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Title 平安中期の屏風絵と屏風歌の関係 : 網代を例として Author(s) 田島, 智子 Citation 詞林. 57 P.1-P.19 Issue Date Text Version publisher URL

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Title

平安中期の屏風絵と屏風歌の関係 : 網代を例として

Author(s)

田島, 智子

Citation

詞林. 57 P.1-P.19

Issue Date 2015-04

Text Version publisher

URL

https://doi.org/10.18910/54507

DOI

10.18910/54507

rights

Note

Osaka University Knowledge Archive : OUKA

Osaka University Knowledge Archive : OUKA

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/

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はじめに 九世紀末から十一世紀の初頭にかけて、屏風歌が大流行す る。屏風歌とは、四季の景物や行事・名所を描いた大和絵屏 風 (ま れ に 大 和 絵 障 子) の 絵 に 対 し て 詠 ん だ 歌 の こ と で あ る。 障子歌も含めて、屏風歌と称する。主に専門歌人が朝廷や権 門貴族の依頼を受けて詠む。その歌は能書家によって色紙形 に揮毫され、屏風に押された (「押す」とは貼ること) 。 屏風歌は勅撰集・私撰集・私家集などの和歌資料に残って いるため、集めて整理することで、これこれの屏風に詠まれ た歌はこれこれと、ある程度復元することができてい る ( 1 ) 。 しかし、大和絵屏風の方は残念ながらまったく残っていな い。かろうじて平安時代の屏風絵をしのばせる貴重な遺品と し て、 「神 護 寺 山 水 屏 風」 (平 安 末 か ら 鎌 倉 初 期 成 立 ( 2 ) ) が あ る。 秋の帖だけ現存しており、山々や川、丘陵、野辺が全体に描 かれ、その合間に木々や草花、鹿、水鳥などの自然の風物、 人の家、訪問者、小鷹狩する人、田を守る農夫、七夕、網代 を 打 つ と こ ろ な ど の 人 間 の 営 み が、 細 密 に 描 か れ て い る ( 3 ) (本 稿末尾図1に、 第四扇第五扇のみ掲載) 。「平等院鳳凰堂扉絵」 (天 喜 元 年(一 〇 五 三 年) 造 立) に 描 か れ た「九 品 来 迎 図」 も、 部 分的に自然景が描かれており、やはり当時を知る貴重な遺品 であるが、同じく風景の中に自然の風物、人間の営みが描か れている (図3に一部分を掲載) 。 さて、このような屏風絵は、武田恒夫氏が『屏風絵にみる 季 節 ( 4 ) 』の中で「季節表現の手法を古代の和歌に発想を得た屏 風絵」 と述べておられるように、 大きく捉えると和歌の題材・ 発想が屏風絵として絵画化されていた。しかし、詳細に分析 することで見えてくる歌と絵の関係があるだろう。本稿では、 後世の絵も参考にしながら、屏風歌と屏風絵の関係について 改めて考えてみたい。 考察の対象として、 網代を取り上げる。 網代は屏風歌によっ て和歌世界に導入された新しい題材であり、絵と歌が新たな

平安中期の屏風絵と屏風歌の関係

――網代を例として――

       

田島

 

智子

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平安中期の屏風絵と屏風歌の関係(田島) 表現を獲得していった過程が見えやすく、両者の関係も明ら かにしやすいと考えるからである。 網代とは、魚を取るための仕掛けである。網代木と呼ばれ る杭を、水流を横切ってハの字型に打ち込み、中央に 簀 す を張 る。魚が中央に導かれて簀に上がったところを捕える。平安 時代には近江国 田 た な か み 上 と山城国宇治が有名であり、九月から十 二月まで設置され、琵琶湖から流れ出る鮎の稚魚を取る。鮎 の稚魚はその透き通った姿から 氷 ひ お 魚 と呼ばれ、珍重された。 朝廷に献上する氷魚を受け取るために氷魚の使いが派遣され、 九月九日の重陽の宴や十月初旬の残菊の宴に下賜され た ( 5 ) 。 なお、論者は屏風歌の流行期を、活躍した歌人や歌の詠み 方の変化に基づいて、次の三期に分けられると考えている。 本稿でもこの分類を用いている。網代の屏風歌は、拾遺集時 代には例がなく、本稿で考察の対象とするのは、古今集時代 と後撰集時代である。 古 今 集 時 代 (九 世 紀 末 か ら 十 世 紀 前 半) …… 古 今 和 歌 集 撰 者とその同時代人が活躍。紀貫之、凡河内躬 恒、壬生忠岑、素性、伊勢、藤原兼輔、源公 忠、大中臣頼基など。 後 撰 集 時 代 (十 世 紀 後 半) … … 後 撰 和 歌 集 撰 者 と そ の 同 時代人が活躍。源順、清原元輔、大中臣能宣、 壬生忠見、中務、藤原元真、源信明、藤原清 正、平兼盛、恵慶、右大将道綱母、源重之、 源兼澄など。 拾 遺 集 時 代 (十 一 世 紀 初 頭) … … 拾 遺 和 歌 抄・ 拾 遺 和 歌 集の撰者とその同時代人が活躍。藤原公任、 花山院、藤原高遠、藤原輔尹、大中臣輔親、 源道済、大江嘉言、藤原長能、和泉式部、藤 原道長、紫式部、赤染衛門など。 一、網代と白波 『古 今 和 歌 集』 に 網 代 の 歌 が 一 例 も な い こ と が 示 す よ う に、 網代は当時詠まれていない題材であった。歌人はどう詠むべ きかとまどったはずである。しかし、先例がないわけではな かった。 『万葉集』に網代の歌が三首あり、そのうち、 柿 本 朝 臣 人 麿 従 二 近 江 国 一 上 来 時 至 二 宇 治 河 辺 一 作 歌 一首 物 モ ノ ノ フ 乃 部 能 ノ   八 ヤ ソ ウ ヂ カ ハ 十 氏 河 乃 ノ     阿 ア ジ ロ ギ 白 木   尓 ニ   不 イ サ ヨ フ 知 代 経   浪 ナ ミ   乃 ノ   去 ユ ク ヘ 辺   白 シ ラ ズ 不   母 モ (万葉集   巻三   雑歌   二六六) (新撰和歌三〇一、 人 丸 集 二 一、 古 今 和 歌 六 帖 一 六 四 五、 新 古 今 和 歌 集 一 六 五 〇、 和歌童蒙抄な ど ( 6 ) ) という人麿歌は、 『新撰和歌』 (紀貫之撰) や『古今和歌六帖』 に収載されていることから、当時広く知られていたことがわ か る。 「宇 治 川 の 網 代 木 に 波 が 遮 ら れ、 滞 っ て い る、 そ の 波 の行方はどうなるのだろう」と網代の波に無常を感じている。 この歌では、網代と波が取り合わされている。さらに、新日

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本古典文学大系『万葉 集 ( 7 ) 』脚注によると、 「網 代」 の ロ は 乙 類。 こ こ の 表 記「白」 の ロ は 甲 類。 即 ち仮名遣いに疑問がある。 〈中略〉 。結句の 「知らず」 を「不 知」 と 書 か ず、 「白 不」 と 書 い た 表 記 も や や 奇 異 の 感 を 伴 う。 「白」 の 字 を 二 回 繰 り 返 し 使 用 し て、 波 頭 の 白 さ を視覚的に強調しようとしたのであろう 。 とのことである。貫之や躬恒が『万葉集』での表記を見るこ とができていれば、白波をもイメージしたであろう。 はたして、古今集時代の屏風歌に、網代に白波が寄ること を詠んだ歌がある。 あしろ   紅 葉 は   の な か れ て 落 る   あ し ろ   に は   白 波   も ま た よ ら ぬ 日 そなき (貫之集Ⅰ四四四) 【 76天慶二年宰相中将敦忠屏風(九 三九年) 】 人 〻 舟にのりてあしろにいけり 棹 さ し て き つ る 所 は   白 波   の よ れ と ゝ ま ら ぬ   あ し ろ   な り け り (貫 之 集 Ⅰ 四 五 七) 【 79天 慶 四 年 正 月 右 大 将 実 頼 屏 風(九 四一年) 】 あしろ 山 風 の い た く 吹 お ろ す   あ し ろ   に は   白 波   さ へ そ よ り ま さ りける (貫之集Ⅰ四八三) 【 81天慶四年三月内裏屏風(九四一 年) 】 しかし、この三例が詠まれたのは、古今集時代も終わり頃 である。網代という新しい題材に対峙した時、屏風歌歌人が まず拠り所としたのは、先行歌ではなかったのである。 二、網代と紅葉 では、もっとも早い時期の網代の屏風歌はどうであったか。 それは、紅葉と取り合わせる歌であった。 か は か み に 時 雨 の み ふ る   あ し ろ   に は   紅 葉 ゝ   さ え そ 落 ま さ り け る (躬 恒 集 Ⅳ 七) 【 10延 喜 五 年 二 月 十 日 右 大 将 定 国 四 十賀屏風(九〇五年) 】 この歌は「上流に時雨ばかりが降る網代には、時雨で増し た水が流れ落ちるだけでなく、時雨で落とされた紅葉までも が流れ落ちることだ」と訳せよう か ( 8 ) 。このような網代に紅葉 が寄せる屏風歌はたくさんある。屏風歌名を省略するが、古 今集時代に貫之集Ⅰ一六 九 ( 9 ) ・貫之集Ⅰ三三三・貫之集Ⅰ三九 八・貫之集Ⅰ四四四、後撰集時代に元輔集Ⅲ七四・順集Ⅰ七 四・朝忠集Ⅰ五二・兼盛集Ⅰ一五二・能宣集Ⅱ一六・能宣集 Ⅰ三二六がそうである。網代の定番的な詠み方だったことが わかる。 具体的にどのような絵だったのか。参考になるのは、清涼 殿 の 弘 廂の 北 端 に あ る荒 海 障 子 北面 (南 面 は足 長 手 長 図) の 宇 治網代図である。実物は彩色が剥落してほとんど見えないが、 京都市立芸術大学芸術資料館所蔵の土佐派絵画資料中に、安 政 二 年 (一 八 五 五 年) の 土 佐 光 清 に よ る 粉 本 が あ る (図 5) 。

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平安中期の屏風絵と屏風歌の関係(田島) それによると、網代木が川にハの字型に打ち込まれている。 中心の簀の上には屋根があって、簡単な小屋のようになって いる。紅葉は一面というほどではないが、川面を漂い、簀に 向かって流れ込んでいる。 この絵様がいつの時代まで遡れるかという問題について考 えてみたい。浅井岑治氏が早くに、 網代の構造、網代守、そのうしろの桶、その下につない だ 小 舟 等 全 く、 清 涼 殿 の 図 と 同 じ で あ る。 〈中 略〉 断 定 はできぬが、荒海の障子と石山寺縁起絵と、両者の図に は関係があると私には見られるのであ る )(( ( 。 と荒海障子の網代図と石山寺縁起絵の網代図の近さを指摘さ れている。さらに、荒海障子網代図右上の宇治橋と、本稿に は掲載していないが石山寺縁起絵巻の宇治橋の構図も似てい る。拡大して見ると、網代守の手の先に描かれた、簀に上ろ う と し て い る 魚 の 大 き さ・ 位 置 ま で 似 て い る (図 6・ 図 8) 。 しかし、石山寺縁起絵巻には、川面の紅葉や魚影は描かれて おらず、荒海障子の方が複雑な絵様である。また、清涼殿に 置く障子の絵を絵巻から写し取ることは考えにくい。ゆえに、 清涼殿の宇治網代図が先であり、石山寺縁起はそれを元にし て描いたと推定する。相澤正彦氏「石山寺縁起絵巻第四・五 巻の絵師につい て )(( ( 」によると、五巻の絵師は粟田口隆光で、 制作時期は南北朝末期から室町時代初頭とのことである。土 佐光清の粉本によって知られる荒海障子の網代図は、少なく とも南北朝までは遡るだろう。 さて、平安時代の大和絵屏風は、前述したように細密なも のであった。荒海障子の網代図のようにゆったりと描くこと はできなかったはずである。それでも紅葉は赤色で示すこと ができる。細密な屏風絵であっても、網代に紅葉が寄ってい る様子を描くことは可能だっただろう。 では、網代と紅葉の取り合わせはなぜ生まれたのか。当時、 晩秋から初冬にかけての光景として川を流れる紅葉が、歌に も詠まれ絵にも描かれていた。 『万葉集』 や 『古今和歌集』 に、 次の歌をはじめ多数例がある。 明 ア ス カ ガ ハ 日 香 河     黄 モ ミ ヂ バ 葉   流 ナガル   葛 カ ヅ ラ キ ノ 木   山 ヤ マ 之 ノ 木 コ ノ ハ 葉 者 ハ   今 イ マ ハ チ ル ラ シ 之 散 疑 (万 葉集   巻十   二二一四) 竜 田 河   も み ぢ   み だ れ て 流 る め り わ た ら ば 錦 な か や た え なむ (古今和歌集   秋下   二八三   よみ人しらず) この歌は、ある人、ならのみかどの御歌なりとなむ 申す 絵としては、次の有名な屏風の例がある。 二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風 に たつた河にもみぢながれたるかた をかけりけるを 題にてよめる そせい   も み ぢ ば   の な が れ て と ま る み な と に は 紅 深 き 浪 や 立 つ ら む (古 今 和 歌 集   秋 下   二 九 三) 【2 貞 観 十 一 年 ~ 同 十 八 年 東宮御息所高子屏風(八六九~八七六年) 】

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なりひらの朝臣 ち は や ぶ る 神 世 も き か ず 竜 田 河 唐 紅 に 水 く く る と は (古 今和歌集   秋下   二九四) 【同右】 網代も、晩秋から初冬のもので川のものである。その近さ ゆえに、川を流れる紅葉という光景に、網代という新しい題 材を投入したのだと考える。 それは、屏風絵から始まったのか、屏風歌から始まったの か。屏風絵から始まった可能性が高いと考える。前述したよ うに、網代の先行歌に、波が寄せる様を詠んだ人麿歌があっ た。歌人ならば、同じ川の光景だからと言って紅葉と取り合 わせるより、先行歌に倣って、網代と白波を取り合わせよう とするのではないだろうか。一方、絵であれば、紅葉流れる 川に網代を加えることは、より容易だっただろう。 三、網代に落ちる紅葉 屏風歌の表現に注目しても、絵から歌への影響が見て取れ る。前述の躬恒歌を再掲する。 か は か み に 時 雨 の み ふ る   あ し ろ   に は   紅 葉 ゝ   さ え そ 落 ま さりける (躬恒Ⅳ七) 網 代 に 紅 葉 が 流 れ 込 む こ と を 表 す の に、 「落 つ」 と 表 現 し ている。他に「落つもる」 (貫之集Ⅰ一六九・貫之集Ⅰ三九八) ・ 「落 は て に け れ」 (貫 之 集 Ⅰ 三 三 三) ・「な か れ て 落 る」 (貫 之 集 Ⅰ 四 四 四) ・「落 つ る」 (元 輔 集 Ⅲ 七 四・ 元 輔 集 Ⅲ 一 二 二・ 元 輔 集 Ⅲ一四二) もそうである。 この場合の「落つ」は、木から下に落ちるのではなく、 寛平御時ふるきうたたてまつれとおほせられければ、 たつた河もみぢばながるといふ歌をかきて、そのお なじ心をよめりける おきかぜ み 山 よ り お ち く る 水 の 色 見 て ぞ 秋 は 限 と 思 ひ し り ぬ る (古今和歌集   秋下   三一〇   興風) のように、山から急流に乗って流れ落ちる様を言っている。 貫之に、 「木から落つ」 と 「流れ落つ」 という二種類の 「落 つ」を利用した面白い屏風歌がある。 あしろにもみちのちりいりてなかるゝ所に、人おほ かり ふ た ゝ ひ や   紅 葉 ゝ   は ち る け ふ み れ は   あ し ろ   に こ そ は 落 はてにけれ (貫之集Ⅰ三三三) 【 66承平五年十二月内裏屏風 (九 三五年) 】 「再 び 紅 葉 は 散 る の か。 今 日 見 る と 網 代 に 流 れ 落 ち 果 て て い る よ」 と い う の で あ る が、 「再 び 紅 葉 が 散 る」 と は ど う い う ことか。新潮古典集成『土佐日記   貫之 集 )(( ( 』は「網代に流れ 着いた紅葉が、なおそこから流れ出して散っていくのかと詠 んだところに、知巧的な想像のひろがりがある」とする。詞 書の「網代に紅葉の散り入りて流るる所に」を重視したので あ ろ う。 し か し、 『貫 之 集 全 釈』 ・『貫 之 集 / 忠 岑 集 / 躬 恒 集 /友則 集 )(( ( 』は「木の枝から落ち、川を落ち下って二度散るの

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平安中期の屏風絵と屏風歌の関係(田島) であろうか」とする。論者は後者が妥当と考える。枝から落 ち る の と、 川 を 流 れ 落 ち る の と で は、 「落 つ」 の 意 味 合 い は 異 な る。 そ れ を 承 知 の 上 で、 「ど ち ら も『落 つ』 と 言 う の だ から、どちらも『散る』と言い換えてよかろう」というこじ つけめいた言葉遊びなのである。 このように、貫之もこだわった「落つ」という表現なのだ が、なぜ網代に紅葉が流れ込む様として選び取られたのか。 そしてかくも屏風歌に頻出するのか。 まずは、網代が急流に仕掛けられたという実態を反映して いよう。しかしもう一つ、絵の影響も考えられないか。平安 時代の屏風絵は、山や川といった風景の中にいろいろな場面 が細密に描き込まれていた。 「神護寺山水屏風図」 (図1) や「平 等 院 鳳 凰 堂 扉 絵」 (図 3) で 見 る と、 網 代 が 仕 掛 け ら れ る あ たりの川は、山々と近接して描かれている。急流を強く印象 付けたことだろう。このような絵が、歌人に「落つ」という 表現を選択させた可能性があるだろう。 梁 や な を詠んだ屏風歌にも、同じ特徴がある。梁も魚を捕える 装置であり、浅井峯治氏「平安文学に表れた「網代」につい て )(( ( 」によると、 網代と梁と、その構造は大体、同じではなかったか、い や、同じものをあるいは網代といい、あるいは梁といっ たのではないかと推論するのである。 とのことである。屏風歌では春に設置するものを梁と認識し ていたらしい。 延喜御時屏風に 貫之   や な   見 れ ば 河 風 い た く ふ く 時 ぞ 浪 の 花 さ へ お ち ま さ り け る (拾 遺 集   雑 春   一 〇 六 一) (貫 之 集 Ⅰ 一 一 九) 【 35延 喜 十八年承香殿女御源和子屏風(九一八年) 】 やな は る の た め う て る   や な   に も あ ら な く に な み の は な に も おちつもるらむ (躬恒集Ⅳ三一六) 【 40延長三年頃以前屏風 (九 二五年) 】 と、風に吹かれて波の花までも梁に落ち積もることを詠んで いる。 やはり近接して描かれる山々の影響を考えてよいだろう。 四、氷魚の寄る網代 後撰集時代になると、網代の屏風歌に新たな要素が加わる。 氷魚である。 宇治秋   あ し ろ き   に   ひ を   へ て よ す る   も み ち 葉   ゝ た ち と も し ら ぬ に し き な り け り (兼 澄 集 Ⅰ 六 九) 【 127永 観 元 年 八 月 一 日 頃 一 条大納言為光家障子(九八三年) 】 「氷魚」 と 「日を」 を掛詞にすることと、 氷魚が網代に 「寄 る」と表現することに、特徴がある。この他、元真集一四・ 忠 見 集 Ⅰ 四 八・ 忠 見 集 Ⅱ 九 五・ 能 宣 集 Ⅲ 二 一 〇・ 順 集 Ⅰ 八

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八・蜻蛉日記・詞花集一三七藤原惟成・元輔集Ⅲ九三・能宣 集Ⅲ二九八・元輔集Ⅲ一二二・拾遺集二一 六 )(( ( ・元輔集Ⅲ一四 二・能宣集Ⅰ二三五なども、そうである。 そう詠むようになった背景には、褻の歌の存在があろう。 蔵 人 所 に さ ぶ ら ひ け る 人 の、   ひ を の つ か ひ   に ま か り にけるとて、京に侍りながらおともし侍らざりけれ ば 修理 い か で 猶   あ じ ろ   の   ひ を   に 事 と は む な に に よ り て か 我 を と は ぬ と (拾 遺 集   雑 秋   一 一 三 四) (拾 遺 抄   四 二 一) (大 和物語   八九段) 修理という女性には、蔵人所に勤める恋人がいた。氷魚の 使いに出かけたと言って、京にいながら訪れてこなかったの で、不実を詰る歌を贈った。それは「なんとかして網代の氷 魚に尋ねたい。何によって、どの女に寄って、私を訪ねてこ ないのかと」と、網代に氷魚が寄ることを中心に一首を成し た も の だ っ た。 作 者 の 修 理 は 生 没 年 未 詳 だ が、 元 良 親 王 (八 九 〇 ~ 九 四 三 年) と も 恋 愛 関 係 に あ っ た こ と が 大 和 物 語 九 〇 段からわかり、詠まれたのは一〇世紀前半である。人口に膾 炙したことは、 『蜻蛉日記』で夫の来訪を待つ作者が、 「 い か に し て 網 代 の 氷 魚 の 言 問 は む 」 と ぞ、 心 に も あ ら で う ち い は る る。 (蜻 蛉 日 記   上 巻   天 暦 十 年(九 五 六 年) 九月) と上の句をつい口ずさんでいることから知られる。他にも一 〇世紀前半には、網代の「氷魚」と「日を」を掛詞にした歌、 網代に「寄る」と詠んだ褻の歌がある。 なが月のつごもりの日、もみぢにひををつけておこ せて侍りければ ちかぬがむすめ 宇 治 山 の   紅 葉   を 見 ず は 長 月 の す ぎ ゆ く   ひ を   も し ら ず ぞ あらまし (後撰集   秋下   四四〇) 宇治のあじろにしれる人の侍りければまかりて 大江興俊 う ぢ 河 の 浪 に み な れ し 君 ま せ ば 我 も   あ じ ろ   に   よ り   ぬ べ きかな (後撰集   雑二   一一三六) このような詠み方が、一〇世紀後半、後撰集時代の屏風歌 に取り入れられたのだろう。 では、絵はどうだったか。荒海障子の網代図が好例である。 拡 大 す る と、 紅 葉 と と も に 魚 影 も 描 か れ、 網 代 守 (漁 師) の 手 の 先 に も 簀 に 上 が っ た 魚 が い る (図 6) 。 少 々 大 き い が、 氷 魚 (鮎 の 稚 魚) の つ も り で あ ろ う。 し か し、 大 和 絵 屏 風 に 氷魚が描かれたかは疑問である。まず、屏風歌の詞書を見て みると、 「網代に紅葉が寄るところ」 という詞書はあっても 「網 代に氷魚が寄るところ」という詞書はない。氷魚が描かれな かったからではないだろうか。また、荒海障子は比較的大画 面 (現 在 の 障 子 の 寸 法   縦 一 九 二・ 五 糎   横 一 三 五・ 五 糎) で あ るため魚影を描くことが可能だっただろうが、細密に描く大 和絵屏風では、目立つ色彩でもない魚影をそれとわかるよう

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平安中期の屏風絵と屏風歌の関係(田島) に描くことは難しかったと思われる。 網代に氷魚という新しい要素を加えたのは、屏風歌だった と考える。屏風絵に氷魚が描かれたとは考えにくいが、描か れたとしても屏風歌に追随してのことだろう。網代に氷魚を 取り合わせるという変化は、歌が先行したと推定される。 五、見物される網代 最後に、網代を見物する人々を取り上げる。屏風絵には人 物が描きこまれ、歌がそれら画中の人物の立場で詠まれるこ とがよくあった。網代についても同様である。たとえば、 十月、うちのあしろに 人〳〵あり お し と お も ふ   も み ち   の お つ る   あ し ろ き   を よ り て み る ま に   日 を   や く ら さ む (元 輔 集 Ⅲ 一 四 二) 【 137永 祚 二 年 六 月 以 前 絵(九九〇年) 】 という例では、宇治の網代に人々がいて「惜しいと思いなが らも木から落ちた紅葉、その紅葉が流れ落ちて寄る網代を、 私も寄って見ている間に一日を暮らしそうだ」と、網代の傍 らで日を過ごす心境を詠む。 宇治のあしろに、 女くるまあり、おとこいきあひて ものなといふところ も ろ と も に み れ と か ひ な き   あ し ろ   か な よ る か は 波 に   ひ を   し へ ぬ れ は (忠 見 集 Ⅱ 九 五) 【 102天 徳 四 年 頃 以 前 障 子(九 六〇年) 】 と、男が女車に言い寄る物語的な絵もあった。歌もやはり物 語風に「一緒に見ても甲斐がない網代だよ。網代と言えば波 に氷魚は寄るものだが、私はつれなくされて日を経たものだ から、もうあなたに言い寄るまいよ」と二人の恋模様を想像 させるものになっている。人物を旅人とみなす場合もある。 はしめの冬、あしろのうへに おきなをり わ か や と に あ る へ き も の を こ の   た ひ   の   あ し ろ   に よ り て   日 を   も ふ る か な (元 真 集 一 四) 【 99天 徳 三 年 朱 雀 院 屏 風(九 五九年) 】 と い う 歌 は、 網 代 の 上 の 翁 の 立 場 で 詠 ま れ、 「我 が 家 に い れ ばよいものを、この旅で網代に寄って日を過ごすよ」と旅の 空にいる老人の侘しさがにじむ。網代に接近して家が描かれ ることもあった。 十月、 人のいへのまへに あしろせるところ   ひ を   つ み て   も み ち   を よ す る   あ し ろ   こ そ あ き を と ゝ む る せ き に は あ り け れ (能 宣 集 Ⅲ 二 一 〇) 【 113応 和 二 年 一 月 七 日 ~康保五年六月十三日右兵衛督忠君屏風 (九六二~九六八年) 】 「日 を 重 ね て 氷 魚 と 紅 葉 を 寄 せ る 網 代 こ そ が、 秋 が 過 ぎ て も 秋をとどめてくれる関であったのだなあ」と、家の中から網 代を見物する歌になっている。 このように、網代を見物する人々が描かれたことは確かで あるが、あいにく現存する絵には例を見いだせない。ただ、 元 真 集 の「網 代 の 上 の 翁」 に つ い て は、 「上」 を 字 義 通 り 受

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け 取 れ ば 網 代 の 簀 の 上 で あ り、 「翁」 は 網 代 守 と い う こ と に なる。もしかすると元真歌に対応する絵は、図6・図8のよ うな網代小屋に漁師がいる絵であり、元真は網代守を旅の翁 と み な し た の か も し れ な い。 網 代 の 傍 ら の 家 と し て は、 「平 等 院 鳳 凰 堂 扉 絵   九 品 来 迎 図   下 品 上 生 図」 (図 3) を 参 考 にできる。網代の仕掛けられた川のすぐ傍に家があり、外を 見る人物が描かれている。 網代を見物する人々や網代の傍らの家、という状況設定は、 絵がもたらしたものである。そのおかげで、歌は内容の幅を 広げ、ドラマ性を獲得するに至っている。 六、実際の網代の光景 では、屏風絵のような光景を実際に見ることはできたか。 あふみのかみにてたちに有けるころ、殿上の人 〻 た なかみのあしろにきたりけるに、さけなとすゝむと て な か れ く る   も み ち   の 色 の あ か け れ は   あ し ろ   に   ひ お   の よ るもみえけり (公忠集Ⅰ一三) と い う 歌 は、 源 公 忠 が 近 江 守 在 任 中 (九 四 一 ~ 九 四 四) 、 殿 上 人が 田 た な か み 上 の網代を見物にやってきたので宴を開いた時のもの である。公忠は「流れてくる紅葉の色が赤いので、その明る さで網代に氷魚が寄るさまが夜も見える」と詠んでいる。 うちのあしろにて   も み ち は   の な か る ゝ か は ゝ む は た ま の よ る そ   あ し ろ   の いろは見えける (元真集一六七) という歌も、詞書によると元真が宇治の網代で詠んだもので、 「紅葉の流れている川は、 夜でも網代の赤色が見える」 と歌う。 公忠歌も元真歌も、網代に紅葉を取り合わせており、屏風歌 とそう変わらない風景である。しかし、紅葉が赤いから夜で も氷魚や網代が見える、とはいかにも観念的である。実景で はなく、屏風歌に影響されているだけではないだろうか。 一 方、 次 の 例 は た し か に 実 景 で あ る。 『蜻 蛉 日 記』 作 者 が 初 瀬 詣 で を 思 い 立 ち、 安 和 元 年 (九 六 八) 九 月 某 日 早 朝 出 発、 同日昼に宇治にある夫兼家の別荘に到着した。そして、 車さしまはして、幕など引きて、しりなる人ばかりをお ろ し て、 川 に む か ひ て、 簾 巻 き あ げ て 見 れ ば、   網 代   ど も し渡したり。 ゆきかふ舟どもあまた見ざりしことなれば 、 すべてあはれにをかし 。 (蜻蛉日 記 )(( (   上巻) と、車の簾を巻き上げて宇治川にし渡した網代を見ているの だが、作者が目にし情趣を感じているのは、行き交う舟であ る。帰りも同様で、宇治川に着くと、 霧の下より 例の   網代   も見えたり。 いふかたなくをかし 。 と、 霧の下から現れる網代を見て、 「をかし」 と鑑賞している。 季節は晩秋であるのに、紅葉については言及されていない。 作者が宇治まで迎えに来た夫と交わした歌は、 まづ、かく書きて渡す。

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平安中期の屏風絵と屏風歌の関係(田島) 人 心 う ぢ の   網 代   に た ま さ か に よ る   ひ を   だ に も た づ ねけるかな 舟の岸に寄するほどに、返し、 帰 る   ひ を   心 の う ち に か ぞ へ つ つ 誰 に よ り て か   網 代   をもとふ (蜻蛉日記   同右) と「氷魚」に「日を」を掛けて詠み合っているが、実際に氷 魚 を 目 に し た 形 跡 は な い。 「宇 治 の 網 代 と 言 え ば 氷 魚」 と い う知識に基づいて詠んでいるに過ぎない。その後、宇治にあ る兼家の別荘で精進落としを食べていると、 按察使大納言 (兼 家 の 叔 父 で あ る 藤 原 師 氏) か ら 使 い が あ っ た。 師 氏 も 自 分 の 別 荘に来ていたのである。 川のあなたには按察使大納言の領じたまふところありけ る、 「 こ の ご ろ の 網 代 ご 覧 ず と て、 こ こ に な む も の し た まふ 」 と言ふ人あれば、 「かうてありと聞きたまへらむを、 まうでこそすべかりけれ」などさだむるほどに、 紅葉の い と を か し き 枝 に、 雉、 氷 魚 な ど を つ け て 、「か う も の したまふと聞きて、もろともにと思ふにも、あやしうも のなき日にこそあれ」とあり。 (蜻蛉日記   同右) 師氏は「せっかく宇治に兼家様と奥様がいらっしゃったと いうのに、今日はろくなものがございませんで」と言って、 それでも紅葉の風流な枝に付けて、雉と氷魚を贈ってくれる。 作者が目にする紅葉と氷魚は、風景としてではなく贈り物と してであった。 『更級日記』 でも同様である。 作者は永承元年 (一〇四六年) 十月二十五日に、大嘗会の御禊をよそに初瀬詣でに出発する。 帰途、宇治川を渡る時のことである。 いみじう風の吹く日、宇治の渡りをするに、網代いと近 う漕ぎ寄りたり。 音 に の み 聞 き わ た り こ し 宇 治 川 の   網 代   の   波   も 今 日 ぞかぞふる (更級日記) 作者は、 宇治川を船で渡る時に、 名高い網代に近く漕ぎよっ たことを、感慨深げに書き残す。だが、歌に詠むのは波であ り、十月末か十一月初めという紅葉の季節であるにも拘わら ず、紅葉には触れていない。 作り物語に目を向けても、 『源氏物語』 にも同様の例がある。 匂宮が中君と結ばれてからのことである。 十月一日ごろ、 網代もをかしきほどならむ とそそのかし きこえたまひて、 紅葉ご覧ずべく 申しさだめたまふ。 (源 氏物語   総角巻) 十月一日、 薫は匂宮に 「網代が風情ある頃でしょう」 と言っ て、中君に会いたくてたまらない匂宮に、宇治に出向く機会 を作ってあげる。宇治に到着してからは、 舟にて上り下り、 おもしろく遊びたまふも聞こゆ。 〈中略〉 紅葉を葺きたる舟の飾りの錦と見ゆるに、声々吹き出づ る物の音ども、風につきておどろおどろしきまでおぼゆ。 (源氏物語   同右)

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と、紅葉で飾り立てた舟で上り下りして、管弦の遊びを楽し む。さらに黄昏時になると、 文作らせたまうべきこころまうけに、博士などもさぶら ひけり。黄昏時に、御舟さし寄せて遊びつつ文作りたま ふ。紅葉を薄く濃くかざして、海仙楽といふものを吹き て、おのおの心ゆきたる気色なりに (源氏物語   同右) と、漢詩を作り、紅葉の色の薄いのや濃いのを挿頭にする。 網代や紅葉を見に行くという口実ではあったが、網代に流れ る紅葉を見たという描写はない。 橋姫巻でも、宇治川の網代は晩秋から初冬の風景として何 度も登場するが、紅葉に言及されることはない。 都から見物に行くにしろ、近くに住まいするにしろ、実際 の風景はこうであっただろう。網代に寄せる紅葉や氷魚は、 屏風歌・屏風絵の中だけに存在する。網代の屏風歌は、現実 にはない画中の風景によって定型化されていったのである。 おわりに 以上、網代について屏風歌の詠み方を分析し、後世の絵を 参考にしながら、屏風歌と屏風絵の関係を推定してきた。 網代の屏風歌は、古今集時代に、まず紅葉を取り合わせる という形で始まった。川を流れる紅葉は、晩秋から初冬の光 景として、万葉集から歌われてきた。そのような歌に基づき 屏風絵に川を流れる光景が描かれた。その絵が網代と紅葉と の結びつきを容易にし、網代に寄せる紅葉という絵が生まれ たと考える。そして、絵に先導されて、歌でも網代と紅葉は 結びついたのであろう。 古今集時代の終わり頃には、網代に寄せる波も詠むように なる。当時よく知られていた『万葉集』の人麿歌「もののふ の八十宇治川の網代木にいさよふ波の行方しらずも」に倣っ たものであろう。網代に寄せる紅葉ばかりを詠むことに飽き が来た頃、新機軸を求めて開拓したものと思われる。 後撰集時代には、屏風歌では網代と氷魚とが取り合わされ るようになる。褻の歌での詠み方が、屏風歌に取り入れられ たのである。これは歌から起こった変化であり、屏風絵につ いては、氷魚が描かれたかどうか疑問である。 屏風絵には網代を見物する人も描かれた。古今集時代、後 撰集時代を通じてのことであったが、後撰集時代により多く 例を確認でき、しかもバリエーションが豊富である。見物す る人が、恋の駆け引きをする男女だったり、旅人だったりも した。網代の傍らに別荘が描かれることもあった。このよう な様々な状況設定が、しばしば歌の内容に幅を持たせ、ドラ マ性をもたらしている。 このように、網代の例を詳細に検討してみると、和歌的題 材・発想が絵画化されるばかりではなかった可能性が見えて きた。絵が先行して、歌に紅葉という新しい景物との結びつ きを提供することもあったようである。また、歌によく詠ま

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平安中期の屏風絵と屏風歌の関係(田島) れる氷魚という定番的景物が、絵には描かれないこともあっ たようである。その場合は、歌が絵にはない氷魚を彷彿させ ただろう。以上、推定ではあるが、絵と歌が相互に作用しな がら、網代の典型的な光景を形成していった過程を明らかに してきた。 さらに、そこには見物する人々も描かれていた。画中の人 物は、歌に人事詠的な幅をもたらしたが、それだけでなく屏 風絵や屏風歌を鑑賞する都人に、自分も網代を見物したいと いう欲求を起こさせたことだろう。 しかし、屏風絵と屏風歌が作り出した網代の光景は、けっ して実際の光景そのままではない。都人は網代を見物するこ とに憧れを持ち、実際に訪れているが、網代に紅葉や氷魚が 寄る屏風歌定番の光景を見ることは、まずなかった。それは、 屏風絵と屏風歌が作り上げたフィクションの光景であった。 それでも、網代を見物に行くことで、自分が屏風絵の画中の 人物であるかのような気分を味わったのではないだろうか。 その後、屏風歌の流行が終わり、絵にある変化が見られる。 定番を離れた動的な網代の絵が描かれたのである。神護寺山 水屏風の網代図には、 川中に三人の男が描かれている (図2) 。 泉氏の御研究によると、漁期の直前である八月に網代木を打 ち込んで、準備をしている図であ る )(( ( 。石山寺縁起絵巻にも川 中 に 三 人 の 男 が い る 網 代 の 絵 が あ る (図 9) 。 石 山 寺 が 永 延 年 中 (九 八 七~ 九 八 八 年) に 寺 領 内で の 殺 生 禁止 を 朝 廷 に 申 し 出 た。 建 久 年 中 (一 一 九 〇 ~ 一 一 九 八 年) 、 永 仁 年 中 (一 二 九 三 ~一二九八年) の二度にわたり、 それを守ることを命じている。 その殺生禁止を受けて寺領内の網代を打ち壊している図なの で あ る。 三 人 の 男 が (う ち 二 人 は 僧 侶) 腰 ま で 川 に つ か っ て、 網代木を抜き、簀を流している。網代の整備と破壊と、両者 は正反対の行為であるが、男たちのリアルな動きには共通点 がある。神護寺山水屏風の網代図は、山水屏風でありながら、 絵巻の絵にも通じる大胆な絵様になっている。屏風歌から離 れ、屏風絵は歌には詠まないような光景も描くようになって いったのである。 注 (1) 拙 著『屏 風 歌 の 研 究   資 料 篇』 (和 泉 書 院   二 〇 〇 七 年) に て、 整理一覧したものを提供している。 (2) 神 護 寺 山 水 屏 風 の 制 作 時 期 推 定 の 経 緯 に つ い て は、 「神 護 寺 山 水 屏 風 の 秋 ― 七 夕 と 網 代 ―」 (泉 万 里「M U S E U M   東 京 国 立 博物館研究誌」六三八号   二〇一二年六月)に詳しい。 (3)注(2)に七夕と網代について詳細な指摘がある。 (4) 武 田 恒 夫 氏『屏 風 絵 に み る 季 節』 「第 一 章   和 歌 と 屏 風 絵 ― 古 代 ―   第 一 節   四 季 絵 と 月 次 絵 ―『貫 之 集』 を め ぐ っ て ―」 (中 央公論美術出版   二〇〇八年) (5)網代・梁については、左記の研究が詳しい。 ・ 伊 賀 敏 郎 氏『滋 賀 縣 漁 業 史   上』 「序 説」 (滋 賀 県 漁 業 協 同 組 合 連 合会   一九五四年) ・ 浅 井 峯 治 氏「平 安 文 学 に 表 れ た「網 代」 に つ い て」 (「中 京 大 学 文

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学部紀要   七巻二号   一九七二年一二月) ・『湖 南 の 漁 撈 活 動   琵 琶 湖 総 合 開 発 地 域 民 俗 文 化 財 特 別 調 査 部 報 告書5』 「Ⅱ瀬田川流域」 (滋賀県教育委員会   一九八三年) ・ 西 木 忠 一 氏「田 上 網 代 に つ い て ―『田 上 集』 考(一) 」( 「文 学 研 究(日本文学研究会) 」七三号   一九九一年六月) ・ 苅 米 一 志 氏『荘 園 社 会 に お け る 宗 教 構 造』 「第 一 部 第 二 章   荘 園 社 会 に お け る 神 祇 の 複 合 構 造 ― 山 城 国 宇 治・ 槇 島 郷 を 素 材 と し て」 (校倉書房   二〇〇四年) (6) 和歌本文は、 勅撰集・私撰集は 『新編国歌大観』 、 私家集は 『私 家 集 大 成』 に よ る。 屏 風 の 番 号 お よ び 名 称 は、 拙 著『屏 風 歌 の 研 究   資料篇』注(1)による。 (7) 新 日 本 古 典 文 学 大 系『万 葉 集』 (佐 竹 昭 広 他 校 注   一 九 九 九 年   岩波書店) (8) 『躬 恒 集 注 釈』 (私 家 集 注 釈 叢 刊   藤 岡 忠 美・ 徳 原 茂 実 著 貴 重 本 刊 行 会   平 成 一 五 年) で は、 現 代 語 訳 を「氷 魚 だ け で な く 紅 葉 ま で も が」 と す る が、 古 今 集 時 代 の 屏 風 歌 に は 氷 魚 を 詠 ん だ 歌 は まだない。和歌文学大系『貫之集/忠岑集/躬恒集/友則集』 (平 沢 竜 介   明 治 書 院   一 九 九 七 年) も、 「雨 が 降 っ て 川 の 水 か さ が 増すばかりでなく」としている。 (9) 『貫 之 集』 で は 第 二 句「を と は 見 ゆ れ ど」 と あ り、 意 味 が 通 ら な い。 だ が、 同 歌 は『古 今 和 歌 六 帖』 一 六 四 七・ 『新 拾 遺 集』 五 九〇にあり、第二句「紅葉を見れば」である。 ( 10)注(5)参照。 ( 11)相澤正彦氏「石山寺縁起絵巻第四・五巻の絵師について」 (「日 本美術史の杜」   二〇〇八年九月) ( 12) 新 潮 古 典 集 成『土 佐 日 記   貫 之 集』 (木 村 正 中 著   新 潮 社   一 九八八年) ( 13) 私 家 集 全 釈 叢 書『貫 之 集 全 釈』 (田 中 喜 美 春・ 田 中 恭 子 著   風 間 書 房   一 九 九 七 年) 、 和 歌 文 学 大 系『貫 之 集 / 忠 岑 集 / 躬 恒 集 /友則集』 (田中喜美春著   明治書院   一九九七年) ( 14)注(2)参照。 ( 15)「網 代 木 に か け つ つ 洗 ふ 唐 錦 日 を へ て よ す る 紅 葉 な り け り」 と い う 歌 は、 二 通 り の 詠 歌 事 情 が 伝 わ る。 拾 遺 集・ 拾 遺 抄 で は 清 涼 殿 の 障 子(荒 海 障 子) の 宇 治 網 代 図(図 5) の 読 人 不 知 歌、 十 巻 本 歌 合・ 二 十 巻 本 歌 合・ 能 宣 集 Ⅰ で は 寛 和 二 年 内 裏 歌 合(花 山 院 御時歌合とも)の能宣歌とする。 『拾 遺 抄 注 釈』 (竹 鼻 績 著   笠 間 書 院   二 〇 一 四 年) は 詳 細 に 論 じ た 上 で、 能 宣 が 障 子 絵 を 詠 ん だ 旧 作 を 歌 合 に 提 出 し た と、 結 論 付けている。 論 者 も そ の 可 能 性 が 高 い よ う に 思 う。 た だ し、 竹 鼻 氏 が、 清 涼 殿 荒 海 障 子 南 面 の 手 長 足 長 図 に 歌 が 書 か れ て い な い こ と を 根 拠 に、 北 面 の 宇 治 網 代 図 に つ い て も「そ の 図 に は 歌 が 書 か れ て い な か っ た っ た よ う で あ る」 と さ れ て い る 点 に は 異 論 が あ る。 図 5 に よ る と、 上 部 に 二 枚 の 色 紙 形 が 描 か れ て い る。 形 骸 化 し て は い る が、 色 紙 形 が あ る と い う こ と は、 実 際 に 歌 が 書 か れ る こ と も あ っ た だ ろう。 ( 16)日記・物語は、新編日本古典文学全集(小学館)を使用した。 ( 17)注(2)参照。

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平安中期の屏風絵と屏風歌の関係(田島) 図版出典 【図 1・ 図 2】 ……「神 護 寺 山 水 屏 風」 (神 護 寺 所 蔵) 。「修 理 報 告   国 宝 山 水 屏 風   神 護 寺」 (「修 復 2 号」 岡 墨 光 堂   一 九 九 六 年) よ り 転 載。 各 扇 の 配 列 に 乱 れ を 正 し た 復元後のものによる。 【図 3・ 図 4】 ……「平 等 院 鳳 凰 堂 扉 絵   九 品 来 迎 図 の う ち 下 品 上 生 図」 (平 等 院 所 蔵) 。『日 本 美 術 全 集 7   平 等 院 鳳 凰 堂』 (学 習 研 究 社   二 〇 〇 二 年 新 装 版) 一 五 一 頁 か ら転載。 【図 5・ 図 6】 ……「宇 治 網 代 図   土 佐 光 清」 (京 都 市 立 芸 術大学芸術資料館蔵、土佐派絵画資料) 。 【図7・図8・図9】 …… 「石山寺縁起絵巻   五巻三段」 「同   二 巻 七 段」 (石 山 寺 所 蔵) 。『日 本 の 絵 巻   一 六 巻   石 山寺縁起』 (中央公論新社   一九八八年) より転載。 使用をご許可くださった各方面に、御礼申し上げます。 本 研 究 は、 平 成 二 三 年 度 ~ 二 七 年 度 基 盤 研 究(C) 「平 安 期 における文学と美術の相互関係―文献と文献に近似する現存 美 術 作 品 か ら の 探 求 ―」 (課 題 番 号 2 3 5 2 0 2 6 3) の 成 果の一部です。 (たじま・ともこ   四天王寺大学教授)

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図2 同上 第五扇拡大 網代図 図1 神護寺蔵 山水屏風 第四扇第五扇

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平安中期の屏風絵と屏風歌の関係(田島) 図4 同上 拡大 網代図 図3 平等院鳳凰堂 下品上生図 (九品来迎図の内 扉絵模写部分)

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図6 同上 拡大 網代図 図5 京都市立芸術大学芸術資料館蔵 土佐派絵画資料  内裏 荒海障子北面 宇治網代図

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平安中期の屏風絵と屏風歌の関係(田島) 図8 同上 拡大 網代図 図7 石山寺蔵 石山寺縁起 五巻三段 網代図

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図9 石山寺蔵 石山寺縁起 二巻七段 網代図

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