• 検索結果がありません。

駿州焼津における近世の漁業貢租制度

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "駿州焼津における近世の漁業貢租制度"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

著者 大崎 晃

出版者 法政大学教養部

雑誌名 法政大学教養部紀要. 社会科学編

巻 71

ページ 1‑22

発行年 1989‑01

URL http://doi.org/10.15002/00004678

(2)

漁業における資本主義の発達について、筆者は静岡県焼津の鰹漁業を対象としてこれまでに若干の作業を試ふて(一)きたが、今までの結果は本誌前号に一不しておいた。焼津における鰹漁業の出資漁携の単位組織である「船中」の形

の浜方三力村を鰯ケ島・北新田とともに構成した城之腰村においた。(二)

成仁あたり、近世の賃租制度が果してきた制度的側面について筆者はかつて本誌でふれたことがあるが、今回の作業は近世における漁業賃租体系の形成過程の復元を試永たしのである。考察の対象は史料の関係から、近世に焼津

ところで焼津の漁業貢租制度に関する報文は、今日では内容の重要性は減じたとはいえ先駆的研究であった岡本(一一一)清造のものを除けば学術的報笙口はなくて、むしろ後述するように現地で刊行された歴史書の中に染られる。そしてこれらの報告はすべて次の安永七年の「漁猟運上御請証文之事」の評価から始まる。

駿州焼津における近世の漁業貢租制度

問題の所在 目次一問題の所在二割付状にゑる漁業質租制度の変遷三考察と結果 大崎晃

(3)

(四)漁猟運上御請証文之事一金弐拾七両弐分壱ヶ年季三ヶ村但船数(空白)壱鰻一一付(空白)右〈三ヶ村漁猟運上書面之金高二而当壱ヶ年御請被仰付侯一一付私共江右之趣被仰渡承知仕侯上納之義〈五月晦日六月晦日七月十五日一一一度一一半金残半金之義〈八月晦日九月晦日十月晦日十一月晦日月割一一而上納可仕被仰渡承知仕候其節日限無相違上納可仕候万一右船数之内一一而上納金滞之筋モ有之候共惣船二而御請申侯上〈其分惣船一一而急度弁納仕侯御役人中江少茂御苦労掛申間数侯為其御請証文価而如件安永七年戊四月城腰村猟師与三郎新一一一郎太左衛門源七六郎兵衝平兵衛源兵衛善右衛門藤四郎北新田村猟師九郎右衛門新六嘉右衛門小左衛門久五郎半四郎次郎兵衝嘉七市郎兵衛権兵衛

城腰村北新田村鰯ヶ島村 鰯ヶ島村猟師仁左衛門次兵衛 与右衛門庄助

(4)

る」と解説している値

これに対して『焼津水産史』は、「安永七年は(中略)漁獲高の十分の一を運上させる課税方法は廃止され、毎 年一定額を各漁船が運上(納税)する事になった年でもある。(中略)「漁猟運上御請証文之事」という文書による と安永七年四月付で「|金弐拾七両弐分壱ヶ年一一一ヶ村但船数一艘二付」とあり(中略)分一即ち漁獲高の百 分の一を積立てて納税の残りを共同の事業費に当てる事ができたとすれば、見取運上が漁獲高の十分の一だったか

ら、安永七年の納税方法改正によって、税額が十分の一以下になったわけだが、恐らく見取り運上そのものがかな

りいい加減なものであったと思われる。また分一が直接これと関係したものだったかどうかも明らかではない。連 署している二十一一一名は、船元だったと思われるが、全員鰹船で、当時二十一一一艘だったのか、或は惣代的な者で、中

(一ハ)には小舟の船一工も加わっているのだろうか」と述べている。

この「一金弐拾七両弐分」について、まず『焼津市誌』は、「この税金は古くから分一と云い、各船の漁獲高か らその百分の一を積承置き、納税の残りは協同の事業に当てた。(中略)なお其納税方法が五月、六月、七月に半 金を納める仕組煙此時期が鰹の盛漁期で、その以後の分納は秋鰹で、納税は鰹に依存していた。そしてこの税金 の分配は一切の小舟にまで及ぼしているので漁猟運上請書の控えには船数と一艘当りの金額が書いてないのであ

(五)

一方『焼津漁業史』蝿「これまでは検見取と同じ性質である見取り運上の方法で取り立てられていたが、安永 七年よりは一年二七両二分を上納するという、いわゆる定免法の漁猟運上に改められた。(中略)安永七年文書の 一一七両二分は焼津一一一ケ村全漁船に対する総額と考えて差支えないであろう。前記「漁猟運上御請証文之事」の文中 但書の船数・金額については、実際に稼動する隻数の変動等を考慮しある程度の融通性をもたせるための空白とし て総金高のみを明記し、村請運上の責任を鰹猟船全船が連帯して負ったものとして推定できる。(中略)この資料 (「城之腰村年貢割付状」l筆者注)のうちでとくに我念の目をひくのば、明暦年間より城之艫村の海士舟十四隻

が記されてあることと、これに対して十八石四斗八升が小物成として課税対象とされ、その五十パーセソkの九石 と解説している。 御役人中様

(5)

4’一斗四升、一隻当り六斗六升が舟役定納にあげられていることである。この舟役定納は七十五年間を通じてその石高も課税率も変化なく、こうしたことより推察すると本文記載の安永七年「漁猟運上御請証文之事」以前の貢租も米納の定免であったと思われる。そしてこの年代米価の変動をみこんでも前記資料(「割付状」-筆者注)一隻当り六斗六升は、金子に換算して一両に満たないから、安永七年に三ヶ村漁船に課せられた二十七両二分は全船に対してと象て間違いたいわけである。なお正徳二年よりは以降ずっと肴運上二十八両が賦課されているが、}」の詳細については後日の研究に待ちたい。資料中の城之腰村海士舟十四隻は果して鰹漁船であるか否かの疑問も当然起る処であるが、安永七年当時鰹漁船持が、城之腰九、北新田十、鰯ヶ島四で、これが以降三ケ村九隻づつに移行していった過程や、江戸末期「舟手入用割」(後掲-筆者注)によると城之腰漁船が鰯ヶ島三軒屋持ちと代っていることなどより推すと、一一一ヶ村鰹漁船総数は一一十四’一一十七隻と定められていたが、この一一一ヶ村のうちで船持権利の賛(七)借乃至移転などの事情があったことが推定され」るという見解を披瀝している。以上を要約すると、『焼津市誌』は「漁猟運上」の二十七両二分を分一税と一緒のものと考え、納税者は小舟を含む全漁船としている。『焼津水産史』は、安永七年に分一税が廃されて一一十七両二分の定免漁猟運上制に変わり、

納税者については特定できないとしている。『焼津漁業史』は一番内容があって、安永七年に見取り運上制から年

間二十七両二分の定免制に改められ、納税者は一一一ヶ村の全鰹漁船を対象としていることを、その金額の大きさや別の資料「舟手入用割」から推定している。同時に最近発見の別の資料「割付状」を掲げて、小物成として舟役定納米が課されたことから安永七年の漁猟運上以前の貢租も米納定免制だったと推定している。なお正徳二年から肴運上二十八両の賦課があったことを課題として残している。しかし以上の記述の間には齪鰭があって論旨が整合しないことは明瞭である。それでは実際のところは一体どうだったのか。それには貢租制度の変遷をできるだけ復元する作業が必要となろうし、その際次の諸点が明らかにされることが必要である。すなわちH定免制移行の時期はいつか、ロそれ以前の貢租制度はいかなるものであったか、口安永七年の「漁猟運上弐拾七両弐分」が算出された背景、円納税者の範囲はどこまでか、国貢租制度が焼津の漁業組織および漁村社会におよぼした影響、以上の五点である。

(6)

焼津における鰹漁業の貢租制度に関するもっとも古い史料に、寛永十三年の年貢割付状がある。 (二)拙》’四八頁。(三)岡本清座(四)「魚猟癒 (|)拙縞「静岡県焼津における鰹漁業の出資漁携組織と同族」法政大学教養部紀要第六七号社会科学編昭和六三年二五’四四頁。

(三)岡本清造「焼津鰹漁業経営形態の推移(五)」水産界六一○号昭和八年六’’五頁。(四)「魚猟運上御請証文之事安永七年」焼津漁業協同組合蔵。なお本史料につきかつて筆者は前掲(一一)三五頁において、「弐拾七両弐分」は「弐拾七両」ではないかと推測したが、その後本史料にあたった結果「弐拾七両弐分」が正しいので}」芦」で訂正する。(五)焼津市役所『焼津市誌』上巻昭和三○年五四頁。(六)焼津魚仲買人水産加工業協同組合『焼津水産史』上巻昭和五六年六一頁。(七)焼津漁業協同組合『焼津漁業史』昭和三九年四二’四九頁。

(一)城之腰村子之御年貢割h“付之事高六拾六石三斗弐升五合

拾四石五斗弐升此取米七石弐斗六升 二割付状にみる漁業貢租制度の変遷

三石九斗六升

稿「近世末期駿州焼津の鰹漁業組織について」法政大学教養部紀要第五一号社会科学編昭和五九年二一一一

船年貢之高但海士船拾壱艘分壱艘二付六斗六升づつ同新船年貢之高

(7)

村高「六捨六石三斗弐升五台」のうち農地の少ない城之腰村では畑方石高は「三捨五石三斗四升五合」であるから、残る三十石九斗八升が海からの収益として査定された海高にあたる。城之腰村は文字どおり半農半漁である。海高への賦課は、まず生産手段としての船に対して「船年貢」として「壱艘二付六斗六升づ2徴収し、新造船についても同額が徴収され、全部で十四隻におよぶ。さらに十二石五斗の「拾分一連上」すなわち分一税が課せられ「弐両二分」の金納になっている点が重要である。分一税は漁獲高に対する歩合課税の方法で、税率(歩合)は漁

獲椅麺十分の一(一割)を用語上意味するが、上納率の実際は五分一であったり三分の一であったりとさまざまで

あった。 拾弐石五斗此取金弐両弐分残三拾五石三斗四升五合此取米弐拾弐石九斗七升四合取米合三拾弐石弐斗壱升四合金子弐両弐分右之通相定上者極月十日以前急度可致皆済者也寛永拾三年 此取米壱石九斗八升

子霜月什五日

城腰村 拾分一連上六割五分

龍睡訟に蝋粉六升づつ

長野八兵衛印奥津次郎左衛門印

庄屋百姓中

(8)

一金弐拾八両肴運上一米九石弐斗四升船役定納一米壱石弐升六合口米

右之通当巳物成相極候庄屋年寄小百姓出作等迄不残寄合検見之上無依枯餓属年貢免割仕種月十日以前可致皆済

若於令難渋共急度可申付者也享保十年己十一月 さて、下って享保十年の割付状を承よう。

高外拾五石此取六石七斗五升取米合弐拾八石七斗五升弐会

此三〆内 米拾三弐壱 弐壱石石石 拾石四四四 弐八斗升斗 石斗五八壱 弐八升合升 合升八七合

(一一一)巳年貢定之事高三拾五石一一一斗四升五合

外小物成 駿河国益津郡城腰村拾分一屋舗材木置場引当検見引新田高四割五分 田畑毛付

高譲榴轌辨轌纒五毛

藤川弥三右衛門印伊藤理左衛門印

(9)

「三拾五石三斗四升五合」の本途物成は変らぬが、海からの収益に対しては小物成として九石二斗四升の「船役」が定納されている。また「金弐拾八両肴運上」が課せられており、これは以前の「拾分一連上」にあたる(付表(四)参照)。この二十八両は天明八年の「明細書上帳」に「魚猟御運上之儀者城腰村鰯ヶ島村北新田村三ヶ村二而御諸運上仕候」とあって、城之腰村だけの運上額ではなく三ヶ村分の合計額であり、これは安永七年の「魚猟運上御請証(五)文之事」中の「金弐拾七両弐分」についても同じことがいえるのではないか。このことはまた正徳二年の「差出帳」にも

とあり、城之腰村の「船役定納」分の「米九石弐斗四升」は「此船拾四艘分」なのに対し、「金弐拾八両魚猟御運上金」の負担は「夏猟舟(鰹船l筆者注)弐拾弐艘」となっており、この方の数が多いのは前記三ヶ村合計の分を表わしていると糸なければならないであろう。また「金弐拾八両肴運上」の金額査定の根拠は、納税者である漁船の数に基づくものと漁業収益に対する税率 去卯十月〃当辰九月迄(後略) (前略)米九石弐斗四升金弐拾八両右〈御請負値 船役定納此船拾四艘分但し壱艘二付六斗六升づつ魚猟御運上金但し夏冬別一一夏猟舟弐拾弐艘冬猟舟三拾三艘 高井五左衛門印

(10)

を基準としたものとが考えられるが、前者の場合はこの方式の制定時である正徳二年の「夏猟舟弐拾弐艘冬猟舟三拾三艘」との関係を、後者の場合も当時の漁業収益や税率をともに詳かにしなければならない。しかし二十八両定免制がとられる正徳・享保年間までの、また後述する正徳・享保年間の後の貢租制がいずれも見取十分一税(さきにふれたように文字どおりの十分の一の意ではなく、税の種類としての分一税の意であるが)になっているところからすれば(付表参照)、ここでは後者の立場をとっていく}」ととしたい。さらに下って元文元年の割付状に移ろう。

(一ハ)辰年可納年貢割付之事卯AC巳迄三ヶ年定免一高一一一拾五石三斗四升五台内壱石四斗壱升残一一一拾三石九斗一一一升五合此取米弐拾弐石弐斗弐升七合一高外拾五石此取米六石六斗壱升三合取米合弐拾八石八斗四升

一米九石弐斗四升一米壱石弐升八合(空白)是〈去卯年が見取十分一一一成納合米三拾九石壱斗八合此俵百拾壱俵弐斗五升八合但三斗五升入

駿州益津郡城腰村十一分屋敷材木腫場引毛附六割五分五厘新田四割四分九厘

船役定納肴運上

(11)

10

漁業関係貢租

年度

船役米 石斗升合9.2.4

9.2.4 9.2.4 9.2.4 9.2.4 9.2.4 9.2.4 9.2.4 9.2.4 9.2.4 9.2.4 9.2.4 9.2.4 9.2.4 9.2.4 9.2.4

22.9.7.4 石斗升合

26.1.5.5 29.6.9

合555555555555555555升444444444444444444

L0。。。。。。。。。。・・。。。。・・母-333333333333333333石a555a5a50000000000333333335555555555

(1636)寛永13 (1638)同15 (1639)同16 (1641)同18 (1642)同19 (1645)正保2 (1648)慶安1 (1655)明暦1 (1668)寛文8 (1669)同9 (1671)同11 (1676)延宝4 (1677)同5 (1679)同7 (1681)天和1 (1700)元禄13 (1706)宝永3 (1709)同6

●■■●●●●■●● 輯躯釦町皿妬皿幻幻幻

8.0.

8.0.

0.4.

9.1.

3.7.

4.9.

3.4.

2.0.

8.8.

8.8.

2236828422

●●● (院U(】()nxm》?】?】ワ]

0.6.

5.0.

5.0.

188

(171の正徳2 (1725)享保10 (1728)享保13 (1736)元文1 (1738)元文3 (1756)宝暦6 (1758)同8 (1759)同9 (176の同12 (1763)同13 (1765)明和2 (1770)同7 (1776)安永5 (178の同9 0786)天明6

9.

9.

9.

9.

9.

25.

24.

25.

22.

22.

25.

14.

17.

●● ●●●●C pl幻一○△扣斗。△幻4-4m年季’二m》。【.”。【〃。()()戸一J。【〃0m二J|陛奎)(](叩) ●●●● P院但〉nJ0戸尾聿)(⑭(〕 ●●● ワ】Pb?】04 628 C■00、●●■DB⑪●●●●へ如叩)《、叩)(、叩》(、叩》(、叩》〈叩)へ叩)〈叩〉一〈叩》(叩叩〉(、叩〉〈叩w)(四m〉(皿叩)へ血叩)戸■二〉戸(幻〉戸』■)P『里〉E『聿〉戸円型)』』幻〉戸』幻〉産屋二〉戸冗〉P民U戸』エ)[』幻〉F民⑩》E【エ)

3.4.

3.4.

3.4.

3.4.

3.4.

3.4.

3.4.

3.4.

3.4.

3.4.

3.4.

3.4.

3.4.

3.4.

3.4.

【○戸⑪戸DFD【oPoPa芦。F⑰F⑥FD戸b声。【DFD

●■●●●●●●●●●●● ワ】9】ワ】9』-21《Undワ】’2△4〈U《b ●●●● 九四五〉(』〔)《皿咄〉(〕()一m〃】の〆】くむシ]へ》〆]

■IIIIII

●(詮(uJ

1.2

●①●●●●●●GC n叩一〉、】〉〈叩〉〈叩〉n町〉(四W)〈宅w〉(胆『)|(叩〉〈肥)〈|〃写一m〃〕〈叩〃]〈/】《/】〈叩/』〈》〆】(咀〆】へご〉ハベー〉 ●●●● 、ぐUd勾鈍△’■“Cdp4○口■知。。■処。△■“。△幻“・一のべ〉九一盃)

32314 1123

●●■● 0044

(12)

11

近世城之腰村

賦課金1賦講

卸年貢害Ⅱり付.亥難 卸年寳警Ⅲりホトフ蔀

量フ至垣御年官

8.5.0.8 3.5-【】

金22 金22

、ⅡZ召C

【181脚`応

91凰踊

里4-囮

賦課金 賦課米 魚猟運上

分222両222

金金金 合45

22

188

79967956

升La3

S、●

P、●■●い●●

44

600

53566122

斗aaa

9520055a

■●

■■●

00

055 71

石2風8

句Dd

q■、■、CD、

55

688

55633648

333

33

222

55555544

金2.2両分 金2.2 金2.2 拾分一 拾分一 分一

金28両分 金28.

金28.

見取十分一

見取分一 分一 分一 見取分一 見取分一 見取分一 見取分一

’1軒iiLLj

見取分一

(13)

12

漁業関係貢租(つづき)

年度

船役米11 111111 石玖尻a009LLLLLL8866Z5a 斗2995652222L02La56La 升44尻490000uaa6a4Ⅱ360 合148445555197558748 石斗升合 555555555555555554555555555 石uq0u00000qq0q0000a00Qq00u0u 斗aa33a3a3aaaaaaaaaL3aaaaaaaa 升444444444444444443444444444 合555553555555555556555555555

(1788)同8 (1795)寛政7 (1800)同12 (1807)文化4 (1808)同5 (1811)同8 (1813)同10 (1814)文化11 (1815)同12 (1816)同13 (1817)同14 (1818)文政1 (1820)同3 0821)同4 (1824)同8 (1832)天保3 (1833)同4 (1841)同12 (1842)同13 (1847)弘化4 (1850)嘉永3 (1854)安政1 (1857)同4 (1866)慶応2

〔1869)明治2 (1870)同3

〔1871)同4

■■●●■■●●●●■●●●●● ムニ幻■。△幻{『二’二句』二コ■|“。△幻ユニ’勾一与二・勾扣{一’一幻“。.|幻年凸・一旬一○△|幻斗二○一勾一」。“年一・二勾一」d幻』やj|勾一」〈エリ〔ご囮》巾至一〉呵元)《叩()(迂聿〉〈工J向くJ『■Ⅱ△《咀冗)

G□●●■●●。0●白●●■●●●■●●□句■●●●釦卯釦釦卯卯卯釦釦釦釦釦釦釦釦卸酊””””幻酊酊羽勿 ●■●●●●の●●●●●●■●●●①■●勺□●●■●qUQJQl)q一)QU向く一)、。Q|〉qUQJnjハロヘベー)(一.(。〈JPoPDPo』bPoPDPD{b-0Pb 3333333333333333

■●■□qb P民聿)j幻“二戸比尹)(〕()戸島U戸』四)

0.4.

7.2.

7.8.

7.6 4.7.

8.8.

3.1.

965 436

(14)

13

近世城之腰村

そ。他とも賦課合計

出典史料.

墜慧了i鳥型;砦

賦課金 貫文分

事事事事事珈斯事事事事事事事事事事事事事車事事之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之録付付付付付付付付付付付付付付付付付付付付付付付付目録割割割割割割割割割割割割割割割割割割割割割割割割済目納納納納納納納納納納納納納納納納納納納納納納納納皆済帳可可可可可可可可可可可可可可可可可可可可可可可可貢皆上貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢貢年貢書年年年年年年年年年年年年年年年年年年年年年年年年御年細御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御午御明卯申卯辰未酉戌亥子丑寅辰巳酉辰巳丑寅未戊寅巳寅巳去未 ●▽●白■●●●●。●●、□■●Sc●●●■●■□0(亜〉〉一(w)(】〉|(】》|、u)nW〉|nM〉(恥》〉、u)nW)nW)〈】〉(〉〉’(】〉一価印》(】〉(印》〈u〉、Ⅵ〉|、u〉nW〉(曲》〉(皿》〉(咄》〉-,】)(】)永永永永永永永永永永永永、氷永永永永永永永永永永永永永 氷19.

永19.

永19.

氷19.

氷19.

永19.

永19.

永19.

永19.

永19.

永19.

永19.

永19.

永19.

永19.

氷19.

永19.

氷19.

永19.

永19.

氷19.

永19.

氷19.

永23.

永350.

永150.

99999999999999999999999984 ■●●●■●●●●■5●DC巴■●巴●●の●●■〈Uワ』?》’2ll3ndndnd3QJ(U(U()。〈x)q〉’4二、戸oQ4n-J《‐負JDoj4盈勾』二J几』一コ列]。”珂与(n句強ロ|何】《・nq手口|何]己n句ユユ・幻斗(4句ユ(4m4」“勾埋今一向禿Uハエーリハペリ、ニエ〕ハイリハニJ〈二二〉、盃〉へ屯)(|ペ)|⑥『〉

1.5.

1.8.

7.6.

9.0.

7.1.

4.1.

4.1.

4.1.

4.1.

3.9.

2.7.

4.8.

3.9.

5.5.

7.9.

8.5.

3.5.

4.9.

1.4.

2.8.

9.6.

0.2.

5(U2《589999戸、31-99213758』04 00000000000000000000000090 務妬躯躯窮窃躯鋸溺妬妬妬躯班躯泌窃班班距おお妬溺溺嘔

■Q■●D●ロ巳$●●■□●60DCCD●●●●●●(b〈’0《O(o(b《b《b【b(b(b(b〔』U(b(b〈。〈’0(b〈UR〉巨二)-0Q)戸●|q〉△’4戸o珀狙狙犯胆閉館船舶銘銘氾氾だⅢ皿勿銘記飢皿躯肥似布鋼

7.1.4

注)史料は筆者蔵。ただし*印は焼津漁業協同組合『焼津漁業史』所収。

(15)

14

「船役定納」は「米九石弐斗四升」で以前と変らぬが、「肴運上」は「是〈去卯年が見取十分一一一成」とあって一ヶ年分の見取税に改訂され、この方式は以後しばらく続く(付表参照)。この時期の税率や貢租額はこの史料ではわからないが、手数が繁雑でもあり当局にとってそれ程効果がなかったかも知れぬこの方式は、寛政期には再び定免制へもどった(付表参照)。改訂後の税額は後にもふれるように、かつての正徳・享保年間とほぼ同額だったことから、この間の税額もそれを上まわることばなかったと考えてよいのではないか。最後にその寛政十二年の割付状に目を転じよう。

右同断一高拾五石 (七){中御年一夏可納割附之事検見取一高一一一拾五石三斗四升五合此取米弐拾三石六斗弐升壱合 右者当辰御成箇書面之通侯之条村中大小百姓入作之者迄立会依枯無晶眉致割合十一月中急度可令皆済者也元文元年辰十一月

駿州益津郡城腰村畑方去未同

畑方同所新田 小川重蔵山田与右衛門関口亟右衛門小坂繁右衛門今井謙太郎

(16)

15

一永百弐拾五文九厘御蔵前入用

納合鉾繩轤鰍詑嶬糾邦封地摩三勺

右者検見当申御成箇書面之通相極条村中大小之百姓入作之者迄不残立会無甲乙割合之末二極月十日阪急度可令 取米合三拾石三斗四升三合

右同断 ロ米不掛米壱百七斗三升四合

米九石九斗七升四合三勺永九百三拾六文

米三升右同断 永八貧八百七拾五文永九賞弐百五拾文

右同断 米壱斗七合 口永不掛 此取米六石七斗弐升弐合

辰巳年'‘点 魚申荷酉酒船不 猟迄方迄造同 運五運五冥役 上ケ上ケカロ

年年永永季季

去未同 去未同

御伝馬宿入用 弐升出目

六尺給

(17)

16

船役は「米九石九斗七升四合三勺」で「年々不同」となっているが、「魚猟運上」は定免金納制にもどり「永九賞弐百五拾文」が以後明治四年の廃藩置県時まで課せられている(付表参照)。この永九賞二百五拾文の算出根拠として、当時の船数に基づいて出された場合と税率に基づいて出された場合とが考えられるが、前者は後の章にあげるように年々の船数の変化からゑて税額との間に因果関係を見出すことには困難がある。後者は税率は不明だが、同じ定免制をとった正徳・享保年間の「金弐拾八両肴運上」と比べて、「永九賃弐百五拾文」すなわち九両一分はその三分の一にあたる。これは「金弐拾八両肴運上」を焼津浜方一一一ヶ村に分割した金額ではなかったか。この城之腰村分担の「永九賀弐百五拾文」すなわち九両一分の村内割付については、このときより時代は下るが慶応三年の史料では次のようになっている。

蛎雑柵入用割

皆済者也

金壱両也外七賞七拾三文卯八月十日辰正月三日金壱両也

′~、

、.’

寛政十二申年十一月

(八)

噸柵鏑錘琲諸入用割付帳

慶応一一一年卯十二月 城之腰村

伝右衛門請取新三郎 源兵衛 野田松三郎印

(18)

17

〆八艘 外七賞七拾三文同人取立ロへ出し金壱両也外七賞七拾三文取立帳へ出す金壱両也此金内弐分取外七賃七拾三文金壱両也此金内弐分取外七貧七拾三文金壱両也外七賃七拾三文金壱両也

同人口へ出し金壱両也

小漁舟 大晦日取七賞七拾三文七賞七拾三文 津右衛門佐次兵衛猪之右衛門

喜右衛門

市蔵

(19)

l8

h゛

金壱分「壱賃五百九拾文此金弐朱四百弐拾文辰一一月二日請取同断取立帳へ同断大晦日取金壱分壱賞五百九拾文此金弐朱四百弐拾文辰元日取同断同断廿九日取同.断,同断大晦日取伝吉へ正月二日出し同断十二月什五日払済同断十二月廿九日取 多七 清七 庄左衛門伝蔵 七郎兵術八郎右衛門 nI0I▲句伝吉 長五郎 八郎次 五郎右衛門

(20)

19

一同断什八日取同断十二月什六日取同断辰正月四日取同断同断十二月廿五日出し同断同一人口へ出し同断六百六十七文正月什九日取

金壱分壱賞五百九拾文此金弐朱四百弐拾文辰二日立替へ□へ同断此金弐朱四百弐拾文 同断正月弐日取 新左術門 平右術門久五郎吉右術門

八平左左 術術門門

長左衛門平五郎

又右術門

(21)

20

最後に以上から得られる結論を、第一章にあげた五つの課題について順を追って要約しよう。まずHの定免制移行の時期についてであるが、現在のところ割付状を全年度にわたって検討したのではないので正確な時期を特定することはできないが、少くともこれまでいわれてきた安永七年よりは早く、正徳・享保年間には「金弐拾八両肴運上」を納めている。しかしその後元文元年には「見取十分一一一成肴運上」と分一税にもど これによれば鰹船と推定される海士船は一両を、小漁船は一分をそれぞれ負担し、この年は鰹船八隻、小漁船二十隻で合計十三両を集められるので、魚猟運上「永九賃弐百五拾文」すなわち九両一分の上納はもとより可能で、残金の共同経費への運用もあっただろう。魚猟運上の算出根拠については、鰹船の船数に由来するという見解よりも、村の分担金を村内へ割付けたという推論の方をここではより無理のないところと考えたい。

′■、〆、/角、/=、′へ〆倉、'-,/、

Oiヨさ否四三sご注

十二月廿七日取〆什艘

「城之腰村子之御年貢割り付之邪寛永拾三年」筆者蔵。荒居英次『近世の漁村』吉川弘文館昭和四五年一六一’一六五頁。「巳年貢定之事享保十年」筆者蔵。「明細書上帳城之腰村天明八年」筆者蔵。「駿河国益津郡城之腰村高反別差出帳正徳二年」躯者蔵。「辰年可納年貢割付之珈元文元年」筆者蔵。「申御年貫可納割付之祁寛政十二年」錐者蔵。「廻船御役米猟船御巡上諸入用割付帳城之腰村慶応三年卯十二月」焼津市立図排館蔵。

三考察と結果

(22)

七隻(九隻)という状態で、毎年定額を上納することは合理的でないがこの点は後にまたふれる。そして第二章の

21

安永七年二十三隻(うち城之腰村九隻)、文政七年二十七隻(九隻)、天保十二年二十四隻(六隻)、嘉永四年二十 であろう・一方納税者を鰹船だけに限定した場合、鰹船の数は年ごとに変動しており、例えば正徳二年二十二隻、

(一一)

漁)とがわざわざ併記されていることからすれば、納税者は小舟を含む全漁船を対象とするものと考えるのが妥当 一一一艘」とあるが、これはその数からゑて焼津浜方一一一ヶ村分の合計であるとともに、夏猟(鰹漁)と冬猟(その他の らづけとして正徳二年の「差出帳」に、「金弐拾八両魚猟御運上金但し夏冬別一一夏猟舟弐拾弐艘冬猟舟三拾

(一)

とする場合とが考えられる。前者の場合は後述することとしてここでは後者の場合を考えてみよう。まず史料のう ついで卿の納税者の範囲については、これを焼津浜方三ヶ村の鰹船とみる場合と、小舟を含む村内全漁船を対象

することもできるのではないか。

米価の上昇率三倍余によって、「弐拾八両」の城之腰村負担分である一一一分の一に相当する九両一分になったと推論 述することとして、後者の場合は寛永十一一一年の「拾弐石五斗拾分一連上此取金弐両弐分」が、正徳二年までの 算出根拠で、これには船数から割り出された場合と分一税との関連による場合とが考えられる。前者については後

のである。またここで問題は、正徳享保年間の一一十八両(あるいは城之腰村の分としてその一一一分の一でもよい)の

二百五十文に相当するので、寛政年間以後の永九賃二百五十文は正徳・享保年間の一一十八両の金額と一貫している 徳・享保年間の「金弐拾八両肴運上」が焼津浜方一一一ヶ村分だとすれば、その三分の一の九両一分すなわち永九賞 口の「魚猟運上弐拾七両弐分」の算出根拠であるが、寛政年間以後の「永九賃弐百五拾文魚猟運上」は、正

士船拾壱艘」とあるので、漁船と考えてよいだろう。

なく、別種類の貢租が併存していたことである(付表参照)。なお船役の船は、寛永十三年の割付状その他に「海 弐斗四升船役定納」が一貫して徴収されていることで、船役定納米が「金弐拾八両肴運上」に変わったのでは

間としても、いずれも「十分一」すなわち分一税であった。しかしここで注意しておきたいのは、この間「米九石

つぎに口の定免制以前の貢租制度については、定先制移行期を前述のように正徳年間としても、あるいは寛政年 り、そして再び寛政年間から「永九賞弐百五拾文魚猟運上」と定免制にもどったのである(付表参照)。

(23)

22

終りで述べた慶応三年の「廻船御役米猟船御運上諸入用割付帳」の内容もこれをうらづけている。最後に国のこれら貢租制の焼津漁業への影響についてであるが、第一章にあげた安永七年の「魚猟運上御請証文之事」に「万一右船数之内二而上納金滞之筋モ有之侯共惣船二而御請申侯上〈共分惣船二而急度弁納仕候御役人江少茂御苦労掛申間敦侯」とあり、これはすべて近世の年貢が村中の連滞責任である点から当然のことであった。そ

肌議齪坤舳搾繊癖雄坐許燃醗繩釧率痙趣亜岼峠豐鵬煙繼Ⅷ》珠牝聰年鋼郡》需醗舳馴》評射痙辨鰄巫町鮒醗僻瀝梛

わらず、定額を上納する代償を得たのであった。焼津浜方一一一ヶ村は魚猟運上金二十七両二分、一村あたり九両一分すなわち永九貧二百五十文が、その後幕末までに鰹船一隻一両、小漁船一隻一分の割当額として固定していったのであろうことは、第二章でとりあげた「諸入用割付帳」から推定してもよいだろう。焼津の漁業が、夏の鰹漁業を営む組織体(船中)が冬の小漁を営むより小さな組織体のいくつかをその中に包含

し、人的構成上重層構造を形成していることは先に報吟耀ところである。そしてこの大小の漁業組織体(船中)の

形成過程における近世の制度的側面を、ここに承ることができるのではないか。

(一一一)前褐(二)二八’一一一五頁。(四)拙稿「明治大正期の静岡県焼津における鰹漁業経営について」法政大学教養部紀要第六三号社会科学編昭和六二年六七’一○六頁。拙稿「静岡県焼津における鰹漁業の出資漁携組織と同族」法政大学教養部紀要第六七号社会科学編昭和六三年二五’四四頁。 C)「城之腰村高反別差出帳正徳二年」筵者蔵。(二)拙稲「近世末期駿州焼津の鰹漁業組織について」法政大学教護部紀要鋪五一号社会科学綱昭和五九年一一一三’三四頁。

参照

関連したドキュメント

八年に当れり若し四十八才にて死せるものとせば天文元年の生ならざるべからず而して

前掲註。 安永七年「漆元代金借用之所漆不足ニ付再改借用金証 文」 (二三Z四―二九―一六) 。

ば英,支両国の各二分の一強に過ぎず。而も英政府か今春徴発したる十数隻の英国船舶は,此表に加

 台湾の機船底曳網は昭和 10 年代に著しく増加し、13 年の 78 隻が 15 年には 136 隻となり、漁 獲量も 10 年までは 1 万トン前後であったのが、15 年には

十二月八日

一拾七匁弐分弐り小ぼし七拾弐入四 六○ 一六匁四分八り 布袋五合拾弐入三 一八 半ト入 一四匁五分   さめ弐合かん廿五入弐 九〇

かくて戎納屋、沖家室納屋を中心にして中浅 藻が発達してくるのであるが、浅藻沖のブリ釣

#