣り上げていく」(中井,2015,53)とされ てきた。しかし著者によれば,「中東欧諸国の事例でもすべての事例でつねに そのような競り上げが見られたわけではない」(中井,2015,53)。また,「ホロ ウィッツ流の議論に依拠すれば,すべての国々で強烈な民族的競り上げが発生 し,対立的な政治的民族関係が現出していてもおかしくないはずである。しか し,現実にはそうはならなかった。」(中井,2015,54)これらの問題関心から 著者は,民族問題に対して穏健な主張をとる実務政党の競争に着目し,そのう えで『「多数派民族政党が多数密集している場合,対立的な政治的民族関係が もたらされ,多数派民族政党が少数分散している場合,妥協的な政治的民族関 係がもたらされる」というものである。』(中井,2015,55)との仮説を提唱し
ている。また,本章の補遺において,提示された理論仮設について数理的モデ ルを使用されているが,これが本書の存在を際立たせる特徴であると言える。
第 4 章『民族問題と政治的競争の計量分析』では,第 3 章で提示された仮説 について,数量的な指標を用いて実証できるか計量分析が行われている。分析 対象となる基礎統計情報は中東欧・バルトの 10 カ国の,2004 年前後までのも のであり,作成された指標に従って多面的に統計的分析が行われている。10 カ国の中でスロヴァキアのみ例外を示しているものの,概ね仮説通りの数値が 示されている。
第Ⅱ部「事例研究」
第 5 章「ラトヴィア・エストニア比較分析」(以下第 7 章まで第Ⅱ部に属する)
では,前章までに示された仮説と計量分析による実証を踏まえつつ,「民族問 題が,民族集団間の対立に至る場合もあれば,そうではない場合もあるのはな ぜか」(中井,2015,i)について,今度はケーススタディの面から分析してい る。タイトルにもあるように,第Ⅱ部「事例研究」で取り上げられる国は,著 者の専門であるラトヴィアと,その隣国エストニアである。
この 2 国は多くの点で類似性を有しているが,政治的民族関係においては,
ラトヴィアが対立的エスノポリティクスの様相を見せているのに対し,エスト ニアは妥協的であるという違いを見せている。それがなぜなのかについて,歴 史的背景,独立回復の経緯,社会経済的背景,制度的・枠組み的背景という多 面的な点から論証している。
続く第 6 章「ラトヴィア:融合社会の対立的エスノポリティクス」,第 7 章
「エストニア:分離社会の妥協的エスノポリティクス」では,第 5 章を掘り下 げる形でラトヴィア,エストニアそれぞれの政党政治と民族政治について分析 している。
そして,第 8 章「おわりに:選挙,政治家,民族問題」において,立てられ た仮説について各章をまとめ,デモクラシーと民族関係の間にある因果関係の 一端を示唆しながら,本書は締めくくられる。
第 2 節 歴史と民族問題
本書で取り上げられた中東欧・バルト諸国は,歴史を紐解けば 19 世紀後半 から 20 世紀後半にかけて独立を果たした国家である。中には,歴史的神話の 繋がりとしてさらに古くに存在した国家との連続性を謳う事もあるが,現代に 存続する国家としての独立は 19 世紀から 20 世紀という 2 世紀の間に成し遂げ られたものである。その中には,政治的な妥協の結果として独立を果たしたハ ンガリーや,第 1 次世界大戦の結果として独立を果たしたチェコスロヴァキ ア,ポーランド,バルト諸国のような国家がある。
本書の中では,概ね殆どの国が著者の仮説通りの数値を示していたが,その 中で 2 カ国,例外ともいえる国家がある。それが,スロヴァキアとハンガリー である。スロヴァキアは数値において違った値を示しており,またハンガリー は,民族問題の歴史的経緯において他国とはやや異なる道を歩んできており,
それ故に民族問題について置かれている立場も他国と異なる。本書では 1990 年前後の民主化以後に絞り検討がなされていたが,本文中では取り上げられな かったこの 2 カ国の例外事例について,本書とは異なる個別的・歴史的観点か ら,筆者なりの検討を加えることを試みたい。
スロヴァキア
スロヴァキアの独立は,直接的には 1993 年の,いわゆるビロード離婚によ ってチェコスロヴァキアが解体されてからである。しかし歴史上は,1918 年 に独立し途中ナチス・ドイツに占領された数年を除いておよそ 70 有余年続い た,チェコスロヴァキアからの連続性をふまえる必要がある。この 70 有余年 のチェコスロヴァキアの歴史の中に,スロヴァキアの数値としての例外の要因 がある。
チェコスロヴァキアは,形式的にはチェコ人とスロヴァキア人が対等の立場 に位置づけられた国家であった。しかしながら実際は,チェコが人口的にも工 業力2)的にもスロヴァキアを圧倒し,その為政治の舞台においても概ねチェコ 人が主導権を握っていた3)。このチェコに対するスロヴァキアの不満は,スロ ヴァキア人民党のアンドレイ・フリンカを中心にチェコスロヴァキア建国後幾 度も問題となり,一度はナチス・ドイツに利用される形で,フリンカの後を継
いだヨゼフ・ティソを元首にスロヴァキア共和国として独立した。
第 2 次世界大戦後再びチェコスロヴァキアとなった後もこの状況は改善する どころか悪化する一方であった。プラハの春の翌年 1969 年には,チェコ共和 国とスロヴァキア共和国の連邦国家へと移行するが,これもチェコとスロヴァ キアの力関係の根本的な解決とはならなかった。社会主義体制の時代にあっ て,なお民族問題はついぞ解決出来ないままであった。
このような状況の中,1989 年から 1990 年にかけての民主化後に登場したの がヴラジミール・メチアルである。スロヴァキア出身のメチアルは連邦制解消 論者であり,民主化後のスロヴァキア政界の中心人物の 1 人であった。チェコ 共和国との連邦の解消を巡り議論が紛糾する中で行われた 1992 年の総選挙に おいて,メチアルが率いる民主スロヴァキア運動が第 1 党となると,チェコ共 和国に先行する形で連邦解消を宣言し,最終的にチェコ共和国との会談で最終 的な連邦解消が決定されたのである(いわゆるビロード離婚)。
著者が述べた「90 年代初頭の特殊スロヴァキア的な事情」(中井,2015,89)
には,まさにこのような歴史的背景が厳然として存在している。
ハンガリー
ハンガリーは本書で取り上げられた 10 カ国の中で,民族問題に関してはや や異なった歴史的色彩を有する国家である。なぜなら,第 1 次世界大戦以前か ら独立していたと同時に複数の地域にまたがって多様な民族を支配し,また第 1 次世界大戦における敗戦によって一転,複数の地域における支配的地位を喪 失した4)からである。現在に続く国家としてのハンガリーの直接の出発点は,
この第 1 次世界大戦の敗戦に始まり,それは,今日においても深く暗い影を落
) チェコを構成する地域の 1 つであるボヘミアは,独立する以前のオーストリア帝国,オース トリア=ハンガリー二重君主国の時代から工業化が図られており,工業力の中心地であった。
対するスロヴァキアは伝統的に農業地帯であり,二重君主国の時代にこの地域を支配していた ハンガリー王国期においても同様であった。このように,独立する以前から地域差が存在して いた。
) 初代大統領トマシュ・マサリク,第 2 代(第 4 代)大統領エドヴァルド・ベネシュ,第 3 代 大統領エミール・ハーハ,そして社会主義体制樹立後のチェコスロヴァキア共産党指導者,ク レメント・ゴットワルト,アントニーン・ノヴォトニー,ここまでは全てチェコ出身の政治家 である。例外はプラハの春で失脚したアレクサンデル・ドゥプチェクと,その後に第一書記と なったグスターフ・フサークだけであり,その次のミロシュ・ヤケシュ,そして民主化を迎え る時の大統領ヴァーツラフ・ハヴェルもまた,チェコの出身である。
としている。
ハンガリーは,本書の中では例外事例として取り上げられていない。各計量 では仮説に沿う数値を示しており,従ってここで取り上げるのは不適当なよう にも思える。にも関わらず敢えてここで取り上げるのは,前述の通りハンガリ ーが民族問題について異なった色彩を持つ国家だからであり,これを整理して おくことは本書の仮説を補完する上でも有意義だと考えられる。
さて,ハンガリーがオスマン帝国やオーストリア帝国の支配から脱したの は,オーストリアとハンガリーとの間で結ばれた和協(アウスグライヒ)に基 づく 1867 年である。この和協により,それまで被支配民族であったハンガリ ー人が支配的地位を確立し,ハンガリー王国の領域において他の被支配民族に 対する主導権を握った。しかしそれも僅か 50 年余り,第 1 次世界大戦の敗戦 により,今度は隣国との間で民族問題を抱える小国へと転落する。
ハンガリーの直接の出発点がこの第 1 次世界大戦の敗戦としたのは,この敗 戦により生じた領土・民族問題がその後のハンガリー政治を規定し,また国家 の輪郭がほぼ固まったのもこの時点だからである。「トリアノン条約」が,ハ ンガリーにとって非常に屈辱的5)な固有名詞であり,これがどうその後のハン ガリー政治を規定したかについての詳細は,本稿では割愛する。但し,これが 今日に至ってもなおハンガリー政治,あまつさえ隣国(特にスロヴァキアとル ーマニア)との関係に影響を与え続けている事は,本書内でも触れられている
(中井,2015,34)。さらに付け加えれば,ハンガリー政治における民族問題と は国内におけるものではなく,むしろ国籍を中心として国外に取り残された自 民族(ハンガリー人)の取り扱いが主である点明記する。
なお,民主化後のハンガリー政治について補完すると,政党の入れ替わりは あるものの,保守的でナショナリスティックな右派と,リベラルで市場主義社 会を志向する6)左派7)という構図が 25 年以上続いている。現在,2010 年より
) 10 カ国の中ではブルガリアも同様であるが,ハンガリーが第 1 次世界大戦の講和条約であ るトリアノン条約で失った領土と人口はそれぞれ,約 68%,59% と比較にならない程であっ た。また,ハンガリー人が多数を占めていたのにも関わらず割譲させられた地域も含めて,支 配民族であったハンガリー人が,今度はその地域を支配する事となったチェコスロヴァキア,
ルーマニア,ユーゴスラビア,オーストリア内において被支配少数民族に転落してしまった。
) 1920 年の条約締結から 90 年経った 2010 年,ハンガリー政府はこの条約締結の日である 6 月 4 日を新しく「国民連帯の日」と定めた。これは一例であるが,如何に「トリアノン条約」
という単語が未だハンガリーに重くのしかかっているかを示す好例であろう。
政権を握っているのは右派の Fidesz で,左派は壊滅的な状態に陥っている。
これは決してハンガリー世論の右傾化を示すものではなく,あくまで左派の自 滅が大きな要因だが,今後の民族問題の取り扱いに何らかの影響を与える事は 容易に想像出来るだろう。
お わ り に
以上スロヴァキアとハンガリーという 2 カ国の例外事例を取り上げたが,こ れは著者が試みた本書の仮説に対する批判的な検討というよりはむしろ,仮説 に対する補完的検討である。歴史的背景は,今日存在する政治的問題,就中こ こでは民族問題を考察する上で欠かすべきではないもので,本書においても,
特にラトヴィアとエストニアについて著者が記述している。例外をもたらした 90 年代初頭スロヴァキアの事情,また逆に,異なる経緯を辿ってきたにも関 わらず,計量の数値上では概ね仮説通りの値を示したハンガリーの民族問題的 特殊性。著者の仮説の中でこれ等個別的・歴史的観点からの検討を多少なりと も加える事により,本書の第Ⅰ部と第Ⅱ部との相互補完的関係のように,今後 のさらなる議論の発展に対する一助となれば幸いである。
〈参考文献〉
ジョゼフ・ロスチャイルド(大津留厚監訳)『大戦間期の東欧 民族国家の幻影』
(刀水書房,1994 年)
パムレーニ・エルヴィン(田代文雄/鹿島正裕監訳)『ハンガリー史』(恒文社,
1980 年)
ロビン・オーキー(三方洋子訳/山之内克子・秋山晋吾監訳)『ハプスブルク君主 国 1765-1918 マリア・テレジアから第一次世界大戦まで』(NTT 出版,2010 年)
網谷龍介・伊藤武・成廣孝編『ヨーロッパのデモクラシー(改定第 2 版)』(ナカ
) 1998 年総選挙における敗北から,その後幾分か方向性の修正を図っている。
) 右派を代表する政党は,かつてはハンガリー民主フォーラムだったが没落,1994 年の総選 挙後 Fidesz に取って代わられた。左派は一貫して旧社会主義時代の支配政党の流れを む社会 党が勢力を代表している。この構図の中で著者の仮説上重要な実務政党がハンガリーに存在し たか,あるいはするかどうかについては,検討の余地があるだろう。
ニシヤ出版,2014 年)
仙石学・林忠行編著『ポスト社会主義期の政治と経済 旧ソ連・中東欧の比較』
(北海道大学出版会,2011 年)
中井 遼『デモクラシーと民族問題 中東欧・バルト諸国の比較政治分析』(勁 草書房,2015 年)