大阪市西淀川区、淀川の干潟、福町と野里の環境と清掃活動
-福町港、花川の干拓、神社の鳥居、乳牛牧跡、緑陰道路-
沢 勲 ・ 長谷部 憲司 ・ 西山 正明 ・ 石田 信也
(関西大学校友会西淀川支部)
Hukumati and Nozato of Environment and its Cleaning Activities,
Yodogawa Flats, Nishi-Yodogawa-Ku
, OSAKA
-Port of Hukumati, Reclamation of Hanakawa,
Torii of Shrine and
Leafy Shade Road-
Isao SAWA, Kenji HASEBE, Masaaki NISHIYAMA and Shinya ISHIDA
ABSTRACT
Nishiyodogawa-ku of the Burial Mound age developed the basics of culture development of Osaka by many islands.Japanese archipelago during the formation of Nishiyodogawa is a submarine ground-water, east foothills and west Ikoma was deeply penetrated the sea at the foot Rokko. Nishi-yodogawa was flow volume from Ikoma foothills and Hokusetsu. Sediment that has carried from such Yodogawa- Yamatogawa -Mukogawa is, make oxalic is deposited at the mouth, it became increasingly island. The ancient island name was called Namihaya-Yasoshima.
The island name of Nishi-yodogawa-ku is 10 islands of Take-shima, Mite-jima, Tsukuda-shima, Deki-jima, Heme-jima, Hyaku-shima, Naka-jima, Jo-jima, Nishi-jima and the Outsidee-jima. These earth, well-known between the city of nobles and literati since ancient times, there are many monument. The ground cleared in the waterside was hit by many floods. One with many Shinto shrines costs Sumiyoshi -Taisha Shrine which is the guardian deity of the sea Kanjiyo and bears flood disaster. As inundation measures, a large-scale seawall was constructed now.
The birth of Nishi-yodogawa-ku reached the 90th anniversary in 14(1925) year in the Taisho era. The area was subjected to early Meiji, Taisho and Showa, was the rapid development of such development and railways, roads and bridges of water transportation. This industrial area became the outbreak source of the air pollution and caused a serious pollution issue. Nishiyodogawa-ku promoted outbreak source measures zealously and achieved constant result.
In Nishiyodogawa-ku, the Ono River, Masaru Nakajima Channel with much river contamination planned the environmental improvement of the civic life, too. ①The island name is Naka、Nishi-jima and Tsukuda-jima. ②The bridge road line name is Route 11 Ikeda Line, Kobe Line and Route 4 Bayshore Line.
③The station name is Tsukamoto Station, Mitejima, Kashima, Himejima, Chibune, Fuku and Dekijima Station.
キーワード:乳牛牧跡、福町港、花川の干拓、神社の鳥居、緑陰道路
Keywords:Titiushi-no-Makiato, Port of Hukumati, Reclamation of Hanakawa, Torii of Shrine and
Leafy Shade Road
目次
1.はじめに 2.西淀川区の環境 2-1.安閑天皇(531-536)と乳牛牧跡 2-2.西淀川区の花とマスコット 2-3.西淀川区の環境と規模 3.大阪市西淀川区、河川の干潟 3-1.大阪市西淀川区、河川とは 3-2.大阪市西淀川区、河川干潟 4.大阪市西淀川区、河川の橋と歴史 4-1.大阪市西淀川区の橋と歴史 4-2.淀川大橋 4-3.伝法大橋と新伝法大橋 5.大阪市西淀川区の神社と経緯度 5-1.野里住吉神社 5-2.大阪市西淀川区神社の経緯度分析 5-3.東淀川区・淀川区・西淀川区の神社の経緯度 6.おわりに 6-1.大野川緑陰道路 6-2.西淀川区民まつり 6-3.西淀川区の古地図 謝辞 参考文献1.はじめに
本研究は、地域の歴史を明らかにして、文化遺産学の資料を作成することを目的としている。本稿は、古代摂 津国の河川地域である大阪市西淀川の河川地域と行った洞窟環境 NET 学会の総合学術調査(2015)報告の一 部である。古墳時代の西淀川区には多くの島によって大阪の文化開発の基礎を繰り広げた地である。我々は、そ うした歴史背景を抑えつつ区内の河川や文化施設について調査を行った。さらに文献等によって神社および周 辺の歴史、伝承地の由来についても調査研究も行った。本稿は、古代国家の命運を決定づけた舞台としての西 淀川を多角的にとらえた実証研究の報告である。日本列島形成時に太古の西淀川区はまだ海の底で、大阪湾の東 は生駒山麓と西は六甲山麓まで深く入りこんだ海である。それから長い年月にわたり、生駒山麓と北摂から、淀川、大 和川と武庫川などから運んできた土砂が、河口に堆積して洲をつくり、次第に島になった。 これが古代に難波八十島と呼ばれた。西淀川区の地名に、竹島、御幣島、佃島、出来島、姫島、百島、中島、城島、 西島、外島など、島の名が多いのは、その名残と言える。これらの地は、古くから都の貴族や文人の間によく知られ、今 日残されている多くの歌碑から知ることができる。水辺に拓かれた地は、古来幾度となく水害に見舞われた。区内の神 社の多くが、海の守護神である住吉大社を勧請して、昔の水災をしのぶのである。現在は浸水対策として、大規模な防 潮堤が築造され、今後の抜本的な浸水対策として、"淀の大放水路"も着工した。 西淀川区の誕生は大正 14(1925)年 4 月 1 日で、明治・大正・昭和の初期にかけ、水運の発達や鉄道・道路・橋梁な どの急速な整備に伴い、紡績・機械・金属・鉄鋼・化学といった近代工業が集中し一大工業地帯を形成した。しかし、こ れらの工業地帯は一方では大気汚染の発生源となり、当区に深刻な公害問題を生じさせたが、いち早く発生源対策を 鋭意推進してきた結果一定の成果をあげた。河川汚濁の多い大野川・中島大水道も市民生活の環境改善を図り、緑あ ふれる緑陰道路として再生され、広く区民の憩いの場・健康づくりの場として活用されている。 我々は、そうした歴史背景を抑えつつ区内の神社鳥居の高さに解析を行った。国内において、神社鳥居の関 連資料に関する報告は少ない。住民発達史や環境変遷史との関わりで、神社がどのような位置づけや問題点を 有しているかという検討が重要である。筆者は、鳥居の高さについて回帰方程式によって勾配と決定係数を解明した。今後の研究課題として、神社の 保全と環境問題などについて所見を整理したい。さらに、短時間の調査であったため、未解明の事項が少なくな い。今後も調査を継続する予定であるが、とりあえずこれまでの成果の所見を整理した。国際化時代に相応すべ く、基礎を作成した。
2.西淀川区の環境
2-1.安閑天皇(531-536)と乳牛牧跡
安閑天皇(531-536)と乳牛牧跡は、大阪市教育委員会の記録によると乳牛牧跡(ちゅうしまきあと・ちちうしのま きあと)とは、平安時代にこのあたりに置かれていた牧場で、味原牧とも呼ばれた。朝廷の薬などを司る典薬寮とい う役所の領地で、その名の通り乳牛を放牧し、牛乳などの乳製品を朝廷に納めていた。 『日本書紀』安閑 2 年 9 月条には「牛を難破大隅 嶋と媛嶋松原に放て」とい う記事があり、古くから淀 川流域が、牛の放牧に適 した土地柄であったことが 判る。大隅嶋・媛嶋は、現 在の東淀川区・淀川区の 塚本・西淀川区の柏里と花川あたりと推定される。花川地域では乳牛牧がいつごろまで続いていたかは判らない。 牛に対する厚い信仰を示すもので、この地域と牛との深い繋がりを今に伝えている。乳牛牧跡の池の史跡であ る。 広報「ひがしよどがわ」によると、古代律令制時代以来、典薬寮(テンヤクリョウ:朝廷で医薬を取り扱っていた官省 に所属していた牛牧「味原牧(あじふのまき)」がありました。「味原牧」は、摂津市の味原(あじふ)の地から淀川が 分流する江口の下流部(現在の南江口・大桐・大道南あたり)に分布していたといわれ、乳牛を飼育していたこと から「乳牛牧」と呼ばれていました。2-2.西淀川区の花とマスコット
これらの地は、古くから都の貴族や文人の間によく 知られ、今日残されている多くの歌碑から知ることがで きる。水辺に拓かれた地は、古来幾度となく水害に見舞 われた。区内の神社の多くが、海の守護神である住吉 大社を勧請して、昔の水災をしのぶのである。現在は浸 水対策として、大規模な防潮堤が築造され、今後の抜 本的な浸水対策として、"淀の大放水路"も着工した。 西淀川区の誕生は大正 14(1925)年 4 月 1 日で、明 治・大正・昭和の初期にかけ、水運の発達や鉄道・道 路・橋梁などの急速な整備に伴い、紡績・機械・金属・鉄鋼・化学といった近代工業が集中し一大工業地帯を形成した。 河川汚濁の多い大野川・中島大水道も市民生活の環境改善を図り、緑あふれる緑陰道路として再生され、広く区民の 写真 2-1.安閑天皇(531-536)と乳牛牧跡は、東淀川区にある 写真2-2.西淀川区の花 写真2-3.区の「に~よん」憩いの場・健康づくりの場として活用されている。さらに、西淀川区を緑豊かな潤いのまちにしたいとの願いから、昭和 50(1975)年、区制 50 周年を記念して、区の花に「サザンカ」が定められた(写真2-2)。西淀川区のマスコット「に~ よん」もある町である(写真2-3)。
2-3.西淀川区の環境と規模
表 2-1.大阪市西淀川区の経緯度の東西南北端 町 名 緯 度 経 度 標高(m) 竹島5丁目 北端の町 34°43′59″N 135°26′57″E 0 西島2丁目 南端の町 34°41′13″N 135°25′05″E 1 柏里 1 丁目 34°42′33″N 東端の町 135°28′15″E 1 中島2丁目 34°42′23″N 西端の町 135°25′57″E 0 表 2-1は大阪市西淀川区の経緯度の東西南北端である。 区内最東端の町である柏里 1 丁目は、34 度 42 分 33 秒 N と 135 度 28 分 15 秒 E で、標高 1m である。 区内最西端の町である中島 2 丁目は、34 度 42 分 23 秒 N と 135 度 25 分 57 秒 E で、標高 0m である。 区内最南端の町である西島 2 丁目は、34 度 41 分 13 秒 N と 135 度 25 分 05 秒 E で、標高 1m である。 区内最北端の町である竹島 5 丁目は、34 度 43 分 59 秒 N と 135 度 26 分 57 秒 E で、標高 0m である。 表 2-2.大阪市西淀川区の規模 項 目 規 模 項 目 規 模 総面積 14.22(km2) 海岸線の距離 約 17.68(Km) 東西距離 約 5.94(Km) 南北距離 約 5.31(Km) 総人口(2015 年 5 月 1 日) 96,141(人) 人口密度 6,760(人) 隣接行政区 大阪市(福島区、此花区、淀川区)、兵庫県尼崎市 区の花 サザンカ 区役所の住所 〒555-8501 大阪府大阪市西淀川区御幣島 1-2-10 号 北緯 34 度 42 分 41 秒東経 135 度 27 分 21.9 秒座標: 表 2-2 は大阪市西淀川区の規模である。すなわち、西淀川区の規模は、大阪府大阪市の最西端に位置し、東西間 距離約 5.31km、南北間距離約 5.94km、境界線距離約 17.68km、総面積 14.22 平方 km、人口96.141人である。区の 花はサザンカである。隣接行政区は阪市(福島区、此花区、淀川区)、兵庫県尼崎市である。 表 2-3.大阪市西淀川区の島・橋道路線・鉄道と市立中学校名 項 目 1 2 3 4 3 島名 中島 西島 佃島 3 橋道路線名 池田線 神戸線 湾岸線 4 鉄道名 JR 東海道本線 JR 東西線 阪神本線 阪神なんば線4 市立中学校名 淀 西淀 歌島 佃 表 2-3 は大阪市西淀川区の島・橋道路線・鉄道と市立中学校名である。市西淀川区には、多くの組織・施設が地 域に貢献し、社会を構成している。3 島名は中島・西島・佃島である。3 橋道路線名は池田線・神戸線・湾岸線である。4 鉄道名は JR 東海道本線・JR 東西線・阪神本線・阪神なんば線である。4 市立中学校名(創立順)は淀・西淀・歌島・佃で ある。 表 2-4.大阪市西淀川区の川・駅・神社と市立小学校名 項 目 1 2 3 4 5 6 7 8 5+2 川名 中島川 左門殿川 神崎川 西島川 淀川 旧大野川 旧中津川 7 駅名 塚本駅 御幣島駅 加島駅 姫島駅 千船駅 福駅 出来島駅 8 神社 野里 田蓑 姫嶋 大和田 福 鼻川 五社 大野百島 14 市立 小学校 香簑 野里 歌島 佃西 佃 大和田 姫里 福 姫島 出来島 佃南 川北 柏里 御幣島 表 2-4 は大阪市西淀川区の川・駅・神社と市立小学校名である。川名は中島川・左門殿川・神崎川・西島川・ 淀川・旧大野川・旧中津川である。7 駅名は塚本駅・御幣島駅・加島駅・姫島駅・千船駅・福駅・出来島駅である。 8 神社は野里住吉神社・姫嶋神社・姫嶋神社・福住吉神社・福住吉神社・鼻川神社・五社神社・大野百島住吉神 社である。14 市立小学校名(創立順)は香簑・野里・歌島・佃西・佃・大和田・姫里・福・姫島・出来島・佃南・川北・ 柏里・御幣島である。 表 2-5.大阪市西淀川区の
17 町名
と17 橋名
項 目 1 2 3 4 5 6 17 町名 西島 百島 大野 竹島 花川 千舟 福町 柏里 中島 出来島 歌島 姫里 野里 大和田 姫島 御幣島 佃 17 橋名 中島新橋 辰巳橋 左門小橋 左門橋 中島・出来島大橋 城島橋 城島小橋 千北橋 千船大橋 神崎大橋 両島橋 中島大野高架橋 新伝法大橋 伝法大橋 淀川大橋 中島川橋 神崎川橋 表 2-5は大阪市西淀川区の 17 町名と 17 橋名である。17 町名は西島・百島・大野・竹島・花川・千舟・福町・ 柏里・中島・出来島・歌島・姫里・野里・大和田・姫島・御幣島・佃である。17 橋名は中島新橋・辰巳橋・左門小橋・左 門橋・中島出来島大橋・城島橋・城島小橋・千北橋・千船大橋・神崎大橋・両島橋・中島大野高架橋・新伝法大橋・伝 法大橋・淀川大橋・中島川橋・神崎川橋である。3.大阪市西淀川区、河川の干潟
3-1.大阪市西淀川区、河川とは
淀川とは、琵琶湖から流れ出る唯一の河川。瀬田川(セタガワ)、宇治川(ウジガワ)、淀川と名前を変えて大阪湾 に流れ込む。滋賀県、京都府及び大阪府を流れる淀川水系の本流で一級河川。流路延長は琵琶湖南端よりの 延長であり、河口から最も遠い地点は滋賀県・福井県の分水嶺である。 この場所は琵琶湖へ流入する河川・高時川の水源地であり、そこからの河口までの直線距離は約 130km である。 また、琵琶湖に流入する河川や木津川などを含めた淀川水系全体の支流(支川)数は 965 本で日本一多い。第 2 位は信濃川(880 本)、第 3 位は利根川(819 本)となっている。水系:一級水系 淀川、種別:一級河川 、延 長:75.1km、平均流量:163 m³/s.(枚方観測所 1952 年~2002 年)、流域面積:8,240 km²、水源:琵琶湖(滋賀県)、 河口・合流先:大阪湾(大阪市)、流域:滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、三重県である。 写真 3-1. 淀川の最南端にある大阪市此花区上空から西淀川区方面を撮影 写真 3-3.大阪市西淀川区、1級河川の満潮時の水位と北区の高層ビル繁華街 写真 3-2.大阪市西淀川区、1級河川の水門。交差点およびと野球練習場
写真 3-4.大阪市北区の高層ビルから撮影した手前の繁華街と遠方にある淀川と北摂地
3-2.大阪市西淀川区、河川干潟
大阪市西淀川区の清掃活動は 2015 年 5 月 23 日である。主催:西淀川自然文化協会。タイトルは「淀川の干潟 と生物多様性を守ろう」である。目的は淀川の自然や歴史を体験しながら環境保全活動を行う。活動は大阪の街 中を流れる淀川の河口で清掃活動である。淀川で採れる魚は、ウナギ。淀川は自然の豊かさに驚かれる。 干潟(ヒガタ)とは、海岸部に発達する砂や泥により形成された低湿地が、ある程度以上の面積で維持されてい る、朔望平均満潮面と朔望平均干潮面との潮間帯である。潮汐による海水面の上下変動があるので、時間によっ て陸地と海面下になることを繰り返す地形である。砂浜と比べ、波浪の影響が少なく、勾配が緩やかで、土砂粒径 が小さく、生物相が多様な平坦地形である。環境省の定義は「干出幅 100m 以上、干出面積が 1ha 以上、移動し やすい基底(砂,礫,砂泥,泥)」を満たしたものを干潟と呼んでいる。 写真 3-5.清掃活動のプログラム、西淀川区福町公園で集った元気人と清掃活動者 写真 3-6.西淀川区、福町干潟(ヒガタ)で死亡した魚、福町港に集った元気な人と清掃活動者写真 3-7.西淀川区東方向、淀川の干潟に見られた「貝殻」、「蟹」と巡検者
4.大阪市西淀川区、河川の橋と歴史
4-1.大阪市西淀川区の橋と歴史
表 4-1.大阪市西淀川区、淀川の橋と歴史
檞(カシワ)野橋 西成大橋 淀川大橋 伝法大橋 新伝法大橋 橋長(m) 724.0 765.1 860.3 橋幅(m) 5.5 20.1 17.0 15.5 径間(m) 8.5 19.0 13.0 形式 鋼トラス ランガー鋼橋 鋼箱桁橋 竣工 明治 9(1876)年 明治 41(1908)年 大正15(1926)年 昭和 17(1942)年 昭和 44(1969)年 淀川河口 4.8km 参考 私設の有料橋 浪速の名橋 50 選 表 4-1 は大阪市西淀川区、淀川の干潟環境の資料である。大阪市西淀川区の淀川干潟は、檞(カシワ)野橋:明治 9(1876)年、西成大橋:明治 41(1908)年、淀川大橋:大正15(1926)年、伝法大橋:昭和 17(1942)年および新伝法大橋:昭和 44(1969)年の順に竣工されている。橋長は 724mから 860mである。橋幅は 15.5mから 20.1mである。径間は 8.5mから 19mである。 写真 4-1.淀川河口から西淀川へ 写真 4-2.明治 9(1876)年の碑石 写真 4-3.明治 41 年の碑石写真 4-1 は淀川河口から西淀川への上空で見られる。写真 4-2.明治 9(1876)年の碑石で、大阪市西淀川区 野里の「くらち」店にある。写真 4-3.明治 41(1908)年の碑石で、西淀川の鼻川神社の境内にある。
4-2.淀川大橋
淀川大橋(ヨドガワオオハシ)は、大阪府大阪市福島区海老江と西淀川区姫里を結ぶ淀川に架かる国道2号の橋。 阪神間の主要道路の橋であるため交通量は多い。歩行者専用の道路もある。浪速の名橋 50 選に選定されている。 淀川陸閘が左右岸にある。この橋の下(地下)に JR 東西線が通っている。 歴史:新淀川が開削される前は、付近を中津川が流れており、左岸の西成郡海老江村字新家(のちの花川町) と右岸の同郡野里村とを隔てていた。江戸時代から大坂と尼崎とを最短距離で結んだ梅田街道が通っており、 「野里の渡し」があった。野里の渡しは、磐之媛命が御綱葉を海へ投げ捨てた「柏の渡し」にあたるとも言われ、現 在の西淀川区柏里の町名の由来にもなっている。 明治 9 年(1876 年)、檞野橋(カシワノハシ)が架橋された。私設の有料橋で、新淀川の開削に伴って廃止。明治 41 年(1908 年)に西成大橋が架橋され、幅員が約 5.5m、阪神国道敷設に伴って新橋に架け替えた。大正 15 年 (1926 年)に淀川大橋が架橋され、左に淀川陸閘が見える)形式 鋼トラス他。 写真 4-4.西淀川区東側にある、淀川の干潟から見られた鉄道と高速道路 ... 写真 4-5.西淀川区東側にある淀川大橋と野球練習場と対岸にある北区の高層ビル4-3.伝法大橋と新伝法大橋
伝法大橋(デンポウオオハシ)は、大阪市西淀川区福町と此花区伝法間の淀川に架かる橋である。国道43 号(第 二阪神国道)に指定。この記事では並行して架けられている新伝法大橋も記述する(写真 4-6 と 7)。写真 4-6.大阪市此花区の上空から撮影した西淀川区のある大橋と鉄道 写真 4-7.大阪市此花区の上空から撮影した西淀川区のある大橋と鉄道 歴史:伝法大橋は第二阪神国道の建設に伴い 1942 年に架けられた。戦後、経済成長とモータリゼーションの影響で 交通量が増加したため、新伝法大橋が伝法大橋の下流に架けられた。大阪市西淀川区、淀川干潟(ヒカタ)ウオッチ ングに参加した。此の写真は、高速道路と並列になっている JR 線(塚本駅付近)である。素晴らしい鉄橋の下であ る。高速道路工学、河川工学や鉄橋エンジニアの方に敬意を表する。 写真 4-8.高速道路工学、河川工学や鉄橋エンジニアによる素晴しい鉄橋
5.大阪市西淀川区の神社と経緯度
5-1.野里住吉神社
所在地は、大阪府大阪市西淀川区野里 1 丁目 15-12。主祭神は、底筒男命・中筒男命・表筒男命、神功皇 后。社格等:旧村社。創建:伝永徳 2 年(1382 年)。主な神事:一夜官女祭 2 月 20 日。境内:淀川戎神社、事代主命・大國主命、五座相殿社 草祖神・菅原道真・春日大神・八幡大神・八百万大神。事平神社、月頼大明神、 勝雄木稲荷神社、源次郎稲荷、遙拝所、乙女塚「瀧の池」の跡地。 写真 5-2.大阪市西淀川区東端にある野里住吉神社の社殿、彼岸花 歴史:永徳 2 年(1382 年)-川の合戦の際、戦勝祈願に足利義満が勧請したものと伝え、住吉大神宮と呼称され ていたが、明治以降は住吉神社に改めている。昭和 40 年(1965 年)、社殿改築。その時の出土品から、5~6 世 紀にはすでに神祠があったものと思われる。文化財:野里の一夜官女 大阪府指定民俗文化財(昭和 47 年 3 月 31 日指定)江戸時代・元禄以前。『摂津名所図会』に「この里の民家より十二、三ばかりの女子に女裳を改めて、 神供を備えた。これを野里の一夜官女といふ」とある。風水害と悪疫で「泣き村」と呼ばれた野里は、毎年子女を 1 月 20 日丑三ツ時に唐櫃に入れて人身御供とした。
5-2.大阪市西淀川区神社の経緯度分析
表 5-1.大阪市西淀川区の神社と経度と緯度
町 名 緯 度 経 度 標高(m) 野里住吉神社 34°42′35″N 135°27′46″E 1 田蓑神社 北端神社 34°43′07″N 135°26′54″E 0 姫嶋神社 34°42′16″N 135°27′12″E 0 大和田住吉神社 34°42′32″N 135°26′37″E 0 福住吉神社 南端神社 34°41′49″N 135°26′27″E 0 鼻川神社 34°42′22″N 東端神社 135°27′55″E 3 五社神社 34°42′23″N 西端神社 135°25′57″E 0 大野百島住吉神社 南端神社 34°41′49″N 135°26′21″E 0 写真 5-1.野里住吉神社の本殿、風水害と悪疫で「泣き村」と呼び、境内は傾斜された神木表 5-5 は神社経緯度東西南北端である。区内最東端の町である鼻川神社(135 度 27 分 55 秒 E)である。 区内最西端の町である五社神社(135 度 25 分 57 秒 E)である。区内最南端の町である福住吉神社と大野百島 住吉神社(34 度 41 分 49 秒 N)である。区内最北端の町である田蓑神社(34 度 43 分 07 秒 N)である。
5-2.大阪市西淀川区神社鳥居の解析
大阪市西淀川区の野里住吉神社鳥居の高さとの関係を究明するため考察方法として、2 変数(X と Y:鳥居の高 さ)の2次方程式の回帰分析によって傾向が判明された(図 5-1)。2 次方程式は、X は鳥居名で、Y は鳥居の高さ である。すなわち、鳥居の高=0.254X2+-0.413X+2.32 であり、決定係数は、R2=0.999 である。最大値は、6.59m であり、最小値は 2.17mである。 図 5-1.野里住吉神社鳥居の高さ 図 5-2.田蓑神社鳥居の高さ 大阪市西淀川区の田蓑神社鳥居の高さとの関係を究明するため考察方法として、2 変数(X と Y:鳥居の高さ)の 2次方程式の回帰分析によって傾向が判明された(図 5-2)。2 次方程式は、X は鳥居名で、Y は鳥居の高さである。 すなわち、鳥居の高さ=0.065X2+-0.081X+2.558 であり、決定係数は、R2=0.981 である。 大阪市西淀川区の福住吉神社鳥居の高さとの関係を究明するため考察方法として、2 変数(X と Y:鳥居の高さ) の2次方程式の回帰分析によって傾向が判明された(図 5-3)。2 次方程式は、X は鳥居名で、Y は鳥居の高さで ある。すなわち、鳥居の高=0.062X2+-0.236X+3.096 であり、決定係数は、R2=0.970 である。最大値は、3.88mで あり、最小値は 2.90mである。 図 5-3.福住吉神社鳥居の高さ 図 5-4.五社神社鳥居の高さ 大阪市西淀川区の五社神社鳥居の高さとの関係を究明するため考察方法として、2 変数(X と Y:鳥居の高さ)の2次方程式の回帰分析によって傾向が判明された(図 5-4)。2 次方程式は、X は鳥居名で、Y は鳥居の高さで ある。すなわち、鳥居の高=0.181X2+-0.726X+3.05 であり、決定係数は、R2=0.99 である。最大値は、5.21mであ り、最小値は 2.44mである。 図 5-5.野里住吉神社、田蓑神社、福住吉神社と五社神社の鳥居の高さ 大阪市西淀川区の野里住吉神社、田蓑神社、福住吉神社と五社神社の鳥居の高さとの関係を究明するため考 察方法として、2 変数(X と Y:鳥居の高さ)の2次方程式の回帰分析によって傾向が判明された(図 5-5)。2 次方 程式は、X は鳥居名で、Y は鳥居の高さである。すなわち、鳥居の高=0.001X3-0.026X2+-0.262X+1.90 であり、 決定係数は、R2=0.977 である。最大値は、野里住吉神社 6.59mであり、平均 3.44mおよび最小値は野里住吉神社 2.17mである。
5-3.東淀川区・淀川区・西淀川区の神社の経緯度
表図 3-1.大阪市、淀川北部にある神社(東淀川区・淀川区・西淀川区)の北緯と東経に関連があると思われる 傾向を考察した。淀川北端にある神社の鎮座地と北緯との関係を究明するための考察を行った。表図 5-1.大阪市、淀川北部にある神社の北緯と東経
大宮 福 住 吉 み 須 に よ し 大 宮 大野百島その方法として、次のような 2 変数(X と Y)の回帰方程式と 2 変数(X と Y)の回帰方程式を適用した。ここで、X は神社の東経 135 で、Y は北緯 34 度である。決定係数は R2である。Y(北緯 34 度)= 0.457X+29.1……決定係数 (R2 =0.965)。2変数(X と Y)の 2 次回帰方程式の決定係数は 0.965 で一定の傾向が確認できた。 図 5-6 は大阪市淀川北部、神社の北緯を解析した。すなわち、最南端群は、西淀川区の大野百島 34 度 41 分 48 秒と福住吉 34 度 41 分 49 秒である。最南端群にある西淀川区内の神社は、西淀川区の姫島 34 度 42 分 17 秒、花川 34 度 42 分 23 秒、野里 34 度 42 分.35 秒である。淀川区にある神社は神津 34 度 43 分 15 秒と、東 淀川区の柴島 34 度 43 分 52 秒である。最北端は、東淀川区の菅原 34 度 44 分 17 秒、大宮 34 度 44 分 32 秒、 春日 34 度 44 分 56 秒と大隅 34 度 44 分 59 秒に鎮座している。 淀川北端にある神社の鎮座地と北緯との関係を究明するための考察を行った。その方法として、次のような 2 変数(X と Y)の回帰方程式と 2 変数(X と Y)の回帰方程式を適用した。ここで、X は神社の鎮座地で、Y は北緯 34 度である。決定係数は R2である。Y(北緯 34 度)= 0.327X+41.231……決定係数(R2 =0.966)。2変数(X と Y)の 2 次回帰方程式の決定係数は、0.966 から一定の傾向が確認できた。 図 5-7 は大阪市淀川北部、神社の東経の関係を考察した。すなわち、最西端群は、西淀川区の大野百島 34 度 41 分 48 秒と福住吉 34 度 41 分 49 秒である。さらに、その東側にある神社は、西淀川区の大野百島 135 度 26 分 21 秒と福住吉 135 度 26 分 28 秒である。さらに、その東側にある神社は、西淀川区の姫島 135 度 27 分 11 秒、 野里 135 度 27 分 46 秒と花川 135 度 27 分 56 秒である。中央部の淀川区には、塚本 135 度 28 分 25 秒と神津 135 度 29 分 04 秒である。東部の東淀川区には、柴島 135 度 30 分 51 秒、菅原 135 度 31 分 45 秒と春日 135 度 31 分 55 秒、大宮 135 度 32 分 50 秒と大隅 135 度 33 分 03 秒の順に鎮座している。 淀川北端にある神社の鎮座地と東経との関係を究明するための考察を行った。その方法として、次のような 2 変数(X と Y)の回帰方程式と 2 変数(X と Y)の回帰方程式を適用した。ここで、X は神社の鎮座地で、Y は東経 34 度である。決定係数は R2である。 Y(東経 135 度)= 0.706X+25.288……決定係数(R2 =0.974)。 2変数(X と Y)の 2 次回帰方程式の決定係数は 0.974 で一定の傾向が確認できた。 図 5-6.大阪市淀川北部、神社の北緯
図 5-7.大阪市淀川北部、神社の東経
大宮 大宮6.おわりに
古墳時代の西淀川区には多くの島によって大阪の文化開発の基礎を繰り広げた地である。日本列島形成時の 西淀川区はまだ海の底で、東は生駒山麓と西は六甲山麓に深く入りこんだ海であった(写真 6-1)。これらの地は、古く か ら 都 の 貴 族 や 文人の間によく知 られ、今日残され ている多くの歌碑 ある。水辺に拓か れた地は、多くの 水害に見舞われ た 。 神 社 が 多 い の は 、 海 の 守 護 神 で あ る 住 吉 大 社を勧請して、水災をしのぶのである。現在は浸水対策として、大規模な防潮堤が築造された。この工業地帯は、大気 汚染の発生源となり、深刻な公害問題を生じさせた。西淀川区では、発生源対策を鋭意推進して一定の成果をあげた。 西淀川区では、河川汚濁の多い大野川・中島大水道も市民生活の環境改善を図った。緑あふれる緑陰道路として再 生され、広く区民の憩いの場・健康づくりの場として活用されている。6-1.西淀川区の町名と由来(//www.city.osaka.lg.jp/nishiyodogawa/ )
①歌島(ウタジマ):旧村名による。一説によれば「加島(カシマ)」の古称を転化して「歌島(ウタジマ)」と訓じたと言う。 ②大野(オオノ):播磨樋口村(兵庫県)の樋口伊兵衛が開発した土地で、当時「大いなる野原」であったことに由 来する。 ③大和田(オオワダ):「万葉集」に「浜きよくうら懐かしみ神代より千船のとまる大和田の浦」と当地が詠まれている。 「和田」は海の意で「オオワダツミ」に通じ、広い海に面したことに由来する。 ④柏里(カシワザト):神功皇后(200-270)がこの地を訪れた時、土地の人が餅を柏の葉に載せ,野咲きの花束を 添えて歓迎の意を表したのに対し、この地を「鼻川の里」、渡しを「かしは」と命名したことに由来する。 ⑤竹島(タケシマ):もとの「加島」の字地に「竹町(竹ノ町)」があり、その竹町が中心であった当地を、「竹島」と合 成して呼称された。 ⑥千舟(チブネ):「万葉集」に「浜きよくうら懐かしみ神代より千船のとまる大和田の浦」からとられた地名である。 ⑦佃(ツクダ):難波八十島の一つに「田蓑島」があり、貞観年間(859~876)に佃村と改め、「田蓑庄」とも呼ばれ たことに由来する。また、慶長年間(1596~1614)に佃・大和田の漁民が徳川家康に鮮魚の役を努めることになっ たことから「佃」と称されたともいわれる。また、「佃」の名称は、家康が田蓑で漁業も大事だが人はまず田で働けと いったのに因むとされる。(後段は、大阪春秋第 90 号より) ⑧出来島(デキジマ):元禄元年(1688)、摂津茨木在福井村の倉橋彦坂四郎兵衛が開拓した町人請負新田で、 その完成を記念して「出来島新田」と名づけられた。其能く成功せるに因みで出来島と名く。(後段は西成郡史よ り) ⑨中島(ナカジマ):元禄年間(1688~1703)に京都の丁子屋中島市兵衛が開墾したことにより「中島新田」と呼ば 写真6-1.古代時代のあった難波八十島れたことによる。 ⑩西島(ニシジマ):元禄 11 年(1698)に九条の池山新兵衛信賢が開墾した新田で、佃・大和田の西に位置する 島から「西島新田」と命名された。 ⑪福(フク):正保元年(1644)福新田として開墾された。旧村名であるが、地名の由来は不詳である。 ⑫野里(ノザト):昔、当地が「三野郷(ミノサト)」と称された土地にあたるところから、郷名「野郷(ノザト)」と呼ばれた ことに由来する。 ⑬花川(ハナカワ):当地の村人が神功皇后(200-270)来訪のとき、餅を柏の葉に載せ,野咲きの花束を添えて献 上したのに対し、「鼻川の里」と命名された故事による。「鼻川」は「花川」に書き改められた。 ⑭姫里(ヒメサト):昭和初期まで、姫島・野里の町域で、一部に花川があった。土地区画整理時に町名の一文字 を重ね「姫ノ里」とし、昭和 17 年に姫島三町会と野里五町会が合同して、その町名を継承した。 ⑮姫島(ヒメジマ):古代の文献に地名(媛島・日女島・比売島)の出典を求めて、「ヒエシマ(稗島)」を「姫島」と当地 に比定している。「ヒメヲ・ヒエ」と訛り、遂には稗島と書くに至れりとするもの差し誤りなきに似たり。 ⑯百島(ヒャクシマ):元禄年間に大和田村の次郎右衛門が開拓地で「百島新田」と名づけられた。「百島」のいわ れは不詳である。 ⑰御幣島(ミテジマ):難波八十島の一つ御幣島の旧地に比定された地名。神功皇后(200-270)が朝鮮出兵から 帰った時にこの地に着船し、住吉大神を祀ったことからこの称が起こった。「御幣」は神に奉る物の総称。
6-2.大野川緑陰道路
大野川緑陰道路(おおのがわ-りょくいんどうろ)とは、大阪市西淀川区歌島 2 丁目から同区百島 2 丁目に至る 約 3.9km からなっている歩行者(2レーン)と自転車専用道路(2レーン)で、計4レーンのからなっている。地図等では大 野川遊歩道の通称であるが、大野川自転車歩行者専用道路とも表記している。以前は、神崎川と新淀川を結ぶ 大野川であったため、交差する道路とは立体交差が施された(写真 6-2)。 歴史:大阪市は 1968 年、川を埋め立てた跡地に高速道路の建設を発表した。この地に流れていた大野川は、 地域の舟運や治水などに利用された。西淀川区では当時すでに、公害問題・大気汚染問題が深刻な社会問題 になっていた。工場排水によって河川が汚濁され、環境改善のため、1971 年~1972 年に埋め立てた。しかしその ため「公害がさらに悪化することにつながる」として、高速道路建設計画に反対する住民運動が起こった。運動の 中で住民らは、大野川を埋め立てた跡地を緑地帯にするよう求めていた。 写真 6-2.大阪市西淀川区、大野川歩行者専用道、歩行者と自転車専用道路の緑陰道路写真 6-3.大阪市西淀川区、大野川歩行者専用道のパイプライン、地下専用道路の緑陰道路 住民の声を受けて大阪市は高速道路建設計画を白紙撤回し、大野川緑陰道路が建設されることになった。緑 陰道路は 1979 年に完成した(写真 6-3)。西淀川区内の小中学校教員や西淀川公害訴訟の関係者らは、大野川 緑陰道路の自然を生かした環境教育、大野川に関する地域史や緑陰道路建設経過について、学習教材の作成 を企画した。2008 年、小学生向け副読本「西淀川の自然と歴史にふれあおう 地域の宝大野川陰道路」を発行し た。
6-3.西淀川区民まつり
平成 27 年度の区民まつりはすべて終了しました。区民まつりにたくさんの方々が参加した。区民まつりは、人と 人との「つながり」や「きずな」の大切さを感じ、コミュニティに参加していただくために開催している。みなさまは実 感している。関西大学校友会西淀川では、近年は参加している。その成果は Facebook に掲載している。大阪市 西淀川区は琵琶湖の水、太平洋の海水、生駒山と北摂からの堆積流によって、形成された地域である。 大阪市「西淀川区民まつり」には、 集合日時:2015年9月19 日(土) 午前 11 時から 17 時 活動場所:西淀公園(西淀川区大和田1丁目) 関大出展:西淀川区内にある8神社の「社殿と鳥居の模型」、 西淀川区、「500 年間古地図」、 関西大学校友会西淀川支部の「横断幕とのぼり」、 子供らに「ぶんぶんごま」作り方を紹介と実習とお土産。大阪市役所の全総務局長である村上 栄一さ んが Facebook に新しい写真 3 枚を追加しました。 写真 6-4.大阪市西淀川区民まつり、参加した関西大学 OB、神社と鳥居模型と古地図展示 淀川写真 6-5.大阪市西淀川区民まつりに参加した光景 本部記録によると、西淀川支部は、大正 14(1925)年西淀川クラブ結成。正式には昭和 32(1957)年で大阪市内 新設の 7 番目に設立(支部長は初代吉木由雄氏から渡辺春明・八木万太郎・八木真都男氏に引き継がれた。約 90 年の歴史を有する記念すべき年である。関西大学は間もなく創立 130 周年を迎える。その間、西淀川区に在住 していた関西大学卒の有名人の方は、畑下辰典氏と上原洋允氏とである。まず、畑下 辰典先生の経歴は、公 認会計士、元日本公認会計士協会近畿会会長、関西大学校友会会長、関西大学校大阪倶楽部理事長である。 次に、上原洋允先生の経歴は、大阪弁護士会会長、近畿弁護士会連合会理事長、日本弁護士連合会副会長 等を歴任した上原洋允弁護士は、関西大学校友会会長、関西大学理事長と関西大学大学院 特別顧問教授 である。第4代目八木真都男支部長・沢勲副支部長時代に昭和 55(1980)年総会記念写真があり、昭和 56(1981) 年より停滞。母校 120 周年を前に平成 18 年(2006)年、再建総会を開始して、第 5 代目の沢勲(昭和 42 年院博 工電 1 期生)が選出された。大阪市西淀川区と関西大学校友会西淀川支部は、同時に創立90周年で記念すべ き年である。この記念すべき年に総会を開催した写真(写真 6-6)である。 写真 6-6.創立9周年記念の関西大学校友会西淀川支部の関係者
写真 6-6.大阪市西淀川区の世界でも珍しい人工洞窟。毎年にテレビや新聞に地域貢献を奉仕中
6-3.西淀川区の古地図
河内湖(かわちこ)は、河内国北 部・現在の大阪府東部にあった湖 である。現在は河内平野になって いる。河内湾は紀元前約 6000 年– 前約 5000 年ごろの縄文海進により 海水が河内平野へ進入し、現在の 枚方市付近を北限、東大阪市付 近を東限として、上町台地と生駒 山地の間に河内湾と呼ばれる湾が 形成された。湾の北東岸には淀川 が、南岸には大和川が流入し、三 角州を形成していた。大和川の流 路は現在とは異なり、柏原付近で 北へ転じ、現在の長瀬川を流れて いた。『古事記』によると、神武東征 で神武天皇は「浪速の渡」(ナミハヤノワタリ)を越えて湾に侵入し楯津(古事記編纂時の「日下の蓼津」)に上陸した。 比定される東大阪市日下は生駒山脈の麓であり、当時はほぼ山麓まで海が迫っていたことがうかがえる。 河内湾の変遷は 8 つに区分できる。すなわち、1.河内湾 1 の時代( 縄文前期)、2.河内湾 2 の時代( 縄文中 期)、3.河内潟の時代(縄文後期~弥生前半)、4.河内湖 1 の時代(弥生後期~古墳時代)、5.河内湖 2 の時代 (五世紀頃)、6.大和川付け替え以前、7.大和川付け替え以降である(写真 6-7)。 写真 6-7.弥生時代中期の河内湖と河内湖の時代写真 6-8.西淀川区の古地図から近代に至る地図
謝 辞
論文作成時には、大阪市西淀川区役所の関係各位から助言を頂きました。本論文作成にあたっては、神社の測 量時には、地域住民にお世話なりました。情報処理には、NPO 法人洞窟環境 NET 学会の肥塚義明事務局長に 厚く御礼申し上げます。 (2015 年 12 月 1 日受稿、2016 年 1 月 25 日掲載決定)参考文献
1) 秋里離島:『摂津名所図会』、寛政 8(1796)年。 2)大阪府:『大阪府誌(全五編)』、明治 36(1903)年。 3)西成郡役所:『西成郡史』、大正 4(1915)年。 4)井上正雄:『大阪府会志(全五巻)』、大正 11(1922)年。 5)武岡充忠:『淀川治水誌』、昭和 6(1931)年。 6)大阪市:『大阪市域拡張史』、昭和 10(1935)年。 7)田中卓:『住吉大社神代記の研究』、昭和 26(1951)年。 8)野村豊:『漁村の研究』、昭和 33(1958)年。 9)西淀川防災協会:『西淀川災害誌』、昭和 36(1961)年。 10)大阪府:『大阪百年史』、昭和 43(1968)年。 11)佐原六郎篇:『佃島の今昔』、昭和 47(1972)年。 12)近畿地方建設局:『淀川百年史』、昭和 49(1974)年。 13)大阪都市協会:『近代大阪の 50 年』、昭和 51(1976)年。 14)大阪市・大阪府神社庁:『大阪府神社文化財図録』、昭和 56(1981)年 15)大阪市:『大阪市下水道事業史(第 1 巻)』、昭和 58(1983)年。16)淀川区創設十周年記念専業委員会:『明日をひらくまち淀川区』、昭和 59(1984)年。 17)阪神電気鉄道㈱:『阪神電気鉄道 80 年史』、昭和 60(1985)年。 18)小山仁示:『大阪大空襲』、昭和 60(1985)年。 19)三浦行雄:『大阪と淀川夜話』、昭和 60(1985)年。 21)平凡社:『大阪府の地名』、昭和 61(1986)年。 22)三善貞司:『大阪史蹟辞典』、昭和 61(1986)年。 23)松村博:『大阪の橋』、昭和 62(1987)年。 24)サンケイ新聞社:『写真集おおさか百年』、昭和 62(1987)年。 25)池永悦治:『野里誌』、平成元(1989)年。 26)大阪市:『大阪市正 100 年の歩み』、平成元(1989)年。 27)大阪市:『大阪市の町づくり』、平成 3(1991)年。 28)大阪市:『大阪市統計書』、平成 7(1995)年。 29)西淀川区制70周年記念事業実行委員会:『西淀川区史』、平成 7(1996)年。 30)沢 勲・西山正明・石田信也・八頭司彰久:『大阪市西淀川区、野里住吉神社(1382 年)の由来と社殿測量』、CENS3、2012 年。 31)沢 勲・西山 正明・石田 信也:『大阪市西淀川区、田蓑神社(869 年)の由来と社殿測量』、CENS3、2012 年。 32)沢 勲・六埜博治・長谷部憲司・石田 信也:『大阪市西淀川区、姫嶋神社の由来と社殿測量』、CENS3、2012 年。 33)沢 勲・長谷部憲司・西山正明・石田信也:『大阪市西淀川区、大和田住吉神社(1313 年)の由来と社殿測量』、CENS3、2012 年。 34)沢 勲・西山 正明・乾 貞人・古谷 昭雄:『大阪市西淀川区、福住吉神社(1656 年)の由来と社殿測量』、CENS3、2012 年。 35)沢 勲・六埜 博治・河野 賢治・肥塚 義明:『大阪市西淀川区、鼻川神社の由来と社殿測量』、CENS3、2012 年。 36)沢 勲・西山正明・石田信也・中良紀:『大阪市西淀川区、五社神社(1688 年)の由来と社殿測量』、CENS3、2012 年。 37)沢 勲・西山 正明・石田 信也:『大阪市西淀川区、大野百島住吉神社(1644 年)の由来と社殿測量』、CENS3、2012 年。 //www.city.osaka.lg.jp/nishiyodogawa/ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、 2015 年。