映画=テレビ移行期の映画スターに見る 脱スタジオ・システム的共闘
─池部良と佐田啓二を事例に─
羽 鳥 隆 英
序 論
池部良(1918年─2010年)と佐田啓二(1926年─64年)は、日本映画界が産業的にも 芸術的にも活況を呈した1940年代後半から1960年代前半までの黄金期に際し、共に現代 劇の第一線で活躍した男性映画スターである。彼らは当時、女性との恋愛物語を演じるの に長じた二枚目として活躍した。とは言え、俳優としての個性の点では、彼らはしばしば 対比的に語られる。映画作家篠田正浩と映画評論家上野昂志の評言を引用しよう。
初め松竹は[『乾いた花』(1964年)を]佐田啓二さんでやろうとしていた。でも 佐田さんは恋に悩む男は向いているけど、どうやっても善人にしかみえない(笑)。
石原慎太郎の原作は、当時の戦後民主主義の世相の中でアンチ・ヒューマニズムやデ カダンスというものを堂々と扱っていたんですね。だから主人公は自分の存在そのも のの根源的なアパシー、無力感を表現できなければならない。[…]存在そのものの アンニュイを感じさせるのは池部さんぐらいだったんですね1。
小津安二郎の「早春」(56)を見れば、妻がいながら、若い女と不倫関係に陥るあの 主人公は、池部良でなければ絶対に出来なかったと思うのだ。たとえば、松竹なのだ から、佐田啓二というスターがいたわけだが、佐田では、その身に備わった実直なイ メージが邪魔して、似合わない。つまり、池部には、佐田にはない色気や、毒といお うか、どこか身を持ち崩すような危うさがあるのだ。それが、「乾いた花」以降のや くざ像に実を結ぶことになったといえよう2。
これらの評言は、共に二枚目である池部と佐田の相違を言語化するに際し、有効な糸口を 提供すると同時に、各々の個性を「色気」「毒」、あるいは「善人」「実直」などの観念に 還元する点で、映画を取り巻く歴史的状況との相関性を踏まえた、より動態的な俳優論へ の問題意識も掻き立てる3。しかし本論では、二人の二枚目が銀幕から放つ個性の輝きに目 を奪われる余り、日本映画史の先達が書き漏らした、全く異なる問題へと関心を集中させ
たい。すなわち、早稲田大学演劇博物館が所蔵する池部と佐田の遺蔵資料を総合的に分析 し、日本の映像文化の覇権が映画からテレビに移行しつつある1960年代前半、池部=佐 田間に試みられた共闘、具体的には映画やテレビの製作を巡る共同作業の痕跡を辿り直 し、映画=テレビ移行期の歴史的状況との相関性に光を投じるのが、本論の目的である。
本論の章構成は以下の通りである。第1章「スタジオ・システムと映画スター」では、
1960年代前半の池部と佐田の交錯を辿り直す作業が、映画=テレビ移行期の日本の映像 文化を巡る研究に対し、いかなる意義を持ち得るかを確認する。最初に問題化するのは、
『昭和残侠伝』(1965年)で東映任侠映画に初出演する以前、大手映画会社東宝に活動拠 点を置いた池部に対し、佐田は商売敵の大手映画会社松竹の生え抜き俳優であり、両者が 共に日本映画界で活躍した1947年から1964年までの足掛け18年間を通じ、彼らが銀幕 で共演した作品が見当らない事実である。第2章「池部良の『マカオの男』」では、演劇 博物館の佐田遺蔵資料より、佐田主演を念頭に、池部が監督に挑む予定で準備した劇映 画『マカオの男』の初稿台本を分析の俎上に載せ、同じく演劇博物館の池部遺蔵資料も参 照しつつ、同作が企画された1961年の歴史的状況、特に映画界とテレビ界の覇権闘争と の相関性を考察する。第3章「小津追善ドラマ『噴煙』」では、1963年12月に死去した 映画作家小津安二郎の1周忌を控え、生前の小津の構想をフジテレビが連続ドラマ化した
『噴煙』(1964年10月─12月)について、演劇博物館の佐田遺蔵資料より関連する一次資 料を取り上げ、やはり映画界とテレビ界の覇権闘争という状況を念頭に、主演の池部と企 画に名前を連ねた佐田の交錯を歴史化する。以上の分析を通じ、思考を映画の枠組から解 き放ちつつ、1960年代前半の映画=テレビ移行期を巡る議論を更新させたい。
第1章 スタジオ・システムと映画スター
1960年代前半の池部良と佐田啓二の交錯を辿る試みが、日本の映画=テレビ移行期の 研究に重要な意義を持ち得るのは、彼らが「東宝の池部良」と「松竹の佐田啓二」だか らである4。周知の通り、日本映画界では戦前以来、映画スターは基本的に大手映画会社 に専属し(映画スターが独立プロを設立した際も、結局は大手映画会社との提携に落ち 着くのが通例である)、商売敵の大手映画会社への移籍などには有形無形の圧力が課され た。1937年、松竹時代劇を牽引する映画スター林長二郎(第3章に見る長谷川一夫)が 東宝に移籍し、暴漢の襲撃を受けた事件は5、映画スター=大手映画会社間の専属的な関係 性が、個別の契約とは異質の論理に左右された事実を示す醜聞として日本映画史上に名 高い。
映画史的に見れば、大手映画会社が製作から配給、興行までの過程を垂直的に支配する 体制、すなわち古典期のハリウッド映画界や日本映画界に見られたスタジオ・システム の要諦の一つと理解し得る、こうした映画スター=大手映画会社間の専属的な関係性は6、 戦後の日本映画界にも受け継がれ、本論の二つの焦点である池部と佐田の経歴にも決定 的な影響を与える。佐田の場合、1947年の松竹作品『不死鳥』で銀幕に初登場して以来、
1953年までの足掛け7年間に出演した51本は全て松竹作品であり、名実共に「松竹の佐 田啓二」と形容し得る。これに対し、戦時下の1941年、東宝作品『闘魚』で銀幕に初登 場し、中国や東南アジアでの戦争体験から復員後の1947年、古巣の東宝作品『四つの恋 の物語 第1話 初恋』で銀幕に復帰した池部の場合、東宝自体が打ち続く労働争議に混 乱を収拾し切れず、同じく1947年から1953年までの7年間に出演した56本には、東宝 が製作や配給に関与しない作品も3分の1ほど含まれる7。とは言え、東宝争議下の1948 年、池部が大映作品『ぜったい愛して』に出演した背後に、東宝の労働組合からの活動資 金提供の要求が存在したという逸話8、あるいは1952年、池部が松竹作品『現代人』への 出演を敢行した際、出演阻止を図る東宝から圧力を掛けられたという逸話などに鑑みて も9、当時の池部が「東宝の池部良」という自己同一性を有した事実は疑い得ない。
ここで一旦、調査期間を1947年から1953年までに限定したのは、こうした日本映画界 を巡る慣習が、1953年9月に転機を迎えるからである。松竹、東宝、大映、新東宝、東 映の大手映画5社による協定、世に言う5社協定の成立である。監督や俳優などを対象 に、大手映画会社間を横断する活動、すなわち移籍や他社作品への関与などに対する制限 を打ち出した同協定の成立は10、特に映画スターの動向を話題の中心に据えつつ(事実、同 協定は「スターの引抜き防止協定」と報道された)、全国紙の紙面を賑わすに至る11。日本 映画界の内部論理、具体的にはスタジオ・システムの論理に基づく専属の慣習が明文化の 方向に進むと共に、広く社会の関心を集めたのである。以降、1957年に日本最古の大手 映画会社日活(同社が足掛け13年間の空白期間を経て、映画製作に再参入したのは1954 年)を迎えての拡大12、1961年に新東宝の倒産を受けての縮小などの紆余曲折を経つつも13、 大映倒産の1971年前後に至るまで、協定は一定の実効性を維持し続ける14。
こうした日本映画界を巡る動向は、「東宝の池部良」と「松竹の佐田啓二」の俳優活動 の方向性にも、当然ながら深刻な影響を与えた。事実、1953年9月の協定成立に際し、
松竹が他社には「絶対貸せぬ」映画スターとして名指しされた佐田の場合15、翌1954年か ら1964年(佐田の事故死)までの足掛け11年間に出演した97本中、松竹が製作や配 給に関与しない作品は最晩年の3本(全て東宝配給作品『丼池』[1963年]、『悪の紋章』
[1964年]、『甘い汁』[1964年])を、また池部の場合も、同じく1954年から1964年(池 部の東宝離脱)までの11年間に出演した59本中、東宝が製作や配給に関与しない作品は 僅かに4本(松竹作品では『早春』[1956年]、『鏡の中の裸像』[1963年]、『乾いた花』
[1964年]、大映作品では『顔』[1960年])を数えるのみである。1954年、池部を含む東 宝の映画スター達が「他社出演を認めないならば、われわれの満足のゆく作品を企画して くれ」との要望書を早くも東宝に提出した事実からは16、大手映画会社間の横断的活動に対 し、協定が課した制限の実効性が如実に窺えよう。
こうした歴史的状況を念頭に置けば、池部と佐田がそれぞれ日本映画界の第一線で活躍 し続けた1947年から1964年までの足掛け18年間、彼らが銀幕で共演した作品が全く見 当らない事実も、むしろ自然の帰結と言えよう。映画スター=大手映画会社間の専属的な 関係性を含む、スタジオ・システムの論理を広く行き渡らせつつある日本映画界の内部で
は、そもそも「東宝の池部良」と「松竹の佐田啓二」の共演を許容する余地は限定的であ り、さらに1953年に協定成立を見るに至り、事実上、彼らの共演可能性は完全に封殺さ れたのである。にもかかわらず、演劇博物館に残る両者の遺蔵資料を総合的に分析した場 合、彼らが1960年代前半に試みた共闘の痕跡が視界に浮上する。逆に見れば、彼らが試 みた共同作業の軌跡は、「東宝の池部良」と「松竹の佐田啓二」の活動範囲内であり、同 時にスタジオ・システムとは異なる論理も作動する空間の所在を指し示すのではないか。
第2章以下の議論を先取りすれば、ここで言う異なる論理とはテレビ界の論理である。
映画界の論理、すなわちスタジオ・システムの論理に基づく映画スター=大手映画会社 間の専属的な関係性が、1960年代における映画からテレビへの文化的覇権の移行に際し、
漸進的に破綻したと推測するのは容易である。大手映画会社間の協定が絶対的な実効性を 発揮し得たのは、映画スターの活動の機会が映画界の内部に限られたためであり、彼らに テレビ界という新たな活動の機会が示されれば、映画界の論理自体も相対化されるからで ある。以下の議論が取り組むのは、日本映画界では共演し得ない二人の映画スター「東 宝の池部良」と「松竹の佐田啓二」を事例に、こうした推測を歴史的に裏付ける作業で ある。
第2章 池部良の『マカオの男』
早稲田大学演劇博物館が所蔵する佐田啓二の遺蔵資料には、池部良が執筆した『マカオ の男』と題する劇映画の初稿台本(以下「『マカオの男』初稿台本」)が含まれる。発行年 さえ不明の、この忘れられた台本が興味を惹くのは、表紙に「松竹の佐田啓二」の名前 が17、また原作・監督欄に「東宝の池部良」の名前が18、共に池部の自筆で書き込まれた事実 のためである19。第1章に見た通り、1940年代後半から1960年代前半まで、池部と佐田が 銀幕で共演する可能性は実質的に皆無に近く、事実、両者が共演した作品は日本映画史上 に見当らない。にもかかわらず、池部と佐田の名前が書き込まれた劇映画の台本が現存す るのはなぜか。当時の日本映画界では本来的に許容され難い「東宝の池部良」と「松竹の 佐田啓二」の共同作業は、いかなる論理が作動する空間で企画に浮上したのか。本章で は、同じく演劇博物館に残る池部遺蔵資料も視野に収めつつ、この点を考察したい。
まずは『マカオの男』初稿台本の粗筋を確認しよう。物語の舞台はポルトガル領当時の マカオである。共に裏社会の住人である「日本人、元見習士官」柚木準一と中国大陸から の「難民」芳春の異性愛を主軸に20、彼らと日本人実業家の姪が織り成す三角関係、柚木を 利用し、日本への麻薬密輸を企む一味の暗躍などを絡めた古典的なメロドラマである21。
「作品を主として作家の人生の反映と見る伝記的」言説の支持者は22、『マカオの男』にお ける主人公の設定に興味を惹かれるに違いない。以下は柚木の物語る身の上話である。
いやね。13年前、大陸からある海峡を泳いで渡つて来たんですヨ[…]僕はね、終 戦の時、南支で、陸軍見習士官でした。終戦と同時に捕つて、戦犯容疑でつながれま
してネ、服役3年後、どうにも我慢ならなくて脱走したんですヨ[…]僕はマカオを 目指して逃げました[…]遂にマカオの島を目の前にしましてネ。あの島に居て、し ばらく潜伏してから、何とかして日本に帰えるつもりでした。泳いだんです23
この設定は15年戦争末期、陸軍軍人池部が自身の乗る輸送船に攻撃を受け、海中に身を 投じた際の経験を想起させる24。同時に、一度は芳春をマカオに見捨て、故国への復員の途 に就いた柚木が、芳春との至上の愛に生きると決意し、乗船から海中に飛び込む大団円へ の布石として25、脚本テクスト内部でも有効に機能する。とは言え、そもそも初稿台本は物 語の骨格を固める叩き台であり、若き日に映画監督を志し、脚本創作の訓練も積んだ池部 の筆力を26、推敲を控えた『マカオの男』初稿台本から推し測るのは軽率に過ぎよう。
とは言え、この初稿台本には幾つかの興味深い書き入れが認められる。すでに示唆した 通り、表紙に書かれた池部自筆の「佐田啓二様」との宛名27、また冒頭の登場人物紹介の柚 木準一欄に残る赤鉛筆の丸印などを総合的に判断すれば28、この初稿台本が主演の打診と 共に、池部から佐田に渡された(少なくとも佐田が、池部が『マカオの男』初稿台本を 渡し、主演を打診した俳優の一人である)と理解するのが妥当である。加えて表紙には、
「クランクイン 10月10日─15日頃 マカオ(香港)ロケ 約3週間 ステージ 新東 宝29」との書き入れも残る。無論、「10月10日─15日頃」から撮影を開始し、マカオか香 港に「約3週間」撮影に赴くほか、新東宝のスタジオでの撮影も実施するとの意味に違い ないが、果して上記の日付は西暦何年「10月10日─15日頃」を指すのか。
この問題を解決する糸口が、演劇博物館に残る池部遺蔵の貼込帖に見出される。「池部 良、初のメガホン」「自作『マカオの男』」「製作も担当 来月、東南アへロケ」などと見 出しが付された記事(以下「『マカオの男』記事」)の切り抜きである。「10月中旬から南 中国のポルトガル領マカオで約3週間、現地ロケを」実施するとの撮影日程を巡る一致、
また「元日本陸軍の士官が中国の戦犯収容所から脱走、日本の国籍を失ってマカオで中国 難民の女と同せい。やくざな生活を送る。ある日、日本の客船が入港、麻薬の密輸業者に 日本へ帰るチャンスを与えられるが、結局、女のもとへ帰ると」の物語展開を巡る一致に 鑑みても30、『マカオの男』記事の取り上げた作品が、本論の着目する『マカオの男』初稿 台本と同一であるのは間違いない。残念ながら、切り抜きには発行日などの情報は含まれ ず、それゆえ出典の同定が困難である。とは言え、同じ貼込帖に残る『マカオの男』記事 の前後の切り抜き記事を調査すれば、月単位での発行日の絞り込みは可能である。
『マカオの男』記事の前頁の切り抜き記事は、池部が主演した日本テレビの連続ドラマ
『ロマンチック作戦』全13話より、1961年8月16日放送の第5話「うらおもて」と9月 20日放送の第10話「もうひとつの地球」に関する番組紹介である31。また次頁の記事は、
鈴木英夫監督、池部主演により、同じく1961年11月21日に封切られた東宝作品『黒い 画集 第二話 寒流』の時評である32。いずれの切り抜きにも、やはり発行日などの情報 は含まれないものの、番組紹介や時評の性質上、前者は1961年8月から9月頃、後者は 1961年11月頃の記事と見るのが妥当であり、それゆえ『マカオの男』記事は1961年8
月から11月までに発行された可能性が高い。加えて、先に引用した通り、10月に実施が 見込まれる海外ロケについて、『マカオの男』記事の見出しが「来月」の予定と報道した 点に着目すれば、記事の発行日は1961年9月に絞り込まれるはずである。
こうした絞り込みを踏まえ、1961年9月を基点に調査を進めよう。映画雑誌『キネマ 旬報』を繙くと、ほどなく予想通り、『マカオの男』に関する報道に辿り着く。1961年10 月上旬号「映画界の動き」欄に、新東宝から新たに派生した大宝株式会社より配給が見込 まれる作品として、池部良脚本・監督『マカオの男』の題名が見出されるのである33。
池部が『マカオの男』初稿台本を送り、佐田に主演を打診したのが1961年であり34、配 給には大宝が想定されたとすれば、台本の表紙に書き入れられた覚書5行より、新たに最 終行「ステージ 新東宝」が重要な意味を帯び始める35。当時の大手映画6社の一角に位置 する新東宝が倒産に追い込まれたのに続き、派生会社大宝が発足したのが1961年、より 正確には、先に見た『マカオの男』記事の掲載月と同じ1961年9月だからである36。
『キネマ旬報』誌上の業界情報を整理し、新東宝倒産までの過程を簡単に振り返ろう。
経営悪化の一途を辿る新東宝が、商売敵の大手映画会社松竹、東宝、大映との協力体制の 構築に失敗し、さらに一時は有望に見えた東映傘下の第二東映との合併にも頓挫を来し、
日本映画界に孤立するまでの顛末を、同誌が報じたのは1960年11月下旬号である37。以 降、同誌の「映画界の動き」欄には、「新東宝、給与の遅配始まる 大蔵社長、金融難を 表明」(1960年12月下旬号38)、「大蔵新東宝社長辞任 山梨専務のもと再建へ」(1961年1 月上旬号39)、「新資本導入が第一条件 テレビ映画事業で切抜け」(同年1月下旬号40)、「新 東宝、ついに製作中止 撮影所も近く閉鎖へ」(同年7月上旬号41)などの見出しが相次ぎ、
遂に1961年10月上旬号は、新東宝が①清算会社新東宝株式会社、②「劇映画の自主製作 ならびに請負製作、テレビ、PR映画の製作、スタジオ賃貸(1作品ごと)」を行う製作会 社サンエー株式会社、③「(1)映画の売買ならびに賃貸借、(2)一般劇映画ならびにテレ ビ映画の製作、(3)映画製作設備の賃貸し、(4)映画演劇技術養成所の経営、(5)観光娯 楽事業の経営」を行う配給会社大宝株式会社に3分割(サンエー株式会社は発足以前に株 式会社ニッポン・アートフィルム・カンパニー[NAC]に改称42)されたと報じる43。この 通り、池部から佐田に『マカオの男』初稿台本が渡された1961年とは、1953年の5社協 定成立にも参与した大手映画会社新東宝が終焉を迎え、映画界全体の産業的動揺が露呈し 始めた、日本映画史上の画期なのである。
こうした映画界の動揺の顕在化は、当然ながら新興の映像文化であるテレビ界の動向 と密接に連動した。『キネマ旬報』1961年1月上旬号に掲載された松竹、東宝、大映、新 東宝、東映の「各社社長1961年の抱負」で、全ての社長が映画界を取り巻く困難に言及 し、飛躍するテレビ界への警戒を表明したのは示唆的である44。事実、先に見た『キネマ旬 報』の「映画界の動き」欄にも、新東宝の崩壊過程を伝える報道に並走しつつ、映画界と テレビ界の覇権闘争(後述する劇映画のテレビ放映問題など45)についての記事が頻出す る。同時に、本論の問題意識に対し、特に重要な意味を持つのは、倒産を余儀なくされつ つある新東宝がテレビ界に活路を求め、それゆえ1961年当時、同社が映画界とテレビ界
の境界を漂流した事実である。ワンマン経営者の大蔵貢が退陣した直後の1960年末、早 くも「新たに研究中のテレビ映画事業」に力点を置き、「フジテレビ、日本テレビそれに スポンサーと提携し手持ちのタレント200人をフルに活用してテレビ・フィルム番組の製 作を」進め、「映画70%(配収約8,000万円)テレビ30%の割で収入を」得るとの経営目 標が示され46、倒産後に派生した製作会社サンエー=NACでもテレビ映画重視の方針が打 ち出される47。また、こうした過程の背後では、同じく大蔵退陣直後の1960年末、新東宝 が自社旧作を担保に、「経営立て直し用としてフジテレビから2千万円の短期融資を受け た」のを契機に、大量の旧作をテレビ各社に売り渡し、1961年8月24日に日本テレビで
『乾杯!女学生』(1954年)が放映を見る48。「映画界の統一テレビ対策の一つとして、劇映 画のテレビ提供中止が」叫ばれた矢先49、テレビ画面に映し出された旧作映画は、新東宝が 映画界からテレビ界に接近しつつある事実を印象付けたに違いない。
池部と佐田の名前が共存する『マカオの男』初稿台本を取り巻いたのは、こうした歴史 的状況である。『マカオの男』記事の報道なども参照しつつ、以下で時系列に整理しよう。
1960年11月30日 新東宝・大蔵貢、社長辞任の意向を表明50。
1960年12月29日 新東宝、自社の旧作映画を担保にフジテレビから融資51。 1961年01月 頃 池部良、テレビ化を念頭に『マカオの男』執筆に着手52。 1961年06月14日 新東宝、映画製作を停止。スタジオも活動停止へ53。 1961年08月24日 日本テレビ、新東宝作品『乾杯!女学生』を放映54。 1961年08月31日 新東宝、倒産55。清算会社、製作会社、配給会社の3社へ。
1961年08月 末 池部良、新東宝・三上訓利に『マカオの男』への協力要請56。 1961年09月06日 池部良、日本テレビにて『マカオの男』記事の取材対応57。 1961年09月09日 配給会社「大宝」設立、『マカオの男』配給を発表58。 1961年11月15日 製作会社「NAC」設立。テレビ映画重視を表明59。
こうした状況を踏まえたとき、初めて本章の掲げた問題、すなわち当時の日本映画界で は許容され難い「東宝の池部良」と「松竹の佐田啓二」の共闘は、いかなる論理が作動す る空間で企画に浮上したのか、に対する解答も見え始める。池部が佐田を主演に迎え、自 作『マカオの男』の映画化を企画した際、スタジオ撮影や配給などを巡る拠点としての機 能を期待した新東宝(倒産後に派生した製作会社や配給会社なども含む。以下「1961年 の新東宝」)は60、すでに映画界とテレビ界の境界を漂流しつつ、後者に活路を見出しつつ あり、それゆえ映画スター=大手映画会社間の専属的な関係性を巡るスタジオ・システム の論理も、同社を取り巻く空間では実効性を弱めたに違いない。事実、先に見た『キネマ
旬報』1961年10月上旬号「映画界の動き」欄によれば、大宝が年末までに配給見込の作 品には、『マカオの男』に加え、新進気鋭の映画作家大島渚が専属する松竹と喧嘩別れし た直後、5社協定を逃れつつ監督した独立プロ作品『飼育』(1961年11月22日、大宝配 給による封切が実現)なども含まれる61。「東宝の池部良」が「松竹の佐田啓二」を巻き込 みつつ、自作『マカオの男』を映画化するという構想もまた、こうした1961年の新東宝 を巡る脱スタジオ・システム的動向を前提に、池部の脳裏に浮上したに違いない。
第3章 小津追善ドラマ『噴煙』
第2章では、池部良と佐田啓二の名前が池部自筆で書き入れられた『マカオの男』初稿 台本を取り上げ、1961年の日本映画界を巡る動向、特に大手映画会社新東宝の倒産前後 の過程に関連付けつつ、歴史的に考察した。事後的に見れば、映画界とテレビ界の境界を 漂流する1961年の新東宝に対し、「東宝の池部良」と「松竹の佐田啓二」の共闘を許容す る空間、言い換えればスタジオ・システムの外部空間としての期待を託した池部の構想は 画餅に帰し、『マカオの男』初稿台本は陽の目を見ずに終る。頓挫の理由は現時点では不 明である。とは言え、映画界での経営に行き詰り、テレビ界に接近しつつある1961年の 新東宝を拠点に、新たに映画製作に乗り出すという企画自体、本来的に頓挫すべき企画と 言えるのは確実だろう。しかし早くも3年後、今度は池部が主演し、佐田が企画に名前を 連ねた作品が実現を見る。1964年にフジテレビが放送した連続ドラマ『噴煙』である。
周知の通り、歌舞伎俳優2代目尾上松緑、「松竹の佐田啓二」、宝塚歌劇団出身の映画女 優淡島千景が本格的に共演したNHK大河ドラマ第1作『花の生涯』(1963年4月─12月)
に続き、大映の重役も務めた映画スター長谷川一夫を筆頭に、映画俳優、新国劇俳優、歌 舞伎俳優、新劇俳優、流行歌手らを一堂に集めた第2作『赤穂浪士』(1964年1月─12月)
が放送を見たのが1964年である。佐田、長谷川の相次ぐ本格的な進出により、第一線で 活躍中の映画スターであれ、自身の経歴に見合う活動の機会をテレビ界に見出し得るとの 認識が強化されたと言えよう。同時に、こうした動向に付随し、テレビ界が映画界とは異 なる論理の作動する空間であるとの当然の事実も鮮明に印象付けられたに違いない。例え ば、12月6日放送の『赤穂浪士』第49話「四家お預け」では、主演の長谷川一夫、客演 の嵐寛寿郎と大友柳太朗の3人が一堂に会したが62、長谷川と嵐は大映と新東宝(3年前に 倒産したものの)での経歴を念頭に、また大友は東映時代劇に活躍中の映画スターとし て、それぞれ当時の視聴者には受容されたはずである(大友は1963年に8本、1964年に 6本の映画に出演したが、全て東映作品である)。テレビ界に独自の論理が、「大映の長谷 川一夫」「元・新東宝の嵐寛寿郎」「東映の大友柳太朗」の3人を同じ場面に並置し、日本 映画界を律するスタジオ・システムの論理を相対化したのである。
無論、こうしたテレビ界の論理はスタジオ・システムの論理にも深刻な影響を与えたに 違いない。事実、1963年以降、映画スター=大手映画会社間の専属的な関係性は複雑な 変容を示し始める。例えば、第1章に見た通り、「東宝の池部良」が松竹作品に、「松竹の
佐田啓二」が東宝配給作品に出演する捩れ現象が起き始める。1949年より足掛け15年間、
大映が製作や配給に関与した作品のみに出演し続けた「大映の京マチ子」が、東宝配給 作品『甘い汁』(1964年)に主演し、佐田との初顔合せが実現したのも同様の事例と言え よう。注目すべきは、京のテレビ界での第1作『あぶら照り』(1964年7月)をすぐさま 映画化したのが、上記『甘い汁』だという事実である63。京にせよ、1963年に『花の生涯』
に出演した佐田にせよ、テレビ界に本格的に進出した映画スターの周囲に、大手映画会社 との専属的な関係性の綻びが見られるのは示唆的である64。但し、こうした動向をスタジ オ・システムの論理が有名無実化した帰結と決め付けるのは速断に過ぎる。京と並ぶ映画 スター「大映の山本富士子」が大映から独立した直後、東宝の演劇公演への出演が頓挫を 来した際、東宝専務の菊田一夫が中止の理由を「5社協定に似たふんいき」のためと説明 し、大映社長の永田雅一による出演妨害を匂わせたのも、同じく1963年の出来事である65。 この通り、スタジオ・システムの論理の実効性を巡り、映画界、テレビ界、映画スターの 多様な思惑がせめぎ合う錯綜の渦中に、『噴煙』は企画されたのである。
前述の通り、フジテレビの連続ドラマ『噴煙』は、前年1963年に死去した小津安二郎 の構想をテレビ化した作品である。1964年8月13日『朝日新聞』夕刊の報道を見よう。
これは小津監督が、自分の芸域を一歩おし進めようと胸中ひそかに期していたといわ れる構想を、猪俣勝人氏に脚色を依頼、山本武氏のプロデュースで、いちじ映画化が 計画されていたものだったが、同監督が病に倒れてついにその夢は実現できず、今日 に及んでいた。
それを猪俣氏がふたたび、こんどは連続テレビ映画として脚色、小津門下の田村幸 二監督が演出に当り、小津監督に育てられた人たちがゲストとして多数出演(第1、
2話には佐田啓二、月丘夢路が出る)というかたちで、数日前から制作をはじめた66。
記事中の山本武と共に、最終的に企画に名前を連ねた佐田遺蔵の企画書では、『噴煙』の 粗筋は以下の通りである。1950年代の熊本県下、阿蘇山の噴煙を望む名家雨宮家の家長 盛作が悪辣な政界の顔役に利用され、県会議員選挙に絡む汚名を被り、妻お静、高校生の 長男隆志、中学生の次男広二郎、小学生の長女信子を残し、自殺に追い込まれる。舞台は 1960年代の東京に移る。一介の会社員隆志は恋人のタイピスト咲江を裏切り、勤め先の 重役の令嬢岡崎真砂子と結婚し、さらに政界の重鎮菅原を手蔓に、遂に故郷の国政選挙に 立候補する。父親の自殺で受けた恥辱を雪ぐべく、闇雲に名利を追求する隆志は、結局は 選挙に敗北し、空しく故郷を去る。隆志の浮沈を主軸に、物語は故郷で老母お静の面倒を 見る広二郎、広二郎が儲けた初孫を慈しむお静、東京の花柳界に生きる信子、また隆志を 巡る二人の女性咲江と真砂子ら、それぞれの人生を描く67。但し、企画書では「1時間・26 回」の放送予定であるのに対し68、結果的には全13回で終了を見たため69、上記の物語にも 相当の改変が加えられたはずである。無論、池部の役柄は主人公雨宮隆志である。
言うまでもなく、『噴煙』における雨宮隆志の人物像は、同じく猪俣勝人が脚本を執筆
した松竹作品『現代人』(1952年)の主人公、すなわち池部扮する若き汚職官吏を連想さ せる。それゆえ、小津が猪俣に腹案を披瀝した時点で、池部主演が想定された可能性も高 い。とは言え、本論の問題意識に対し、より重要な意味を持つのは、先に引用した記事に おける、「小津監督に育てられた人たちがゲストとして多数出演」するとの一節である。
事実、『噴煙』企画書の冒頭では、「小津さんの古い作品、新しい作品に出演、ファンに 親しまれてきた、多数の名優たちが、小津さんに対する追慕の意味で、毎回どこかに顔 を出し、色どりを添えてくれることも[…]強い魅力となりましょう」との一節に続き、
錚々たる俳優の名前が順不同に示される。50音順に並べれば、芦川いづみ、淡島千景、
飯田蝶子、池部良、岩下志麻、上原謙、大坂志郎、香川京子、京マチ子、久我美子、栗島 すみ子、木暮実千代、坂本武、佐田啓二、佐野周二、佐分利信、杉村春子、月丘夢路、津 島恵子、坪内美詠子、鶴田浩二、中村鴈治郎、中村伸郎、倍賞千恵子、原節子、東山千栄 子、三上真一郎、三井弘次、山本富士子、吉川満子、笠智衆の計31人である70。「松竹の小 津安二郎」追善企画に相応しく、佐田を始め、松竹現代劇の常連俳優が中核を占めるもの の、主演の「東宝の池部良」を筆頭に、前述の「大映の京マチ子」や独立時の騒動が耳目 に新しい「大映の山本富士子」、また東映の映画スターとして活躍中の「東映の鶴田浩二」
(鶴田は1963年に10本、1964年に8本の映画に出演したが、全て東映作品である)ら、
1964年当時、松竹以外の大手映画会社を連想させたはずの名前も散見される。
実際にテレビ放送された映像の視聴が困難な以上、これらの映画スターの出演の有無を 結論付けるのは現時点では不可能である。とは言え、映画界の論理、すなわちスタジオ・
システムの論理を基準に、こうした試み自体を荒唐無稽な夢物語、企画倒れと決め付ける のも速断に過ぎる。前年1963年1月27日、日本映画俳優協会が大手映画会社間を横断す る俳優組合の立ち上げに動き始めた際、同協会の幹部である「東宝の池部良」と「松竹の 佐田啓二」も主導的な役割を果したからである71。同日の模様を報じる『東京新聞』の記事 に、「東映の高倉健」(高倉は1963年に12本、1964年に8本の映画に出演したが、全て 東映作品である)や「日活の二谷英明」(二谷は1963年に10本、1964年に8本の映画に 出演したが、全て日活作品である)らを背後に従えつつ、池部と佐田が共に記者会見に臨 む写真が掲載されたのは象徴的な出来事と言えよう72。こうした動向の核心には、大手映画 会社間の横断的活動への制限を含む、有形無形の抑圧に対する映画スターからの異議申し 立てが存在した73。俳優組合の結成を主導する池部や佐田の意志は、まさに脱スタジオ・シ ステム的共闘に向けた意志であり、こうした意志に共鳴した映画スターの何人かが、大手 映画会社との個別の関係性を一時的に捨象し、同じく池部と佐田が主導する企画『噴煙』
に協力を申し出た可能性も、それゆえ一概には否定し切れないのである。
こうした歴史的状況を踏まえれば、テレビ界の小津追善企画『噴煙』の政治性も視界に 浮上する。1964年の放送当時、主演「東宝の池部良」と企画「松竹の佐田啓二」による 共同作業は、俳優組合の動向とも絡みつつ、映画界とテレビ界双方に対し、大手映画会社 間を横断する映画スターの共演可能性の問題を想起させたに違いない。小津を追善するに 際し、過去に小津映画に出演した俳優達の結集を目指した企画が、脱スタジオ・システム
的共闘を模索する池部や佐田の意志と、意識的である/ないとは別次元で正確に呼応した 事実に、『噴煙』の政治性が認められるのである。主演「東宝の池部良」と企画「松竹の 佐田啓二」を主軸に、松竹以外の大手映画会社を連想させる映画スターも巻き込み、日本 映画界では封殺された共同作業の可能性を模索する『噴煙』とは、池部や佐田の立場から 見れば、テレビ界を新たな拠点に、スタジオ・システムの論理から離脱する好機と、また テレビ界の立場から見れば、先行の映像文化である映画界との覇権闘争の渦中で、自身の 論理を優勢化する好機と見えたはずである。前述の通り、映画スター=大手映画会社間の 専属的な関係性が変容を見せつつある折柄、小津追善という一見、中立的な旗標を掲げた
『噴煙』とは、実際には映画スターとテレビ界の思惑に政治的に貫かれた企画なのである。
結 論
本論では、戦後の日本映画界を牽引する二人の映画スター「東宝の池部良」と「松竹の 佐田啓二」の1960年代前半における共闘の過程を辿り直し、映像文化の覇権が映画から テレビに移行しつつある当時の歴史的状況との相関性を考察した。初めに、大手映画会社 間を横断する二人の共同作業が、映画界を支配するスタジオ・システムの論理とは本来的 に相容れない点を確認した上(第1章)、池部脚本・監督、佐田主演の劇映画『マカオの 男』が、映画界での経営に行き詰り、テレビ界に接近しつつある1961年の新東宝を拠点 に企画された事実(第2章)、また佐田企画、池部主演による1964年の連続ドラマ『噴 煙』が、スタジオ・システムの論理の外部空間としてのテレビ界を拠点に実現を見た事実
(第3章)、それぞれに新たな光を投じ、新興の映像文化であるテレビ界が、映画スター=
大手映画会社間の専属的な関係性を含む、映画界の論理を相対化する過程を逆照射した。
こうした池部と佐田の共闘の軌跡は、『噴煙』放送開始に先立つ1964年8月17日、佐 田の事故死のために不意に切断される。佐田も客演した『噴煙』第1話・第2話が74、小津 安二郎に加え、佐田自身への追悼の意味も帯びると共に、池部と佐田のさらなる共闘の機 会も永久に閉ざされる。佐田の死後、映画スター=大手映画会社間の専属的な関係性を含 む、スタジオ・システムの論理が雲散霧消するまでの過程の考察を今後の課題に定めつ つ、「東宝の池部良」と「松竹の佐田啓二」を二つの焦点に据えた本論の幕を閉じたい。
註
1 篠田正浩「池部良という官能的音楽」『キネマ旬報』2010年12月上旬号、136頁─37頁。
2 上野昂志「虚無感と結びついた危うさと毒」『キネマ旬報』2010年12月上旬号、135頁。
3 佐田と戦後の松竹現代劇、特に女性映画との相関史を考察した以下の論文は、示唆に富ん だ先行研究である。石田美紀「『横顔の君』佐田啓二」、黒沢清/四方田犬彦/吉見俊哉/李 鳳宇編『監督と俳優の美学』(岩波書店、2010年)、245頁─70頁。
4 本論では、映画スター=大手映画会社間の専属的な関係性を「東宝の池部良」「松竹の佐田 啓二」などと示す。契約上は専属しない場合も、両者に強固な連想関係が認め得る場合(住
み慣れた専属会社を離れた事実自体が重要な場合など)には同様に示す。
5 滝沢一「長谷川一夫」『日本映画俳優全集・男優篇』(キネマ旬報社、1979年)、451頁。
6 “Studio System,” The Film Studies Dictionary, ed. Steve Blandford, Barry Keith Grant, and Jim Hillier (London: Arnold, 2001), 229–30.
7 本論では、作品本数の算出などに際し、「日本映画データベースJapanese Movie Database」
(http://www.jmdb.ne.jp/)を参照しつつ、必要に応じ、修正を施した。
8 志村三代子/弓桁あや編『映画俳優池部良』(ワイズ出版、2007年)、37頁─39頁。
9 志村三代子/弓桁あや編『映画俳優池部良』(ワイズ出版、2007年)、90頁─92頁。
10 佐藤忠男『日本映画史』第2巻(岩波書店、1995年)、317頁。
11 「新人は管理委に登録」『朝日新聞』1953年9月10日夕刊、3頁。
12 「六社協定に調印」『朝日新聞』1957年7月18日夕刊、3頁。
13 「映画界の動き」『キネマ旬報』1960年10月上旬号、142頁。
14 佐藤忠男『日本映画史』第2巻(岩波書店、1995年)、318頁。
15 「五社協定に揺れる映画界」『朝日新聞』1953年9月5日朝刊、3頁。
16 「もっとよい企画を」『朝日新聞』1954年6月25日夕刊、2頁。
17 『マカオの男』初稿台本、早稲田大学演劇博物館(ヨ05─19333)、表紙。
18 『マカオの男』初稿台本、早稲田大学演劇博物館(ヨ05─19333)、無頁。
19 本論では、演劇博物館の池部遺蔵資料に含まれる自筆原稿と照合し、『マカオの男』初稿台 本の原作・監督欄に記された名前を池部自筆と見た上、同じ万年筆による表紙の書き入れも 池部自筆と判断した。原作欄については、あらかじめ印刷された文筆家藤島泰輔の名前を訂 正し、池部の名前が書き込まれた。藤島は1958年、KRテレビの単発ドラマ『梵化』を池部 と共作した経験を持つため(ラジオ・テレビ欄、『讀賣新聞』1958年9月26日朝刊、6頁;
10月3日朝刊、6頁)、『マカオの男』の構想に示唆を与えた可能性も高い。なお、脚本欄に おける「池部良」の名前は活字である(『マカオの男』初稿台本、早稲田大学演劇博物館[ヨ 05─19333]、無頁)。
また、原作・脚本・監督欄に並び、製作欄には「㈱池部プロダクシヨン」の社名が認めら れる(『マカオの男』初稿台本、早稲田大学演劇博物館[ヨ05─19333]、無頁)。1964年7月、
池部が住み慣れた東宝から独立した際の回想によれば、池部主演の東宝作品『現代の欲望』
(1956年)などの「実質的なプロデュース活動」を果したのが池部プロである(「池部良、東 宝を飛び出す」『東京新聞』1964年7月31日夕刊、4頁)。とは言え、「専属の身だと活動が 制限される。フリーになったこれからは大いに羽根をのばすつもり」と回想が続く点にも明 白な通り(「池部良、東宝を飛び出す」『東京新聞』1964年7月31日夕刊、4頁)、少なくと も池部が東宝を離れる以前の池部プロは、東宝内部における映画スターの発言権の象徴と見 るのが妥当である。池部プロが『マカオの男』を製作する構想は、なお池部が「東宝の池部 良」である事実とも調和し得たのである。事実、前述の『現代の欲望』宣伝資料には「東宝 製作・配給」とのみ記載され(「東宝プレス・シート1956年6月『現代の欲望』」、早稲田大 学演劇博物館[池部良資料])、池部プロを巡る言及は見当らない。
20 『マカオの男』初稿台本、早稲田大学演劇博物館(ヨ05─19333)、5頁。
21 『マカオの男』初稿台本、早稲田大学演劇博物館(ヨ05─19333)。
22 廣野由美子『批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義』(中央公論新社、2005 年)、119頁。
23 『マカオの男』初稿台本、早稲田大学演劇博物館(ヨ05─19333)、d2頁─d3頁。
24 池部は1944年、輸送船が米軍の魚雷攻撃を受けた際、「武装のまま、海に[…]昼の2時
頃、飛びこんで、推定12時頃、日本海軍の軍艦に」収容された(池部良「私の履歴書」第 19回、『日本経済新聞』1997年8月20日朝刊、32頁)。周知の通り、池部は文筆業にも才能 を発揮し、上記の経験を巡る随筆なども数多く発表した。
25 『マカオの男』初稿台本、早稲田大学演劇博物館(ヨ05─19333)、f8頁─f13頁。
26 池部良「私の履歴書」第14回、『日本経済新聞』1997年8月15日朝刊、32頁。
27 『マカオの男』初稿台本、早稲田大学演劇博物館(ヨ05─19333)、表紙。
28 『マカオの男』初稿台本、早稲田大学演劇博物館(ヨ05─19333)、5頁。
29 『マカオの男』初稿台本、早稲田大学演劇博物館(ヨ05─19333)、表紙。
30 『マカオの男』記事、貼込帖⑧、早稲田大学演劇博物館(池部良資料)、17頁目。
31 『マカオの男』記事、貼込帖⑧、早稲田大学演劇博物館(池部良資料)、16頁目。
32 『マカオの男』記事、貼込帖⑧、早稲田大学演劇博物館(池部良資料)、18頁目。
33 「映画界の動き」『キネマ旬報』1960年10月上旬号、142頁。
34 実際には、佐田遺蔵『マカオの男』初稿台本の脚本テクストからも、同作が1961年に執筆
された事実は推測し得る。すなわち、劇中における時間を巡り、冒頭のト書に「時・現在の 秋」との指定が認められるのに加え(『マカオの男』初稿台本、早稲田大学演劇博物館[ヨ 05─19333]、6頁)、主人公が「終戦と同時に捕つて、戦犯容疑でつながれ[…]服役3年後」
にマカオに逃亡し、早くも13年を経たと身の上を回顧するのであれば(『マカオの男』初稿 台本、早稲田大学演劇博物館[ヨ05─19333]、d2頁─d3頁)、敗戦1945年から16年を経た 1961年が劇中の「現在」であり、同時にト書に「時・現在の秋」と記した脚本家池部の「現 在」であろう。
35 『マカオの男』海外ロケの候補地香港では、1961年当時、撮影監督西本正が賀蘭山名義で 活躍し始めたばかりである。詳細は西本正/山田宏一/山根貞男『香港への道―中川信夫か らブルース・リーへ』(筑摩書房、2004年)などを参照せよ。西本は前年1960年まで新東宝 を拠点に活動し、それゆえ『マカオの男』香港ロケの企画との間に関連も予想されるが、上 記の書籍に『マカオの男』を巡る言及は見当らない。
36 「映画界の動き」『キネマ旬報』1961年10月上旬号、142頁。
37 嶋地孝麿「新東宝の13年」『キネマ旬報』1960年11月下旬号、48頁─50頁。
38 「映画界の動き」『キネマ旬報』1960年12月下旬号、108頁。
39 「映画界の動き」『キネマ旬報』1961年1月上旬号、154頁。
40 「映画界の動き」『キネマ旬報』1961年1月下旬号、107頁。
41 「映画界の動き」『キネマ旬報』1961年7月上旬号、140頁。
42 「映画界の動き」『キネマ旬報』1961年10月下旬号、112頁。
43 「映画界の動き」『キネマ旬報』1961年10月上旬号、142頁。
44 「日本映画の新しい年を構想する」『キネマ旬報』1961年1月上旬号、48頁─50頁。
45 「映画界の動き」『キネマ旬報』1961年4月上旬号、145頁;4月下旬号、106頁;9月上旬 号、110頁;9月下旬号、113頁。
46 「映画界の動き」『キネマ旬報』1961年1月下旬号、107頁。
47 「映画界の動き」『キネマ旬報』1961年9月下旬号、113頁;12月下旬号、109頁。
48 「テレビに新東宝映画」『朝日新聞』1961年8月24日朝刊、5頁。
49 「映画界の動き」『キネマ旬報』1960年12月下旬号、109頁。
50 「映画界の動き」『キネマ旬報』1961年1月上旬号、154頁。
51 「テレビに新東宝映画」『朝日新聞』1961年8月24日朝刊、5頁。
52 『マカオの男』記事、貼込帖⑧、早稲田大学演劇博物館(池部良資料)、17頁目。
53 「映画界の動き」『キネマ旬報』1961年7月上旬号、140頁。
54 「テレビに新東宝映画」『朝日新聞』1961年8月24日朝刊、5頁。
55 田中純一郎『日本映画発達史』第Ⅳ巻(中央公論社、1976年)、334頁。
56 『マカオの男』記事、貼込帖⑧、早稲田大学演劇博物館(池部良資料)、17頁目。
57 『マカオの男』記事、貼込帖⑧、早稲田大学演劇博物館(池部良資料)、17頁目。
58 「映画界の動き」『キネマ旬報』1960年10月上旬号、142頁。
59 「映画界の動き」『キネマ旬報』12月下旬号、109頁。
60 『マカオの男』記事、貼込帖⑧、早稲田大学演劇博物館(池部良資料)、17頁目。
61 「映画界の動き」『キネマ旬報』1960年10月上旬号、142頁。当時、『日本の夜と霧』(1960 年)問題で松竹を離れた大島に映画を監督させる企画が、スタジオ・システムの論理との間 に緊張を走らせた事実については、以下の記事にも明白である。
松竹との契約破棄問題で話題をにぎわせていた大島渚監督は、このほどパレス・フィ ルム・プロ(代表者田島三郎氏)の「飼育」を監督することになった。同プロでは[…]
邦画5社系統以外に配給するほか海外市場への進出を狙う予定[…]。
また、大島渚監督の契約破棄については、まだ松竹が了承していないので、邦画で5 社作品や5社配給作品を同氏が監督する場合は、「5社協定」(新東宝の脱落により7月 から6社協定が5社協定になった)の新人引き抜き防止条項に抵触するが、5社と関係 のない独立プロ作品の場合は、松竹としても押える方法がなく、傍観するものとみられ ている(「映画界の動き」『キネマ旬報』1961年10月上旬号、142頁)。
62 荷村寛夫『嵐寛寿郎と100人のスター・男優篇』(ワイズ出版、1996年)、36頁。
63 佐藤忠男「京マチ子」『日本映画俳優全集・女優篇』(キネマ旬報社、1980年)、249頁。
64 池部もまた1964年7月末に東宝を離れた。独立後の初仕事が『噴煙』の主人公役である
(「故人の構想をテレビ映画に」『朝日新聞』1964年8月13日夕刊、5頁)。
65 「山本富士子 舞台出演またお流れ」『朝日新聞』1963年12月16日夕刊、5頁。
66 「故人の構想をテレビ映画に」『朝日新聞』1964年8月13日夕刊、5頁。
67 『噴煙』企画書、早稲田大学演劇博物館(タ06─3647)、1頁─18頁。
68 『噴煙』企画書、早稲田大学演劇博物館(タ06─3647)、無頁。
69 以下は『朝日新聞』夕刊テレビ・ラジオ欄より作成した全13回の放送日一覧である。
① 10月01日 ② 10月08日 ③ 10月15日 ④ 10月22日
⑤ 10月29日 ⑥ 11月05日 ⑦ 11月12日 ⑧ 11月19日
⑨ 11月26日 ⑩ 12月03日 ⑪ 12月10日 ⑫ 12月17日
⑬ 12月24日 ※ 木曜21時45分─22時45分放送 70 『噴煙』企画書、早稲田大学演劇博物館(タ06─3647)、無頁。
71 俳優組合の結成を巡る池部と佐田の動向を追跡するには、「『俳優ユニオン』のその後を追 う」『キネマ旬報』1963年4月上旬号、46頁─53頁、岩崎昶「始めは終りを規定する」『キネ マ旬報』1963年4月上旬号、54頁─55頁などを参照せよ。
72 「映画俳優の夜明け」『東京新聞』1963年1月28日朝刊、7頁。
73 映画スターが提出した様々な異議申し立ての詳細については、「『俳優ユニオン』のその後 を追う」『キネマ旬報』1963年4月上旬号、47頁─48頁などを参照せよ。
74 『噴煙』番組紹介、『朝日新聞』1964年10月1日朝刊、7頁。