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沖永良部島民のアイデンティティと境界性

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博士学位論文 

     

沖永良部島民のアイデンティティと境界性 

 

       

 

          

     

早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程 

  高橋孝代 

   

4000S021 

 

2004 年 2 月 

 

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沖永良部島民のアイデンティティと境界性

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沖永良部島民のアイデンティティと境界性 

  目次   

序章    本研究の動機、問題の設定、鍵概念の定義と方法       …  4    

第一節  本研究の動機  第二節  問題の設定  第三節  鍵概念の定義  第四節  方法  

 

第一章 先行研究と本研究の課題       …  17   

はじめに 

第一節   文化人類学における本研究の位置付け  第二節 「奄美・沖縄研究」における本研究の位置付け     

第二章  沖永良部島のエスノグラフィ      …   47   

はじめに 

  第一節 地理、生業、交通 

  第二節 言葉、社会、儀礼と信仰、創世神話   

第三章 外部勢力による政治支配とアイデンティティ形成 −「鹿児島/沖縄」の境界性− … 66           

はじめに 

第一節  外部勢力の政治支配と権力構造 

第二節  外部勢力の政治支配によるアイデンティティ形成への影響  おわりに 

 

第四章 エスニシティとアイデンティティ −「日本/沖縄」の境界性−        …   108     

はじめに  第一節  近代 

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第二節  戦中期から米軍施政権期へ 

第三節  日本復帰後:1953 年 12 月 25 日〜現在  第四節  国家、エスニシティ、アイデンティティ  第五節  質問紙調査資料による考察 

第六節  インタビュー調査資料による考察    おわりに 

 

第五章  芸能文化とアイデンティティ  −「奄美/沖縄の境界性−       …  167   

はじめに 

第一節  沖永良部島の民俗芸能の概観  第二節  芸能史:近世末〜 −グムチ踊り− 

第三節  芸能史:近代 −沖縄芝居〜琉球舞踊  第四節  エイサー −背景と広がり− 

第五節  沖縄系芸能の伝承−畦布集落の例− 

第六節  史的考察−エイサーと八月踊りの象徴性  第七節  エイサー受容の素地 

第八節  沖縄芸能への愛着とアイデンティティ    おわりに 

 

終章  アイデンティティ論の再構築に向けて      …  216   

   はじめに 

第一節 研究課題の再確認 

第二節 沖永良部島民のアイデンティティの境界的特徴  第三節 本研究の成果と意義 

 

文献目録      …  226  資料1:質問紙調査結果資料 

資料2:沖永良部島関連文献リスト  資料3:沖永良部島の創世神話  資料4:写真 

 

一頁=40字×30行 

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序章  本研究の動機、問題の設定、鍵概念の定義と方法   

   

第一節 本研究の動機   

本論文は、沖永良部島民のアイデンティティ(identity)の研究である。沖永良部島(地 図1参照)で生まれ育った筆者が、この研究に興味をもったのは、アメリカ留学中の 1996 年頃であった。言葉や、習慣や、肌の色が自分とは違う人々に囲まれて生活する状況では、

日本国内で生活していた時には特に感じなかったアジア人、日本人としてのアイデンティ ティを意識させられることが多かった。そのような中で、本研究の直接の契機は、留学地 サンフランシスコの日本人町で、「Cherry Blossom festival −Commemoration of 100years  of Okinawan Immigration−(桜祭り沖縄移民百周年記念)」が行われた時の経験に由来する。

沖縄県出身ではない筆者には、「ウチナンチュ(沖縄の人)」というアイデンティティはな かったが、祭りを通して流れてくる沖縄の民謡に「血がさわぐ」ような強い懐かしさを感 じた。そして、「なぜウチナンチュではないのに流れてくる沖縄の音楽に強い愛着を感じる のか」、と疑問に思った。沖永良部島を調べ始めると、アイデンティティを研究するのに興 味深い地であることに気づき、筆者以外の沖永良部島の人は、どのようなアイデンティテ ィをもっているのかという探究心が芽ばえ、修士論文が本研究のスタートとなった。 

その後、「 沖永良 部島 の人」 とし てのア イデ ンティ ティ に問題 意識 を抱い てい るのは、

筆者だけではないことを知ったのは、2000 年夏のフィールドワーク中である。沖永良部島 に滞在中、「奄美人は先住民族」という見出しを『南海日日新聞』に見つけた。沖永良部島 で生まれ、小学校低学年まで島で過ごした大山

お お や ま

一人

か ず と

(1969 年生)による文章である。解放 出版社に勤務する彼は、2000 年 7 月に開催された国連の第 18 回先住民作業部会に出席し た際の主張を紙面に掲載していた。 

大山の主張は、奄美人は琉球民族に属し、日本の先住民族であるというものである。大 山は同作業部会での声明文の冒頭で、「…われわれ奄美人は琉球民族です(中略)現在でも 日本政府による琉球民族の分断政策が続いています。(中略)分断政策のために余儀なくさ

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れた固有の歴史と現状を説明します。」(原文は英文、『南海日々新聞』2000 年 8 月 15 日号 より引用)と述べた。さらに、大山は問題意識の動機と琉球民族へのこだわりを『琉球新 報』で次のように説明している。 

 

私が沖永良部島の出身ということが大きいかもしれません。オジイは島唄 

・  三線の名手だし、エイサー筆 者 注 lやハーレー筆 者 注 2もある。だけど、神  のように扱われているのは西郷隆盛、お墓はヤマト式と琉球式。いったい  ここはどっちなんだ、とずっと思っていました。東京の学生時代には、言  葉が通じず自閉症のようになった同級生、鹿児島の人間をみつけてはケン  カを繰り返す友人が身近にいた。そんな経験が、奄美差別の問題や、奄美  人自身の同化志向について考えるきっかけになったのかも。ヤマトンチュ  になったつもりでいたのに、そうではないことを突きつけられて戸惑って  いたのかもしれませんね」(『琉球新報』2000 年 10 月 19 日号)。 

 

本論文の冒頭で大山の主張を紹介したのは、筆者が必ずしも同じ意見をもっているから ではない。むしろ、筆者は「もともと琉球民族であった」というような本質主義的な主張 には否定的である。ここにあえて紹介したのは、本研究が筆者の単なる個人的な好奇心に おさまる問題ではなく、沖永良部島という牧歌的で安定した社会の影に潜む切実な問題の 一つであることを、大山の活動を通して主張したいからである。同じ沖永良部出身者とし て、筆者は、大山の(琉球民族であり先住民族であるという主張はともかく)問題意識を 共有している。沖永良部島民のアイデンティティの問題は、多くの奄美の人々が忘れかけ ている、あるいは思い出したくない被差別の歴史に深く関係している。現在でも日本社会 において奄美や沖縄の人々に向けられる「まなざし」は、全く他者性を含んでないとは言 い難い。 

沖永良部の人は、エラブンチュ(沖永良部島の人)としてのアイデンティティには、何 の疑問も感じないが、エラブンチュを包含するより広い段階でのアイデンティティとして は、沖縄なのかヤマト(日本本土)なのか割り切れないものがある。このようなアイデン ティティへの疑問に対し、大山が国連に働きかけるという方法を取ったのに対し、筆者は 学問的に追求しようとしているのである。 

沖永良部島は、日本本土と沖縄島の間にある「南海の孤島」であり、中央政治から離れ

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た周縁であるが、周縁であるが故に、さまざまな力が打ち寄せる集積場ともいえる。エイ サーやハーレーというような沖縄的な文化要素は強いが、一方で、薩摩藩士でのちに日本 の偉人とされた西郷隆盛が尊敬され、西郷を祭る神社を建立するなど大切にされているこ とも見過ごすことが出来ない。これは一例にすぎないが、さまざまな要素が習合、あるい は混合しているのである。このような、シンクレティックな状態は、文化だけではなく、

沖永良部島に住む人々のアイデンティティにもみられる。筆者は、本論文でこのような状 態に対する実証的説明を試みる。その際、本論は、このような状況が、本質的な核のよう な何かがありもともと存在してきたと考える本質主義的立場をとらず、変化と生成を繰り 返しながら歴史的に構築された結果であるとする、歴史性を重視した構築主義的立場に拠 っている。なぜなら、例えば沖永良部島でエイサーが演じられるようになったのは、1993 年頃からであるし、西郷隆盛崇拝は、西郷が 19 世紀末に薩摩藩から沖永良部島に流刑とな ったことがきっかけであることからもわかるように、現在の沖永良部島の現象は、歴史の ある時点で発生した個々の事象が山積した結果なのである。そして、沖永良部島に住む人々 のアイデンティティもそのような政治的、文化的状況を反映していると考えられる。 

「奄美 人は 琉球民 族で 先住民 族」 という、『 南海日 日新 聞』に 掲載 された 記事 に対し、

地元奄美の反応は冷ややかであった。というよりも、内容が突飛で理解できないという印 象であった。「何を今更、せっかく日本人になれたのだから」という反応ではなく、日本人 であることに疑いをもっていない島の人々にとっては、日常とかけ離れている理解不可能 な言説と思われたという方がより近いかもしれない。だが、沖永良部島の人々の多くが大 山の主張に賛成ではないにしても、これも沖永良部島出身者のアイデンティティの一つの 表出の「形」なのである。それだけ沖永良部島は、そこに住む人々のアイデンティティを 多様にするさまざまな背景をもっている。 

沖永良部島は、人口 15,123 人(2001 年 8 月現在の和泊、知名両町役場住民基本台帳よ り)の小さな島である。日本本土と沖縄島の間にあり、琉球弧のほぼ中央に位置する。中 央政治から離れた周縁に位置し、これまで日本史や沖縄史の表舞台に華々しく登場したこ とはない。したがって、この島が、かつては琉球王国の支配下にあり、また薩摩藩の直轄 領地として圧政に苦しみ、さらに戦後は約 8 年間米軍支配下におかれるという、さまざま な政治的な影響を受け、実にダイナミックな「過去」をもっていることを知る人は、日本 にもそう多くはない。この島の個性の一つは、政治の中心ではないが、歴史の変動による 影響力をまともに受けてきた、「境界」地域の島であるということである。この島を「地図」

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の中心に据え、島民のアイデンティティを考察しようというのが、本研究における筆者の 意図である。 

 

第二節  問題の設定   

沖永良部島は沖縄島の最北端辺戸岬から北東に約 60 キロ、鹿児島市から南西に約 540 キロの位置にある離島である。沖永良部島は、地理的に沖縄島と日本本土の間にあり、歴 史的に両地域からの政治的文化的影響を受けてきた。沖永良部島は 14 世紀以降の三山(山 北)時代は北山王の勢力下にあり、15 世紀初め三山が統一され王朝が形成された後は琉球 王国に属した1。1609 年の薩摩藩による琉球侵攻後、沖永良部島は薩摩藩直轄領となり薩 摩藩より遣わされた役人が島を治め、その一方で、中国からの冊封使渡琉の際は、琉球王 国に対し食料支援を行うなどの関係は継続するという両属的な体制が続いた。明治期にな り代官政治は終わり、沖永良部島は次第に近代県政に組み込まれていった。沖永良部島は、

1872(明治 5)年に鹿児島 39 大区となり、1875(明治 8)年には大島支庁がおかれ、1879

(明治 12)年には鹿児島県大島郡の一部となった。第二次世界大戦後は、沖縄県および他 の奄美諸島とともに米軍施政権下におかれた。その後、日本へ「復帰」するため激しい運 動を展開し、1953(昭和 28)年には 1945(昭和 20)年から続いた7年 10 ヶ月間の米軍施 政権下の時代に終止符が打たれ、戦前と同様に鹿児島県大島郡に属することとなった。 

沖永良部島の地理的環境に起因する外部勢力の歴史的な政治支配は、島に住む人々のア イデンティティにも影響を及ぼしている。沖永良部島民は、ウチナンチュ(沖縄の人)と 自らを差異化する傾向にあるが、文化に関しては「沖永良部島は沖縄文化圏にある」と考 えている人が多い。また、鹿児島県民意識は強いが、ヤマトンチュ(日本本土の人)であ る鹿児島の人に対し違和感も覚えている。沖永良部島民は、鹿児島と沖縄の両方に属して いるようで、どちらにも完全には属していないような、表面的には、曖昧で矛盾したアイ デンティティを持っているかのような印象を受ける。本研究は、なぜ沖永良部島の人々は、

このようなアイデンティティをもっているのかという問題意識から出発している。このよ うな疑問に対し、多くのアプローチの方法がある中で、筆者はこれらの要因を沖永良部島 が外部勢力との歴史的プロセスの中で対抗勢力との攻めぎあいにより形成された「境界

ボ ー ダ ー

性」

に注目し、このような視点からこの問題に取り組んでいく。本研究は、「日本

ヤ マ ト

/沖縄

オ キ ナ ワ

」、「鹿 児島/沖縄」、「奄美/沖縄」の重層的な「境界」に位置する沖永良部島の「境界性」に注

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目し、そこに住む人々のアイデンティティの考察を試みるものである。 

境界地域、すなわち文化的、政治的境界地域の研究は、20 世紀末以降の急速なグローバ リゼーシ ョ ンに伴い 、 近年文化 人 類学にお い ても重要 性 が高まっ て いる。人 の 移動に伴う 文化や思 想 の移動に よ り、文化 の 境界に曖 昧 さがみえ は じめると 同 時に、文 化 の融合や新 たな文化 の 生成とい う 現象がお き ている。 こ れらのこ と から、従 来 のような 、 文化・社会 を明確な境界のある、閉ざされた体系として捉えることに限界がみえはじめ(太田 2001:

38‐39、床呂 2002:32)、境界を明確にした枠組みが問い直されるようになった。このよう な問題に対応し、新たな枠組みの代替案として、「ディアスポラ」や「トランスナショナリ ズム」とともに注目されてきたのが、「境界文化」の研究である(太田 2001:38‐39)。ボ ーダー地域では文化と文化が接触しあい、体系同士の融合が起きている。そこでは、「既存 の文化が体系をなさず、さまざまな異種混淆が行われている」(太田 2001:38)。 

例えば、アジアの境界地域の一つに、マレーシアとの国境付近のタイ南部地域がある。小 野沢正喜 の 「国家と エ スニシテ ィ −南タイのマレー系イスラム教徒における宗教と教育−」

(1985 )によると、タイとマレーシア国境付近の 4 県の人々は、仏教徒(南方上座部)が人 口の 94 パーセント以上であるタイ国において、イスラム教徒であり言語もマレー語を用い、

文化的にもマレー系の文化を継承しているという。この状況は、この地が 18 世紀末にタイ 国家に組 み 込まれる 以 前は、マ レ ー系イス ラ ム教徒の パ タニー王 国 群の範域 で あったこと に由来している(小野沢 1985:47‐48)。このような境界地域では、そこに住む人々のアイ デンティティと人々を取り巻く社会的環境との関係が重要な問題となってくる。 

江渕一公は、「・・・複数の集団や範疇、もしくはそれらの境界領域に所属する人々の帰属意 識はどの よ うなもの な のか、こ れ らの人々 の アイデン テ ィティの 二 重性・多 重 性の可能性 を理解する視点がグローバル化時代の文化研究においては不可欠となってきている」(江渕 2000:318‐ 319)と 述べ てい る。 こ のよ うに 、 ボー ダー 地 域の 研究 で は、 しば し ば人 々の ア イデンティティが注目されている。例えば、グロリア・アンザルデュア(Gloria Anzaldua)

は 、Borderlands/La  Frontera (1987)で 、 メ キ シ コ と の 国 境 に 近 い ア メ リ カ の テ キ サ ス 州に住む メ キシコ系 ア メリカン 人 に焦点を 当 て、英語 と スペイン 語 による記 述 を用い、ア メリカとメキシコの間を心理的に往来するアイデンティティの揺らぎを描き出している。 

これまでの境界

ボ ー ダ ー

研究

ス タ デ ィ

は、国境という境界、特にアメリカとメキシコの国境地域が多く2、 国境以外 の 境界地域 に 関しては 、 筆者の知 る 限り、十 分 な研究蓄 積 があると は いえない。

特に、沖 永 良部島の よ うな国境 以 外の「重 層 的な境界 」 によって 特 徴づけら れ る境界地域

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の研究報告は少ない。本研究は、「境界研究」という文脈において、沖永良部島のもつ境界 性の特徴 を 反映する ア イデンテ ィ ティの一 事 例として 研 究の一端 を 担うこと が 出来ると考 えている。 そして、「 伝統」文化 が研究の中 心であった 奄美・沖縄 の文化研究 に、「境 界 」 という新たな視点とアプローチを提示する意図ももっている。 

ここで 、本 論で使 用す る「境 界」 という 言葉 を説明 して おく。「 境 界」と は、 沖永良部 島民のアイデンティティ理解に近づくための切り口として用いる概念である。よって実際 に地図上で引かれた境界ではなく、状況によって現れたり消えたり、また上下左右したり と可変的な性質を有するものである。 

また「日本/沖縄」、「鹿児島/沖縄」、「奄美/沖縄」の「境界」は、遠い過去から 現在まで継続して存在したわけではない。それぞれの境界は、時代ごとに、さまざま な要因が絡み合う中で異なるプロセスを経て創り出されたものである。したがって、

本論で取り上げる「日本/沖縄」、「鹿児島/沖縄」、「奄美/沖縄」の境界もそれぞれ 性質が異なる。本論では、これらの性質も明らかにしていく。 

 

第三節  鍵キ ーコンセプト概 念の定義   

  「アイデンティティ」という語は、アメリカの精神分析学者エリクソン( Erik Homburger   Erikson [1902‑1994])によって提唱された概念である。その語源は、フロイトがブナイ・

ブリース協会へ宛てた書簡の中で、「われわれユダヤ人としての内的同一性をともにしあう 者は…」という文脈で用いた「内的同一性(inner Identiat)」という言葉にあるという(小 此木 1989:419)。日本語に訳しにくい言葉であるが、一般的には「自己同一性」、「同一性」

などと訳されている。 

エリクソンは、人格発達理論において、青年期の心理的社会的危機を示すためにアイデ ンティティという言葉を用いた。アイデンティティという語は、彼の著作である Childhood  and Society3 (1950)、Young Man Luther4 (1958)で使用され始め、さらに Identity and Life  Cycle5 (1959)、Identity: Youth and Crisis6 (1968)などで中心的に論じられ、人文・社 会諸科学において広く使用されるようになった。 

アイデンティティは、人間が乳幼児期から老人期までの身体的、生理的発達の各段階で 自分が自分である証明をするために獲得する自覚である。したがって重層的かつ多面的意 識である。人間の自己概念には、自分史的な記憶や自分独自の性格や考え方などの「個人

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的アイデンティティ」が存在するのに対し、ある集団のメンバーとしての自己定義も存在 する(村田 2000:208‐209)。後者は一般的に「社会的アイデンティティ」と呼ばれる。社 会的アイデンティティは、例えば○○国民、○○県、○○村、○○大学などとカテゴリー 化された集団の一員としてのアイデンティティである。本研究では、このような集団の一 員としての社会的アイデンティティに焦点をあて、便宜的に単にアイデンティティと記す。 

我妻洋によると、アイデンティティは「集団の成員に共通する身体的特徴、集団の起源 と歴史、国籍、言語、宗教、価値観、地理的環境などの過去の総体と、他の集団との力関 係や富、政治的経済的社会的な現在の条件などの要素により構成され、集団によりその中 の特定の要素がとくに重要視される」(我妻 1994:3)という。本研究ではこの観点をふま え、沖永良部島に住む人々を、集団の起源と歴史、言葉、信仰、地理的環境など歴史的文 化的政治的な要素を基本的に共有する一つの集団とみなす。ただし、その集団のメンバー シップには流動性があるものとする。 

そして、本研究においては、一つの社会集団である沖永良部島に住む人々が一つの集団 として指すところの「オキナワ・オキナハ・ナファ・ウチナー」を「沖縄」と記す。しか し、その「沖縄」が意味するのは、沖縄島を中心とするが、その範囲に明確な境界はない。

「沖縄」とは、本研究では近隣の政治的勢力で歴史的に沖永良部島と関係があった、三山 時代の北山(山北)、琉球処分までの琉球王国、琉球処分後の沖縄県であり、歴史的文化的 社会的総体として曖昧さをもった概念としての集団を指す。 

そして同時に、「鹿児島」も沖永良部島の人々の言うところの「カゴシマ」で、歴史的文 化的社会的総体としての曖昧さを残す概念的な集団であり、それは 1609 年の琉球侵攻後、

沖永良部島を直轄領とした薩摩藩であり、また現在属している鹿児島県のことである。 

「日本」は、一般に沖永良部島を含む日本国家という意味と、沖永良部島民が自らと区 別するところの日本本土(本論では以後本土と記す)すなわちヤマトという意味がある。

ヤマトは、鹿児島を含む歴史的文化的社会的総体としての本土全体である。本論では、国 家としての日本と、沖永良部島民が自らと区別するところのヤマトである本土とは区別し て使用し、例外は、ふりがなを記す。 

「奄美」は、本土の人や沖縄の人からは、奄美諸島で一番大きい奄美大島を指して使用 されることもあるが、本論文では、南西諸島の中の、鹿児島県大島郡の範域を指す。奄美 大島とその周辺離島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島の 14 市町村である。沖縄と奄 美の行政的な境界は、沖縄県と鹿児島県の境界で、与論島と沖縄島の間にある。薩摩藩が、

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琉球侵攻後、琉球王国に属した与論島以北の「道の島」と呼ばれた島々を薩摩藩直轄領と したことが、鹿児島県大島郡の始まりであろう。 

奄美の島々は島ごとに個性があり多様性に富んでいるが、大きく分けると奄美北部(奄美 大島とその周辺離島、喜界島、徳之島)と奄美南部(沖永良部島、与論島)に二分され、文 化面でも緩やかな差異があり、奄美諸島南部は沖縄の文化的影響が強くみられる。 

島ごとに独立性が高く、現実に、奄美諸島とはいうもののある島の人々が他の島に行く 機会は少ない。特に一衣帯水の沖永良部島と徳之島の関係は「近くて一番遠い島」と表現さ れるほど交流が少ない。航空便も徳之島行きはなく沖永良部島に住む人で、一度も徳之島 に行ったことのない人は多い。観光や仕事で島外へ出る際、北には、徳之島、奄美大島な どを素通りし鹿児島へ、南に行く際には与論を飛び越え沖縄へ行くのである。奄美はそれ ぞれの島ごとに独立性が高く、文化も同様に個性があり、「奄美の文化」と一くくりにする ことは難しい。 

 次に、本論でこのような集合体に住む人々を指す民俗語彙の説明をしておく。これらの 用語は、沖永良部島民のアイデンティティの研究である本論においては、沖永良部島民が 意味するところの民俗概念に依っている。 

ウチナンチュは「沖縄の人」を指す言葉である。沖永良部島民は「沖縄」を、さまざま な呼び名で呼んできた。近世頃までは、琉球王国の拠点首里のある「那覇」という地名で この地域を総称し「ナファ」と呼び、現在でも特に年配の人にとっては自然な言葉である。

沖縄の踊りは、「ナファウドゥイ」と呼ばれていた。明治以降は、沖縄県の創出で「オキナ ワ」ということも多くなった。かつての呼び名「ナファ」と「オキナワ」が混ざり、「オキ ナハ」ともいう。ウチナーは沖縄の人が本土に対して独自性を主張する意味を含む「沖縄」

を意味する民俗語彙であるが、沖永良部島でも、「沖縄の人」と理解されている。 

  そして、「沖縄の人」を指す言葉は、「ナファンチュ」、「ウチナンチュ」などと表現する が、「ナファンチュ」は古語になりつつある言葉であるが、「ウチナンチュ」は、沖縄でも 沖永良部島でも通じる民俗語彙であり、一般的であるため、本論ではウチナンチュと記す。 

「ヤマトンチュ」は、沖永良部島民が自らと区別するところの「日本本土の人」を指す 現地の言葉で、鹿児島の人も含まれる。ヤマトンチュという言葉は、島民による本土の人 への「名づけ」で、いつ頃から使われ始めたかということはわかっていないが、比較的古 くから使用されてきたと考えられる。沖永良部島民にとってヤマトンチュと「日本人」は 同義ではなく、「日本人」は、日本国民という意味とほぼ同義で、沖縄の人も沖永良部島の

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人も「日本人」と認識している。 

「アマ ミン チュ」 は、「奄美 の人 」とい う意 味の現 地の 言葉で ある が、沖 永良 部島の日 常でよく使われる言葉ではない。また、エラブンチュという言葉も「エラブの人」という 意味であるが、普段沖永良部島に住んでいる人にとって、ことさら沖永良部島の人間であ ると意識することは少なく、アマミンチュという言葉と同様に、日常頻繁に使用される言 葉ではない。 

 

第四節  方法   

本研究は、主に参与観察、インタビュー調査、質問紙調査、文献史資料調査に基づいて いる。 

筆者が、調査地である沖永良部島の出身(ネイティブ)であるということは、本研究の 方法に大きく影響するため、以下に筆者の立場を説明し、その長所と短所を指摘しておく。

長所は、まず出身者であるために、すでに多くの島民と人間関係が築かれており、調査が し易いという長所がある。筆者と知り合いも多いが、知らない人でも名前を言えば大体の 場合、家族や親戚の誰かを知っており、警戒心をもたれにくい。インタビュー調査にして も質問紙調査にしても依頼しやすく、また実際に多くの人が快く協力してくれた。また、

筆者が沖永良部出身者であるということで、筆者のインタビューに答えてくれた人は、忌 憚なく率直な意見や感情を話してくれたと感じている。短所としてしばしば指摘されるこ とは、ネイティブであるため客観性を欠いてしまい、重要な点を見過ごしてしまう可能性 であるが、それらは、短所を自覚しそのような点を補うために、以下に述べる総合的な調 査方法を取り入れることで乗り越えられると考えている。被調査者からみると、同郷、知 人であることで、かえって答えにくいという一面もあろう。 

調査者としての視点で行った参与観察は、1996 年以降断続的に行っており、滞在期間の 合計は約 2 年間である。沖永良部島での調査中、筆者は実家に滞在した。筆者の出身集落 の和の人たちは、ほとんどが筆者を幼少期から知っており、筆者が島に来るという行動は、

彼らにとっては帰省と映り、沖永良部島に足を下ろしたとたんに筆者は「エラブの人」と して迎えられる。現地では、祭りやイベント、年中行事に参加したが、「客」としてではな く「地元の人」として扱われていた。例えば、2000 年 9 月 15 日には和集落の敬老会(高齢 者をもてなす芸能の祭典、後述)に、15 年ぶりに踊り手として「御前風」(祝いの意をもつ

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踊り)を演じることとなったが、敬老会で演じる資格があるのは基本的にその集落の構成 員に限られ、筆者は自然な形でその踊り手に推薦された。敬老会で演じるために、2 週間 前からの合同練習から支度直し(第二章で詳述:本番後の儀礼・慰労会)まで参加した。

また知名町主催でカナダ大使夫妻を招いてのイベント「トゥループ号 110 年祭」にはボラ ンティアのガイド役として地元の活動に参与した。     

文献資料調査は、古文書、書簡、記録書、町役場発行の広報、地方紙、センサス、郷土 史家の記録したさまざまな資料などを含む。 

インタビュー調査では、集団ではなく「個」に重点を置きライフヒストリー法を用いた。

インタビュー調査は、質問項目を用意し会話を録音するフォーマルなインタビューと日常 における談話などインフォーマルな会話に大別できる。フォーマルなインタビューでは質 問項目をあらかじめ用意し、個人のこれまでの簡単なライフヒストリーを語ってもらい、

その後に質問項目を一門づつ質問した。個別の人生史のなかで、それぞれの状況に留意し つつ聞き取りを行った。フォーマルなインタビューを行ったのは 34 人で、一人およそ 3 時間程度であり、録音採取の許可を得られた場合は会話を録音しそのあとテープ起こしを した。録音採取を断られた場合は詳細なノートをとった。 

また、インフォーマルな会話で得られた情報もなるべくすぐにノートに記した。日常会 話から得られた言葉が重要な意味をもつ場合も少なくない。アイデンティティは普段から 常に意識しているものではないので、このようなインフォーマルな何気ない会話で示され た言葉が、彼らのアイデンティティを端的に表している場合も少なくない。 

本研究では、インタビュー調査で得られた人々の言葉を、基本的に筆者とのやり取りも 含め原発言のまま引用する。原発言を一次資料としてそのまま活用することは、アイデン ティティという内面的意識を表現する有効な方法であり、人々の言葉を言いかえることで 生じる調査者の解釈という媒介を取り除くことができ、かつ生き生きとした感情をニュア ンスを変えることなくそのまま伝えることができる。また同時に、ポストモダンの人類学 における批判7である「文化を書く」という行為に内在する調査する側とされる側の関係も、

インタビュー時のインタビューする側とされる側の複数の声を反映する多音声(ポリフォ ニー)を取り入れることで、その関係を明示することができるのではないかと考えている。 

また、本研究では量的データを補うため、そして出身者である筆者の客観的視点を強化 するために、質問紙調査の導入を試みた。質問紙調査は、沖永良部郷土研究会、和泊町、

知名町両役場などの協力を得て、2001 年 8 月から 2002 年1月までの半年間に、無記名式

(16)

で行った。調査結果は、巻末に資料として添付した(資料1)。 

対象者は、沖永良部島に住民票を持つ「エラブンチュ(沖永良部の人)」とした。サンプ リングの方法は無作為抽出法ではなくクオータ(quota)法で行った。クオータ法とは、あ る特定の母集団における関心のある下位集団を定め、母集団の構成比率にあわせてサンプ ルを抽出するが、その抽出は有意抽出で選ぶ方法である。例えば、男女を比較する場合に サンプル数を男女同数になるようにサンプルを抽出するという方法である。本研究では、

性別、町別、年齢別を主な基本属性とし、母集団の構成比率に合わせサンプルの抽出を試 みた (巻末の資料1の末尾に添付した「質問紙調査対象者データ」参照)。 

サンプル数は 600 で母集団の約 4%である。母集団は約 14,500 人と考えられ、その根拠 は以下の通りである。調査を開始した 2001 年 8 月 1 日現在の島の全人口は 15,123 人であ る。この総人口のうち、結果的に調査の対象外となったのは、鹿児島県沖永良部合同庁舎、

および沖永良部事務所の職員、鹿児島県の教職員、鹿児島県警沖永良部警察署の警察官、

航空自衛隊第 55 警戒群の自衛官など転勤で一時的に沖永良部島に住んでいる人々であっ た。これらの人々の数は、600 人前後である(筆者調べ)。よって母集団は約 14,500 人と 推測される。 

本研究では、参与観察、インタビュー調査、文献史資料調査に加え従来文化人類学にお いては典型的ではない質問紙調査を導入するが、これらの方法を補完的に使用することの 意義について触れておきたい。筆者は、ある地域に住む人々のアイデンティティ理解に近 づくためには、参与観察はもとより文献史資料も質問紙調査もライフヒストリー法を取り 入れたインタビュー調査もすべて必要であると考えている。質的、量的データを取り入れ、

総合的に接近することが、それぞれの方法のみでは明らかにできないことを相互に補うこ とができ、アイデンティティという内面的意識を理解することに近づくことができると考 えているからである。口述では得られない過去の情報は、文献史資料に頼る必要があり、

また記録にない過去の必要な情報は、口碑も十分検討する価値がある。そして、史資料と 口碑を照らし合わせることで、それぞれの信憑性も確認でき信頼性の高い立証が可能にな る。インタビュー調査では、個人の感情の機微やライフヒストリーにおける個別経験によ る事例など質の高いデータを得ることができるが、時間がかかるためインタビューできる 人数に限りがある。このような側面を補うことができるのが、質問紙調査で、多くの人の 情報を得ることができ、さらには集団として、あるまとまった属性の傾向を分析するのに 有効である。これらの長所と短所を自覚し補うことで、より全体像に近づくことができ、

(17)

同時に、そこで生活している人々を研究者の固定観念で捉えることから防ぐことができる と考えている。 

また、人々のアイデンティティに関わる語りは、語る相手によって変わりうるので、筆 者は相手に沖永良部出身者であることを明示した。よって対象となった人々は、沖永良部 出身者である筆者に対してエラブンチュのアイデンティティを示した人々である。そして、

筆者が得たインタビュー調査および質問紙調査から得たデータは、沖永良部出身者である 筆者に対して語った、あるいは答えたデータである。また、本論では史実として公的に重 要な人物名はそのまま実名を記すが、それ以外の場合は個人のプライバシー保護のため実 名を記さないことを断っておく。 

以下に続く第一章では先行研究における本研究の位置づけを確認し、本研究の課題を明 確にする。第二章では沖永良部島の民族誌を記述し沖永良部島社会・文化を概観する。第 三章では「鹿児島/沖縄」の境界性を切り口に、中世から近世にかけての外部勢力、すな わち北山、琉球王国、薩摩藩による沖永良部島支配が島民のアイデンティティに及ぼして いる影響を考察する。第四章では「日本/沖縄」の境界性を切り口に、近代以降、沖永良 部島が国家に組み込まれ、本土と沖縄、双方との社会的関係の中で形成されていく島民の アイデンティティを考察する。そして第五章では、「奄美/沖縄」の境界性を切り口に、芸 能文化とアイデンティティの関係を考察すると同時に、境界性とアイデンティティの象徴 性を表す。終章では、本研究の成果と貢献、および今後の課題を述べ結びとする。 

  注 

筆 者 注 l 沖縄の盆の芸能。詳しくは第五章で述べる。

筆 者 注 2爬龍船競争(舟こぎ競争)。沖永良部島では夏祭り(和泊町では港祭り、知名町ではふる

さと夏祭り)で集落対抗で競う。 

1琉球王国成立以前の時代。沖縄島北部中部南部を中心に力をもつ按司(豪族)が存在し、山北  (北山)、中山、山南(南山)と称し、それぞれ王を名乗る存在であった。沖永良部島は沖縄島北 部の今帰仁城を拠点とした北山(三北)王の勢力下にあり、王の息子真松千代は領主「世の主」

として島を治めたとされる。この時期の沖永良部島の研究は、史資料不足のため研究も停滞し ている。近世になってから三山時代の島の統治者「世の主」に関して記された史資料がはある が、その時代に記された史資料は現在のところ、関連の学会などには報告されていない。この

(18)

時代に関する研究は、沖永良部郷土研究会会長の先田光演による、『世の主伝説−資料と解説』

(1997、自家出版)がある。先田は、歴史資料が極端に乏しい状況では、伝説も重要な資料で あると指摘する。 

2 アメリカとメキシコの国境地域の研究は境界研究の中でも比較的研究蓄積があり、前述のア ン ザ ル ド ゥ ア の 他 に Alvarez, Robert R.(1995) The Mexico‑US Border:The making of an  Anthropology of the Borderlands や Barry, Tom ,Harry Browne and Beth Sims(1994) の Crossing  the  Line:  Immigration,  Economic  Integration,  and  Drug  Enforcement  on  the  U.S.‑Mexico Border があり 90 年代は特に注目されたといえる。他にはトランスナショナリズ ムを議論した Linda Baschi 他による Nations Unbound(1994)などがある。カルチュラルスタ デ ィ ー ズ の 領 域 で は Mae Henderson 編 の Borders, Boundaries, and Frames(1995)や Homi  BhaBha のthe Location  of Culture などがある。 

3 邦訳には草野栄三良訳の『幼年期と社会 前篇』(1954)、『幼年期と社会 中篇』(1955)『幼年 期と社会 後篇』(1956)と仁科弥生訳の『幼児期と社会 1』(1977)、『幼児期と社会 2』(1980)

がある。 

4 邦訳には、大沼隆訳の『青年ルター:精神分析的・歴史的研究』(1974)と、西平直訳の『青 年ルター』(2002)がある。 

5 邦訳には、小此木敬吾訳の『自我同一性:アイデンティティとライフサイクル』(1973、1982)

がある。

6 邦訳には、岩瀬庸理訳の『アイデンティティ:青年と危機』(1973、1982)がある。 

7 ジェイムズ・クリフォード(James Clifford、1945−)らポストモダンの視点をもつ人類学 者による批判で Writing Culture(1986)春日直樹・他訳『文化を書く』(1996)紀伊国屋書店 に代表される 

(19)

   

第一章 先行研究と本研究の課題 

 

   

はじめに   

研究史を振り返るに当たり、直接的に本研究の先行研究といえる研究はない、というこ とをまず指摘しておきたい。しかし、アイデンティティの研究には多くの蓄積があり、ま た沖永良部島に関する研究も少なくない。本章では、本研究がまたがる二つの研究領域、

すなわち文化人類学という大きな枠組みの中でのアイデンティティ論としての本研究の位 置付けと、研究の対象地である沖永良部島を含む奄美・沖縄研究史における本研究の位置 付けを述べ、本研究の課題と意義を明らかにする。それらを通して、なぜ沖永良部島の境 界性に注目したアイデンティティ研究がなかったのかということも説明できよう。(ただし、

本章では、多数の先行研究のうち、特に本研究と関係が深いと思われる研究を中心に取り 上げることをことわっておく。) 

 

第一節 文化人類学における本研究の位置付け   

1.エスニック・アイデンティティ論の展開   

エリクソンが提唱した「アイデンティティ」という概念は、その提唱後わずか 50 年を経 たにすぎないにもかかわらず、人文・社会諸科学に大きな影響を与えてきたが、とりわけ 文化人類学においても最も重要な概念の一つとしてしばしば論じられてきた。文化人類学 で論じられてきたアイデンティティは、主にエスニシティの原動力としてのエスニック・

アイデンティティがエスニシティ論と重なりつつ、原初論、状況論、および用具論として 論じられてきた。これらの論は、エスニック・アイデンティティに限らず、本研究で単に アイデンティティと呼び焦点を当てている「集団に対する帰属意識(社会的アイデンティ ティ)」の研究にも適用でき、アイデンティティ論の先行研究といえる。 

(20)

ここで論を進める前に、エスニシティという言葉とその関連用語について筆者の見解を 簡潔に述べ定義しておく。アイデンティティという語同様、「エスニシティ(ethnicity)」

という語は、邦訳しにくい言葉で、日本に 80 年代に紹介された後、適訳のないまま、その まま「エスニシティ」として使用されている。現在、エスニシティという語はコンテキス トによってさまざまな意味で使われ、一概に定義することが困難である(青柳 1996)。 

そもそもエスニシティという語は、国民国家の形成に伴い生まれた副産物である。国民 国家に組み込まれた「伝統」的に固有の文化をもつ単位であった「部族」や首長制社会は、

国家形成のプロセスの中で、国民国家に吸収され同化すると考えられていた。しかし、実 際にはその予想を裏切り、かつての「伝統的文化集団」の社会的 境 界バウンダリーは維持され他の集団 との間で政治的行政的利権をめぐる競争や葛藤がおきたり、また消滅しつつあった集団と その文化が復活するなどの現象が観察されるようになった(小田 1995:15、江渕 2000:273

−274)。そこで、このような現象を捉えるための用語として、「エスニシティ」という概念 はアメリカ合衆国の社会学における人種と移民研究の中で生まれてきた(金 2000:79)。 

エスニシティおよびエスニック・グループという語は、「国民国家の枠組みを前提として はじめて、意味をもつ言葉であり、具体的には、国民国家(ネーション)の内側にあって 国家(ネーション)とのずれや軋轢のある関係をもつ人々の存在を示している」(小田 1995:

15)。 

社会科学の諸分野で分析概念として有効と認識され受け入れられたエスニシティという 語は、研究者の見解によって意味が拡張し始め、現在、その定義も多岐にわたる。そのよ うな中で、エスニシティの基本的かつ重要な点を的確にまとめている定義は、綾部恒雄に よるものであろう。綾部は、エスニシティを「国民国家の枠組みの中で、他の同種の集団 との相互行為的状況下にありながら、なお、固有の伝統文化と我々意識を共有している人々 による集団」であるエスニック・グループが「表出する性格の総体」(綾部 1985:9、1993:

13)であると述べている。筆者はこの定義を参考に、筆者の考え方を加え、本論で使用す るエスニシティという語を、「国民国家の枠組みの中で、文化を共有しているとみなされる 集合体・集団で、境界の曖昧な範疇であるエスニック・グループが、他の集合体・集団と の相互行為的状況下で、自集団への帰属意識をもとに表出する現象と性格の総体」と定義 しておく。ここでいう「自集団への帰属意識」が、エスニック・アイデンティティである。

本論では、エスニシティを分析概念として奄美・沖縄地域に援用するがその妥当性につい ては次節で述べる。 

(21)

そして、本論ではしばしば互換的に使用されている「エスニシティ」、「エスニック・グ ループ」、「民族」という言葉を使い分ける。エスニック・グループは、上位社会に包括さ れる一分子・集合体で、民族より流動的な範疇であり、国家内部のドミナントに対するマ イノリティ集団を指す場合が多い。「民族」は上位社会と無関係にあり、エスニック・グル ープにもなり得るが、日本語の「民族」は、「部族」という言葉とは対照的に、「文明的」

というニュアンスが含まれ、そのようにみなされた社会・文化集団を指すことが多い(ス チュアート 2002)。「エスニシティ」、「エスニック・グループ」、「民族」は、重なる部分は あるが厳密には同義ではない。 

以上のように定義されるエスニシティにおける原初論とは、本質主義に通じており、極 端に言えばエスニシティを「血」あるいは「遺伝子」に組み込まれた本来的なものとする 考え方である。ギアツ(Geertz 1973)やアイザックス(Isaacs 1975)に代表される原初 論 では、「血縁や親近感に基づく原初的紐帯とも呼ぶべき非合理的な感情によって人間集団は 分割されており、その分割は人間にとって根源的である」(金 2000:79)とされる。ギアツ は、その 著 The Interpretations of Cultures(1973)でエスニ シ ティの核 を 「primordial  bond」(原初的紐帯)と表現し、共通の血統、宗教、言語、地域に対する愛着、あるいは習 俗に由来する繋がり・結合という点から定義づけた。ギアツやその他の原初論支持派の文 化人類学者は、エスニック・グループのメンバーとそうでないメンバーとを区別するこれ らのエスニックタイは、ある根本的個と集団アイデンティティの現れであるとみなしてい る。この「原初論派」のエスニシティは、エスニックタイを本来的でむしろ超自然的なも のとしてみなしており、エスニシティとエスニック・グループは人間の社会生活に内在す ると定義される(Nanda 1994:303)。 

状況論と用具論におけるアイデンティティの解釈は、重なる部分もあり一くくりにして いる研究者もいるが、厳密には異なる。バース(Fredrik  Barth)に代表される状況論者 が強調したのは、エスニシティは、社会相互作用の過程の中で現われるもので、社会環境 の違いというより、むしろある特定の状況下で特定の形を現すということである。バース はその著 Ethnic Groups and Boundaries(1969)で、エスニック・グループの地理的かつ 社会的孤立性は文化の特殊性を維持する重要な要因とする原初論を、極度に単純化した議 論であると批判した。バースのエスニック・バウンダリー論では、エスニック・アイデンテ ィティにポイントがおかれており、エスニシティの核は自他を区別する自集団に対する帰 属意識(ascription)・同一視(identification)にあり、エスニック・グループの特徴であ

(22)

る祖先を共有する集団の文化的属性は変化しても、この帰属意識が継続する限り自他を区 別する境界は保持され、そのようなエスニック・アイデンティティは他の集団との相互作 用を営む「状況」によってその輪郭が明確になる(Barth 1969)というものである1。このよ うなアプローチは、文化人類学者にアイデンティティと流動するエスニシティの状況の性 質に関し新たな課題を投げかけ、エスシティはもはやかつての文化的因襲の遺物ではなく、

エスニック・グループにみる文化的持続性は現代的状況に深く関連しているということを 明らかにした(Nanda1994:303‑304)。 

用具論は、「エスニック・アイデンティティが政治的利益のために人々の力を動員する際 の合理的で有効な手段であったり、それが戦略的に維持されたり強化されたりするという もので、A.コーエン(Abnor Cohen)に代表される」(金 2000:78‐79)。コーエンは、独立(1960 年)直後のナイジェリアのヨルバ系住民の多いイバダン市で、政治的コンフリクトの状況 とエスニシティの関係をハウサ族の交易商人に注目し調査を行った。コーエンは、Custom  and Politics in Urban Africa: A Study of Hausa Migrants in Yoruba Towns(1969)で、

「ハウサ族とヨルバ族のあいだで、政治的経済的競争のためにエスニシティが動員され、

インフォーマルなエスニック・ネットワークが構築される現象を明らかにし、それを『再 部族化(retribalization)』と呼んだ」(江渕 2000:290)。コーヘンは、この研究でエスニ ック・グループの伝統的な文化的象徴が、集団の連帯と統合のために活性化され利用され るエスニシティ現象を明らかにした。 

バースやコーヘン以降のエスニシティ研究の潮流は、ニューエスニシティ学派と呼ばれ

(江渕 2000:279)、エスニック・アイデンティティが、ある特定の集団に本来的なものと 捉えられていた原初論的エスニシティ研究から、それらはむしろ、ある状況下で集団間の 相 互 作 用 を 通 し て 構 築 さ れ る と す る 状 況 論 、 用 具 論 的 エ ス ニ シ テ ィ の 研 究 へ と パ ラ ダ イ ム・シフトを導いた(Nanda1994:304)。その後も、エスニシティの解明に関心を寄せる研 究者によって、様々な性質を捉えたエスニシティ論が展開した。 

例えば、バーナード・ウォン(Bernard Wong)は彼の論文、 A Comparative Study of the  Assimilation of the Chinese in New York City and Lima, Peru (1978)で、リマの中 国系住民は、ニューヨークの中国系住民より同化傾向が強いことに着目し、その要因をホ スト社会を比較分析することによって明らかにした。 

リマに は、 中国系 住民 に、社 会的 上昇を 可能 にする 比較 的ひら かれ た経済 構造 があり、

さらに、キリスト教における compadrazgo(godparents)という社会関係がさらに中国系住

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民に経済的にも精神的にもホスト社会へ溶け込ませ、同化の促進に機能していることを明 らかにした。 

一方、ニューヨークの中国系住民は、リマのような社会関係を円滑にする社会慣習もな く、アメリカ社会内での差別や経済的格差が、ニューヨークの中国系住民のエスニック・

タイを強化させ中国人コミュニティを形成する要因となっていることを明らかにした。同 化の度合いの差は、マイノリティとしての中国系住民を取り巻く社会環境が主な要因であ ることを明らかにした。ウォンの研究は、状況論の社会環境説ともいえる。 

また、ジョージ・デボス(George De Vos)は、Ethnic Identity(1995)でエスニック・

アイデンティティの心理的性質に注目し、パッシング行為(社会的に不利な個人の出自を 隠し、ドミナント社会の構成員になりすますこと)などの説明を試みた。 

ここで、筆者のこれらの論に対する考え方を明らかにする。まず、原初論であるが、こ のような本質主義的な説明は、肯定するにも否定するにも検証が困難である。筆者は、ど ちらかといえば否定的で、本研究もこのような立場に基づいていない。原初論のように、

エスニック・アイデンティティが「血縁」によって「もともとある」とするならば、グロ ーバル化が進み、通婚圏が拡大した現代の状況をすでに説明できない。例えば、祖先にユ ダヤ系、アフリカ系、ヨーロッパ系など様々な出自をもつ個人のアイデンティティは、個 人の置かれた社会状況によって、いずれかのアイデンティティが強化されるであろうし、

そもそも祖先の出自を自覚しないでそのエスニック・アイデンティティがもともとあると 説明するには困難である。 

それに対し状況論や用具論は、アイデンティティの状況を説明するには有効である。し かし、状況論、用具論もある状況を捉えるという共時的な場面の説明には有効であるが、

アイデンティティをあるまとまった統一体としてしか捉えていない。これらのアイデンテ ィティ論は、共時的で歴史的プロセスの説明に欠ける。エスニシティ現象におけるアイデ ンティティのある側面を捉えるのには有効であるが、現在のアイデンティティがなぜこの ようになったのか、というような形成のプロセスは捉えていない。つまり、筆者は従来の アイデンティティ論には歴史的構築性が欠けていると考えているのである。 

エスニシティ研究では、研究の目的がエスニシティの現象を総体的に捉え説明するため であって、アイデンティティそのものを対象としてきたわけではない。文化あるいはエス ニシティの現象を共時的に捉えることが主眼であったからである。そもそもアイデンティ ティという概念は心理学用語として世に送り出され、文化人類学が手法とするフィールド

(24)

ワークでの参与観察などの手法のみでアイデンティティを捉えることは困難なため、中心 課題にはなりにくかったことも文化人類学でアイデンティティが研究対象そのものとなり にくい要因の一つであろう。 

  アイデンティティの歴史との関連性は、70 年代からアメリカの文化人類学者によって指 摘されていた。例えばスパイサー(Edward H. Spicer)は、永続性をもつ文化システムの 本質を「アイデンティティ・システム」と捉え、「世代」を通して共有された歴史的経験が、

そのアイデンティティ・システムの基礎になっている(Spicer 1971:796)と説明し、デボ スは、「…エスニック・アイデンティティとは、過去と連なっているという感情であり、個 人の自己規定の本質的な部分として維持されている感情である。・・・それは集団の歴史的連 続の中での個人の生存感覚である」(De Vos1975:17)とし、エスニック・グループの歴史 の共有感、歴史の象徴的解釈に注目している(山田 2000:42)。しかし、これらの指摘も、

アイデンティティを統一されたものとすることには変わりはなく、従来の統一体としてア イデンティティを捉える見方から脱することはなかった。 

このような従来の統一体として固定されたアイデンティティの概念を批判し、近年、再 検討を促しているのは、スチュアート・ホールに代表されるカルチュラル・スタディーズ の分野からである。80 年代から急速に頭角を現してきたカルチュラル・スタディーズは、

設定された枠内で均質な社会空間を前提に文化を捉えてきた文化人類学とは異なり、文化 の枠組みを必ずしも必要としておらず、現代の様々な社会現象をリアルタイムで分析する ための有効な方法を提供している(太田 2001:35)。 

そのカルチュラル・スタディーズの理論的リーダーであるスチュアート・ホールは、1992 年に台湾の陳光興によって行われたインタビューで述べたように、ポスト植民地状況の中 でのアイデンティティを、以下のように捉えている。 

 

     …私たちがアイデンティティの問題を考えようとするやり方は、ポスト  モダンがいう『ノマド的』なものとは若干異なるのです。文化的アイデン  ティティは固定されません。それはつねに雑種 混淆ブ リ ッ です。しかしそうな  るのは、これがまさに特殊な歴史編成、つまりきわめて特殊な歴史と表現  の文化的レパートリーから生じているからです。だから、私たちが暫定的  にアイデンティティと呼んでいる『 位 置 性

ポジショナリティ

』を構築することもできるので  す。それは単になにものであるかということではないのです。そうやって 

(25)

一つ一つのアイデンティティの物語が、私たちの選択し同一化する 位 置ポジションに  刻印されていきます。私たちはその特殊性をすべて大事にしながら、もろ  もろのアイデンティティ位置の 総 体

アンサンブル

を生きなければならないのです 

(ホール 1996:29) 

 

ホールの従来のアイデンティティ概念への根本的な批判の一つには、本質主義的な捉え 方にあると考えられる。ホールは、「アイデンティティという概念は、変化せずに変転をす る歴史のすべてを通って最初から終りまで展開されていくような、自我の安定した核を示 すものではない」(ホール 2001:11‐12)と、アイデンティティが固定されたものではない という主張している。そして、ホールは、アイデンティティが決して統一されたものでも なく、また単数でもなく、「たえず根元的な歴史化に従うものであり、変化・変形のプロセ スのなかにある」(ホール 2001:12)という。さらには、アイデンティティは「・・・すべて の歴史的に特別な展開と実践の内側に位置付けなければならないし、また特にグローバリ ゼーションと関連させて位置付ける必要がある」(ホール 2001:12)と述べ、歴史との関連 も強調している。 

このような視点は、固定され、統一されたアイデンティティが描かれてきた文化人類学 におけるアイデンティティ論には、重要な指摘であるし、歴史的経緯から、さまざまな境 界に位置するようになった沖永良部島民のアイデンティティを捉えるのに有効な視点であ ると考えられる。 

しかし、このような主張には実証性が十分伴っているとは言い難く、アイデンティティ の可変性であればどのような人々のアイデンティティがどのように可変的であるのか、と いうような具体性に欠け、人々の生き生きとした姿が浮かび上がってこない。文化人類学 の学問領域が重視するアプローチからは、このようなアイデンティティの歴史的構築性、

複数性、可変性、融合性など今後のアイデンティティ研究に重要な側面を、綿密なフィー ルドワークに基づいた当該集団の文化的実践の中から実証的に論じることが可能であると 考える。そしてどのような史的要因がアイデンティティに影響しうるのかなどといった考 察が今後のアイデンティティ研究には必要であると考えられる。 

そして、新たなアイデンティティの概念の実証的研究には、沖永良部島のような「境界」

地域は、最もふさわしいフィールドの一つであると考えている。序章で述べたように、文 化を語る強力なライバル、カルチュラル・スタディーズの台頭に対する反応として、文化

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人類学の分野でディアスポラやトランスナショナリズムと同様に注目されてきたのが境界ボ ー ダ ー 地域である。境界地域は、従来の文化人類学が対象としてきた「閉ざされた社会」とは異 なり、体系同士の融合が起きている。そのため、一つの社会に一つの文化体系が機能して いるとみなされがちであった文化人類学の既存の枠組みでは文化を捉えられない。カルチ ュラル・スタディーズが指摘するような新しいアイデンティティの概念を文化人類学的な 実証研究として検証するには境界地域において可能になると筆者は考えている。また、従 来のアイデンティティ概念を脱構築していくためにも従来の文化人類学による手法のみで は十分ではない。それが心理学や社会学では主要な方法である質問紙調査や、歴史学での 主要方法である史資料分析など複合的な手法を取り入れる所以でもある。 

 

2.日本における展開   

60 年代以降、アイデンティティの概念は、欧米のエスニシティ研究のなかで、さまざま な展開をみせ発展していったが、日本の文化人類学においては、新たなアプローチを提示 するような展開はみせていない。エスニシティ研究自体、日本の文化人類学において本格 的に潮流を創るようになったのは、80 年代以降であった。境界地域の研究という、新たな アイデンティティ概念を創る可能性を秘めた研究領域も、日本ではまだそれほど耳慣れた 言葉ではない。アメリカで 90 年代以降注目を集めてきた新しい領域ということもあり、ま たエスニシティよりさらに新しい概念であるため、日本では、太田好信(2001)が多少触 れているが、一般的に広く知れわたった領域研究ではない。 

青柳まちこによれば、日本には 70 年代にすでに鈴木二郎が、日本の文化人類学にエスニ シティ研究を紹介していたというが(青柳 1996:8)、エスニシティという用語が積極的に 受容されるようになったのは、綾部恒雄(1982、1985、1993 など)を中心にエスニシティ の概念が紹介されようになった 80 年代以降といえる(金 2000:88)。 

エスニシティはアイデンティティと同様に、日本語に適訳がなくそのまま使用されてい るが、その定義は研究者の数ほどあるといわれるほど、さまざまな受け取り方をされてい る。しばしば、エスニシティの邦訳として「民族性」という言葉が使用されていることか らもわかるように、エニシティに近い言葉として日本語には「民族」という言葉があり、

民族が国民国家と深い関係にあることから、「民族」論が先行課題として発展していった。 

日本の文化人類学におけるエスニシティ研究は、「国民国家の枠組みでのエスニシティ的

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状況の現象的説明という特定の文脈」(小田 1995:18)を扱う、「民族とは何かという原理 的説明を目的とする民族論」(小田 1995:18)の一部門であると日本の研究者に認識された。

そしてそれ以後、日本の文化人類学におけるエスニシティ研究は、エスニシティ現象を原 理的に説明するのは「民族概念」によってという方向に流れていった(金 2000:82)。この ような方向性の中で、民族論では国民国家との関係が中心に論じられ、川田順造、福井勝 義編の『民族とは何か』(1988)、原尻英樹編『世界の民族』(1998)、スチュアート・ヘン リの『民族幻想論』(2002)など優れた論集、著書が発表されてきた。 

しかし、日本の奄美・沖縄研究者にはエスニシティの概念は、何の抵抗もなく受け入れ られる概念とはいえなかっため、アイデンティティ論は新たな展開をみせなかったといえ る。日本本土との沖縄の同質性を強調した日琉同祖論が、研究の土台となる潮流があった からである。それは、「大和民族」として統一され、原初論的に固定されたアイデンティテ ィの追及ともいえる。日琉同祖論が影響力を失った今でも、その余波は、「伝統」文化中心 の研究である奄美・沖縄研究の捉え方に現われ、沖縄人のアイデンティティを過去の姿に 見いだそうとしているのではないだろうか。次に対象となる奄美・沖縄という地域、そし て、その中の沖永良部島というフィールドに目を向けてみる。 

 

第二節  「奄美・沖縄研究」における本研究の位置付け   

1.「奄美・沖縄研究」という呼称   

本研究は、これまで沖縄島や奄美大島を中心とした「伝統」文化、親族組織の議論が主 流であった奄美・沖縄の文化研究に、「境界

ボ ー ダ ー

」という新たなアプローチを提示する試みでも ある。ここでは、本研究のアプローチ法が従来の研究の方向とは大きく異なっている点を 際立たせる意味でも、これまでの「奄美・沖縄研究」における、本研究の位置づけと枠組 みを明らかにする必要がある。それには、まず、沖永良部島を含むこの地域の研究に対す る呼称の問題と筆者の見解について触れておかなければならない。 

多くの研究者がそれぞれの研究成果から指摘するように(例えば中根 1962:340、斎藤 1982:6)奄美以南の琉球列島、すなわち北は奄美大島から南は波照間島、西は与那国島ま で連なる琉球弧に点在する島々を、ある程度共通の文化を共有する一つのまとまった地域 とする見方が、現在多くの研究者の一致した見解であろう。この範域の北の境界であるト

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