• 検索結果がありません。

橡紀要「踊る肉体から輝く精神へ」Vers2.PDF

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "橡紀要「踊る肉体から輝く精神へ」Vers2.PDF"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

踊る肉体から輝く精神へ −エルゼ・ラスカー=シューラーにおける身体像の変貌−        山口庸子 目次 I はじめに II 「新しい共同体」との別離 III「最後の星」の分析 1 天上的舞踊 2 調和の喪失 3 「間」の導入 4 「ユダヤ的なもの」の回帰 IV 視覚の優位 V 舞踊と遊戯 VI パフォーマンス空間としてのオリエント 1 身体像の変貌 2 「カルト的なもの」としての舞踊 I はじめに 詩人エルゼ・ラスカー=シューラー(Else Lasker-Schüler 1869-1945)にとって、 舞踊芸術は、生涯にわたって重要な意味を持っていたが、そのニュアンスは、時期によ って異なっている。ラスカー=シューラーが詩人として出発点した世紀転換期、彼女は ハインリヒ・ハルト、ユリウス・ハルト兄弟によってベルリンに設立された「新しい共 同体(Neue Gemeinschaft)」に属し、ドイツの裸体文化運動の創始者の一人、フィド ゥスとも交流があった。第一詩集『冥府の河』(1901、但し発行年は 1902 付け)は、こ の「新しい共同体」での活動を背景に成立しており、ユーゲントシュティール、モダン ダンス、身体文化運動、生の哲学など、世紀転換期の様々な思潮を色濃く反映している。 この中で舞踊は、自己の限りない実現と、周囲との限りない調和の両方を可能にする、 ユートピア的なものの象徴であった。なかでもマイナデスの身体イメージを用いた詩「秘 儀」は、個としての女性の感情やエロスの率直な表現であるとともに、詩人としての自 己確立の宣言とも理解できる1 だが、自己と世界との幸福な融合は、現実を遮断した、自閉的なユートピアにおいて のみ成り立つものであり、結局ラスカー=シューラーは、1902 年ごろ「新しい共同体」 を離脱することになる。さらに 1903 年には、庇護者ペーター・ヒレとも袂を分かち、

(2)

後に表現主義の領袖となるヘルヴァルト・ヴァルデンと再婚している。第二詩集『聖別 の日(Der siebente Tag)』(1905)における舞踊が表現するのは、受け容れられ たと信じた世界に対する失望と疎外の感覚である。こうしてユートピア的な世界が解体 していくにつれ、舞踊も作品世界での特権性を徐々に失っていく。舞踊はこれ以後もな お重要なモチーフの一つであり続けるが、その意味合いは次第に否定的なものに傾斜し ていく。本稿では、詩「最後の星(Der letzte Stern)」を題材に、『聖別の日』に 現れた舞踊の意味を分析するとともに、この時期以降の身体像の変化についても探って いきたい。 II 「新しい共同体」との別離 クリスティーネ・ライス=スーコワは、「新しい共同体」との絶縁が、ラスカー=シ ューラーのその後の行動に、決定的な影響を与えたと指摘している。「彼女は、もはや 結社を全面的に信頼することをせず、二番目の夫であるヘルヴァルト・ヴァルデンの企 てにも(それを自分のために利用しはしたが)距離を置き、ほとんど自分に関わる事柄 のためにだけ闘うようになった。」2 第二詩集『聖別の日』は、ヴァルデンの「芸術の

ための結社(Verein der Kunst)」から出版されている。その冒頭詩「認識(Erkenntnis)」 は、「新しい共同体」からの別離と、ラスカー=シューラーの思想的変化との関連を物 語っている。 「認識」には、異稿として1900 年 11 月に成立したと思われる「認識(Erkenntniß)」 (以下、初稿とする)が残されている3。そこに付された「ユリウス・ハルト、ハインリ ヒ・ハルト、ランダウアー氏に捧ぐ」という献辞は、この初稿の成立に「新しい共同体」 が深く関わっていたことを示している4。初稿には、形式・内容の上でも、語彙の上でも 『冥府の河』、特に「秘儀」との関連が認められる。「秘儀」では、古代ギリシアのデ ィオニュソス祭を背景に、恋人たちの愛の世界と、詩人の芸術の世界とが、楽園のイメ ージのもとに重ねられていた5。初稿「認識」もまた、楽園のアダムとエバの恋愛、「認 識」がもたらす「神=魂(Gott=Seele)」の創造、楽園からの追放とそこへの帰還が題 材とされている。アダムとエバの「原初の叫び(Urgeschrei)」や「楽園の林檎」など の語彙も似通っており、「秘儀」とほぼ同じ「私たちは被いを剥ぎ捨てる(Wir reißen die Hüllen ab)」という表現さえ見られる。ギリシア神話と旧約聖書という背景の違いは あるものの、あらゆる対立を超えた調和的な楽園というイメージは、初稿「認識」と「秘 儀」とに共通していると言える。

これに対して『聖別の日』に収められた「認識」には、献辞が存在しない。また、詩 の焦点はエバに移り、アダムについての言及はもはやない。楽園を描いた第一連は、初

(3)

稿とよく似ているのだが、もっとも大きな違いは「原初の叫び」が「エバの歌」とのみ 呼ばれることである。この第一連は破線によって、第二連以下から明らかに隔てられて いる。第二連以降では、エバの原罪と楽園追放が描写される。エバは「あまりにも早く 光を見」、自らの「目覚めつつある眼差し」に脅えている。詩の語り手から、「おまえ の不安な歌を、孤独に歌え」と呼びかけられたエバは、堕天使のように、失われた楽園 のことを物語る。「折るがいい、私の肩から、燃えるエデンを!/その冷たい手をとっ て、私たちは戯れ/その明るい雲の輪を抜けて、私たちの歓喜は躍った。/今 私の爪 先は、狂った矢のように地の上を飛び/私の憧れは、鋭い弧を描いてわが先を這ってい く。」(GW I, S. 113)詩の最後で、エバは語り手から楽園に戻れと呼びかけられる。 だが、エバが果たしてその声に従ったのかどうかは、明らかにされない。 『聖別の日』の「認識」では、原初のユートピアは過去のものとなっており、初稿か らの大幅な変更は、明らかにラスカー=シューラーの思想的変化に対応している。詩の 語り手は、「目覚めた」エバの孤独と、それのみが「神=魂」を生み出す彼女の「歌」 の力を強調している。この楽園の喪失に伴って、舞踊も自己と世界の調和ではなく、自 己の世界からの疎外と孤独を表現するようになる。 III 「最後の星」の分析 1 天上的舞踊 『冥府の河』では舞踊が地上的な生と結びついていたのに対し、『聖別の日』に現れる 舞踊は、ほぼ例外なく天上への指向性をもつ。そのとき踊り手には、星のイメージが好 んで使われている。詩「最後の者(Der Letzte)」(GW I, S. 144)においては、月 が踊る「デルヴィッシュ(Derwisch)」6に喩えられる。「余韻(Nachklänge)」(GW I, S. 130-131)では、踊り手は「私の晩い愛(meine späte Liebe)」であるが、宙 を飛ぶこの愛は、「この青い/明るい、光る青の愛」と言い換えられている。暗い夜空 と対比される「天空の踊り手(Der kosmische Tänzer)」7としての星は、自己の世界

からの孤立ばかりではなく、その孤独ゆえの調和への希求の象徴ともなっている。 天上への志向は、色彩の面からも窺える。情熱とエロスの色である「赤」が支配した 『冥府の河』に対して、『聖別の日』は、「青」という色彩が初めて登場した詩集でも ある8。『聖別の日』の初版本は、表紙もタイトルの文字も、表紙と見返しに描かれた多 くのダビデの星も、すべて青で統一されている9。この「天の青(himmelsblau)」は、 これ以降最後の詩集『私の青いピアノ(Mein blaues Klavier)』(1943)に至るま で、「詩的なるもの」を示す色彩として用いられることになる10。舞踊が、青い色彩と

(4)

結びついていく様子は、散文『バグダッドのティノの夜な夜な(Die Nächte Tino von Bagdads)』(1907)の一節、「青い部屋」において明らかである。「私の甘い、青い 部屋は、奇蹟の花−ああ、踊り子...いつも絹の青い歩みのなかを歩む...魔法のように微 かに...それは、太陽とともに、明るい影の輝きを踊り、星々のまわりに青い夢を蒔きつ けた、あなたは、青い髪をした部屋を見たことがあるかしら、セナ・パシャ?おお、青 い部屋は、私の口づけ、そして私はこの青い、青い口づけのために死ぬ」(GW II, S.63) 2 調和の喪失   Der letzte Stern Mein silbernes Blicken rieselt durch die Leere, Nie ahnte ich, daß das Leben hohl sei. Auf meinem leichtesten Strahl Gleite ich wie über Gewebe von Luft, Die Zeit rundauf, kugelab, Unermüdlicher tanzte nie der Tanz.   (...) (GWI, S. 146) (「最後の星」 私の銀の視線が さらさらと虚空を落ちていく/私は予感しなかっ た、生きていることは空しい、と。/最もかろやかな光輝のうえを/ 空気の織物を わたるように 私はすべっていく/時をまるく上へ、環を描いてくだり、/これは 今 までで一番 疲れを知らない踊りだ。)  この「最後の星」を、旧約聖書の創世神話の文脈、中でも人類の原罪という観点から 解釈するということに関しては、論者の意見は一致しているように思われる11。詩集の

題名の由来でもある「聖別の日が近づく−(Es naht der siebente Tag -)」という句は、 いわばこの詩の「軸」12となっている。この句は33 行の詩の 16 行目、すなわち詩の真 ん中に置かれ、しかもダッシュで強調されている。詩のリズムもここで変化し、また内 容的にも前半と後半に分割される。 「最後の星」では 15 行目までの詩の前半部が、宇宙と調和的に存在する人間の原初 の運動を表わしている。時間も空間も存在しないこのような無限性は、「時をまるく上 へ、環を描いてくだり」、「幾重もの蒼ざめた輪(blasse Ringe)」、「身をひねる

(5)

(drehen)」などの舞踊に伴う円環のイメージによって示されている13。創造の終わり

を表わす「聖別の日」が近づくにつれ、ここに一つの秩序が形成され始める。詩の後半、 24 から 25 行目にかけては、境界をもつ空間の形成が「すべてが押し寄せひしめいて/ 最後の運動にまとまる。(Und wie alles drängt und sich engt/ ins letzte Bewegen.)」と 表現される。続いて「時なきものたちの胎内で/時の呼吸が早まる。(Kürzer atmet die Zeit/ Im Schoß der Zeitlosen.)」という 2 行が、時間の誕生を予告する。最終行におい ては、この星の舞踊はその広がりと輝きを失って一点となり、人間の宇宙の調和からの 孤立が決定的となる14(「私の踊りは一点となる/盲いて。(Ein Punkt wird mein Tanz/

In der Blindnis.)」 さ ら に こ の 詩 に 関 す る 限 り 、 創 世 神 話 の カ バ ラ 的 な 解 釈 、 中 で も 「 シ ェ キ ナ ー (Schechina)」と呼ばれる概念の存在を無視することができないように思われる。シ ェキナーとは、人類の原罪以来、この世に流謫し人間とともに存在する神の神性を指す。 カバラ文学のなかで最も重要な書である『ゾーハル』以後、シェキナーは神の女性的要 素として解釈されるようになり、また聖なる結婚としての安息日という概念とも結びつ いた。ゲルショム・ショーレムは、安息日の讃美歌を目を閉じて歌うというしきたりに ついて報告している。「これはすなわち、カバラ主義者が説明しているとおり、シェキ ナーは、流謫中に泣き暮らした『目の見えない処女』であるという『ゾーハル』の記載 に基づいているのである。15」神の花嫁としてのシェキナーには、芸術の神の恋人とい う、「秘儀」での自己規定との連続性が認められる。また最終行に登場する「 盲 目 (Blindnis)」というイメージは、星の輝きの喪失を表すとともに、「目の見えない処 女」としてのシェキナーという概念を反映していると考えられる。 3 「間」の導入 文字・韻律・語彙・形象といった言語記号の様々な側面において「言葉の舞踊」を表 現していた「秘儀」16に比べると、「最後の星」のリズムはかなり地味な印象を受ける。 ここでは一文は1 行から 3 行に押さえられ、詩の行末と意味の切れ目は、ほぼ一致して いる。詩脚も脚韻も全く放棄され、かわりに、詩のそこここにツェズールが置かれる。 「動き」を効果的に表現していた現在分詞や過去分詞の付加語ほとんど見当たらず、か わりに「揺らぎ(Schwanken)」、「動き(Bewegen)」、「曙(Auftagen)」など の動詞の名詞化が目立つ。全体として静止から運動へではなく、運動から静止へという のがこの詩の方向性であって、異なる反復を積み重ねたポリリトミックなリズムの代わ りに、言葉と言葉を切断するものとしての「間」が、リズムを構成する要素となる。こ ころみに、先に引用した1 行目から 6 行目の韻律を表現してみると、以下のようになる。

(6)

( ’は、ツェズールを示す。) ∪−∪∪−∪’ −∪−∪−∪ −−∪−’ ∪∪−∪−∪ ∪−∪−∪∪− −∪−’ ∪−∪∪−∪∪− ∪−−∪’ −∪  −∪−∪∪’ −∪−∪−

バウシンガーは、『聖別の日』の「わたしの静かな歌(Mein stilles Lied)」(GWI S.134-136)において初めて、無韻の 2 行が 1 連をなす、ラスカー=シューラーに典型 的な詩形式が現れたことを指摘している。バウシンガーによれば、この形式は、『冥府 の河』の「形象の複合(Bildkomplex)」という創作原理に代わる、「連想的な配列 (assoziative Rheiung)」という新しい創作原理の登場に対応している17。1 連の内容 は、2 行で完結しており、必ずしも次の連の内容と因果論的な関係を持たない。一つず つ「間」で区切られた連を積み重ねることにより、詩の世界はより緩やかな、開かれた ものとなる。1 文が 2、3 行で、意味の切れ目と詩行末が一致するという「最後の星」の 構成は、「形象の複合」の形式から「連想的な配列」の形式に至る過程にある、と考 えられる。それは、詩がその重心を言葉から言葉ならざる「間」へ、「叫び」から「静 かな歌」へと移してく過程でもある。 4 「ユダヤ的なもの」の回帰  『冥府の河』における時間の無時間性は、詩の形象の面からだけではなく、繰り返さ れる波のような、詩の形式的な構造の面からも保証されていた。ディオニュソスの死と 再生を祝う古代ギリシア的な時間意識が、永遠に回帰する円環的なものであったのに対 して、『聖別の日』を支配するユダヤ教的な時間意識は、螺旋的なものである。そこで は、世界の創造とその終焉という不可逆的な時間の流れと、7日で一巡する週の循環的 な時間が組み合わされている。このユダヤ的な時間意識は、『聖別の日』の構成からも 窺える。というのも、この詩集は「認識(Erkenntnis)」で始まり、「世界の終わり (Weltende)」と題された詩で終わるからである。 後の随想集『コンサート』(1932)に収められたエッセイ「祈り」では、ラスカー= シューラーは、明らかに神学的な思考をを背景としつつ、時間について次のように述べ ている。

(7)

なぜなら、人間は宇宙、つまり原世界(Urwelt)の輪郭との絆を解かれて、自分を 取り巻く世界(Umwelt)、つまり時間の中で生きるからです。人間は時間の中で生 き、動物は自然の中で、植物は一面の緑の葉の幻想(in ihrer einheitlich grünen Blattillusion)の中で生きるのです。(GW II, S. 779)  様々な神の存在を許容する多神教的な時空から、ユダヤ教的な一神教の時空へと、ラ スカー=シューラーの作品世界は大きく転換している。それは、「聖別の日」という詩 集のタイトルや、ダビデの星を散りばめた本の装丁、初めてユダヤ民族を主題とした詩 「わが同胞(Mein Volk)」(GWI S. 137)の存在によっても示されている。このよ うな「ユダヤ的なもの」への回帰は、ユダヤ教の無批判な受容というより、ユダヤ人女 性ゆえの差別に晒される現実を自覚することから生まれたように思われる。しかし一方 で、”Umwelt”の中でのこの疎外ゆえに、詩人は”Urwelt”の記憶を保持し、神と人類の媒 介者たりうる。7日目の安息日は、その神による世界創造を記念する日である。したが って、『聖別の日』という詩集のタイトルは、神と人類を媒介するものとしての芸術の シンボルとして、解釈することも可能であろう。 VI 視覚の優位 『冥府の河』においては、動く肉体は魂の動きそのものであり、両者を分離すること は不可能であった。だが、星という「一点(ein Punkt)」に凝固した主体には、かつ ての多様性と可変性は失われている。「一つの意味を帯びた多様性」としての身体18 代わりに、精神と対峙する肉体が姿を現す。それは舞踊が、詩の内容やイメージ、韻律、 視覚的配列までに影響する詩学的モデルから、一つの重要なモチーフへと、後退してい く過程と重なっている。ユートピアに対する失望は、ラスカー=シューラーに詩人とし ての自立を可能にした。それは「予言者」、すなわち神の代理人としての、詩人の特権 的な地位に目覚めることであった。だが奇妙なことに、獲得されたこの精神の自由は、 ラスカー=シューラーには、「肉体への囚われ(die Gefangenschaft des Körpers)」 (GW II, S. 742)としても感じられていたのである。シェキナーという概念が示してい るように、それは「現世への虜囚」でもあった。 柄谷行人は、『日本近代文学の起源』の中で、内村鑑三における多神教から一神教へ の転換と、主体の確立について次のように指摘している。 彼は、唯一神の前に立つことによって、日本国からも「キリスト教国」からも独立

(8)

しようとした。逆にいえば、いかなる意味でも服従することを拒む彼の武士的独立心 は、唯一神に対するサブジェクト服従 によって絶対的な「サブジェクト主体 」たることを得たのである。(...) 主体(主観)は、内村鑑三が示すように、多神論的な多様性の抑圧において成立する。 いいかえれば、それは「肉体」の抑圧にほかならない。注意すべきことは、それがた. だの .. 肉体の発見でもあったことである19。 踊る肉体から、星のように輝く精神へという、ラスカー=シューラーの変貌は、古び た神秘主義への回帰などではなく、近代詩人としての主体性を獲得するために不可欠の 変化であった。それは、二重の意味で「他者」であったユダヤ人女性が、主体的な表現 者としてドイツ文学へ参入することを可能にしたのである。ノヴァリス以来、「詩的な るもの」の象徴とされる「青」の受容は、この伝統の正当な継承者としての、詩人の自 己理解を示している。だがこのような主体性と引き換えに、「私は私であり他者は他者 であるという区別に先立ってあるような身体性」20は失われた。『聖別の日』の中で、 触覚や嗅覚やその他さまざまの感覚に代わって、圧倒的な優位に立つのは視覚である。 というのも、一切の基点となる抒情的主体の視点こそ、唯一神の眼差しを内面化するこ とによって獲得されるものだからである。 Aber mein Auge Ist der Gipfel der Zeit, Sein Leuchten küßt Gottes Saum. (GW I, S. 135)  (けれども 私の眼は/時間の峰、//その輝きは 口づける/神の裳裾に。) 「わたしの静かな歌」からの引用であるが、ヴァイセンベルガーは、ここで詩人の眼が 星に変じ、「神との合一(unio)」が果たされたのだと解釈している21。だがより正確 に言えば、天空に輝く星となることと、眼=精神のみを肥大化させることは同義なので ある。この詩の第二稿では、後に続く連が削除され、若干変更された引用部分が詩の終 結部となって、その重要さが増している(GW I, S. 286)。『聖別の日』には、「眼(Auge)」、 「眼差し(Blick)」、「視る(blicken)」などの語が驚くほど多く用いられている。 主体は、一方で「目覚めつつある眼差し」(GW I, S. 112)ゆえに楽園を追われる。他 方「最後の星」においては、世界創造による天界から地上への追放が、全てを俯瞰する 神の眼差しを失っていく過程として描かれている。

(9)

このような主体の「脱身体化(Ent-Körperlichung)」22に伴って、踊り手の性的アイ デンティティーも、極めて曖昧なものとなっている。「柔らかな色」、「花咲く歓び」 などの語句や、口づけされる存在としての自己イメージは、なお女性を連想させるが、 付されている定冠詞は男性の”Der”であり、また「星」自体は無機的なイメージを持つ。 「処女シェキナー」のイメージも、女性の奔放なエロスを体現したマイナデスの対極に 立つものである。踊り手=語り手をめぐるこのジェンダーの混乱は、女性的なるものの 発現の場であったユートピアの破綻と軌を一にしている。そこで夢見られた唯一の本質 的な個の代わりに、ラスカー=シューラーは分割された複数のペルソナを身に纏うよう になる。その際に呼び出されるのが、「遊戯(Spiel)」という概念である。 V 舞踊と遊戯   ラスカー=シューラーにおける”Spiel”の概念の重要性は、しばしば指摘されている。 仮に「遊戯」と訳したが、実際には”Spiel”は、”Versteckspiel(かくれんぼ)”、”Trickspiel (トリック)”、”Liebesspiel(愛の戯れ)”、”Schauspiel(芝居)”、”Spiel mit dem Unsinn(ナンセンス)”などの様々な局面をもつ。バウシンガーは、遊戯が、ラスカー =シューラーにとって、芸術のメタファーであったことを指摘している23。彼女は、こ の遊戯を現実からの逃避とする見方を退け、そこには「子供っぽいもの」と「美的なも の」、「無邪気なもの」と「非常に意識的なもの」が混じり合っていると述べている。 「エルゼ・ラスカー=シューラーは、非常な緊張を要することであったが、真面目なも のという迂回路を通って(duch den Umweg des Ernstes)この遊戯に到達しな ければならなかった。それがいつも成功するとは限らなかったのは、当然のことである。」 24 この指摘は重要である。というのも、この「真面目なもの」、「非常に意識的なもの」 の混入こそ、遊戯を舞踊から分かつものだからである。現実への嫌悪という点で共通す る“Tanz”と”Spiel”の違いは、その「現実」に対する距離の有無、言い換えれば、「ユー トピアへの憧れ」の有無にある。舞踊が現実を一切否定して、別世界のユートピアを構 築しようとしたのに対し、遊戯は、その嫌悪すべき現実の存在を認めつつ、それを相対 化しようとする。多様なものを多様なまま包み込む全体性を、舞踊が体現していたとす るなら、遊戯は、そのような全体性を幻想として否定するするところから出発する。舞 踊がカルト的なものの表現として、次第に否定的な意味を帯びてくるのは、舞踊の持つ この幻想性ゆえである。これに対して遊戯が試みるのは、息苦しい現実を分割し、並列 し、あるいは多層化することである。『聖別の日』における歴史的な時間と、聖別され た時間という二つの時間の導入、『バグダッドのティノの夜な夜な』における、断片的

(10)

な物語構造、書簡体小説『わが心(Mein Herz)』(1912)におけるベルリンのカフェと オリエント空間との交錯なども、このような遊戯の産物と見ることができよう。この現 実の分割に対応して、人格もまた分割される。その一例となるのが、ラスカー=シュー ラーが用いた「バグダッドの王女ティノ」や「テーベの王子ユスフ」などの複数の署名 である。これらは孤立した自我を持つ主体に、別の多様性と可変性を取り戻す試みであ ったと考えられる。事実、現実とユートピアに対する二重の断念は、詩人に別の自由を もたらしたように思われる。ラスカー=シューラーの活動範囲は詩作を越えて、『バグ ダットのティノの夜な夜な』などのオリエント的な散文をはじめ、戯曲『ヴッパーター ルの人々』、エッセイ『まぼろし』など様々なジャンルに広がっていく。   VI パフォーマンス空間としてのオリエント 1 身体像の変貌 ラスカー=シューラーの「遊戯」の場の一つとして重要な位置を占めたのが、イスラ ム風社会として登場する「パフォーマンス空間(Performance Space)」25としての「オ リエント」である。詩人の描くオリエントは、モスク、ハーレム、イスラム僧などのイ スラム風のイメージに溢れている。しかし正確な時代や場所は一切不明なままであり、 「矛盾に満ち、非歴史的で、不定形な構造」26を持つ。このオリエントが、同時代のオ リエンタリズムの強い影響下にあること、またユダヤ人女性という詩人のアイデンティ ティーと密接な関連を持っていることは、すでに指摘されている27。 とりわけ 1910 年頃から、小説や手紙に盛んに登場するようになる「テーベの王子ユ スフ」は、この架空のオリエントの自由さをよく示している。「ユスフ」とは、旧約聖 書のヨセフのヘブライ語読みであり、実の兄弟によって奴隷に売られ、エジプトのファ ラオに仕えたヨセフをモデルにしている。このユスフという男性に自己同一化すること で、ラスカー=シューラーは、ジェンダーを越境する。また同胞に裏切られた「テーベ の王子」という設定は、ユダヤ人としての自己の存在を認めつつ、なおそこから距離を 置くことを可能にしている。 オリエント的なものは、手紙やエッセイなどでもそこここに顔を覗かせるが、舞台を ほぼオリエントに限った作品は、『バグダットのティノの夜な夜な』、『テーベの王子 (Der Prinz von Theben)』(1912)『マリク 皇帝の物語(Der Malik. Eine Kaisergeschichte)』(1914)の三つである。もっとも『マリク』の主題が第一次大戦 であるように、華やかなオリエントの意匠の裏側には、常に同時代ヨーロッパのグロテ スクな現実が貼りついている

(11)

『冥府の河』の官能的な身体感覚とも、『聖別の日』の精神の肥大化とも異なり、こ れらの作品でくり返し描き出されるのは、肉体の境界の破壊や変形、あるいは侵犯であ る。たとえば『バグダットのティノの夜な夜な』の中では、苦行者の指先に触れられた テーベの女たちは、40 日間出血が続く(GWII S.71)。『テーベの王子』では、若き 首長チャンドラグプタの四肢の四肢から、また四肢が生えて絡み合う(GWII S.100)。 また、『バグダットのティノの夜な夜な』に収められた「アポリュデスとティノは臆病 者。満月の下で夢を見る」という物語では、二人の恋人たちの身体は、ガラスのように 透明であると言われる。 広間のガラスの壁を通って、静かな光が輝いている。私たちは、ガラスの城の中で 二人きりである。私たちの華奢な身体は透明で、はかなげで、そして歌っている。け れども、私たちのこめかみには、小さな赤い血の滴が滲んで上下し、それは、くるく る回る輪のように、私たちの額の周囲に広がっていく。(...)私たちは、ほとんど手 を触れ合わない。しかしこめかみの中で、血の滴が上昇すると、私たちの唇は互いに 近づく。しかし口づけすることはなく、口づけしたいという願いの中で、壊れそうに なる。夜になると、私たちは白い絨毯の上に横たわり、残酷な色彩を夢見る。−ある いは好色な人間たちがやって来て、私たちのはかなげな、冷たい肉体と戯れる。まる で死児と戯れるように。(GW II, S. 83) ここでの恋人たちの身体の透明さは、『冥府の河』に見られたような、自他の境界の 有機的な流動性とは、明らかに異なっている。恐らくガラスでできた、死児のように冷 たいその肉体は、明確に境界づけられており、互いに触れ合うことがない。透明な肉体 と、その中で上下する血という奇妙なイメージは、温度計か、水時計を連想させる。血 の滴が上昇するとの唇が近づくという動きも、機械仕掛けの人形を思い起こさせる。主 体を確立した近代的な身体は、自己の皮膚の内側に閉じ込められ、他者と交流するすべ を失っている。この主体を呪縛するのが、主体を取り巻く周囲の視線である。「私たち は、手を触れ合いたい、唇に口づけしたい、私たちの眼は、嵐にみなぎるエーテルのよ うに緊張している。広間のガラスの壁が、痙攣する――私たちは何かを探す――二つの ひんやりとした、尖った眼差しが、私たちの心臓に向けられる――それは、ガラスの短 剣である、私たちは、輝きの失せていく鏡を通して、それを幾度も見る。」(GW II, S.84) 広間という公的な空間を充たすこの匿名の視線は、個々の肉体からその固有性を剥ぎ取 り、夾雑物のない透明な身体を作り出す。ここに生じているのは、三浦雅士の言葉を借 りれば、何でも書き込める「身体のタブラ・ラサ」、「身体の零度」という事態である 28

(12)

2 カルト的なものとしての舞踊 「オリエントもの」の作品の中で、舞踊との関連で特に注目されるのは、『テーベの 王子』に収められた「デルヴィッシュ(Der Derwisch)」(GW II, S. 103-107)とい う物語である。“Derwisch”とは、イスラムの托鉢僧を指し、彼らは集団で輪になって踊 りながら祈りを捧げる29。もっともここでは、モスクの前でデルヴィッシュが踊るとい う描写を除けば(GW II, S. 103)、旋回舞踊そのものは重要ではない。場所はカイロ、 イスラム教徒による架空の祭りが物語の舞台である。物語は、作者の仮装とおぼしき「私」 の視点から語られる。「私」はもともと王女だが、今は子羊の血で汚れたユスフの着物 を纏い、デルヴィッシュの側近くに仕えている。デルヴィッシュと無数のイスラム教徒 の他に、祭りを見物する観光客らしい「イギリスの婦人たち」も登場する。彼女らの肉 体も、先に述べたアポリュデスとティノの肉体によく似ている。「西洋の婦人たちの華 奢な首が、彼らの透明な衣裳の端から伸びている。その透明な衣裳の中で、彼らの肉体 は、ガラスの花瓶に活けられたように見える。」(a.a.O.)祭の日、デルヴィッシュは 他の人々とともに馬を駆り、救済を願う都市の住民たちは、その蹄の下に身を投げ出す。 キリスト教徒の犬どもは、石を投げられて逃げ、ユダヤ人には、流血は残虐な行為 である。高貴なアラビア人たち、政府の高官、僧たちが、刺繍をほどこした鞍をつけ た尊大な様子の馬に乗って通り過ぎる。無数の獣の脚の蹄の下に、無数の身体が投げ 出される。私の唇には、もう血が黒くこびりついている。街の毛穴から、聖なる血煙 が流れ出す。(GW II, S. 104)  至る所で血が流れ、やせこけた子供たちまでもが、「火花を散らす彼岸」、「黄金の 庭」に急ぐ。身体、血、火花、黄金など、ラスカー=シューラーは、かつてポジティブ な意味で用いた形象を、ことごとく反転させている。閉じられた集団にとっての救済は、 外部から見れば狂気にすぎない。現実に対するこの盲目は、祭りを司るデルヴィッシュ が、盲目であることによって示されている。「彼の空っぽの眼窩が、血を流す街の上に 影を落としている。彼から丸い光を抉り出した狂信的な父親は、アラーのもとで憩って いる。」(GW II, S. 106)現実からの逃避は、同じ『テーベの王子』に収められた物語 「アビガイル1 世」の主題でもある。詩人肌の国王アビガイル 1 世は、生まれてくるこ とを拒んで、何十年も母親の胎内に止まるが、ある日ついに彼女の心臓を踏み破って殺 してしまう。ようやく誕生して玉座についた彼は、開かれた世界に脅える。「彼の手は、 いつも壁を求め、彼の眼は、日の光に痛んだ。」(GW II, S. 115)これは、かつて「新

(13)

しい共同体」や身体文化運動に魅了された、ラスカー=シューラーの自画像であろう。 その根拠の一つは、「アビガイル」という名である。「アビガイル」はもともと旧約聖 書に登場する女性で、「ティノ」や「ユスフ」同様、ラスカー=シューラーが用いた署 名の一つであった。 「デルヴィッシュ」では、語り手は祭りの後でナイル河に向かう。 花々が咲いている。水の襞に包んで、ナイル河は、彼岸に憩うている魂の、腐った 肉体を岸に打ち寄せている。私はその華奢な様子から、あの3 人のベドゥイン人を、 またそのベルトから、あの高貴なムスリムを認める。踊る馬の蹄が、遊んでいる哀 れな子供たちを踏みにじったのだ。彼らの身体には、物乞いをする小さな手が欠け ている。――カイロの空の上には、コーランの祈りの輝きが漂っている(GW II, S. 107)。 舞踊は、世界との調和の宣言であることも、あるいはそこからの疎外の表現であるこ ともやめ、むしろ死や集団的な狂気のシンボルとなっている。「踊る馬の蹄(tanzender Pferdenhuf)」という表現は、明らかに「馬の脚」を持つ「悪魔」を暗示している。亡 命先のエルサレムで執筆された遺作の戯曲『わたしとわたし(IchundIch)』(1970 年出 版)では、地獄の悪魔たちが「炎のバレエ」を踊ってナチスの幹部らを歓迎する。そこ では幹部の一人ゲッベルスが、馬の脚を持つ悪魔として登場している30。むろん、『テ ーベの王子』の時点で、ラスカー=シューラーがナチスの危険性を正確に見抜いていた とは思われない。むしろ 1932 年の戯曲『アルトゥール・アロニムス わが愛する父の 幼年時代から』に関して言われるように、彼女はその時点でもなお、ドイツ人とユダヤ 人の融和を信じていたと考えられる。だが「オリエントもの」の作品を読む限り、カル ト的な狂気―特に身体を介してのそれ―に対する本能的な警戒感を持ち続けていたよう に思われてならない。おそらくそれは、自身の中に、同じ現実嫌悪の資質を認めていた ためでもあったろう。 自己の限りない実現と、周囲との限りない調和という矛盾した希望を託された 20 世 紀の舞踊は、現実世界においても、次第に狂気の側に絡め取られていく。ルドルフ・フ ォン・ラバンや、メアリー・ヴィグマン、グレート・パルッカなどの名だたる舞踊家た ちの多くが、ベルリン・オリンピックのマスゲームを振り付けるなど、ナチスの文化政 策に積極的に協力することになる。それは、舞踊家たちの政治的なナイーブさの表われ などではなく、モダンダンスというメディアに内包された矛盾が、必然的に招来した結 果であった。ラバンの弟子であり、「ドイツ帝国共同体舞踊連盟(Reichsbund für Gemeinschaftstanz)」の会長でもあったマリー・ルイーゼ・リーシュケは、「我々は、

(14)

<わたし(Ich)>と<あなた(Du)>の時代から、<我々(Wir)>の時代へと成長 してきたのである。但し、だだの<群衆(Masse)>としてではない。我々は、総統に 率いられた民族共同体であり、アマチュア・ダンスは、この意味で指導と服従を学ぶ教 育である。」と述べている31 踊る身体が産み出す、「虚の力の場」としての舞踊空間32は、日常世界からの解放の 契機となると同時に、日常世界を呑み込む狂気の契機ともなり得る。ラスカー=シュー ラーの作品世界に見られる、踊る肉体から輝く精神へという主体の変貌は、踊る身体に 秘められた両義性に対する、言葉の側からの応答であったと言えるだろう。 エルゼ・ラスカー=シューラーのテクストに関しては、コーゼル版の全集 Lasker-Schüler, Else: Gesammelte Werke in drei Bänden. München 1959-1962. (以下GW)を用い、巻数(ローマ数字)と頁数(アラビア数字)を、本文中の括弧内 に示した。なお、引用文中の強調は、すべて原文のまま。 1 拙論「マイナデスの乱舞−エルゼ・ラスカー=シューラーの詩「秘儀」をめぐって−」 『言語文化論集』(名古屋大学言語文化部)第XIX 巻第1号 1997 年 229-243 頁。

2 Christine Reiss-Suckow: “Wer wird mir Schöpfer sein!!”: Die Entwicklung Else

Lasker-Schülers als Künstlerin. Konstanz 1997, S. 132.

3 Dagmar Kaiser: “Entwicklung ist das Zauberwort”: darwinistisches

Naturverständnis im Werk Julius Harts als Baustein eines neuen Naturalismus-Paradigmas. Mainz 1995, S. 222. 4 Reiss-Sukow: a.a.O., S. 101. 5 拙論 239-240 頁。 6 イスラムの托鉢僧を指す。本稿注 29 参照。 7 天体の運動を舞踊に見たてた天の舞踊のトポスに関しては、マリア=ガブリエル・ヴ ォジーン『神聖舞踏 神々との出会い』 市川雅訳 平凡社 1997 年 98-104 頁参照。

8 Sigrid Bauschinger: Else Lasker-Schüler. Ihr Werk und ihre Zeit. Heidelberg 1980,

S. 77.

9 この初版本は、ヴッパータールのエルゼ・ラスカー=シューラー資料館に保存されて

いる。なお「ダビデの星」は、ユダヤ民族の象徴である。

10 ラスカー=シューラーにおける「青」の問題に関しては、Overath, Angelika: Das

andere Blau. Zur Poetik einer Farbe im modernen Gedicht. Stuttgart 1987, S. 142-159 を参照。

11 Bänsch, Dieter: Else Lasker-Schüler. Zur Kritik eines etablierten Bildes.

(15)

und der Bewegung in Else Lasker-Schülers Werk. Ein komparatistischer Beitrag zur Tanz- und Bewegungsmotivik in der Literatur. Innsbruck 1985 (Diss), S. 183-186; dies: ”Unermüdlicher tanzte nie der Tanz”: Else Lasker-Schülers moderne Tanzbilder. In: seminar 32:2. Sydney 1996, S. 138-139; Weissenberger, Klaus: Zwischen Stein und Stern. Mystische Formgebung in der Dichtung von Else Lasker-Schüler, Nelly Sachs und Paul Celan. München 1976, S.20, S. 109 などを参照。 12 Hegglin, Werner: Else Lasker-Schüler und ihr Judentum. Zürich 1996, S. 14. なお「聖別の日」と訳した”der siebente Tag”は、文字どおりには「第七番目 の日」、すなわちユダヤ教において極めて重要な意味を持つ「安息日(Sabbat)」を指 している。 13 Bandhauer: Die Motiv des Tanzes und der Bewegung in Else Lasker-Schülers Werk, S. 185. 14 a.a.O., S. 186. 15 ゲルショム・ショーレム『カバラとその象徴的表現』小岸昭・岡部仁訳 法政大学出 版局 1985 年 195 頁。 16 拙論 238-239 頁。 17 Bauschinger: a.a.O., S. 77. 18 拙論『文学における「舞踊的なもの」−世紀転換期から 1930 年代のドイツ文学−」 名古屋大学言語文化論集第XVII 巻 第 2 号 1996 年 73 頁。 19柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社文芸文庫 講談社 1988 年。116-117 頁。 20同書 122 頁。 21 Weissenberger: a.a.O., S. 201.

22 Bandhauer: ”Unermüdlicher tanzte nie der Tanz”: Else Lasker-Schülers moderne

Tanzbilder, S. 138. 23 Bauschinger: a.a.O., S. 96. 24 a.a.O. 25 Heizer, Donna K.: Jewish-German Identity in the Orientalist Literatur of Else Lasker-Schüler, Friedrich Wolf and Franz Werfel. Columbia 1996, S. 32. 26 Heizer: a.a.O., S. 42. 27 ラスカー・シューラーにおける「オリエント」の問題に関しては、Sprenger, Peter: Exotismus bei Paul Scheerbart und Lasker-Schüler. Zur Literatur der Boheme.

(16)

In: Begegnung mit dem Fremden. Grenzen-Traditionen und Vergleiche. Akten des VIII. Internationalen Germanisten-Kongresses, Tokyo 1990. Bd.7 1991 S. 465-475; Sonja M. Hedgepeth: Die Flucht ins Morgenland. Zum Orientalismus im Werk Else Lasker-Schülers. In: Helmut Pfanner. (Hrsg.): Kulturelle Wechselbeziehungen im Exil - Exile across Culture. Symposion über deutsche und österreichische Exilliteratur in Durham, N.H. Bonn 1986 (Studien zur Literatur der Moderne 14), S. 190-201; Heizer, Donna K.: a.a.O.などを参照。

28 三浦雅士『身体の零度−何が近代を成立させたか』 講談社 1994 年 251 頁。 29 ガブリエレ・ブラントシュテッターは、この旋回舞踊が、20 世紀初頭のヨーロッパ において、宗教的な恍惚や、神との合体を表現する身体イメージとして用いられた経緯 を詳しく分析している。本来は、集団舞踊であるこのデルヴィッシュの踊りは、ヨーロ ッパにおいては、もっぱらソロとして表現された。ブラントシュテッターはそこに、個 の確立とその解体という、二つの相反する欲求の存在を認めている。Brandstetter, Gabriele: Tanz-Lektüren. Körperbilder und Raumfiguren der Avangarde. Frankfurt am Main, 1995., S. 253-274.

30 Else Lasker-Schüler: Die Wupper und andere Dramen. München 1986, S. 258. 31 “...jeder Mensch ist ein Tänzer.” Ausdruckstanz in Deutschland zwischen 1900

und 1945. Hrsg. von Müller, Hedwig/ Stöckemann, Patricia. Gießen 1993, S. 164.

32 拙論『文学における「舞踊的なもの」−世紀転換期から 1930 年代のドイツ文学−』

参照

関連したドキュメント

しかし、近年は遊び環境の変化や少子化、幼 児の特性の変化に伴い、体力低下、主体的な遊

睡眠を十分とらないと身体にこたえる 社会的な人とのつき合いは大切にしている

身体主義にもとづく,主格の認知意味論 69

それゆえ、この条件下では光学的性質はもっぱら媒質の誘電率で決まる。ここではこのよ

図 21 のように 3 種類の立体異性体が存在する。まずジアステレオマー(幾何異 性体)である cis 体と trans 体があるが、上下の cis

[r]

海なし県なので海の仕事についてよく知らなかったけど、この体験を通して海で楽しむ人のかげで、海を

救急現場の環境や動作は日常とは大きく異なる