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[書評] 土肥恒之著『ロシア社会史の世界』

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[書評] 土肥恒之著『ロシア社会史の世界』

その他のタイトル [Book Review] DOHI Tsuneyuki, The World of Russian Social History

著者 千葉 美保子

雑誌名 史泉

巻 113

ページ A46‑A51

発行年 2011‑01‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/00023687

(2)

〈書評〉

土肥恒之著 『ロシア社会史の世界』

(日本エディタースクール出版部,2010年

5

月,A 5変型判,v+363頁,3150円)

千 葉 美保子

本書はわが国におけるロシア社会史研究を牽引してきた著者が,長きに亘り教鞭を執ってきた 一橋大学の退職という節目に上梓した論文集である。著者はこれまでにも多くの著作を執筆して いるが,本書は『ロシア近世農村社会史』(創文社,1987年)以降約

20

年間に執筆された論文 と講演原稿を収録している。

著者があとがきで述べているように,本書は,著者の長年の研究関心にそって三部に分かれて いる。まず第

1

部には社会史の問題提起とも深く関わる比較国制史的な分析,第

2

部にはヴォロ ーネジ,ヤロスラーヴリを中心とした地域史研究,そして,第

3

部には史学史の分野から近世ロ シアの社会史に関する論文が含まれている。

以下,各章の概要を簡単に紹介する。

まず著者は序「近世ロシアはいかなる時代か」で,帝政期の歴史家クリュチェフスキーの定義 した

1613

年から

1855

年までを「新時代」,つまり近世とする通説に従い,本書が対象とする

「近世」ロシアの特徴を整理している。

1

部「近代の閾」は,「ロシアとヨーロッパ」を念頭においた比較国制史的分析の

3

章から 成る。第

1

章「ロシアとヨーロッパ──17世紀の経済と文化」では,「ロシアとヨーロッパ」問 題の核心を成すピョートル改革の画期性という論点について,経済および文化の側面から考察を 加えている。

1840

年代から始まった「西欧派」と「スラヴ派」の論争を皮切りとした「ロシア とヨーロッパ」問題の,近代歴史学における核心は,ピョートル大帝の西欧文化政策の評価であ り,またこのピョートル帝による政策の大部分がすでに

17

世紀に試行されていた事実は,早く から指摘されている。著者はこの論点をさらに深めるため,経済および文化の側面,つまり

17

世紀ロシアにおける外国貿易を通しての西欧商人の進出,ポーランドを起源としてキーエフ・ア カデミーで開花したラテン文化の影響の側面から

17

世紀における西欧との接近・交流の過程の 考察を進めている。本章では,以上のような

17

世紀における諸前提の考察が,ピョートル改革 の画期性という論点を深めるためには欠かせないことを改めて提示しているが,特に

17

世紀ロ シアにおける外国貿易を通しての西欧商人の進出に関連し,当時の外国人の居住地であった外国 人村について言及している。その世帯の約

60% が軍事勤務者であり,商人が総世帯数 206

24

世帯であったことを先行研究に基づき指摘しているが(28頁),商人に比べなぜこれ程軍人の比 率か高いのかという疑問を読者は抱くだろう。この疑問は第

3

章,第

10

章を読むことによって 補完されるものではあるが,本章でも言及が欲しい。

2

章「近代の閾に立つツァーリ権力──17世紀末のロシア」では,ロマノフ朝初期,とり

―46 ―

(3)

わけ

17

世紀末の「2人のツァーリ」の体制期のツァーリ権力が検討される。著者はまず

17

世紀 末の入り込んだ政治史の流れを概観し,その舞台となった宮廷と「地方」との関係を,最近のロ シアおよび欧米の史家たちの成果を部分的に取り上げながら考察する。ロシアにおける絶対主義 的な体制を整えたロマノフ家

2

代目のアレクセイ・ミハイロヴィチ帝の死後,彼の最初の妃の子 フョードル帝が即位するが,病弱なツァーリの死はフョードルの(心身ともに病んでいた)弟イ ヴァンを支持するミロスラフスキー派とアレクセイの

2

番目の妃の子ピョートルを支持するナル イシュキン派との宮廷闘争を引き起こし,イヴァンがピョートルの「共同統治者」として宣言さ れ,イヴァンの姉ソフィアが摂政として政権の中枢に座した。1689年のクーデタにより,ナル イシュキン派の勝利に終わるこの権力闘争は,「ギリシア派」と「ラテン派」の対立という思想 的・外交的方向性をめぐる諸問題も絡みあっていたが,著者は一族の利益という狭い思惑を出る ものではなかったと指摘する(

66

頁)。一方で,ロマノフ朝が誕生した

1613

年の状況とは異な り,ほとんど「地方」の関与が見られなかった。この変化は,「勤務人」の大多数を占めた都市

=郡の士族層の政治的,軍事的な意義の衰退に求められる。著者は,「古い」貴族層と「新しい」

士族層を対峙させ,後者の政治的な意義が強まったというかつての説に大きな修正の必要性を提 示している。

3

章「国境警備・戦争・入植──近世ロシアの軍隊と社会」では,ピョートル治世下におけ る軍制面での変化を中心に,ロマノフ王朝の成立から

18

世紀末までの約

2

世紀間,つまり①初 期ロマノフ朝,②ピョートル大帝の時代,そして③ポスト・ピョートル期の「軍事と社会」の諸 問題を検討している。南部国境の警備を常に必要としていた

16, 17

世紀ロシアの軍隊の核を形 成していたのは士族層であり,少なくとも

17

世紀半ばまでは彼らが軍の中核を担った。次にロ シアの軍事力の核となったのは「新編」連隊であった。「新編」連隊は戦争のたびごとに結成さ れ,戦争の終了とともに解散されていたが,世紀末には将校と一部の兵士を残す体制がとられ る。ピョートル

1

世の「西欧化」政策の根幹を成すものは軍事改革であった。北方戦争の最中の

1705

2

月の勅令によって,20世帯につき

1

名の兵士を徴用したのを皮切りに,これまで恒常 的な制度ではなかった徴兵令を毎年定期的に実施した。また,貴族の勤務義務を強化し,常備軍 が確立された。1762年のピョートル

3

世の「貴族の解放令」によって,貴族の「勤務」とロシ ア社会のあり方に大きな変化がもたらされるも,常備軍は社会の一部として定着するに至る。し かし,19世紀にはナポレオンの侵攻,クリミア戦争の敗北を契機として軍制と社会の抜本的な 改革を余儀なくされたのである。本章によって,ロシアにおける軍隊の変遷がよく理解できる。

初期ロマノフ朝そしてピョートル時代に関する変遷は十分なページが割かれ,具体的かつ丁寧に 語られている。それに比べると,ポスト・ピョートル期,とりわけ

18

世紀末の改革とそれに続 く

19

世紀の抜本的な改革までの過程がやや駆け足でまとめられている印象を受けた。特に常備 軍が生み出した軋轢や,社会に定着する過程など,もう少し詳しい解説が欲しかったように思 う。

2

部「地方のロシア」には,書き下ろしの第

7

章を含む,地域史に焦点を当てた論文が

4

本 収められている。著者の地域史研究の成果が反映された,本書で最も読み応えのある部分であ

―47 ―

(4)

る。

4

章「農民自治の伝統──17世紀北ロシアの郷について」では,ミハイル・ボゴスロフス キーの研究を基礎に据えながら,北部における農民自治を考察している。北ロシアの農民の社会 生活において現実に大きな意味を持っていたのは,自生的な地域的単位としての郷(ヴォーロス チ)であった。ツァーリに直接嘆願をおくり,様々な要求を手に入れていた郷は,17世紀末に 至り官僚性的行政の従順な道具への転化を迫られ,18世紀には北部の農民自治について語られ ることは稀となったとする(

133

頁)。著者の指摘通り,「一つの農奴大衆」とみなされがちな近 世ロシアの農民たちの多様性を改めて考える必要があるだろう。

5

章「ドン・コサックとその世界──失われた『地域』」は,これまで「農民反乱」として 性格づけられてきた,ステパン・ラージンの反乱の根本的な見直しを行うこと,そしてドン・コ サックを具体的な地域史の脈略のなかで理解することを目的としている。コサックは

16

世紀初 め,南部の「野生の地」に自らコサックと名乗る社会集団として誕生した。ドン(川)のコサッ クは,政治的にも行政的にも広範な自治権を享受しており,モスクワのツァーリ政府の法は適用 されず,彼らコサック軍団は,政府への軍事的奉仕の代わりに物質の「支給」を受ける一種の傭 兵軍であった(

147

頁)。

17

世紀後半に逃亡農民の大量の流入による貧富の差の拡大,そしてオ スマン帝国によるドン川河口の閉鎖による慢性的な飢餓状況におかれたドン・コサックは,周辺 の地域の農民たちを加えた

1

万にものぼる軍を率いて遠征を開始した(148−154頁)。ここで著 者は,この反乱に「農民的性格」を見るか否かに関して,「ラージン反乱に農民的性格を帰属さ せることは誤解に導く」というホダルコフスキーの主張を支持しつつも,反貴族そして反農奴制 という志向ないし社会意識において疑いなく共通しており,彼らの多くが逃亡農民であった点を 考慮するならば,反乱から「農民的性格」を消し去ることは慎重でなければならない,と指摘す る(157−158頁)。拡大した反乱は,「ドンの自由」の喪失と,ツァーリへの忠誠の誓い,という 結果をもたらした(

158−160

頁)。ドン・コサックは,

18

世紀初めにおいても特別の身分的な諸 権利を認められていたが,より閉鎖的な社会となる。そして,軍事的要求を強めたツァーリ政府 によって,1721年,軍団は新設の軍事参事会の管轄下におかれ,完全にその自立性を失ったの である。ロシア地域史を考える上で,このドン・コサックという社会集団の重要性を再度認識さ せられる。

6

章「ある強制移住──ピョートル改革期農村社会の一断面」では,アゾフ艦隊への食糧生 産のために,1699年の勅令によってヴェローネジ郡のビチューク郷へ強制移住させられた,移 住農民たちを対象に

1715

年に実施されたランドラート(郡長)調査簿に見られた動向を紹介・

分析している。

1701

年,

1704

年の

2

度に渡り強制移住は実施され,

1705

年の調査によればその

40% が残存していたもの,多くの死亡者,逃亡者を出した(174−176

頁)。多くの逃亡者の行

方が不明であったが,ランドラート調査簿から読み取れる動向を基に,著者は間接的な逃亡理由 を探り,そして本論の最後を「強制移住がひきおこした犠牲は大きく,その傷は深かった」との 悲劇的な叙述によって締め括っている(

197

頁)。

本章ではランドラート調査に記された

1710

年と

1715

年の世帯調査を分析対象としているが,

―48 ―

(5)

既述のように,著者は大量の逃亡農民の発生原因の直接的な結論を避け,逃亡農民の行方を明ら かにすることで,間接的にその理由を探っている。本論を読む限り,この強制移住が農民にとっ て険しいものであったことは想像に難くなく,読者は著者の意図した印象を本論から受けるであ ろう。しかし,1704年に強制移住を実施したのちにも世帯と人口が激減しているので,政府が 何かしらの対策を講じなかったのかが本論では語られてないことが惜しまれる。

7

章「ヤロスラーヴリとヴォローネジ──18世紀末・19世紀初めの地方社会」では,エカ チェリーナ

2

世の地方改革後の地方事情を探るために,ヤロスラーヴリとヴォローネジの

2

つの 県を取り上げている。エカチェリーナ

2

世が発布した,1775年の「県行政のための基本法」は 大きく

3

つに整理される。第一に行政単位の細分化,第二に

1762

年の「貴族の解放令」によっ て強制的な国家勤務から解放され,領地に帰った貴族たちを当該地方の行政・裁判に参加される こと,第三に注目すべき点は「社会福祉局」の開設であった(

203−205

頁)。さらに,

1782

年に は都市経営に関する「ポリツァイ令」が発布され,規定を補充した。17世紀ロシア第

2

の人口 を誇り,商工業者の活発な活動により繁栄したヤロスラーヴリは,ロシア最初の地方誌が誕生し た地であった。プロイセン出身の統計学者ゲルマンによる『ヤロスラーヴリ県の統計的記述』

は,

19

世紀初めのヤロスラーヴリについての統計資料に関する論文であり,著者によれば,こ の論文によってエカチェリーナの「啓蒙政策」が地方都市に根付き始めていたことが確認できる

(212−222頁)。ヴォローネジは第

6

章で明らかになったように,比較的新しい都市であり,ロシ ア北西部の御料地から強制移住させられた農民たちが多く居住していた。教会人ボルホヴィチノ フによる『ヴォローネジの歴史,地理並びに経済の記述』は,著者によれば,それまでの地誌と は異なり,ロシア最初の地域史研究と見ることができるという(227−235頁)。

著者は,この

2

つの県の違いや,地誌の記述スタイルは,地理的な諸条件からくる違いがきわ めて大きく,共通性も安易に指摘できるものの,「一時期に限って,しかも

2

つの事例だけでは 何かを論ずることはさほど生産的ではない」と指摘し,あくまで本章の狙いは「特定の地域社会 について出来るだけ具体的な材料を提供することになった」としている。また,今後より長いタ イム・スパンで同様の作業を行うことで,「より生産的な展望が開ける」と述べている(236 頁)。だが,多くの事例を挙げて検討することは,「より生産的な展望が開ける」以上に,さまざ まな地域の地理的条件や,書き手に関する相違点を細分化させる可能性があり,その扱いには一 層慎重になる必要性があるように感じられる。しかしながら,評者は著者の更なる分析によって

「より生産的な展望」が開かれることを期待せずにはいられない。

3

部「転換期の歴史家たち」は,史学史の分野から

3

本の論文を所収している。著者はすで に「十月革命」後の歴史家の置かれていた状況と仕事ついての研究書『岐路に立つ歴史家たち−

20

世紀ロシアの歴史学とその周辺−』(山川出版社,2000年)を公刊しているが,本部でも「十 月革命」前後,そしてソ連以降の歴史家を扱っている。

8

章「なぜ農民の歴史を学ぶのか」では,ロシアにおいて農民の歴史を学ぶことが如何なる 意味を持つのか,そしてそれはいつ頃学ばれ始めたのかを章を通じて明らかにしている。農民の 歴史を始めて正面から扱ったのは,В

.

И

.

セメフスキーの『女帝エカチェリーナ

2

世治世下の農

―49 ―

(6)

民』(1881年)であった。この著作は彼が在籍していたペテルブルク大学で学位論文として提出 されたが,奇しくもアレクサンドル

2

世の暗殺事件(1881年

3

1

日)と重なり,農奴解放に 批判的な「序文」の削除と,学位が却下される。モスクワ大学で論文は受理されたものの,彼は 民間歴史家としての生涯を送った。セメフスキーは,「社会的ヒエラルヒーでは低い位置を占め ているが,〔人口では〕多数を占める故だけでなく,国家の租税を圧倒的に自分の肩に担ってい るが故に,最も重要な身分」である農民史の研究が必要不可欠であると指摘し(248頁),未刊 の史資料とそれらに基づいた分析の的確さが認められている彼の著作は,

18

世紀ロシア農民史 研究の水準を一挙に上げた,金字塔であったと紹介されている(259−260頁)。このセメフスキ ーの研究,そして生涯を通じて,読者は黎明期のロシア農民史研究の困難な状況が分かるととも に,農民史研究の重要性に改めて気付かされる。

9

章「ミハイル・ボゴスロフスキーと地域史の問題」では,

1993

年の『祖国。地域研究ア ルマルク』第

4

号に再録された,ミハイル・ボゴスロフスキーの講演記録論文「ロシアの地方 史,その学問的根拠と現代的諸課題」(1921年

12

月)を手がかりとして,「十月革命」前のロシ アにける地域史研究の問題を考察する。ロシア近代史研究者ボゴスロフスキーは,ピョートル研 究において古典的かつ不可欠な基本文献『ピョートル大帝の地方革命。

1719−1727

年のプロヴィ ンツィア』(1902年)を著し,17世紀北ロシアの国有地の郷に焦点を当てた『17世紀のロシア 北部における地方自治』第

1

巻(1909年),第

2

巻(1912年)を刊行した。ロシア史における

「中央と権力」問題の具体的な解明が当時の学会の中心的な課題であったが,この課題に最も精 力的に取り組み,大きな業績を残したのがボゴスロフスキーであった。彼は「一般的な歴史学,

歴史叙述は各地の地方的研究抜きにしてはしっかりとした基礎に立つことは出来ない」と指摘し た(277−278頁)。ロシアのアカデミズム史学は,すでに

19

世紀末には地域史をその中核に据 え,成果を挙げていた。しかしそれはドイツの「ラントの歴史学」とは対照的なものであり,著 者はそのことが逆にアカデミズムの歴史家がいち早く地域史研究に取り組むという現象をもたら したと言える,と指摘する。地域研究者は政治からは遠く,いかなる社会的特権も持たなかっ た。しかし,その著作のデモクラチックな表現や,「地域の独自性」を示すことを自己の責務と みなしていた研究者たちは,「反革命組織」との関わりを問われ,パージされる運命にあった。

ボゴスロフスキーは,迫害の前夜にこの世を去っているが,存命であれば間違いなく流刑者のリ ストに加えられていた。

10

章「歴史の見直しと歴史家──最近のロシア史研究から」では,ソ連邦崩壊後の最近の ロシア史研究について,ロシア近世史研究,そして史学史,とりわけ亡命史学の分野から言及し ている。最近のロシア史における最大の論点のひとつは,

1917

年の「十月革命」の評価にあ る。現在では「クーデタ」とする見方がある「十月革命」は,ネガティヴな評価が一般的である が,「十月革命」によって生み出された「圧政的なソヴィエト社会主義体制」は,政治はもとよ り,歴史学の方法と研究を強く規制していた。本章では,その抑圧と規制から解放された現在の 歴史研究,そして研究者の動向を,具体的な歴史家を挙げながら紹介することで,歴史の見直し という問題を検証している。

―50 ―

(7)

そして附論として,2007年に著者が行った阿部謹也氏についての講演原稿「阿部先生の社会 史研究と一橋大学の伝統」が所収されている。著者の師であり,著名なドイツ中世史家である阿 部氏の人柄,そして研究に対する姿勢が,同氏の活動を間近で見ていた著者ならではのエピソー ドで彩られている。本論を読むと,著者の歴史学に対する関心や研究の基礎となったことが感じ られるだけではなく,阿部氏の研究に対する情熱は,評者を含めた読者にも,大いに刺激とな る。

以上,本書を評者のコメントを交えつつ紹介したが,最後に本書全体に関わる意見を付け加え たい。本書は論文集であるがゆえに,本書に所収された論文の初出時期にはひらきがあり,特に 第

4, 8

論文は現在と情勢の異なるソ連邦時代に発表されたものである。採録にあたりタイトル の変更,註の加筆など若干の改訂はほどこされているものの,序および第

10

論文を除いてはほ ぼ初出のまま所収されている。第

3

部において最近の研究動向をふまえた論文を収めていること を考えれば,採録にあたり各論文に現在の研究動向を加筆することによって,より一層厚みのあ る一冊に仕上がったように感じる。また,本書は著者の実証的研究を多分に含んでいるものの,

所収されている幾つかの論文は,先行研究に依拠した論説が展開され,著者の研究に刺激を受け る機会の多い評者にとっては,いささか物足りなさを覚えた。

その他,第

2

50

17−18

行の「フョードル」は,「イヴァン」の誤 り で あ る だ ろ う。ま た,附論では,講演時に配布された資料が本書では省略されているが(1),どちらも本書を読み進 めるにあたっては然したる問題にはならず,本書の価値はいささかも損なわれるものではない。

「ロシア社会史の世界」というタイトル通りに,ロシアにおける社会史研究の世界を垣間見る ことの出来る本書は,実証的研究書という側面を持つとともに,ロシア社会史入門書という側面 もまた持っている。

評者の能力不足ゆえに,要旨の誤解,的外れな指摘も多々あるであろう。この点に関してはご 海容を願うばかりである。しかし,本書はロシア史を学び,研究する者だけではなく,歴史学に 関心を持つ人々に広く読まれるべき著作であることは間違いない。評者がロシア史研究を志そう としたとき,手元には著者の著作があった。これまで近世ロシア史学界を牽引してこられた著者 の功績に敬意を表すとともに,今後一層の健筆を揮われることを切望する。

⑴ 講演時に配布されたレジュメや資料,質疑応答に関しては一橋大学附属図書館ウェブサイト(http : //

www.lib.hit−u.ac.jp/)にて閲覧可能(2010

10

28

日現在)。

(関西大学大学院文学研究科・博士課程後期課程)

―51 ―

参照

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