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1.はじめに 少子化社会において、子どもの誕生は国にとって存亡を賭けた対策となっている。「少 子化」に加え、「産科医不足」「産科・助産所閉鎖」「産科施設集約化」など、出産をめ ぐる事象は毎日のようにマスコミで伝えられている。これらの事象は出産身体をめぐる 国家的社会的な公的領域として語られる。また妊娠・出産を扱う専門領域とされる医療 の中では、出産身体は生物学的、解剖学的に規定され、妊婦や産婦は客体化された出産 身体をもつ患者として認識されている。一方、産むことを選択した当事者にとって、妊 娠・出産は自らの身体に起こる経験であり、個別的な「生きられた身体」の領域である。 また子どもが生まれる事象としては、家族的な領域でもある。 性と生殖をめぐる領域は、個別的ないわゆる「小さな物語」である一方で、「少子化」 として語られ、国家的対策を講じられる対象としてみなされている。出産身体は、公的 領域と個別的領域の二面性が交差する場なのである。 本稿ではまず、公的領域における出産のあり様を確認するために、人口統計から出生 率、合計特殊出生率、および死産率、新生児死亡率などの近代以降の変遷を概略する。 次に出産身体をめぐる社会的〈まなざし〉に注目し、その〈まざなし〉によって当事者 の出産身体およびニーズがどのように変容してきたかを、4つの時期に分けて考察する 試みを行なう。 ここでは、妊娠・出産の経過を経る「客体としての身体」および「生きられた身体」を「出 産身体」と定義する。妊娠・出産をめぐる時間軸は、広い意味では「子どもをもつこと」 「育児のはじまり」として捕らえることができる。妊娠に至るまでの経過は「産む」「産 まない」の選択、不妊治療の選択と実施などが含まれるであろうし、出産後は産褥期(1) 、 授乳期など身体における妊娠・出産に関わる事象は継続されている。本稿ではこうした 広義の解釈ではなく、出産に至る身体および出産した身体を「出産身体」とする。出産 身体には受精卵および胎児が内在するが、客体としての受精卵、胎児を論ずるときには 別に表記し、出産身体とは分けて考える。

出産身体をめぐる〈まなざし〉の変遷

菊地 栄

KIKUCHI Sakae

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2.近代化以降の性と生殖に関する人口統計 (1)出生数および合計特殊出生率 図 1 は 1899 年(明治 32 年)から 2000 年までの出生数および合計特殊出生率(出産 可能な時期の女性が生涯に産む子どもの平均数)を示したグラフである。1966 年、丙午 の影響で前年より出生数が極端に落ち込み、合計特殊出生率は 1.58 を記録した。1990 年にこの数字を下回ったことから、「1.57 ショック」という言葉が生まれ、その後少子 化問題が取沙汰されるようになった(鈴木:2000.15)。 図 1 出生数および合計特殊出生率の推移(厚生労働省人口動態統計ホームページより) (2)出生率および死産率、新生児死亡率、周産期死亡率の推移 図 2 は人口動態統計に記載された明治 32 年から平成 13 年までの、出生率(2) および新 生児死亡率(3) 、死産率(4) の推移をグラフ化したものである。明治後期から太平洋戦争が はじまるまで新生児死亡、死産率は同じように下降線をたどっているが、死産率は戦後、 増加に転じ、昭和 18 年の 39.6 と同じ数値に戻るのは平成3年である。これは死産に含 まれる人工妊娠中絶が戦後大幅に増加したことを示している。  

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図 2 出生率および死産率、新生児死亡率の推移  死産の総数は昭和 25 年が統計上もっとも多く 216,974。うち自然死産数 106,594、人 工死産数 110,380 で、自然死産より人工死産(人工妊娠中絶のうちの妊娠 12 週以降 22 週未満のもの)(5) が多くなっている。人工死産数はこの年の出生数の 4.72%に当たるが、 人口動態統計には妊娠 12 週未満の人工妊娠中絶が含まれていないことに留意したい(6) 。 昭和 25 年から昭和 33 年まで人工死産が自然死産を上回り、その後は自然死産率のほう が高くなるが、昭和 60 年以降は自然死産数が減少するにともない再び人工死産数が上 回っている。 注目すべきはこの間の合計特殊出生率である。少子化により 90 年以降の合計特殊出 生率の低下が騒がれているが、急激に数値が下がったのは昭和 25 年から 35 年にかけて である。それまで人口増加を目指していた政策が一転し、人口抑制政策に変換された時 代であり、避妊法が伝播された。しかし実質的には女性たちは人工妊娠中絶という手段 によって出産抑制をしていたことが図2に示されている。これはそれまでの「多産」の 規範が薄れ、「少なく産む」ことへ意識が転換していったことを表わしているが、昭和 23 年の優生保護法実施、24 年の「経済的理由」が加えられた一部改訂により、合法的 に中絶できるようになった当時の医療技術を利用するニーズの広がりでもある。時代は 医師が出産の担い手となる第三次近代化前夜のことで、この時代の当事者たちは出産以 前あるいは出産とは別に産婦人科を利用する機会をもっていたことになる。人工妊娠中 絶は当時の女性にとって子どもを産まない選択をするツールであり、その後の避妊法の 普及と合わせ、性と生殖における選択権を手にした幕開けであった。 図 3 は昭和 25 年以降の出生率、新生児死亡率、周産期死亡率(7) の年次推移である。「周 産期死亡」は出産に関連した死亡を明確にするため、昭和 25 年から統計上に記される ようになったものである。周産期死亡率は昭和 35 年から 45 年までに急激に減少し、出 産が施設化へ移行した時期と重なる。これにより施設化が安全性を向上させたとする見 方もあるが、図 2 で示されたように死産率および新生児死亡率は大正期に顕著に下がっ ており、死亡率の低下は施設化のみならず、社会におけるインフラの整備、栄養状態の 向上、健康教育への取り組みなど環境因子の改善によるところが大きい(ワーグナー: 2002.9)。

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図 3 昭和 25 年以降の出生率、新生児死亡率、周産期死亡率年次推移 (3)母の年齢別出生数年次推移 図 4 母の年齢別出生数年次推移 図 4 は 1925 年から 2003 年まで5年ごと(1997 年以降毎年)の年齢別に見た出産数 の年次推移である(8) 。1975 年を過ぎた時期から、出生数の一番多い 25 歳∼ 29 歳の出産 人口が急激に減少し、初産年齢が高齢化している。図ではわかりにくいが 1995 年以降、 35 歳以上の出産数が増加している。とくに 45 歳∼ 50 歳の出産は 1995 年では 224 人と 最低となったが、2005 年には 564 人となり倍以上に伸びている。また 1990 年、1995 年 には 0 であった 50 歳以上の出産が 97 年からまた見えはじめ、年々増加傾向にあり 2005 年では 34 人と、60 年代同程度の数字に復活している。これは不妊治療の結果であろう。 70 年まで 50 歳以上の出産は経産婦における自然妊娠であったが、今日では生殖補助医 療技術の高度化により 50 歳台の妊娠が可能になり、出産身体そのものに変化が見られる。 3.4 つの時代の社会的背景 前節では、人口統計から近代以降の出産をめぐる人口動態を概観した。「少子化」が

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示すように人間の誕生は社会的課題であり、人間を産むその出産身体には常に社会的〈ま なざし〉が向けられてきた。出産の場、介助者、分娩姿勢、当事者の心性など、出産を めぐる事象は歴史的に変化してきたが、それは出産身体に向けられる〈まなざし〉の変 遷が基礎となっている。本節では近代以降を以下4つの時代に分け(9) 、〈まざなし〉、環 境、当事者の心性と身体性の変遷をみる。 ここでは、産科医学の〈まざなし〉が登場し出産が医療化された時代を「第一次近代 化」、産婆が自宅で介助した時代を「第二次近代化」、出産が施設に移行してからを「第 三次近代化」、消費社会・情報化社会において選択的出産が可能になった時代を「ポスト 近代」と呼ぶことにする(表 1)。 これら4つの時代の境界である転換点には、それぞれにその時期における社会的背景 があり、それに伴う人々の生活や心性の変容がある。第一次近代化のはじまりにおいて は、明治新政権の誕生と国を上げて西欧近代文化をとり入れようとした国策があり、第 二次近代化への移行は富国増産の時代に当たる。第三次近代化においては高度成長期と 重なる。国中が大量生産を命題化し、市場に労働者を供給するべく、それまでの「家」 は核家族化、すなわち「近代家族」化した。ポスト近代への移行は消費化、情報化の潮 流と、生殖補助医療の高度化があげられる。ここで家族形態は「脱近代家族」化する様 相が見られる。 表 1 出産領域における近代以降の時代と〈まなざし〉の変遷 時代 第一次近代化 第二次近代化 第三次近代化 ポスト近代 年代 江戸時代後期∼ 明治時代後期 明 治 時 代 後 期 ∼ 1950 年代 1960 年代∼ 1990 年代 2000 年以降 社会背景 伝統的社会 近代化社会 高度成長化社会 消費化・情報化社会 出産場所 共同体>自宅、産 屋 自宅>共同体 施設(病院・診療所・ 助産院)、一部自宅 施設(病院・診療所・ 助産院)、一部自宅 介助者 トリアゲバアサン、 家族、自力 産婆 医師(男性) 助産婦 医師 助産師 介 助 者 の 導入事項 呪い いきみ操作 産科学、経済、衛 生、物品、仰向け 姿勢、会陰保護 施 設、 医 療 処 置、 時 間 的 管 理、 ラ マ ー ズ 法(呼吸管理) エレクトロニクス、 胎児の可視化、生殖 補助医療、医療サー ビス 出産観 「自然」 「自然」+医療 医療+「自然」 医療+消費+「自然」 ま な ざ し の主体 共同体・家 家・共同体 産科学 産科学・医療 核家族(夫・私)、家 産科学・医療 私、胎児、夫、家 国家的 まなざし 妊娠届 出生届 妊娠届、出生届 医療化 人口政策 妊娠届、出生届 医療化、施設化 人口抑制政策 妊娠届、出生届 医療化、施設化、少 子化、産科不足、生 殖補助医療 当 事 者 の 心性 非選択的受容 不浄(タブー) 男女格差 非選択的受容 不浄(タブー) 男女格差 痛み、受動的 医療批判運動 自然志向、母性愛 痛 み、 辛 い、 能 動 的 回 避、 選 択 的、 消費的、脱自然志 向、 母 性 愛、 お 産 難民 身体性 能動的身体 ゆだねられた身体 受動的身体 フィットネス的身体

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(1)第一次近代化 産科医学の〈まなざし〉が登場し、出産身体が客体化され、それまでの因習や迷信が 批判されるようになったのは江戸時代後期(落合:1989.70)である。これは中国医学や 蘭学の影響を受けたそれまでの産科学の発達を源流としているが、解剖学的所見は日本 独自のものとされている(10) 。こうした科学的医学的〈まなざし〉の登場によって出産身 体は客体化され、管理される対象となった。これが出産における第一次近代化のはじま りである。これと並行して江戸時代後期には堕胎、間引きの取り締まり法ができている。 これは人の誕生を労働力、兵力の資源として見る近代国家の人口政策(落合:1989.67) によものである。さらに明治政府は新しい時代の幕開けを告げるために、人間の生と死 に直接係わる西欧医学を積極的に採用し、西欧近代の導入を人々にアピールした(波平: 1996.136)。1868 年(明治元年)に産婆取締として堕胎之取扱の禁止が布告され、1899 年(明 治 32 年)には産婆の法制が全国統一(11) された。 しかし、こうした医学教育を受けた産婆が全国各地の出産を取り扱うようになるまで、 地域によっては 60 年間ほどの格差が見られ、庶民のあいだでは戦後までトリアゲバア サンおよび家族の介助による出産、または産婦がひとりで産む自力出産が行われていた。 この時代の庶民の出産の場は地域共同体の中の自宅(土間、納戸、座敷)あるいは産屋 と呼ばれる小屋であり、当事者やその家族にとって出産は、先祖からつながる共同体の 中での日常的な事象であった。この時代、庶民の出産身体に向けられる〈まなざし〉は 共同体と家父長制に支えられた「家」から発せられていた(図 5)。「家」にとって「嫁」 の身体は再生産と労働力の資源であり、「嫁」は無償で働き、子どもを産んだ。それが「あ たりまえ=非選択的受容」とされていたのである。 トリアゲバアサンは医学教育は受けていなかったが、出産の際何も手段を講じなかっ たのではなく、産婦の腰を後ろから抱く、いきみを誘導するなど、出産を進行させるた めの操作を施しており(菊地:2006)、出産技法は文化的人為的操作が加わった「自然」 なのであった。同時に心性には伝統的不浄観(タブー)が存在していた。 庶民による言説は「産は女の大役」、「案ずるより産むが安し」「棺桶に片足をつっこ んだようなもの」「目から火の出る様」、「畑で産み落とす」などがあり、軽い出産と危 機的な出産とが重層化していた。「産み落とす」は出産姿勢が仰向けではなかったこと を示している。 この時代は結婚の多くが見合い婚で、皆婚的であり、自由恋愛はほとんど見られず、 避妊法もなかった。こうした結婚観や家族の形態、性と生殖観が出産に反映されている。 出産は当事者にとって日常の中の非選択的生殖行動であり、一方で自らが産む能動的な 身体行為であった。 (2)第二次近代化 第二次近代化は、産科学の教育を受けた産婆が村に登場した以降を指し、明治後期か ら徐々に広がっていった。産婆とそれまでのトリアゲバアサンの違いは医学的専門性で ある。出産の場にプロフェッショナルが登場し、これにより出産は経済的事象(金のか

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かること)となった(12) 。出産の場は自宅であったが、産婆たちはそこに衛生概念と物 品を持ち込んだ。また、それまで坐産が多かった出産姿勢を仰向けにし、会陰が切れな いように会陰保護を行った。出産身体は患者として、専門家による〈まなざし〉が向け られるようになる(図 6)。「嫁」としての身体は第一次近代化世代同様に再生産、労働 が期待されていた。この世代は国家による「人口政策」「増産運動」の影響を受け、多 産であることが特徴として上げられる(藤田:1979.55)。 当事者にとって出産は、日常の中の非選択的生殖行動であったが、産科学による規範 を提示され、身体および身体技法は専門家にゆだねられた。 この時代の言説の代表的なものは「障子の桟が見えなくなる」である。陣痛により意 識が朦朧とする状態を指す言葉であるが、それ以前、自力出産していた産婦の意識が朦 朧としてしまうことは自力で出産することが難しくなることを意味し、病的な状態にな らない限り「障子の桟が見えなくなる」ほど意識が朦朧とすることはなかったのではな いか。これは障子のある部屋で出産をしていた貴族などの階級層でつくられた言説であ ると推測できるが、一般庶民にとっては座敷出産が可能になった時期以降に使われるよ うになった言説であろう。産婦が仰向けに寝た状態で専門家の産婆が介助する「ゆだね られた」身体が表現されているといえよう。 (3) 第三次近代化 第三次近代化は出産が施設に移行した 1960 年代以降であり、日本は高度成長期に突 入していた。周産期死亡率、妊産婦死亡率は 60 年代に急激に減少し、その後はゆるや かな減少傾向にある。こうした「施設化」による文脈の中において、60 年代以降はそ の延長線上にあると言える。 本稿第 2 節で見たように第三次近代化直前に、人工妊娠中絶が急増し、多産の規範が 薄れ、当事者が産まないことを選択できるようになった点は重要である。また避妊が一 般化したことも特徴として上げられる。 出産の場が自宅から医療施設に移ったことにより、出産/出生は共同体外部へと移行 し、介助者は産婆/助産婦(13) から男性医師に移行した。そのことによって出産身体に 向けられる〈まなざし〉は共同体や「家」から切り離され、嫁としての身体から開放さ れ、出産の不浄観も消滅することになった(図 7)。代わって出産は医学的な事象とな り、出産身体は管理される身体と見なされるようになっていく。またこの時期は「ロマ ンティック・ラブ」と「近代家族」が誕生した時代でもあった。見合い結婚は少なくなり、 家族は核家族化していく。「嫁」から解放された女性の役割は「母親」に加え、「母性的 愛情」が強調されるようになっていく。 筆者が調査した福井県小浜市犬熊(菊地:2006)では、伝統的な産屋で行なわれて いた出産が昭和 39 年に施設へ移行していた。この移行は抵抗なく行なわれ、当事者た ちは高度成長時代の波を受け、近代的な施設への入院を歓迎して受け入れたと考えら れる(14) 。 施設化後、出産身体は医療の中で患者モデルに基く身体として管理されるようになる が、それと引き換えに「安全」が提供された。出産身体は医学的に管理され、産婦は分 娩台の上で仰向けの姿勢で医療的処置が施され、呼吸やいきみを指示される存在となっ

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た。出産のイメージは第一に「痛み」として認識されるようになり、出産身体は自分で 産むというより産ませてもらう、医学、医療なくしては産めない存在となっていった。 この時代の言説は「出産は何が起こるかわからない」「病院へ行き、分娩室の分娩台 の上で仰向けの姿勢で、いきんで産む」である。前者は医師が信じる言説であり、後者 は当事者が何の疑いもなく受け入れていたこの当時の出産風景が語られている。さらに 「自然出産」も言説化され、出産が「自然」とかけ離れていることが逆説的に示されて いる。 共同体の中ではあいまいであった出産身体と共同体との境界は、施設化された医学の 〈まなざし〉によってより客体化されることになった。出産身体は分娩室という公的空 間の中で管理、観察され、家や共同体とは切り離されて存在することを余儀なくされた。 イリイチは「病気をつくりだす医療は、人間の自律的行動を麻痺させる過剰の生産の結 果である」(イリイチ、1979.165)とするが、分娩室の中の出産身体は医療機器に囲ま れた分娩台の上で、第一次近代化時代の当事者がもっていた自力で産む能動的自律性を 失っていく。80 年代になると、こうした管理化された施設分娩に批判の声が出はじめ、 市民運動が立ち上がってくる。当事者たちは、安全が見込まれた施設における出産を享 受しながら、一方で管理された出産に不満を感じるようになっていったのである。 (4) ポスト近代 施設化への移行以来、80 年代ラマーズ法、90 年代自然出産の市民運動などを経て、 産科医療に変化が見られるようになったのは 90 年代後半になってからのことである。 産科学の中に EBM(Evidence Based Medicine 科学的根拠に基づく医療)の概念が取り 入れられ、慣例的産科処置が見直されるようになった。一方で、診療や検査に導入され たエレクトロニクス機器により、胎児が可視化できるようになり、医師たちは子宮の部 位や胎児の大きさを触診ではなく電子的情報として受け取るようになる。こうした変化 は 90 年代初期から見られたものであるが、2000 年以降、95%以上の妊婦が超音波モニ ターで胎児を可視化するようになった(石黒:2006.107)。これにより胎児もまた産科 医学の患者となり、妊産婦は胎児の環境としての位置を与えられることになる(柘植: 1996.58)。 この時期を「ポスト近代」とする根拠として、以下の項目が上げられる。少子化、生 殖補助医療の発達と普及、医療消費者のニーズ(欲望)に答える医療サイドの姿勢、計 画出産・麻酔分娩・帝王切開のニーズの発現、EBM にのっとった医療処置の見直しと 改善、分娩室の LDR 化、脱近代化家族、未婚・未妊化による出産のオプション化、代 理出産・卵子提供など第三者の身体のとりこみなどがそれである。こうした現象が揃っ て立ち現れてきたのが 2000 年以降であると考えられることから、本稿では 2000 年以降 を出産における「ポスト近代」と定義する。 消費社会、情報化社会の中で当事者たちは、出産に対してより選択的になった。まず 妊娠そのものが選択的であり、出産法、出産施設を選択できるようになった。医療だけ でなく、施設が提供するサービスを消費し、自らの身体を消費するのである。 言説は「鼻(の穴)からスイカ」「痛くないお産」「子どもをつくる」である。「鼻か らスイカ」は陣痛のイメージを表現したもので、応用として「鼻からブルドーザー」と

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いう表現が当事者の言葉として登場している。これはマタニティ雑誌などのメディアや 口コミによって広められたものだが、これまでの言説に比べより個別的かつ即物的であ る。出産身体のイメージは時代的文化的に構築されるものだと言える。 筆者が 2006 年行なったアンケート調査(菊地:2006)では、陣痛の感覚を「鼻から米粒」 と表現した人がいるように「痛み」はあくまで主観的である。陣痛に「痛」という語彙 を当てはめ、それが流通するようになったときから、陣痛は「痛み」であると文化的に 認識さてれてきたと考えることができるが、第二次近代化以前より以降のほうが、「痛み」 としてのイメージは流通している。調査では「ブルドーザー」「スイカ」「りんご」「小豆」「米 粒」という表現を使ったが、対象者たちは自らの陣痛をそうした個別の項目に当てはめ 答えている。ここでは陣痛がより具体的に個別化、記号化され、表現されており、そう した痛みを回避するために 5.5%の人が麻酔分娩を行っている。 消費社会の中で個人がばらばらに個別化したことにより、連帯性は薄れ、他者との比 較における自己顕示的消費が拡大化することになる。都会ではブランド病院を選び、麻 酔分娩や帝王切開を選択するなど、ファッション性と痛みの回避への個別化したニーズ の高まりが見られる。もはや〈まなざし〉は自分自身に向けられているのである(図 8)。 「私」の身体はモノとして「私」に消費され、サプリメントの摂取や妊娠中のエクササ イズが積極的に行なわれている。一方で自律的能動的身体性は失われ、出産身体はフィッ トネス(健康増進)としての消費的身体へと変貌してきているのである。 4.おわりに 出産身体に向けられる〈まなざし〉は社会的変化に伴って歴史的に変遷してきた。少 子化の中で語られる出産身体は、これまでと同じように生物学的に子どもを産むことを 期待されている一方、生殖補助医療の高度化のみならず、細胞操作による生命創造の可 能性を秘めた研究が進む中で、出産身体はそうした先端的研究の影響を受ける可能性の ある領域でもある。 これまで〈まなざし〉が変わることによって変化する出産の事象をみてきたが、変容 するのは果たして身体の周辺的事象だけであろうか。人工受精による妊娠が日常化し、 さらに本稿第 1 節で示されたように、これまで不可能と考えられていた 50 歳以上の初 産がすでに可能となっている。そうした今日でも「女がからだを通して妊娠し出産する」 という生物学的出産機能は不変であると考えられてきた。しかし一方で妊娠、出産を選 択しない人が増え、妊娠、出産できずに治療している人がいる。出産身体は生殖補助医 療の高度化によって恩恵を受けているが、そうした代替機能の登場によって身体性は変 化している。あるいは出産身体そのものの可変性さえ考えられる時代になってきたのか もしれない。可視化できなかった胎児を、モニターで可視化できるようになったことに よって、妊婦たちは身体への知識的理解を深めることになったが、見るという優位性を 確立した一方で「その結果、触覚や臭覚や味覚、さらに鋭い勘などは大幅に麻痺して」 (ドゥーデン:1993.37)しまう可能性もある。 出産の技法やそれを取り巻く〈まなざし〉は、社会的文化的要因に影響され、変遷し

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たきたことが示されたが、情報によって科学的生理学的知識が豊かになり、医療技術に よる治療効果の恩恵を享受する一方で、生物学的客観的出産身体そのものが「環境」と して変容する可能性がないかどうか、今後の研究課題につなげていきたい。 ■参考文献 石黒眞里、2006、「胎児の性別を知りたい/知りたくない理由に見る現代日本のジェンダー」、『国 際ジェンダー学会誌』第4号、国際ジェンダー学会 イリッチ , イヴァン、1979、金子嗣郎訳、「脱病院化社会」晶文社 大林道子、1989、「助産婦の戦後」勁草書房 荻野美穂、1990、「女の解剖学」、『制度としての〈女〉』平凡社 落合恵美子、1989、「近代家族とフェミニズム」、勁草書房 落合恵美子、1990、「ある産婆の日本近代」、『女の制度としての〈女〉』平凡社 菊地栄、2006、「消費者社会における出産」、立教大学大学院 21 世紀社会デザイン研究科修士論 文 厚生省児童課程局母子保健課、1999、「母子保健の主なる統計」、母子保健事業団 新村拓、1996、「出産と生殖観の歴史」法政大学出版局 鈴木りえこ、2000、「超少子化──危機に立つ日本社会」、集英社新書 柘植あづみ、1996、「誕生をめぐる『生命』観の変遷」、岩波講座・現代社会学 14『病と医療の社 会学』岩波書店 中山まき子、1995、「子どもをもつこととは」、『つくられる生殖神話』、浅井美智子、柘植あづみ編、 制作同人社 中山まき子、2001、「身体をめぐる政策と個人 ─母子保健センター事業の研究」勁草書房 波平恵美子、1994、「医療人類学入門」朝日選書、朝日新聞社 波平恵美子、1996、「いのちの文化人類学」新潮選書 ボードリヤール , ジャン、1979、今村仁司・塚原史訳、「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店 矢島聰、中野仁雄、武谷雄二編、1997、「new 産婦人科学」、南江堂 ワーグナー , マースデン、2002、「WHO 勧告にみる望ましい周産期ケアとその根拠」井上裕美・ 河合蘭監訳、メディカ出版 ■註 (1) 分娩終了直後から、妊娠・出産により変化した子宮、膣、外陰の形態が非妊娠時の状態へ戻 る期間。通常分娩後6週間とされる(矢島等:2000.302) (2) 出生率は(1 年間の出生数÷人口)× 1000 であり、新生児死亡率、死産率とは分母が異なる。 (3) 新生児死亡とは生後 28 日未満の死亡で、新生児死亡率は(1年間の新生児死亡数÷1年間の 出生数)× 1000 の割合を示す。 (4) 死産とは妊娠 12 週以後のものをいう。人工死産は人工妊娠中絶のうち妊娠 12 週以降 22 週 未満のものをいう。ここでの数字は、人工妊娠中絶を含む。 (5) 「母子保健の主なる統計」1999 (6) 人工妊娠中絶実施数、昭和 25 年 489.111、昭和 30 年 1.170.143。 (7) 周産期死亡とは、妊娠満 22 週以後の死産と早期新生児死亡をいう。出産数は出生数と妊娠 22 週以後の死産数。周産期死亡率は、(1 年間の周産期死亡数÷ 1 年間の出産数)× 1000 の割 合を示す。 (8) 厚生労働省大臣官房統計情報部人口動態・保健統計課「人口動態統計」国立社会保障・人口 問題研究所「人口統計資料集」内閣統計局資料、2004 年 (9) 落合は近代化過程における出産の社会史的変化を「2 つの近代」の出現によるとしている(落

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合:1989.48)。この分析は西欧社会における出産の近代化の社会史であり、第一の局面は 16 世紀前後にはじまる魔女狩りと教会秩序への取り込み、第二の局面は 18 世紀後半の伝統的 産婆から医師や近代産婆への交替の時期となっている。 (10) 賀川流産科学を産んだ賀川玄悦(1700-1777)は、「下首上臀説(胎児は頭を下にしていると いう説)」「回生術(難産の際、胎児を機具で切り裂いて出す術)」「胎児回転術(逆子を回し て正常胎位にする術)」などを独自にあみ出している(落合:1989.471-73)。 (11) 1899 年(明治 32 年)7 月 18 日、勅令産婆規則公布。それ以前に 1868 年(明治元年)産婆 取締に関する太政官布告、売薬之世話、堕胎之取扱の禁止。1974 年(明治 7 年)医制発布、 その中に産婆資格および免許制度を規制。(大林:1989.306-307) (12) 地域や階層によっては、産婆が介助しても金銭のやりとりは行われず、食物を贈ったり、あ るときにお礼が支払われたケースもあった。 (13) 1947 年(昭和 22 年)、産婆規則が助産婦規則に改正され、産婆の名称は助産婦となる。 (14) 犬熊で最初に産院出産をした産婦の夫は「時代が変わったんだわ」と語る。妻は産院を退院 後、自宅に戻らず産屋で数日過ごしたが、ヘビが出たということで「こんなところにはもう いられん」と自宅に戻っている。その後、産屋は使用されなくなった。

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巻末資料 出産身体に向けられた<まなざし> 図5 第一次近代化世代の出産身体

図7  第三次近代化世代の出産身体 図8 ポスト近代世代の出産身体

図 2  出生率および死産率、新生児死亡率の推移  死産の総数は昭和 25 年が統計上もっとも多く 216,974。うち自然死産数 106,594、人 工死産数 110,380 で、自然死産より人工死産(人工妊娠中絶のうちの妊娠 12 週以降 22 週未満のもの) (5) が多くなっている。人工死産数はこの年の出生数の 4.72%に当たるが、 人口動態統計には妊娠 12 週未満の人工妊娠中絶が含まれていないことに留意したい (6) 。 昭和 25 年から昭和 33 年まで人工死産が自然死産を上回り、その後は
図 3  昭和 25 年以降の出生率、新生児死亡率、周産期死亡率年次推移 (3)母の年齢別出生数年次推移 図 4  母の年齢別出生数年次推移 図 4 は 1925 年から 2003 年まで5年ごと(1997 年以降毎年)の年齢別に見た出産数 の年次推移である (8) 。1975 年を過ぎた時期から、出生数の一番多い 25 歳〜 29 歳の出産 人口が急激に減少し、初産年齢が高齢化している。図ではわかりにくいが 1995 年以降、 35 歳以上の出産数が増加している。とくに 45 歳〜 50 歳の出産は 19

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