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料理と火が結びつかなくなってきたのはいつごろからだったのだろうか。そんなことを思いな がらこの本を読んだ。日々の暮らしにおいてマッチやバーナーの火を見ることは少なくなり、オ ール電化などにより、火を見ることなく食事の支度をすることも可能だ。そして、巷では、マッ チのすり方を知らない人も増えているらしい。ところが歴史を遡れば、火を使って料理をするこ とは、人間が自然から文化へ移行してきたことと密接なつながりがあり、それはレヴィ=ストロ ースらの指摘する数多くの神話からもうかがい知ることができる。神話において人間は、料理の 火をめぐり鳥や動物と抗争を重ね敵対する存在であった。
結城正美著『他火のほうへ』は、環境文学とエコクリティシズムを専門とする著者が行った作 家へのインタビューと作家論の論考集から成る。インタビューを受ける四人の作家は、今日の 日本の環境文学界を代表する、石牟礼道子、田口ランディ、森崎和江、梨木香歩である。著者は、
食に関する文学的表象を手がかりに、「書くことと食べることのインターフェイスで語られる言 葉に、あるいは、まだ言語化されない思念の種子のようなもの」(
p. 12
)を探るべく四人の作家 にインタビューを試みる。著者は、現在の食に対する意識の低さの理由として、食の世界の抽象化をあげる。そしてこの ような問題にリアリティを持たせるために重要なことは、食の問題と個人の関係を強化すること だという。ここで強調されるのは、自分とその問題を孕む世界との関係性こそがリアリティを持 たせ人びとの意識に働きかけるということだ。著者は、インタビューで語られる作家の言葉とそ れぞれの作家の作品の分析という双方向からのアプローチによって、食の世界のリアリティを描 こうとする。そのため、読者は、インタビューで繰り広げられる作家の体験や葛藤といったリア ルな現実と作品を接続する作家自らのクリエイティヴな深みに接近できるのである。
タイトルにある「他火」という言葉からまず連想するのは、自分以外の人は日々どのような 食事をとっているのかということである。さらに自分ではなく誰かが調理したもの、すなわち、
他人の竈で作られた食事を共にいただく場面を思い浮かべる。旅、台所、食事、エネルギー等、
「他火」は、「たび」と「火」、そして「他」からなる重層的なイメージを醸し出し、読む前から 読者を惹きつけるだろう。
人間にとって食事とは、と改めて考えるとき、思い浮かぶのは、過去のさまざまな食風景であ る。そして、その風景の中にいた人を思う。その人が、どんなふうに食べて何を話し食べたもの は何だったのか。食べることと話すことが入り乱れたその場はリアリティそのものだ。食風景の 中では、今は亡くなってしまった親しい人たちもいる。たとえば、夏の暑い日に、イチジクのジ ャムを食べようとした瞬間、庭のイチジクでジャムを作っていた祖母のことを思ったりするとき
結城正美 著
『他火のほうへ:食と文学のインターフェイス』
(水声社、
2012
年、四六版、267
頁、2,800
円+税)中川直子
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のように。あるいは、そうめんをゆでようと箱から取り出したとき、鍋にそうめんを入れている 友人の姿が、突然、動画のように浮かんだりするときのように。調理の工程の場にいたこと、そ して共に食事をした記憶は容易に消えることなく積み重なる。
料理や食事の流儀にこだわりを持つ人は多い。そこでは、食文化という以前に、非常にプライ ベートな部分での嗜好性が如実に表現される。そして、そこからその人の実像を捉え直すことも 可能になる。しかし、本書はそのような作家の実像を捉えるにとどまることを目指してはいない。
それぞれのインタビューのあとには著者の論考があり、これは、食に関するインタビューに対し て、文字どおりに著者からのフィードバックでもあるのだ。
著者によれば、『他火のほうへ』というタイトルは、暮らしの中心にある火、「他人の火」を見 つめ直すことと「旅」を並立するものだ。本書において(
p. 14
)、著者は、インタビューと論考 によって四人の作家の創造の炎へと接近を試み、自らの立ち位置を整え直すことでもあるとして いる。本書は、一章ごとに作家のインタビューと論考からなる。ここで、それぞれのインタビューと 論考の内容を紹介したい。第一章は、石牟礼道子。インタビューのタイトルは、「人は何を食べ てきたか」であり、石牟礼のお手製の豆腐のもろみ味噌漬を味わいながらのインタビューとなる。
まず、石牟礼の麦と薪の思い出が述べられ、その後、話題は採集することへと絞られる。と同時 に、著者の質問によって、『苦海浄土』に書かれた「水俣病わかめ」の話へと移る。論考は、『苦 海浄土』の食の風景を中心に、「ポスト水俣文学」の一つである加藤幸子の「海辺暮らし」との 共通項を述べる。
第二章は、もう一人のポスト水俣文学の書き手であるとされる田口ランディへとつづく。著者 は、田口の作品をノンフィクションエッセイと捉え、インタビューは、「食べてつながりの世界 に近づく」(
p. 77
)というタイトルであり、田口の体験した食のシーンと旅人の仁義についての 話から始まる。著者の論考によれば、田口は、思考の足場を持たずに移動しながら考えるスタイ ル、つまり旅に似た文学実践を行っているということである。それに加えて、著者は、田口がイ ンタビューで語った、「だれにとっても未知の土地」(p. 91
)となった福島の土地、言い換えれば、田口のいうゾーンが、新たな足場となる可能性を示唆している。
つづく第三章は、「共食の論理」がインタビューのタイトルとなっている。共食とは、森崎が 描く、地上の価値観では捉えられない中間の炭坑にある地下の文化と日常の世界の中にある。森 崎は、現在は宗像へと居を移しているが、変わらないのは、台所と物書きの場所が一致している ことだという。それは、森崎が記憶している父親の言葉、「女も三度の火を焚くだけではだめだ よ。社会的にもよい仕事をしなくては」(
p. 166
)の影響があるらしい。著者は、論考において(
p. 181
)、森崎が作品で行った近代の語り直しは複合的な展開であるとし、その言葉の源泉にある共食の世界の奥深さに言及している。
インタビューの最後、第四章は、梨木香歩との対話とそれに関する著者の論考である。「境域 の食風景」と題されたインタビューは、梨木の作品に描かれている楽しい料理にふれながら進む。
梨木は、食の世界を越えて、世界と自分のボーダーレーンでなされる「交感」(
p. 190
)の感覚 が好きだという。これを身体のレベルで行うときに「自分と世界をつなぐもの、実質的につなぐ もの、それが食べものなのでしょう。」(p. 192
)という結論を著者は梨木から引き出す。著者の 論考では、梨木の作品から得られる手仕事の楽しさは梨木の文学実践が、「手仕事の世界が現代 的感性に届くような言葉の世界を創出することに向けられている」(p. 236
)ことにあると推察 されており、現代においても「手仕事的感性の火種は絶えていない。」(p. 236
)と、結ばれてい190
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る。
第一章から第四章の各作家とのインタビューの掲載順は、実際にインタビューが行われた順番 どおりではない。インタビューが行われた時系列に並べると、田口(
2012. 2. 11
)、森崎(2012.
2. 19
)、石牟礼(2012. 2. 20
)、梨木(2012. 6. 26
)となるが、本書では、テーマの共通性を基 準に各章の内容が順を追ってつながるように構成されているようだ。まず、第一章と第二章に共通することは、汚染された食べ物をなぜ知っていながら食べるのか という不可解さであろう。著者はその部分にこだわっていてインタビューでもそこに焦点を当て ている。この問題に対して、著書は、石牟礼と田口の書き手の立ち位置の違いに着目し、石牟 礼の「<汚染されていると知っていながら食べる>という位相をひとつの世界に仕立て上げる」
(
p. 118
)に対して、田口は、「実際に見たり経験したことを思索し反芻することにとどまっている。」(
p. 118
)と述べている。その原因を田口の事象を捉える足場の欠如からくるものであるとしている。
インタビュアーとインタビュイーが最も熱く語り合っているのは、この第二章であろう。少し 批判的な質問もなされているが、田口から自分で決めた流儀が宗教的になり守るべきものとなる という結論を得、そのあとゾーンの話へとつながっていく。田口のフィールドワーカーとしての 経験と作家としての視点が迷いながらバランスをとりながら混ざり合っているような感覚が読者 にも伝わるインタビューである。
第二章の田口のゾーンという場から、次の第三章で語られる森崎の炭坑という場で生み出さ れた文学へとつながっていく。森崎は、石牟礼と同じく
1929
年生まれである。本書にはインタ ビュー直前の4
日間の食事メモが掲載されている。すべて自分で作るということであるが、朝 食はいつも食パンと牛乳、納豆にオリーブオイルを入れたものである。昼食と夕食に関しては、「副食」という言葉が使われ、魚と野菜を中心とした身体に良さそうなものばかりである。森崎 は、戦前の朝鮮で生まれ育ち、料理はガスを使っていたため薪を使うような生活はしたことがな いそうである。このようなインタビューの内容と森崎の作品に読者はギャップを感じ、食から歴 史や環境へと思いを馳せながら最終章の梨木へと読み進むことになる。
梨木とのインタビューに通底しているのは、境界の揺らぎである。インタビューから理解でき るのは、梨木は「食」をひとつの概念として捉えているのではなく、「食」はそのまま対人関係 の積み重ねであり、環境との関わりであり、境界が揺らぐような生き方そのものと捉えるような 世界観を持っているということだ。インタビューそのものも、話題が食べものから境界を越えて 自由に漂うかのように進んでいた。そのため著者は、揺らぎのある梨木の話を何度も食の話へ誘 導している。たとえば、食そのものよりも境界の揺らぎの感覚の話に焦点化していく梨木に対し て、著者は具体的な食風景へと話題を転換する。
「食」という枠組みを持つこのインタビューにおいては、インタビュイーの話を別方向から掘 り下げる必要性があるかどうかの瞬時の決断をしなければならない。その結果、インタビューに おける梨木の主張は読者に明確に伝わるが、一方で、著者が梨木から探ろうとしたとする「言語 化されない思念の種子」(
p. 12
)は、「食」につながる土壌に投錨されていることを示唆し、探 らなければならない範囲の広大さを読者に感じさせるのである。読者は、本書のインタビューと論考を読み進みながら、いつのまにか著者とともに言語化され ない「思念の種子」を探していることに気づくだろう。身近な食の問題を多角的に取り上げた本 書から、読者は食の問題だけではなく、環境と人間のコミュニケーションのさまざまな形をも捉 えることができる。この四人の作家は、環境文学というジャンルであるということ以外にあまり
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共通性を感じさせない。しかし、著者のインタビューの中から紡ぎだされた言葉が、意外にも作 家同士をつないでいるように見えることもまた本書から得た新たな発見である。