香 川 大 学 経 済 論 叢 第68巻 第 2・3号 1995年11月 713-732
ハイネ『イギリス断章』
*I考
一 一 ー そ の イ ン グ ラ ン ドf
象 に つ い て 一 一 一高 木 文 夫
1827年 4月12日 ハ イ ネ は 伯 父 か ら の 資 金 や 知 り 合 い に 宛 て た 紹 介 状 を 手 に ロ ン ド ン へ と 旅 立 つ 。 そ れ ま で に ド イ ツ 国 内 や ポ ー ラ ン ド な ど 各 地 を 旅 行 し て き た ハ イ ネ に と っ て 今 回 の 旅 は 当 時 の ヨ ー ロ ツ パ の 最 先 端 を い く 工 業 国 イ ン グ ラ ン ド の 首 都 へ の 旅 行 と い う こ と で , 期 待 を 胸 に 勇 躍 足 を 運 ぶ 。 彼 が イ ン グ ラ ン ド を 旅 の 目 的 地 に 選 ん だ 理 由 と し て , こ の 国 や そ こ に 住 む 人 々 を よ く 知 り た い と い う こ と は も ち ろ ん , 英 語 を 上 達 さ せ る こ と , そ し て 当 時 世 界 で 最 も 進 ん で い る と 考 え ら れ て い た 議 会 制 度 を 熟 知 し よ う と い う こ と が 挙 げ ら れ る 。 彼 に は す で に 戯 曲 『 ウ ィ リ ア ム ・ ラ ト ク リ アW
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年)という イ ン グ ラ ン ド を 主 な 舞 台 に し た 作 品 が あ り , ま た 当 時 の , パ イ ロ ン な ど の イ ン グ ラ ン ド の ロ マ ン 主 義 文 学 に も 深 い 関 心 を 寄 せ て い た 。 そ の 一 方 で1827年 初 め は 様 々 な 波 紋 を 投 げ か げ た 『 旅 の 絵R
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第 2巻を出版した直後で, *1 イギリス」という通常使用されている呼称は本来その実態は畷昧なところがある(例 えば,村岡健次・川北稔編著『イギリス近代史一宗教改革から現代まで J (ミネルヴ ァ書房 1986年)の「はじめに」でのことわりがき,あるいは長島伸一『大英帝国 最 盛期イギリスの社会史J(講談社現代新書 1989年)86 -87ページ,井野瀬久美恵編『イ ギリス文化史入門1(昭和室 1994年)3 -8ページを参照)。また, ドイツ語のくEng-land>及びその形容詞 <englisch>は狭義の「イングランド」と広義の「イギリス」の 両方の意義を持っている。ハイネが『イギリス断章』でそのどちらの意義でこの言葉を 使用しているかは明確ではないが,この作品全体はほとんどが狭義の「イングランド」 に限られており,またその 方で一般的に言って,グレートブリテン烏及びアイルラン ドでイングランドが次第に他の地方を圧倒し,併呑していった過程を考えるとイギ リス」または「大英帝国Jにおけるイングランドの指導的な役割は非常に大きく,小論 ではいわゆる「イギリス」をイングランドが主体の固と考えて論を進めていく。従って, 文中では「イングランド」と「イギリス」の双方の訳語を適宜使い分けるが,従来『イ ギリス断章』で「イギリス」の訳語が与えられていた箇所もおおくのところで「イング ランド」という名称で引用される。 香 川 大 学 経 済 論 叢 第68巻 第 2・3号 1995年11月 713-732ハイネ『イギリス断章』
*I考
一一ーそのイングランドf
象について一一一高 木 文 夫
1827年 4月12日ハイネは伯父からの資金や知り合いに宛てた紹介状を手に ロンドンへと旅立つ。それまでにドイツ国内やポーランドなど各地を旅行して きたハイネにとって今回の旅は当時のヨーロッパの最先端をいく工業国イング ランドの首都への旅行ということで,期待を胸に勇躍足を運ぶ。彼がイングラ ンドを旅の目的地に選んだ理由として,この国やそこに住む人々をよく知りた いということはもちろん,英語を上達させること,そして当時世界で最も進ん でいると考えられていた議会制度を熟知しようということが挙げられる。彼に はすでに戯曲『ウィリアム・ラトクリアW
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年)という イングランドを主な舞台にした作品があり,また当時の,パイロンなどのイン グランドのロマン主義文学にも深い関心を寄せていた。その一方で1827年初 めは様々な波紋を投げかげた『旅の絵R
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第 2巻を出版した直後で, *1 イギリス」という通常使用されている呼称は本来その実態は畷昧なところがある(例 えば,村岡健次・川北稔編著『イギリス近代史一宗教改革から現代まで J (ミネルヴ ァ書房 1986年)の「はじめに」でのことわりがき,あるいは長島伸一『大英帝国 最 盛期イギリスの社会史J(講談社現代新書 1989年)86 -87ページ,井野瀬久美恵編『イ ギリス文化史入門1(昭和室 1994年)3 -8ページを参照)。また, ドイツ語のくEng-land>及びその形容詞 <englisch> は狭義の「イングランド」と広義の「イギリス」の 両方の意義を持、コている。ハイネが『イギリス断章』でそのどちらの意義でこの言葉を 使用しているかは明確ではないが,この作品全体はほとんどが狭義の「イングランド」 に限られており,またその 方で一般的に言って,グレ トブリテン烏及びアイルラン ドでイングランドが次第に他の地方を圧倒し,併呑していった過程を考えるとイギ リス」または「大英帝国Jにおけるイングランドの指導的な役割は非常に大きく,小論 ではいわゆる「イギリス」をイングランドが主体の固と考えて論を進めていく。従って, 文中では「イングランド」と「イギリス」の双方の訳語を適宜使い分けるが,従来『イ ギリス断章』で「イギリス」の訳語が与えられていた箇所もおおくのところで「イング ランド」という名称で引用される。- 714一一 香川大学経済論叢 910 ハイネは不安な気分に陥っていた。それも彼にイングランド旅行を思い切らせ た事情であるO ハンプやルクを出発したハイネは翌々日の4月14日にロンドンに到着し,そ の日から4カ月あまりのイングランド滞在が始まる。当時のイングランドはま だヴィクトリア女王の治世を迎えてはいなかったが,すでに他国に先んじて前 世紀より産業革命が進展し,首都ロンドンは「世界の首都」として未曾有の繁 栄を誇っていた。すでに 18世紀の半ば頃から産業革命が進展し始めたこの国 を訪れた多数の外国からの来訪者と同じように,ハイネはロンドンに完全に圧 倒されてしまう。 「ロンドンはまったくその大きさの点で私の期待をすべて凌ぎました。しか し,私は自分を見失いませんでした。 J
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,8/266)
*2 彼は到着後から夏までの滞在中に伯父から紹介された人々を訪ね歩くととも に,ロンドン一一町中を歩くだけでなく,議会を傍聴したり,裁判所や刑務所 を見学したりしている一一ーやその他のいくつかのイングランドの地方を歩き回 り,この国の実状を知ろうとする。 最初のうちはイングランドについては文章は書かないと言っていたハイネだ が,ロンドンを離れる直前にその言を翻し,イングランドの印象記を書き始め る。それは,彼が編集に関わり,記事も書いていた雑誌『新一般政治年誌N
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olitische Annalen ~への掲載から始まり,他の雑誌にも分散して*
2 小論に使用したハイネの著作は以下のテキストによる。引用に当たっては, (B, 5/ 12)のように引用箇所の末尾に,版の名前,巻数及び,ページ数を記した。なお,版の 略称は以下の文献表の各末尾に文字で記しである。Heinrich Heine Werke und Bnefe zn zeh刀Banden.Hrsg. v. Hans Kaufmann. Berlin/Weimar (Aufbau) 1980くWuB> Heinrich Hei四eSamtllche 5ch幻ifte向 . Hrsg. v. Klaus Briegleb. Munchen (Hanser) 1976.くB> なお小論での引用にあたっては『ハイヰ散文作品集』第一巻(松綴社 1989年)所収 のもの(久山秀貞訳)を使用させていただいたが,
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1でも記したような理由などから 訳文を変更した箇所があることをお断りしておく。 - 714一一 香川大学経済論叢 910 ハイネは不安な気分に陥っていた。それも彼にイングランド旅行を思い切らせ た事情であるO ハンプ、ルクを出発したハイネは翌々日の4月14日にロンドンに到着し,そ の日から4
カ月あまりのイングランド滞在が始まる。当時のイングランドはま だヴィクトリア女王の治世を迎えてはいなかコたが,すでに他国に先んじて前 世紀より産業革命が進展し,首都ロンドンは「世界の首都」として未曾有の繁 栄を誇っていた。すでに18世紀の半ば頃から産業革命が進展し始めたこの国 を訪れた多数の外国からの来訪者と同じように,ハイネはロンドンに完全に圧 倒されてしまう。 「ロンドンはまったくその大きさの点で私の期待をすべて凌ぎました。しか し,私は自分を見失いませんでした。 J(WuB
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*2 彼は到着後から夏までの滞在中に伯父から紹介された人々を訪ね歩くととも に,ロンドン一一町中を歩くだけでなく,議会を傍聴したり,裁判所や刑務所 を見学したりしている一一ーやその他のいくつかのイングランドの地方を歩き回 り,この国の実状を知ろうとする。 最初のうちはイングランドについては文章は書かないと言っていたハイネだ が,ロンドンを離れる直前にその言を翻し,イングランドの印象記を書き始め る。それは,彼が編集に関わり,記事も書いていた雑誌『新一般政治年誌N
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1でも記したような理由などから 訳文を変更した箇所があることをお断りしておく。911 ハイネ『イギリス断章』考 715 掲載される
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これらの一連のイングランドに関する文章は後に1
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年に『イ ギリス断章E
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Fragmente~ としてまとめられ,まず r旅の絵』の「補 遺」として,さらに1
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年にその再版を機に同シリーズの第4
巻として収録 される。この作品は1
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年のイングランド旅行から生まれたもので,本とし て出版されるまでに数年のタイムラグがあるが,この間にパリの七月革命とい う重要な事件があり, ドイツにも遅ればせながら社会情勢に新しい風が吹き始 めていた。 小論はこのように誕生した『イギリス断章』をもとに,産業革命がヨーロツ パで、最も早く進展し,議会制政治も他国に先んじながら,その一方で、いつまで も貴族制度を残すイングランドがハイネの目にどのように映っていたかをいく つかの側面について考察を試みようとするものである。 『イギリス断章』は表題の通り,一つ一つの「断章F
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が集まって イングランド社会を多層的にとらえるという形式になっており 一見全体的 なまとまりに欠けるようにみえるが,注意深く読めばそうでないことは自ずと 分かつてくる ,各「断章」もそれぞれ相互に内容の面でいくらかの重複を 含みながら,モンタージュ風に,そして巧みで適切な比輸を交えながらイング*
3 イギリス断章J(1830年)を構成する各章は次の通りである。 (1) テムズ河での対話 (2 ) ロンドン ( 3) イングランド人 (4) ウオルター・スコ yト著 Iナポレオン・ボナパル↑の生涯』 (5 ) オールド・ペイリー (6 ) 新内閣 (7) 負債 (8 ) 野党 (9 ) カトリック解放 (10) ウェリントン (11) カースト制度の解放 (12) あとがき このうち,最後の(10)-(12)は本としてまとめる際に検閲逃れのために分盤を増やす べく書き足したものである。 911 ハイネ『イギリス断章』考 715 掲載されるJ3
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年のイングランド旅行から生まれたもので,本とし て出版されるまでに数年のタイムラグがあるが,この間にパリの七月革命とい う重要な事件があり, ドイツにも遅ればせながら社会情勢に新しい風が吹き始 めていた。 小論はこのように誕生した『イギリス断章』をもとに,産業革命がヨーロツ パで、最も早く進展し,議会制政治も他国に先んじながら,その一方で、いつまで も貴族制度を残すイングランドがハイネの目にどのように映っていたかをいく つかの側面について考察を試みようとするものである。 『イギリス断章』は表題の通り,一つ一つの「断章F
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3 イギリス断章J(1830年)を構成する各章は次の通りである。 (1) テムズ河での対話 (2 ) ロンドン ( 3) イングランド人 (4) ウオルター・スコ yト著 Iナポレオン・ボナパル↑の生涯』 (5 ) オールド・ペイリー (6 ) 新内閣 (7) 負債 (8 ) 野党 (9 ) カトリック解放 (10) ウェリントン (11) カースト制度の解放 (12) あとがき このうち,最後の(10)-(12)は本としてまとめる際に検閲逃れのために分盤を増やす べく書き足したものである。- 716 香川大学経済論叢 912 ランドの様々な問題点を取り上げている。 作品全体の導入部分であり,最後の「あとがき」とともに作品全体に対し一 つの枠組みを与えている,第一章「テムズ河での対話」は,語り手のイングラ ンド体験にとって,これから始まる実際の見聞に対する一種のショックを用意 している。まず,語り手と同じ船に乗り合わせた「黄色い男」との対話により 作品全体の重要なテーマの一つ「自由」の問題を中心に,イングランドがどの ようなところかが論じられ r自由」が本書のキーワードであることが明らか にされる。「私」はロンドン到着が間近になった船の上甲板に立ち,ょうやく 「自由の国」イングランドへやってきたことに感激し,叫び声をあげる。 「こんにちは!ょうこそ,自由よ,若やいだ世界の新しい太陽よ!J (B, 2 /533) しかし r黄色い男」はそんな「私」に冷水を浴びせかけるように言う。 「感激屋だね,君は。君には,自分の求めているものがみつけだせないでしょ う。 J(B
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2/533) この二人の発言は「自由」というテーマを論じる道筋から言えば,一方がテー ゼ、を提示すれば,他方がそれに対抗するアンチテーゼを提出するという方法に 拠って組み立てられる。どちらかの意見が著者の意見を代弁しているというわ けではない。この章では「自由」の問題について,イングランド, ドイツ,ブ ラシスのそれぞれの固における「自由」の捉え方が「黄色い男」の口を借りて 対比的に*4的確な比喰を持って説明される。彼に拠ればイングランドの人々 が考え,所有する「自由」とは「個人的な自由」であり r自分たちのもっと*
4 一つの問題について考察を進める際にドイツ,フランス,そしてイングランド(イギ リス)の三つの国あるいは国民の性向を比較対照させる方法はハイネの場合この後の『プ ランスの状態 FranzosischeZusfande Jにも見られるが,読む者に未知の国の新しい知 識を与える際に,読者の既知のこと,とくに彼が住む土地(ここではドイツ)との比較 対照もこのようなジャンルの場合必ず、用いられる方法である。 - 716 香川大学経済論叢 912 ランドの様々な問題点を取り上げている。 作品全体の導入部分であり,最後の「あとがき」とともに作品全体に対し一 つの枠組みを与えている,第一章「テムズ河、での対話」は,語り手のイングラ ンド体験にとって,これから始まる実際の見聞に対する一種のショックを用意 している。まず,語り手と同じ船に乗り合わせた「黄色い男」との対話により 作品全体の重要なテーマの一つ「自由」の問題を中心に,イングランドがどの ようなところかが論じられ r自由」が本書のキーワードであることが明らか にされる。「私」はロンドン到着が間近になった船の上甲板に立ち,ょうやく 「自由の国」イングランドへやってきたことに感激し,叫び声をあげる。 「こんにちは!ょうこそ,自由よ,若やいだ世界の新しい太陽よ!J (B, 2 /533) しかし r黄色い男」はそんな「私」に冷水を浴びせかけるように言う。 「感激屋だね,君は。君には,自分の求めているものがみつけだせないでしょ う。 J (B,
2/533) このこ人の発言は「自由」というテーマを論じる道筋から言えば,一方がテー ゼを提示すれば,他方がそれに対抗するアンチテーゼを提出するという方法に 拠って組み立てられる。どちらかの意見が著者の意見を代弁しているというわ けではない。この章では「自由」の問題について,イングランド, ドイツ,ブ ラシスのそれぞれの固における「自由」の捉え方が「黄色い男」の口を借りて 対比的に判的確な比喰を持って説明される。彼に拠ればイングランドの人々 が考え,所有する「自由」とは「個人的な自由」であり r自分たちのもっと*
4 一つの問題について考察を進める際にドイツ,フランス,そしてイングランド(イギ リス)の三つの国あるいは国民の性向を比較対照させる方法はハイネの場合この後の『プ ランスの状態 FranzosischeZusfande Jにも見られるが,読む者に未知の国の新しい知 識を与える際に,読者の既知のこと,とくに彼が住む土地(ここではドイツ)との比較 対照もこのようなジャンルの場合必ず用いられる方法である。持ぷ 913 ハイネ『イギリス断章』考 717-も個人的な権利を保証してくれる自由でト満足」する。すなわち,彼らは「我が 家は我が城」との言い習わしのように自分たちの個人的な自由が外界から守ら れていさえすればよいのである。 それに対しフランス人の考える「自由」には 必ず「平等」がともなっていなくてはならない。むしろ彼らには一一温和なイ ングランド人にとってはさして重要ではない一一「平等」 こそが第ーであるか のよう。「黄色い男」は 「ドイツ人は自由も平等も必要ではありません。彼らは思弁的な国民であり, 観念論者であり,徹頭徹尾考える人であり,過去と未来にのみ生き,現在をま ったくもたない夢想家です。 J (B,
2/535)
とドイツ人にとっての「自由」と「平等」を説明してドイツ人を邦検する。「私」 はさらに続けて「自由」を「女性」になぞらえ,巧みな比日前でドイツ, イング ランド, フランスのそれぞれの国民がどう「自由」を扱うかを説明する。 その 説明に拠れば, フランス人は「自ら選んだ許嫁」のように扱い r彼女を熱愛 し,燃え上がり,誇張も甚だしい誓いをたてて足元にひざまずき, 命をかけて その味方となり,彼女のためにはいかなる愚行をもやってのける。」そしてド イツ人は「自分の年老いた祖母」に接するように「自由」を愛するのに対し, イングランド人は「正妻」のように rたとえ特別やさしく取り扱わないにし ても, いざという場合には,男として彼女を擁護する方法を知っている。」こ の比験の巧みさは一一ハイネの他の多くの例のように一一一これに対する「私」 の返答にみごとに表現される。 「偏屈なイングランド人は,自分の妻にあきあきして,いつかはその首に縄 を巻き付けて, スミスフィールドの市に売りに出すかも知れません。軽薄なフ ランス人は愛する許嫁を裏切って彼女の元を去り,歌いかっ小躍りしながら, パレ・ロワイ、ヤ/レの女官の元へ出かけるかもしれません。 ドイツ人はしかし, 老いた自分の祖母を決して家の外へ追い出したりはしないのです。 J (B, 2 913 ハイネ『イギリス断章』考 717-も個人的な権利を保証してくれる自由でト満足」する。すなわち,彼らは「我が 家は我が城」との言い習わしのように自分たちの個人的な自由が外界から守ら れていさえすればよいのである。それに対しフランス人の考える「自由」には 必ず「平等」がともなっていなくてはならない。むしろ彼らには一一温和なイ ングランド人にとってはさして重要ではない一一「平等」こそが第ーであるか のよう。「黄色い男」は 「ドイツ人は自由も平等も必要ではありません。彼らは思弁的な国民であり, 観念論者であり,徹頭徹尾考える人であり,過去と未来にのみ生き,現在をま ったくもたない夢想家です。 J(
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とドイツ人にとっての「自由」と「平等」を説明してドイツ人を邦検する。「私」 はさらに続けて「自由」を「女性」になぞらえ,巧みな比日前でドイツ,イング ランド,フランスのそれぞれの国民がどう「自由」を扱うかを説明する。その 説明に拠れば,フランス人は「自ら選んだ許嫁」のように扱い r彼女を熱愛 し,燃え上がり,誇張も甚だしい誓いをたてて足元にひざまずき,命をかけて その味方となり,彼女のためにはいかなる愚行をもやってのける。」そしてド イツ人は「自分の年老いた祖母」に接するように「自由」を愛するのに対し, イングランド人は「正妻」のように rたとえ特別やさしく取り扱わないにし ても,いざという場合には,男として彼女を擁護する方法を知っている。」こ の比験の巧みさは一一ハイネの他の多くの例のように一一一これに対する「私」 の返答にみごとに表現される。 「偏屈なイングランド人は,自分の妻にあきあきして,いつかはその首に縄 を巻き付けて,スミスフィールドの市に売りに出すかも知れません。軽薄なプ ランス人は愛する許嫁を裏切って彼女の元を去り,歌いかっ小躍りしながら, パレ・ロワイヤ/レの女官の元へ出かけるかもしれません。ドイツ人はしかし, 老いた自分の祖母を決して家の外へ追い出したりはしないのです。 J(
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- 718 香川大学経済論叢 914 /537) 「私」のこのような, ドイツを擁護しているように聞こえるものの言い方一一 ハイネのこのような発言にはいつも注意が必要で,その文言どおりに受け取る ことは時には避けなければならないーーには旅にでて少し望郷の念にとらわれ た者の気持ちが現れている。しかし,この後にもドイツ人の考える「自由」が, 「夢の中」の産物であるという言葉を添えることも決して忘れられていない。 このように「自由」の問題に関してドイツ,フランス,イングランドの比較が されているが,どこの「自由Jが優れているかよりも,それぞれの「自由」の 特質,互いの相違点を照らし合わせることの方が重要であるO 何故なら,この ような比較対照によってより一層イングランドの「自由」の性格が明らかにな るからであり,この全体の導入部分で「私」の感激に見られるようなヨーロツ パ大陸で一般的だと思われるイングランド観, r (放任的)自由の国イングラン ド」という見方に変更を加えることが『イギリス断章』の狙いでもあり,その ために「私」と「黄色い男」の弁証法的対話が繰り広げられるからである。こ の章の終わりに「黄色い男」はとりあえず「自由と平等ですって? そんなも のはこの地上にもないし,あの天上にもありっこないのですJ (B, 2/537) と結論づけるが,これはここから始まるイングランドの実態の報告によってそ の是非が次第に明らかになる。やがて彼らの乗る船はロンドンに到着するO 『イギリス断章』の舞台はほとんどがロンドンである。イングランドの首都 のみならず r世界の首都」としてヨーロッパの他の国々の人々から注目され ていた大都会であるので,ハイネの関心がロンドンにある程度集中することは 当然であるが,まさにこの町はイングランドの光と影を体現していた。 第二章「ロンドン」は驚嘆の言葉から始まる。 「私は,不思議なものを見た。そもそも驚嘆を知る人にこの世が示しうるも - 718 香川大学経済論叢 914 /537) 「私」のこのような, ドイツを擁護しているように聞こえるものの言い方一一 ハイネのこのような発言にはいつも注意が必要で,その文言どおりに受け取る ことは時には避けなければならないーーには旅にでて少し望郷の念にとらわれ た者の気持ちが現れている。しかし,この後にもドイツ人の考える「自由」が, 「夢の中」の産物であるという言葉を添えることも決して忘れられていない。 このように「自由」の問題に関してドイツ,フランス,イングランドの比較が されているが,どこの「自由Jが優れているかよりも,それぞれの「自由」の 特質,互いの相違点を照らし合わせることの方が重要であるO 何故なら,この ような比較対照によってより一層イングランドの「自由」の性格が明らかにな るからであり,この全体の導入部分で「私」の感激に見られるようなヨーロツ パ大陸で一般的だと思われるイングランド観, r (放任的)自由の国イングラン ド」という見方に変更を加えることが『イギリス断章』の狙いでもあり,その ために「私」と「黄色い男」の弁証法的対話が繰り広げられるからである。こ の章の終わりに「黄色い男」はとりあえず「自由と平等ですって? そんなも のはこの地上にもないし,あの天上にもありっこないのですJ (B, 2/537) と結論づけるが,これはここから始まるイングランドの実態の報告によってそ の是非が次第に明らかになる。やがて彼らの乗る船はロンドンに到着するO 『イギリス断章』の舞台はほとんどがロンドンである。イングランドの首都 のみならず r世界の首都」としてヨーロッパの他の国々の人々から注目され ていた大都会であるので,ハイネの関心がロンドンにある程度集中することは 当然であるが,まさにこの町はイングランドの光と影を体現していた。 第二章「ロンドン」は驚嘆の言葉から始まる。 「私は,不思議なものを見た。そもそも驚嘆を知る人にこの世が示しうるも
915 ハイネ『イギリス断主主』考 - 719ー っとも奇妙なもの,私はそれを見た。そして今もなおその驚きが続いている。 今も私の記憶の中にはず、っと,家々のひしめくこの石の森,押し合いへしあい その合聞をゆく人々の生き生きした顔の流れがこびりついている。ありとあら ゆる多彩な情熱を秘め,愛や飢えや憎しみのぞ、っとするような衝動にせきたて られ,人々の顔が流れてゆく一一,ロンドン,私はこの町のことを言っているの だ。 J(B
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2/538) 「私」の見たロンドンは想像を絶する場所だったことは,上にヲ│いたハイネの 手紙にあるとおりであり,ここにはその折の具体的な印象が後から整理され, 適切な描写と比目前によって記されている。ロンドンは大勢の人々がひっきりな しにうごめく町であり,牧歌的な大陸からやってきた田舎者にはまさしく「生 き馬の目を抜く」ような慌ただしさが支配していた。 「ロンドンに詩人を送ってはならない。あらゆる事物のこのむき出しの深刻 さ,途方もないこの単調ふ機械仕掛けのこの動き,喜びそのもののこの不愉 快さ,過激なこうしたロンドンが詩人の空想を圧殺し,その心を引き裂いてし まうからだ。 J (B, 2/538) ロンドンの持つ近代的な工業化社会に特有のおぞましさが詩人から詩的想像力 を奪うだろうという「私」のことばだが,果たしてこれはそのまま受け止めら れ る こ と だ ろ う か ? この数年後ハイネはゲーテ時代の文学を「芸術時代 KunstperiodeJ (WuB, 8 /356)の文学であるとして,自分たちの世代の文 学とは異なると述べることになるが*うゲーテの死(1832年)に象徴される 一つの時代の終鷲が訪れようとする時期に当たって,ロンドンに送るべきでは ないとされた「詩人」とはいったいどのような詩人だ、ったのであろうか? 新 しい社会は新しい文学を要求し,実際に生み出す。その最もよい例がこのハイ*
5 拙稿「ハイネにおけるゲ、 テー一一『ロマン派』における Goethe-Abschni ttを中心に して一一J ( ,香川大学 般教育研究」第25号 1984年)79 -80ページを参照されたい。 915 ハイネ『イギリス断主主』考 - 719ー っとも奇妙なもの,私はそれを見た。そして今もなおその驚きが続いている。 今も私の記憶の中にはず、っと,家々のひしめくこの石の森,押し合いへしあい その合聞をゆく人々の生き生きした顔の流れがこびりついている。ありとあら ゆる多彩な情熱を秘め,愛や飢えや憎しみのぞ、っとするような衝動にせきたて られ,人々の顔が流れてゆく一一,ロンドン,私はこの町のことを言っているの だ。 J(B,
2/538) 「私」の見たロンドンは想像を絶する場所だったことは,上にヲ│いたハイネの 手紙にあるとおりであり,ここにはその折の具体的な印象が後から整理され, 適切な描写と比目前によって記されている。ロンドンは大勢の人々がひっきりな しにうごめく町であり,牧歌的な大陸からやってきた田舎者にはまさしく「生 き馬の目を抜く」ような慌ただしさが支配していた。 「ロンドンに詩人を送ってはならない。あらゆる事物のこのむき出しの深刻 さ,途方もないこの単調ふ機械仕掛けのこの動き,喜びそのもののこの不愉 快さ,過激なこうしたロンドンが詩人の空想を圧殺し,その心を引き裂いてし まうからだ。 J (B, 2/538) ロンドンの持つ近代的な工業化社会に特有のおぞましさが詩人から詩的想像力 を奪うだろうという「私」のことばだが,果たしてこれはそのまま受け止めら れ る こ と だ ろ う か ? この数年後ハイネはゲーテ時代の文学を「芸術時代 KunstperiodeJ (WuB, 8 /356)の文学であるとして,自分たちの世代の文 学とは異なると述べることになるが*うゲーテの死(1832年)に象徴される 一つの時代の終鷲が訪れようとする時期に当たって,ロンドンに送るべきでは ないとされた「詩人」とはいったいどのような詩人だ、ったのであろうか? 新 しい社会は新しい文学を要求し,実際に生み出す。その最もよい例がこのハイ*
5 拙稿「ハイネにおけるゲ、 テー一一『ロマン派』における Goethe-Abschni ttを中心に して一一J ( ,香川大学 般教育研究」第25号 1984年)79 -80ページを参照されたい。720 香川大学経済論叢 916 ネの『イギリス断章』そのものである。従コて,このロンドンで空想力を圧殺 される詩人とはそんな新しい社会情勢に対応しきれない古い時代の詩人のこと だろう。「私」が詩人の代わりに派遣せよと指名したのは「哲学者」である。 そして,その「哲学者」に何をさせようとするのだろうか? 「哲学者を送って,チープサイドの一角に立たせて見よ,そうすれば,せん だってのライプチヒ見本市のすべての本から得た知識より,もっと多くのこと が学べるはずだ。人間の大波が彼のまわりに押し寄せてざわめくように,新し い思想の海が彼の自の前に展開するであろう。その海面をただよう永遠の霊気 が彼に吹き寄せるであろうし,社会秩序のもっとも奥底に潜む秘密が,突如と して啓示されるであろう。彼はこの世の鼓動を耳で聞き取り,目で見ることが できるだろう。なぜなら,ロンドンがこの世界の右手,つまり活動的で、強力な 手であるとするならば,証券取引所からダウニング街に通じるあの通りは,世 界の動脈と見ることができるからである。 J (B, 2/538) 思弁に長けた哲学者であれば,街角に立って人々の慌ただしい動きを眺めるだ けで,人々をそのような行動に駆り立てる社会の秘密が理解できるだろう。そ こには書物の世界に閉じこもって,理屈をこね回す, ドイツの哲学者へのハイ ネ一流の皮肉を読みとることもできる。ロンドンは従来のような詩人の想像力 を押し潰し,哲学者に新しい社会の仕組みについて考えさせる,他に例を見な い町であり,世界でもっとも繁栄を謡歌する町であり,十九世紀という新しい 時代の新しい思考,新しい美学を要求しているのだ。 「私」はそれでも「いろいろと聞いていたロンドンの素晴らしさには驚くま いと心に決めていたJ(B, 2/540)が,実際のロンドンを見て,それまでの 予想がことごとく覆されてしまう。そこで見たものは慌ただしさにせき立てら れ,人を押しのけても進もうとする人々であり,単調な生活であり,富裕と貧 困の極端なコントラストであった。 720 香川大学経済論叢 916 ネの『イギリス断章』そのものである。従コて,このロンドンで空想力を圧殺 される詩人とはそんな新しい社会情勢に対応しきれない古い時代の詩人のこと だろう。「私」が詩人の代わりに派遣せよと指名したのは「哲学者」である。 そして,その「哲学者」に何をさせようとするのだろうか? 「哲学者を送って,チープサイドの一角に立たせて見よ,そうすれば,せん だってのライプチヒ見本市のすべての本から得た知識より,もっと多くのこと が学べるはずだ。人間の大波が彼のまわりに押し寄せてざわめくように,新し い思想の海が彼の自の前に展開するであろう。その海面をただよう永遠の霊気 が彼に吹き寄せるであろうし,社会秩序のもっとも奥底に潜む秘密が,突如と して啓示されるであろう。彼はこの世の鼓動を耳で聞き取り,目で見ることが できるだろう。なぜなら,ロンドンがこの世界の右手,つまり活動的で、強力な 手であるとするならば,証券取引所からダウニング街に通じるあの通りは,世 界の動脈と見ることができるからである。 J (B, 2/538) 思弁に長けた哲学者であれば,街角に立って人々の慌ただしい動きを眺めるだ けで,人々をそのような行動に駆り立てる社会の秘密が理解できるだろう。そ こには書物の世界に閉じこもって,理屈をこね回す, ドイツの哲学者へのハイ ネ一流の皮肉を読みとることもできる。ロンドンは従来のような詩人の想像力 を押し潰し,哲学者に新しい社会の仕組みについて考えさせる,他に例を見な い町であり,世界でもっとも繁栄を謡歌する町であり,十九世紀という新しい 時代の新しい思考,新しい美学を要求しているのだ。 「私」はそれでも「いろいろと聞いていたロンドンの素晴らしさには驚くま いと心に決めていたJ(B, 2/540)が,実際のロンドンを見て,それまでの 予想がことごとく覆されてしまう。そこで見たものは慌ただしさにせき立てら れ,人を押しのけても進もうとする人々であり,単調な生活であり,富裕と貧 困の極端なコントラストであった。
91'7 ハイネ『イギリス断章』考 -721-「ロンドンの大通りばかりを歩き,本来の貧民地区に足を踏み入れないよそ 者は,ロンドンに現存する大変な貧困についてはまったくの無知か,あるいは 知っていてもごくわずか,ということになる。 J
(
B
,2/542)
「私」はロンドンの高級住宅街ウエスト・エンドから貧民街までを歩き回り, ロンドンの姿の真実を知る。多くの旅行客が表通りのきらびやかな繁栄を体現 する場所しか見ないで,イングランドを知った気分になるのに対し r私」は この繁栄を支える裏面も観察する*60 まるでこの国は二つの国民から成ってい るようだ。一方にはこの国の繁栄を思う存分享受する人々がいる一一童れを抱 いてロンドンを見る外国からの旅行客には一般にこの輝かしくまばゆい側面し か見えないーーかと思えば,他方には汚物にまみれた貧民街に住みその日のパ ンに事欠く人々がいる。彼ら双方は同じ町の目と鼻の先に居住し,生活を送り ながら,日常的にあいふれあうこともなく,殊に富裕な人々は貧しい人々の存 在を気にとめないか,あるいは気づかない振りをしている。 それでもこの当時のロンドンはすでにイングランド工業の中心ではないJ7
産業革命の進展にともなう環境汚染や移しい貧困という工業化社会の裏面はむ しろ国内北部のヨークシア及びランカシア地方により悲惨な状況で現れ始めて いる。このときハイネが自にしたのはほぼ十年後にヱンゲノレスやヴ、エーノレトが 観察した*8工場地帯の汚濁まみれの悲惨ではない。そこにあるのは急激に人 口が集中し,併せて国内外の富が集積する大都会ロンドンの実態である。この*
6 ロンドンのこのような実態への注目は,後のエンゲルスやヴェール卜の先駆をなしτ
いる。 VglGerhard Hohn: Hezne-Handbueh -Zeit, Per.¥on, Werk.Stuttgart (Metzler) 1987. S.214*
i Vgl。喜安朗・川北稔『大都会の誕生 出来事の歴史像を読むJC有斐閣選書768)1986年*
8 エンゲルス『イギリスの労働者階級の状態DだLageder arbeztend仰, Klassein Eng-landJ (1845年 なおこの原題のくEngland>も本来ならば「イングランド」と翻訳す べきである。岩波文庫版訳者解説参照)及びヴェールト『イギリス・スケッチ Skizzen aus dem sozzalen und ρolztischeηLeben der Briten1 (1848年)を参照されたい。なお, 同じようにロンドンの裏通りを摘写してみても,ハイネの記述は, 1840年代初頭のロン ドンの悲惨を系統的に,かつ徹底的に暴いたフローラ・トリスタンの『ロンドン散策 Promenades dans LondresJ (1840年)の比ではない。 91'7 ハイネ『イギリス断章』考 -721-「ロンドンの大通りばかりを歩き,本来の貧民地区に足を踏み入れないよそ 者は,ロンドンに現存する大変な貧困についてはまったくの無知か,あるいは 知っていてもごくわずか,ということになる。 J(
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「私」はロンドンの高級住宅街ウエスト・エンドから貧民街までを歩き回り, ロンドンの姿の真実を知る。多くの旅行客が表通りのきらびやかな繁栄を体現 する場所しか見ないで,イングランドを知った気分になるのに対し r私」は この繁栄を支える裏面も観察する*60 まるでこの国は二つの国民から成ってい るようだ。一方にはこの国の繁栄を思う存分享受する人々がいる一一童れを抱 いてロンドンを見る外国からの旅行客には一般にこの輝かしくまばゆい側面し か見えないーーかと思えば,他方には汚物にまみれた貧民街に住みその日のパ ンに事欠く人々がいる。彼ら双方は同じ町の目と鼻の先に居住し,生活を送り ながら,日常的にあいふれあうこともなく,殊に富裕な人々は貧しい人々の存 在を気にとめないか,あるいは気づかない振りをしている。 それでもこの当時のロンドンはすでにイングランド工業の中心ではないJ7
産業革命の進展にともなう環境汚染や移しい貧困という工業化社会の裏面はむ しろ国内北部のヨークシア及びランカシア地方により悲惨な状況で現れ始めて いる。このときハイネが自にしたのはほぼ十年後にヱンゲノレスやヴ、エーノレトが 観察した*8工場地帯の汚濁まみれの悲惨ではない。そこにあるのは急激に人 口が集中し,併せて国内外の富が集積する大都会ロンドンの実態である。この*
6 ロンドンのこのような実態への注目は,後のエンゲルスやヴェール卜の先駆をなしτ
いる。 VglGerhard Hohn: Hezne-Handbueh -Zeit, Per.¥on, Werk.Stuttgart (Metzler) 1987. S.214*
i Vgl。喜安朗・川北稔『大都会の誕生 出来事の歴史像を読むJC有斐閣選書768)1986年*
8 エンゲルス『イギリスの労働者階級の状態DだLageder arbeztend仰, Klassein Eng-landJ (1845年 なおこの原題のくEngland>も本来ならば「イングランド」と翻訳す べきである。岩波文庫版訳者解説参照)及びヴェールト『イギリス・スケッチ Skizzen aus dem sozzalen und ρolztischeηLeben der Briten1 (1848年)を参照されたい。なお, 同じようにロンドンの裏通りを摘写してみても,ハイネの記述は, 1840年代初頭のロンドンの悲惨を系統的に,かつ徹底的に暴いたフローラ・トリスタンの『ロンドン散策 Promenades dans LondresJ (1840年)の比ではない。
722一一 香川大学経済論叢 918 町は豊かになればなるほど一方で貧困も増大し,富裕階級の住むウエスト・エ ンドと対照的に反対側のイースト・エンドにスラムが拡大していた。 イングランドはヨーロッパの中で十七世紀以来王権に制限を加えながら,ヨ ーロッパで最も早く近代的な議会制の政治体制を作り上げた国?ある*9 その 点でもやはり他の国々の知識人から一種の羨望とともに見られ
τ
来た。ハイネ は1827年のイングランド滞在時に熱心に議会を傍聴している。彼がそのとき 見たものははたして一般に信じられているような,理想通りのものであったの だろうか? イングランドの議会において相争っているふたつの勢力, トーリ ーとウィッグは一般的には前者が国王の側に与し,後者が民衆の側に立ってい ると考えられているが r私」には 「このような受け取り方は暖昧でたいていは本の中でしか通用しない。ο
(
吋 川 …t“…}…h 両者は,ある種の争点になっている問題で結集し,かつて自らの先輩や友人も すでにこのようなきっかけで結集してきたし,政治の嵐の中で喜びゃ不幸や反 対党への敵意をともにしてきた,そんな人々の集団を指して言っているJ(
B
,2
/573)
と映る。当時はフランス革命への態度の違いから,ウィッグの中からトーリー へ走ってしまう人々も出て, トーリーが圧倒的に優勢な時代であり,ウィッグ は少数の反対派に甘んじていた。しかし r私」によれば, ドイツやフランス で,例えばリベラル派のことを考えるときに想像するように,彼らは何か理念 が一致して党派を形成しているわけではない。ウィッグの人々は政治的な理念 の点から言えば,一人一党になるだろうし,党派を組むのは「外面的なきっか けや,偶然の利害の一致や友情関係や敵対関係からトーリーと抗争するにすぎ*
9 村岡健次 fヴィクトリア時代の政治と社会1(ミネルヴア吉房 1995年 ただし親本 の初版は1980年)第 3章「二大政党の形成過程J94 -117ページを参照 722一一 香川大学経済論叢 918 町は豊かになればなるほど一方で貧困も増大し,富裕階級の住むウエスト・エ ンドと対照的に反対側のイースト・エンドにスラムが拡大していた。 イングランドはヨーロッパの中で十七世紀以来王権に制限を加えながら,ヨ ーロッパで最も早く近代的な議会制の政治体制を作り上げた国?ある*9 その 点でもやはり他の国々の知識人から一種の羨望とともに見られτ
来た。ハイネ は1827年のイングランド滞在時に熱心に議会を傍聴している。彼がそのとき 見たものははたして一般に信じられているような,理想通りのものであったの だろうか? イングランドの議会において相争っているふたつの勢力, トーリ ーとウィッグは一般的には前者が国王の側に与し,後者が民衆の側に立ってい ると考えられているが r私」には 「このような受け取り方は暖昧でたいていは本の中でしか通用しない。ο
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吋 川 …t“…}…h 両者は,ある種の争点になっている問題で結集し,かつて自らの先輩や友人も すでにこのようなきっかけで結集してきたし,政治の嵐の中で喜びゃ不幸や反 対党への敵意をともにしてきた,そんな人々の集団を指して言っているJ(
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と映る。当時はフランス革命への態度の違いから,ウィッグの中からトーリー へ走ってしまう人々も出て, トーリーが圧倒的に優勢な時代であり,ウィッグ は少数の反対派に甘んじていた。しかし r私」によれば, ドイツやフランス で,例えばリベラル派のことを考えるときに想像するように,彼らは何か理念 が一致して党派を形成しているわけではない。ウィッグの人々は政治的な理念 の点から言えば,一人一党になるだろうし,党派を組むのは「外面的なきっか けや,偶然の利害の一致や友情関係や敵対関係からトーリーと抗争するにすぎ*
9 村岡健次 fヴィクトリア時代の政治と社会1(ミネルヴア吉房 1995年 ただし親本 の初版は1980年)第 3章「二大政党の形成過程J94 -117ページを参照919 ハイネ『イギリス断章』考 723ー ないJ
(
B
,2/574)
のだ。従っ、て, トーリーは自分たちが相手よりも貴族的 であるとは考えず,ウィッグはウィッグで自らをよりブルジョア的であるとは 考えていないので,この一般的に考えられているような党派分けでイングラン ドの政党を理解するわけにはいかない。それゆえウィッグが必ずしも新しく力 をつけてきたフ、ルジョア階級の利益を代弁してくれるとは限らないのである。 ハイネが滞在した1
8
2
0
年代後半のイングランドは1
8
1
5
年のウィーン会、議に より,フランス革命後からナポレオン支配へ至る一連のイングランドを脅かし た出来事が終意を遂げ,外からの脅威が消えたが,対仏戦争中も産業革命の進 度がゆるむこともなく,それどころか軍需関係を中心とした工業や i大陸封 鎖令」を契機として農業も発展した。すでに寸八世紀末から存在していた政治 運動も戦争中は厳しく弾圧されていたが,工業化の進展とそれにともなうブル ジ ョ ア 階 級 の 台 頭 及 び 彼 ら に 雇 用 さ れ る 賃 金 労 働 者 の 登 場 は 決 定 的 で あ り,1
8
1
9
年のマンチェスターのセント・ピータース広場で民衆の大集会が当 局により弾圧されて大きな流血騒ぎ(いわゆる「ピーターノレーの虐殺」である) になっても,普通選挙の獲得に代表される彼らの民主主義的な権利拡大を求め る運動は着実に前進する。ハイネは『イギリス断章』でもそのあたりの事情を 言己している。 iif改革派B,または『急進改革派B,または短く『急進派n,といった名称の ほうがもっと重要である。これらはふつう同義語として見なされ,ともに国の 同じ欠陥をつき,そしておなじ有効な除去手段を狙い目としている。違いは色 合いの濃淡にあるだけである。さてその欠陥というのが周知のとおり代議制度 の不平等なありかたである。つまり,いわゆる腐敗選挙区が,時代から取り残 され,人の住まなくなったあの地域が,あるいはもっと上手に言うと,これら の土地を所有している寡頭政治主義者たちが国民の代表者を議会に送る権利を 持っているというのに,人口の増加している大都市,特に新興工業都市が,た った一人の代表者を選ぶ権利も持たないのである。この欠陥の有効な除去手 段,それが議会改革なのであるO この議会改革は目的ではなく,手段?あると 919 ハイネ『イギリス断章』考 723ー ないJ(
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のだ。従っ、て, トーリーは自分たちが相手よりも貴族的 であるとは考えず,ウィッグはウィッグで自らをよりブルジョア的であるとは 考えていないので,この一般的に考えられているような党派分けでイングラン ドの政党を理解するわけにはいかない。それゆえウィッグが必ずしも新しく力 をつけてきたフ、ルジョア階級の利益を代弁してくれるとは限らないのである。 ハイネが滞在した1
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年代後半のイングランドは1
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年のウィーン会、議に より,フランス革命後からナポレオン支配へ至る一連のイングランドを脅かし た出来事が終意を遂げ,外からの脅威が消えたが,対仏戦争中も産業革命の進 度がゆるむこともなく,それどころか軍需関係を中心とした工業や i大陸封 鎖令」を契機として農業も発展した。すでに寸八世紀末から存在していた政治 運動も戦争中は厳しく弾圧されていたが,工業化の進展とそれにともなうブル ジ ョ ア 階 級 の 台 頭 及 び 彼 ら に 雇 用 さ れ る 賃 金 労 働 者 の 登 場 は 決 定 的 で あ り,1
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年のマンチェスターのセント・ピータース広場で民衆の大集会が当 局により弾圧されて大きな流血騒ぎ(いわゆる「ピーターノレーの虐殺」である) になっても,普通選挙の獲得に代表される彼らの民主主義的な権利拡大を求め る運動は着実に前進する。ハイネは『イギリス断章』でもそのあたりの事情を 言己している。 iif改革派B,または『急進改革派B,または短く『急進派n,といった名称の ほうがもっと重要である。これらはふつう同義語として見なされ,ともに国の 同じ欠陥をつき,そしておなじ有効な除去手段を狙い目としている。違いは色 合いの濃淡にあるだけである。さてその欠陥というのが周知のとおり代議制度 の不平等なありかたである。つまり,いわゆる腐敗選挙区が,時代から取り残 され,人の住まなくなったあの地域が,あるいはもっと上手に言うと,これら の土地を所有している寡頭政治主義者たちが国民の代表者を議会に送る権利を 持っているというのに,人口の増加している大都市,特に新興工業都市が,た った一人の代表者を選ぶ権利も持たないのである。この欠陥の有効な除去手 段,それが議会改革なのであるO この議会改革は目的ではなく,手段?あると穴24- 香川大学経済論叢 920 考えられている。国民はそれによって自分たちの利害のより公平な反映,貴族 たちの悪習の除去,自分たちの窮状への援助が得られると期待している。」
(
B
, 2/575)
ここに言う代議制度の不備がとりあえず改善されたのは1832年になってよう やく選挙法の第一次改正が可決されたときであり,ハイネのイングランド滞在 期間中はもちろんイギリス断章』を本にまとめているときでも,イングラ ンドの議会制度の不備はいやでも目についた。 「私」によれば,上に言われている「改革派」は「急進派」と呼ばれる人々 とは体制に対する態度が根本的に異なっている。 「たとえば,ハントやコベットの名を口にするとき急進派』という語には まったく違った音調が置かれる。要するに彼らは,既存のあらゆる形式の転覆, どん欲の勝利,完全な衆愚政治を招来させんと,議会改革を求めてわめきたて る,激しい,歯をむき出しにした革命家たちなのである。 J(
B
,2/575)
ハイネの「民衆VolkJ*lOに対する関係あるいは考え方は,人類の未来が彼ら の手に委ねられるとする一方で,そんな未来の社会での詩人の置かれる立場に 危慎を抱く,アンビヴアレントなものであった (WuB,7 /121 f)0*
11 Wイギ リス断章』においてもニュアンスの違いはあっても,すでにそのような態度は 明らかである。「私」は上述のように王侯貴族の専横に苦しみ,それへの抵抗 運動を押し進める人々のことに注意を向ける一方で I急進改革派」と呼ばれ る人々を除いて,イングランドの国民が必ずしもフランスの民衆のように「市*
10 'Volk'という言葉も多義的で適切な日本語を与えることは非常に困難であり,それぞ れの箇所で使用されている意義も常に確定する必要がある。小論では「国民」とすると きは主として封建的な支配階級である王侯貴族および聖職者(いわゆる「第一身分」と 「第二i身分J)および「第三身分」の人々を含めて使用するが r民衆」とする場合には, 支配階級と結んだブルジョア階級を必ずしも含まず庶民大衆」の意味として使用する。 *11 他に木庭宏『ハイネ散文作品集』第 3 巻解説および同著者の『ハイネとオルテガ~ (松 績社)110ページを参照されたい。 穴24- 香川大学経済論叢 920 考えられている。国民はそれによって自分たちの利害のより公平な反映,貴族 たちの悪習の除去,自分たちの窮状への援助が得られると期待している。」(
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, 2/575)
ここに言う代議制度の不備がとりあえず改善されたのは1832年になってよう やく選挙法の第一次改正が可決されたときであり,ハイネのイングランド滞在 期間中はもちろんイギリス断章』を本にまとめているときでも,イングラ ンドの議会制度の不備はいやでも目についた。 「私」によれば,上に言われている「改革派」は「急進派」と呼ばれる人々 とは体制に対する態度が根本的に異なっている。 「たとえば,ハントやコベットの名を口にするとき急進派』という語には まったく違った音調が置かれる。要するに彼らは,既存のあらゆる形式の転覆, どん欲の勝利,完全な衆愚政治を招来させんと,議会改革を求めてわめきたて る,激しい,歯をむき出しにした革命家たちなのである。 J(
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ハイネの「民衆VolkJ*lOに対する関係あるいは考え方は,人類の未来が彼ら の手に委ねられるとする一方で,そんな未来の社会での詩人の置かれる立場に 危慎を抱く,アンビヴァレントなものであった (WuB,7 /121 f)0*
11 Wイギ リス断章』においてもニュアンスの違いはあっても,すでにそのような態度は 明らかである。「私」は上述のように王侯貴族の専横に苦しみ,それへの抵抗 運動を押し進める人々のことに注意を向ける一方で I急進改革派」と呼ばれ る人々を除いて,イングランドの国民が必ずしもフランスの民衆のように「市*
10 'Volk'という言葉も多義的で適切な日本語を与えることは非常に困難であり,それぞ れの箇所で使用されている意義も常に確定する必要がある。小論では「国民」とすると きは主として封建的な支配階級である王侯貴族および聖職者(いわゆる「第一身分」と 「第二身分J)および「第三身分」の人々を含めて使用するが r民衆」とする場合には, 支配階級と結んだブ、ルジョア階級を必ずしも含まず庶民大衆」の意味として使用する。 *11 他に木庭宏『ハイネ散文作品集』第 3 巻解説および同著者の『ハイネとオルテガ~ (松 績社)110ページを参照されたい。921 ハイネ『イギリス断章』考 穴 25-民的平等」を求めていないことを嘆く。 「ちなみにこのフ。ルジョア階級は,貴族階級とは太陽や,月や,星とまった く同様に不変のものと思い,貴族や僧侶の特権を,国家に有用というだけでな く,自然の必然と見なしており,この特権のためなら貴族そのものよりはるか に熱心に自ら進んで闘うことだろう。というのは,まさにフゃルジョア階級の方 が,大部分が自信をなくしている貴族階級より,確固として貴族を信じている からである。この観点からするとイングランド人の魂には,相変わらず中世の とばりがかかっていて,全人類の市民的平等というあの神聖な理念は,彼らの 夜をまだ明るくしていないのである。 J(B, 2/574) イングランドでは二十世紀にいたっても存続している貴族制度を民衆はかなら ずしも破壊しようとはせずに,むしろ大部分の人々,特に新興のプルジョア階 級はそれを維持し,そのヒエラルヒーの中で自らの位置を上昇させることに腐 心したのである。*12イングランドやスコットランドでは清教徒たちがドイツの 農民たちと同様に聖書に書かれていること,すなわち「人聞は同じく高貴な生 まれであるとか,自らを他人より優れていると思う高慢な気持ちは弾劾されね ばならぬとか,富は罪であるとか貧しいものも,共通の父である楽園で等しく 楽しむ権利があるJ (B, 2/596)とかがはっきりと記された書物を拠り所に しながら,その成果は微々たるものであった。それゆえ「私」は次のように断 定するのだ。 「グレート・プリテンでは社会的な変革は行われなかった。市民的,政治的 諸制度の骨組みは破壊されないままであった。カースト支配体制とツンブト制 度は,イングランドでは今日まで維持されている。 J (B, 2/597)
*
12 前掲『ヴィクトリア時代の政治と社会J131 -136ページ参照 921 ハイネ『イギリス断章』考 穴 25-民的平等」を求めていないことを嘆く。 「ちなみにこのフ。ルジョア階級は,貴族階級とは太陽や,月や,星とまった く同様に不変のものと思い,貴族や僧侶の特権を,国家に有用というだけでな く,自然の必然と見なしており,この特権のためなら貴族そのものよりはるか に熱心に自ら進んで闘うことだろう。というのは,まさにフゃルジョア階級の方 が,大部分が自信をなくしている貴族階級より,確固として貴族を信じている からである。この観点からするとイングランド人の魂には,相変わらず中世の とばりがかかっていて,全人類の市民的平等というあの神聖な理念は,彼らの 夜をまだ明るくしていないのである。 J(B, 2/574) イングランドでは二十世紀にいたっても存続している貴族制度を民衆はかなら ずしも破壊しようとはせずに,むしろ大部分の人々,特に新興のプルジョア階 級はそれを維持し,そのヒエラルヒーの中で自らの位置を上昇させることに腐 心したのである。*12イングランドやスコットランドでは清教徒たちがドイツの 農民たちと同様に聖書に書かれていること,すなわち「人聞は同じく高貴な生 まれであるとか,自らを他人より優れていると思う高慢な気持ちは弾劾されね ばならぬとか,富は罪であるとか貧しいものも,共通の父である楽園で等しく 楽しむ権利があるJ (B, 2/596)とかがはっきりと記された書物を拠り所に しながら,その成果は微々たるものであった。それゆえ「私」は次のように断 定するのだ。 「グレート・プリテンでは社会的な変革は行われなかった。市民的,政治的 諸制度の骨組みは破壊されないままであった。カースト支配体制とツンブト制 度は,イングランドでは今日まで維持されている。 J (B, 2/597)*
12 前掲『ヴィクトリア時代の政治と社会J131 -136ページ参照一一726- 香川大学経済論叢 922 「市民的平等」が充分に獲得されなかったことは,やはり現在にいたるまで イングランド及びグレート・ブリテンにとって「アキレス臆」であるアイルラ ンド問題にもその欠陥が現れている。アイルランドは中世以来イングランドの 侵攻と支配に苦しんできたが,彼らにとって,カトリック信仰は心の拠り所で あり,抵抗と民族統一のシンボルであった。アイノレランド問題は対仏戦争の聞 に新たな局面を迎える。フランス革命に衝撃を受け, 1792年には統 組織「ユ ナイティッド・アイリイッシュメン」が結成され,アイルランドの完全な自治 とカトリックの解放を目指した。イングランド政府は彼らをことごとく弾圧 し, 1801年にはついにアイルランドをグレートプリテンに統合するO その結 果として双方の聞の貿易が自由化され,アイルランドの手工業は産業革命の真 つ最中のイングランドの攻勢の前に衰退し,十八世紀までもっていた僅かばか りの自治権さえも失ってゆく。それらの不満はやがて宗教問題となって爆発す る。その解決策のーっとしてのカトリック解放がイングランドにとって焦眉の 問題となったが,それが一応の解決を見るのが, 1829年のことであり,ハイ ネがロンドンを訪れたのはまさにカトリック解放の直前であった。「私」はこ のことに関して次のように述べる。 「話題を宗教の方へもっていくと,どんなに頭の切れるイングランド人でも, 愚かしさを露呈させるばかりである。議会で政治と宗教のぶつかりあう争点, あのカトリック教徒の解放問題が議題になるやいなや,理解力の混乱,賢明さ と愚かしい発想の混合が発生するのはこのためである。 J (B, 2/583) イングランドの知性ある政治家たちはカトリックの解放には決して反対ではな い。フランス革命には徹底的に敵対したパークのようなI保守的な人物でさえ 反対はしなかった。それではなぜ、カトリックの解放政策が簡単に前進しなかっ たのだろうか。頑固な反対派の代表が国教会の聖職者たちであったことは容易 に理解できる。自分たちの占有領域が侵害されるからである。しかし,他の人々 の行動について「私」は次のように断言する。 一一726 香川大学経済論叢 922 「市民的平等」が充分に獲得されなかったことは,やはり現在にいたるまで イングランド及びグレート・ブリテンにとって「アキレス臆」であるアイルラ ンド問題にもその欠陥が現れている。アイルランドは中世以来イングランドの 侵攻と支配に苦しんできたが,彼らにとって,カトリック信仰は心の拠り所で あり,抵抗と民族統一のシンボルであった。アイノレランド問題は対仏戦争の聞 に新たな局面を迎える。フランス革命に衝撃を受け, 1792年には統一組織「ユ ナイティッド・アイリイッシュメン」が結成され,アイルランドの完全な自治 とカトリックの解放を目指した。イングランド政府は彼らをことごとく弾圧 し, 1801年にはついにアイルランドをグレートプリテンに統合するO その結 果として双方の聞の貿易が自由化され,アイルランドの手工業は産業革命の真 っ最中のイングランドの攻勢の前に衰退し,十八世紀までもっていた僅かばか りの自治権さえも失ってゆく。それらの不満はやがて宗教問題となって爆発す る。その解決策のーっとしてのカトリック解放がイングランドにとって焦眉の 問題となったが,それが一応の解決を見るのが, 1829年のことであり,ハイ ネがロンドンを訪れたのはまさにカトリック解放の直前であった。「私」はこ のことに関して次のように述べる。 「話題を宗教の方へもっていくと,どんなに頭の切れるイングランド人でも, 愚かしさを露呈させるばかりである。議会で政治と宗教のぶ、っかりあう争点, あのカトリック教徒の解放問題が議題になるやいなや,理解力の混乱,賢明さ と愚かしい発想の混合が発生するのはこのためである。 J(B, 2/583) イングランドの知性ある政治家たちはカトリックの解放には決して反対ではな い。フランス革命には徹底的に敵対したパークのような保守的な人物でさえ, 反対はしなかった。それではなぜ、カトリックの解放政策が簡単に前進しなかっ たのだろうか。頑固な反対派の代表が国教会の聖職者たちであったことは容易 に理解できる。自分たちの占有領域が侵害されるからである。しかし,他の人々 の行動について「私」は次のように断言する。