1
雑
感
中 野 正 吉
1.はじめに
おもに文科系の先生方が執筆されるこの論文集に,理科系の他所者が小文を 載せること自体汗顔のいたりである。外交辞令で云っているのではない。文と 理の研究者が書く文章には雲泥の差があることを,時々僕は思い知らされるか らである。 理科系研究者の大半は論理の表現に「数式」を用いる。これは明確で,単純 で(それをエレガントで,と云ってもよいと思う),見通しの良い手段である。こん な手段があるためにそれだけ理科系の人間は文章による論理の表現や展開に不 慣れとなる。文科系諸学の論理の展開が,主として文章によって表わされるも のだとすれば,文と理とでは「文章を書く」という行為に対する緊張度が全く ことなっている。したがってわれわれ理科系の人間は,時に大変杜撰な文章を 書くのである。 さて葉賀教授と初めて知り合ったのは,教授が30代半ば,僕が20代後半の頃 であった。文人肌で,言葉の用い方が巧みで鋭く,面白く,要するにとても知 的でそしてちょっと貧亡臭い人がヒョロリと眼の前に立たれたのを憶えている。 その頃二人で飲んだときに,葉賀先生のことを芥川竜之介と宇野重吉(当時 の/)の両方に似ていると云った女の子がいたが,これは云いえて妙であった と思う。当時僕は生意気盛りで,先生の知性に脅威を感じながらも自分の誇示 に努めていた。今にして思えば年長の兄貴分に対する甘えであったろう。一方 葉賀先生の方は終始やわらかい応待で付き合って下さっていた。これも今にし2 葉賀 明教授退官記念論文集(彦根論叢 第251,252号) て思えば軽く僕をあしらっておられたようである。人生には何回かの大きな出 合いがあり,葉賀先生を知ったのがその一つであったことは間違いがない。以 前から音楽は好きで満遍なく,よく聴く方だったが,文学については本当にせ まい視野しか持っていなかった。文学にバランスある感覚を持たせて下さった のは甲賀先生であった。 近頃僕の身近なところで,時にレッシングの名を口にする若僧がいる。それ は彼の仕事に関係があるからなのだが,要するに彼にとってレッシングは腹立 たしい存在なのである。しかし僕にとっては,何というなつかしい名前だろう か。彼がレッシングの「冷たさ」に悪口を云うのを聞きつつ僕はニコニコ,ニ ヤニヤしている。 葉賀先生にどういう内容の論文をdedicateするべきかいろいろ考えてみた。 一番手取り早いのは最近の僕の研究内容のr6sum6を作ることである。こ の頃は企業からの委託研究に追われているから実際的な仕事が多く,解説をつ ければ専門外の方々にもある程度分かって頂けるかも知れない。しかしそれは どう見ても葉賀先生に献じるべき内容とはならない。コンクリート内部のひび 割れの深さを僕の計算になる回折波の性質を使ってより速く,より高精度に知 る方法なんて,一体このレッシングの研究家が読む気になるだろうか。 と云ってもう一方の僕の仕事,理論作りの仕事をここに載せるのも余り気が 進まない。はっきり云ってそういう本式の論文は専門誌に書かないと損である。 折角の力作(?)をカウントさせない法はない。それでもまだ葉賀先生が目を 通してくれることが確実なら少々意義は残るが,先生が読んでくれない点は先 の場合と全く同じことだろう。 そこで清水の舞台からとび降りる気持になって,日頃考えたいと思いつつま だ結論を出せないでいるある一つの社会問題(!)を取り上げ,厚かましくも エッセイの形で書いて見ようかなと思いたった。理科系から見た日本と欧米と の交流の問題なのであるが,必要は感じつつ真剣に考えたことがないテーマな のである。こうやって文章にする気になれば,僕なりに考えをまとめるだろう
雑 感 3 し,第一起れなら三賀先生も読んでくれるだろう。こわいのは先生はじめ文科 系の先生方が熟読される場合なのだが,どうかganz einfachな理科系の人間 のたわ言として見逃がして頂くよう最初からお願いしておく。 わが父は大正の頃からの対外貿易商で,父母ともに15年余りヨーロッパ,と くにイギリスに住んでいた。結果的にわが叔母はイギリス人である。こうした 環境のため僕は幼い頃から西欧の生活感情をかなり植えつけられたものと思わ れる。理知的でなく感覚的に僕はヨーロッパにならされて育った。 長じて下僕がよく行くのはやはりヨーロッパで,アメリカのことは余り知ら ない。だから以下の文章でも「欧米」とは書かずに「ヨーロッパ」と云ってお くことにする。ほぼ同義語と考えてよいであろうが,ヨーロッパに限定してお く方が良心的だからである。
∬.誤解と無知
まつ云えることは,平均的日本人が持っている現代ヨーロッパについての知 識,その自然や都市の景観,衣食住の実情,大衆芸能,少々の歴史などについ ての知識と,平均的ヨーロッパ人が持っている現代日本についての知識とでは, 質,量ともに比較にならない程の格差があるということである。もちろん日本 人大衆の方が多くのことを正確に知っている。 たんに現代日本を知らないというだけなら病状は軽い。たとえばアフリカの 奥地に住んであまり外へ出ない原住民の人たちの中には,日本自体を知らない 人も存在するであろう。しかしヨーロッパの大衆は全く似ても似つかぬ別物を 作り上げて,それを現代日本と信じていることが多いから重症である。 この誤りがいかにひどいものかの例は枚挙にいとまがないが,ここでは比較 的最近に経験した数学を挙げておくことにしよう。 その一。三月目国際学会があり,家内同伴で半月ばかり久しぶりにヨーロッ パへ行った。亭主どもが学会に出ている間,夫人たちは揃ってピクニックに行 ったりしていたが,家内は英語はそう下手でもないので楽しい毎日だったらし い。ある日スウエタアを着てロビーに行くと,スウェーデン人の若い奥さんが4 葉賀 明教授鷺宮記念論文集(彦根論叢 第251,252号) それはドイツで買ったのかイギリスでかと聞く。もちろん日本で買ったという とまさかという顔つきになる。どうやら彼女はそのスウエタァが代表する高級 で,垢抜けした西欧的衣服が日本で手に入るはつがないと思っているのである。 度々日本へ来るトルコ人の奥さんから「あなたも一度日本へ行ってらっしゃい。 物は豊かだし,食事はおいしいし,あなたの国よりずっと近代的よ」と云われ てこの話は一応ケリがついたそうだ。 その二。所でこのスウェーデンの奥さんの御主人である若いスウェーデン人 も大したものだった。学会の昼食時に僕に話しかけて来て「お国へ帰ったとき とこちらにいるときとではbehaviorが違うから大変だろう」と云う。「N本 人のbehaviorは殆どヨーロッパ人と変らないが」というと,「しかし教授も 国へ帰ったらそんなスーツを着てないだろう。こういう形のキモノを着て大学 に行くんじゃないのか」といってハッキリ知らないんだが等と云いながら彼が 描いたスケッチを見て僕は唖然とした。それはまことに下手に描かれた補であ った。 非常識な質問に驚かされたことは数多くあったが,このスウェーーデンの夫婦 のような大学関係者の中にもそれがいたのは驚きであった。断っておくが,彼 らは決して日本人にイや味も悪意も持っていたわけではない。二日後のディナ ーーpーティーで家内がドレッシィなブラウスを身につけてドイツ人の教授と話 しているのを,二人がポカンとして見ていたのが印象的であった。 その三。数年前審一人でミュンヘンに滞在していた時のある日,フランクフ ルトに向かう汽車の中で僕は新潮文庫を読んでいた。向かいに坐っているオラ ンダ人がたつねて来た。「日本文というのは表現があいまいで,読む人ごとに 別の意味になるというのは本当か?」腹が立ったので少し声を荒らげて「そん な言葉を使っていて日本の電子工学があんなに進むと思うのか?」というと, 「その通りだ。オレも変だと思っていた。しかしオレはある日本の知識人から 聴いたんだ。英語やドイツ語に比べて日本語というのは比較できない程あいま いで非論理的な言葉だとj。 その四。これは先述の僕の身近の若僧,実は息子の体験談である。愚息はそ
雑 感 5 の仕事のことで招かれてスペインに行き,5日程前に帰って来た。マドリード の郊外についた日にレストランへ入ったらマネージャーが出て来て大層親切に ナイフとフォークの使い方を教えてくれた。「日本でもこれを使うんだ」と云 っても中々信用しなかった。 その五。うちの助教授が英国に行ったとき,下宿のかみさんと二人でデパー トに行った。かみさんは木製の古くさいエスカレーターの前で立ち止ってニコ ニコしながら教えてくれた。「これをエスカレーターと云うのよ。立ってるだ けで上の階に上がれるの。イギリスは便利でしょう?」 その六。これは学生からの話。ヨーロッパの学生と交歓する会があって彼の 地へ行った。行くなり向こうの学生が3人,両手を合わせて顔の高さに掲げつ つ,ちょうど拝むような姿勢で深々と45。のお辞儀をして来た。びっくりして いると,「僕たちは日本式の挨拶を知っているんだ」と得意顔だったらしい。 また彼らは次のようなことも「知っていた」。日本人の労働者は下半身はショ ートパンツ,上半身には短いキモノを着ている。そういう服装で日本のドラム をたたく集団が先年ヨー一 Uッパに来ていたと。 一つ一つの誤解や無知は小さくてもその積分値は大きい。こうやって現実と は全く別の,彼ら好みの日本が彼らの心の中に作られる。本当の現代日本は日 本に来て,少くとも一ケ月以上滞在したヨーロッパ人には分かっているが,そ れは圧倒的少数派である。理科系研究者にはこの少数派に属する人が多いのだ が,それでも先のカップルのような例も存在する。 皿. 誤解の原因(1)(ヨーロッパ側) 何故本当の日本をヨーロッパ人がこんなにまでも知らないのか。その原因は ヨー・一 mッパの側に内在するものと日本側に責任があるものとに大別できるであ ろう。まつ前者の方から考えてみたい。 第一に,本来ヨーロッパ人は自分たち以外の人間が作っている社会にあんま り関心がないのである。これは「非ヨーロッパの社会などどうせ大したことは あるまい」という,前世紀までに作り上げられた彼らの優越感に起因していよ
6 葉賀 明教授退官記念論文集(彦根論叢 第251,252号) う。この点日本の大衆がヨーロッパに示す強烈な関心とは対照的である。 第二に強いて日本について考えねばならぬ立場におかれると,日本の社会が どんなにヨーロッパの社会と違った「異常さ」を持っているかということを 「期待」する。できるならヨーロッパを合理主義とキリスト教で作られた社会, 日本を神秘主義と仏教で作られた社会という風に対峙して捉えたがる。平均し て日本人は印欧語の会話が下手だから,ちょっとした言いまわしの拙さからこ の「期待」が増幅されることもよく起りうるであろう。 近年ヨーロッパを圧倒している日本のハイテクノロジー。この現実をヨーロ ッパの大衆が理解するのはそれ故至難の技である。ひと昔前まではよく「日本 人はモノマネがうまい」ということが云われた。しかしモノマネをする方がは るかに先を進んでいるのでは「モノマネ」と云う言葉自体が無意味になってし まう。ある真面目なドイツ人の企業マンで,日本のハイテク発達の原因を「す べての」日本人が教養に持つ「禅の哲学」から説明しようと試みている人がい た。僕を含め「ほとんどの」日本人は禅なんて全く知らないのだと忠告してお いた。 理科系の人間としての僕の考えは簡単である。ある時点で一それは幕末か 明治初期か知らないが,わが国は学問,芸術から生活感情に到るまで至極あっ さりとヨーロッパそのものを受け入れた。以後地理的に離れ,容姿は違っても わが国は純粋にヨーロッパ文化圏に属している。これ程あっさりとそれまで関 係のなかった外国の文化を吸収したという事を日本の欠点だと考える人もある と思う。そうかも知れない。しかしあるいはヨーロッパの合理主義を抵抗なく, 性が合うものとして大衆が取り込んだのは,そのような素地を江戸ないしそれ 以前の日本の文化が孕んでいたのかも知れない。いつれにしてもわれわれにと って明治以前のわが国はむしろ異国である。禅や鴨長明よりも共産主義やベー トーヴェンの方が身近な存在であろう。 ヨーロッパの大衆に現代日本を分からせるにはまつこの事実を理解させねば なるまい。それが何よりの急務である。むつかしいことは抜きにして,同じよ うな職業,同じような喜怒哀楽,同じような社会機構,同じような生活がある
雑 感 7 ことを理解させねばなるまい。ちがう点といえば,日本人の大半は実質的には もはや信仰を持たないが,ヨーロッパ人は一最近減少しつつあるようだが, 今なおかなり熱心なキリスト教信者であることぐらいだろう。 長い歴史をふまえて近代合理主義を築き上げて来たヨーロッパ人たちに,一 夜づけでそれをわがものとした日本のあり方など分かるはつがないと云う人が あるかも知れない。しかし果してそうだろうか? 自分たちより進んだ文化,自分たちに都合が良く,性が合いそうな外国の文 化を比較的柔軟に取り込むところはヨーロッパ人は日本人と似ている。古くは フランク人がローマ帝国の文化を取り入れたときがそうだった。もう少し新し い例ならルネッサンス期のアラブの文化を,ビザンッを通して,あるいは直接 に取り入れたのもそうだった。外国文化の決定的大量取り込みを,日本は近代 になって行った点だけが違うのではなかろうか? この節の最後に,もう一つのヨーロッパ人の誤解を指摘しておこう。もっと もこれはむしろ善意の誤解で現実もそうでありたく思う。彼らは小さい土地に フランスだのベルギーだのと色んな国を作り,しかも少しずつ違う言葉を使っ ている。そして互にすごく愛国的で,他国の悪口ばかりを云っている。その一 方でEuropaerとしての連帯感も強く,前世紀までは恐らく彼らが「国際的」 と云うときそれはヨーUッパと北米ぐらいだけを意味するものであったろう。 これと同じようにアジアの諸国間の関係も互にもっと近いのだろうと彼らは 類推する。ドイツ人とイギリス人が悪口を云いつつ全く共通した基本的感覚の 下で何の異和感も持たずに付き合えるように,日本人と中国入も付き合ってい るのだと考えている。「そうじやない。いいか,日本人の大多数は英語が分か る。聞いたり喋べるのはかえって下手だが,書いてある英語なら大抵分かる。 次に恐らく日本人がよく知っている外国語はドイツ語だ。そしてその次がフラ ンス語だ。スペイン語,ロシア語などがそれに続くだろう。しかし中国語が分 かる日本人はまだまだほんの少しだし,他のアジアの言葉はほとんど知らない と云ってよい。そうだ,日本はアジアで孤立している。むしろお前たちの,こ のヨーロッパに近い国なんだ。」ザルッブルグからの汽車で出会ったドイツ人
8 葉賀 明教授退官記念論文集(彦根論叢 ee 251, 252号) の中年の商人にこう話したとき,彼は青い眼に友情をこめて僕に云った。「や っぱりヤーパンはそうだったか。オレには分かっていたんだ。オレたちはもっ とヤーパンと一緒にやって行く方がよいんだ。」良し悪しは別として現実のア ジアにおける日本の姿はそのまま伝えた方がよいと思う。 W.誤解の原因(2)(日本側) まつ第2節に掲げた日本に対する誤解,無知の例の「その三」をもう一度見 て頂きたい。誰か日本のインテレクトゥエレが,この何も知らないオランダの サラリーマンに,恐らくは下手な英語で,流れもイントネイションも何もない 英語で,必死に日本語の劣等ぶりを説明したものと思われる。それはその日本 人にとっては嘘をついたわけでもないし,ヨーロッパ人におもねってお世辞を した(この面は少しはあるかも知れない)わけでもないだろう。彼は信じているこ とを「誠実に」吐露したに過ぎぬ。問題は相手がどう受け取るかを考えてほし いということだ。第3節でのべたように少数派をのぞくヨーロッパの大衆は日 本文化の「異常さ」の証しを「期待」する志向を持っている。「異常さ」はヨ ーロッパ文化に対する異常さであり,その意味では「劣等さ」と云いかえても よい。さなきだにそんな志向のある人に,しかもそれ自体バカにされるような か 下手くそな彼の国の言葉で日本語がいかに劣っているかを縷々説明すれば,相 手は日本人が伝えんとする程度をはるかに越えて,途方もない結論にまで行き ついてしまう。日本語は西欧的意味での「言葉」にすら値しない滅茶苦茶なも のだとまで取るのである。それでも日本人同志で意志が通じ合うのは「東洋の 神秘」だということになる。冷静で客観的な相手と喋っている’のではなく,む しろかなり主観の強い人と喋っているのだということを配慮してほしい。 あるいはまたこういう場合もある。リヴァプールであるイギリス人の教授と 話していたときに,日本企業の成長が話題になった。彼はしきりと成長の原因 について考えを教えてくれという。そこで欧米に比べて日本の企業内での身分 意識や,サラリーの格差の少いこと,下役のアィデァなどが採用されやすいシ ステムになっていること,従って企業への愛情が生まれることなど私見をのべ
雑 感 9 ておいた。彼は意見を感謝して聴いていたが,お前のように卒直に考えを云わ ない,実に失礼な日本人がいると云う。彼はさる日本のジャーナリストに僕に 対するのと同じ質問をしたらしい。つまり彼としては何故そんなに日本人は立 派なのか教えてくれというニュアンスでたつねたのである。所がそのジャーナ リストは「申し訳ありません」を連発する。最後には「日本人は馬鹿でレジャ ーの使い方を知らないので働きすぎます。済みません」という。恐らくイギリ ス人としてははぐらかされたような,馬鹿にされたような気分になったのであ ろう。これなどはヨーロッパ人の方が知識人の場合なので,先述の偏見などは まつ関係がない。たんに日本人ジャーナリストが彼の云いたい日本の欠点を伝 えそこなったに過ぎない。ただ長らくヨーロッパに滞在してヨーロッパの大衆 と生活を共にしつつ仕事をしている若い日本人などのことを思うと,余り云わ ずもがなのことは云ってほしくないように僕は思う。 さて話をもとへもどそう。今度は第2節の例の「その六」を今一度見て頂き はつびたい。ヨーロッパの学生たちは恐らく法被姿にねじり鉢巻きのいでたちで太鼓 をたたく民俗芸能の人たちを見て,現代日本の労働者集団だと思ったのであろ う。この種の誤解をわりあい日本人は等閑に付す所があるので,少しくわしく 説明しておきたい。 たとえばヨーロッパ人の集団が,ルネッサンス時代の装束をつけて日本の街 をねり歩いたとしよう。それを見た日本の大衆はそれが決して現代ヨーロッパ の服装でなく往昔の彼らの衣裳であることを直ちに理解する。何百年昔のもの かは分からぬとしても昔のものであることは分かる。しかしその逆をやった場 合には,ヨーロッパの大衆は必ずしも昔の衣裳と思ってくれないのである。 日本人側としてはあくまでも歴史的な郷土芸能を,民俗芸能を被面する目的 で出かけても,向こうではそれが現代日本の生活の一こまであり現代日本の労 働者,サラリーマンの生活の実態であると解する可能性が十分にある。つまり それ位彼我の現代生活には違いがあるのだと思っているのである。 現代のわが国の確たる実像が結ばれぬ前に,この種の催しを彼の地でやるこ とにそれ故僕は反対である。それは時には誤解を増幅するだけかも知れない。
10 二三 明教授二宮記念論文集(彦根論叢 ee 251, 252号) ヨーロッパと日本ではこの種の行事だけは平等な結果を生まないと云えそうで ある。 象徴的なことが先日テレビを見たときに偶然放映されていた。パフォーマン スをやる日本の若者たちが渡欧し,ロンドンの街頭でそれをやった。かなりの 見物客だったからショウは成功であったと思う。お客にアナウンサーが感想を たつねる。「これこそ東洋の神秘よ」「そうね」。こういうやり取りが中年のオ バさんたちの会話である。もちろんパフォーマンスをやる煮たちは法被など着 ていない。現代の最先端のコスチュームである。それでもなお彼らの中では, 日本人力化しでも異和感のあることをやると見れば,「東洋の神秘」が出てく るのである。 上と同じ理由で,日本文化の紹介と称して浮世絵や水墨画の扇面を並べるこ とに僕は反対である。たしかにそういったものは彼らがもっともよろこぶ品々 なのだが,よろこぶのはエキゾティックで,自分たちと「違う」証しをそこに 見るからである。しかも時間的にその「違い」は現代の「違い」ないし現代ま で続いている「違い」と見てしまう。 浮世絵や水墨画はすでにわれわれにもエキゾティックだと僕は感じる。少く ともそれに近い所で生活しているとヨーロッパ人から思われるのは大変迷惑で ある。それよりも現代の日本の姿を紹介する方が日本文化の理解に役立っこと は当り前ではないのか。 このようなことを云った時に,文科系のある研究者の方から叱られたことが あった。その人は「現代のB本文化なんて他人に見せる程のものがあるのか。 近代国家的になって一世紀しかたたぬのに,ヨーロッパ人に見せる程の近代文 化を日本が生んでいると云えようか。浮世絵などを見せるのは,それしかない からなのだ」という風に云ってられたと記憶する。 こういう態度一本人に云わせれば,真面目で「良心的」な態度一二のよ うに単純な人間に云わせれば一人よがりで偏狭な態度を捨てない限り,人間が 他の集団の人間を知ることはむつかしくなるばかりと考える。 この人,われわれ理科系が生み出すものは文化に入れてないのがシャクであ
雑 感 11 る。そればかりではない。たとえば最近の日本の若いクラシック音楽の演奏家 たちがヨーロッパで花のように咲き,彼らから愛でられているのも文化に入れ てないのが偏狭である。 現代日本の姿の紹介一理科系の僕はこれもやはり簡単に考えている。ビデ オが良いと思うが,なければ写真でもよいだろう。まつ超大都会,東京や大阪 の景観,とりわけ林立する高層ビル,その中を縫って走るモノレール,ニュー トラム,あるいはオフィス街で働くサラリーマンのたたずまい,Europaerと 比べて今やもうそんなに悪くない容姿をしている一般市民,制服をきっちり着 こなしているお巡りさん,あるいは人間が殆どいない,ロボットだけで自動車 を組み立てている大工場,あるいはまた平均的サラリーマンの住宅,そこで食 事をしている家族などなど,30分位このような現代日本の映像を放映すれば, 大抵のヨーロッパ人に見当がついてくるであろう。たしかにそれは浮世絵とは 別の国なのだと。
V.雑
感 周知のように学会とは自分の研究成果を発表し,質問を受け,それに答えて 各自の研究を理解し合う集会である。さらに大抵日頃は疎遠な人同志が集まる のだから,共に晩餐をとり,遠足に出かける社交の場の役目も持っている。学 会についてのこの定義の仕方に,まつ異存はあるまい。もちろん国際学会も例 外ではない。 英語で研究「発表」のことをpresentationという。この言葉に,「体裁」と か「押し出し」といった意味があるのは大変象徴的である。たしかにヨーロッ パ人はpresentationのやり方自体を重視し評価する。自分が云いたいことを いかに聴衆に納得させ,それに賛同させ,感嘆させるかの技法。彼らは学生時 代からかなり練習をつまされるのであろう。事実大抵のヨーロッパ人は「発 表」が中々上手である。 よくヨーロッパの人たちは自分の思っていることを卒直に云うが,日本人は はっきりと云わない,そこで誤解が起るなどという人がある。僕はそうは思わ12 三賀 明教授退官記念論文集(彦根論叢 第251,252号) ない。彼らの外交辞令やお世辞の巧さはまことに見事である。たんに卒直なの ではなく,むしろ卒直に見せるだけの鮮やかな表現力を身につけていると考え た方がよいのではないか。 国際学会で御経験の方も多いと思うがもう一つの彼らの公開の場での特徴は, 絶対に云い負かされぬようにねばる執念の強さである。引き下がらない。明ら かに勝敗は決まったという段階でもまだ引き下がらない。そんなに興奮しない でやり合う場合が多いから,ディスカッションは延々と続く。実質的価値は もうないと云えるやり合いになっても,まだやり合っている。本当に自己の Presentationの技量に対する自負の強さには恐れ入る次第である。 日本人研究者はこの面でどうであろうか。非常に特徴的なことはわれわれ日 本人の心の中に一つの「純粋主義」があることだ。「研究内容の良さこそ唯一 の価値基準で,それの表現方法などは評価の対象とすべきではない。逆に大し た研究でもないものを口上手に云い表わすなどは学究の風上にもおけない」。 国内の学会でこの立場から発表,講演をやっても,使う言葉が母国語だからそ うも聞きぐるしくならずに済む。しかし国際学会では様子が変る。もともと英 語なりフランス語が下手な上に,「発表の仕方はどうでもよい」という気持が 根にあると,聞くにたえぬ発表が始まる。 くわえて相手はpresentationを大 事にする連中である。大抵の日本人研究者は学会では認められず,論文になっ てはじめて「こんな良い仕事だったのか」と評価される。しかし学会での体た らくで早合点されることも十分ありうるだろう。たしかに損をしていることは 確実だ。 僕だってえらそうに云えたものではないが,ただスピーチに一種の「流れ」 をつけることだけは下手ながら配慮している。落ちつくとジェスチュアも不自 然でなくなる。驚くばかりの良い研究成果を発表するに当って,タイプに打っ た原稿紙をふるえる手で持ちながら,抑揚少い早口の,小声の英語らしきもの を読み上げる日本人。これは余りにもったいないことである。英会話を習い, ヒアリングも僕などよりずっと達者でありながら,どうしてあんなに一本調子 になる人が多いのか。どこに力点があるのかを,何故強調しないのか。
雑 感 13 もちろんドイツ語,フランス語を用いてのpresentationにも上達したい。 しかしさし当っての僕の目標は,来年の国際学会ではドイツ人並みの英語の presentationを軽くやってやろうということである。もう心に決めている。 家内同伴で行った国際学会でのディナーパーティは本当に楽しい。キャッキ ャッ云いながら飯を食うことがこんなに楽しいとは,ヨーロッパ人とディナー を取るまでは知らなかった。話の内容は取るに足らないが,お互を笑わせるよ ように話を持って行く。僕も人を笑わせる才はなくもないんで(/),大いに ワイワイやる。ふと思い出してわが祖国の硬究者の方を見やると,彼らは一か たまりで黙々と食事中。となりのヨーロッパ人に話しかけたと思うとそのヨー ロッパ人も急にマジメな顔になる。どうやら学問の話をやりはじめたらしい。 僕はヨーロッパで,美味と思った食事の経験は余りない。ならばせめて楽しい 食事にしたい。その意味でも日本の研究者の方に,もっと御夫人同伴で行かれ ることをおすすめしたい。 本当に日本人はマジメ人間が多いと思う。軽い冗談を思いつくのが下手なの だろうか。いや思いついてもそれを英訳するのが大変だという人がいるが,経 験すればそれは簡単であることがすぐ分かる。やっぱり冗談を思いつかない方 に問題がありそうだ。 この「雑感」の最後に,大変イやな話を持ち出してそれでしめくくるのは申 訳ないことである。しかしこの話は上述の内容と関係が深い上に,何かの機会 に披露して諸賢の御意見を聞きたいと日頃から考えていた事実でもある。 あえて書かせて頂く。 日本の宴会ではよく話が「落ちる」。酔が回って緊張がほどけると,ほどけ た証拠の様に必ず誰かが女性,女体の話をする。「お前はウイーンへよく行く そうだが,どの程度のサービスをしてくれる女の子がいるんだ,穴場を教えて くれ」とたつねて来る。うっかり「いやオレがウィーンを好きなのは毎晩ちが うオペレッタを観に行けるからだ」などと答えようものなら,あいつは子供の ようなアホウか,飲んでも気取るエーカッコシイか,遊びを知らぬ石部金吉だ
14 葉賀 明教授退官記念論文集(彦根論叢 第251,252号) と格づけされる。(こんな手合に遊びを知らぬ,堅いと云われるのはバカらしいヨ!) 大学教授の集まりでも,大きい企業の幹部たち,お医者さんたちでも宴会は大 同小異であろう。 ヨーロッパの男たちが,男だけで飲んだときはどうなるか。種類によっては 日本式に「落ちる」宴会をやる集団もあるだろう。しかしそれはよっぽど無粋 な田舎者の集団に限られる。大抵はもう少し軽い所で,しかも腹の底から笑い, 楽しめるムードを作ることを心得ている。要するに遊ぶのが巧いのである。 カンちがいをしてもらっては困る。日本人より外人の方がずっと助平だから そんなはつはないとフンガイした人がいた。それは別の話である。また日本人 は「腹を割って」すっぱだかになってつき合っているのだ,外人は最後までエ ーカッコをするのだという人がいた。酒を飲んで楽しむのに,どうして毎回腹 を割る必要があるのだろう。 そうではない。日本人は不真面目になることが下手であり,不真面目の価値 を知らない。したがって軽く遊べない。そういう人たちが遊んでいるぞと実感 するためには,「落ちる」のが唯一の方法であろう。マジメ人間たちの宴なれ ばこそ,「落ちる」宴にならざるをえないのだと僕は思っている。序でながら, 満員電車の中でのイタズラ犯人も,つかまえて見ればマジメー徹の中年サラリ ーマンが多い。そして悪名高い,あのパリのメトロでさえ,この犯罪は殆どな いこともっけ加えておきたい事実である。 大変下らないことを書いてしまった気持だけが残っている。葉賀先生には申 し訳ないけれど,理科系の人間である僕は今までこんなに多量の日本文を書い たことがない。もう限度です。では先生,今後ともお付き合い,どうかよろし く。