• 検索結果がありません。

長吏太郎左衛門と砥商い

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "長吏太郎左衛門と砥商い"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

伊藤拓也   長吏太郎左衛門と砥商い     はじめに   り、 1 で、 城( る。 邦( が、 便 上、 が、 主から権限を委譲されて同領を支配し 2   ら、 稿 は、 う、 て、 う、 国と鉢形領などを舞台に活動する長吏を軸に分析したい。   が、 年、 に、 ないその実態の多様性が指摘され、 分析が進んでいる。 近世の長吏 (長 は、 て、 囲( る。 人、 う。 方、 い範囲で市商いを行う。 商う物品は近世初期までは砥石が主体であっ る。 は、 る。 は、 名・ き( が、 )、 宿( は、 団( などに位置づけられることになる)を率い 3   だ、 は、 い。 が、 析、 考える。   稿 は、 て、 に、 だけ拠って実態分析を行 4

長吏太郎左衛門と砥商い

 

 

 

(2)

成蹊人文研究   第二十一号(二〇一三)       鉢形領成立以前の太郎左衛門   は、 家( 5 る。 料( 3) が『 る( )。 は、 門( ば、 6 原( が、 稿で扱う太郎左衛門との関わりは不明である。   さて太郎左衛門の初見は、次の史料である。   【史料1】北条宗哲朱印 7 門、 用、 候、 上、 申触、可加成敗者也、仍如件、      天文廿四年 (一五五五)       六月十二日       (宗哲朱印)        長吏         太郎左衛門   で、 8 は、 城( 9 際、 う。 ち、 て、 る。 る( る、 )。 が、 う。 吏もいたらしく、弘治二年(一五五六)に太郎左衛門を訴えている。   【史料2】北条家裁許朱印状 10 上州平井長吏九郎左衛門訴申に付 太郎左衛門召出遂糺明之処、 処、 畢、 上、 は、 届、 承引 、小田原表 注進可申旨、仍下知如件、      弘治二年正月十日     石巻         長吏太郎左衛門   は、 た。 は、 て、 た。 は、 1( き、 除、 持・ た。 り、 る。 降、

(3)

伊藤拓也   長吏太郎左衛門と砥商い 料上みられなくなる。   しかし源左衛門は、その後においても上野国にいた。   【史料3】北条家虎朱印状 11  、   儀、   処、 申、 旨、 上、 候、 相違可申付、此上源左衛門兎角申時は、可被払御国事、  、長吏源左衛門被払   御分国候処、 厩橋之長吏所に有之由申候、 候、 は、 候、 之、 之上、拘方不可有之候、可致討捨者也、仍如件、      永禄二年八月七日   狩野大膳亮 奉之          長吏          太郎左衛門え   く、 への対応が、 二条目では「徘徊」を見つけ次第殺害、 一条目では「兎 角」を申せば追放、 とやや異なる。一条目は、 もとは、 二条目に先だっ る。 れ一条目からは、 源左衛門が沼田(群馬県沼田市)の道者に係る「横 き( )、 の「 る。 る。 か。源左衛門は沼田においても、 太郎左衛門と権限をめぐりあらそっ か。 は、 厩橋 (同県前橋市) の長吏のところに潜伏していた状況がうかがえる。 り、 る。 12 が、 る。 は、 せ、 を( うよう申付けている。   は、 て、 門( い、 し、 に「 る。 た。 虎( る。 は、 に、 ら( た。 で、 も、 る。 は、 後( 13 り、 る。 に獲得した権限も、侵攻により失われてしまった。

(4)

成蹊人文研究   第二十一号(二〇一三)       太郎左衛門と鉢形領   年、 が、 退 と、 し、 月、 14 成立したと理解しうる。   永禄八年(一五六五)二月、太郎左衛門は再び史料に登場する。   【史料4】北条氏邦朱印 15 (傍線は筆者) 而、 候、 何人盗商 付而、 荷馬共相押、 其人召連、 関山 参可申上、 遂糺明、 後年之儀、弥可有御定旨、被仰出者也、仍如件、       (永禄八年)      乙丑         奉之       二月十一日    三山五郎兵衛       (氏邦Ⅰ型朱印)          長吏           太郎左衛門   太郎左衛門は、 鉢形領での砥商いに係る権限行使に関して訴え (「御 」) し、 り、 る。 は、 り、 る。 は、 ているものとまではいえず、 最終的な権限は当主が(潜在的に)握っ る。 も、 衛門に対し、同内容の再確認・認定をしてい 16   門( 合、 は「 」( 者、 る。 れ、 (寄居町) に連行され、 氏邦の名のもとに糺明を受けることになる。 は、 城( 17 ける、当該領域における経済的な中心であろうか。   吏( に、 が、 た。 は、 り、 か「 う。 て、 い。 鉢形領内に従来より根をはっていた長吏との衝突も発生する (後述)   き、 か。 た、 は、 か。 が、 天正五年(一五七七)発給の、次の史料である。   【史料5】北条氏邦朱印 18 (傍線は筆者) 西 事、 間、 之、 廿

(5)

伊藤拓也   長吏太郎左衛門と砥商い 間、 上、 申上、 何事 如前々申付、 御大途之御用等、 又鉢形用所 をも 可走廻、 末野長吏可致懇切旨、被仰出者也、仍如件、        丁丑 (天正五年)         卯月廿九日          (氏邦Ⅱ型朱印)        長吏         太郎左衛門   傍線部 (実線) より、 まず太郎左衛門の本拠は人見 (「仁見」 、深谷市) である。 人見は、 深谷領に属したとみられる。 深谷城の南東数キロメー し、 憲( 社( 寺など) に寄進してい 19 この段階における深谷上杉氏と北条氏とは、 20 が、 る。 人見を本拠にしたのか定かではないが、 上野国の拠点を失った (前述) う。 る。 ば、 る。   は、 西 た。 る。 は、 沢( 坂( は、 寺( る。 も、 郡( )・ 西 郡( 21 西 は、 う。 西 り、 ように、武田氏と結びついた長吏もいた。   【史料参考1】武田家定書 22         西 (ママ) 事、 谷、 通、 間、 違、 旨、 仰下也、仍而如件、       天正四年八月七日「武田家朱印」        跡部大炊介奉之        西上州長吏           助左衛門   は、 孫( 田( ら、 る「 23 る。 24 り、 う(なお本稿における他の写の史料についても、この点同様)   期、 老( は、 し、

(6)

成蹊人文研究   第二十一号(二〇一三) を所持したとされる。しかもその内容は、 先祖が上野国で砥石を商っ 25 ば、 り、 孫( か。 は、 て、 の「 し、 により安堵されたと理解しうる。   は、 が、 る。 西 は、 て、 門( 西 は、 ちの協力が必要であったと想定される。   て、 え、 る。 る太郎左衛門は、 深谷領の人見を本拠に活動する。 砥商いに関しては、 れ、 た。 る。 に、 主( 」) の「 邦( 」) の「 る。 しうる。   で、 部( は、 野( し、 る。 が、 章をあらためて述べたい。       末野の惣右衛門とのあらそい   門( は、 て、 方、 を「 」( 本〔 〕。 の、 領との境目か)で徴収する権限も有していた人物とみられる。   【史料6】北条氏邦朱印状 26 置、 候、 儀、 宛、 於水之本可被取旨、被仰出者也、仍如件、      (天正六(一五七八)年)       戊刁    「氏邦虎朱印」         卯月十五日        (氏邦朱印影)         長吏         惣衛門   は、 う。 る。 えた。なお史料3における源左衛門の沼田の道者に対する 「横合」 は、

(7)

伊藤拓也   長吏太郎左衛門と砥商い た、 を( 左衛門側からみれば)不当にとる行為であった可能性があ 27   が、 稿 の項には次のように記載されてい 28 云、 り、 形より命じて砥役を所務せしと云、 (後略)   は、 書( が列挙されている。ただし、 史料6の「御印判」 、および史料7の「彼 と、 は、 ちあくまで一部分とみられる。惣右衛門については、 「勤労」により、 る。 況の一端について物語るのが次の史料である。   【史料7】北条氏邦朱印状 29 事、 上、 け、 候、 て、 事、 之、 目、 上、 可申付者也、仍如件、         「氏邦朱印」                五月九日          長田右近丞          (氏邦朱印影)         (ママ) 惣右衛門   が、 年( 三、 30 り、 る。 鉢形を居城とした時期 (前出) から年次は永禄九年 (一五六六) 以降、 ろ、 のと考えられる。   さて右史料では、 惣右衛門の所持とみられる先年の判形 (「彼印判」 る。 に、 が「 し、 る。 商いを認める過所(史料5、 後掲史料8)にあたり、 二〇疋の枠内で、 ものと理解しうる。   は、 31 が、 い。 の「 が、 い。 ち、 は、 と理解され 32 なお太郎左衛門とその配下の間にも同様の関係があっ たと想定しうる(史料4・史料5)   「 は、 は、 氏の支配地域の意と理解しうる。 惣右衛門がいた末野は、 藤田泰邦 (氏 邦の先代) 以前の藤田氏の本拠花園城 (寄居町) 城下に位置する (付

(8)

成蹊人文研究   第二十一号(二〇一三) ど、 )。 は、 に、 宿 る。 は、 が、 により既に藤田氏が認めた地域 (「藤田御領」 )の内であれば確実だが、 る。 果、 れていた権限が安堵されたのであろう。   く、 33 居住した。   【史料参考2】北条氏邦朱印状 34 (傍線は筆者) 廿 脚・ 間、 下候 、山共厳密守可申候、花園山共   被仰付者也、仍如件、        (天正一七(一五八九)年)                正月三日   「氏邦朱印、虎不見」        (氏邦朱印影)         末野之かね打   に、 か、 に、 る。 か、 い。 は、 集住した、非人宿のようなところであった可能性がある。   る。 は、 て、 ず、 村( 35 も、 孫( は、 孫( に、 打・ 36 の、 もある。   は、 り、 る。 は、 れ( り、 た。   【史料8】北条氏邦朱印状 37 判、 廿 分、 之、 段、 仁見之長吏 (郎脱カ) 衛門 致懇切、 御用等可走廻様、 被仰付上 候、 旨、 也、仍如件、          「氏邦朱印」        寅卯月十五日        (天正六(一五七八)年)       (氏邦朱印影)

参照

関連したドキュメント

(1)自衛官に係る基本的考え方

[r]

つの表が報告されているが︑その表題を示すと次のとおりである︒ 森秀雄 ︵北海道大学 ・当時︶によって発表されている ︒そこでは ︑五

③委員:関係部局長 ( 名 公害対策事務局長、総務 部長、企画調査部長、衛 生部長、農政部長、商工

[r]

【会長】

疎開先所在地 勢多郡大胡町 群馬郡総社村 群馬郡総社村 勢多郡黒保根村 勢多郡富士見村 群馬郡古巻村 群馬郡古巻村 勢多郡北橘村

その太陽黒点の数が 2008 年〜 2009 年にかけて観察されな