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第2章 第4代神奈川県庁舎(現本庁舎)の建設

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第4章 大正・昭和初期の神奈川県営繕技術者

とその作品

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第4章

大正・昭和初期の神奈川県営繕技術者とその作品

第1節 神奈川県営繕組織の経緯

図表4−1 神奈川県営繕組織の時系列表 出典 営繕工事の歩み(神奈川県建築部、1968年3月) ・明治初期 これまでに神奈川県が公表した営繕組織の歴史は図表4−1であり、明治6年の営繕課 を最初のものとしているが、実際はそれ以前に組織が存在している。現在神奈川県公文書 館が保管している「神奈川県官員録」の最古は明治4年12月のものであるが、それによ ると出納課に営繕掛がおかれ、大属・北脇弥七郎をトップに全員で8人の名前が記録され ている。ちなみに県官吏全体で165人であるが、翌明治5年には596人と急増してお り、その要因は羅卒(警察)の増加が大半を占める。また営繕掛は9人となる。営繕掛が 実際にどのような業務を行ったかは必ずしもはっきりしない。しかし明治のはじめにはす でに海水面の埋立て許認可事務を「営繕」との言葉を使用した組織が取り扱っている。 江戸の明暦年間から、吉田家が現在の横浜市中区吉田町の辺りを吉田新田として埋め立 てきたが、明治3年4月神奈川県知事・井関盛艮は中村川の掘り下げとその土砂を利用し て滝頭と吉田新田南一ッ目沼地を埋め立てる自費負担工事を望む者には許可する旨布達し た。1)当然事業者には土地の優先利用権が認められる。この触書に吉田家は驚き、この事 業を他人に奪われることは祖先伝来の地を失うことで忍び難いと考えた。そこで吉田家8 代当主勘兵衛はどうしても自分にやらせてほしいと願状を県に提出し、明治3年8月に許 可された。その受書は次のものである。2) 差上申御受証文之事 今般中村地内字弥八ヶ谷戸より滝頭村地内字八幡川迄新川掘割床下ゲ致海面波止場

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等仕方方法引受右出土を以て当町地内一ッ目定不作場沼地一円埋立方被仰付有難仕合 奉存候 ―中略― 御下渡相成候御仕様帳御絵図面之通聊無相違皆出来可仕依之御受印形差上申処如件 午八月二十七日 勘 兵 衛 常 次 郎 市 右 衛 門 神奈川県営繕局 御役人中様 明治3年に営繕局という組織が存在した記録のある公文書は見当たらない。この文書か らは、公有水面の埋め立てに対して仕様書や図面を県側が用意して、自費施工させている が今日で言うPFI(Private Finance Initiative)方式であると分かる。また営繕との言葉 以外に「土木司」も使用されており、3)特定の組織名と言うより、当該許認可担当部門に 対しての敬称であったとも考えられる。また今日「営繕」との用語は建築部門に特化して いるが、明治初期は土木を含めた奉行所時代に使用された「普請」に代わる言葉と思われ る。また明治6年に営繕課なる組織ができたことは職員録上確認できるが、これが明治1 1年に土木課へと変遷しており、営繕が主に建築を意味するようになったのはこの頃から であろう。なお「建築」との言葉が職制上現れるのは、明治8年の神奈川県官員録に付帯 する神奈川裁判所官員録に「建築掛」があり、「等外二等出仕・内田春允」と記されている。 4)明治中後期についての営繕工事も断片的な記録しか残されておらず、今日その詳細を知 ることは困難になっており、後考を期したい。 ・大正・昭和期 大正から昭和の初期において、神奈川県では内務部土木課営繕係(明治41∼昭和2)、 内務部営繕管財課(昭和2∼10年)、総務部庶務課(昭和10∼13)において建築営繕 業務が執行されていた。5)なお県庁舎建築事務所が大正15年3月から昭和4年までの間、 臨時的組織として設置されている。6)これらの業務に従事した者は、ごく少数の高等官地 方技師と、建築技手もしくは助手などの職名をもらい、判任官あるいは官吏として認めら れない「雇」を含めた下級営繕技術者であった。 またこの時代の建築は設計事務所に委託することなく、すべて直営で設計、積算、工事 監理を行っている。特に関東大震災後の復興においては、膨大な業務量を執行する必要が あった。そして主要な公共建築は、明治期のレンガ造から鉄筋コンクリート造に取って代 っていた。建築技手達の大半は、明治期に日本各地に設置された公立の工業学校や私立専 門学校の建築科を卒業した者達で、その一部はすでに壮年期になり、所属組織の指導者や 中堅技師として活躍している。東京帝国大学建築学科を卒業し、高等官として官庁営繕組 織の所属長となった者達の経歴は概ね把握されているが、これら実務部隊である建築技手 達の経歴実態は必ずしも明らかではない。 この章では、神奈川県において、震災復興等の大正から昭和初期に活躍した主な実務要 員達の出身地や学歴、また手がけた代表的建築物、そして特に判任官ながら知事の側近と なり、建築営繕のリーダーとしてその厳しい組織風土の礎を築いたとされる成富又三の経 歴を明らかにすることとする。

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第2節. 大正・昭和初期の神奈川県営繕技術者

(1) 営繕技術者の俸給体系と職階 大正・昭和初期の神奈川県職員は大別すると高等官と判任官、またそれより下の「雇」 などから構成され、文官については俸給体系がはっきりしているが、技術系職員について は必ずしも明確でないところがある。下表のとおり、大正2年の高等官俸給表には地方技 師と呼ばれる高等官技師用が用意されているが、大正9年になると技師の欄が消えている。 また大正2年の俸給表には技手の項がないが(横浜市の俸給表には書記、技師、技手の俸 給が明示されている)、大正9年になると書記と技手の俸給表(図表4−4)が用意されて いる。しかもその注釈に、「書記及技手ノ給料ハ等級ニ拘ラス当分ノ内適宜ノ金額ヲ定メ之 ヲ支給スルコトヲ得」と記載されており、いい加減な部分が垣間見える。7) 図表4−2 大正2年の神奈川県高等官俸給表 出典 (大正2年10月1日付)神奈川県職員録 図表4−3 大正・昭和初期の県職制 県官吏 ┌─────────┴───────────┐ 高等官 判任官 ┌──┴──┐ ┌────┴───┐ 勅任官 奏任官 属 技手 │ │ 知事 書記官・地方事務官・地方技師 *高等官には大臣や大将級の親任官が存在するが、県レベルでは存在しない。また官吏とはみなされな い最下級の「雇」「傭」や「工手」「図工」らが組織を支えていた。

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図表4−4 大正9年10月末の神奈川県高等官俸給表 図表4−5 大正9年10月末の書記・技手の俸給表 出典 図表4−4、4−5共に(大正9年12月)神奈川県職員録 昭和6年のものでは、またこの技手の俸給表が消えてしまう。勿論判任官の給与体系が あるから、それでよいとも言える。しかし根本的には、県における技術職員の極めて不安 定な雇用環境が背景にあることを見逃せない。それは雇用人員の変動に見ることができる が、定量的に次頁で明らかにしている。 また、高等官・判任官の区分と建築技師・技手の区分の相関関係は必ずしも一致してお

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らず、後述する成富又三のように判任官の建築技師が高等官の技手を部下にすることもあ り得た。勿論工業学校卒業者で高等官になれる者は極めてまれであり、たとえ高等官同等 の建築技師の称号を得られたとしても必ず高等官になれたわけではない。確かに成富又三 のように知事の側近となり、建築技術者集団を差配したが、それはあたかも徒弟制度の頭 になったに過ぎず、県の地方官僚機構全体の中では最期まで低給与判任官の身分に止めら れていたのである。 こうした地方官庁技術職員の身分の不安定さについては、なにも地方に限らず、中央政 府においても基本構造は同じである。明治20年勅令第37号で制定され21年1月から 施行された「文官試補及見習規則」がわが国における官吏採用試験の最初であるが、技術 官は含まれていない。島根大学の大淀昇一氏は「技術官僚の政治参画」で戦前期の技術官 僚の不遇な立場について論じており、「日本人技術官僚はあくまでお雇い外国人の代替者で あって、助言者、脇役としての地位に止めおかれたのである。このことを制度的に固めて いたのが文官任用令であり、また法律や財政関係科目の任用試験を規定する文官試験規則 であった。」と述べている。8)同書では明治期から古市公威(内務省土木局長、逓信省次 官、初代土木学会会長)らが、技術官吏の地位向上に様々な運動をしたが、結局第二次大 戦前では成果を得ることはなかったことが明らかにされている。 (2) 営繕技術者の人数の変遷 神奈川県立公文書館所蔵の神奈川県職員録は、震災と戦災により、各年で保存されてい ない。以下は現存するものから見る関東大震災を挟む大正から昭和初期営繕技術者達の人 数の変遷である。 1913年(大正2) 10月「建築工師」八島震と「雇」成富又三の2 人 の存在は分かるが、その他不明9) 1920年(大正9) 10月 17人 1922年(大正11) 2月 18人 1923年(大正12) 3月 31人 1924年(大正13) 3月 61人 1924年(大正13) 5月 65人 1925年(大正15) 2月 79人 1926年(大正16) 5月 122人 1926年(大正16) 11月 132人 1928年(昭和3) 5月 76人 1929年(昭和4) 9月 25人 1930年(昭和5) 5月 22人 1931年(昭和6) 6月 10人 1937年(昭和12) 6月 19人 注:以上の数字には、建築事務嘱託の岡田信一郎、内藤多仲、周継冕、顧問の佐野利器は 含んでいない。

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震災のあった大正12年9 月以降人数が増加しているのは建築需要に応じて当然である が、復興事業の終わった昭和4年一挙に減員されているのも目を引く。大正中期から、神 奈川県は財源難から人員削減が基調方針となっていた。10)当時県職員は縁故採用によっ ていたが、建築技術者についてもその雇用と解雇は極めて弾力的になされたことが分かる。

第3節 震災復興事業功労者

(1) 震災復興事業功労調 昭和4年2月6日付けで復興局長官から、知事宛に「帝都復興事業関係功績調査ニ関ス ル件」として、「帝都復興事業関係者ニシテ功績特ニ顕著ナル者ニ付別紙調査要綱ニ依リ御 調査相成度此段及照会候也」の通知があった。功労者の定義についてはこの通達に付属す る要綱に「復興局職員及東京府、東京市、神奈川県、横浜市ノ府県市職員ニシテ当該関係 職員トシテ1年以上直接復興事業ニ従事シ功績特ニ顕著ナル者」と定義されている。 幸いにも、県が復興局に提出した功労者名簿とその功労内容や履歴が記載された「震災 復興事業功労者調」が神奈川県立公文書館に保存されており、大正から昭和初期に活躍し た判任官以下の建築技術者の詳細な経歴を見て取ることができる。 なお「直接復興事業ニ従事シ」の定義は次のとおりとなっている。 1)復興事業費貸付金及復興事業費補助ヲ受クル事業ニ直接シタル 者 2)警視庁及神奈川県ノ職員ニシテ防火地区建築補助ノ事務ニ直接従事シタル者 従って、この時期最大の事業たる県庁舎改築工事は国からの助成措置が上記の1)に該 当しないため、復興事業功労の対象からは外されている。11)神奈川県では総数で122 人を推薦しているが、建築関係では内務部営繕管財課から39人(建築技術者36人、電 気技術者1人、土木技術者1人、事務職1人)、当時市街地建築物法による建築行政を所管 していた警察部建築工場監督課から44人(建築技術者23人、事務職等21人)と全体 の約7割を占めている。 本稿では営繕工事担当を主題としていることから、営繕管財課所属の建築技術者に絞る こととする。 (2)「震災復興事業功労者調」による建築技手等37人の学歴 名前 生年 出身 最終学歴 成富又三 明治14 佐賀 佐賀県立工業学校 (M37) 内海清隆 明治26 東京 築地工手学校 (M44) 大谷清定 明治28 新潟 築地工手学校 (T7) 末永栄之丞 明治28 鹿児島 鹿児島郡立工業学校 (M44) 藤沢包太郎 明治33 東京市 築地工手学校 (T7) 渡邊元四郎 明治26 神奈川 東京工科学校 (T6) 山村真平 明治28 静岡 築地工手学校 (T9)

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成富久治 明治30 佐賀 日大高等工学校 (T15) 青木 舜 明治31 静岡 東京工科学校 (T9 中退) 杉山準三 明治31 神奈川 田方郡立農林学校 (T2) 吉田鋠太郎 明治33 神奈川 神奈川県立横浜第二中学校 (T6) 請地亨之介 明治37 神奈川 神奈川県立工業学校 (T11) 朝倉道徳 明治36 神奈川 中央工学校 (T13) 吉岡富蔵 明治30 三重 東京高等工芸学校 (S4) 前田壽一 明治32 島根 島根県立松江工業学校 (T5) 藤生 満 明治32 群馬 東京帝国大学 (S2) 中村綱吉 明治37 和歌山 和歌山県立和歌山工業学校 (T11) 関 初三郎 明治28 福島 中央工学校 (T10) 高岡金次 明治31 千葉 東京商工学校 (T13) 石村 忠 明治38 山口 神奈川県立工業学校 (T13) 松元順一 明治40 鹿児島 鹿児島県立工業学校 (T14) 村上義一 明治40 愛媛 愛媛県松山工業学校 (T14) 中山新一 明治40 神奈川 神奈川県立商工実習学校 (T14) 宮原景美 明治43 鹿児島 鹿児島県立工業学校 (T14) 今井静夫 明治40 神奈川 神奈川県立工業学校 (T14) 森山重義 明治37 鹿児島 鹿児島県加治木工業学校 (T10) 祁答院利光 明治36 鹿児島 鹿児島県加治木工業学校 (T10) 和田順三 明治20 神奈川 築地工手学校 (T3) 繁野繁造 明治30 三重 日大高等工学校 (T12) 内田蔦二 明治18 岡山 名古屋高等工業学校 (M41) 松本末太郎 明治21 秋田 秋田県立秋田工業学校 (M42) 村上 忠 明治34 熊本 熊本県立工業学校 (T10) 萩野房太 明治31 兵庫 中央工学校 (T10) 服部勝一 明治40 神奈川 神奈川県立工業学校 (T11) 貝塚良雄 明治33 神奈川 神奈川県立工業学校 (T6) 有村 繁 明治28 鹿児島 築地工手学校 (T7) 大森 幹 明治40 神奈川 中央工学校 (T15) 注:事務職と土木職各1名は除外している。学校名は経歴書記載のまま。 ( )内の数字は卒業年次を示し、Mは明治、Tは大正、Sは昭和を意味する。 (3) 略歴の特徴等 これら技術職員は出身地をはじめとして、その経歴も民間、軍関係勤務など極めて多種 多様である。長期にわたって県職員として勤務する者はむしろ少数派に属する。この調書 は昭和4年6月8日付けであるが、この時点ですでに1人が死亡し、9人が退職している。 12)最終学歴は公立の工業学校出身17名と私立の専門学校等の建築課程を修了した者1 5名の両者で全体の約9割を占めている。

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また東京帝大卒の藤生満が技手として、卒業直後の昭和2年4月から4年の7月まで勤 務しており、構造を担当したと記載されている。その後名古屋市役所、満州国国都建設局 に勤務し、戦後は戸田建設に行き常務取締役になっている。13)藤生の経歴はあたかも佐 野利器の愛弟子たる桑原英治の後を追いかけているようであり、そこにはやはり佐野の指 示の介在が色濃く感じられる。藤生は佐野の葬儀においても役員を務めている。14) なお、藤生のような東京帝大出身の技手は、職員録上ほかの技手と区別できないが、俸 給面では格段に厚遇されている。15)内田蔦二は朝鮮総督府を経て、大正13年から昭和 2年まで神奈川県に3年間勤務する。彼は高等官7等であるが技手である。内田も構造を 担当していた。やはり全般に渡っての構造を担当していた成富久治は、県採用に当たって は同郷の成富又三が介在した可能性はあるが、両者の親族関係は経歴等から見る限りない ようである。16) 村松貞次郎氏は近代建築史の定本としてまとめようとした「日本近代建築の歴史」の中 で、明治期の建築教育機関として、東京帝国大学、東京と名古屋の高等工業学校、そして フォアマン養成所としての築地工手学校を挙げて説明しているが、県立工業学校には触れ ていない。17)しかし上記の神奈川県営繕技術者の経歴から見ると、大正から昭和初期に かけては、公立の工業学校や民間の専門学校卒業者が有力な実務部隊となっていることが 分かる。 (4)神奈川県立工業学校の場合 工業学校は1899年(明治31)2月に制定された「実業学校令」(勅令第29号)と 「工業学校規程」(文部省令第8号)を基礎法令としている。この法令措置以降の1900 年代、各地に工業学校が設置され、それまでの職工養成を主眼とした徒弟学校の多くが工 業学校に昇格し、さらには木工科が建築科に名称変更などしている。18) 神奈川県立工業学校の設立は明治44年5月であるが、明治43年の全国公私立工業学 校は36校あり、全国で37番目ぐらいと同校70年史は伝えている。19)しかし神奈川 県に工業学校を設置すべきとの議論は、すでに明治36年に、市原盛宏横浜市長が工業振 興政策の一環として提唱していた。そして県はこの意見を受け入れ、明治40年から3年 連続して県会に建設費予算を上程したが、郡部出身議員の反対でいずれも否決されている。 20) 1909年(明治42)11月の県会本会議で、建設反対派の出口直吉議員は「本県は 横浜市を除いては農業本位の県である。それなのに農業学校の入学者はきわめて少数であ る。工業学校の生徒はどのような県民の子弟を入学させ、予定人員は何人か」と質問した。 これに対して当局の鈴木属は「工業学校への志願者の有無は、学科に関連する職業に従事 する者の子弟の数を基礎にすべきで、金銀工行に従事する者が149名、造船は12箇所 もあり、家屋の建築に従事する者は178となっている。当面生徒は機械科が120人、 建築科は60人が適当と考える。」と回答している。(筆者要約)21)工業学校の建設問題 は、商工業を重視する都市サイドの議員と農業を重視する郡部出身議員間の政争の具とな っていた。 明治43年12月県会でようやく工業学校建設費予算が通過し、我が国最初期の工業学

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校たる福岡県立福岡工業学校長であった杉本源吾が初代校長として任命された。22)開校 初期段階では万事が杉本の前任校である福岡工業をモデルにしたため、内輪では神奈川県 立福岡工業学校と呼んでいたと言う。23) 明治期における工業学校での木工、建築科の教育内容は地場産業の状況に対応して一律 的なものではない。24)しかし神奈川県工業学校の当初の課程表には、構造強弱論、建築 材料、意匠図案といった科目が見られ、25)職工養成機関から脱皮し、近代的建築技術者 養成機関へとすでに進化している様子が分かる。そして大正期に入ると明確にこの路線が 進行していった。26) 同時に私学の専門学校についても、明治期末には築地工手学校のほかに、東京商工学校 (明治36年、現埼玉工業大学)、東京工科学校(明治41年、現日本工業大学)、中央工 学校(明治42年)が開設され、建築技術者を送り出している。27)

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(5)震災復興功労対象として記載された主要建築28)

図4−1 県立商工実習学校

出典 「神奈川県立商工高等学校60年記念誌」 図4−1−2 県立商工実習学校パース

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図4−2 県立工業学校 (戦災で焼失) 出典 「神工70年史 」 図4−3 県立高等女学校 出典 「県立平沼高等学校百周年記念誌」 図4−4 県立横浜第1 中学校 出典 「神中・神高・希望ケ丘高校百年史」

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図4−5−1 県立女子師範学校

図4−5−2県立女子師範学校パース

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(6)各工事の概要29) ① 県立商工実習学校 本館棟 RC 造3F 5,157㎡ その他 S 造1F 2,770㎡ 総工費 544,644円 竣工 1927年11月(工木社) 担当者 チーフ 成富又三 内海清隆 藤沢包太郎 渡邊元四郎 山村真平 成富久治 高岡金次 石村 忠 ② 県立工業学校 全館木造モルタル仕上げ2F 面積不詳 総工費 240,500円 竣工 1927年11月 担当者 チーフ 成富又三 大谷清定 末永栄之丞 請地享之介 繁野繁造 内田嶌二 ③ 県立高等女学校 全館 RC 造3F 一部平屋 5,962㎡ 総工費 489,050円 竣工 1929年3月(久良木組) 担当者 チーフ 成富又三 大谷清定 末永栄之丞 成富久治 吉岡富蔵 関初三郎 繁野繁造 ④ 県立横浜第一中学校 全館木造(書庫のみRC)6,355㎡ 総工費 222,512円 竣工 1929年1月 担当者 チーフ 成富又三 渡邊元四郎 山村真平 請地享之介 吉岡富蔵 村上忠 ⑤ 県立女子師範学校 本館棟 RC 造3F 4,918㎡ その他木造 5,370㎡ 総工費 645,575円 竣工 1927年3月 担当者 チーフ 成富又三 大谷清定 末永永之丞 請地享之介 関初三郎 和田順三

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第4節 神奈川県営繕組織を支えた成富又三

前節の震災復興各建築のチーフであり、またその峻烈な部下や施工業者への指導が、言 わば伝説となっている30)成富又三とはいかなる人物であったか。彼は震災復興事業ばか りでなく、大正から昭和初期において直営設計で行われた神奈川県の主要公共建築全般に わたって技術力の高さを示した県営繕組織の中心人物である。 図4−6 成富又三 出典 成富道浩氏提供 (1) 成富又三の経歴 ・出生と学歴 成富又三は1881年(明治14)4月16日に、佐賀県佐賀郡福富村大字福富下分9 6番地(現在は杵島郡)で父・道輔、母・ユウの三男として生まれた。出自は佐賀藩鍋島 家に仕える士族であった。父の道輔は江藤新平の佐賀の乱に参加したとの伝説が成富家に 伝えられている。31) 佐賀には苗字に「富」が付く5つの姓(成富、納富、武富、稲富、吉富)があり32) これを佐賀の5トミと呼んでいる。また、佐賀は今日でも土木技術の先達として尊敬され ている成富兵庫茂安の出身の地である。茂安は戦国時代の永禄3年に佐賀市鍋島町に生ま れ、寛永11年に大和町で亡くなる。この間龍造寺氏と鍋島家に仕えた。朝鮮出兵などで 戦功を挙げ、鍋島氏の4千石の家老となる。茂安は河川や灌漑水路の整備、また城の造営 保全に力を発揮した。茂安は郷土佐賀だけでなく、その力量を買われ、開幕間もない江戸 のインフラ整備にも貢献している。茂安が又三の先祖にあたるかどうかは分からないが、 心密かに成富姓とこの郷土の先輩を意識したであろうことは想像に難くない。 成富は明治26年に福富尋常高等小学校を卒業してからシジミ売りをするなどして貧し い家計を援けている。33)明治31年に勧興高等で台湾語学を2年専攻している。34) 治33年に佐賀県工業学校木工科に入学するが、この時点ですでに19歳であった。翌年 学校名は佐賀県立工業学校となり、成富は造家科に編入された。 ・職歴 さらに成績優秀ということで、明治35年12月から36年7月にかけて、大阪市へ建 築技術修得の県費派遣研究生に選抜されている。35)そして、学校には戻らずそのまま同

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月13日付けで岡山県第一部営繕係に助手として採用された。翌明治37年4月10日に は在勤のまま卒業が認められている。36) 明治40年11月に香川県に移り、土木技手として勤務している。翌41年9月には鹿 児島県に工手として、内務部第二課に配属されている。明治45年12月に技手に昇格し、 内務部土木課に移る。この年の1月に成富は最初の妻「市成則子」と結婚している。なお 則子は大正10年10月に28歳の若さで早世している。そして翌11年11月に「中山 ギン」(神奈川県都筑郡中山村出身、現在の横浜市緑区中山)と再婚し、三男一女に恵まれ る。しかしこの「ギン」にも戦後の昭和25年1月に先立たれている。なお成富は職場で こそ厳しい男であったが、家庭ではやさしい父親だったとの親族の証言がある。37) ・神奈川県へ 1913年(大正2)6月10日付けで、鹿児島県から出向の形で神奈川県内務部土木 課に勤務することとなる。この日付は、宮内省の片山東熊の設計により、壮麗なルネサン ス様式で後に関東大震災で焼失した第3代神奈川県庁舎が開庁したその日に当たる。38) 配属された土木課での建築職上司としては、宮城県出身の高等官で「建築工師」の職名 を持つ八島震がいた。この時点で成富は32歳の働き盛りで、有能な仕事ぶりからめきめ きと頭角を現していったものと思われる。大正3年には賞勲局から大正天皇即位を記念す る大礼記念賞が下賜された。上司の八島が大正5年7月に鹿児島県に転出するが、39) の後土木課で成富の上席につく建築技術者はおらず、実質神奈川県建築営繕のリーダーと なる。また大正5年の1月から7月にかけて、東京高等工業学校において「鉄筋コンクリ ート家屋構造」科目を聴講生として学んでいる。40) ・建築技師となる 大正8年12月には技手ながら「建築技師」の職名が与えられた。そしてこの年の9月、 成富は神奈川県匡済会「横浜社会館」の設計にあたっている。大正期の米騒動などが起こ る社会不安の中で、今日でいうホームレス労働者の収容施設である。この横浜社会館につ いては後述するように、県がペデスタル杭を使用した本格的鉄筋コンクリート造建築の最 初期のものである。佐野利器は匡済会の顧問であり、社会館の企画に当初から参画してい た。「横浜社会館」は佐野が神奈川県職員と交流を持った最初ものとして特筆される。41) 神奈川県庁舎は大正12年9月1日に関東大震災に見舞われるが、この頃成富はすでに 知事の側近となっている。すでに第1章でも記述しているが、震災当日の夜は、伊勢町に ある知事官舎も焼けてしまい、官舎前庭で野宿する。その時知事を取り囲み善後策を協議 した幹部の一人であった。 その後の震災復興のための膨大な建築需要に、成富は強力なリーダーシップを発揮する ことになる。最初の仕事は、仮庁舎を横浜市西区岡野町に木造で建設することであった。 一月半の突貫工事で、木造平屋約7,800平方メートルを大正13年6月に工費約30 万円で完成させた。42)仮庁舎での仕事は多忙を極め、臨時雇いの工手を含め建築技術系 職員は150人を超えたという。その任用も成富が取り仕切った。できの悪い職員は即座 に馘首したという。43)

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成富の厳しさは、一つは建築技術に対する姿勢であり、もう一つは業者との癒着の排除 などの官吏技術者としての倫理性であった。日頃から妻の「ギン」に、業者からはタオル 一本受け取ってはならないと厳命していた。44) そんな潔癖な成富を激怒させるとんでもない事件が大正15年2月24日に発生した。 土木課職員の8人分の給与500円が紛失したというものである。犯人は26日に検挙さ れたが、なんと森下某という27歳の建築技手であった。森下は和歌山県立工業学校を特 待生として卒業した優秀な人材であった。被害額はよく調べると1,000円に達してい た。45)この時期は、成富が震災で焼失した庁舎のデザインを公開コンペで募集する実務 的準備に忙殺されていた頃と重なる。成富の厳しい部下指導の姿勢が、この事件で倍加し たものと想定される。 そして筆者は、明治時代に辰野金吾と渡り合い、アクの強さとその剛腕ぶりで知られる 大蔵省の官僚建築家・妻木頼黄のイメージとだぶらせてしまう。良きにつけ悪しきにつけ、 中央官庁のトップ技術者を、何かと地方官庁技術者がモデルにしがちなのは今日でもあり がちのことである。 ・県庁舎建築事務所長心得 大正15年の3月5日に県庁舎建築事務所が組織され、成富は所長心得としてコンペ業 務を取り仕切ることになった。当然この間には、コンペの諸規定作成に当たり佐野利器の 指導を仰いでいたに違いない。成富は県庁舎建築事務所と土木課建築係建築技師を兼務し ている。6月にコンペが終了し、7月8日にコンペ業務担当者10名に特別賞与が出され たが、成富は最高額の200円(最低25円)を受け取っている。46) 同年7月14日の辞令で、成富は県庁舎建築事務所長心得から同事務所の参与となり(所 長は警察部建築課長の鳥井信が兼務拝命)、技手以下は新規採用によって、総入れ替えとな っている。さらに堀切善次郎知事は、横浜市内の震災復興事業各営繕工事について既決予 算の2割内外を残余させよと命じる。この成富の人事と既決予算残余命令は、県議会参事 会で堀切知事と小柳内務部長が厳しく追求された。大正15年年7月17日付けの横浜貿 易新報は「解しマ 兼マぬる・・人事の異動」とのタイトルで16日に開催された参事会を次の ように報じている。要約すると次のようになる。 ① 県庁舎建築事務所の職員を新規雇用したことは、これまで中心にやってきた土木課 建築係を不信任に陥れた。新たに吏員を雇用したのは予算削減を命じている趣旨に 反している。従来から土木課建築係は好成績を挙げており、また一旦は県庁舎の一 切の設計を終了し予算も決定していた経緯もあることから、同係を侮辱したことに なる。 ② 当局は、「県庁舎は県にとって重大なものであり、現在の建築係では力不足で新たに 技師以下を任用した。これまでは岡野町の仮庁舎で事務がとれたこともあり、一時 成富技師に所長心得を命じたが、今後の実施設計は庁舎工事敷地内で行うことにな り、多忙な成富技師から余裕のある鳥井氏を所長にしたものである。」と回答した。 ③ 知事の緊縮方針により、横浜市内の県立高等女学校、伊勢佐木・寿の警察署、第一 消防署等の建築既決予算の2割内外残余金を出せとの命令について、横浜市内のみ に緊縮を迫るのはおかしい、華美は避けるべきだがより堅固な建築にするほうが大

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切ではないか。 ④ ③については今後の参事会でさらに追求することになった。「知事はあまりに事務的 で履歴を尊重する風がある、清野知事時代の内藤・岡田氏に代えて佐野利器博士と したのはその結果だ。」「庁内には成富技師の技術家の経験も手腕を推奨するものが 少なくない。」との声がある。 この後成富は土木課で震災復興工事に専念することになるが、既決工事費を2割減額す るとの荒技は、成富の力なくして実行困難と知事は判断したと思われる。そして佐野利器 は東京市を退職して、大正15年8月2日付けで県庁舎建築事務所顧問となり、その指揮 下で新県庁舎の実施設計が進んでいった。岡田信一郎は8月30日付けで建築事務嘱託を 解かれた。47) ・日本建築学会正員になる等 また成富は、大正15年1月に日本建築学会の正員となっている。当時入会には正員2 名以上の紹介や資格詮衡委員会の審査が必要だった。48)佐野が成富の学会入会に関与し た可能性も考えられる。 また成富は対プレスのスポークスマンでもあった。49)従ってその多忙ぶりは大変なも のがあったろう。彼は県の仕事以外にも、「神奈川県畜産共進会事務委員(大正6年)」、「農 商務省植物検査所事務嘱託(大正7年)」、「神奈川県匡済会委員(大正8年)」、「日本赤十 字神奈川県支部事務委員(大正13年)」、「大蔵省営繕管財局横浜出張所神奈川県揮発物貯 蔵庫建築事務嘱託(大正14年)」といった外部機関の業務も特命されていた。50)また、 当時県には5台ほど乗用車があったが、その内の1台が運転手付きでほぼ成富の専用車と して使用することが許されていたと言う。51) 成富の指揮の下に建設された主要なものとして、神奈川県測候所、加賀町警察署、戸部 警察署、県立金沢文庫、日本赤十字社神奈川県支部等があり、県立武道館の設計が県職員 として最後の仕事となった。特に加賀町警察は、当時の新聞は「東洋一の加賀町署」との 見出しでその落成式を大きく伝えている。成富は式典で工事報告を行っている。52) この間の厳しい成富の仕事ぶりとして、気に入らない図面には直接赤鉛筆で手を入れた。 平日残業や日曜出勤も当然のこととして命ずる。そして「仕事は教えてもらうものではな く、盗むものだ。」が口癖だった。53)言わば、大正・昭和初期の神奈川県営繕組織は成富 建築設計事務所の体をなしていたのであろう。 成富は1936年(昭和11)6月1日付けで神奈川県を退職した。その時点で年俸は 2、500円、退職賞与は1、250円だった。54)県の官吏進退記をみると、当時は今 日的退職金の制度がないため、慣例的におおむね年俸の半額を退職賞与として出していた ことが分かる。ただし、成富の年俸は退職金を算定するためだけに退職直前に辞令として 出されたもので、実際の年俸はその半額程度であった。しかし、建築技師の職名で判任官 ながら神奈川県の高官として活躍した者への県からのせめてもの謝意だったのかもしれな い。退職時55歳であるから、当時とすれば定年まで勤めあげたわけで極めて珍しいケー スである。

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・晩年 その後、成富は鶴見区馬場町に「成富建築事務所」を開設しているが、55)どのような 設計業務をしたのかは判然としていない。戦後はこの事務所もたたむことになるが、昭和 25年に川崎競馬場の工事監理を県からの委託により行っている。この時、県の担当者と して成富の謦咳に接した相沢栄一郎氏は、そのあまりの厳しい業者指導に驚愕したことを 今でも思い出すという。さらに相沢氏は、他人の住宅等の設計監理に当たり、納得できな い工事は身銭をきって改修させるなどしたため、ほとんど財産を使い果たし、県時代の元 の部下に頼み、県発注工事の設計管理のアルバイトをしていたらしいと語られる。また成 富は「なりとみ」と読むのであるが、ついつい「なるとみ」さんと呼ぶと成田山を「なる たさん」とは読まないだろうと怒られた逸話を証言された。 数々の逸話を残した成富は鶴見区東寺尾で町内会長をするなどして最晩年を過ごした。 そして昭和30年1月20日大腸癌で亡くなる。56)享年73歳だった。保土ヶ谷区の久 保山墓地で妻「ギン」らと共に眠っている。 成富又三の孫・道浩氏は県庁コンペ応募案とおぼしきパース写真を保存されていた。そ れが下のものだが、これは洪洋社版の「神奈川県庁競技設計図集」には載せられていない ものである。勿論成富又三自身が描いたとは思えないが、「配景図」との表現は成富チーム がよく使用したものである。部下の誰かの応募案だろうか。かなり達者な筆致である。 図4−7 成富道浩氏所蔵の神奈川県庁コンペ応募パース

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(2) 震災復興功労対象以外で成富が関与した主要建築 ①横浜社会館

図4−8−1 横浜社会館

図4−8−2 横浜社会館平面図等

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出典 4−8−1∼2共に神奈川県匡済会75年史 ②神奈川県測候所 図4−9−1神奈川県測候所庁舎 図4−9−2平成16年の同庁舎 図4−9−3 神奈川県測候所配置図 出典 図4−9−1と4−9−3は最新建築設計叢書第一期(建築資料研究会、昭和3 年6月20日発行)

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図4−9−2は筆者撮影(平成16年7月) ③加賀町警察署 図4−10 加賀町警察署 図4−10−2 加賀町警察署パース 出典 図4−10−1は大村芙美江氏、4−10−2は成富道浩氏提供

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④戸部警察署 図4−11 戸部警察署 出典 成富道浩氏提供 ⑤県立金沢文庫 図4−12 県立金沢文庫 出典 成富道浩氏提供

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⑥日本赤十字社神奈川県支部 図4−13 日本赤十字社神奈川県支部 出典 成富道浩氏提供 ⑦県立武道館 図4−14 県立武道館

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出典 開所式配布絵葉書(県立武道館所蔵) (3) 各工事の概要 ① 横浜社会館57) RC 造3F 4,579㎡ 様式 近世式 総工費 458,166円 竣工大正10年5月(清水組) 担当者 チーフ 成富又三 内海清隆、大谷清定、末永栄之丞 横浜社会館は現在の横浜駅東口・そごうデパート(新都市センタービル)の辺りで、国 道に面していた。昭和52年8月に解体された。この施設建設の発端は大正7年に全国的 に頻発した米騒動である。横浜でも騒動は広がる様相があり、下賜金・政府資金・有志寄 付金で県市緊急対策として外米を廉価販売したが、この精算残金で社会福祉法人・神奈川 県救済協会(翌8年匡済会と改称)が設立された。当初会長は有吉忠一県知事が務めたが、 池田宏を最後に、昭和3年以降は民間人がなった。横浜社会館は匡済会の基幹事業として 男性貧困労働者の宿泊・教化の施設として建設されたもので、初代館長には左右田銀行頭 取の左右田喜一郎(経済哲学者)が就任した。この時点では県内務部社会課が積極的に関 与している。左右田銀行は金融恐慌で昭和2年に倒産し、喜一郎もこの年亡くなった。 会館の建設には50万円が充てられ、佐野利器を顧問に招聘して計画段階から成富又三 らの実務部隊を指導した。会館の東側は波打ち際(現在は大きく埋め立てられ面影はない) であり、地盤は軟弱のため、ペデスタル杭を使用している。 大正10年6月13日の開所式には、床次竹二郎内務大臣、後藤新平東京市長、清浦奎 吾(後の第23代首相)らが駆けつけ挨拶している。また2年後には関東大震災に遭遇す るが、建物本体はほとんど損傷がなく、臨時の救護所として使用された。佐野利器の指導 を仰いだとは言え、工業学校や工手学校卒業生だけの県営繕技術者が仕上げた神奈川県最 初期の本格的鉄筋コンクリート造建築であり、チームリーダーたる成富の信頼性が高まっ た大きな要因になったと推定している。 その後横浜の玄関口にはふさわしくない施設と非難が生じ、戦前は独身サラリーマンの アパートや東急電鉄の事務所、戦後は貸しビルとして社会福祉法人・匡済会の基本財産と して運営された。現在もこの団体は存続しているが、県との直接的関係は消滅している。 ② 神奈川県測候所 RC 造2F 地階1F 218坪 様式:近世式ニシテ工費ヲ節約スルノ目的ヲ以ツテ簡朴ヲ主トシ耐震、耐久的トシ実用的 要件ヲ満足セシムルヲ以テ主眼とセリ 工事費(本庁舎その他付帯工事のみ)77,800円 竣工昭和2年10月30日 施工 出水組 担当者 チーフ 成富又三 繁野繁造、中安次良市、伊藤武夫 当初神奈川県測候所は1896(明治29)8月1日に横浜市海岸通1丁目4番地(現 在の大桟橋の入り口の山下公園側)に建設されていた。この初代測候所の建設に遠藤於菟 が関与していた可能性が高いと堀勇良氏は述べている。58)しかし関東大震災で焼失し、

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仮庁舎を横浜市東波止場(現在の氷川丸係留地先の山下公園内)に大正12年11月に建 設した。そして新たに横浜市中区山手町99に建設されたのが、図4−8−1∼3の神奈 川県測候所である。その後昭和14年に国営移管され、昭和32年には横浜地方気象台へ と昇格、改称されている。この建物も近々安藤忠雄建築設計事務所の設計により全面建替 えられる予定である。 この建築を紹介している「最新建築設計叢書」は顧問に横河民輔、武田五一、佐藤功一 大谷荒太郎が監輯に当たり、ホテルニューグランド、同潤会の渋谷アパート、学士会館、 東京帝国大学講堂等が掲載されている。言うなれば、当時の一流建築と肩を並べているこ とになる。山手の外人墓地に道を挟んで隣接しているが、大抵の観光客はこのひっそりと 佇むアール・デコの香り豊かな小建築に気が付くことは少ない ③ 加賀町警察署59) RC 造3F 2,498㎡ 様式 近世式 総工費 221,877円 竣工大正15年6月(庄司組) 担当者 チーフ 成富又三 渡邊元四郎、貝塚良雄以外不詳 ④ 戸部警察署60) RC 造3F 1,546㎡ 様式 近世式 総工費 不詳 竣工昭和3年3月 担当者 チーフ 成富又三以外不詳 ⑤ 県立金沢文庫61) RC 造2F 649㎡ 様式 日本趣味を加えたる欧風 総工費 62,132円 竣工 昭和5年8月(塩沢組) 担当者 チーフ 成富又三 藤生満、前田壽一、祁答院利光 言うまでもなく金沢文庫は鎌倉時代に北条実時が自らの書院として、横浜市金沢の郊外 にあった別宅に設けたものである。その所在地は特定できていないが、称名寺の創建が1 260年(文応元)頃であり、それ以降の1275年(建治元)頃と推定される。北条氏 が滅亡するとスポンサーを失った称名寺も衰微していく。実時が収集した書籍や仏典は、 俵に包まれ山門の2階に放り込まれていたらしい。その後徳川家康が江戸城内に富士見亭 文庫を建て、金沢文庫本を大量に移した。明治維新以降はこれら徳川が持ち出した本は現 在まで宮内庁書陵部に保管されている。 明治30年になり、伊藤博文は平沼専蔵に2千円出資させて、称名寺大宝院の地に金沢 文庫を再建させ(地鎮祭は明治30年4月15日)、帝国憲法起草の参考図書300冊余り を寄進した。この建物は通称「伊藤博文の書見所」と呼ばれ、規模も小さかった。称名寺 境内は博文の愛した散歩の場所でもあった。 昭和3年に至り、かねてから本格的な文庫の再建を主張していた称名寺住職・小林憲住

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の要請に応え、大橋新太郎(博文館創立者、衆議院議員、貴族院議員、「金色夜叉」のモデ ル)が5万円を寄付し、県費5万円と合わせて10万円をもって鉄筋コンクリート造の金 沢文庫と青年子女の鍛錬施設「昭和義塾」を御大典記念事業として実施することが県会で 承認される。知事は池田宏であった。以上の金沢文庫の経緯は「金沢文庫復興30年史」 (昭和35年9月、神奈川県立金沢文庫刊)によっている。設計は営繕管財課技師の前田 寿一が、構造を藤生満が担当し、成富又三が指揮をした。工事は地元の塩沢組が請け負っ ている。 図4−15 金沢文庫地鎮祭 出典 金沢文庫 これは昭和4年2月5日、県立金沢文庫地鎮祭の記念写真である。前列左から7人目が 知事・池田宏、その左に初代金沢文庫長・関靖、知事の右に大橋正雄(新太郎子息)、前列 右から2人目が小林憲住師、3人目が成富又三 図4−16 玄関側から見た金沢文庫 出典 金沢文庫 昭和5年8月8日には金沢文庫と昭和義塾の開所式が挙行された。池田知事は都市計画 関係の蔵書167冊を文庫に寄贈している。また昭和5年の開所式時点で、知事は山県治 郎に代わっている。 金沢文庫 敷地 764坪(称名寺境内)鉄筋コンクリート2階建て 延べ 174坪9合5勺

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昭和義塾 敷地 976坪(称名寺西側隣接地)木造平屋 延べ 172坪2合5勺 金沢文庫の様式を、県当局は「日本建築様式で典雅と気品、簡素質実の方針」で設計を 進め、完成時点では「欧風に日本趣味を加えた」と説明している。これもまさに帝冠様式 の定義そのものと言えるものだ。しかし実際に1∼2階の本体部は、欧風と言うほどの外 国スタイルを感じさせない。屋根は日本瓦で葺き、玄関は唐破風で後の東京帝室博物館の ミニ版といった趣の建物である。金沢文庫と昭和義塾は小山を挟んでトンネルで行き来す るようになっていた。現在はこのトンネル自体が鎌倉時代の遺構として保全されている。 従って金沢文庫の玄関は山側に面していた。さらに当初玄関前には用務員用の小住宅が作 られていたが、公衆用トイレに転用されるなどしている。 そして昭和50年代の後半に老朽・狭隘化のため建替えが検討され、平成3年に松本陽 一氏設計による新しい県立金沢文庫が昭和義塾(戦後は社会教育会館となった)の地に建 設され、同時に旧金沢文庫も解体された。また伊藤博文の書見所玄関にあった懸魚は、金 沢文庫の前にある横浜市が管理する児童公園内の四阿に保全利用されている。 図4−17 伊藤博文書見所玄関懸魚を再利用した児童公園内の四阿 破風は新材を使用しているが、形はほぼ原型に近い。 ⑥ 日本赤十字社神奈川県支部62) RC 造3F 652㎡ 様式 近世式 総工費 90,000円 竣工 昭和9年8月(清水組) 担当者 チーフ 成富又三以外不詳 ⑦ 県立武道館63) RC 造3F 2,251㎡ 様式 日本趣味ヲ中心トセル近代式 総工費 174,323円 竣工 昭和11年8月(三木組) 担当者 チーフ 成富又三

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渡邊元四郎以外不詳 古くを知る元神奈川県職員は、成富が関与した公共建築を「成富様式」と畏敬の念を込 めて語る。64)しかし以上の通りデザインが統一されているということではなく、セセシ ョン風、日本趣味を取り入れた折衷様式、モダニズム風など、当時はやりの多様なデザイ ンを採用しているが、いずれも大正から昭和初期の時代を感じさせる重厚な雰囲気を醸し 出していることでは共通している珠玉のような作品群である。そして最近の吉田鋼市氏の 学説に従えば、65)これらの建築は古典様式からモダニズムを結ぶ広義のアール・デコ建 築と呼ぶことができる。残念ながらこれら建築は近年まで残っていたが、神奈川県測候所 も間もなく解体される予定であり、日本赤十字社神奈川県支部以外はすべて存在しなくな る。 (4)成富又三の後継者達 1)渡邊元四郎 渡邊は明治26年2月24日、福島県安達郡二本松町で生まれる。明治43年から45 年にかけて実父が経営する渡辺工務所で建築設計の実務を学ぶ。大正6年3月に東京工科 学校建築科本科を卒業した後、宇都宮第14師団経理部営繕課を経て大正9年9月には横 須賀海軍経理部建築科技生となる。この間に臨時南洋群島防備司令部付として、2年間サ イパン島に行き、サイパン民政署官舎、海軍病院新築工事の工事監督の主任となっている。 大正12年には文部省に出向し、1年間現在の東北大学の増改築工事を担当した後、大 正13年3月に神奈川県内務部土木課に建築技手として採用された。 成富の下で震災復興事業のほか、加賀町警察等の設計主任を務めるなど実務の中心技手 だった。そして成富が退職後の神奈川県営繕を支えた。なお渡邊は26年の神奈川県庁舎 設計コンペに応募している。66) その後終戦の年まで神奈川県に所属するが、昭和18年には高等官になっている。戦後 は(株)藤田組の横浜支店長となり、昭和25年に渡邊建築事務所を開設している。昭和 37年死去。 現在も事務所は子息の四郎氏が引き継いで、(株)渡辺建築設計事務所として、神奈川県 の中堅事務所の地位を保っている。特筆すべきは父親が担当した加賀町警察署の改築設計 を受注し、特徴あるアーケード・ロジアを忠実に復元設計し、平成7年に完工させている ことである。 2)貝塚良雄 貝塚良雄は明治33年1月22日に横浜市榎町で父・良助、母・はまの長男として生ま れる。母の「はま」の出自は士族の平岡家で三島由紀夫と親戚筋に当たる。母方の祖父は 役人になれと孫の良雄に言い含めたという。 大正6年に神奈川県立工業学校建築科を卒業し、清水組に採用され、開港記念会館の工 事に参加する。気性の激しい貝塚は現場で職人ににらまれ、簀巻きにされて横浜港に放り 投げられたとの伝説が残されている。(長女・大村芙美江氏談)

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大正7年8月に神奈川県内務部土木課に工手として採用され、同年12月に建築技手と なり、成富の下で働くこととなる。そして震災復興では、母校の県立工業学校や横浜第一 中学の設計管理を行っている。(震災復興功労調)また自筆履歴には、加賀町警察署、鎌倉 師範学校、八幡橋(磯子)警察署、川崎警察署の工事監督の現場主任であったとの記載が ある。そして昭和4年5月に神奈川県から樺太庁に出向し昭和14年には高等官になって いる。 既に井澗裕氏のグループが「樺太庁技師貝塚良雄(1900−1974)の経歴と建築 活動」(日本建築学会北海道支部研究報告集NO72、1999年3月)として樺太時代の 実績を中心に、その人生の大要を発表している。 樺太時代には樺太中央研究所、樺太庁博物館、樺太庁庁舎らを手がけているが、その白 眉は帝冠様式風の博物館であろう。 図4−18 樺太庁博物館 出典 大村芙美江氏提供 樺太庁博物館はかなり荒れているが現存している。その概要は、鉄筋コンクリート造 地 上3階地下1階 延べ1,404㎡で、日本城郭風和洋折衷式と自らのメモに記されてい る。 戦後樺太から復員後、神奈川県内でAクラスの(株)加藤組の常務取締役建築部長とし て活躍した。当時社長の加藤籐治氏とは寿尋常小学校で同級生だった。土木専門の同社に 建築部門を設立し、建築部門すべてをまかされ、同部は貝塚学校と呼ばれ、口うるさい貝 塚は彦左衛門のあだ名が献上されたと言う。そして27年間の加藤組勤務時代に500件 を超える建築工事をものにしている。67)昭和49年6月に死去、社葬をもって送られる。 そして彼の仕事に対する厳しい姿勢の思い出話からは、貝塚は成富のエピゴーネンであっ

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たとの感がする。 第4章 註 1) 石野瑛:横浜旧吉田新田の研究、武相考古会、昭和11年10月、P112 触書 横浜吉田新田地内沼地凡7万坪埋立之積り相成右土地取場最寄に無之船附便利之 為中村川より左宝生寺脇谷戸根岸迄堀通じ右土を以而埋立候義を相心得自力に而 一手引受度望之者有之候はば修造引受之義可差許候間来る25日迄に当庁へ可申 立委細図面仕様帳を以差示し候様可致事 午4月26日 神奈川県庁 吉田町 勘 兵 衛 常 次 郎 市右衛門 2) 1)に同じ 3) 同上、P116 4) 神奈川県官員録、明治8年4月、この中に神奈川裁判所官員録が内包されており、 聴訟課、断獄課、断刑課、庶務課、出納課、翻訳課の次に建築掛がある。 5) 本章では、大正年間から概ね1936 年(昭和 11)頃までを対象とする。神奈川県 建築部営繕課:営繕工事の歩み, P133、昭和44年3月、によれば、昭和2年4 月に土木部が発足し、営繕部門は内務部営繕管財課(課長は地方事務官)へ移管 された。 6) 拙稿:建築家・小尾嘉郎の経歴と建築活動に関する研究, 日本建築学会計画系論 文集, 第 587 号, P.201, 2005.1, で詳述。 7) 神奈川県職員録大正2年版巻頭に、各職の俸給表が掲載されている。 8) 大淀昇一氏:技術官僚の政治参画、中公新書、1997年、P27 9) 神奈川県職員録大正2年版では、「雇」の身分で44名の技術者がいることは分か るが、土木・建築の区分が判然としない。 10) 横浜貿易新報, 大正13年10月25日付けは「国費・県費支弁の職員淘汰マ マ は他 府県同様―中略―土木課に250 名、農務課に 40 名いるのは別格」と県の意向を 伝えている。 11) 横浜貿易新報, 大正13年5月6日付けは、「政府から予算外貸付金として配当さ れたのは庁舎費二百五十万円」と報道している。なお県庁舎建築事務所長「鳥井 信」は、建築行政の分野で功労者推薦されている。 12) 「震災復興功労者調」の詳細な経歴書では、和田順三以下有村繁までの9人は既 に退職、大森幹は死亡と記されている。 13) 藤生満の経歴については、西澤泰彦:満州国政府の建築組織の沿革について, 日 本建築学会計画系論文報告集, 第 462 号, P187,1994 年 1 月,及び 戸田建設(株) 総務課のご教示。 14) 佐野博士追想、私家版、昭和32年11月、P140 15) 神奈川県職員録,昭和3年 5 月 1 日付けでは、藤生満の月俸は 120 円であるが、 同年代の中村常吉は75 円、請地享之介は 50 円である。 16) 12)に同じ。なお成富久治は佐賀県佐賀市水ヶ江町出身(出自は士族)で、三 菱上山田炭鉱(大正5)、輜重兵として第18師団入隊(大正6)、大都土木建築 (株)(大正8)を経て、大正14年9月に神奈川県に採用されている。その際 成富又三の面接は受けているかもしれないが、経歴等から又三との関係は見当た らない。日大高等工業建築科は大正15年に卒業とあり、夜間部であったと推測

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される。その後何時県を退職したか正確には分からないが、日本建築学会会員住 所姓名録の昭和15及び16年版には直喜鉄工所設計部勤務とあり、その後名前 は消えている。 17) 村松貞次郎:日本近代建築の歴史, NHK ブックス, P141∼144、1977 年 10 月、 18) 清水慶一:明治期における初等・中等建築教育の史的研究, 私家版,1982 年 4 月、 P48 19) 神奈川県立神奈川工業高等学校:神工70 年史,P5, 1981.5 20) 同書, P4 21) 神奈川県議会事務局:神奈川県会史第3巻, P765, 1953.3 22) 19)の同書, P5 23) 19)の同書, P6 24) 18)の同書,P48 25) 18)の同書,P85 26) 例えば大正13年に、短期間ではあるが、川喜田煉七郎が教鞭をとっている。1 9)同書,P14、また同校の卒業生は大正2年4月に文部省告示 110 号で志願によ る1年の陸軍現役並びに判任官任用の資格が与えられた。19)同書,P7 27) 埼玉工業大学、日本工業大学、中央工学校、の各ホームページ 28) 「震災復興功労者調」に記載されている施設で、ここに挙げたもの以外に各種学 校施設と記述はあるが、特定されていない。 29) 工事概要は、横浜市:横浜震災復興誌第3編, P755∼764,1932.3,担当者は11) に同じ 30) 神奈川県建築部営繕課:営繕工事の歩み, 昭和44年3月、P111,では「偉大なる ワンマン」と、震災復興期を取り仕切った男として紹介されている。また生前の 前田壽一氏、元神奈川県都市部長藤本圭佑氏ら複数の元神奈川県職員が成富又三 と言う偉大な先輩がいたことを語られる。なお本節での成富の経歴に関する事項 は特記なき限り「震災復興功労調」を根拠としている。 31) 成富道浩・一美両氏(又三の孫)の証言 32) 岬茫洋:九州の苗字を歩く・佐賀・長崎編、梓書院、平成15年5月、P336 33) 31)に同じ 34) 佐賀県立佐賀工業高等学校卒業生学籍簿 35) 12)に同じ 36) 12)に同じ 37) 31)に同じ 38) 神奈川県議会事務局:神奈川県会史第3巻,P.859,1953.3, 神奈川県告示第 147 号 で 1913 年(大正2)6 月 10 日, 神奈川県知事・大島久満次が開庁を宣言してい る。 39) 石田潤一郎:都道府県庁者―その建築史的考察, 思文閣出版, 1993 年 5 月,P325、 及び、堀勇良:横浜の建築家,横浜・建築と都市の 100 年, 横浜市、1989 年 4 月 P62 40) 12)に同じ 41) 社会福祉法人神奈川県匡済会:神奈川県匡済会75年史,P488, 1994.12, には佐 野が計画段階から顧問として指導したことが、また「横浜貿易新報」1921.5.10 付けの横浜社会館落成式の記事に「成富技師の設計監督と佐野工学博士の意見に 成った鉄筋コンクリート」と紹介されている。 42) 横浜市:横浜復興誌第4編, P476,1932.3 43) 30)に同じ。 44) 31)に同じ。 45) 横浜貿易新報、大正15年2月25∼29日

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46) 官吏進退記, 大正15年版に記載されている。神奈川県立公文書館所蔵 47) 46)に同じ。 48) 日本建築学会: 建築雑誌, 巻末本会記事, p.182, 1926.2,に桑原栄治や武藤清らと 共に成富又三の名前が掲載。 入会規約は日本建築学会定款第15條(1923.2.28, 改正)。 49) 例えば「横浜貿易新報」1926.6.13 付けに、「建築工事行悩む、成富技師談」との タイトルで、入札不調が続いていることへの談話が載せられているなど、同紙に 成富の名はたびたび登場する。 50) 神奈川県職員録、1917,1918,1919,1924,1925 年版 51) 30)31)に同じ 52) 「横浜貿易新報」1926.6.27 付け 53) 30)に同じ。並びに渡邊四郎氏の証言 54) 官吏進退記、昭和11年版 55) 日本建築学会会員住所姓名録1941 年版 56) 31)に同じ。 57) 社会福祉法人神奈川県匡済会: 神奈川県匡済会 75 年史, P68∼70, 1994.12 58) 堀勇良:横浜の建築家、横浜・都市と建築の100年、横浜市、1989、P.62 59) 横浜市:横浜復興誌第4編, P501, 1932.3 60) 横浜市:横浜復興誌第4編, P505∼506, 1932.3 61) 神奈川県立金沢文庫: 金沢文庫復興30年史, P6∼7,1970.9, また県立公文書館 所蔵の入札執行伺原議に、成富、藤生らの印がある。 62) 日本赤十字社神奈川県支部: 100 年のあゆみ, P61, 1989.1 63) 神奈川県: 武道館概要 (竣工式配布資料), P3∼5, 1936.11.11, 神奈川県立武道 館所蔵 64) 30)に同じ 65) 吉田鋼市:アール・デコの建築, 中公新書, 2005.2, P16∼21 66) 渡邊四郎氏の証言、建通新聞、2004 年 6 月 1 日 67) (株)加藤組副社長・高田照子氏、同社元常務取締役・矢野文保氏の証言。両氏は 貝塚と長年仕事を共にしていた。特に矢野氏は直属の部下として、その仕事に対 する姿勢の厳しさを学んだと語る。

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