75
弁証法的論理の重層性について
一3・B・イリエンコフの視座を中心として
中 太 1 問題提起 現在の世界史的状況のいわば質的変化に伴ってマルクス主義の原理としての 唯物弁証法の論理が問い直されている。唯物論の審級が問題になるというより, むしろ論理実証主義的経験論に対置される広義の弁証法的・三三的論理構成の 社会経済的存在理由が問われているとも言えよう。この意味では,弁証法は矛 盾を媒介にした変化・発展・移行の内的必然性の論理であるが,現実の世界史 的状況の変化をどのように説明できるのであろうか。少くとも形式論理学のよ うに論理が対象と分離していないとされる限り,弁証法的な社会発展の論理的 必然性は,旧来資本主義の審級においても社会主義の審級においても明確に把 握可能とされていたのである。しかし,今日的段階においてはこのような視座 を,具体的な個別的平門の種差性に籍凹してそのま々維持することは到底でき ない。換言すれば,具体的審級における個別の,或は構造的種差性が否定的・ 反省的に再把握されなければならないことは不可欠であるにせよ,その根底に ある弁証法的規定性の論理が再構成されなければならないのである。 このような理論的課題はマルクス主義の側から内在的に接近しなければなら ないという視点から,小諭の方法としてソビエトの批判的マルクス主義の最も 1) 鋭い理論的代表者である哲学者3・B・イリエンコフの理論的構制を紹介・検討 1)主要文献として DBa”bn BacHmMeBHg PI”beHKoB,皿MaハeKTHKa a6cTPaKTHoro H KoHKPeTHoro B 〈KanHTame>MapKca, PI3naTenbcTBo AKaneMHH HayK CCCP,1960.邦訳花崎皐平『資本論の弁証 法』1972年。八Ha調eKTHqecK朋norMKa 1974, MocKBa. rIpo6』eMa HneambHoro, Bo叩ocblΦH』ocothMH 6−7,1979があげられ.る。詳細な文献リストはDavid Bakhurst, Consciousness and Revolution in Soviet Philosophy−From the Bolsheviks to Evald llyenkov. 1991, Cambridge University Pressを参照。76 彦根論叢第283・284号 しながら,我々の弁証法的論理の基本的枠組を明らかにしたい。彼は1924年に 生まれ79年に死去したが,50年代後半から70年代前半にかけてスターリン後の ソビエト哲学界に新しい生命をふきこんだ巨大な先駆者であった。その学問的 オ ソドクシイ 意義については,硬直したマルクス主義哲学の正統に対して,マルクス的論理 の再把握を通じてマルクス主義哲学の根本的な再構成を試みた研究体系として, ソビエト及び西欧での研究・評価が高まっている。以下では最:近出された体系 2) 的なバクハーストの研究に従って,イリエンコフの弁証法的論理の特徴,観念 (幽ea涯bHoe MJIH L・IAe」TbHocTb)の新しい把握及び社会的に形成され,た個人という 順序で考察し,最後に彼の主要な論点を,現在の主要な視点と比較しつつ積極 的に総括し,社会科学方法論の認識論的・論理的基礎となる弁証法の重層的性 格の抽出に結びつけたいと考える。 2 イリエンコフの弁証法的論理の特徴 彼はレーニンが資本論の論理学と呼んだ資本論の弁証法的論理構造を,世界 の理論的認識の為の唯一の正しい可能な一般的方法と規定し,何故これが可能 となるのかということを,抽象的なものから具体的なものへの上向という命題 を媒介にして体系的に分析している。 3) イリエンコフによれば,具体的なものとは何より〈多様なものの統一〉であ り,ここでの統一とは形式論理的な諸現象の抽象的類似・並列としてではなく 「いくつかの系(システム),総体をなす多様な現象の連関として,相互連関お 4) よび相互作用として」弁証法的にしか把握されえない。このような〈有機的体 制〉としての具体的なものはくそれ自身において〉具体的なものであって,反 2)D.Bakhurst, Consciousness and Revolution in Soviet Philosophy 1991の1. Intro・ duction, 5. llyenkov and dialectical method 6. The problem of the ideal 7. The socially constituted individual:Rethinking thoughtを参照。本書はソビエト哲学の理論的分析 をイリエンコフの思想を中心に西欧リベラルの思想的立場からその歴史的・学問的意義を 客観的に展開した極めて説得的な理論的成果の一つと言える。 3) M”betiKoB.D.B., ,IILHa」eKTMKa a6cTpaKTHoFo M KoHKpeTHopo B〈Kan”Tane> MapKca, 1960, cTp.5, 邦訳9頁。 4)TaM}Ke, cTp.6 邦訳10頁。
弁証法的論理の重層性について 77 映過程の感性的段階においても理性的段階においても主観的につくりだされる 5) ものではなく,対象的で客観的なカテゴリーである。抽象的なものにも同じこ とが言えるのであって両者は弁証法においては相互規定的に把えられる。思考 における具体的なものは,諸規定の論理性に連関づけられた体系という形式を とるが,諸規定の夫々は具体的現実性の部分・断片・契機・側面を反映するに 6) すぎないから,それ自体は抽象的である。「思考における具体的なものは,抽象 的なものによって,自己の対立物によって現実化されるのであり,それなしに 7) は不可能なのである。」ここで直感と表象とを概念へ加工する過程における抽象 的なものの具体的なものへの弁証法一具体的な科学の概念体系の構成要素をな す諸規定は,その体系のなかでみずからの抽象性を相互に捕足することによっ て克服する一が分析の中心となる。イリエンコフの考え方の特質はカント的な プロセス 認識構制の特徴である認識主体の個別的抽象性,従ってこの個人の没社会的連 関の概念定立の抽象性と全く対照的に概念自体の形成構成の具体性にこそある。 “社会的”個人は既に当初から〈精神的環境〉という客観的・具体的なものに システム 媒介され,その個的概念を獲得する。即ち「社会的意識諸形態の体系(…社会 の政治的諸形態,法,道徳,日常的習慣,等々の諸形態,ならびに思考の分野 での活動諸形態と諸規範,表象の言語表現の文法的一構文論的規制…)は,そ の当初から,個人のすでに発展した意識と意志を組織しており(社会的意識の 8) 諸形態)個人をその体系の姿と型にあわせてかたちづくる。」周知のように弁証 法においては,感覚と直観に働きかける悟性による抽象的・一般的表象が語の 中に定着される理性的認識としての概念は,真の弁証法的概念の前提にすぎな い。ヘーゲルによれば,概念は抽象的統一ではなく,概念であることによって すでに種々のことなった規定の統一であり,したがって具体的総体性である。 イリエンコフは悟性的抽象を決して否定しないが,それだけでは真の認識に到 5)TaM lke, cTp.7 邦訳11−12頁。 6)TaM)Ke, CTP.12邦訳18頁。 7)TaM氷e, cTp.12邦訳18頁。 8)TaM me, cTp.15・16 邦訳22−23頁。
78 彦根論叢 第283・284号 達できないのであり,換言すれば一般的・抽象的なものは,多くの個々の事物 の類似としてだけ,具体的な個々の事物の諸側面のうちのひとつとしてだけ存 在しておワ,術語の意味と意義としてだけ実現されるにすぎない。しかし,概 念はたんに術語に表現された共通な表象ではなく,つねに抽象的=一般的なも のではなく具体的=一般的なものを表現する。「すなわち,それがたとえまった く特殊な現象であっても,同時に真に普遍的なもの,具体的一普遍的成分,他 9) の特殊な諸現象の〈細胞〉でもあるような実在性を表現している。」もちろん具 体的一普遍的概念は,個別的なものの普遍的なものへの上昇の諸産物(個別の ある共通な性質)を表現している点では悟性的抽象物と類似し,科学的概念中 につねに現存することは承認されるが,重要なのは,この契機(側面)が決し て科学的概念を特徴づけるものではなく,弁証法的論理学は個別的なものの普 10) 遍的なものへの転化,普遍的なものの個別的なものへの転化を前提している。 イリエンコフの弁証法的方法の特徴とは,このような具体性を中核に設定し, その上で概念形成上の,それに反映される対象的実在性を彼なりに広く,明確 な総体性において再把握する視座にある。つまり,「ヘーゲルにおいては,対象 的実在は,それが思考の,精神の,発展の外的形態となるかぎりにおいてだけ, また精神が実在に浸透し,それを内部から活性化し,運動させ,さらになお発 展させさえするかぎりにおいてだけ,発展するのである。だから,対象的,感 覚的実在は,自己自身の,内在的な自己運動をもたないのである。そこで,そ うした実在は,かれの眼には,真に具体的とはならないことになる。なぜなら, それのさまざまな側面の生きた弁証法的相互連関,相互制約は…それに浸透し ている精神にぞくしているのであって,実在それ自体にはぞくさないのである 11) から。」イリエンコフはこの場合,通常のように客観的観念論批判を超えて,ヘ ーゲル弁証法の極めて中核的命題を評価する。つまり,以上のヘーゲル的認識 の中で「認識にたいする,また感覚的所与の思考過程にたいする,弁証法的な 9)TaM>Ke, cTp.48 邦訳63頁。 10)TaM>}{e, cTp.56 邦訳73−74頁。 11)TaM>Ke, cTp.57 邦訳75頁。
弁証法的論理の重層性について 79 見解もふくまれている。もしヘーゲルが,個々の事物,現象,事実を抽象的と よぶとすれば,その用語法のもつわけは重大である。(To B gToM c」oBoyHoTpe− 6諏eH囮HMeeTcfi cepbe3Hbtl pe30H)すなわち,もし意識が,個々の事物それ自体を 知覚するさいに,それがじっさいにそのなかにある具体的な相互連関の全体を 把握しなかったとしたら,そのばあい,意識は,それがいかに事物を感覚的一 明証的に,感覚的一具体的に,それが感覚的にふれうる外観においては完全に 知覚していたとしても,きわめて抽象的にしか知覚しなかったことになるのだ から。そこで逆に,もしも意識が,事物を,他のおなじような個々の事物,事 実,現象の全体とそれとの相互連関において知覚したとすれば,もしも意識が, 個別的なものを,それの普遍的相互連関をつうじて知覚したとすれば,意識は そのときはじめて,それを具体的に知覚したことになるであろう。たとえそれ が,直接的な眼や手や鼻の感覚によってではなく,他の個人の話によって,し たがって直接的に感覚的な外見ぬきで知覚されたばあいであっても。いいかえ れば,抽象性と具体性とは,すでにヘーゲルのところで,事物に関する知識の, 個々人の頭のなかにおける形態に特徴的な,直接的に心理的な諸特徴という意 12> 義をうしなって…知識の,意識内容の,論理的一匹容三一諸特徴となって」い る。従って「もしも個々の事物(現象,事実,対象,出来事)が,総体として の相互連関の系をなす,他の諸事物とそれとの客観的連関のうちでとらえられ む む れば,そのとき,その事物は,その言葉のもっとも厳密な,完全な意味で具体 。 13) 的に,把握され,意識され,認識され,意味づけられたことになる。」イリエン コフによれば,このような相互作用の具体的連関は,対立的な両契機をふくみ それにもとづいて内的変化をよびおこすような〈具体的統一〉である。「相互作 用とは,ある対象が自分の,あたえられた,特殊な性質を実現するのは,それ と他のものとの相互関係をとおしてのみであり,この間係の外部では,その対 象が,まさにそのようなものとしては,〈この〉ものとしては,特殊に規定され 14) たその対象としては,存在しえない,ということ」である。 12)TaM>Ke, cTp,57・58 邦訳75−76頁。 13)TaM>Ke, cTp.58 邦訳76頁。 14)TaM lke, cTp.61邦訳80頁。
80 彦根論叢第283・284号 以上のイリエンコフのヘーゲルを積極的に前提とした展開命題は,ヘーゲル ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ の弁証法的論理を承認する限り,精神を含めた(傍点一筆者)全体的連関が即 ち具体的なものの概念であり,従ってイリエンコフの中核的な理論的視座の特 徴は,この総体的関係性の概念の中に,自然,社会を含めた意識・思考の実在 的相互作用を広く重層的にみとめた点にこそある。つまり,彼の論理は,旧来 の主体(意識)一客体(自然)の自存的な二元論的二分法(広松的にいえば“も 15) の” ノ基く実体主義的唯物論)の理論的視座を越えた,正に弁証法的上向の論 理の基底に正しく,函数的関係性(実体概念に代る)を,その使用語彙の伝統 的表現をしばらく措くとしても,実質的に定置したのだといえるのではなかろ うか。 イリエンコフの論理のこの特徴は,故に経験論者(従ってマルクス主義的 メカニスト 16) 機械論者の視座)の客観的実体論の基礎にある,すべての関係性とは外的な関 係でしかなく,人間の思想・経験と独立している自存的範疇とする視点を全く くつがえしたものである。イリエンコフは逆に,意識的能因がなくては,非物 質的・観念的属性は現成しないものであり,従ってこの属性は人間から独立し たものでなく,意識と活動を媒介しなくては特徴づけられないと主張する。換 言すれば,人間の物的・精神的文化を複雑に歴史的に形成する,つまり社会的 意識を形成するものこそ客観的観念なのであるとする。つまり,一般的に言え ば,イリエンコフの弁証法は,ヘーゲル的な精神のみの矛盾的運動に限定する 接近でなく,正統的な所謂自然弁証法論者でもない。バクハーストによれば, 17) イリエンコフの独自の方法は,具体的普遍の決定プロセスにある。具体的普遍 とは,具体的総体であるあらゆる対象にとり,他のすべての成分の位置を決定 するような特殊な成分Cである。つまり,Cとは具体的総体と同じく,内部的 に矛盾した構成であり,これらの矛盾を通じて発展し,Cは具体的総体を引き おこし,それに発展するものであるから,Cの発展を跡づけることが,即ちC 15)廣松渉「事的世界観への前哨」1977第一部参照。 ユ6)D.Bakhurst, Consciousness and Revolut三〇n.,第2章を参照。 17) D. Bakhurst, Consciousness and Revolution., pp. 157−158.
弁証法的論理の重層性について 81 の内部にある矛盾の重層の必然的結果としてのその展開を示すような方法で具 体的総体を再構成することである。従ってCとは「他の特殊なもの(他のカテ ゴリーとなる)の存在の同時的な一つの一般的條件であるような種類の特殊な 18) ものである。」従って抽象的なものから具体的なものへという認識は,バクハー ストに従えば,①部分的抽象局面,②全体から分離している抽象局面,③全体 から相対的自律性として存在する実質的抽象局面の漸次移行の過程として画か れる。即ち,具体的なものへの上向は,1から3(C)の分離,すなわち2の過 程を通じて具体的総体への再生というプロセスである。イリエンコフは,この 3,つまりCを具体的普遍と呼び,発生論的・歴史的な範疇として把握される。 パロスペクティブ このような具体的普遍は,対象に焦点をあてる一つの特別な展望図を構成す 20) る。即ち,その抽象的思考は全体としての対象の具体的思考と直接に一致する とされる。イリエンコフは例えば,マルクスによる価値形態の発展分析は正に 資本主義の具体的普遍の展開を追跡する試みであると言う。故に分析の決定的 な一歩は,対象の具体的普遍を発見することであり,具体的方法は,その対象 21) の歴史を考慮すべきである。即ち思考の弁証法とは断片的理解から統合された 思考への運動に止どまるものではなく,脱環節的部分の単純な塊から一つの統 合された全体へと対象自体が発展するような類推的移行を反映すると考えられ ている。この進化は歴史的事象であるから,具体的普遍の決定的な力は対象の 歴史的考察から認識されるべきと考えられよう。しかし,イリエンコフによれ ば,それは逆である。対象の歴史を語る際に,対象の起源と発展の亭号である 筈だと我々が考える要因を歴史的データより抽出するのが通常だが,この抽象 は,具体的普遍がそれを可能とさせる,その当のものにすぎない。換言すれば, 対象の発展の歴史的条件の知識は,その具体的普遍を発見する為の前提ではな く,その結果なのである。結局,彼の方法は歴史的把握と論理的把握の結合に 18) lbid., pp.140−142. 19) lbid., pp.14−142. 20) lbid., p. 158. 21)flHaπeKTHKa., cTp.195 邦訳257頁。「歴史的過程自身が…発展の具体的一普遍的契機のみ が維持されるような抽象をうみだ」す。D, Bakhurst., p.158.
82 彦根論叢 第283・284号 帰するのであって,正しい歴史的思考は一定の環境の下での必然的なものとし 22) ての対象の発展を代表するという意味で,両者は一致する。論理的なものは, 歴史的に正しく理解されたものにほかならない。バクハーストの批判のように イリエンコフの初期の説明一対象の普遍的な発生的基礎を発見すること一は同 23) 義反復にすぎない。バクハーストの解釈は,哲学ができることは特殊な対象の 注意深い分析に基いて理論家に選択をさせるよう命じることである。イリエン コフによれば,理論家は,事実の複雑で意味のある分析に基いて具体的普遍を 樹立しなければならないのであるから,上の解釈は最:も妥当な読み方だとされ る。そして最:も重要な点は,このような命法は,あらゆる一般的な手続が可能 であることの否定として考えられていることである。即ち,イリエンコフは理 ル ル論家に対し,論理学,弁証法から引出された何らかの規則或は法則に訴えるこ とによって,或は科学の歴史からの抽象的一般化によって具体的普遍を打ち立 24) てようとしてはならないと警告している。むしろ,研究対象の組織の原理は, 特殊な対象自体の詳細な分析によってのみ明らかにされる。この方法は所謂歴 史主義ではない。つまり事実に接近することは,我々の理論的諸概念からはな れて対象に接近することではなく,反対に,具体的普遍の判断は,その対象に ついての我々の存在する概念の内部で設定されなければならないのであり,事 実の厳密な分析とは,我々の既存の概念を批判的評価に従わせることなのであ 25) る。事物の新しい論理的理解は,思考の以前の発展の結果の批判的吸収を通じ てのみ形成されうる。思考の出発点は,生の未加工の感覚所与による把握では なく,理論家が働いている伝統から受けつがれた対象の歴史的に形成された概 念である。勿論,受けつがれた概念から単純に具体的普遍がよみとれる保証は ない。逆に対象は問題提起的なものとして提示されよう。理論家にとってある 実在が総体の組織の原理として最善のものと決定できるのは,我々の現在の概 22) D. Bakhurst., pp. 159−160. 23) lbid., pp. 160−161. 24) lbid. p. 161, 25) lbid, p. 161,
弁証法的論理の重層性について 83 念に内在する矛盾を説明することによるのであり,ある意味では具体的普遍の 選択は直観なのである。それは,必づしも成功を保証しない意味で,その判断 は直観的であ署.以前の理論の批判は,対象の真体的普遍として多様な説得白勺 代替物(候補)を生み出すわけだから,窮極の具体的普遍は,その主体に一層 27) 理解を与えるような理論を生み出す段階で立証される。このような考え方は, ユニツト ヴィゴツキーの意識の単位分析の視座と共通する。ヴィゴツキーは意識を具体 的総体=相互決定の内部的・機能間の関係を占める諸部分より構成される全体 ミヒニング =として規定したが,分析単位とみなされる意味は,そこからより高い精神的 ルート 28) 諸機能が発展していく意識の発生的源泉であり具体的普遍の役割を果している 謂である。 パティキュラリスト 結局,以上のようなイリエンコフの弁証法の方法は(1>特殊主義的であり②は 29) 30) 歴史主義的であるとされる。バクハーストによれば,彼の弁証法的方法は,主 題の特殊な性質に照してその結果の説得性によってのみ維持され,次に我々の 現在の概念,以前の理論の歴史,更にその結果を我々の実践にとり入れられる か否かの程度によって接近できるのである。このように彼の方法の根本的特質 は,具体的総体の発生的根源である具体的普遍にあるといえるが,この概念は マルクス主義と経験主義とを問わず自存的な実体概念と全く対庶的な関係性の 31) ものであり,いわば広松渉のいう〈原始函数〉=上向の出発点と類似するもの であるといえよう。 3 観念性の問題 観念性(取ea誕bHoro)の問題についてのイリエンコフの視座は,彼の哲学体系 の中で最も根本的な構成部分であり,最も印象的な貢献と考えられるものであ 26) lbid., p.162. 27) lbid., p. 162. 28) lbid. pp.162−163. 29) lbid., p.163. 3e) lbid., p.165. 31)廣松渉『弁証法の論理一弁証法における体系構成法一』1980第六信参照。
84 彦根論叢第283・284号 メ ン タ ル る。弁証法的唯物論における非物質的な範疇分析を,彼は精神的なものでも物 32) 質的なものでもない価値,意味などのような現象の分析から出発する。例えば, 旧来の道徳理論は,客観的な道徳的価値の外在的存在を承認する客観主義と, 価値は外在的世界の部分ではなく,それに対応する我々の側の態度一人間的性 質に内在するもの一に根ざすものであるという主観主義に二分されるが,周知 のように客観主義にとり道徳的価値は物理的一元論的に説明不十分だし,主観 主義にとっても客観的世界を前提とする二元論では,道徳的価値を保証する精 神的対応は説明不可能であるから,ひとつのヂレンマが形成される。イリエン 33) コフは,このヂレンマを矛盾と呼び,その源泉を別毒する。それは彼によれば 客観性の特殊な標準であり,それが属性に客観的であると規定する。しかし, 人間中心主義への攻撃を離れることにより,我々によって(because of us)価 値は実在になり,従って価値は純粋な客観1生の世界に地位を獲得するといえる のである。価値は現実的であり,更にその上,我々は価値の実在に包みこまれ 34) るのだ。この視角からすれば,あるものは客観的(実在の純粋な特徴)であり, 同時に主観的(主観に関する事実への本質的な関係なくしては特徴づけられな い)でもありうる。イリエンコフは,ここで観念性の問題に世界的な答を提出 する。即ち人間中心主義に対する攻撃を放棄し,それらの発生的起源は我々に 負っているけれども,人間的個人と独立している存在となるような客観的実在 の永続的現成を獲得する新しい属性(性質)の新しい審級を物質世界に附与す る力を人間に帰せしめる視座である。彼は,労働によって自身の存在条件を再 生産する創造者として,行動する存在として我々の地位の中にこの力を位置づ 35) ける。換言すれば,自然を観念化するのは人間的実践なのである。ここで彼が 意味するのは個人的精神の投入活動ではなく,現実の,感覚的,社会的な目的 32) D. Bakhurst., Consciousness and Revolution., p. 176. 33) lbid. pp. 177−179. 34) lbid., p. 179. 35)臨beHKoB.∂.B.「【po6meMa HneambHoro, BoHpocbl蜘ocoφ朋1979.7cTp.157.観念形態は社会 的な人間労働にによって創られた物の形態である。観念性は物の特徴づけであるがその明 確さは自然的なものではなく労働によるものである。
弁証法的論理の重層性について 85 志向性の実践である。「観念性は,社会的な人間の生活活動によって自然の実質 に刻印された特殊な押型のようなものである。それは社会的な人間の生活活動 36) の過程における物理的事象の機能形態である。」ここから二種の主張が提示され る。(1)観念的現象は客観的存在をもちうる (2)それは人間的実践にその存在を 負っている。明らかに第2命題が彼の全システムの中心であるから,更に分析 37) を必要とする。 バクハーストに従って,イリエンコフの人為的な製造物(有用物)について 38) アーティファクト の論点をフォローしよう。有用物は人間中心主義への攻撃に対する力強い挑 戦であり,例えばテーブルは客観的実在であるが,その純粋な自然科学的把握 は,何かを抜けおとすことになる。それは木の塊りであるが,テーブルでもあ りその差異は一義的に表現できない。彼によればこの差異は人間活動に訴える ことによってのみ把握できる。彼はこの活動に対象化ofipenMeuMBaHMe, oBemecT− B”eHHe或は馴化OTqy>KneHHeを通じて内容を与える。有用物が一つくられる時, 人間活動は自然的対象に具体化され,逆に外化は形式或は形状という概念で説 明される。即ち人間活動は対象に新しい形を与えるのである。重要な点は,そ の対象が新しい物理的形式を得たということを超えて,その対象が目標の現実 化と人間的生活への何らかの意味で導入結合されたものとして,一定の理由と 有用性のためにつくられたものとして把握されるのである。ここで自然的対象 が意味を獲得するのであり,対象の有形の物理的実体の一つの原子を含まない 形式が,即ち観念的形式(対象の意味)が成立する。従って観念性は全く静態 的属性には還元できないものであり,行動する主体と環=境の間の不断の交渉の 契機として存在する。「観念的形式は事物の形式であり,この外側ではそのダイ ナミックな生活活動の形式として,目的,欲望として人間の形式である。或は 逆にいえば,それは人間存在のダイナミックな生活活動の形式であり,その外 側では創造されたものの形である。観念性自体は,この外的な具体物の二つの 36) レhbeMKoB,∂.B. Hpo6」leMa., Bo叩ocblΦMAocothMM 1979.7cTp.148. 37) D. Bakhurst., Consciousness and Revolution., p. 181. 38) lbid., pp. 182−184.
86 彦根論叢 第283・284号 形式の不断の継続と交替としてのみ存在する。…それは活動の形式から事物の 39) 形式への,更にその逆の不断の転化を通じてのみ存在する。」彼の最も重要な弁 証法の核心は,分断された自存的実体の主体への観念的反映という旧来の視座 から実質上はなれ,函数的な関係性が,全くの観念=感覚的なものとしてでは なく,客観的対象性として存在するような視座へ移行したことであろう。イリ 40) エンコフによって挙げられた典型的な有用物は,言語である。彼の場合,普通 の言語理解とは逆に,それは観念化された自然的対象の亜種であり,その意味 は人間活動におけるその役割によって構成される。 彼の視座の焦点は,人間による積極的な自然の転化である。この視点はヘー 41> ゲル的である。人間は世界をその必要に適応せしめるように変えるが,その目 的と力は自然的対象に具体化されるとする人間による自然の対象化の理論であ る。この対象化は自己意識の形態の基礎として解釈されるし,更に世界の人間 化は自然を異なった環境に転化することになる。彼によれば人間化は観念化で ある。客観化の後の自然世界は,観念的属性,価値と意味が附与されるから異 った種の場であるし,純粋な物理的環境としてではなく,意味をもつ環境とし て人間的行為(動因)と向き合うことになる。 42) 即ち,イリエンコフの視座は四命題に小倉される。(1)観念は客観的に存在す る(2)その存在は人間活動に負う(3)観念的属性と関係は我々の精神文化を構成す る(4にの文化の発生は全体としての自然の観念化を示す。対象化された精神的 文化としての観念性という視座は,ヘーゲルの外化=精神が対象化されること によってそれ自身を外化するという視座にもとつく。マルクスの疎外概念はヘ ーゲル的磁化を資本主義生産関係に適用したものであるが,ヘーゲルの外翼概 メタファヒ 念はメタファーであるとすれば,マルクスの観念性の対象化の議論も隠喩にす 43) ぎないと批判があるにせよ,イリエンコフの対象化の積極的規定の特徴は,へ 39) M”beMKoB. 9.B. npo6”eMa., Bonpocbi ¢HAocoabMM 1979. 7 cTp. 158. 40) D. Bakhurst., Consciousness and Revolution., p. 185. 41) lxlAbeMKoB. 3.B. npo6」eMa. Bonpocbi tpMnocoabMH 1979. 7, cTp. 145−148. D. Bakhurst, Con− sciousness and Revolution., p. 186−188. 42) D, Bakhurst, Consciousness and Revolution., p. 189. 43) lbid., pp. 191−194.
弁証法的論理の重層性について 87 一ゲルが区別しなかった,活動が外的形式に具体化される普遍的な過程=対象 化と一定の條件下でのみ獲得される関係=疎外を明確に区別する点である。彼 の立場は,対象化の理論は,精神的文化の構造が個人を支持している関係であ り,この構造は一個の対象としてその個人メンバーと向き合っており実在の観 念的形式としての活動は個人の行動に対する客観的要求を実現するものである。 この観念性はしかし創造力としてではなく物神としてしか現成しないから,彼 フェティシズム によれば,我々の精神文化の面は物神性の可能な対象にほかならない。つまり 彼の視座は,簡単にいえば疎外は廃絶されるが,対象化は共産主義においても 決して否認できない範疇であり,正しく唯物論的思考の理論の出発点である点 である。即ち,各個人が向き合う対象化された観念の領域は我々の話し方と推 理の方法を含むという時,それは,社会の実践によって三つくられるという意 味ではなく,思考と言語の可能性自体が対象化自体から引出されることを意味 する。従って活動の対象化とは,世界が思考の可能な対象となるような過程で あり自然の対象を思考の対象に転化する生産である。 ここで問題は,思考と存在の関係として経験論とカント批判を通じ展開され 44) る。周知のように経験論は個人主体が前概念的な感覚特殊なものとして全ての 概念を獲得すると考えるが,感覚的多様性をうけとめる概念が不可欠である。 カント的視点によれば,経験が可能になる為には,知性が感覚の非理性的産 出を構造に強いることが必要であり,理解は判断の基礎形式を指令する思考の 先験的形式の図式として,概念の必要な種目即ち範疇を含むから,認識は純粋 な非構造的な感覚性と思考の先験的形式の統一として把握される。認識は独立 した存在する実体の解放と個人的精神の間の反応として把握され,しかも経験 は先行する概念を前提とするから,結局経験とは個別精神を越えた主体と実体 の間の統合の場となり,“物自体”不可知を前提してのみ把握される。イリエン コフにとっては,思考するものたることは観念化された環境に住むための能力 を持つことであり,物理的なものでなく意味,価値,事由を含む環境に自らを 指向することができることである。この能力をもつことは逆に観念性を世界に 44) lbid., pp. 195−200.
88 彦根論叢 第283・284号 附与する活動形式を再生産できることである。換言すれば,人間的実践による 自然の観念化は自然世界を思考の対象に転化するが,この実践に参加すること によって個人は思考の対象としての実在に接触することになる。各個人は彼を とりまいている環境に具体化された思考から構成されている運動形式によって 世界に入る。故に観念化された環境に住む能力は,人間的個人が生来所有して いるものではなく,個人(子供)は社会の成人によって社会化されるに従って この能力を獲得する。この視座はヴィゴツキーの個人の社会的発生の理論に一 致するとされる。 総じてこの視座一文化の形成は全体としての自然の観念化(対象化)による という命題一は彼の中核思想であるが,更に強く解釈すれば,対象が我々の実 践に統合された場合,それは変化し,この変化の状況の中で対象は精神との関 アポリア 係に入ることになる。この場合バクハーストのいうように一つの難問が提出さ 45) れる。即ち,対象がこのように変化する限りで対象が認識されるとすれば,対 象にそれ自体として接近するとはいえない。イリエンコフによれば,哲学の主 要な困難は,個人意識にあるものを,その外にあるものと区別することではな く,集団的に認識された概念の世界=文化の全体的・社会的に組織された世界 を,外側に経験(精神の客観的形式)の形式における表現と独立に存在する実 際の物質的世界から種別化することにある。イリエンコフの解決の鍵は実践に 46) あると言えるが,バクハーストの指摘するようにこの答は明確ではない。バク ハーストによれば,イリエンコフの困難は,実体は没理性的物理性のままでは 思考の可能な対象ではないという視座,つまりカント的視点に由来する。実在 はもしそれが心に消化されなければならないとすれば,なんらかのやり方で変 化し或は観念化されなければならない。カント的二元論の失敗は自己に関する 特殊な図式一即ち思考する精神は特別な非物質的存在,その内的な論理法則に 従って形成された自存のものとして,最初から感覚的・肉体的物質的なものと 絶対的な対立として認識され設定されている点にあるとされる。この視座は総 45)Ibid., pp.201−202,レI」lbeMKoB.∂.B. npo6∬eMa., Bo叩ocbIΦ瑚ocoφHH 1979.7, cTp.146, 46) D. Bakhurst, Consciousness and Revolution., pp. 202−208.
弁証法的論理の重層性について 89 じて哲学的伝統となっており,その源泉はデカルトにある。この自己概念は古 典的経験論の基礎となっている。デカルト的自己は直接,自分の精神内容を知 りうるという意味で意識の主体である。逆に外界との接触は間接的である。即 ち,自分の経験と思考を直接に知ることによってのみ客観的対象を知ることが できる。デカルト的自己は故に自己限定的であり,自分の内的精神的世界の唯 一の住民なのである。しかもこの自己は自己充足的でもある。重要な点は,こ の自己は最初から自分の中に思考能力を持つものであり,何か他のものとの関 レディ一夕イド 係から出るものではないという意味で既成の装置である。精神は物理的世界 と直接的に接触できないのであり,その特質は内容或は意味をもち,内容が自 然の表象であること,この内容を媒介して実体に直接の関係をもつことである。 メンタリゼロション イリエンコフによれば,観念化は世界の精神化として解釈されるとすれば, 懐疑論に陥る。しかし,より強い批判的論点として,経験論へのカント的反応 は,表象的内容をもった対象が単純に精神に与えられるというより,知性の綜 合された力が表象的実体として認識の対象を構成し或は創造する点が指摘され る。しかし,我々がこれを認めるならば,精神自体が寄与する特徴を対象の表 象から解くことによって対象をそれ自体として主体が把握するという議論はも はやできなくなる。何故なら我々が精神の寄与を表象に移してしまえば,我々 の世界の絵図から概念的図式の影響を控除すれば,我々にとって世界として(絵 図として)認識しう、る何物も残らなくなってしまうからである。 従ってイリエンコフとカント学派の観念化の概念は異る。勿論この差異は, 何かが思考の対象となる場合,それは表象的内容を持たねばならないし,逆に 物理的対象はそれ自体はこのような内容をもたないという共通の理解に基くも のであるが,対象がそれを思考の対象に転化する表象的内容をどのように獲得 するかという点で明白となる。即ち彼にとっては,表象的内容は精神が世界に 寄与する何物かではなく,換言すれば,観念化とは精神化,つまり精神活動に よる本質的な表象的精神的対象を創出することではない。彼は表象的内容を, 対象が人間実践に統合されることによって獲得される意義の種概念とする。即 ち,彼の主張は二つの点で決定的にカント的な視点とわかれる。(1)表象的内容
90 彦根論叢 第283・284号 を精神的活動ではなく対象志向的活動に根源をもつ属性として規定する(2)表象 的内容は,仲介的な精神的対象の性質としてより物質的対象自体の属性として 存在すること。それはあたかも自然世界の対象が人問実践に統合されることは, 対象が一定の種類の対象として主体にそれ自身を提示することによって対象に 意義を与えるようなものである。簡単にいえば,精神から独立している物質的 対象は直接に精神に提示されうると彼はいう。つまり考える主体は外的世界に 直接に接触することが実在の観念化であり,観念的属性は対象の純粋な,客観 的に存在している属性であるとされる。そして個別的主体は観念化された環境 に只関係できるのみである一方で環境は精神より独立している。換言すれば環 境の物質的属1生はそれ自体で精神より独立しており,他方その観念的属性は個 47) 別的精神より独立して存在しているものとされる。バクハーストによれば,彼 ラディカル のこの立場は急進的リアリズムとして総括される。それは結局,主体一客体関 係を二元論ではなく,一元論的世界で把握するものと言えよう。 48) 更に観念化の以前に世界はどのようなものとして把えられるかという問題は, 彼によれば,我々の活動が実在に対してもつ差異の問題であって超越論的な問 題ではない。観念化以前の世界の知識について我々は想像と理論創造によって 到達するし,この知識に達する為に同時に自己意識に到達することである。即 ち観念化以前の世界についての知識を獲得することは,現実に対する我々の実 践の影響の程度を学習することであり,つまり我々自身と自然における我々の 位置についてより理解することである。旧来の唯物論の欠点は人間の感覚的実 践に関する積極的な側面を観念論にゆだねてしまったことであるが,イリエン ラディカル コフの急進的リアリズムは,前述のようなデカルト的精神化の基底としての自 己の概念の批判に基いて(自己限定的,既製の内的主体としてではなく)正に 社会的に形成された主体としての個人という新しい理念を発展させたのである。 47) lbid., p.208. 48) lbid., p.210.
弁証法的論理の重層性について 91 4 社会的に構成された個人 前述したようにイリエンコフの客観化された世界は,観念化・対象化を通じ て人間がその実践によって創り出したものである。人間は観念的属性,価値と 意味によって豊饒にされた世界を育て上げる。換言すれば,観念化された世界 はそれを思考と経験において再生産できる主体によって補なわれる。ここで主 体と客体は絶対的に相互に排除される範疇ではなく,絶えず両者を交流させる 実践という共通の源泉によって統合されるのである。彼の視座が旧来の反映論 的二元論と全く異る点の一つが,この個人の概念にある。思考の主体は社会関 係の結合の中で社会的に定義された個人になるし,夫々の個人の生活活動の形 式は自然によって与えられるものではなく人間文化によって与えられる。彼の 49) 精神発展論の枠組はヴィゴツキーの視角と一致する。意識は物質的成長に類推 される過程のように自然に,自発的に進化するものではなく,獲得されるもの である。つまり子供の精神は社会の機能を通じて創られるのであり,彼らは生 活活動を所有し内面化するのに応じて精神が生れる。ここから2つの強い系論 50) が提示される。(1)全ての人間の精神的機能は例外なくその発生と本質において 人間の社会的存在としての外的一感覚的,目的思考的一活動の内面化された方 式と形態である。(2)高い精神的機能は更に不断に社会によって媒介される。即 ちある意味では,我々の心理学的能力の働きから出る精神状態は公的空間で構 成される。従って唯々論(個人の脳分析は精神分析とする)は否定される。前 者は反生得主義,後者は反還元主義といえる。 彼は,この個人発展に関する証明を,有名なソ連心理学者の成果に求めるが, 5正) これはバクハーストの指摘する如く証明にはならない。むしろソ連の生物学者 マリノフスキーの批判するようにイリエンコフが子供の精神が環境と関係なく 脳の有機的成熟によってのみ発展するかのように前提することは極論にすぎな 49) lbid., pp.218. 50) lbid., pp.219−220. 51) lbid., pp.223−226.
92 彦根論叢第283・284乞 いのであり,従って子供の高度な精神的機能は脳の生来の能力であることを認 め,且つ子供が適切なやり方で環境と相互作用をもつ場合にのみこれらの能力 は実現され,発展するという視点が代置される。 52) しかし,彼を厳密に読めば,彼が自然法則的な生物的成長を否定していない ことがわかる。生れた動物は外界に出会うが,生活活動の形式はその肉体の形 態に従って彼等に生得的なものであり,特殊な活動を要求されないし,自然法 則化された生活形式の運動のみが要求される。その発展は本能的発展であり, 環境はこの発展を修正(KoppeKTHpoBaTb)するだけである。人間は全く異なる。 生れた子供は外界だけでなく,その肉体において発生論的・形態学的に総じて コード化されない〈生活様式〉を要求する複雑な文化システムをもつことにな る。ここで生活の出来あがっている図式の修正ではなく,有機体の事物・状況 への生物学的必然的反応とは総:じて関係はないような生活様式の取得こそ問題 なのである。イリエンコフの主張の実質的な意味は,有機体におけるコード化 された肇国(例えば遺伝子とかDNA)を否定するのではなく,人間の意識形成 プロセスでは,それはむしろその種差を説明できないとする立場である。この 立場は,意識或は遺伝子を問わず,反弁証法的な形而上学的二元論,即ち,第 一原理が認識可能であれ不可能であれ,自在的なものであること否定する点に こそその哲学的,方法的意i義をもちうる。従って,意識はあくまで原因ではな く,結果であるという確認の地平で,コード化されている生物学的即吟はあく まで哲学的社会認識の自明の前提にすぎないといえる。何故ならば彼の基本的 立場は,外界(自然)を客観的実在として把握し,それを対象化・観念化する 過程を通じて具体的全体として認識することだから,自然=外界をあく迄前提 としているからである。 更にもう一種の彼の主張の積極性は,バクハーストも言及しているように, 共産主義的人間を志向する人間的発展の全面開花の哲学的基礎ともなっている 53) 点である。しかし,ここでは政治的体制或は生産様式に拘わりなく,入間存在 52) PlmbeMKoB. D.B. Hpo6dieMa., Bonpocbi OMmocode”M 1979. 7, cTp. 154. 53) D. Bakhurst., Consciousness and Revolution., p. 221.
弁証法的論理の重層性について 93 を主として社会的人間(生物学的人間ではなく)とし弁証法的に把握すること によって,人間自体の全般的発展の原理的可能性を明確化した点にこそ彼の視 座の特異性があるのではなかろうか。 この視点はドゥブロフスキーとの論争でも明らかにされる。ドゥブロフスキ 54) 一の視点は3点に要約されよう。(1)認識論。主観的実在は客観的実在の反映で ある。(2)本体論。主観的実在の観念的状態は物質的な基本をもつ。その基本は 脳であり精神状態の情報的内容が主体に提示されることは,この状態の内容が 同時に脳の構造に記号化されることである。(3)情報論。主観的実在の状態は情 報的にはそれがコード化されている脳の状態と同型である。要するにバクハー ストによれば彼の立場は新メカニストである。 55) イリエンコフが反論したドゥブロフスキーの基本的論点は,第1に我々の心 理的特質は脳の神経的組織に何らかの形で全く固定されている限り科学は結局, 個人の脳分析によって精神と性格を説明し予言できるとする視座であり,第2 は我々の知的能力の発展は脳の内的性質によって影響をうけることから,科学 ホロスコウプ は結局,遺伝的星図を生みだすことができる,という主張である。もし心理学 的特徴が脳に記号化され,部分的には遺伝子によって決定されるとしても(1×2) の命題は誤りであると彼は言う。というのは,正確な神経系統と精神現象の相 関関係は経験的手段によって樹立することはできないからであり,その理由は, 第1に相互関係の決定には極めて複雑な因果関係系の知識を必要とするが,そ れはさしあたり不可能である。第2に遺伝子的星図を創り出す研究は主体を殺 し脳を切りきざむことになるし,仮にこれらが証明されたとしても,子供の脳 のミクロ構造の完全な認識はその能力と人格の発展を呈示しないのである。一 方,彼は心理的現象=個人(傍点一中蔦)の心理学的特徴は遺伝的に説明でき る故に遺伝学と神経医学は本質的な役割を果すとする。 更に積極的にはイリエンコフの立場からは,ドゥブロフスキーの新しいメカ ニスト的視座は主観一客観のデカルト的二元論の枠と一致し且つ2種の異った 54) lbid., p.228. 55) lbid., P. 231−232, p. 240.
94 彦根論叢第283・284号 世界をつなぐ「精神化」の媒体としての主観的実在=自存的自己の概念と実質 上符号する。即ち,自己の概念を脳に投入する,マルクス主義的経験論の変種 であると位置づけられよう。 これに対してイリエンコフの視座は,活動による実在の観念化を中心にすえ る独特の弁証法である。この理論と社会的に構成された個人(主体=主観)は どのように連節するのか。バクハーストの説明に従ってその理論的枠組をみよ 56) う。前述のように彼の観念化一対象化の理論によれば,人間的行為者は活動を 通じてその物理的環;境に観念的属性と関係の複雑な王国を附与する。この王国 (精神文化)が論理,言語,道徳の要求を含む各個人の行動に対する規範的要 求の全体を具体化するものである。即ち,精神文化の対象化が自然を質的に異 った環境に転化したことを示す。客観的実在は精神のプリズムを通して反映さ れる人間性に出合う。こうして我々は意味をもつあるもの(ある種の対象)と して対象に関係する。故に観念化がおこなわれると,もはや外界は主体に対し て純粋な物理的影響を及ぼさない。対象化は人間的行動者とその環境の間に新 しい相互作用の様式を可能とする。即ち,意味,価値,推理によって媒介され た規範に支配された相互作用が成立する。彼の視座の決定的特徴はこの点にあ ると指摘される。思考する存在の決定的特徴は,その運動が環境の物理的影響 によって指令されるのではなく,それが自身を見出す状況の観念形態或は論理 に従って樹立されることである。かくしてイリエンコフにとって思考するもの とは,観念化された環境の中で或はそれに応じてそれ自身を方向づける能力を もつものであり,思考する能力とは観念化された環境に住む能力にほかならな い。環境と相互作用する特殊な様式に入る能力を思考のより高い精神的機能と 一致させることにより,彼はこの機能の実現を構成する活動は個人的な内的 レルム 領域での事態の連続としてではなく,人間の肉体的身体の空間的に表現された 活動として主として理解されるべきだと主張する。我々はここで当然メルロ・ 57) ポンティのcorpsという主体概念を想起し,イリエンコフの思考・認識の主体 56) Ibid., pp.244−245. 57)廣松渉・港道隆『メルm=ポンティ』1983190−196頁参照。
弁証法的論理の重層性について 95 性の具体的全体性を認めざるをえない。この思想の反還元主義は既に明白であ 58) り,例えば彼の支持者であるミハイロフと共に言えば,脳の状態は精神状態の 内容を固定しないし,主体の思考の内容は脳の変化と関係なく変化しうるので ある。精神の状況はその内容(観念的属性)を,その物質的基体を社会の実践 に統合することからのみ引き出せる。 ここから必然的に2つの考え方が小子される。第1に精神の基体は人間であ り,従って精神活動を構成するのは,社会の活動へ統合できる対象である人間 であること,第2に個人の精神状態の内容は個人の脳の物理的条件ではなく, 社会の生活活動に個人が参加する様式によって固定されること。その意味は, 精神は語義的には社会環境におけるその状体の主体の位置によって構成される 59) こと。バクハーストによれば,ソ連の哲学者ヴォmシーロフが同様な考え方を 戦前に展開している。イリエンコフのいう社会環境とは,個人を生活活動に統 合することによって個人の行為を社会的に表示させる観念的属性を,個人行為 に授与する思考する主体(主観)の共同所有(社会)によって構成されている 概念である。この視座からは個人の思考は,最も広い意味でのその行動が意味 をもつ主体として個人を取扱う活動の全範囲を,実践が含むような,社会(共 同)の解釈された実践の機能として現成する。総じてここでも彼の考え方 社 会との連節においてのみ人間の思考・精神を橋干する一は反還元主義と反内生 60) 主義を代表するといえよう。 更に観念化された押入の「間主観」的関係はどのように考えられるか。思考 する当事者の行動様式と他人の運動様式の間の核心的区別は,自らの運動(活 動)形式を,もう一人の他の固体の形式と積極的に空間的に一致させ,更に他 のすべての個体の形式と一致させることによって樹立される。従って一人の思 考する個体(身体)の行動の純粋な特殊な形式がそのままその普遍性(全体) なのである。換言すれば,思考する身体が他の個体の形式に対応して自らの行 58) D. Bakhurst., Consciousness and Revolution., pp. 246−248 59) lbid., p.248, 60) lbid., pp.219−220,
96 彦根論叢第283・284号 動を設立する能力は正しく思考する身体の特質なのである。勿論,彼は思考能 り む む 力を特殊な機能を担う能力に帰するのではなく,思考対象の論理によってあら む む ゆる運動を担う能力として把握する。それはあらゆる状況の指令に対応できる 能力であり,従って思考する身体は,所与の時に他の身体(人間)の形式と素 質によって指令されるあらゆる活動パターンと一致して行動できるのである。 又,観念性が活動に与える指令は不断に発展するから,主体の身体或は脳の物 理的構造が社会化以前に特別な社会的環境に遺伝学的に適応することはありえ ない。故に心理学的能力の継承の様式は社会歴史的であって生物学的なもので はない。生物学的継続は未分化の可能性でありそのある部分が具体的形式で実 61) 現される過程を通じ分化によって人間は形成されるのである。 5 社会科学におけるイリエンコフ哲学の意義 我々の勲章の問題関心はイリエンコフの視座の純粋な哲学的位置づけという より,あくまで変化しつつある現代世界の認識方法としての秤量科学の基本的 方法に拘わるものであった。つまり,デカルト的な旧来の物的二元論に基づく 主体一客体の二分法的方法は,近代主義的経験論(論理的分析主義)であれ, マルクス主義の伝統的な素朴反映論であれ或は新しいく科学的〉メカニストの 見解であれ,既に認識対象たる社会システム=世界システムの根本的な現象的 ・量的・質的変化に直面して,それを旧来の“物的”世界観の射程において把 握することができなくなったという全体的背景の中で,正にイリエンコフの視 点が先駆的な方法的突出でありえたということが指摘されなければならない。 広松的表現を借りれば,イリエンコフの弁証的再構成の基本的な方向性は,事 的世界観の弁証法的枠組の創出の試みであった。 彼の全理論を貫通する特徴は,要するに静態的な〈もの〉としての反映関係 或はもの(即ち抽象物)の単なる集計関係の未完結性,部分性の確認とそれを こ と 条件としたく事象〉の人間を媒介とした相互的発展という視点である。従って 彼の弁証法の核心は誤解を恐れずに言えば,自然弁証法というより入間を中心 61) Ibid., pp.250−252.
弁証法的論理の重層性について 97 こ と こ と とした〈事象〉世界の対象化による概念の具体性,換言すればく事象〉の有機 的全体性というコンセプトの生産プロセスにある。これは勿論ヘーゲル的な意 味での理念の自己運動ではなく,客観的実在である人間の生活活動を媒介とし て外的環境が対象化され観念性(形式)に転化される主体の弁証法的メカニズ ムを意味する。彼の弁証法的方法を社会科学方法論として読みかえれば,基本 的に三種の視座が指摘できる。即ち(1)システム概念の弁証法的構造②哲学的・ 方法論的歴史主義の再編成(3)主体的な社会的発展の位置づけ,ということであ る。 最初の問題の核は論理的方法としての弁証法の重層性に在る。即ち,共時的 審級として上向とはそのシステム把握ということを意味する。即ち,システム こ と もの とは運動的・機能的な事象(物ではなく)の全体性の概念そのものであり,共 時的な概念の総合化=具体化のレベルを呈示する。それに対して下向=個別的 ・抽象的一般化は,不可欠な前提として直観的・悟性的な素材的契機となるが, 同時に主体=観察者の対象化された思考機能として自らの否定的・矛盾的契機 を生みだす〈原始函数〉でもあると考えねばならない。故にサブ・システムと は,抽象化=部分化の論理機能の基層であると同時に具体化=全体化への関係 性を呈示しているのである。この関係性は認識の次元では経験主義・個別的世 界了解の量的集計ではなく,それを認識次元として越えるプラスα=質的契機 を内容する具体的総体性を意味している。しかし現実の社会科学の方法として このようなシステム即ち対象の具体的総体性を把握する行為的順序・階梯はど アンコジツヒ のようなものか。つまり,我々は通常,研究手続として直接的に上のような総 体を把握できないから個別科学分野における悟性的な個別的抽象化の助けを借 ものりることになる。しかしこの現象的・抽象的対象把握は,物的定在の感覚所与 として能知的には自律性をもった公式・普遍性として観念されるのであるから, 個別科学的一般化が「システム」把握にどのように,何故揚棄されるのかとい う理解は極めて困難な課題となる。答を先取りしていえば,観念自体の内在的 運動性ではなく,観念プラスαとしての全体性を例えば生存する身体という審 級で表現できる人間という媒体的基層が,このような過程を可能にするのであ
98 彦根論叢 第283・284号 る。自然=外的環境の自律性の物的反射過程でなく,外的な対象を観念として 対象化しつつ正にそのことによってのみ,上向への一歩として獲得された抽象 性は,自動的にではなく事後的に(傍点筆者)具体的総体性(個別的一般化の 平均ではありえない概念)に近づくのである。換言すれば,意識の一層具体的 な総体性への変化・発展はそれ自体の内的機能ではなく,人間による外的環境 の接触とそれを対象化することによって観念化の形式としてはじめて現成する。 一種の間主観的な意識の発展がメルロ・ポンティの身体という根本的基層に根 ボディ ざす枠組に通罪するが,他我認識の論理的起点たる個人主体の普遍性という考 え方は生活条件に拘る一層具体的な内容をもつ。従って主体(思考する)の論 理に生じる否定的契機は,それ自体一層具体化された諸範疇でしかない。たと えば,個別科学の領域としての経済学における抽象化の公理命題は,効率性に 由来する合理主義であるが,そしてそのそれ自体としての必然性は否定できな いが主体との拘り合い,その具体化の過程を通じて否定的契機を生み出し,或 は否定的契機となることによってより具体的な総体性へ転化せざるをえない。 或は国際関係論における個別的公理=国益の極大化とその手段としての合理主 義的勢力均衡の概念にも全く同じことが言えよう。この場合,この志向的な具 体的総体の内容措定に関しては我々は,このような論理と人間と外的環境に拘 れる純粋な関係性の審級においてはこれを決定することはできないのである。 それは哲学上の発生論(歴史的なもの)的な問題にほかならない。 第2の弁証法的問題は歴史的なるものの導入であるが,それは弁証法的概念 としての具体的総:体の内容規定性に拘る問題である。抑々問題を要約すれば歴 史的なものは概念としてはan sichに具体的なるものである。何故ならイリエ ンコフ的枠組においては我々の歴史了解は主として人間的なるものに関係し, 従って発生論的には歴史的概念は多くの論争の成果として実質上論証されたよ うに価値分離(value−separation)的審級では成立しえない。通時的には多様な 抽象的諸契機・部分的普遍性を含みながらそれを超え具体的全体を目的志向と して自離するものが歴史的意識である。前述したように具体的全体を把握する 上向的起点としての具体的普遍の内容規定は,抽象化であるが同時に上向を支
弁証法的論理の重層性について 99 配的に規定するものでなければならない。この内容規定は社会科学の各個別領 域で当然異なるにせよ歴史的にはより包摂的,一層具体的な範疇であることは 明らかであろう。従って今,説明の便宜的な方法・手順として現段階での社会 コンセプト 科学の全領域における貫通的な具体的総体=世界了解のキー・概念は試論的に 世界システムと置けば,勿論それは資本主義システムと言うに等しいからそれ 自体としては資本論的構造の如き内容暗室定性を与えられていないにせよ,そ の起点的な概念の内容を類推的に例えば,経済学の分野においての通時的な各 段階の上向的起点,資本主義という具体性への上向の起点としての商品,或は 独占或は国家という概念との通時性において近似的に把握できるであろう。し かし,それは少なくとも前述のこれらの具体的普遍より,更に具体的な範疇で, 且つこれらを包摂する大きな契機であるから,商品の対立的契機,独占の否定 的契機或は国家の否定的契機を包摂するくもの〉ではなくく機能〉の観念形式 を求めることになる。例えば,それは相互依存という概念であり,各領域にお いては更に細分化された対象的内容一例えば国際価値とか国際独占とか国家統 合一を持つことになる。対象化された具体的普遍の通時的観念形態は歴史法則 であるが,それ自体は物象化された変化傾向の指針であっても,つまり個別抽 象化の形式よりも具体的なる形式でありえても必然性に拘る主体的・能知的な ものではないといえよう。 従って第3の問題領域としては,社会的に構成された具体的(生活実践し思 考する)個人の普遍性に出合うのである。それは純粋な自存的(従って生物学 的・形而上学的)個人ではなく,不断に環境を観念化し自己の思考を具体化・ 社会化・全体化していく主体として把握されよう。従って発展とはこの場合, より具体化していくイデアールと他方でより社会化(具体化)されていく自然 を含めた全体の環境=レアールなものとの間の函数的な関係性の形式を指示す る。故に変化・変革への必然的契機とは,社会的に構成された個人の当面の普 遍性の程度,換言すれば弁証法的に構成された結果としての社会意識(価値な ど)の水準に依存することになる。必然性の具体的内容に関しては,比較的小 さな具体性しか要求されなかった過去においては,例えば個別科学(例えば経
100 彦根論叢 第283・284号 済学)の優先的な学問的規定性がありえたとしても,現段階における社会科学 の方法論的特徴は,より具体的な世界了解・把握にある限り,より多くの個別 科学の多様な個別的抽象化(一般化)を貫通する形での,いわば重層的な認識 の枠組を持たざるをえない点にあるといえよう。これがイリエンコフによって 先駆的に荒けづりながら示唆された弁証法の再構成を通じて新たな課題として 我々に提出されたものではなかろうか。