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52 東 洋 大 学 人 間 科 学 総 合 研 究 所 紀 要 第 11 号 方 が 主 導 したためか 武 家 は 表 高 に 対 して 負 担 を 分 担 させられるのではなく 屋 敷 地 の 四 方 間 数 に 応 じて 分 担 していたことを 明 らかにした これらから 公 共 空 間 に

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Academic year: 2021

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 研究課題名:江戸大名屋敷と都市公共空間に関する基礎的研究(平成 20 年度)  予   算:平成 20 年度 790,000 円  研究代表者:松本剣志郎(奨励研究員)

1.研究計画の概要

 本研究は、江戸の大名屋敷と都市公共空間についての基礎的研究である。江戸の面積の約 7 割を占 めたのは武家地であり、その大部分は大名屋敷であった。さらに武家屋敷は町人地や百姓地へと拡がっ ていた。大名屋敷について検討を進め、それが都市の公共空間に果たした役割を検討することは江戸 の理解を深めることとなる。  そのため本研究においては全国に所在する藩政史料を調査し、そこから江戸関係資料の抽出を行う。 藩政史料は国元のみではなく、実は江戸に関する史料の宝庫である。このような研究スタイルは時間 と労力、資金の面からこれまで十分に行われているとは言えない。さらに江戸町方史料のほとんどが 失われてしまっている現在、国元に豊富に残される藩政史料から江戸について検討することは本研究 の場合、有効な方法である。

2.研究報告

 人間科学総合研究所プロジェクト   「日本における地域と社会集団─公共性の構造と変容─」・研究会   2008 年 7 月 23 日 於東洋大学 6 号館会議室  松本剣志郎「江戸の公共空間と都市社会」 (要旨)まず辻番についてその論理を検討した。これまで辻番は屋敷拝領に対する役として理解され てきたが、拝領と役に対応関係は見られないことを指摘した。次に、麻布谷町における道普請につい て、その負担のあり方が、町と武家で費用負担するものであることを紹介した。そして、道普請を町

■若手研究者育成研究所プロジェクト 「江戸大名屋敷と都市公共空間に関する

       基礎的研究」

平成 20 年度における活動とその成果の報告

松本剣志郎

* *人間科学総合研究所奨励研究員

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方が主導したためか、武家は表高に対して負担を分担させられるのではなく、屋敷地の四方間数に応 じて分担していたことを明らかにした。これらから公共空間に対する諸身分の都市住民としての関わ り合いを検討することで、公共性の問題を論じることができると主張した。

3.調査活動

〔国内調査〕 ○日程;2008 年 5 月 21 日 ○調査先;埼玉県立文書館 ○概要  旗本稲生家文書を調査した。同文書群は江戸幕府の大目付や目付などを勤めた稲生家に遺されたも のである。江戸の公共空間は目付によって支配されていた部分が大きく、それに関する史料を収集し た。この調査では「届物取扱一件」「辻番所心得方」などの史料を閲覧し、コピーを行った。武家屋 敷が公共空間における捨子、迷子、拾い物、放れ馬などに対してどのような対応を江戸幕府から求め られたのかがここから明らかになる。 ○日程;2008 年 5 月 22 日 ○調査先;東京都公文書館 ○概要  旧幕府引継書目録および高松家文書を閲覧した。旧幕府引継書は東京都公文書館から国会図書館へ 永久寄託された文書群であり、その閲覧はマイクロフィルムによるものしかなかったが、昨年末より その紙焼きが都公文書館において公開されている。その際に詳細な目録が作成されており、今回はそ の目録を精査した。また高松家文書について享保 2 年の屋敷地調査に関わる文書を閲覧し、マイクロ フィルムから紙焼きを行った。 ○日程;2008 年 6 月 11 ~ 13 日 ○調査先;彦根城博物館、彦根市立図書館 ○概要  彦根城博物館において井伊家文書を調査した。彦根藩井伊家の江戸屋敷拝領に関する史料や辻番に 関する史料を得た。また大老井伊直弼宛に諸大名・旗本から屋敷拝領や相対替の願書が提出されてお り、これらから屋敷地所有の問題を考えることができる。この他、江戸留守居の記録が大量に遺され ており、享保期の記録を閲覧した。これらの原文書・紙焼き史料ともにデジタルカメラによる撮影を 行った。そのほか彦根藩藩士であった八木原家文書、中村家文書、宇津木家文書を閲覧・撮影した。 彦根市立図書館では江戸屋敷の絵図などを閲覧・撮影した。

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 井伊家文書  30124 池田頼方・石谷穆清内慮窺書(安政 6)  27223 佐々木顕発屋敷一件留書(安政 5)  9 寄合勤方万留帳(享保 2 年 9 月~ 10 月)   10 寄合勤方万留帳(享保 2 年 11 ~ 12 月)  11 御城使寄合留帳(享保 3 年正月~ 2 月)   など 36 点  宇津木三右衛門家文書 14 点  平田町町代中村家文書 3 点  八木原太郎右衛門家文書 11 点 ○日程;2008 年 6 月 17 日 ○調査先;国文学研究資料館 ○概要  真田家文書および津軽家文書の調査を行った。真田家文書は信濃松代藩に伝わる文書で、このうち 道普請に関する史料について文書の整理が昨年度に済み公開されたので、これを閲覧・撮影した。津 軽家文書は陸奥弘前藩に伝わった文書で、このうち江戸屋敷相対替に関する史料を調査した。本研究 課題において弘前市に調査に赴く予定であるので国文学研究資料館所蔵史料との並行利用が効果的で ある。  真田家文書 う 51 ~ 56、こ 205 計 7 点  津軽家文書 543 ~ 550、638、1890、2273 計 11 点 ○日程;2008 年 6 月 26 ~ 27 日 ○調査先;茨城県立歴史館 ○概要  一橋徳川家文書を調査した。同文書群は御三卿のひとつ一橋家に遺された史料である。これに江戸 赤坂溜池組合の名簿が嘉永 4 年(1851 年)から慶應 3 年(1867 年)まで断続的に 12 冊遺されている。 赤坂溜池組合は赤坂溜池の浚渫を行う組合で、武家 100 家以上により構成される、江戸最大規模の組 合である。同組合についてはこれまで真田家文書(国文学研究資料館蔵)および内藤家文書(明治大 学博物館蔵)から検討を進めてきたが、一橋徳川家文書を加えることで組合組織の全貌がつかめるこ ととなった。このほか屋敷替に関する文書を閲覧・撮影した。なお特筆すべきことに寛政 3 年の相対 替史料から巣鴨および白山近辺の絵図を見出したことがある。

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 一橋徳川家文書  I1-16 拝領屋敷抱屋敷之部 安永 7 ~寛政 12  I1-50 赤坂溜池常浚出銀高并組合姓名高附帳(嘉永 4)  I1-51 赤坂溜池常浚出銀高并組合姓名高附帳(嘉永 5)  I1-52 赤坂溜池常浚出銀高并組合姓名高附帳(嘉永 7)   など 34 点 ○日程;2008 年 7 月 9 ~ 11 日 ○調査先;弘前市立図書館 ○概要  弘前藩津軽家の史料を調査した。同文書群には弘前藩庁日記(江戸日記)が寛文年間(1661 年~) から幕末まで遺されている。今回の調査では享保 2 年(1717 年)10 月に幕府が触れた抱屋敷規制令 への対応をみるため、享保 2 年 10 月~翌 3 年 9 月まで一年間の日記を閲覧した。他藩の日記とは異 なり、ひと月分の日記が 100 丁以上ある詳細なものである。紙焼きを閲覧し、必要な部分をコピーし た。また、江戸屋敷図などについても調査した。日記は大部で詳細なものであり、11 月に再度調査 に赴いた。  津軽家文書  弘前藩庁日記(江戸日記)  TK203-50 亀戸村柳島村抱屋敷絵図  TK215-103 大川端土井大炊頭屋敷譲請一件   など 6 点   ○日程;2008 年 9 月 5 ~ 7 日 ○調査先;新潟県長岡市立中央図書館文書資料室 ○概要  長岡市立図書館文書資料室互尊文庫にて長岡藩の江戸屋敷関係資料を調査した。藩主牧野家文書よ り明治期に江戸時代の屋敷を調査したものを得た。また調査の過程で家老河井継之助が江戸撤退時に 江戸屋敷を売却したとの記事が得られた。この売却がどのようなものであったのか、今後調査するこ とで維新期の江戸屋敷の状況が明らかになると思われる。  牧野忠昌家文書  102-122 神田同朋町拾九番地抱地書類  101-121 旧来之御屋敷御尋ニ付取調一巻   ほか

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○日程;2008 年 10 月 13 ~ 15 日 ○調査先;秋田県公文書館 ○概要  久保田藩佐竹家の史料を調査した。江戸屋敷相対替の史料を閲覧し、デジタルカメラによる撮影を 行った。元禄期のものが一点あったほかは、いずれも近世後期のものであった。これらからは屋敷替 の手続きや過程を知ることができると同時に屋敷に付属するものとして、上水の問題や辻番について どのような対処を行ったかがわかる。このほか明治維新期の江戸屋敷関係史料を得ることができた。  AS310-159 新堀村御邸御用不相成御達  AS324-6 御屋敷相対替ニ関スル書類   など 19 点 ○日程;2008 年 11 月 3 ~ 6 日 ○調査先;弘前市立図書館 ○概要  弘前藩津軽家の史料を閲覧した。弘前藩庁日記(江戸日記)のうち、貞享 2 ~ 3 年、天明 6 年のも のを閲覧した。貞享期のものは、同年に行われた江戸屋敷書上令への対応を知るためであり、関係記 事を得ることができた。天明期のものは、抱屋敷役人足負担令への対応を知るためであったが、関係 記事はなかった。日記以外では、屋敷拝領時の祝儀関係史料、江戸の大名間の交際史料などを得た。 これらは原本からデジタルカメラによる撮影を行った。津軽家文書は膨大であり、引き続き調査を行っ ていく必要がある。  津軽家文書  弘前藩庁日記(江戸日記)  TK387-4 大川端御屋鋪就御拝領御祝儀御規式帳  TK519-1〔本所横川端屋敷内埋樋場所替伺〕   など 9 点 ○日程;2008 年 11 月 25 日 ○調査先;筑波大学附属図書館 ○概要  この調査では「諸家例集」(ヨ 216-213)全 66 冊を閲覧した。同史料は『国書総目録』に収載され ているが、これまで利用されてきたことはなかったようである。閲覧の結果、同史料は筑波大学が師 範学校時代に受け入れたものであることがわかり、その時代に購入あるいは寄贈を受けたもののよう である。署名や印、表紙や奥付の様子から同史料は岡崎藩江戸留守居役が、各大名家からの情報を書 き留めたものであることが判明した。江戸幕府の政治は先例を最重要視するものであり、各藩留守居

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はこれに対して組合をつくって情報を交換した。ここから辻番についても多くの事例を拾うことが できる。1000 丁以上に及ぶ史料であり、マイクロフィルム撮影と紙焼きを筑波大学図書館に依頼し、 12 月末に紙焼きを受け取った。 ○日程;2008 年 12 月 2 ~ 5 日 ○調査先;福井県立図書館 ○概要  松平文庫の調査を行った。これは越前福井藩松平家に遺された史料群である。江戸屋敷に関わる史 料では、これまで『東京市史稿』で断片的な記述しか判明しなかった享保期における拝領屋敷の上地 に対する替地不下賜について、詳細が判明した。その論理は「屋敷数多」というもので、当初の「拝 領」屋敷が持っていた意味が、質から量へ転換し、この時すでに下賜─拝領の構造は崩壊しかけてい たことを露呈する史料であった。そのほか、辻番に関する史料を得た。  松平文庫  M32-36 御門前喧嘩一件(文化 6 年)1 冊  M42-37 江戸御屋敷御条目類(文化)1 冊  M74-46 御屋鋪絵図 嘉永 6 18 枚 1 綴   など 13 点 ○日程;2008 年 12 月 17 ~ 19 日 ○調査先;山口県文書館 ○概要  毛利家文庫の閲覧・撮影を行った。まず長州藩江戸若林抱屋敷関係史料を閲覧した。これは平成 18 年度井上円了記念研究助成による成果、研究ノート「長州藩江戸若林抱屋敷について」をより深 める内容の史料であった。この他、辻番、屋敷地所有、赤坂溜池組合、上水組合関係などの史料を得 た。毛利家文庫から引き出せる情報は膨大であり、継続的な調査を行う必要がある。  毛利家文庫  41-7(37-32)16 赤坂玉川上水御組合  41-7(37-9)41 北品川御抱屋敷被成御払候事  41-6(8-3)21 麻布御屋敷前捨子仕候事   など 19 点  このほか、国会図書館において旧幕引継史料の閲覧・コピー、明治大学博物館において内藤家文書 の閲覧・コピー、明治大学附属図書館において自治体史や史料目録などのコピーを本研究課題におい て複数回行っている。

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4.史料紹介

 ここでは、本研究課題「江戸大名屋敷と都市公共空間に関する基礎的研究」による成果の一端とし て、大名屋敷と捨子についての史料を紹介する。捨子は大名屋敷門前に遺棄されたものであるが、そ こは往還であり公共空間と言える。もっとも、この場合、大名屋敷を頼っての遺棄であるが、これへ の大名家側の対応をみることで、公共空間と大名屋敷との関係の一端を見ることとしたい。  史料は毛利家文庫(山口県文書館蔵)からで、「公儀事諸控」の部分である。この「公儀事諸控」とは、 毛利家が公儀(幕府)との間で起こった種々の事件や、願、届などを年代別にまとめたものである。 現存のものは万治 2 年(1659)から天保 2 年(1831)までで総点数は 261 冊に及ぶ。これについては 近年、細目録が刊行され、研究の便が飛躍的に向上した(山口県文書館編『公儀事諸控総目次』Ⅰ・ Ⅱ、毛利家文庫目録別冊 1・2、1999・2000 年)。研究者はこの細目録を繰ることで、時期的なもので あれ、特定のテーマについてであれ、網羅的に知ることができるようになった。江戸に関するもので も既に、中野達哉「江戸の大名屋敷と捨子」(江戸東京近郊地域史研究会編『地域史・江戸東京』岩 田書院、2008 年)が出ている。これは公儀事から捨子関係記事を網羅的に拾い上げたもので、そこ から大名屋敷と捨子の関係を考察したものである。本史料紹介はそれに学びながら、その内のひとつ の事例を深く掘り下げようとするものである。  では史料の内容を紹介しよう。寛政 5 年(1793)5 月 14 日、長州藩毛利家若林村抱屋敷の門前に 捨子が見つかった。若林村(現世田谷区若林)は、八王子千人同心頭志村氏の知行地であり、抱屋 敷とは拝領屋敷と異なり武家などが百姓地を独自に購入したものを言う。長州藩は寛文 12 年(1672) にここに都市部の屋敷罹災に備えた「用心屋敷」として百姓地を購入していたのであった。そのため 屋敷と言っても内部は田・畑・林が大部分を占めていた(拙稿「長州藩江戸若林抱屋敷について」世 田谷区立郷土資料館『資料館だより』48、2008 年)。  捨子は早朝に見廻りの者が発見し、「御屋代」榎本吉右衛門に通達された。この榎本吉右衛門は太 子堂村の通称「壱石百姓」と呼ばれる榎本家あるいはその分家の者と考えられる。天正末年にこの地 に草分けとして豊島郡石神井の関村百姓与右衛門が移住してきたが、これが榎本家の先祖である。与 右衛門は徳川氏蔵入地の野米場を開発したのであった。その後、慶安 4 年(1651)太子堂村の幕領 1 石分と野米場 5 俵分が彦根藩井伊家領に編入されることとなった。ここにおいて榎本家は幕領から彦 根藩領の百姓となったのであった(森安彦『幕藩制国家の基礎構造』吉川弘文館、1981 年、第 1 編 第 3 章)。  さて榎本吉右衛門であるが、寛文 5 年(1665)段階の榎本家は本家彦右衛門家と分家吉兵衛家とに 分かれている。その後の家系は不詳であるが、吉右衛門を一族と考えて間違いはなかろう。この吉右 衛門は「御屋代」だと言う。これは御屋敷の代人、屋敷預り、屋敷守と言うほどの意味であろう。彦 根藩領太子堂村の百姓榎本吉右衛門は長州藩若林抱屋敷の屋敷預りであった。  話を捨子に戻して、榎本吉右衛門が長州藩に捨子発見を届け出たところ、見分のため公儀人・筆者 役・作事方役人・棟梁がやってきた。その結果、捨子は当歳(0 歳)と思われ、健康状態は良好であった。

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そして「御屋敷内百姓次郎左衛門妻」が乳持ちであったため、これに預けたのである。「御屋敷内百姓」 とは、この長州藩の抱屋敷の中に居る百姓ということであろう。前述のように田・畑・林からなる抱 地であり、これらの管理のために内部には百姓を住まわせていたのである。すなわち武家屋敷のなか に住む百姓ということになる。  翌 15 日、御頼入の目付である間宮信好に捨子を届け出た。先に捨子は 14 日早朝に発見とあった が、この届では 14 日昼ころに発見となっている。これは見分の長州藩役人が実際に見たのが昼ころ で、その時点が藩にとっては正式な発見ということになるのであろう。目付からは捨子貰人が現れれ ば、また届け出るよう指示された。  その後幸いにもすぐに貰人が現れた。西久保神谷町の家主野村屋與五兵衛が、矢倉方に願い出たの である。矢倉方とは長州藩の江戸屋敷の組織のひとつで、米や銀など諸物資や財政に関わる部門であ る。この矢倉方を通した長州藩出入の商人等から捨子の情報が市中へ出たのであろう。西久保神谷町 (現港区虎ノ門)は長州藩の桜田上屋敷と麻布中屋敷に程近い。  貰人登場を目付に報告したところ、勝手次第となった。野村屋の請人には同じ西久保神谷町の相良 屋傳左衛門が立ち、捨子は引き取られた。或いは、この請人相良屋が長州藩矢倉方出入の商人であっ たか。この時、毛利家から野村屋へ門札(定札)と米 2 俵が渡されている。この門札とは長州藩江戸 屋敷出入のための札である。野村屋はこれまで出入の商人ではなかったのである。門札は大と小を作 り、諸道具か、商売かを届け出るよう指示されている。諸道具と商売の区別は判然としないが、諸道 具とは小間物などの販売をするもので、商売とは蔬菜など食品を販売するものであろうか。門札交付 とは、屋敷出入の権利と言うことであるから、或いはこれをまた売却する可能性もあるが、捨子に附 属したものであるからそれはなかろう。  若林抱屋敷の仁右衛門へも金 200 疋が下されている。その理由に捨子を暫く預かっていたとあるこ とから、これは先の次郎左衛門を誤って記したものであろう。若林抱屋敷には百姓家が 2 軒あったこ とが判明している(拙稿「長州藩江戸若林抱屋敷について」前掲)。仁右衛門と次郎左衛門がその 2 家であったと思われる。 凡例 ・合字の「より」は「ヨリ」とした。 ・( )は松本が補ったものである。 【史料】毛利家文庫(山口県文書館蔵)41 公儀事 16(40-12)より抜粋 九  若林村御抱屋敷御門前捨子有之御届之事     付り西ヶ久保神谷町野村屋與五兵衛江被遣候事 一寛政五丑年五月十四日、武州荏原郡若林村志村又左衛門殿御知行所之内、御抱屋敷御門前ニ捨子有

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之候段、早朝見廻り之者見当り、早速御屋代榎本吉右衛門江相達、彼者より届出候、依之為見分公 儀人楢崎丹下、筆者役三浦勘左衛門、作事方役人中尾七郎左衛門并棟梁一同罷越見分致候処、当歳 子と相見、随分丈夫ニ付、御屋敷内百姓次郎左衛門妻乳有之候ニ付、先彼方江預置、捨有之候場所 ハ御囲ひ通六間程入込、御門外貫抜際ニ捨有之由、孰れ罷帰相届候事、 一右之趣ニ付、四(五)月十五日、御目付間宮諸左衛門殿(信好)、(割書)「御目付御頼入也」、江左 之通御届書、公儀人市川七右衛門持参、御用人太田彦兵衛を以申入差出候之処、被成御承知候、貰 入(人)有之候ハヽ猶又被申聞候様ニと被仰聞候ニ付、及相応、罷帰候事、 松平義二郎(斉房)、武州荏原郡若林村、志村又左衛門様御知行所之内、抱屋敷門前ニ当歳子与 相見候男子、昨十四日昼時比、捨有之候付、早速屋敷内ニ入、介抱申付置候、為御届申上候、以上、       御名内    五月十五日     市川七右衛門 一右之通御届相成候処、西ヶ窪神谷町家主野村屋與五兵衛と申者、幸実子無之ニ付、右捨子貰請養育 仕度段書付を以、矢倉方迄願出候、依之左之通書付五月廿日市川七右衛門、御目付間宮殿江持参差 出候之処、勝手次第差遣候様、尤貰人江相渡候段御届ニハ不及段申聞ニ付、及相応、罷帰候事、      覚        西久保神谷町家主       野村屋     貰主     與五兵衛        同町       相良屋     請人     傳左衛門 右先達而御届申上候義二郎、武州荏原郡若林村志村又左衛門様御知行所之内、抱屋敷門前ニ捨有 之候当歳子与相見候男子、右之者貰養育仕度之由申候付、遣可申与奉存候、依之申上候、以上、       御名内    五月廿日       市川七右衛門 一右ニ付、野村屋(與脱)五兵衛ヨリ相願候通、右捨子被遣候間、左之通証文取置引渡候、尤現書ハ矢 倉方江有之候事、      差上申証文之事   一此度若林御屋鋪様御門前江男子之捨子御座候処、貰請養育仕候者も御座候ハヽ被遣候由承及、 幸私儀実子被(無)御座候、何卒申請実子ニ仕度段願上候得者、御吟味之上願之通私江被下置、 則引受申所実正ニ御座候、然上者幾々随分大切ニ養育仕、御屋敷様江毛頭御世話相懸ヶ申間鋪 候、右小児私方江被下置候ニ付、御慈悲を以御門札壱枚并御米弐俵御添へ被下置難有頂戴仕候、 若此者病気等御座候歟、尚又病死等仕候ハヽ、早速 御屋鋪様江御届ヶ可申上候、依之右之条 以墨付差上申候、為後日仍而如件、

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    寛政五年丑ノ     西久保神谷町家主      五月廿一日       野村屋與五兵衛    前書之通相違無御座候、随分大切ニ養育致せ可申候、若不埒之儀御座候ハヽ、私共何ヶ様ニも 被仰出候共申分無御座候、為其加判入置申候、如件、        西ヶ久保神谷町家主傳左衛門店        相良屋       傳左衛門印    御矢倉様     御役人中様   一壱人定札壱枚   一米弐俵       野村屋        与五兵衛   右此度捨子貰候付、右之通相添被遣候事、    但定札之儀者大小仕立、諸道具歟、商売之儀申出候事、   一金弐百疋       若林御屋敷百姓        仁右衛門   右捨子彼者江暫被成御預ヶ、何角遂心遣候付、前格も有之、前書之通被遣候事、 (以上)

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