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台湾の経済発展と国際貿易-香川大学学術情報リポジトリ

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香 川 ! 大 学 経 済 論 叢 第66巻 第4号 1994年3月 209-230

研究ノート

台湾の経済発展と国際貿易*

治 中 ・ 井 上 貴 照

し は じ め に この研究ノートの目的は,台湾の経済発展と貿易との関係について検討することで ある。 第

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節では,台湾が清朝末期から日領期までの期間,第

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節 で は , 戦 後 の 調 整 期 (1945-1952) , 輸 入 代 替 工 業 化 の 期 間 ( 1953-1963), 輸 出 指 向 工 業 化 の 期 間 (1964-1973),不安定成長期 (1974-1979) そして転換期 (1980年代)に至るまでの期 間における台湾の経済発展の歩みを台湾の貿易に焦点をあてながら説明する。 最後に,むすびは,要約にあてられる。

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次世界大戦前の台湾の経済発展と貿易

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清朝末期の台湾経済 清朝末期の台湾社会は,基本的には,現在の中国福建省,広東省地方の漢民族移民 *小論は,陳 (1993)第 l章を基礎としている。小論の作成にあたり,香川大学経済学部大薮和 雄教授,阿部文雄教授,藤井宏史助教授から多くの御教示を賜ったことに,心から御礼を申 し上げます。また,陳の親友である侶同俊さんと壬永期さんが小論を作成するために欠かせ ない貴重な資料を台湾から送っていただき,この機会を借りて厚く謝意を表したいと思い ます。小論におけるすべての誤謬は,われわれの責任であることは言うまでもありません。 (1) 小論は基本的に,小林 (1990),隅谷・劉 (1992),劉(1987)(1992b),徐 (1988)に多くを 負っている。 1960年代後半より 1980年代までの期間における台湾の貿易構造,台湾の対日 貿易および日台米貿易の三環構造に関する実証分析については,陳・井上 (1993)参照。また 台湾の経済成長については,たとえば,西村(1990),台湾の経済発展と労働問題については, たとえば,小林 (1990)そして東南アジアの経済発展と貿易については,村上 (1990)等参照。

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210 香川大学経済論叢 1024 を中心に構成された。台湾の伝統経済は,開発の当初から大陸からの農法,生産様式 や社会諸制度が移植され,かなり高い農業生産力をもっていた。商業的農業の対岸貿 易(対大陸)の発達が早くからみられた。台湾の移住民が使用する生活必需品のほと んどが対岸の泉州,章州地方からの移入により賄われ,これと交換するため台湾の米 や砂糖その他農産物が移出されていた。 しかし,この伝統経済は, 19世紀のアへン戦争に由来する台湾の門戸開放によって 欧米企業が大挙して台湾に進出しはじめてから,強烈なインパクトをうけて大きく変 容をとげた。その結果,台湾は,欧米企業の新たな食糧,原料供給市場に変身し,農 業における砂糖,茶,樟脳の輸出向け商品の作物化がj急速に進んだ、。表1は清朝末の 1865年から 1895年までの期間における台湾の砂糖,烏龍(ウ ロン)茶,樟脳の輸出 状況を示したものである。烏龍茶と樟脳の生産物はほとんど輸出され,砂糖の場合は その生産物のほぼ70%が輸出されていたようであ

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表1 砂糖,烏龍茶,樟脳の輸出状況 (1865-1895) (1,000ポンド, ,1000銀元) 砂 糖 烏 年代 百包 茶 樟 目凶 輸 出 量 輸 出 量 輸 出 額 輸 出 盛 輸 出 額 1865 19,434 181(4) l4(4) 1,035 1870 79,461 1,405 359 2,240 1875 65,023 5,543 1,167 949 1880 141,531 120,063 3,583 1,641 1885 74,344 16,364 4,321 一 色(5) 1890 96.283 17,107 4,803 1,064 1895 94,214 19,556 6,049 6,935 注:(1)輸出金額はlピyクノレ (133ポンド)当たりの平均価格で計算した。 α) 1銀元は7銭2分丞盈銀の秤量単位をもって1元とする貨幣である。 (3)砂糖は赤糖(粗糖),白糖(精製糖)の2種を合む。 (4) 1865年の烏龍茶の数値が欠落しているので, 1866のもので表示した。 (5) 1885年の締脳生産は「番答J(先住民族の抵抗)のため中止された。 (6)本茨の数値は淡水,安平,高雄三港の通関統計の集計値である。 120 160 64 151 (5) 240 3,572 資料:.James W Davidson (1903), The Island0/Formosa Past and Present, p 395, 442, 45'7 出所:1網谷・劉(1992)p 6 表。-1。 (2 ) 隅谷・劉(1992)p 6参照。

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211 台湾の経済発展と国際貿易 1025 台湾の対外貿易は,対岸貿易と外国貿易のニ重構造をなしていた。当時 この時期, アヘンであった。その額はきわめて大きかったが (1880年代で輸入 の主な輸入品は, 日用消費財はほとんどすべて対岸貿易で賄われているた 総額の 60%を占めていた), アへンの大量輸 め,欧米から輸入される商品はきわめて限られていた。したがって, 入にもかかわらず,表2が示すように輸出の急速な伸長による大幅な黒字基調が持続 した。しかし,金融商における欧米企業の支配が強く,外国貿易の貿易黒字がそのま 台湾経済は農業および ま台湾の資本蓄積につながらなかったという問題点があるが, 商業の発達段階からみると資本主義的発展の萌芽期ともいうべき段階になっていた。 日領期の台湾経済 2 II 日清戦争後, 1895年に日本の領有になった台湾は,半世紀にわたり日本帝国主義の 支配下におかれ,植民地化が推し進められた。 まず,貨幣と金融制度を整 日本の企業が台湾に進出し貿易商権を確立するために, 備した。清朝統治下の台湾には各国各種の貨幣が流通し,貨幣制度は複雑混乱をきわ めていた。 1899年に創設された台湾銀行は, 1904年に幣制改革令を公布し,台湾の幣 制は日本のそれに統合された。また清朝時代の台湾の関税は,イギリスの管轄下にお

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かれていた。日本統治の翌年 1896年,いち早く日本の関税法が台湾に適用され,台湾 輸出入および貿易収支の状況(1865-93) (1,000海関両) 年代 輸 出 額 輸 入 額 輸出超過額 1865 929 1,409 -480 1870 1,668 1.463 205 1875 2,926 2.222 704 1880 6.488 3,580 2,908 1885 5,616 3,196 2,420 1890 7,533 3,900 3,633 1893 9,452 4,839 表2 資料:中国各貿易年表資料,なお, 1865年, 1870年は中国各港貿易 十年表資料,ただし東嘉生(1944) r台湾経済史研究』束郡書 籍, 351-353ページより収録。 出所:1鶴谷・劉(1992)p.8 表。 -2。

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-212- 香川大学経済論叢 1026 は関税の面でも日本経済圏に組み込まれた。台湾の対日貿易の関税障壁は取り除かれ, 台湾の対外貿易の方向を対岸貿易から対日貿易にシフトする条件が与えられた。関税 政策による台湾地域における産業の保護育成が可能となり,欧米企業は日本企業に駆 遂された。 日本資本主義による台湾植民地経済の基本的特徴は,台湾を原料,食料の供給基地 として位置づけ,安価な農林資源,豊富な人的資源を利用する米糖2大輸出指向商品 (3) 作物に特化した農業モノカノレチャー経済であった。 まず台湾の糖業の生産高は, 1904年 8263..3万斤(I斤 =0“6キログラム)から 1911 年まで4億 5000万斤になり, 7年間に 5..9倍になった。生産高のほぼ 9割以上が輸出 され,その圧倒的部分が日本向けであった。台湾糖の日本砂糖市場に占める割合は, 1911年に 81%に達していた。次に台湾の米作生産の増大が本格的に始まるのは, 1920 年代以降のことであった。 1922年,新品種蓬莱米の登場とその後普及に伴い,台湾の 玄米生産は1920-24年の 524万石から 1935-39年の 909万石(I石 =71.6キログラ ム)に潟大し, 20年間に年率 3..7%の成長をとげた。米の生産に占める輸出の割合は, 1925-29年の 36.8%から 1935-39年の 50..2%に上昇し,多い時は生産した米が過半数 を越える比率で日本に輸出されたことになった。 米糖農業開発の進展に伴い,台湾の対日貿易もまた急速に増大した。表 3がこの間 の対外貿易の地位と構造を占めたものである。輸移出においてはいうまでもなく米糖 中心とする農業物が圧倒的部分を占めるのに対し,輸移入主要品目は肥料,紡績品, (6) 酒,タバコ,鉄製品を筆頭に多種多様な財により構成されていた。 1920年代以降,輸 移出入とも飛躍的に拡大したなかで,対日移出入の割合も高まり,全体として9割近 くに達した。貿易依存度(生産総額に占める輸移出入額の割合)は,約8割に達し, 台湾の経済発展における対外貿易の重要性をいち早く物語っていた。 (3 ) 邪(1988)参照。 (4 ) 隅谷・劉(1992)p 15参照。 ( 5) 隅谷・劉(1992)p引 17参照。 (6 ) 隅谷・劉(1992)p 19参照。

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1027 台湾の経済発展と国際貿易 213-表3 日領期,台湾の対外貿易の構造 (1897-1939) (1,000円,%) 全生産総額島 輸金移額出 輸金移入額 回総額に占める比率 対日依存比率 年代 出超額 輸 移 出 輸 移 入 移 出 移 入 1897 14,857 16,382 14.2 22..7 -1.525 1900 14,934 22,010 29..5 38..3 -7.076 1905 69,358 24,291 24,448 35..0 35.2 16..2 55.2 -157 1910 130,740 59.962 48,923 45.9 37..4 80.0 59.4 11,039

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1915 140,245 75.623 53,410 53..9 38.1 79 6 76..1 22,213 1920 422,294 216.265 172,437 5L2 40..8 83..7 65.0 43,828 1925 558,902 263.215 186,395 47 1 33..4 81. 8 69 7 76,820 1930 549,991 241,441 168,258 439 30.6 90..6 73..2 73,183 1935 709,535 350,745 263,120 49..4 37..1 89.6 82..9 87,625 1939 1,242,875 592,938 408,650 47..7 32 9 86..0 88..4 184,288 資料:台湾総脅府殖産局(1943),台湾農業年報J10-11ページ,および台湾銀行経済研究室(1958)r日据 時代台湾経済史, (第一集)136←37, 149-150ベージより作成。 出所:隅谷・劉(1992)p 19。

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次世界大戦後の台湾の経済発展と貿易 1945年の日本の敗戦で台湾は,半世紀にわたる植民地統治から解放された。しかし なから 1949年,国民党と共産党との内戦で国民党が敗れて台湾に撤退した。 1950年の 朝鮮戦争を契機とする東西冷戦体制への移行により,台湾は再び中国大陸から分断さ れる局面を迎え,独自の国民経済を形成した。 この時から,今日に至るまでのわずか40年間,台湾は犬きな変化をとげた。低開発 国から

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のlつとして,経済的に大きな成果をあげている。経済発展の 成果を数字でみると 1952年の国民 1人あたり名目 GNPは 196米ドルだ、づたが, 1990 年になると国民1人あたり名目 GNPは 7997米ドルになって, 1952年の国民 1人あ

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1028 たり GNPの 40.8倍になる。 1990年末の外貨準備高は 731億米ドルになって,世界第 3位の地位を占めている。 香川大学経済論叢 -214 戦後の調整期 (1945-1952) IIL 1 戦後,かつて台湾で臼本の政府および民聞が経営してきたすべての企業は国民党政 府に接収され,国営,公営とされて,従来の経営,生産方式はそのまま継続された。 日本人経営者,技術者が引き揚げた後,戦争による設備の破壊,資源不足, しカゐし, 経営生産関係の専門的人材の不足が震なり,生産は停滞に陥った。さらに悪性のイン フレを加え,台湾の経済は窮地に追い込まれた。 この時期のインフレは,例えば 1947年 1月の台北市の消費者物価指数は 100とした 年末の指数は 6076, 1948年は1.141ιになった。さらに 1949年の年初から 6月まで の半年で 1,000に急騰した。

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l i l i -ー 1949年に大陸での国共内戦の結果,国民党が敗れて台湾に移転した。台湾の経済を 救うために,急速, 1949年 6月 15日に通貨改革を行った。旧台湾元と新台湾元を 4万 また大陸の金円 対lの比率にし,新台湾元を法定の金と外貨準備に依拠して発行し, 券との為替関係にも終止符がうたれた。新台湾元の改革によって台湾の通貨,経済危 台湾は,中国大陸経済圏から政治的,経済的に完全に切り離され,独 機を乗りきり, 自の経済体制に変わったのである。 輸入代替工業化の期間(1953-1963年)

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1950年代のはじめ低開発国といえる台湾において,大陸から国民党と←緒に移転し てきた台湾の総人口の約 5分の lに相当する 150万と推定される人口流入,政府予算 の2分のlを占める膨大な軍事費および復興のための財政負担は,台湾経済にとって 台湾は農業基盤の再建とアメリカの 大きな重荷であった。この困難な状況のもとで, 援助に支えされて輸入代替工業化政策をめざした。

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国民党政府による台湾で地主が持つ農地の大部分を農民に割譲するという農地改革 ( 7 ) CEPD (1991)p. 39より算出。 ( 8 ) 矢野(1992-1993)p 403参照。 (9 ) 隅谷・劉 (1992)p 32参照。 (10) 農地改革は, 1952年に三段階に分けて断行された。まず,滅租政策を 1949年四月に実 施し,つぎに官有農地払い下げ政策を 1951年 6月に行い,そして最終的に地主所有農地割 譲(耕者有英国)法案を 1952年 11月に可決し笑施に移した。隅谷・劉 (1992)p 33参照。

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1029 台湾の経済発展と国際貿易 -215-によって,農民の生産意欲が向上し, 1955-59年の聞の農業生産は年間平均 50%の高 い成長率を記録していた。農産品の輸出は表 4が示すように 1950年代に総輸出の 90%以上に達しており,農産品の輸出入収支差額は 1960年代まで一貫して黒字基調が 続いて,工業化のための資本財輸入の増加に寄与した役割はきわめて大きい。しかし, 政府による米と糖の統制政策により低米価・低賃金政策が推進され,農民の余剰は強 制的に収奪された。 次にアメリカの援助の役割があった。この援助は, 1951年に始まり 1965年までの年 間約 1億米ドルであり, 15年間続いた。アメリカの援助規模は, 1951年の GNPの 協を占め,台湾経済の発展にしたがって,日65年には GNPの 2 %は っ

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。この ようにアメリカの援助は,資本不足に悩む当時の台湾の重要な資本供給源の役割を果 たしていた。 当時,台湾の工業は,戦前に日本人によって経営されていた中小企業を戦後に固有 表4 農産物輸出入の推移 (1952-89) (100万ド}V

%) 輸 出 翰 入 年代 輸出入差額 金 額 対総輸出比 金 額 対総輸入比 1952 114 95..5 67 32.1 47 1955 124 92..8 66 34 5 58 1960 121 710 79 30 1 42 1965 260 57 8 154 27.7 106 1970 310 21..7 376 24 7 -66 1975 909 17 1 1.244 20 9 -335 1980 1,877 9..5 3.090 15.7 -1,213 1985 2.108 6.9 3,381 16.9 -1,273 1989 3.545 5.4 5,881 1L3 -2,336 資料:行政院農業委員会編 (1990) r中華民国農業統計要覧J1990年度, 31ページ。 出所:劉 (1992a)p 80茨1-10。 (11) CEPD (1991) p 2より算出。 (12) Hwang (1991)p 73参照。

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216ー 香川大学経済論叢 1030 表5 主 要 日 本 人 企 業 の 官 営 企 業 へ の 再 編 系 列 一 覧 (1945-1946) 日 本 人 企 業 官 営 企 業 宣泉 台 湾 , 台 湾 儲 蓄 , 日 本 一 和日 本 勧 業 省 営11 台 湾 銀 行台 湾 土 地 銀 行 台 湾 商 工 11 第 一 商 業 銀 行 千子 華 南 11 華 南 商 業 銀 行 金 彰 イじ 11 彰 化 商 業 銀 行 金 庫 産 業 金 庫 H 合 作 金 庫 融 千 代 田 , 第 一 , 帝 国 , 日 本 , 明 治 , 安 田 , 住 台 湾 人 寿 保 険 股 分 有 限 公 生 命 友,三井,第百,日産,富国徴兵,第一徴兵, 機 保 険 野 村 , 大 同 関 災 筈 大成,東京,同和,日産,日本,大阪,住友, 11 台 湾 産 物 保 険 股 分 有 限 公 保 険 興 亜 , 海 上 運 送 , 千 代 田 , 大 正 , 大 倉 , 安 田 司 無 尽 台 湾 勧 業 , 台 湾 南 部 11 台 湾 合 会 儲 蓄 股 分 有 限 公 会 社 東 台 湾 , 台 湾 住 宅 司 日 本 海 軍 第 六 燃 料 廠 , 日 本 石 油 株 式 会 社 , 帝 国 石 油 国 営 中 国 石 油 股 分 有 限 公 司 株 式 会 社 , 台 湾 石 油 販 売 株 式 会 社 , 台 拓 化 学 工 業 株 式 会 社 , 台 湾 天 然 ガ ス 研 究 所 等 日 本 ア ル ミ ー ウ ム 株 式 会 社 ノf 台 湾 ア ル ミ ー ウ ム 業 公 司 台 湾 電 力 株 式 会 社 M 台 湾 電 力 有 限 公 司 大 日 本 製 糖 株 式 会 社 , 台 湾 製 糖 株 式 会 社 , 明 治 製 糖 11 台 湾 糖 業 公 司 株 式 会 社 , 寝 水 浴 製 糖 株 式 会 社 生 台 湾 電 化 株 式 会 社 , 台 湾 肥 料 株 式 会 社 , 台 湾 有 機 合 H 台 湾 肥 料 公 司 成 株 式 会 社 南 日 本 化 学 工 業 会 社 ( 日 本 曹 達 , 日 本 塩 業 , 台 湾 拓 ノ/ 台 湾 ソ ー ダ 公 司 産 殖 ) , 鐙 淵 曹 達 会 社 , 旭 電 化 工 業 株 式 会 社 台 湾 製 塩 会 社 , 南 日 本 製 塩 会 社 , 台 湾 寝 業 会 社 11 中 国 境 栄 公 司 ::iI工¥二 台湾船渠株式会社(一井重工業),基隆造船所 H 台 湾 造 船 公 司 株式会社台湾鉄工所,東光興業株式会社高雄工場, 11 台 湾 機 械 公 司 業 台 湾 船 渠 株 式 会 社 高 雄 工 場 専 売 局 ( 酒 , ア パ コ ) 省 営 台 湾 煙 酒 公 売 局 樟 脳 局 , 日 本 樟 脳 株 式 会 社 11 台 湾 省 機 脳 局 浅 野 セ メ ン ト 株 式 会 社 , 台 湾 化 成 工 業 株 式 会 社 , 南 11 台湾水泥公司事 方 セ メ ン ト 工 業 株 式 会 社 , 台 湾 セ メ ン ト 株 式 会 社 台 湾 興 業 株 式 会 社 , 台 湾 パ ル プ 工 業 株 式 会 社 , 塩 水 11 台 湾 紙 業 公 司 * 港 パ ル プ 工 業 株 式 会 社 , 東 亜 製 紙 工 業 株 式 会 社 , 台 湾 製 紙 株 式 会 社 , 林 田 山 事 業 所 農 林 関 係 企 業 ( 茶 業8, パ イ ン 業6, 水 産 業9, 蓄 11 台 湾 農 林 公 司 * 業22, 計45企業) 工破関係企業(炭鉱業22, 鉄 鋼 機 械 業31, 紡 績 業7, 11 台湾工破公司市 ガ ラ ス 業8, 泊 肥 業9, 化 学 製 品 業12, 印 刷 業14, 窒 業36,コ'ム業1, 電 気 器 具 業5, 土 木 建 設 業16, 計163企業) 注 * 印 の 「 水 泥Jr紙 業Jr農 林Jrエ繍」の4公司は. 1953年 の 農 地 改 革 時 に 地 価 補 償 金 の 一 部 と し て , 民 営 (旧地主)に払い下げられた。 資 料 :1 台 湾 正 中 容 局 ' 台 湾 建 設s上,下冊(民治出版社)台北.1950年.408-548頁。 2 台 湾 銀 行 経 済 研 究 室 r台 湾 銀 行 季 刊 』 第1巻 , 第3期.95-159頁 , 第12巻 第3期(1961). 1-42頁, 第13巻 第4期 8 (1962). 151頁。 3 同 台 湾 研 究 叢 刊66重量r台 湾 之 工 業 論 集 巻2J 14. 17. 61頁。 車玉佐編 r中 国 重 要 銀 行 発 展 史J(聯合出版中心,台風.1961年)409-410頁。 5. 中 国 工 程 師 学 会 編 r台湾工業復興史』台北.1960年。 出 所:1羽谷"劉(1992)pp.28-29茨0-6。

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1031 台湾の経済発展と国際貿易 217-化した官業(表 5),農地改革を契機に四大官業(セメント,紙業,エ鉱,農林)の払 い下げによる主として食品,ゼメント,製紙農産加工等の民業および中国大陸から亡 命した主に紡績企業からなる工業に分類される。これらの工業は幼稚産業だった。こ の幼稚産業の生産規模の拡大,最終消費財の自給率を高めるという目標を達するため に輸入代替工業化が進められた。 台湾がとった基本的政策は, r a,高関税障壁,数量統制等の輸入制限政策を用いて 輸入商品を締め出し,外国の競合的な輸出者から隔離された園内市場を創出すること。 b,有利な為替相場,複数為替相場制を実施して,必要な資本財,技術を低価格で外 国から導入する。適用される為替相場は市場実勢相場に比べて現地通貨の価値を過大 に評価し,過小に価格付けされた輸入ライセンスの割当を行う。 C,圏内生産の割当, および輸入原材料の配給割当の実施。 d,低金利信用の援与。

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,同種類の製品生産

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工場の新設制限。」などであった。結局, 1955-63年の平均実質工業成長率は10,,72% に達した。この時期の産業発展は圏内市場を中心にして成長した。同じ時期の農産品 の輸出額は総輸出額の7306%に達したので,農産物の輸出指向的発展と輸入代替工 業化が並行して進展したのは,この時期における台湾経済の主な特徴である。 ところで, 1950年代の末になると企業は圏内市場の狭さから,この時点でいち早く 生産過剰による不況にみまわれ,輸入代替工業化の限界を露呈した。工業化の展望は, 主として輸出に活路をもとめるほかなかった。 IIL 3 " 輸出指向工業化の期間 (1964年-1973年) 輸入代替から輸出指向工業化への積極的な転換は, 1950年代の末頃から次のような 一連の措置を採ることにより行われた。すなわち,為替制度の改革,投資奨励条例お よび外資導入政策である。 まずは為替制度の改革である。1963年からの複数為替レートを単一為替レートに改 め,輸出に対して不利な過大に評価された台湾元の為替レートを実勢レートに近づけ て修正した。この為替改革によって台湾経済は世界市場とつながり,貿易の取引,資 (13) 那(1988)参照。 (14) CEPD (1991)p 2より算出。 (15) CEPD (1991)p 213より算出。

(10)

218 香川大学経済論叢 1032 本の流出入,技術の移転などが世界市場に組み込まれる条件が整えられることになっ

た 次は投資奨励条例である。この条例は 1960年に制定された。条例の主な内容は,投 資,貯蓄および輸出の奨励,そのための租税減免,工業団地取得手続きの簡素化など である。条例は内外企業のすべてに適用される。とくに外国企業に対しては,外国企 業の持株制限の撤廃,内国待遇の保証,利潤送金規制の大幅緩和などの誘因を加えた。 それゆえに,投資奨励条例は地場企業の活性化をもたらすのみでなく,外国企業の誘 致にとっても大きな役割を果たした。 1962年に,外国企業の台湾への進出と外国企業 技術の知的所有権の保護のために制定した技術合作条例によって,外国企業の進出を いっそう容易にした。 そして台湾の外国企業導入措置は, 1950年代初頭の台米保障覚書協定からはじまっ た。 1954年に外国人投資条例, 1955年に華僑帰国投資条例を制定した。しかし,これ らの投資条例の内容不備と日米欧の戦後経済の宋復興のため,これらの投資条例は予 期した成果を収めなかった。しかしながら, 1960年に制定された投資奨励条例によっ て,外国人投資条例の不備が改められ,またこの頃に日米欧の戦後復興が一段落した ので,台湾への外国企業の進出が活液化した。日米欧を中心とする外国企業が数年の うちにつぎつぎと台湾に進出してきた。 1966年に,台湾は外国企業専用の輸出加工区 を開設し,外国企業の誘致を確かなものにした。 外国企業の台湾への進出動向は,表6において示されている。表6は外国企業と華 僑企業の二種類から構成されている。 1952年から 1990年までの投資は合計 5,773件, 総額 133億米ドルになった。そのうち華僑企業が 2,188件, 20億米ドノレ,外国企業が 3,585件, 113億米ドルで,金額において外国企業が 83.3%と圧倒的に多い。外国企業 の中で,日本の企業が 181件, 37億米ドJレ,米国の企業が 811件, 33億米ドYレであり, 日本と米国の企業は金額において外国の企業全体の 61..7%を占めている。 外国企業は主として台湾の主導的工業部門に進出している。その工業部門が台湾の (16) 台湾は 1966年に世界最初の輸出加工区を高雄に設立し,翌年に高雄の近くと台中に第 2と第参輸出加工区を設立した。 Vogel(l991)p 31参照。

(11)

1033 台湾の経済発展と国際貿易 -219 表6 時期別外国企業進出の推移 (1952-90) (100万ドル,%) d口'- 計 華 僑 企 業 外 国 企 業 件 数 金 額 件 数 金 額 件 数 金 額 d口与 5,773 13,251 2,118 1953 3585 11,298 (100) 1952-63 189 73 114 28 75 45(100) 64-73 1.746 1,024 988 254 758 770 (100) 74-85 1.536 4,062 645 892 891 3,170(100) 85-90 2.302 8.092 441 779 1,861 7,313(100) 外 国

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A 業 の 訳 件 数 金 額 件 数 金 額 件 数 金 額 ぷEコ〉h 言十 1.819 3,682 (32 ..6) 811 3,292(29 1) 956 4,324(383) 1952-63 37 7(15 6) 33 37(82..2) 4 1 1( 2 2) 64-73 484 147(191) 186 353(459) 88 270(350) 74-85 379 977(30 8) 287 1,331(42 0) 227 862(27 2) 85-90 919 2,552(34 9) 305 1,571 (21 5) 638 3,190(43 6) 資料:CEPD (1991)pp.264-266, 輸出を牽引してきた。また,台湾の工業に対する外国企業のもう 1つの役割は,技術 移転である。技術移転は,投資について行われる以外に,技術提携により押し進めら れる。それが生産力の向上や工業発展に与える影響は極めて大きい。とくに受け入れ 条件と能力が整備されている台湾の場合,技術提携は直接投資に勝るとも劣らぬ重要 性を持っている。 この時期における台湾の工業は,外国から企業と技術それに経営資源の移転を受け 入れることにより製品の国際競争力を高め輸出市場への進出を成し遂げて,新しい段 階を迎えた。その場合,輸出指向工業化は,低賃金労働を利用した労働集約的な産業 に特化して発展した。 上述のように台湾政府の低米価格政策を推進した米糖統制により農業所得は低く押 さえられ,農民の離農を促し,労働市場は低廉な労働力が供給過剰の状態にあった。

(12)

220- 香川大学経済論叢 1034 賃金率は,日本の約5分の 1,米国の10分のlであった。低廉な労働力は,外国企業 にとって台湾への進出の最大の誘因であると同時に輸出競争力を支えた比較優位の基 本要因である。台湾の工業は,国際分業体制にいっそう深く参入する過程で低廉な労 働を利用した労働集約的輸出加工業を中心にして発展をとげてきた。図1および表 7 が示すように台湾の主な輸出品は, 1950年代の農産品と農産加工品であったが, 1960 年代に入ると工業製品の輸出額の比率が高くなり, 1965年にはその輸出額の比率が 46%になり,農産品と農産加工品のそれを越えた。そして工業製品の輸出額の比率は 1970年には78..6%,1973年には84.6%となり,台湾の輸出は工業製品を中心とする 構造を構築することとなった。 1960年代の輸出加工業の発展は,輸入代替工業化の時 期に成長した既存工業である紡績アパレル,セメント,雑貨および新興輸出加工業で 自 由 ある合板,プラスチック製品,電気電子などがある。つぎに輸入額をみると,図2お 図1 台湾の輸出額の製品別構成 O/ -70 100 .. 90 80 70 , 、 、 ノ ノ ¥ J 60

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K O 1955 1960 1965 1970 1975 1980 一農業製品 十 農業加工製品一工業製品 資料:CEPD (1991)p.213。 (17) 劉 (1992b)pp引 119-120参照。 (18) 劉 (1992b)p 120参照。 1985 1990

(13)

1035 台湾の経済発展と国際貿易 221-表7 台湾輸出入額の製品別構成 (%) 輸 出 輸 入 計 製農 業品 工農業製加品 工製 業品 計 資本財 原材料 消 費 財 1955 100 28.1 61.5 10.4 100 16.5 74.7 8.8 1956 100 18.5 64.5 17.0 100 18.7 73.9 7.4 1957 100 15.9 71.5 12.6 100 20.6 72.5 6.9 1958 100 23.7 62.3 14.0 100 21.8 71.8 6.4 1959 100 23.6 52.8 23.6 100 25.1 67.5 7.4 1960 100 12.0 55.7 32.3 100 27.9 64.0 8.1 1961 100 18.4 44.3 40.9 100 26.4 63.5 10.1 1962 100 11.9 37.6 50.5 100 23.4 68.3 8.3 1963 100 13.5 45.4 41.1 100 21.4 72.1 6.5 1964 100 15.0 42.5 42.5 100 22.1 71.8 6.1 1965 100 23.6 30.4 46.0 100 29.3 65.6 5.1 1966 100 19.8 25.1 55.1 100 29.4 65.5 5.1 1967 100 15.2 23.2 61.6 100 32.1 63.2 4.7 1968 100 11.1 20.5 68.4 100 32.5 62.9 4.6 1969 100 9.3 16.7 74.0 100 34.7 60.8 4.5 1970 100 8.6 12.8 78.6 100 32.3 62.8 4.9 1971 100 7.9 11.2 80.9 100 32.0 62.9 5.1 1972 100 6.8 9.9 83.3 100 31.1 63.2 5.7 1973 100 7.5 7.9 84.6 100 28.6 65.8 5.6 1974 100 4.8 10.7 84.5 100 30.7 62.4 6.9 1975 100 5.6 10.8 83.6 100 30.6 62.6 6.8 1976 100 5.0 7.4 87.6 100 29.1 64.7 6.2 1977 100 5.4 7.1 87.5 100 25.8 66.4 7.8 1978 100 5.0 5.8 89.2 100 24.7 68.5 6.8 1979 100 4.4 5.1 90.5 100 24.6 69.0 6.4 1980 100 3.6 5.6 90.8 100 23.4 70.8 5.8 1981 100 2.6 4.6 92.8 100 16.2 76.9 6.9 1982 100 2.0 5.1 92.9 100 16.3 75.5 8.2 1983 100 1.9 4.8 93.3 100 13.9 78.3 7.8 1984 100 1.7 4.3 94.0 100 13.6 78.6 7.8 1985 100 1.6 4.5 93.9 100 14.1 76.9 9.0 1986 100 1.6 4.9 93.5 100 15.0 75.6 9.4 1987 100 1.3 4.8 93.9 100 16.0 74.1 9.9

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1988 100 1.4 4.1 94.5 100 14.9 73.7 11.4 1989 100 0.7 3.9 95.4 100 16.4 72.1 1990 100 0.7 3.8 95.5 100 17.5 70.5 資料:CEPD (1991)pp.213-214。

(14)

222- 香川大学経済論議A 1036 図2 台湾の輸入額の製品別構成 01. 70 80 70 , ﹂リF , , , , ' 、、 、、 , , ' ' , , 、 、、 、、 、 、 , , , , , , 司 、 、 、、 、

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(15)

1037 台湾の経済発展と国際貿易 223-資とともに10項目を数える国家プロジェクトであった。 重化学工業化の中で,石油化学は前期からすでに発展しており,合織とプラスチッ クという大きな川下部門を擁し,これらの中間原料の輸入代替に大きく寄与した。し かし,鉄鋼一質化と大型造船のための投資は,石油化学のような民間産業との連闘を 形成することが‘できず政府企業の非効率も加わり,経営不振に陥った。結果は必ずし も所期の成果をあげたとはいえないが,この時期はまだ輸出指向型成長の成果もあり, この時期の実質輸出成長率は年平均23..9%に達し,実質GNPの平均成長率は8引7%

ω

であった。国民l人あたり名目GNPは1974年の920米ドノレから1979年の1920米ド ノレになって,アジア地域における NICSの代表と評価されるようになった。 IIL 5 転換期 (1980-1990) 1980年代に入って,台湾経済は,国際環境ばかりでなく圏内経済構造の大きな転換 期を迎えた。 1980年代に入っても,台湾は,依然として輸出指向型の貿易政策を採用していた。 1988年には国民1人あたり名目GNPは6,333米ドルに達し,アジア NIEsと称せら れるようになった。しかし,輸出奨励政策と輸入についての保護政策の結果,輸出超 過現象が発生した。また,表8が示すように,輸出の多くは米国向けのものであった ために,出超の主要な原因は対米輸出の拡大にあった。ここ数年の台湾の対米出超額 は加速し, 1985年には100億ドルになり, 1987年には160億ドル以上になった。米国 は1980年代に入り,財政赤字の拡大,高金利,海外資金の流入,ドル高等のために, 1988年には経常収支はおよそ 1,350億米ドルの赤字となり,世界一の赤字国になっ

ω

た。このことが米国内の貿易保護の意識を高め,対米貿易が巨額の黒字がある台湾に 対し,表9の示すように,米国との聞にさまざまな通商問題が生じた。さらに台湾元 の対米ドル為替レートは, 1983年末の40..22から 1987年末の28..50,1989年末の26..

ω

12に増価し,台湾の輸出はより困難となった。 この時期になると台湾より後発の途上国が労働集約的な財の世界市場に参入してく (20) CEPD (1991)p日 2より算出。 (21) 伊 藤(1991)p124参照。 (22) CEPD(1991)p 199より。

(16)

-224 香川大学経済論叢 表 B 台湾の対米輸出依存度と対米対全世界の貿易 収支(1981-90) (1,000ドル,%) 年代 対依米存輸度出 対収米貿支易 対貿全易収世界支 1981 36.1 3,397,336 1,411,646 1982 39..4 4,195,652 3,315,895 1983 45 1 6,687,280 4,835,669 1984 48 8 9,826,067 8,497,304 1985 48 1 10,027,100 10,623,613 1986 47 7 13,581,284 15,680,044 1987 44..1 16,036,828 18,695,368 1988 38.7 10,460,444 10,994,562 1989 36 3 12,033,426 14,038,626 1990 32.4 9,134,026 12,498,442 注:対米輸出依存度は,台湾の輸出額全体に占める買が転輸出額の比 率。 資料:CEPD (1991)p 215-222。 表9 台湾・米国間の主要な通商問題 1986. 7 繊維貿易交渉妥結(輸出伸び率を 05%に自主規制) 12 鉄鋼と工作機械の輸出自主規制に合意,酒・たばこ通商交渉協議成立 1987. 4 米台通商交渉において,農産物を主体とする 62品目の関税を暫定的に 1年 間引き下げ決定 12 酒・たばこ市場開放で合意 1988. 1 アメリカが台湾に対して GSP (一般特恵関税制度)の廃止を発表 9 アメリカ包括通商法に対する対策策定 11 331品目の関税機動引き下げ実施 11 アメリカが台湾に対して競争力を有する 78品目の関税引き下げを要請 12 1989年からの保険市場の全面開放を表明 出所:通商白書 (1989)p 264。 1038 る よ う に な り , 台 湾 は そ れ ら の 固 と の 激 烈 な 競 争 に 巻 き 込 ま れ る こ と に な っ た 。 さ ら に,図3と表10が 示 す よ う に , 台 湾 の 実 質 賃 金 率 の 上 昇 に よ っ て

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低 賃 金 労 働 力 を 基 礎 と し た 比 較 優 位 が 喪 失 し つ つ あ る 。 し た が っ て , 台 湾 は 付 加 価 値 の 高 い 資 本 , 技 術

(17)

1039 16% 15%吋一一 14%←一一 台湾の経済発展と国際貿易 関3 実質賃金率の年成長率 (1981-1990) l3%寸一一一一一ー 一一ーーー 12%+ロ一一ー一一一一 どこー一一一 11%~----\---ー一一 10%~ー 7% 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 出所:天下雑誌編輯部(1991)6月号, P 124。 表10製造業賃金率指数 (1986= 100) 1976 43..63 1977 49..86 1978 48..62 1979 57..97 1980 69.57 1981 81 24 1982 88..56 1983 87..19 1984 94..57 1985 99..50 1986 100.00 1987 10L29 1988 106“01 1989 11L75 1990 118..45 注:年平均である。 資料:CEPD (1991) p 20 225

(18)

-226- 香川大学経済論叢 1040 集約的産業の育成と発展を迫られていた。 しかし,民間資本の不足のため,台湾の産業はまだ付加価値が低しなおも労働集 約的産業を中心とした産業構造から脱却していない。図 4は, 1980年代の投資と貯蓄 のギャップの推移を描いたものである。これによると 1981年から GDPに占める投資 率が低下を見せ始めるのに対し, GNPに占める貯蓄率は横ばいから上昇傾向を示し ている。 1986年において貯蓄率の 385%に対し投資率が 175%で,両者のギャップ は, 21ポイントも離れている。その後このギャップが次第に縮小しているが, 1990年 に至るまで依然として 10ポイント近くの殺離が続いている。このギャップは貯蓄が十 分に拡大しているにもかかわらず,それが再生産のための投資に回っていないことを 意味している。その代わりにこの過剰資金が証券や不動産の市場に流入してバブル経 済の症候を生み出した。 資本,技術集約的産業の発展が遅れていること,実質賃金率の上昇のために労働集 約的産業の比較優位の低下および台湾元の急激の増価などの要因により, 1988年より 図 4 1980年代の投資(I)ー貯蓄

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1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 一 投 資 率 一 貯 蓄 率 資料:CEPD (1991) p 43-56。

(19)

1041 単位:億ドル 16

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台湾の経済発展と国際貿易 図5 台湾の民間資本の流出(1981-1990) 14 -←一一一一一ー一ー一一ー一一一一ー一一一一 12→一一ーーー一一一一一一一一一一ー 10→一一一ーー一一一ー一一一一一一

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一一ー一一一一一一ーーー 6 +----一ー一一一一一一一一 O 227ー 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 出所:天下雑誌編輯部 (1991) 6月号, p 124。 1990年までの実質工業成長率は2..3%,実質輸出成長率はL8%,実質GNP成長率は 。日) 68%であり,いずれも低い伸び率となっている。さらに,図5に示されているように 最近とくに台湾の資本輸出が急速に進んでいる。表11に表されているように,資本輸 出が,比較優位の低下した労働集約的な輸出加工業を中心に東南アジア地域において 増加している。ところで,他の産業は投資意欲に乏しいため資本,技術基盤が弱く, 自力で高度化することが困難であると予想される。労働集約的産業が台湾国内で衰退 し海外へ進出していくなかで技術集約的産業はまだ発展していないので,産業の空洞 化が起こることは避けられないと思われる。今後,輸出製品の高付加価値化やハイテ ク化の進展および輸出市場のアメリカへの集中の是正が,台湾経済の当面の大きな課 ~~ 題であるようと思われる。

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V

.

む す び このノートにおいて,われわれは,次のような点を明らかにしてきた。 (23) CEPD (1991)p引 2より算出。 (24) 劉(1992b)p 152参照。

(20)

-228 香川大学経済論叢 表11 台湾の時期別主要対外投資の推移 (1959-90年) (100万ドル) 4に斗3 ア メ リ カ マレーシア フィリピン 件 数 金 額 件 数 金 額 件 数 金 額 件 数 金 額 計 873 3,077 308 1.294 90 359 49 239 1959-85 219 215 60 117 19 7 9 10 86-90 654 2,862 248 1,177 71 353 40 229 1986 32 57 16 46

。 。

1 0.1 1987 45 103 21 70 5 6 3 3 1988 109 219 42 123 5 3 7 36 1989 153 931 55 509 25 159 13 66 1990 315 1.552 114 429 36 185 16 124 タ イ インドネシア 香 港 そ の 他 件 数 金 額 件 数 金 額 件 数 金 額 件 数 金 額 計 III 234 34 93 57 61 224 798 1959-85 26 9 12 26 12 8 81 38 86-90 85 224 22 67 45 52 143 760 1986 3 6 2 1 0.3 11 3 1987 5 5 1 3 1 8 17 1988 15 12 3 2 9 8 28 35 1989 23 52 l 0..3 5 10 31 135 1990 39 149 18 62 27 33 65 570 資料:経済部投資審議委員会r華僑及外国人投資,技術合作,対外技術合作統計月報J1990年12月, p.49-52。 出所:劉(l992b)p 152表2-25。 1042 清朝末期には台湾経済は,農業および商業の発達段階からみると資本主義的発展の 萌芽期ともいうべき段階になっていた。日領期における日本帝国主義による台湾植民 地経済の基本的特徴は,台湾を日本への原料,食料の供給基地として位置づげ,安価 な農林資源,豊富な人的資源を利用する米糖2大輸出指向商品作物に特化した農業モ ノカルチャー経済であった。戦後の調整期 (1945-1952)には,台湾経済は,新台湾元 の改革によって台湾の通貨,経済危機を乗りきり,台湾は,中国大陸経済圏から政治 的,経済的に完全に切り離され,独自の経済体制に変わった。輸入代替工業化の期間

(21)

1043 台湾の経済発展と国際貿易 -229ー (1953-1963)において,農産物の輸出指向的発展と輸入代替工業化が並行して進展し た。輸出指向工業化の期間 (1964-1973)には,台湾が豊富な廉価労働力を有効に利用 して,外国から輸入される原材料,中間投入財,資本財を用いて生産した消費財を海 外市場に輸出した。不安定成長期 (1974-1979)において,政府の重化学工業化政策は 必ず、しも所期の成果をあげたとはいえないが,この時期はまだ輸出指向型成長の成果 もあり,国民1人あたり名目 GNPは 1979年には 1920米ドルになって,アジア地域に おける NICSの代表と評価されるようになった。転換期 (1980年代)になると,台湾は, 依然として輸出指向型の貿易政策を採用していた。 1988年には国民 1人あたり名目 GNPは 6,333米ドルに達し,アジア NIEsと称せられるようになった。 引 用 文 献

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Vogle, E.. F (1991)“Taiwan" in Vogle, E F The Four Little Dragons -The Spread

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Industrialization in East Asia (Harvard Univmesity Press) Chapter 2 陳 治 中(1993)w台湾の経済発展と国際貿易J(香川大学経済学部,修士論文) 陳 治中・井上寅照(1993) r台湾の貿易構造と対日貿易についてJ I香川大学経済論叢』第66 巻 第3号 (12月) 伊藤元重(1990)Iゼミナール国際経済入門J(日本経済新聞社) 小林謙一(1990)r台湾の経済発展と労働経済のダイナミックスJW経済志林J(法政大学)第57 巻 第4号 (2月)pp 197-246 村 上 敦(1989)rアジア諸国の経済発展と対外環境J W国民経済雑誌A(神戸大学)第160巻 第 4号 (10月)pp 67-90 西村詩夫(1990)r台湾における経済成長の研究JW名古屋学院大学論集 社会科学篇』第27巻 第1号 (7月)pp 93-107 劉 進慶(1987)rニックス的発展と新たな経済階層一一民主化の政治経済的底流」若林(1987) 第3章 劉 進慶(1992a) r農業一一経済基盤の役割」隅谷・劉・徐(1992) 1章 劉 進慶(1992b) r産業一一一官民共棲構図」偶谷・劉・徐(1992) 2章 隅谷三喜男・劉進慶(1992)r経済発展一寸邑程と果実」隅谷・ ~J ・徐 (1992) 序 章

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-230- 香川大学経済論叢 1044 隅谷・劉j・徐(1992)I台湾の経済一一典型NIEsの光と影I(東京大学出版会) 天下雑誌ネ':1::1編輯部(1991)r数字十年"虚目学的年代J I天下雑誌』天下雑誌社,台湾,第121期 ( 6月)p 124 非~鑑生 (1988) r台湾における産業構造の転換と発展JW大阪学院大学経済論集』第2巻 第 3号 pp69-100

通産産業省編『通商白書総論~ (平成元年版) (大蔵省印刷局) 若林正丈編(1987)w台湾一一転換期の政治と経済I(田畑害届) 矢野恒太記念会編(1992-1993) r世界国勢図会I(国勢社)

参照

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