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労働コストから生活コストへ

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経済と経営 43−1(2012.11)

論 文>

労働コストから生活コストへ

元 田 厚 生

目 次

⑴ 限界

⑵ 展開

⑶ 発展

はじめに

物財中心の経済学には 生活のコスト という概念が存在しない。存在するのは 商品のコスト という概念であるが,それは企業のコスト観を反映したものであっても国民経済的観点からするも のではない。そこには国民生活の維持再生産という,国民経済の最重要問題にアプローチするとい う姿勢が欠如している。

たとえば,物材中心の経済学つまり旧い経済学の大衆版である国語辞典では, コスト を 費用。

特に,商品の生産に必要な費用。生産費。原価 と説く。そこで 生産費 の項を繙くと 生産の ために要する費用 となっており,これは明らかに同義反復である。何が欠落しているかといえば,

商品の生産に必要な費用 という場合の 必要 性について,立ち入った検討がなされていない ことである。

この点でマルクスは2面的である。マルクスは一面では商品価値は社会的必要労働時間によって 規定されると見なすが,他面では労働者の労働時間の内で剰余労働を控除した労働だけが必要労働 時間である,としているからである。

前者は商品を生産するための社会的平均的生産条件のもとで要する労働時間のことであるから,

その場合の必要性概念は生産技術的観点から与えられており,そのような必要性概念が経済にとっ てどれ程の意味があるのか疑念なしとしない。もちろんこの場合の 経済 とは人間に役立つ経済 という意味であるが。

他方でマルクスの後者の立論は労働者に限定されているとはいえ,それを一般化すれば,人間生 活を再生産するために必要なコストへと展開する余地を残している。たとえばマルクスは一方では 資本論 で,あらゆる社会の生産プロセズの根底にはあらゆる社会に共通する労働のプロセスが 存在する,とするが他方では草稿で,将来社会においては労働時間ではなく自由時間が富の大黒柱 になる,という見解を書き残している。そこにマルクスの労働コスト論を生活コスト論へと展開・

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発展させる手掛かりが残されているのである。

本来的に見ればモノの生産はあくまでも生活のために行うものであり,したがって,それは生活 の維持再生産という目的を実現するための手段に過ぎない。それゆえコストもモノ生産にかかわる 労働次元から,人間生活の維持再生産にかかわる次元へと引き上げる必要がある。

このような観点から,マルクスが生活のコストを労働次元において必要労働時間として措定して いることの検討を通じて,生活のコスト概念の彫琢を図ること,これが本稿の目的である。

⑴ 限界

マルクスの必要労働概念の特色はそれが剰余労働とペアになって規定されていることであり,そ こに必要労働概念の欠陥が存在するといえる。つまり,剰余労働を不必要労働とすることの対応関 係において,必要労働を概念規定していることである。マルクスの立論は労働者の剰余労働部分が 資本家によって搾取される,つまり,価値で表現すれば剰余価値部分であることを立論するために,

必要労働概念を使用するという限界を有しているのである。

剰余価値論はマルクスの最大の功績とされているが,それは理論としてはかなり杜撰なものであ る。これまでマルクスの護教論的研究はその点を不問に付してきたが,それがかえってマルクス説 の発展を妨げてきたといえる。というのも,マルクスの剰余価値論それ自身は限界を有するとはい え夾雑物を取り除き,マルクスが書き残している草稿の論点を援用すれば, 人間生活の維持再生産 のためのコスト 概念を発掘することは可能だからである。そして,マルクス説を発展することの 余地があるとすればこの点にしかない。

このような観点から先ず,マルクスの必要労働概念と剰余労働概念の限界をそれぞれ明らかにす る。

必要労働概念の一面性は,マルクスが次のように必要労働時間を 生活財源の生産に該当する労 働時間 として規定している点に現れている。

すなわち, 労働者は,労働過程の一部分では,自分の労働力の価値,すなわち自分の必要生活手 段の価値を生産するにすぎない。……かりに彼が資本家のためではなく,自分自身のために独立し て労働するとしても,その他の事情が変わらない限り,自分の労働力の価値を生産し,それによっ て自分自身の維持または不断の再生産のために必要な生活手段を得るためには,彼は相変わらず平 均して,1日の内の同じ加除部分だけ労働しなければならないであろう。……したがって私は,労 働日の内でこの再生産が行なわれる部分を必要労働時間と名づけ,この時間の中で支出される労働 を必要労働と名づける。それは労働者にとって必要である。なぜなら,それは,彼の労働の{特種 な……引用者}社会的形態にかかわりなく必要だからである。それは資本とその世界にとっても必 要である。なぜなら,労働者の絶えざる存在は,資本とその世界の基礎だからである 。

まず, 可変資本は,労働者が自己維持と再生産のために必要とし,どのような社会的生産体制の もとでも常に自ら生産し再生産しなければならない,生活手段財源または労働財源の特殊歴史的な 現象形態である ,という。

ここでは第1に,労働者 自身の維持または不断の再生産のために必要な生活手段を得るため に要する労働を, 必要労働 と規定し,第2に,その 必要労働 は 彼の労働の{特種な}社会

経済と経営 43巻 1号 34   34( )

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的形態にかかわりなく必要 ,つまり,あらゆる社会に共通した必要性概念である,としている。

問題は以上に示された必要性概念は歴史貫通的な概念,つまり,生活のコストの一部に過ぎない ことである。たとえば,個別労働者の感性からすれば彼らは自らの生活を生活手段(生活財源)だ けで維持再生産している。そして単純再生産を社会経済に見れば,労働者が自分たちの生活財源(v 部分)だけを生産する労働の裏面において,生産財源(c部分)を生産している。いわゆる旧価値 の移転である。

しかし,単純再生産のための生産財源(c部分)と生活財源(v部分)だけで,生活の維持再生 産が可能である,という理論は机上の空論でしかない。

メイヤスーも指摘するように自然相手の農業生産を想定すればすぐわかるように,毎年の平均が 単純再生産となるためにも,不足の年度を補うための拡大再生産が数年おきに必要である。それに プラスアルファを加えれば災害に備えた財源であり再生産表式で表現すればm部分である。

災害に備えた財源と拡大再生産のための生産手段財源とはどのような社会でも必要な財源であ り,階級社会ではそこに支配階級の生活を賄う,支配階級用生活財源が含まれることになる。再生 産表式で表現すれば以上のすべてがm部分,つまり剰余労働部分である。

ところがマルクスは剰余労働を社会経済的には 不必要な労働 として概念規定する。

たとえば, 労働日は流動的な大きさであるが,……しかし労働日の最小限度を特定することはで きない。もちろん,……剰余労働をゼロとすれば,われわれはある最小限度,すなわち,1日の内 で労働者が自分を維持するために必然的に労働しなければならない部分を得る。しかし資本制的生 産様式の基礎上では,必要労働は常に労働者の労働日の一部分をなしうるのみであり,したがって 労働日がこの最小限度までは短縮されることは決してない ,という。

ここではあたかも社会経済的には労働日を必要労働に限定することは可能であるが,階級社会で ある資本制のもとでは不可能である,つまり,社会経済的に見れば剰余労働は 不必要な労働 で ある,ということになる。

また, 資本が剰余労働を発明したのではない。社会の一部の者が生産手段を独占しているところ ではどこでも,自由,不自由に関わりなく労働者は,生産手段の所有者の生活手段を生産するため に,自分自身を維持するために必要な労働時間に余分な労働時間を付け加えなければならない , という。

ここでは明確に剰余労働を階級社会においてのみ強制される労働であり, 余分な労働 であると 表現し,その労働部分が社会経済的には 不必要な労働 であると規定しているのである。

その結果,マルクスの功績と見なされている剰余価値論は,不十分な必要労働概念と誤った剰余 労働概念とから立論されているのであるから,それを通説のように高く評価することはできない。

ところが 資本論 第1部には検討すべき論点が存在する。それは資本制がアウフヘーベンされ れば剰余労働は無くなる,とする次のな記述である。

すなわち, 資本制的な生産形態が取り除かれれば,労働日を必要労働に制限することが可能にな る。とはいえ他の事情が同じであれば,必要労働はその範囲を拡大する。というのは,一面では労 働者の生活諸条件がもっと豊かになり,また彼らの生活上の諸欲求ももっと大きくなるからである。

他面では,現在の剰余労働の一部は必要労働に算入される,つまり,社会的な予備財源と蓄積財源 とを獲得するために必要な労働に算入されるからである ,という。

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注目すべきは, 現在の剰余労働の一部は必要労働に算入される,つまり,社会的な予備財源と蓄 積財源とを獲得するために必要な労働に算入される ,としている点である。ここでは,資本制がア ウフヘーベンされればという条件つきながら,保険財源と拡大再生産財源は社会経済的に見て,つ まり, 生活の維持再生産 のためには必要な財源となる,とされている。それは半分は真実である。

なぜなら資本制的な剰余労働の一部は歴史貫通的観点からも必要労働に該当するからである。

しかし,マルクスが剰余労働を 不必要労働 と規定し 余分な労働 として規定すれば,剰余 労働に基づく財源の全てが不必要になってしまう。たしかに資本制における保険財源と拡大再生産 財源とは,本来の使われ方をしないケースが多いとはいえ,災害の時は税金の一部が保険財源とし て緊急に支出されるし,拡大再生産も収益優先の企業のためだけでなく社会経済的にも必要な場合 があるのである。

つまり,問題とすべきは保険財源と拡大再生産財源の資本制的形態ないし性格であるにもかかわ らず,マルクスはそれらを性格変容的に考察する理論水準に到達していなかったといえる。

この点では財源,一般化すれば富の性格が政治,すなわち,生活主体が生産物の分配に関与する ことによって変容する,というラミスの示唆が参考になる。

すなわち, 経済的剰余を富とするならば,剰余の形態については共同体によってさまざまな選び 方があるだろう。剰余は個人消費や公共事業の形を取ることもありうるし,労働時間を減らして,

芸術や学習,祭,儀式のために最大限の余暇を作るといった形態を取ることもありうる。財の分配 に関して,共同体の基本的意思決定をするのが政治だとすれば,どのような形を取るかは,経済的 必然ではなく,政治的な選択の問題である ,と。

ところがマルクスは他の社会主義者と並んで, 資本家による労働者の搾取 を理論的に解明した いという動機が勝り,敢えて剰余価値論の杜撰さに目をつぶったのではないかと推測する。という のも 資本論 第1部に先立って書かれた 資本論第3部草稿 には, 資本論 第1部の剰余価値 論を乗り超える剰余労働論が存在するからである。

マルクス追随者たちが 資本論 を完成した理論として持ち上げることが,結果としてマルクス 説の発展を妨げるという皮肉な結果をもたらしたのである。

⑵ 展開

現行の 資本論 第3部は 資本論第3部草稿 をもとにエンゲルスが編集したものであるから,

前者は一部を除いて後者と同じである。そこで引用に際しては公刊されている前者の箇所を示すが,

本稿の本文では 資本論第3部草稿 と表現する。

そこには 資本論 第1部の剰余価値論の水準を凌駕する,つぎのような記述が存在する。

すなわち, 剰余労働一般は,所与の欲求の程度を超える労働として,常に存在し続けなければな らない。奴隷制などと同様に,資本制における剰余労働は,ただ敵対的形態だけを持つのであり,

それは社会の一部分の完全な不労によって完成される。一定量の剰余労働は,災害にたいする保険 のための前提として必要とされ,欲求の発達と人口増加とに照応する,再生産過程の必要な・欲求 の発達と人口増加とに照応する・累進的な拡大……のための前提として必要とされる ,と。

まず第1に,剰余労働一般はあらゆる社会に共通して必要な労働である,として剰余労働一般の 36   36( ) 経済と経営 43巻 1号

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社会経済的意義が明快に表現されている。

ついで第2に,その剰余労働一般の中身の1つが災害にたいする保険財源であり,2つ目が欲求 の発達と人口増加とに照応する拡大再生産財源である,として明快に表現されている。

そして剰余労働一般は資本制においても程度の差はあれ必要であるから,したがって第3に,あ らゆる社会に共通する剰余労働一般と,階級社会にのみ特有の剰余労働の歴史的形態を峻別し,後 者には支配階級の生活財源が含まれる,として明快に表現している。

マルクスは 資本論 第1部に先立って書いた 資本論第3部草稿 のこのような見解の延長線 上に, 資本論 第1部の剰余価値論を構想すべきであったにもかかわらず,結果は草稿よりも大幅 に後退した剰余価値論を書くことになったことがこれで分かる。

その理由としてすでに言及した点に付け加えれば, 資本論 第1部の生産過程論が 商品の生産 過程論 に過ぎず 生活の生産過程論 として構想されていない点にあるが,直接的には,剰余労 働一般があらゆる社会に共通して必要である,という論点をより一層展開することができなかった ことに求められる。

このようなマルクスの欠を埋める見解を提示しているのがメイヤスーである。メイヤスーにおい て注目すべきは,始めは剰余生産物および剰余労働という表現を使うが,最終的にはそれらをそれ ぞれ必要生産物および必要労働として表現し直していることである。理論の進展に対応した用語の 発展的使用である。

たとえば,メイヤスーは拡大再生産のために必要な生活資料の量,つまり 成員の単純再生産に 必要な量を超えた,自由に処分することができる生活資料の量 について,ひとまずマルクスにな らってそれを 剰余生産物 と呼ぶが,次のような理由から,それを 必要生産物 として規定し 直している。

すなわち, この剰余生産物が,家族制共同体の人口増加を可能にするためには,なお数個の条件 がこれに結びつかなければならない。……人口増加のための第1条件は……少なくとも最長の天災 期間に等しい期間,自らを維持することができるだけの生産物を確保しておくこと である。した がって 共同体が保有しているストックは、けっして 剰余 をあらわしてはいない。そのストッ クの目的は,その共同体が自らを再生産し,ときとしては拡大するための力を,時間的にならすこ となのである から,と。

現在と過去の生産者のための生活資料を超える生産物については,それをひとまず 剰余生産物 と呼称しながらも,最終的には,共同体成員を 拡大再生産するために必要な生産物 として性格 規定する。

つまりメイヤスーは,当初,マルクスに倣って必要生産物(必要労働)及び剰余生産物(剰余労 働)という用語を区別的に使用するが,最終的には,それを生活を維持再生産するために 必要な もの として統一的に性格規定せざるをえない,という再生産問題に遭遇しているのである。

プチも必要労働と剰余労働とは相補関係にある,と次のように述べている。

すなわち, その関係{必要労働と剰余労働の関係……引用者}はもはや対立し矛盾したものでは なく,相補的なものである。剰余労働とはもろもろもろの新たな必要,ある普遍的な個人のもろも ろの間接的必要への切望なのであり,そうした必要を満足させるためのもろもろの普遍的な社会的 手段の結果である ,と見なさなければならない,と。

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同様の認識がクラストルにもある。すなわち, 人間が自分の必要を超えて労働するのは,強制力 による以外にはない のであるが,その場合の 必要 とは, 資本論 第1部的な必要労働では なく,日常的に必要とされる生活財源を超える余剰を生産する労働もそこに含めている 。

かつて,マルクスも再生産理論を完成させれば 資本論 第1部の剰余価値論を大幅に修正した であろうと言及したのも,このような問題の所在を念頭においてのことである。

さてメイヤスーは,マルクスのいう剰余労働を 物的生産と生命の再生産に必要な労働 として,

次のように規定し直している。

すなわち, 家族制共同体は,剰余生産物以上の剰余労働を生産することが可能である。/農耕労 働は,農繁期と農閑期に区分されていることによって,それは一定量の生活資料 ΣβΕ(生産的個人 の年生産量の総和)を生産するのであるが,その消費は,Σβの再生産に必要な量以上のエネルギー 量 ΣΕを生みだすという,農耕生産の特質が明確に現われてくる。これは,農産物の生産に必要な労 働時間は,一般に太陽年の一部分でしかないということから,容易に推計できることであるある。

この労働時間に,付随的な作業,とくに農具の製作に必要な労働時間,食糧の調理と調理用の道具 の製作に必要な労働時間がつけ加えられなければならない。農閑期にあっても,エネルギーの生産 者の生活を維持するために必要不可欠な仕事 ⎜⎜ 住居の建設,衣服や種々の調度類などの製作

⎜⎜,物的生産と生命の再生産に厳密な意味で必要なこれらの作業は,一般的にいって農閑期の労 働者のすべてのエネルギーを吸収しつくすことはない ,と。

メイヤスーは,農具の製作に必要な労働時間 ・ 食糧の調理と調理用の道具の製作に必要な労働 時間 ・ 住居の建設,衣服や種々の調度類などの製作 を, 物的生産と生命の再生産に厳密な意味 で必要な作業 と呼ぶ。つまりメイヤスーは,マルクスが剰余労働に含めていた種々の労働を, 人 間生活を再生産するために必要な労働 として性格規定するのである。

それはメイヤスーが,本来の必要労働と資本制的必要労働の相違という視点から,マルクスのい う剰余労働を捉え返していることを意味する。それはメイヤスーが,資本制的な意味では労働に算 入されない作業や労働を, 労働 に含める理由について,次のように述べていることから看取する ことができる。

すなわち, 時間にもとづいて労働時間を算定することは,資本主義的搾取の関連する特殊な方法 である。事実,この算定方法は,訓練費,労働力の再生産費 ⎜⎜ すなわち,賃金制以外のメカニズ ムによってはじめて再導入される費用 ⎜⎜ を除外する。労働力が商品ではない家族制経済のような 経済にあっては,この時間による算定は,なおさら適合しない。継続する数世代の通じて達成され る生産と流通のメカニズムを統一的に把握するためには,それに代わって終身的な算定方法が用い られるべきである ,と。

これは,労働の本来的計量と資本制的な擬制的計量を区別する,筆者の見方に近い。すなわち,

具体的労働の抽象的労働への還元とは,本来,同一単位に還元することのできない具体的労働を,

擬制的に同質化することを意味するから,その同質化の過程で,資本収益の価値計算に組み込めな い労働は捨象されることになる,という見方である。

擬制的計量から切り捨てられる労働については,これまでのところ構想労働と,生存維持活動で ある無償労働を挙げてきたが,まさメイヤスーのいう, 食糧の調理と調理用の道具の製作に必要な 労働時間 ・ 住居の建設,衣服や種々の調度類などの製作 は,後者に該当するものである。

38   38( ) 経済と経営 43巻 1号

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以上,メイヤスーにはマルクスの欠を埋めるという直接的言及は存在しないのであるが,事実上,

資本論第3部草稿 の剰余労働一般を展開し,生活を維持再生産するコストの具体化に大きく寄 与しているのである。

⑶ 発展

しかし生活の維持再生産はモノ(財源)だけで行われるわけでは無いから,生活のコストを生活 の再生産に必要なモノのコストだけに還元することはできない。生活の維持再生産はモノ以外の非 物質的非経済的活動によっても行われるから,生活のコストにはそれらの非経済的活動のためのコ ストも含める必要がある。

モノの生産と分配にかかわる活動を 経済的 活動と表現し,モノの生産などにかかわらない活 動を 非経済的 活動と表現するのは,旧い経済社会観によるものであるが,読者の混乱を避ける ためここではそれを踏襲する。

A.ゴルツは, 友情,愛,同情,援助の願望 から行う さまざまな非経済的な活動 は, 満足 感や快感や歓び のためになされ, 生活そのものの素地 をなしている ,という。そして,身近 な家事のための労働や地域の共同生活を維持するための活動を考えれば分かるように,それら非物 質的な活動は生活の維持再生産に必須のものであり,現代ではボランティア活動などもそこに含ま れる。なぜなら,それらの活動によってわたしたちの生活がより一層豊かになるからである。

そして新経済学がこのような非経済的活動を経済学の構成要素とする理由は,それらの活動も一 定のエネルギーと時間を必要とするからであり,したがって,それらの活動を可能にするためには 労働時間を短縮して自由時間を増加しなければならないからである。

これらについてはすでに明らかにしてる 。ここでは,生活のコストに非経済的活動のコストが含 まれることを明らかにする理論水準に到達するためには何が必要か,つまり,労働コストから生活 コストへと上昇する理論的階梯にはどのような論点が存在するのか,ということに絞って言及する。

まず,労働(時間)というレベルを超えて活動一般に必要な エネルギーと時間 を措定する必 要がある。それは可処分時間,つまり労働分野と非労働分野,モノの生産分野と非経済的活動分野 とに分配することのできるエネルギー概念である。

この点でマルクスはどこまで到達しているのだろうか。

たとえば, 東アジアのパン採取者のひとりが,自分の全ての欲求を充足するためには,毎週 12時 間が必要であるとしよう。自然の恩恵が彼に直接与えるものは,多くの暇な時間である。彼がこの 暇な時間を自分自身のために生産的に使用するためには、一連の歴史的諸事情が必要であり、また 暇な時間を他人のための剰余労働に支出するためには、外部からの強制が必要である ,という。

ここでは,可処分時間の自由時間への転化と,かかる可処分時間が資本制的剰余労働時間へ転化 されることが混淆的に述べられている。それを整序すればつぎのようになる。

すなわち,東アジアのパン採取者は自然の生産性によって物質的生活を維持するために1日 12時 間の労働しか必要としないことにより,彼は多くの可処分時間を得ている。彼はこれ以上の物質物 的欲求の充足を望まないため,その可処分時間を労働分野に分配せず,生活分野に分配し精神的欲 求を充たすめの自由時間として使用する。したがって,その自由時間の性格が 他人のため の剰

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余時間へ変容することは, 外部からの強制 によってしか行われない,と。

マルクスがこのように表現できなかった理由の第1は,可処分時間およびその分配という理論装 置を発見できていないことにある。

生産性の向上により,それまで一定の使用価値の生産に拘束されていた時間の一部が遊離する。

この可処分時間は生産物とならぶ物的生産過程の成果であるから,生産成果の分配にはモノの分配 とならんでトキ(可処分時間)の分配も含まれる。そしてトキ(可処分時間)が生活分野と生産分 野とに分配される割合によって,精神的欲求と物質的欲求 の充足される割合が決まり,生活生産 の基本的枠組みが決まることになる。マルクスには,以上の時間の分配という理論装置が欠けてい るのである。

理由の第2は,生活の維持再生産が非経済的活動によっても行われることを明示できなかったこ とである。

最も基底的で本源的な社会的必要性が, 生活を生産するための必要性 であることを明確にした のは, ドイツ・イデオロギー である。しかし, 資本論 では 生活の生産過程 ではなく モ ノの生産過程 を基軸に据えたため,生活の維持再生産に必要な非経済的活動を理論に含めること ができなかった。

とはいえ草稿には非経済的活動概念へと発展することのできる萌芽は存在する。

すなわち, 現実的富の創造は,労働時間と充用された労働量に依存することが一層少なくなり,

むしろ労働時間に運動させられる諸能因の力に依存するようになる。……労働者は生産過程の主能 因であることを止め生産過程と並んで現れる。この変換において生産と富の大黒柱として現れるの は,人間自身が行う直接的労働でもなければその労働時間でもなく,自然に対する人間の理解であ り,社会的身体としての人間の定在を通じての自然支配,一言でいえば社会的な個々人の発展であ る ,と。

ここでマルクスは将来 生産と富の大黒柱 として現れるのは,直接的労働ではなく 自然に対 する人間の理解 などの個々人の主体的成熟であるとする。ここでマルクスが物的な生産力を向上 させるような知的労働能力のニュアンスで表現しているのは,物質的生産が前面に現れていた時代 的制約の所為である。それは,本来,生活をより豊かに生産するために必要な非経済的活動として 概念化すべきものである。

その萌芽は,マルクスがより成熟した主体へ転化するためには 高度な活動 が必要である,と いう観点から自由時間を捉えていることである。

すなわち, 高度な活動のための余暇時間でもある自由時間は,その享受者を自ずから異なる主体 へと転化してしまうのであるが,次いで彼は直接的生産過程にも,このような新たな主体として入っ て行く ,とする観点である。

このようマルクスが非経済的活動を可能にする自由時間の重要性を認識していたことは高く評価 できるが,その認識をトキ(可処分時間)の分配論にまで上昇できていない。それを発展させたの は大熊信行の労働配分論と杉原四郎の経済本質論とである。

まず大熊は,マルクスが,労働の配分(Verteilung)と生産物の分配(Distribution)というよう に用語を使い分けていることに着目して,労働の配分(allocation)が,生産物の分配(distribution)

と異なる概念規定である,ということを提起した上で ,トキ(可処分時間)の労働分野と生活分野 40   40( ) 経済と経営 43巻 1号

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とへの分配が,物的生活に必要な使用価値(生産物),そのために費やすエネルギー(労働時間),

精神的生活のための時間(自由時間)の3者を調整することことによって行われることを示唆して いる 。

しかし大熊は 配分と分配の差異 を強調するあまり,労働配分に潜む時間分配の経済学的意義 については明確に提示することができなかった。

これに対して,労働配分に傾斜しているマルクスの時間論を存在論的時間論の水準へと引き上げ たのは杉原である。

先ず, マルクスは……クーゲルマンへの手紙で,人間というものは 一年はおろか,二,三週間 でも労働を停止しようものならくたばってしまう とのべ,人生における必要労働時間の重みをあ らかじめ指摘したうえで,社会的総労働の問題に入っているのだが,そうした論じ方の理論的含蓄 も,問題を労働配分にしぼってしまうと,見失われてしまう危険があるであろう。/その危険をなく すためには,経済の本質的課題は単に一定量の総労働の適正な配分にあるのではないということを 明確にする必要がある ,とする。

ここでは労働配分と可処分時間分配の概念的区別を提示している。

次いで, 時間は人間生活において経済の領域と経済以外の領域とを関連づけるものであり,した がって時間論は,人間生活の全体把握とその史的発展の追求とに基本視角を提供するもの ,とい う。

すなわち,欲求体系における時間分配こそ生活体系を編成する場合の起点に位置することを明示 している。

以上の理論的発展を整序すればつぎのようになる。

まず,生活の維持再生産には可処分時間の分配を包摂する欲求体系,必要なモノの質と量の決定 を包摂する使用価値の体系,その使用価値を生産するために必要な労働を決定する労働体系,以上 の3つのブランチが存在する。しかし,生活体系の起点に位置するのは欲求体系であり,その理由 は,トキ(可処分時間)の分配によって労働時間と非労働時間の大きさが確定されるからである。

より踏み込んでいえば,トキ(可処分時間)の分配は,第1に,その時間の分割割合を確定する ことを通じて物質的欲求と精神的欲求の最適なバランスを確定することを意味するからである。

たとえば,もはや物質的な生活水準を向上させる必要がない,と当事者達が判断すれば,可処分 時間のすべてを生活過程に振り向けることになるだろう。それはそれまでのバランス,つまり,物 質的欲求を充足することと精神的欲求を充足することとのバランスが前者に傾いていたと,当事者 達が判断することによって行なわれる。

つまり,労働時間の大きさが確定されることの背後には,精神的生活と物質的生活の最適なバラ ンスに関する,主体的判断が存在するのである。それゆえトキ(可処分時間)の分配にかかわる欲 求体系が生活体系の起点に位置するのである。

また第2に,トキ(可処分時間)の分配においては,物質的欲求と精神的欲求のバランスだけが 考慮されるわけではない。そこでは,物質的生活のために必要な使用価値の質と量,その生産のた めに費やすことになる労働エネルギーの量,そして精神的生活のために必要な時間という3者が比 較考量され,最適なバランスが選択されることになるのである。

このようにトキ(可処分時間)の分配過程においてこそ,生活を維持生産することの基本的枠組

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みがデザインされるのであるから,欲求の体系こそ 生活生産の基本編成 でありそこにおいて生 活のコストが勘案されることになる。

したがって,それはモノの生産コストが企業によって担われることとは大きく異なる仕組みを必 要とする。とはいえそれは中央経済計画というようなプランの策定を意味するものではない。中央 経済計画というものは国民が必要とする使用価値の質と量をある計算単位,つまり抽象的労働を 使って策定するものであるが,個々人の生活の維持再生産をそのような上から策定された計画に従 属させることは 欲求に対する独裁 に他ならないからである。

中央の官僚機構に欲求体系の編成を独占させないためには,人間エネルギーの大まかな計量を抽 象的労働とは正反対の具体的労働によって行う仕組みが必要である。このような 計量 は科学的 活動の分野では当然のことであるから ,後はそれが社会生活のレベルにまで浸透することによっ て新しい 計量方法 にまで発展することになるだろう。

1) K.マルクス 資本論第1部 岡崎次郎訳,大月書店版①,281‑282頁,訳文は同じでは無い。以下も 同じ。

2) 同前,②,739頁。

3) 同前,①,301‑302頁。傍点は引用者。

4) 同前,①,306頁。傍点は引用者。

5) 同前,②,686頁。傍点は引用者。

6) C.D.ラミス 平等 (W.ザックス編 脱 開発 の時代 晶文社,1996年,77頁。

7) K.マルクス 資本論第3部 岡崎次郎訳,大月書店版⑤,1050頁。傍点は引用者。訳文は同じでは無 い。以下も同じ。

8) C.メイヤスー 家族制共同体の理論 川田順造/原田武彦訳,筑摩書房,1977年,99頁。

9) 同前 100頁。傍点は引用者。

10) J.プチ 労働の現象学 今村仁司/松島哲久訳,法政大学出版局,1988年,291頁。傍点は原文。

11) P.クラストル 国家に抗する社会 渡辺公三訳,風の薔薇,1987年,243頁。

12) 未開社会には,現実に余剰生産が存在する……。すなわち,農耕植物の生産(マニトワ,トウモロコ シ,タバコ,綿その他)は常に集団の消費を超過している。しかも,この生産超過分は、通常労働時間 に含まれていることは言うまでもない。超過労働なしに実現されるこの余剰は,本来の意味での政治的 目的のために,祭宴,歓待の宴,異邦人の到来などの機会に消費あるいは消尽される (同前 244頁。傍 点は引用者)。

13) C.メイヤスー,前掲書,100‑101頁。

14) 同前 94頁。傍点は原文。

15) A.ゴルツ エコロジー共働体への道 ⎜⎜ 労働と失業の社会を超えて 辻由美訳,技術と人間,1985年,

97頁。

16) 拙著 豊かさをつかむために ,中西出版,2008年,第7章参照。

17) K.マルクス 資本論第1部 ,②,667‑668頁。傍点は引用者。

18) 今村仁司は,人間の最も基礎的行為のタイプとして欲動・欲求・欲望の3つを挙げる。すなわち, ⑴ 欲動(pulsion)。最も自然に近い,あるいは自然そのものとすら言える快楽充足の行動。フロイドのリビ ドーは欲動。⑵欲求(besoin)。何物かが欠如しているがゆえにそれを 必要 とする行為。欠如=必要 に基づく欲求はふつう生物学的=生理的行為とみなされる。⑶欲望(desire)。……欲望は他者との関係 のもとでのみ生ずる社会的行為である。欲望は物を消費するのではなく,社会関係やそれについての観 念または表象を消費する。

42   42( ) 経済と経営 43巻 1号

(11)

……一般に,欲望とは社会的承認を求める行為である と(今村仁司編 現代思想を読む事典 講談 社,1988年,613‑614頁)。この区分でいえば,マルクスの用語 Bedurfnis,besoinは,⑵と⑶に該当す ることになるが,本書でそれに 欲望 ではなく 欲求 という訳語を充てるのは,つぎの説に賛成だ からである。すなわち, Bedurfnisにせよ besoinにせよ,原意は欠乏であって,そこから 欠乏したも のを必要とすること または 必要とする物 という語意が生まれる。およそ人間は生存し生活しなけ ればならないから,人間は生存や生活上のいろいろの 欠乏 ,したがっていろいろの 必要 が生まれ ざるをえない。Bedurfnisや besoinとは以上の意味あいの 必要 であって,人間がただ自己の意思作 用として抱くところの 欲しがる心 すなわち欲望ではありえない と(江夏美千穂/上杉聰彦訳 フ ランス語版資本論 上巻・訳者解説)。ただし,Notwendigkeit に 必要 という訳語を充てる関係上,

Bedurfnisを 欲求 と訳することにしたが,趣旨は 必要 という意味である。後に明らかにするが,

何をもって生活上の必要と判断するかということが,生活体系編成の決め手になる。

19) K.マルクス 1857‑58年草稿 ( 資本論草稿集 ②),大月書店,489‑490頁。訳文は同じでは無い。

以下も同じ。

20) 同前,500頁。

21) 配分と分配の両概念の相異について一言する……。 自由人の団体 とさきのロビンソンとの間にお ける経済秩序の根本的な相異は,前者には生産物の分配問題が存在するが,後者には[ロビンソン独り への 生産物の分配 であるから……引用者]存在しないという一点であり,そして双方に通ずる問題 は総労働の配分問題である。総労働の配分関係が,所得の分配関係から独立の概念であるということは,

この一点に着目するだけでほぼ十分であろう と(大熊信行 経済本質論=計画経済学の基礎 東洋経 済新報社,1957年,69‑70頁)。

22) 例えば, 総労働の生産諸部門への配分は,直接的には社会の総欲望の体系を反映しなければならぬで あろう。しかるに欲望は無返際であり,労働能力は限定された分量であるとすれば,限りある労働力を もって最も有効・満足なる結果を購いうるような配分比例を求め,それに基づいてこれを各部門に配分 しなければならぬだろう。それを反面からいえば,それぞれの欲望は,いづれも或る限度において,切 り棄てられることが必要であろう。もしかくのごとくにして配分された社会の総労働が,その 比例的 配分 において正常を得たとするならば,その配分均衡こそは,総労働配分の合目的性を完全に具現し えたものといわなければならないであろう。すなわちその反面には,もし右の正常配分比を失うならば,

社会の総労働時間は量において一定なるにもかかわらず,その齎しうるところの社会的経済厚生の内容

(欲望充足の総量,明らかに主観的なものを含む)は,場合によって幾らかでも低下するとの意味をふ くむのである(同前 74頁),と。

23) 杉原四郎 ミル・マルクス・河上肇 ミネルヴァ書房,1985年,104頁。

24) 同前 103頁。

25) F.フェヘール/A.ヘラー/G.マールクシュ 欲求に対する独裁 富田武訳,岩波書店,1984年,16 頁。

26) アグネス・ヘラーはいう, 将来のものと仮定された労働が,工業部門に応じてのみでなく個人個人に 応じても質的に異なるとすれば, 社会的に必要な労働時間 はもはや尺度としての用をなしえないこと になる。一例をあげてみよう。しかしこれはありふれた例ではなく,決定的意味を持つ例である。科学 の領域では社会的に必要な労働時間をどうやって決めることができるのか,質的に異なる科学的活動の さまざまな型を,この労働時間にもとづいてどうやって比較しうるのだろうか と(A.ヘラー マルク スの欲求理論 良知力他訳,法政大学出版局,1982年。149頁)。

(本稿は平成 24年度学校法人札幌大学の研究助成に基づく研究成果の一部である。)

参照

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