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明治期の十津川水害による三地域への北海道移住の比較(3):帰属意識と文化変容

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(1)

一 . は じ め に   明 治 二 二 年 ( 一 八 八 九 ) 八 月 一 九 日 ・ 二 〇 日 の 大 雨 に よ り 、 甚 大 な 被 害 を 被 っ た 奈 良 県 吉 野 郡 十 と 津 つ 川 かわ 村 の 人 々 は 、 北 海 道 の 三 地 域 に 移 住 、 入 植 を 果 た し た 。 す な わ ち 、 現 在 の 行 政 区 分 で 北 海 道 ① 新 十 津 川 町 、 ② 滝 たき 川 かわ 市 ( 屯 田 兵 村 の ひ と つ 滝 川 兵 村 )、 ③ 深 ふか 川 がわ 市 ( 雨 う 竜 りゅう 十 津 川 村 ) で あ っ た 。 本 稿 で は ② 滝 川 市 、 ③ 深 川 市 を 取 り 上 げ る ( 図 1 )。 山 村 に 住 む 人 々 が 平 地 ( 農 村 ) に 直 面 し た 場 合 、 そ れ ま で 築 か れ て い た 帰 属 意 識 は ど の よ う に 保 持 さ れ 、 も し く は 文 化 変 容 ( Acculturation ) し て い っ た の か 、 その 変 遷を 各 地 域 に 創 立 さ れ た 神 社 ( 滝 川 兵 村 に は 滝 川 神 社 、 雨 竜 十 津 川 村 に は 芽 め 生 む 神 社 ) の 創 立 由 縁 と 、 創 立 し た そ の 後 の 動 向 を 通 し な が ら 分 析 す る ( 1 ) 。 二 . 滝 川 兵 村 の 開 村   滝 川 市 は 、 石 狩 平 野 北 部 、 石 狩 川 中 流 域 に 位 置 し て い る 。 か つ て は 、 空 そら 知 ち 太 ぶと と 呼 ば れ て お り 、 明 治 二 三 年 ( 一 八 九 〇 ) に 「 滝 川 村 」 戸 長 役 場 が 置 か れ 、 同 年 屯 田 兵 四 四 〇 戸 が 入 植 し た こ と に は じ ま る ( 2 ) 。 明 治 一 八 年 ( 一 八 八 五 ) 頃 は 、 市 いち 来 き 知 しり ( 現 三 笠 市 ) ま で の 入 地 し か な さ れ て お ら ず 、 滝 川 地 域 ( 空 知 太 ) を 含 む 以 北 方 面 は 未 開 の

明治期の十津川水害による三地域への北海道移住の比較(3)

     

―帰属意識と文化変容―

 

 

由紀子

 

図1 北海道地方西部 (出所)著者作図

(2)

地 で 、 地 理 的 に 知 ら れ て い な い 場 所 で あ っ た 。 札 幌 に 続 く 第 二 次 屯 田 入 植 計 画 と し て 内 陸 部 の 開 拓 が 構 想 さ れ 、明 治 一 九 年 ( 一 八 八 六 ) 五 月 に 市 来 知 か ら 忠 ちゅくぺっぷと 別 太 ( 現 旭 川 市 ) 間 の 「 上 かみ 川 かわ 道 路 」 の 建 設 が 始 ま り ( 3 ) 、 翌 年 に 石 狩 川 沿 岸 の 調 査 が 詳 細 に さ れ た ( 4 ) 。   明 治 二 一 年 ( 一 八 八 八 ) 九 月 、 北 海 道 庁 長 官 永 山 武 四 郎 ( 5 ) は 、 札 幌 か ら 上 川 方 面 に 向 か う 途 中 、 石 狩 川 と 空 知 川 の 合 流 地 点 に あ た る 滝 川 地 域 を 視 察 調 査 し た ( 6 ) 。 結 果 、 屯 田 兵 村 の 有 力 な 候 補 地 と し て 、 川 の 氾 濫 や 氾 濫 湿 原 を 避 け た 一 段 小 高 い 農 耕 最 適 の 平 野 部 が 選 定 さ れ る ( 藤 原 編 一 九 八 一 : 二 一 五 )。   同 年 一 一 月 一 七 日 に 「 屯 田 兵 増 殖 ノ 儀 ニ 付 上 申 」 が 黒 田 清 隆 内 閣 総 理 大 臣 に 提 出 さ れ 、 一 二 月 一 八 日 陸 軍 大 臣 大 山 巌 か ら 黒 田 総 理 へ 閣 議 の 要 請 が 行 な わ れ た 。 翌 年 二 月 に は 、 黒 田 総 理 か ら 正 式 の 承 認 を 得 て 、樺 かば 戸 と 集 治 監 の 囚 人 を 使 っ て 屯 田 兵 屋 の 建 設 が は じ ま っ た( 滝 川 市 史 編 一 九 八 一 : 二 〇 六 ~ 二 〇 七 )。   滝 川 地 域 へ の 最 初 の 入 植 者 は 、 被 災 し た 二 カ 月 後 の 明 治 二 二 年 ( 一 八 八 九 )一 〇 月 一 八 日 か ら 北 海 道 へ 移 住 を 開 始 し た 十 津 川 の 人 々 で あ っ た 。 詳 細 は 前 稿 ( 2 ) に 記 し た が 、 同 年 一 一 月 一 八 日 ま で に 三 回 に 分 け て 移 住 者 一 行 が 到 着 し た ( 7 ) 。 十 津 川 の 人 々 に は 、 建 設 中 で あ っ た 屯 田 兵 屋 が 宿 舎 と し て 割 り 当 て ら れ 、 翌 春 ま で 越 冬 し た 。 未 完 の 家 が 多 か っ た の で 、 一 棟 一 七 坪 半 に 四 家 族 約 一 六 人 程 度 が ひ と つ の 屯 田 兵 屋 で 過 ご し て い る 。   滝 川 地 域 に 入 植 さ せ る 屯 田 兵 の 募 集 は 、 す で に 明 治 二 二 年 ( 一 八 八 九 )九 月 二 八 日 付 官 報 に 登 載 さ れ て い た 。対 象 と し た 士 族 は 、 新 潟 県 、 福 井 県 、 石 川 県 、 佐 賀 県 、 山 口 県 、 熊 本 県 、 福 岡 県 、 鹿 児 島 県 よ り 百 戸 、 山 形 県 よ り 八 〇 戸 ( 九 県 八 八 〇 戸 ) で あ っ た が 、 十 津 川 の 人 々 に も 屯 田 兵 の 希 望 者 を 募 る こ と と な り 、 告 示 通 り の 人 数 を 各 県 か ら 募 集 し な い こ と と な っ た ( 滝 川 市 史 編 一 九 八 一 : 二 〇 九 ~ 二 一 三 )。   十 津 川 の 人 々 が 滞 在 す る 屯 田 兵 屋 に は 、 同 年 一 一 月 二 四 日 に 陸 軍 局 加 治 定 武 が 来 村 し 、 屯 田 兵 志 願 の 心 得 を 諭 告 し た こ と で 、 多 く の 志 願 者 が あ っ た 。 同 年 一 二 月 四 日 ・ 六 日 に 屯 田 兵 検 査 を 行 な い 七 五 名 が 合 格 、 同 月 七 日 の 再 募 集 で も 三 七 名 が 志 願 し 、 最 終 的 に は 計 九 五 戸 が 屯 田 兵 と し て こ の ま ま 屯 田 兵 屋 に 残 留 す る こ と が 決 ま っ た 。 三 . 滝 川 屯 田 兵 と し て の 生 活   明 治 二 二 年 ( 一 八 八 九 ) に 十 津 川 村 よ り 九 五 戸 、 明 治 二 三 年 ( 一 八 九 〇 ) に 六 県 三 四 五 戸 の 屯 田 兵 が 滝 川 兵 村 ( 南 滝 川 兵 村 二 二 二 戸 、 北 滝 川 兵 村 二 一 八 戸 ) に 入 植 を 果 た し た 。 士 族 籍 限 定 の 募 集 で 成 立 し た 最 後 の 屯 田 兵 村 ( 士 族 屯 田 ) で 、 入 村 当 時 は 第 五 大 隊 第 一 中 隊 、 第 二 中 隊 に 編 成 さ れ た ( 8 ) 。   入 植 者 の 出 身 府 県 の 内 訳 は 、『 屯 田 兵 名 簿 』 ( 9 ) に よ る と 、 南 滝 川 兵 村 ( 十 津 川 村 五 七 戸 、 山 形 県 四 五 戸 、 熊 本 県 一 五 戸 、 山 口 県 四 七 戸 、 佐 賀 県 三 一 戸 、 福 岡 県 一 七 戸 、 鹿 児 島 県 一 〇 戸 )、 北 滝 川 兵 村 ( 十

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津 川 村 三 八 戸 、 山 形 県 五 七 戸 、 熊 本 県 一 二 戸 、 山 口 県 五 三 戸 、 佐 賀 県 二 七 戸 、 福 岡 県 二 二 戸 、 鹿 児 島 県 九 戸 )( 小 林 二 〇 〇 三 : 九 七 ~ 一 一 四 ) で あ る 。 主 に 九 州 地 方 の 士 族 が 多 く 入 植 し た 。   山 形 県 よ り 入 植 し た 菅 原 庄 次 郎 は 、 過 去 帳 を 管 理 し て お り 屯 田 兵 の 系 譜 を 書 き 留 め て い た 。 孫 に あ た る 菅 原 武 男 氏 )(1 ( に よ る と 、 滝 川 兵 村 は 、 表 向 き は 士 族 籍 限 定 で 募 集 さ れ た が 、 平 民 の 次 男 や 三 男 な ど が 士 族 籍 を 買 っ て 入 植 し た 例 、 故 郷 で 平 民 と 士 族 が 土 地 と 籍 を 交 換 し て 入 植 し た 例 、 新 し い 戸 籍 を 作 っ て 入 植 し た 例 が あ る と 伺 っ た 。 十 津 川 の 人 々 は 、 明 治 維 新 に よ り 村 民 す べ て が 士 族 籍 と な っ た が 、 士 族 屯 田 の 滝 川 兵 村 で は 、 入 植 し た 屯 田 兵 す べ て が 士 族 出 身 で は な か っ た 。 こ の 傾 向 は 、 明 治 二 〇 年 代 以 降 に 形 成 さ れ た 他 の 士 族 屯 田 の 屯 田 兵 村 に も い え る 。   た だ 、 十 津 川 村 か ら 三 歳 の 時 に 滝 川 兵 村 に 入 植 し た 風 穴 カ ン 氏 )(( ( の 談 に は 「 私 た ち は 大 和 の 十 津 川 で す 。 新 十 津 川 の 人 達 と 同 じ で す が 、 私 た ち は 武 士 で 爺 さ ん が 京 都 詰 め で し た か ら 屯 田 兵 に 入 れ た の で す 。」 ( 金 子 他 一 九 七 〇 : 二 二 ~ 二 三 ) と あ る こ と か ら 、 屯 田 兵 は 士 族 出 身 者 し か な れ な い と い う 意 識 は 持 っ 図2 滝川兵村の屯田兵屋配置図 (出所)『屯田兵名簿』をもとに著者作図

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て い た こ と が 分 か る 。   と こ ろ で 、 明 治 二 〇 年 代 よ り 形 成 さ れ た 石 狩 川 上 ~ 中 流 域 の 屯 田 兵 村 の 兵 屋 配 置 は 、「 密 居 制 」 か ら 「 疎 居 制 」 へ 移 行 し た 時 期 に 成 立 し て い る が )(1 ( 、 滝 川 兵 村 の 入 植 配 置 図 を み る と 「 密 居 制 」 が と ら れ て い た 。屯 田 兵 屋 の 割 り 当 て は く じ 引 き で 決 定 し た と い わ れ て い る 。 十 津 川 の 人 々 に は 、 先 に 入 植 し て い た の が 関 係 し て い る の か 、 大 隊 本 部 に 近 い 屯 田 兵 屋 が 割 り 当 て ら れ 、 大 半 が 一 戸 空 い て 隣 の 屯 田 兵 屋 に 居 住 し て お り 、 あ る 程 度 同 郷 を 近 隣 に さ せ る 配 慮 が あ っ た と 思 わ れ る 。 ま た 、南 滝 川 兵 村 、北 滝 川 兵 村 に 分 か れ て 編 成 さ れ た と い っ て も 、 道 路 を 挟 ん で 隣 同 士 で あ っ た こ と が 分 か る ( 図 2 )。   滝 川 兵 村 の 生 活 は ど う で あ っ た の か 。 昭 和 五 〇 年 代 ( 一 九 七 五 ~ 一 九 八 四 ) の 滝 川 市 は 、 現 在 よ り も 人 口 が 四 千 人 余 り 多 く 、「 典 型 的 な 農 業 生 産 に よ っ て 支 え ら れ て い る 裕 福 な 地 方 都 市 」( 伊 藤 一 九 七 九 : 二 一 ) と い わ れ て い る 。 伊 藤 論 文 ( 伊 藤 一 九 七 九 : 二 一 ~ 二 二 ) に よ る と 、 屯 田 兵 は 一 年 目 の 開 拓 が 終 わ っ て か ら 、 麻 を 主 に 栽 培 し た と い う 。 二 年 目 、 三 年 目 の 現 役 時 代 も 、 中 隊 本 部 の 指 令 に 従 い 中 隊 全 員 が 一 斉 に 作 付 け を し 、 予 備 役 時 代 の 主 産 物 も 麻 栽 培 で あ っ た 。 他 は 、 各 戸 で 戸 主 と 父 親 が 相 談 し て 決 め 、 豆 類 、 麦 類 、 牧 草 な ど を 作 付 け た 。   ま た 、 リ ン ゴ の 苗 を 屯 田 兵 司 令 部 よ り 持 っ て き て 各 戸 に 植 え た と こ ろ 、 成 績 が 悪 く な か っ た の で 、 明 治 二 五 、六 年 頃 よ り 自 家 用 に 試 作 を 始 め て い る 。 商 品 作 物 と し て 考 え て い た が 、 収 穫 は 三 、四 年 後 に な る の で 、 そ の 間 生 計 を 立 て る の に 苦 労 を し て い た が 、 明 治 三 四 年( 一 九 〇 一 )、 明 治 三 九 年( 一 九 〇 六 )の 害 虫 に よ る 凶 作 で 全 滅 す る 。   稲 作 は 、個 人 的 に 入 植 の 年 よ り 沢 を 利 用 し て 試 作 を し た 者 が お り 、 苦 心 談 が 多 く 残 る 。畑 作 、特 に 豆 類 の 収 穫 が 良 か っ た の が 救 い で あ っ た が 、 米 を 収 穫 で き な い 年 は 続 き 、 生 活 は 厳 し く 、 明 治 末 期 か ら 大 正 初 期 に 屯 田 兵 の 半 数 以 上 が 滝 川 兵 村 を 離 れ て い っ た 。 第 一 次 世 界 大 戦 後 の 恐 慌 で は 、 市 街 地 へ 働 き に 行 っ て も 、 辛 う じ て 一 日 の 生 計 を 立 て る 賃 金 し か 取 れ な か っ た 。 滝 川 兵 村 が 稲 作 を 始 め た の は 、 大 正 五 年 ( 一 九 一 六 ) 八 月 に 土 功 組 合 を 結 成 し て か ら で 、 道 庁 の 助 成 を 受 け 水 田 用 灌 漑 溝 が 開 削 さ れ 、 大 正 末 期 に 本 格 的 に な っ た 。   滝 川 兵 村 の 屯 田 兵 は 各 府 県 か ら 入 植 し 、 大 き く 異 な る 気 候 に ど の よ う な 農 作 物 が 適 し て い る か 、 各 自 試 行 錯 誤 を 続 け て い た 。 こ の 状 況 で 、 特 に 山 村 に 生 活 し て い た 十 津 川 の 人 々 は 、 農 作 業 へ の 不 慣 れ も 手 伝 い 、 農 業 で 生 計 を 立 て る に は 相 当 の 苦 労 が あ っ た こ と が 推 察 で き る 。 滝 川 兵 村 に 入 植 し た 十 津 川 村 出 身 者 の 屯 田 兵 の 離 村 率 の 資 料 は 残 っ て い な い 。 四 . 滝 川 神 社 の 創 立 由 縁   滝 川 兵 村 で は 、 明 治 二 三 年 ( 一 八 九 〇 ) 八 月 に 滝 川 神 社 の 前 身 で あ る 遥 拝 所 が 勧 請 さ れ た 。『 滝 川 町 発 展 史 』 に は 、「 第 二 大 隊 長 野 崎 貞 次 )(1 ( 、 第 三 中 隊 長 縣 左 門 、 第 四 中 隊 長 山 縣 俊 信 の 三 名 は 、 遥 拝 所 建 設 の 計 劃 を 樹 て 之 を 部 下 の 将 校 下 士 と 圖 り ・・・ 」( 坂 東 編 一 九 一 一 :

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一 〇 七 ) と あ る 。 発 起 人 三 名 は 屯 田 幹 部 で あ り 、 明 治 政 府 か ら 派 遣 さ れ た 人 物 に よ る 遥 拝 所 建 立 の 議 で あ っ た 。 遥 拝 所 は 、北 滝 川 兵 村 、 南 滝 川 兵 村 の ち ょ う ど 中 央 と な る 二 の 坂 丘 上 に 建 設 さ れ 、 祭 神 天 照 大 神 と 、 天 皇 、 皇 后 、 皇 太 子 の 御 真 影 が 祀 ら れ た 。   ま た 、 記 録 に は 「 第 四 中 隊 三 九 四 番 地 戸 主 佐 伯 廣 治 )(1 ( の 父 訓 導 佐 伯 熊 槌 、 遥 拝 所 保 存 の 監 視 兼 清 掃 の 事 を 託 せ ら る 。 佐 伯 熊 槌 は 旧 萩 藩 士 で あ り 、 敬 神 家 で あ っ た 。」 ( 坂 東 編 一 九 一 一 : 一 一 〇 ~ 一 一 一 ) と あ っ た 。 そ の 後 、 遥 拝 所 は 、 明 治 二 八 年 ( 一 八 九 五 ) に 二 の 坂 に 本 殿 を 建 立 し 、 滝 川 神 社 と し て 認 可 さ れ た )(1 ( 。( 写 真 1 )   現 在 、 滝 川 市 に は 滝 川 神 社 を 含 め 、 四 社 ( 他 に 江 部 乙 神 社 )(1 ( 、 金 刀 比 羅 神 社 、 空 知 沿 岸 交 通 神 社 ) が 鎮 座 し て い る が 、 例 大 祭 の 人 出 を み る と 、 市 内 の 中 心 的 存 在 の 神 社 は 、 滝 川 神 社 で あ る 。 旧 滝 川 兵 村 地 に 残 る 子 孫 は 約 六 〇 戸 で 、 残 留 率 は 一 五 % で あ る が 、 屯 田 兵 子 孫 は 先 祖 を 偲 ぶ 「 屯 田 兵 遺 徳 顕 彰 会 」 を 結 成 し )(1 ( 、 滝 川 神 社 は 毎 年 屯 田 兵 の 慰 霊 祭 典 を 行 っ て い る 。 行 政 で は 、 例 え ば 、 屯 田 兵 の 出 身 地 と 姉 妹 都 市 を 結 ん だ り と い う よ う な 交 流 は 行 わ れ て い な い 。   筆 者 は 、 屯 田 兵 村 に 創 立 さ れ た 神 社 を ほ と ん ど 調 査 し て い る が )(1 ( 、 同 じ 士 族 屯 田 の 屯 田 兵 村 に お け る 神 社 の 創 立 由 縁 に は 故 郷 を 偲 ぶ 祭 神 を 求 め た り 、 出 身 が 異 な る 屯 田 兵 が 祭 神 を 巡 っ て 争 っ た り な ど し て い る が 、 他 の 屯 田 兵 村 と 比 較 す る と 、 滝 川 神 社 の 「 天 照 大 神 を 祀 る 遙 拝 所 が 神 社 に 発 展 し た 」 と い う 創 立 由 縁 は 、 あ る 意 味 、 屯 田 兵 村 と し て 明 治 政 府 に 従 順 な 特 徴 で あ る 。 滝 川 兵 村 の 屯 田 兵 は 自 ら が 薦 め る 祭 神 を 主 張 す る こ と は な く 、 そ れ は 、 十 津 川 村 か ら 入 植 し た 屯 田 兵 も 例 外 で は な か っ た 。 五 .「 華 族 組 合 雨 竜 農 場 」 と 雨 竜 十 津 川 村 の 開 村   続 い て 、 深 川 市 に 入 植 し た 十 津 川 の 人 々 の 動 向 を 探 る 。 北 海 道 庁 初 代 長 官 岩 村 通 俊 の 立 案 に よ る 「 北 海 道 土 地 払 下 規 則 」 の 改 正 に 伴 い 、 明 治 二 〇 年 ( 一 八 八 七 ) 六 月 、 殖 民 地 撰 定 の 調 査 団 一 行 が 「 深 川 」 )(1 ( の 地 に 入 っ た 。   石 狩 川 流 域 と 雨 竜 川 中 流 の 「 深 川 」 は 、 七 地 域 )11 ( に 分 け 調 査 さ れ 、 結 果 は 『 北 海 道 殖 民 地 撰 定 報 文 』( 明 治 二 四 年 ) と し て 刊 行 さ れ た 。 そ の な か で 、 メ ム 原 野 )1( ( の 地 理 に つ い て 「 地 味 最 モ 肥 沃 草 原 林 幾 ン ト ②滝川神社拝殿 (2005 年 5 月 17 日著者撮影) ①滝川神社表参道 写真1 現在の滝川神社(滝川市一の坂町東 1 丁目)

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相 半 セ リ 」 と あ り 、 豊 富 な 水 量 の た め 、 農 業 に 適 し て い る 土 地 で あ る と 報 告 さ れ た 。 す で に 、 ア イ ヌ が 四 戸 ( 男 十 人 、 女 十 一 人 ) 居 住 し て い た と あ る 。「 上 川 道 路 」 は 、 明 治 二 二 年 ( 一 八 八 九 ) 春 に 開 通 し て お り 、 さ ら に 、 雨 竜 原 野 を 西 か ら 東 へ 貫 通 す る 道 路 )11 ( の 開 削 が 始 ま っ た 。   「 北 海 道 土 地 払 下 規 則 」 は 、 一 〇 年 の 成 功 期 間 を お い て 無 償 で 貸 し 下 げ る 方 法 を と っ て い た 。 出 願 通 り に 開 墾 し た 土 地 は 、 開 墾 者 が 払 下 げ を 受 け る 権 利 を 有 す る 事 と さ れ 、 土 地 の 広 さ は 、 原 則 的 に 一 人 一 〇 万 坪 )11 ( と さ れ た が 、 実 態 は 有 力 者 に は 優 遇 さ れ た 。   こ の 規 則 に よ り 、 同 年 一 〇 月 、 侯 爵 菊 亭 脩 ゆき 季 すえ 、 )11 ( 侯 爵 蜂 須 賀 茂 もち 韶 あき 、 )11 ( 公 爵 三 条 実 美 の 連 名 に よ る 「 土 地 御 貸 下 願 」 が 北 海 道 庁 長 官 永 山 武 四 郎 宛 に 提 出 さ れ 、 同 年 一 二 月 一 八 日 、 正 式 許 可 書 が 公 布 さ れ た )11 ( 。 彼 ら の 農 場 を 「 華 族 組 合 雨 竜 農 場 」 と 呼 ぶ 。 道 庁 勤 務 の 経 歴 が あ っ た 菊 亭 侯 爵 は 三 条 公 爵 の 甥 で 、 伯 父 の 政 治 力 を 期 待 し て の 募 集 で 、 す で に 上 白 石 村 で の 農 場 経 営 )11 ( の 経 験 が あ っ た 。 道 庁 第 二 部 次 長 の 浅 羽 靖 や 永 山 武 四 郎 に 相 談 を し 、 で き る だ け の 助 成 の 約 束 を 得 て い た ( 田 島 二 〇 〇 四 : 七 ) と い わ れ る 。   明 治 二 三 年 ( 一 八 九 〇 )、 一 億 五 千 万 坪 )11 ( と い う 広 大 な 土 地 を 確 保 し た 「 華 族 組 合 雨 竜 農 場 」 は 開 墾 に 着 手 し た 。 全 道 農 業 進 歩 と 殖 民 事 業 の 益 を 得 る と い う 名 目 で 、 道 庁 協 力 の も と 進 め ら れ た が )11 ( 、 農 場 の 運 営 は 、 資 金 難 や 入 植 者 の 募 集 な ど 計 画 通 り に 進 展 し な か っ た 。   ゆ え に 、 資 金 を 補 う た め 、 借 主 構 成 員 に 浄 土 真 宗 大 谷 光 瑩 、 子 爵 戸 田 康 泰 、 子 爵 秋 元 興 朝 が 参 加 し 、 労 働 力 不 足 の 一 助 と し て 、 永 山 長 官 の 尽 力 に よ り 、樺 戸 集 治 監 の 囚 人 五 十 人 が 開 墾 の 主 力 と な っ た 。 初 年 度 の 開 墾 結 果 は 一 二 五 町 歩 )11 ( で 、 当 初 の 開 墾 計 画 ( 五 二 〇 町 歩 ) の 二 四 % で あ っ た 。   明 治 二 四 年 度 の 予 算 書 に は 、移 民 を 受 け 入 れ る 規 定 が 明 記 さ れ た 。 旅 費 の 支 給 や 農 具 の 補 助 は あ っ た が 、 一 戸 当 た り 四 町 歩 を 四 年 間 で 開 墾 、 家 族 の 半 数 が 労 働 に 従 事 、 一 戸 か ら 一 人 は 農 場 の 作 業 に 従 事 す る 義 務 が あ り 、 土 地 の 所 有 は あ く ま で 農 場 で あ っ た 。「 聞 き 分 け 小 作 法 」 と 呼 ば れ る こ の 方 法 は 、 労 働 力 の 確 保 は 難 し か っ た ( 中 川 他 一 九 九 四 : 一 四 八 ~ 一 四 九 )。   こ の よ う な な か 、 明 治 二 四 年 ( 一 八 九 一 ) 二 月 一 八 日 、 三 条 公 爵 が 病 死 し 、 更 に 農 場 の 前 途 は 困 難 な も の と な っ た 。 現 地 指 導 者 は 退 職 し 、 貸 し 上 げ 地 の 一 部 を 分 離 ・ 独 立 し 個 人 農 場 を 経 営 す る た め に 離 れ て い っ た 。 労 働 力 不 足 も 解 消 さ れ な い ま ま 、 累 積 赤 字 額 は 膨 ら み 、 加 え て 、 官 有 地 払 下 げ 疑 惑 が 自 由 党 河 野 広 中 ら に よ り 国 会 で 糾 弾 さ れ る な ど の 事 件 が あ り 、 農 場 経 営 の 見 直 し を 迫 ら れ た 。   そ う し て 、 明 治 二 六 年 ( 一 八 九 三 ) 三 月 五 日 付 で 三 条 ( 嫡 子 )、 蜂 須 賀 、 菊 亭 、 戸 田 の 連 名 で 成 墾 地 を 除 き 残 地 は 返 地 し た い 旨 の 願 書 が 道 庁 に 提 出 さ れ 、「 華 族 組 合 雨 竜 農 場 」 は 解 散 と な っ た 。 同 年 三 月 二 九 日 、 三 条 家 を 除 く 菊 亭 、 蜂 須 賀 、 戸 田 、 大 谷 は 、 土 地 貸 下 げ の 請 願 を 提 出 し 、 翌 日 許 可 を 受 け 、 成 墾 地 は そ れ ぞ れ の 出 資 額 に 応 じ て 分 配 さ れ た ( 田 島 二 〇 〇 四 : 八 ~ 九 )。

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  と こ ろ で 、『 深 川 風 土 記 』 )1(( の 冒 頭 に 掲 載 さ れ て い る 東 あずま 武 )11 たけし ( の 寄 稿 に は 、 札 幌 北 三 条 に 居 住 し て い た 東 の 元 に 黒 塗 り の 馬 車 に 乗 っ た 菊 亭 侯 爵 が 尋 ね て き た 逸 話 が あ る 。 東 は 、 菊 亭 侯 爵 と 馬 車 に 同 乗 し 、 豊 平 館 )11 ( に 連 行 さ れ る と 、 浅 羽 靖 )11 ( が 来 館 し た 。 こ の 時 、 以 下 の 事 柄 が あ っ た 。   「 菊 亭 侯 は 威 容 あ る 風 姿 に 、 温 情 玉 の 如 き 態 度 で 、 伯 父 に 當 る 故 三 条 公 の 遺 志 を 述 べ 、 如 何 な る 困 難 と 闘 ふ も 、 此 事 業 を 継 ぐ は 自 分 を 措 い て 他 に な い と 云 ふ 決 心 を 示 し た 。 更 に 我 輩 に 対 し 、 君 は 前 年 故 郷 十 津 川 寄 り 六 百 余 戸 三 七 百 人 を 雨 竜 に 隣 る ト ッ プ ( 今 の 新 十 津 川 ) に 移 住 せ し め た こ と を 聞 い て い る が 、 故 公 の 事 業 を 自 分 が 経 営 す る に 就 て は 、 處 も 隣 村 で あ る し 、 是 非 共 君 の 経 験 と 才 気 と を 以 て 、 草 莽 荊 棘 の 地 に 人 を 移 し て 貰 い た い と 云 ふ 事 で あ っ た 。」 (『 深 川 風 土 記 』)   こ れ は 、 明 治 二 五 年 ( 一 八 九 二 ) の 出 来 事 で 、 同 年 一 一 月 、 菊 亭 侯 爵 の 代 理 人 と し て 浅 羽 靖 、 譲 受 人 東 武 と の 間 に 第 一 号 契 約 が 結 ば れ 、 農 場 の メ ム 地 域 の 五 百 万 坪 )11 ( を 譲 り 受 け る こ と が 決 ま っ た の で あ る 。 つ ま り 、「 華 族 組 合 雨 竜 農 場 」 の 書 類 上 の 解 散 時 期 よ り 前 に 、 十 津 川 の 人 々 を メ ム 地 域 に 入 植 さ せ る 計 画 は 進 ん で い た 。   第 一 号 契 約 書 ( 中 井 一 九 三 四 : 一 〇 、 句 点 筆 者 ) の 第 二 項 に は 、 「 明 治 二 十 五 年 及 同 二 十 六 年 ニ 於 テ 、 移 住 民 百 戸 ヲ 北 海 道 新 十 津 川 及 大 和 十 津 川 ニ 於 テ 募 集 シ 、 一 戸 ニ 付 三 万 坪 ヲ 割 與 シ 、 成 効 期 限 ヲ 六 ケ 年 ト ナ シ 、 右 開 墾 壱 万 五 千 坪 結 了 ノ 上 ハ 、 報 恩 ノ 為 メ 一 戸 ニ 付 、 三 千 坪 ヲ 開 墾 シ 、 即 チ 三 万 坪 墾 成 ノ 上 ハ 、 毎 戸 六 千 坪 報 恩 田 ニ 供 セ シ メ 、 永 ク 親 密 ヲ 表 ス ル 事 」 と 記 載 さ れ 、「 村 名 ハ 雨 龍 十 津 川 村 ト 称 ス ル 事 」 と 明 記 さ れ た 。   す な わ ち 、 一 戸 に 付 き 三 万 坪 )11 ( を 分 割 譲 与 し 、 六 年 間 で 開 墾 し た 場 合 は 所 有 権 を 与 え る が 、 そ の 条 件 と し て 、 自 分 の 土 地 以 外 も 菊 亭 侯 爵 へ の 「 報 恩 」 と い う こ と で 、 別 に 定 め ら れ た 土 地 を 一 戸 に 付 き 六 千 坪 )11 ( ず つ 開 墾 す る こ と が 義 務 付 け ら れ た の で あ る 。 他 に 、 村 の 基 本 財 産 と す る た め に 、 一 五 〇 町 歩 )11 ( の 土 地 を 贈 与 す る こ と が 決 め ら れ た 。   東 は 札 幌 製 糖 会 社 を 退 職 し 、 メ ム 地 域 へ 移 住 す る 側 と の 契 約 と し て 第 二 号 契 約 書 と 、 移 住 契 約 書 の 細 則 で あ る 第 三 号 契 約 書 を 取 り 交 わ し た 。 明 治 二 五 年 ( 一 八 九 二 ) 一 一 月 二 四 日 付 の こ れ ら の 契 約 書 に は 、 譲 受 人 は 東 武 、 譲 受 人 に 玉 置 里 見 外 七 六 名 連 名 調 印 と あ る 。   こ の の ち 、「 華 族 組 合 雨 竜 農 場 」 は 解 散 し 、 菊 亭 侯 爵 に は 新 た な 土 地 貸 し 下 げ が 認 め ら れ た と 前 述 し た が 、 詳 し く 菊 亭 農 場 の 計 画 を 示 す と 、 明 治 二 七 年 ( 一 八 九 四 ) 一 月 か ら 明 治 三 六 年 ( 一 九 〇 三 ) 一 二 月 ま で の 一 〇 カ 年 を 期 限 に 山 林 四 八 〇 万 坪 )11 ( 、 原 野 九 七 〇 万 坪 )11 ( の 合 計 一 四 五 〇 万 坪 )1( ( が 貸 し 付 け ら れ 、 起 業 方 法 と し て 山 林 は 需 要 材 木 伐 採 に 従 い 随 時 移 植 、 移 民 は 初 年 四 〇 戸 、 二 年 五 〇 戸 、 三 年 四 〇 戸 、 四 年 三 〇 戸 、 五 年 二 〇 戸 、 六 年 二 〇 戸 、 計 二 百 戸 と さ れ て い た ( 中 川 他 一 九 九 四 : 一 五 四 ~ 一 五 五 )。   「 華 族 組 合 雨 竜 農 場 」の 成 墾 地 は 、出 資 金 一 五 百 円 の 菊 亭 侯 爵 に は 、 一 四 一 百 坪 )11 ( が 配 分 さ れ た 。 こ れ に 、山 林 と 原 野 が 貸 し 付 け ら れ た が 、

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年 度 ご と の 開 墾 計 画 の 配 当 地 積 な ど を み る と 、 符 合 し な い 数 字 が 多 く 、 移 住 契 約 書 に あ る 「 一 戸 当 た り 三 万 坪 の 配 分 は 、 必 ず し も 当 初 か ら 実 施 さ れ た も の か ど う か 、は な は だ 疑 わ し い 面 も あ り ま す 。」( 中 川 他 一 九 九 四 : 一 五 四 ) と 指 摘 さ れ る 。 六 . 移 住 者 に つ い て ― 中 井 家 と 浦 家 の 例 ―   明 治 二 六 年 ( 一 八 九 三 ) 五 月 、 メ ム 地 域 に 十 津 川 の 人 々 が 移 住 を 開 始 し た 。当 初 の 移 住 計 画 が 百 戸 と 定 め ら れ て い た の で 、「 百 戸 団 体 」 と 呼 ば れ る 。   中 井 哲 太 郎 )11 ( は 、 十 津 川 村 か ら 新 十 津 川 に 移 住 し て か ら 、 メ ム 地 域 に 再 移 住 し た 。 中 井 家 )11 ( の 動 向 を 挙 げ る 。 中 井 は 、 明 治 二 二 年 ( 一 八 八 九 ) 一 〇 月 二 四 日 に 十 津 川 郷 を 出 発 し 、 第 二 回 目 の 一 行 と し て 北 海 道 に 向 か っ た 。 同 月 二 八 日 に 神 戸 港 か ら 相 模 丸 に 乗 船 し 、 同 月 三 〇 日 横 浜 港 に 着 港 、 一 一 月 四 日 に 函 館 港 に 着 港 し た 。 函 館 港 で 東 海 丸 に 乗 り 換 え 、 一 一 月 五 日 に 小 樽 港 に 着 い た 。 小 樽 か ら は 汽 車 で 市 来 知 、 奈 な 井 い 江 え な ど の 監 獄 に 仮 泊 し 、 一 〇 日 に 滝 川 兵 村 の 屯 田 兵 屋 に 四 家 族 と 一 戸 に 入 居 し 、 越 冬 し た 。   新 十 津 川 で の 新 開 拓 地 と 居 住 地 は 抽 選 に よ り 決 め ら れ た 。 明 治 二 三 年 ( 一 八 九 〇 ) 六 月 二 〇 日 、中 井 は 当 選 地 に 入 植 し た が 、当 た っ た 土 地 は 不 良 な 点 が 多 く 、 同 年 九 月 に 替 地 願 い を 出 し 、 許 可 さ れ 、 替 地 を し て い る 。 九 月 一 〇 日 に 替 地 に 家 を 建 て は じ め 、 一 四 日 に 上 棟 、 一 七 日 に 移 住 し た 。 簡 素 な 家 で 、 妻 ト ラ は 家 の 裏 に ス ゲ が あ る の に 目 を つ け 、 そ れ を 刈 っ て 干 し 、 冬 に は 草 履 、 草 鞋 を 造 り 、 一 足 二 銭 で 売 っ て 凌 い だ 。 し か し 、 替 地 の 地 味 も 悪 く 、 農 業 を や っ て い く に は 将 来 性 が な い よ う に 思 わ れ 、 一 度 替 え て 貰 っ た の で 再 度 と い う 訳 に も い か ず 、 明 治 二 六 年 ( 一 八 九 三 ) に メ ム 地 域 へ の 転 地 を 決 意 し た ( 田 村 一 九 八 三 : 二 四 ~ 二 七 ) と い う 。   中 井 は 「 新 十 津 川 か ら 明 治 二 十 六 年 百 戸 団 体 で 深 川 へ 来 た 時 は 、 一 軒 の 家 も 見 当 た ら な か っ た 。 メ ム 一 帯 は す べ て 原 野 で 雑 草 が 生 い 繁 り 、 馬 に 乗 っ て 歩 い て も 草 の 方 が 高 か っ た も の で あ る 。」 ( 田 村 一 九 八 三 : 二 九 ) と 回 想 す る 。   前 年 二 月 四 日 、 雨 竜 川 左 岸 一 帯 の 広 大 な 区 域 が 「 深 川 村 」 と し て 設 置 さ れ た )11 ( が 、 ほ と ん ど が 無 人 で あ っ た の で 、 新 十 津 川 村 戸 長 役 場 が 所 轄 し た 。 明 治 二 八 年 ( 一 八 九 五 ) 六 月 に 深 川 村 戸 長 役 場 が 一 いちゃん 已 の 屯 田 兵 舎 に 一 時 的 に 置 か れ 、 翌 月 に 戸 長 役 場 の 庁 舎 が 完 成 し た 。 庁 舎 の 周 り に は 、 商 店 も 開 か れ る よ う に な り 、 徐 々 に 街 の 様 相 を 呈 し て い っ た ( 深 川 市 役 所 編 一 九 七 七 : 三 五 六 )。   メ ム 地 域 に は 、 十 津 川 村 か ら 直 接 に 入 植 し た 移 住 者 も あ っ た 。 天 保 一 三 年 ( 一 八 四 三 ) 生 ま れ の 浦 うら 典 てん 相 )11 そう ( は 、 明 治 一 六 年 ( 一 八 八 三 ) に 家 督 を 音 吉 に 譲 っ た の ち 、 十 津 川 郷 連 合 村 会 議 員 に 就 い て い た )11 ( 。 浦 一 家 )11 ( は 、 明 治 二 七 年 ( 一 八 九 四 ) 四 月 三 日 に 十 津 川 郷 を 出 立 し 、 同 月 一 九 日 に 北 海 道 に 着 い た 。   典 相 の 義 理 の 息 子 音 吉 は 『 北 海 道 移 住 道 中 記 』 を 残 し て い る 。 移

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住 の 経 緯 に つ い て 「 明 治 二 十 五 年 、 十 津 川 郷 永 井 村 東 義 次 ノ 長 男 東 武 帰 郷 ノ 際 、 父 典 相 同 人 宅 ニ テ 面 会 ノ 際 、 同 氏 ノ 曰 ク 、 私 シ 新 十 津 川 ヨ リ 石 狩 川 上 流 約 七 八 里 ノ ケ 所 雨 竜 太 ト 申 ス 所 ニ テ 、 菊 亭 侯 爵 農 場 四 千 八 百 歩 引 受 ケ 、 新 旧 十 津 川 人 入 場 セ シ メ 開 墾 ニ 着 手 セ ン ト 欲 シ 、 只 今 募 集 中 ナ ル ガ 、 北 海 道 ニ 移 住 ハ 如 何 カ 迚 モ 、 北 海 道 ハ 将 来 此 ノ 西 川 ノ 奥 ニ 住 ム 様 ナ モ ノ デ ハ ナ イ ト 奨 励 セ ラ レ 、 大 ニ 感 ジ 、 其 レ デ ハ 私 共 一 家 引 払 ヒ 、 渡 道 ス ル ニ ヨ リ 居 住 地 二 戸 分 、 分 撰 定 セ ラ レ 置 レ タ シ ト 約 束 ナ ル 。」 ( 中 川 他 一 九 九 四 : 一 五 九 、 句 点 筆 者 ) と 記 し て お り 、 東 よ り の 勧 誘 で 北 海 道 移 住 を 決 断 し た こ と が 分 か る 。   北 海 道 ま で の 道 の り は 、 十 津 川 村 よ り 高 野 山 を 参 詣 、 大 阪 と 京 都 を 見 物 し 、 伊 勢 神 宮 へ 参 拝 し 、 東 京 で 皇 居 、 上 野 か ら 汽 車 で 青 森 へ 向 か い ( 一 六 日 午 後 )、 青 森 か ら 函 館 を 経 て 室 蘭 へ 上 陸 、 そ こ か ら 汽 車 で 空 知 太 に 着 き 、 滝 川 兵 村 に 入 植 し て い た 養 女 ヨ シ の 弟 峯 廻 春 蔵 の 兵 屋 に 一 週 間 ほ ど 滞 在 ( 図 2 参 照 )、 更 に 新 十 津 川 の 親 戚 の 前 岡 家 )11 ( に 滞 在 し 、 メ ム 地 域 へ の 入 植 を 待 っ た 。   結 局 、 約 束 し て い た 二 戸 分 の 土 地 は 入 れ ず 、 他 の 土 地 で は あ る が 典 相 夫 妻 が ま ず 入 植 し 、音 吉 夫 妻 と 子 ど も た ち は 学 校 の 都 合 も あ り 、 前 岡 家 に 留 ま っ た 。 典 相 夫 妻 は 、 前 岡 家 よ り 馬 耕 を 借 り 、 一 町 歩 の 畑 を 開 墾 し 、 初 年 は ト ウ モ ロ コ シ を 収 穫 し た 。 浦 一 家 全 員 が メ ム 地 域 に 入 植 し た の は 九 月 で 、 転 籍 を 終 え た の は 一 一 月 三 〇 日 で あ っ た ( 中 川 他 一 九 九 四 : 一 五 九 ~ 一 六 〇 )。   と こ ろ で 、移 住 契 約 書 ( 第 一 号 契 約 書 第 二 項 ) の 通 り に 開 拓 さ れ 、 菊 亭 侯 爵 に 対 し て 「 報 恩 」 が ど の よ う な 成 果 と し て 現 れ た か は 、 岡 田 論 文 ( 岡 田 二 〇 〇 五 ) に よ る と 、 深 川 市 農 協 に 残 る 「 百 戸 団 体 」 移 住 者 は 三 九 名 で あ り 、 そ の う ち 菊 亭 侯 爵 が 保 存 し 、 最 初 に 移 転 登 記 し た 「 百 戸 団 体 」 移 住 者 は 一 三 名 で あ っ た と い う 。 明 治 三 七 年 ( 一 九 〇 四 ) に は 、 菊 亭 農 場 は 負 債 整 理 の た め 、 札 幌 在 住 の 五 十 嵐 佐 市 、 五 十 嵐 久 助 に 百 戸 を 超 え て 土 地 を 売 却 し 、 菊 亭 農 場 の 所 有 地 は す べ て な く な っ た た め 、 移 住 契 約 書 の 内 容 は ほ と ん ど が 守 ら れ な か っ た と い え る 。 七 . 芽 生 神 社 の 創 立 由 縁 と 菊 水 小 学 校   メ ム 地 域 に は 芽 め 生 む 神 社 が 勧 請 さ れ て い る 。 由 緒 に は 「 移 民 者 は 遠 く 墳 墓 の 地 を 離 れ 、 親 戚 知 己 の 縁 な き 本 道 に 移 住 し た の で 、 厳 か な 神 社 の 存 否 は 感 化 上 又 は 、 土 着 の 精 神 を 養 う 上 か ら も 関 係 が 大 き い と 、 移 住 民 一 同 協 議 し 神 社 が 必 要 で あ る と 決 議 し た 。」 ( 中 田 他 一 九 九 三 : 二 七 ) と あ る 。   東 武 よ り 嘱 託 を 受 け た 浦 典 相 が 熊 野 本 宮 ま で 参 拝 、 明 治 二 七 年 ( 一 八 九 四 ) 三 月 二 七 日 に 祭 神 家 都 御 子 大 神 の 分 霊 を 拝 受 し 、 同 年 五 月 一 五 日 に 北 海 道 に 戻 る と 、浦 の 所 有 地 内 に 一 小 社 を 設 け た の が 、 「 芽 生 神 社 」 の 創 始 で あ る 。 す で に 明 治 二 三 年 ( 一 八 九 〇 ) に 、 新 十 津 川 に 十 津 川 村 よ り 玉 たま 置 き 神 社 を 勧 請 し て い た 経 緯 が あ る た め か 、 雨 竜 十 津 川 村 で は 、 母 村 の 神 社 が 分 霊 さ れ な か っ た が 、 玉 置 神 社 が 鎮 座 す る 玉 置 山 は 熊 野 三 山 の 奥 の 院 と も い わ れ 、 か つ て 熊 野 本 宮 に

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玉 置 神 社 の 遥 拝 所 が あ っ た と い わ れ る 。   そ の 後 、 明 治 三 〇 年 ( 一 八 九 七 ) 七 月 、 夜 盗 虫 が 大 発 生 し て 農 作 物 に 被 害 が 出 た こ と か ら 、 中 井 哲 太 郎 が 総 代 と な り 、 出 雲 大 社 へ 悪 虫 退 散 を 請 願 し た と こ ろ 、 出 雲 大 社 か ら 祭 神 大 国 主 大 神 の 分 霊 が 送 り 届 け ら れ 、 浦 が 預 か り 小 社 に 共 に 祀 っ て い る 。   明 治 三 二 年 ( 一 八 九 九 ) 一 一 月 一 八 日 、神 社 設 置 の 協 議 が な さ れ 、 村 の 中 央 に 祭 祀 の 場 所 と し て 社 殿 を 造 営 す る こ と が 決 定 す る 。 決 議 録 に は 、「 新 築 経 費 と し て 各 戸 地 主 よ り 拾 町 歩 に 対 し 金 拾 円 出 金 す べ き 事 」 と 記 載 さ れ て お り 、 三 七 名 の 調 印 が な さ れ た 。   翌 年 二 月 に 建 築 が 始 ま り 、 同 年 一 〇 月 二 日 に 社 殿 が 落 成 、 三 日 に 遷 宮 式 が 執 行 さ れ 、「 芽 生 神 社 」 と 奉 称 し た 。 こ の 時 、 明 治 三 〇 年 ( 一 八 九 七 ) に 移 住 し て き た 香 川 県 出 身 の 黒 住 教 教 師 玉 地 光 蔵 が 金 刀 比 羅 大 神 の 分 霊 を メ ム 地 域 に あ る 端 木 の 空 洞 を 祠 と し て 奉 遷 し て い た の で 合 祀 し て い る 。 明 治 三 七 年 ( 一 九 〇 四 ) 七 月 二 三 日 に は 、 北 海 道 長 官 に 神 社 創 立 を 出 願 し 、 同 年 八 月 五 日 に 無 格 社 と し て 許 可 さ れ 、 大 正 九 年 ( 一 九 二 〇 ) に は 村 社 に 列 し た 。   現 在 、 菊 亭 侯 爵 の 土 地 で あ っ た 二 二 二 三 坪 の 境 内 に は 、 明 治 三 三 年 ( 一 九 〇 〇 ) に 建 築 さ れ た 当 時 の 社 殿 が 現 存 し て お り 、 昭 和 四 六 年 ( 一 九 七 一 ) 五 月 に 深 川 市 有 形 文 化 財 に 指 定 さ れ た )11 ( 。 建 築 様 式 は 、 前 方 の 屋 根 が 長 く 反 り が あ る 「 流 れ 造 り 」 で あ る )1( ( 。 境 内 に は 、 創 立 当 時 の 樹 木 が 多 く 残 る 。( 写 真 2 )   宮 司 は 代 々 浦 家 が 継 ぎ 、 現 在 ( 平 成 二 八 年 〔 二 〇 一 六 〕) は 五 代 目 と な る 浦 隆 一 氏 が 禰 宜 を 務 め て い る )11 ( 。 今 は 十 津 川 出 身 者 で 芽 生 神 社 の 氏 子 は 三 戸 だ け だ と 伺 っ た 。例 大 祭 の 九 月 九 日 )11 ( に 神 輿 が 出 る が 、 氏 子 は 三 百 戸 く ら い で 、 後 述 す る が 、 氏 子 は 隣 村 の 深 川 神 社 周 辺 が 多 い と い う 。 本 家 本 元 は 小 さ く な る と お っ し ゃ ら れ た の が 印 象 的 で あ っ た 。   ま た 、 中 井 哲 太 郎 は 神 社 の 総 代 長 と な っ た 。 中 井 は 、 自 分 の 居 住 す る 集 落 を 「 私 た ち の 祖 先 で あ る 神 を 敬 い 天 業 に 従 う 」 と し て 、「 敬 神 」 と 名 付 け て お り ( 田 村 二 〇 〇 四 : 九 六 )、 信 心 深 か っ た 。   明 治 四 四 年 ( 一 九 一 一 ) か ら の 記 録 が あ る 芽 生 神 社 の 「 民 子 調 書 」 ( 中 田 他 一 九 九 四 : 三 〇 ) を み る と )11 ( 、 例 え ば 、 明 治 四 四 年 度 は 戸 数 一 五 〇 戸 ( 崇 敬 者 二 七 〇 人 )、 明 治 四 五 年 度 は 二 百 戸 ( 四 百 人 )、 大 正 二 年 度 は 三 百 戸 ( 六 百 人 )、 大 正 五 年 度 は 四 百 戸 ( 二 二 百 人 )、 大 正 九 年 度 に は 五 五 〇 戸 ( 二 七 五 〇 人 ) と 増 加 し て い る 。   そ も そ も 、「 百 戸 団 体 」 と し て 、 十 津 川 村 出 身 者 が メ ム 地 域 に ど の く ら い 移 住 し た の か 、 移 住 契 約 書 に は 七 七 名 の 署 名 が あ る が 、 実 際 に 入 植 し た 戸 数 は 資 料 に よ り 異 な り 、詳 し く 分 か っ て い な い )11 ( 。「 伝 え 聞 く と こ ろ に よ る と 、 契 約 は し た も の の 実 際 に は 来 な か っ た 人 、 来 て は み た も の の 湿 地 や 古 川 、 沼 等 に 驚 い て あ き ら め た 人 、 他 人 に 土 地 を 譲 っ て 金 に 替 え た 人 な ど さ ま ざ ま だ っ た と い う 。」 ( 西 尾 二 〇 〇 七 : 一 〇 ) と い わ れ て い る 。   明 治 四 二 年 ( 一 九 〇 九 ) 六 月 に 芽 生 神 社 の 境 内 に 「 大 和 十 津 川 百 戸 団 体 開 拓 紀 念 碑 」 が 建 立 さ れ た が 、 開 拓 畧 誌 と 共 に 碑 に 記 載 さ れ

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②芽生神社 創建当時の社殿を護る拝殿 ③拝殿には、創建当時の本殿が保存されている。 ④浦典相が分霊してきた芽生神社の「御祭神」 ⑤ 芽生神社の境内にある「大和十津川百戸  団体開拓記念碑」(明治 42 年建立) (2011 年 8 月 12 日、著者撮影) ①芽生神社表参道 写真2 現在の芽生神社(深川市深川町字メム 6 号線本道)

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て い る 移 住 者 氏 名 は 六 五 名 で あ っ た 。 い ず れ に せ よ 、 メ ム 地 域 に は 十 津 川 郷 出 身 以 外 の 移 住 者 も 存 在 し )11 ( 、 他 地 域 の 移 住 者 も 芽 生 神 社 の 氏 子 と な っ て い っ た の で あ る が 、 現 在 は 隣 村 の 深 川 神 社 の 氏 子 数 の 方 が 多 い )11 ( 。   と こ ろ で 、 メ ム 地 域 に 入 植 し た 十 津 川 の 人 々 が 故 郷 へ の 帰 属 意 識 を 表 す も の と し て 、 学 校 の 設 立 が あ る 。 一 般 的 に は 開 拓 民 が 増 加 す る に つ れ 簡 素 な 教 育 施 設 を つ く り 、 そ れ を も と に 尋 常 小 学 校 へ 発 展 す る が ( 中 川 他 一 九 九 四 : 六 一 五 )、 「 百 戸 団 体 」 の 入 植 が 完 了 す る 明 治 二 七 年 ( 一 八 九 四 ) 冬 に は 、 移 住 者 か ら 子 弟 の 教 育 の 必 要 性 が 話 題 と な り 、 学 校 を 建 て よ う と 東 武 、 中 井 哲 太 郎 、 浦 典 相 、 上 杉 米 蔵 ら 八 名 が 発 起 人 と な り 、 入 植 違 反 で 没 収 し て い た 無 人 の 小 屋 と 十 町 歩 を 校 地 に 利 用 し 、 翌 年 春 に 小 屋 を 三 間 と 四 間 の 校 舎 に 改 造 さ れ た 。   校 名 は 菊 亭 侯 爵 の 「 菊 」 と 故 郷 の 十 津 川 村 の 「 川 」 を メ ム す な わ ち 湧 水 の 「 水 」 に か け て 、「 菊 水 小 学 校 」 と 協 議 さ れ た 。 十 津 川 郷 士 は 楠 木 正 成 と も 縁 が あ り 、 楠 木 家 の 定 紋 が 「 菊 水 」 )11 ( で あ り 、 衆 議 一 致 し た と い う 。 開 校 さ れ た 「 菊 水 小 学 校 」 )11 ( は 、 中 井 哲 太 郎 を 校 主 と す る 私 立 で 、 児 童 は 男 子 一 八 名 、 女 子 七 名 の 二 五 人 で あ っ た 。   明 治 二 九 年 ( 一 八 九 六 ) に は 児 童 数 が 増 加 し 、 寄 付 金 を 募 り 校 舎 を 増 や し 、 翌 年 五 月 に 北 海 道 庁 よ り 「 私 立 菊 水 小 学 校 」 の 認 可 を 得 た )11 ( 。 私 立 で 維 持 し よ う と し た の は 、 十 津 川 村 の 私 立 学 校 「 文 武 館 」 を 意 識 し そ の 心 意 気 を 示 そ う と し た ( 中 川 他 一 九 九 四 : 六 一 九 ) と い う 。   し か し 、 明 治 三 三 年 ( 一 九 〇 〇 ) 四 月 よ り 、「 私 立 学 校 令 」 が 公 布 さ れ 国 の 監 督 が 強 化 、 公 立 の 「 深 川 村 立 菊 水 尋 常 小 学 校 」 と な り 、 校 長 も 交 代 し た 。 そ の 後 、 中 井 の 日 記 )1( ( に よ る と 、 昭 和 一 〇 年 ( 一 九 三 五 )、 大 楠 公 ( 楠 木 正 成 ) 六 百 年 祭 の 際 、 中 井 が 菊 水 小 学 校 で 講 演 を し て い る )11 ( 。   ま た 、 大 正 期 に 中 井 が 中 心 と な り 「 十 津 川 郷 人 会 」 が 結 成 さ れ 、 大 正 一 二 年 ( 一 九 二 三 ) に 『 十 津 川 郷 水 害 ニ 付 北 海 道 移 住 誌 』 が ま と め ら れ て い る 。 緒 言 に 「 頃 日 深 川 町 在 住 郷 人 会 ヲ 組 織 シ 、 毎 年 一 同 相 会 シ テ 往 事 ヲ 追 憶 シ 、 旧 交 シ 温 ム ル 事 ト ナ レ 。 蓋 シ 故 ナ キ ニ ア ラ ザ ル ナ リ 。 然 リ ト 雖 モ 、 去 ル モ ノ ハ 日 々 ニ 疎 シ ト カ ヤ 、 此 会 亦 年 ヲ 重 ヌ ル ニ 随 ヒ 、由 緒 散 失 煙 滅 シ テ 折 角 ノ 趣 旨 モ 次 第 ニ 薄 レ 行 キ テ 、 恰 モ 年 中 行 事 ノ 慣 例 ノ 如 ク ナ ラ ン モ 測 リ 難 シ 。 茲 ニ 之 ヲ 憂 フ ル ノ 余 リ 一 小 冊 子 ヲ 編 ミ 、 汎 ク 会 員 諸 士 ニ 頒 チ 永 ク 之 レ ヲ 子 孫 ニ 伝 ヘ ン ト 云 爾 」( 十 津 川 郷 人 会 一 九 二 三 ) と あ り 、十 津 川 の 人 々 の 離 村 が 多 く 、 歴 史 を 後 世 に 伝 え よ う と し た 事 実 が 残 さ れ て い た 。   そ の 後 、 菊 水 小 学 校 は 、 昭 和 一 九 年 ( 一 九 四 四 ) の 開 校 五 〇 周 年 に は 児 童 数 五 百 人 を 超 え た が 、 昭 和 三 〇 年 代 の 後 半 よ り 児 童 数 は 減 少 し 、 昭 和 四 九 年 ( 一 九 七 四 ) の 開 校 八 〇 周 年 に は 児 童 数 は 百 人 を 割 り 、 平 成 五 年 ( 一 九 九 三 ) に 深 川 小 学 校 と 統 合 さ れ 、 九 八 年 の 歴 史 を 終 え て し ま っ た ( 中 川 他 一 九 九 四 : 六 一 四 ~ 六 二 〇 )。

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八 . 帰 属 意 識 と 文 化 変 容 ― 結 び に 代 え て ―   十 津 川 の 人 々 は 、 明 治 二 二 年 ( 一 八 八 八 ) の 大 雨 に よ る 天 災 に よ り 北 海 道 の 三 地 域 に 移 住 、 入 植 し た 。 本 稿 で 取 り 上 げ た ふ た つ の 地 域 の 神 社 の 創 立 由 縁 を み る と 、 滝 川 市 ( 滝 川 兵 村 ) に 創 立 し た 滝 川 神 社 の 祭 神 か ら は 、 故 郷 へ の 帰 属 意 識 を 伺 う こ と は で き な か っ た 。 深 川 市 ( 雨 竜 十 津 川 村 ) に 創 立 し た 芽 生 神 社 の 祭 神 か ら は 、 母 村 よ り の 直 接 の 分 霊 は な か っ た も の の 、 故 郷 に ほ ど 近 い 熊 野 本 宮 よ り の 祭 神 が 勧 請 さ れ て い た 。 ま た 、 芽 生 神 社 の 境 内 に は 、 百 戸 団 体 の 入 植 を 紀 念 す る 碑 が 保 存 さ れ 、 代 々 の 宮 司 は 現 在 も 十 津 川 出 身 の 入 植 者 の 子 孫 が 務 め て い た 。 メ ム 地 域 へ の 移 住 契 約 書( 第 一 号 ~ 第 三 号 ) に は 、 新 十 津 川 の 「 移 民 誓 約 書 」 の よ う に 「 勤 王 の 由 緒 」 は 記 さ れ な か っ た が 、 教 育 熱 心 な 十 津 川 の 人 々 は 、 早 々 に 故 郷 の 文 武 館 の よ う な 学 校 の 設 立 を 求 め 、ま た 大 正 期 に な り 十 津 川 郷 人 会 を 組 織 し た 。   泉 靖 一 氏 は 、 一 九 五 〇 年 代 に 十 津 川 村 か ら 主 に 新 十 津 川 へ の 移 住 者 を 詳 細 に 調 査 し て お り )11 ( 、 論 文 に は 、 雨 竜 十 津 川 村 に 入 植 し た 人 々 の デ ー タ も 度 々 登 場 す る 。 そ の な か で 、 日 本 の 内 地 の 農 村 社 会 の ひ と つ の 特 徴 は 、 地 縁 性 と 血 縁 性 と が あ る 限 ら れ た 広 さ の 土 地 に 重 複 す る こ と で 、一 つ の 緊 張 し た 全 体 像 を 保 持 し て き た と 述 べ た う え で 、 北 海 道 の 初 期 農 村 に つ い て 「 同 一 地 域 内 に 単 独 家 族 や 小 血 縁 集 団 が 雑 然 と 居 住 し て 、 そ れ ぞ れ の 出 身 地 の 生 活 諸 様 式 を 保 持 し つ つ 、 一 つ の 行 政 的 末 端 を 構 成 し て い た 。 新 十 津 川 村 は 、 比 較 的 大 規 模 な 集 団 と し て 入 植 し 、 当 初 は 母 村 の 分 村 の よ う な 統 一 性 を 保 持 し て い た が 、 現 在 で は 、 若 干 の 母 村 の 香 り は 残 っ て い る と し て も 、 一 般 の 北 海 道 農 村 と し て の 特 色 の な か に 平 均 化 さ れ て い る 。」 (泉 一 九 七 二 : 二 九 一 ~ 二 九 二 ) と 分 析 し て い る 。   あ る 文 化 = 十 津 川 村 が 、 他 の 文 化 = 北 海 道 と 接 触 し 、 気 候 、 地 形 、 耕 地 面 積 の 規 模 、「 山 村 」 か ら 「 農 村 」 へ 生 業 の 異 な る 新 し い 地 域 を 形 成 し た 。 十 津 川 の 人 々 は 、 近 代 以 前 か ら 「 勤 王 村 で あ る 」 と い う 認 識 ・ 意 思 の も と 、 精 神 面 が 支 え ら れ て い た )11 ( 。 そ の 組 織 集 団 が 新 た な 地 域 を 求 め 、 北 海 道 に 移 住 し た と き 、 個 人 の 差 は あ る も の の 、 各 人 が 強 固 な 帰 属 意 識 を 持 ち 込 み 、 母 村 の よ う な 地 域 の 創 出 を 目 指 し た 。   十 津 川 の 人 々 が 入 植 し た 三 つ の 移 住 地 域 を 比 較 す る と 、 ① 新 十 津 川 町 に 入 植 し た 十 津 川 の 人 々 は 、 母 村 の 玉 置 神 社 を 分 霊 し 、「 移 民 誓 約 書 」 に 誓 い 、 文 化 の 継 承 を 求 め た 事 実 が あ っ た が 、 ② 滝 川 市 の 滝 川 兵 村 に 入 植 し た 十 津 川 の 人 々 は 、 目 立 っ て 母 村 へ の 帰 属 意 識 を 刻 ん だ 事 実 は な か っ た 。 ③ 深 川 市 の 雨 竜 十 津 川 村 に 入 植 し た 十 津 川 の 人 々 は 、 芽 生 神 社 の 創 立 や 菊 水 小 学 校 の 設 立 な ど か ら 、 新 十 津 川 町 よ り は 積 極 的 で は な い も の の 、 文 化 の 継 承 を 求 め た 事 実 は 存 在 し て い た 。   そ の 後 、 ど の 地 域 も 母 村 と は 異 な る 生 業 へ の 順 応 も し く は 不 適 合 に よ り 移 住 者 の 変 化 、 他 府 県 の 移 住 者 と の 接 触 な ど が あ り 、( 帰 属 意 識 は 一 旦 捨 て 置 か れ て し ま っ た か の よ う に み え た が )、 現 在 で は ① 新 十 津 川 町 は 特 に 母 村 と の 交 流 が さ か ん で 、「 現 代 の 新 十 津 川

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町 」 と い う 「 地 域 」 そ の も の が 母 村 に 帰 属 意 識 を 持 つ よ う に 文 化 変 容 し た が 、 ② 滝 川 市 で は ( 屯 田 兵 の 出 身 地 が 多 い た め か ) 母 村 と 自 治 体 単 位 で の 交 流 は さ れ ず 、 ③ 深 川 市 で は 芽 生 神 社 の 周 辺 に 母 村 の 面 影 を み る こ と が 出 来 た 。 移 住 前 と 移 住 当 初 に は 士 気 を 挙 げ る う え で 、 同 じ よ う な 帰 属 意 識 を 保 持 し て い た 十 津 川 の 人 々 が 入 植 し た 地 域 は 、 移 住 し た 先 に よ り 差 異 が 生 じ た 。「 十 津 川 」 と い う 地 名 を 受 け 継 い だ 地 域 が 母 村 へ の 帰 属 意 識 が 強 く 残 っ て い る 傾 向 は 予 想 で き る が 、 新 十 津 川 町 と 比 較 し 少 人 数 の 入 植 で あ っ た 深 川 市 で は 、 母 村 へ の 帰 属 意 識 は 、 あ る 時 期 ま で は 強 調 さ れ て い た が 、 現 在 は 個 人 で の 継 承 ・ 保 持 に 任 さ れ て お り 、 そ の 中 で 歴 史 を 伝 え て い こ う と し て い る の が 芽 生 神 社 の 役 割 と な っ て い た 。   こ こ で 、 ふ た つ の 文 章 を 紹 介 す る 。 ひ と つ は 、 新 十 津 川 郷 土 史 研 究 会 が 、 昭 和 六 三 年 度 に 新 十 津 川 町 教 育 委 員 会 よ り 「 新 十 津 川 の む か し 話 」 の 収 集 委 託 を 受 け て 、『 ト ツ ク 』 六 号 に 所 収 さ れ た 「 田 中 家 炉 辺 夜 噺 」 で 、 明 治 二 〇 年 ( 一 八 八 七 ) 十 津 川 生 ま れ の 田 中 由 忠 に よ る 「 開 拓 地 の 食 べ も の の 話 」 の 一 部 で あ る 。 ふ た つ め は 、 前 掲 し た 『 深 川 ・ メ ム 開 拓 の 祖 中 井 哲 太 郎 伝 』 を ま と め た 田 村 清 太 郎 氏 に よ る 論 考 の 一 部 で あ る 。   「 は じ め の 二 年 は 政 府 が く れ た 。 開 村 記 念 日 に 歌 う 〔 土 地 や 農 具 の う え の み か 二 年 の 糧 ま で 賜 り し 恩 賜 の 村 と も い う べ き か 〕 の 唄 の 通 り じ ゃ 。 こ れ は 、 維 新 の 時 、 村 の 人 た ち が 京 都 の 御 所 を 守 っ た 。 北 越 戦 争 に も 出 た し 、そ の ほ か い ろ い ろ と 天 皇 さ ん に つ く し た の で 、 移 住 の 時 は 天 皇 さ ん は じ め 政 府 で は 土 地 、 金 、 食 糧 な ど を く れ た 。 移 住 後 な ん ど も 天 皇 さ ん の 侍 従 が お い で に な っ て 村 の 様 子 を 見 て 行 か れ た 。 食 糧 の こ と を 救 助 米 と い っ て た な 。 二 年 た っ て 救 助 米 が 切 れ て か ら は 取 れ た 裸 麦 、 稲 黍 、 玉 葱 黍 、 馬 鈴 薯 、 南 瓜 な ど を 食 べ た 。 米 は 正 月 か 盆 、 そ れ に 病 人 し か 食 べ な か っ た し 、 正 月 の 餅 は 主 に 稲 黍 か 粟 な ど を 使 い 糯 米 は 少 し し か 入 れ な か っ た 。・ ・ ・ ・ ・ も っ と も 大 和 は 山 国 で 日 本 の 三 大 秘 境 の 一 つ に 数 え ら れ る よ う な 処 で あ っ た の で 米 な ど あ ろ う は ず も な く 、 麦 、 粟 、 稗 な ど が 主 食 だ っ た 。 病 気 で 死 ん だ 時 の 悔 や み の 言 葉 に 〔 米 養 生 も か な い ま せ ず 〕 と 挨 拶 し た く ら い の 土 地 で だ っ た の で 、 米 を 食 べ れ な く て も そ れ ほ ど 辛 い と 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 思 わ な か っ た 。 4 4 4 4 4 4 」 ( 田 中 一 九 八 九 : 二 二 ~ 二 三 、 傍 点 筆 者 )   「 暖 国 に 育 っ た 人 達 が 北 国 の し か も 未 開 の 土 地 を 開 拓 す る と い う こ と は そ の 艱 難 辛 苦 と い う も の が 、 言 語 に 絶 し た で あ ろ う こ と は 想 像 を 超 え た も の で あ っ た ろ う 。 し か し 苦 労 や 悪 条 件 だ け が あ っ た 訳 で は な い 。 予 想 も し な か っ た 明 る く て 豊 か な 面 も あ っ た の で あ る 。 そ も そ も 故 郷 の 十 津 川 村 は 山 間 の 僻 地 で 、 平 野 と 言 え ば 大 和 盆 地 よ り 知 ら な か っ た 人 々 に と っ て 、 石 狩 河 畔 の 広 茫 た る 大 平 原 は 、 見 る か ら に 驚 き で あ り 、 昻 奮 さ え し た が 、 さ て そ れ が す べ て 彼 ら の 開 拓 に 委 ね ら れ て い る の だ ろ う と 思 う と 、 故 郷 の あ の せ せ っ こ ま し い 山 間 の 農 耕 地 と 思 い く ら べ て 、 こ れ こ そ 真 に 禍 を 転 じ て 福 と し た 驚 喜

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し た 一 面 も あ っ た 筈 で あ る 。 国 木 田 独 歩 の 『 空 知 川 の 岸 辺 』 を 読 む と 、 独 歩 は 原 生 林 を 恐 ろ し い も の と お び え て い る が 、 十 津 川 出 身 の 4 4 4 4 4 4 移 住 者 た ち に と っ て 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 こ の 原 生 林 は 頼 も し い 資 源 で あ り 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 無 限 の 財 4 4 4 4 宝 と し て 眼 に 映 じ た 4 4 4 4 4 4 4 4 4 。彼 ら は も と も と 伐 木 を 渡 世 と し て 、木 材 を 打 っ て 生 活 し た 人 人 で あ っ た か ら 、 伐 木 、 運 搬 、 流 送 な ど は お 手 の も の で あ る 。 期 せ ず し て 無 尽 の 宝 庫 に 飛 び 込 ん で き 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 た の で あ る 。」 ( 田 村 一 九 八 三 : 二 五 、 傍 点 筆 者 )   こ れ ら か ら は 、 北 海 道 の 広 大 な 原 生 林 と 、 そ こ か ら 生 み 出 さ れ る 耕 地 面 積 に 希 望 を も っ て 移 住 し 、入 植 地 に 残 留 し た 十 津 川 の 人 々 は 、 そ の 後 の 開 墾 や 貧 困 の 生 活 を 母 村 と 比 較 し た 結 果 、 米 が 食 べ れ な く て も 苦 労 と は 思 わ ず 、「 頼 も し い 資 源 ・ 無 限 の 財 宝 」 と 表 現 さ れ た よ う に 、 置 か れ た 境 遇 を 悲 観 し て い な か っ た こ と が 伺 え る 。   明 治 維 新 と な り 、 政 府 は 中 央 集 権 国 家 を 成 立 さ せ 、 身 分 制 を 廃 止 し 、 廃 刀 令 、 徴 兵 令 ( 北 海 道 に は 明 治 二 九 年 〔 一 八 九 六 〕 に 施 行 )、 地 租 改 正 、 学 制 な ど の 改 革 を 行 い 、 近 代 的 な 国 民 国 家 の 形 成 を 目 指 し た 。そ の よ う な 時 代 背 景 の な か で 、天 災 に 見 舞 わ れ た 十 津 川 の 人 々 が 「 北 門 の 鎖 さ 鑰 やく の 重 任 に よ る べ き は 、 十 津 川 人 祖 先 以 来 忠 君 愛 国 の 精 神 に 協 ふ も の 」( 東 一 九 一 一 : 二 ) と い う 精 神 で 、 大 日 本 帝 国 の 臣 民 と し て 、 故 郷 か ら 遠 く 離 れ た 北 海 道 へ 「 移 住 」 す る 動 機 と な っ た の が 、 十 津 川 へ の 帰 属 意 識 そ の も の で 、 そ の 後 の 生 活 を 乗 り 越 え る エ ネ ル ギ ー と な っ た の も 、十 津 川 へ の 帰 属 意 識 で あ っ た と 考 え る 。 つ ま り 、 十 津 川 へ の 帰 属 意 識 は 、 他 の 文 化 = 北 海 道 へ 順 応 さ せ る こ と へ の 一 助 と も な っ た と い え る の で は な い だ ろ う か 。 十 津 川 の 人 々 の 入 植 地 ( 特 に 新 十 津 川 町 、 深 川 市 ) は 、 単 純 に 北 海 道 農 村 へ と 平 均 化 さ れ て い く 道 を 辿 っ た の で は な く 、 母 村 よ り は 生 活 が 豊 か に な る は ず と い っ た 葛 藤 と 希 望 が あ っ た 。 十 津 川 の 人 々 は 、「 勤 王 村 で あ る 」 と い う 母 村 へ の 誇 り 高 い 帰 属 意 識 を 持 ち な が ら 、「 母 村 よ り は 生 計 を 立 て ら れ る は ず 」 と い っ た 母 村 へ の 屈 折 し た 帰 属 意 識 へ と 文 化 変 容 さ せ 、 開 拓 に 挑 ん だ の で あ る 。 そ し て 、 現 代 で は 母 村 へ の 帰 属 意 識 は 「 地 域 」 ま た は 「 神 社 」 と い う 集 合 で つ な が り を 保 持 し 、 地 域 振 興 を 図 る 契 機 へ と 文 化 変 容 さ せ た の で あ る 。   最 後 に 、 筆 者 は 、 前 稿 ( 1 ) に て 、 東 日 本 大 震 災 の 発 生 に 伴 い 、 住 み 慣 れ た 場 所 か ら 「 移 住 」 し 、 新 天 地 で の 生 活 を 余 儀 な く さ れ た 人 々 の 「 移 住 」 に 伴 う 故 郷 へ の 帰 属 意 識 の 必 要 の 有 無 を 提 示 す る と 述 べ て い た 。 十 津 川 の 人 々 の 例 を み る と 、「 移 住 」 し た 後 、 現 在 に お い て 物 理 的 に 先 祖 の 故 郷 と つ な が る も の の ひ と つ が 神 社 の 存 在 で 、 先 祖 を 偲 ぶ 窓 口 の 役 割 を 果 た し て い る と 感 じ た 。 す な わ ち 、 移 住 者 の 生 活 が 安 定 し 、い つ か 必 ず 故 郷 を 偲 ぶ 時 が く る の を 考 え る と 、 帰 属 意 識 は 人 間 が 生 き て い く 限 り 、 世 代 を 超 え て い く も の だ と い う こ と を 確 信 し た 。 こ れ は 、後 世 の た め に 、震 災 関 連 の 慰 霊 碑 や モ ニ ュ メ ン ト 、 地 名 な ど 、 目 を 背 け た く な る よ う な 記 録 で さ え も 、 積 極 的 に 残 す べ き だ と い う 提 案 と な る 。 そ こ に 、 歴 史 、 地 理 空 間 か ら 現 代 を 考 え る 社 会 的 意 義 が 見 出 さ れ る の で あ る 。

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  今 後 の 課 題 と し て 、近 代 国 家 形 成 期 に 北 海 道 の 他 の 地 域 ( 例 え ば 、 伊 達 邦 直 の 当 別 移 住 、 伊 達 邦 成 の 有 珠 郡 移 住 な ど ) に 移 住 し た 入 植 者 と 神 社 の 関 係 を 調 査 し 、 入 植 者 の 帰 属 意 識 の 変 遷 と そ の 後 を 調 査 し 、 更 に 比 較 を 続 け て い き た い 。 ま た 、 十 津 川 の 人 々 は 、 昭 和 一 五 年 ( 一 九 四 〇 )、 満 州 十 津 川 分 村 に 四 百 名 近 く が 入 植 し 、 開 墾 予 定 地 の 丘 を 玉 置 山 と 名 付 け 、 玉 置 神 社 を 分 霊 し て い る 。 将 来 的 に 十 津 川 の 人 々 の 満 州 開 拓 団 も 調 査 し た い と 思 っ て い る 。 [ 付 記 ]   本 稿 は 「 明 治 期 の 十 津 川 水 害 に よ る 三 地 域 へ の 北 海 道 移 住 の 比 較 ― 帰 属 意 識 と 文 化 変 容 ― 」 の 第 三 論 文 に 該 当 す る 。 第 一 論 文 は 奈 良 県 吉 野 郡 十 津 川 村 に 係 る 研 究 史 、 歴 史 背 景 、 帰 属 意 識 の 所 在 に つ い て 『 民 俗 と 歴 史 』 第 三 〇 号 に 、 第 二 論 文 は 北 海 道 新 十 津 川 町 を 事 例 に 『 民 俗 と 歴 史 』 第 三 一 号 に 掲 載 し た 。   ま た 、 本 論 文 を 作 成 す る に あ た り 、 玉 置 神 社 官 司 の 榊 木 雅 一 氏 、 新 十 津 川 神 社 官 司 の 山 形 秀 晴 氏 、 新 十 津 川 町 役 場 教 育 委 員 会 、 滝 川 兵 村 屯 田 兵 子 孫 の 菅 原 武 男 氏 、 芽 生 神 社 禰 宜 の 浦 隆 一 氏 に 大 変 お 世 話 に な っ た 。 記 し て 御 礼 申 し 上 げ ま す 。 [ 註 ] ( 1 ) ① 新 十 津 川 町 に お け る 新 十 津 川 神 社 に つ い て は 、 前 稿 ( 2 ) に て 分 析 し た (『 民 俗 と 歴 史 』 第 三 一 号 、 二 〇 一 三 年 、 民 俗 と 歴 史 の 会 )。 ( 2 ) 平 成 二 九 年 ( 二 〇 一 七 ) 一 月 現 在 の 人 口 は 四 一 二 四 一 人 ( 二 一 五 二 四 世 帯 ) で あ る 。 ( 3 ) 上 川 道 路 は 、 樺 かば 戸 と 集 治 監 の 囚 人 を 使 役 し 、 九 〇 日 間 で 幅 二 メ ー ト ル の 道 路 を 仮 開 通 さ せ た 。 本 工 事 は 、明 治 二 〇 年( 一 八 八 七 ) 六 月 か ら 樺 戸 ・ 空 そら 知 ち 集 治 監 の 囚 人 を 使 役 し 、 幅 五 ・ 五 メ ー ト ル 、 両 側 に 排 水 溝 を 設 置 す る 道 路 が 建 設 さ れ た 。 現 在 の 国 道 一 二 号 線 で あ る 。 ( 4 ) 屯 田 兵 の 入 植 地 は 、 石 狩 川 流 域 の 都 市 、 ま た は 集 落 景 観 の 発 展 と 一 致 し て い る 。( 屯 田 兵 村 の 分 布 が )「 も っ と も 密 な の は 中 央 凹 地 帯 、 及 び 札 幌 ― 勇 払 低 地 帯 で あ り 、 現 在 の 人 口 周 密 地 帯 と ほ ぼ 一 致 し て い る 。」 ( 谷 岡 一 九 六 三 : 二 一 五 ) と い う 指 摘 の 通 り 、 明 治 期 に 形 成 さ れ た 屯 田 兵 村 を 基 盤 と し て そ の 後 の 都 市 形 成 が 進 め ら れ た 。 ( 5 ) 生 没 年 は 天 保 八 年 ( 一 八 三 七 ) ~ 明 治 三 七 年 ( 一 九 〇 四 )。 薩 摩 藩 出 身 。 明 治 一 八 年 ( 一 八 八 五 ) 五 月 に 陸 軍 少 将 、 屯 田 兵 副 本 部 長 と な り 、 明 治 二 一 年 ( 一 八 八 八 ) 六 月 よ り 二 代 目 の 北 海 道 庁 長 官 に 就 任 し た 。 ( 6 ) 永 山 武 四 郎 は 、 屯 田 兵 村 適 地 調 査 の た め 幾 年 も 費 や し 全 道 を く ま な く 歩 い て い る 。 こ れ 以 前 、 明 治 一 九 年 ( 一 八 八 六 ) に も 調 査 に 出 か け て お り 、 随 行 し た 栃 内 元 吉 が 『 明 治 十 九 年 屯 田 兵 本 部 長 永 山 将 軍 北 海 全 道 巡 回 日 記 』( 北 海 道 大 学 付 属 図 書

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館 北 方 資 料 室 所 蔵 ) を 残 し 、 札 幌 か ら 手 塩 方 面 へ の 調 査 の 詳 細 に つ い て 報 告 し て い る 。 ( 7 ) 明 治 二 二 年 ( 一 八 八 九 ) 一 〇 月 中 に 移 住 し た 第 一 回 目 の 一 行 は 七 六 六 名 、 第 二 回 目 の 一 行 は 八 一 二 名 、 第 三 回 目 の 一 行 は 九 一 二 名 。 そ の 後 、 翌 年 七 月 に 、 第 四 回 目 の 一 七 七 名 の 移 住 が あ っ た 。 総 計 六 四 〇 戸 、二 六 六 七 名 が 北 海 道 へ 移 住 し た( 「 十 津 川 村 歴 史 民 俗 資 料 館 資 料 」) 。 ( 8 ) こ の 後 、 明 治 二 四 年 ( 一 八 九 一 ) の 屯 田 兵 配 備 表 改 正 に よ り 第 二 大 隊 の 所 属 と な り 、 本 部 は 滝 川 に お か れ 、 第 二 大 隊 の 第 一 中 隊 ・ 第 二 中 隊 は 札 幌 地 域 の 江 別 兵 村 、 第 三 中 隊 ・ 第 四 中 隊 が 滝 川 兵 村 と な っ た 。 ( 9 ) 平 成 一 五 年 ( 二 〇 〇 三 ) に 北 海 道 屯 田 倶 楽 部 が 編 集 ・ 発 行 し た 全 道 三 七 屯 田 兵 村 の 入 植 者 を 名 簿 と し て ま と め た 書 籍 で あ る 。 こ れ ま で 不 詳 で あ っ た 入 植 者 が 再 調 査 さ れ 、 屯 田 兵 の 出 身 地 、 生 年 月 日 、 入 植 年 次 、 系 譜 な ど が 明 晰 に さ れ た 。 だ が 、 屯 田 兵 村 に よ り 記 録 に 不 確 か な 点 も あ り 、 入 植 者 の 氏 名 だ け に 留 ま っ て い る 記 録 も あ る 。 本 稿 に お け る 入 植 者 の 出 身 地 に 関 す る 調 査 は 、 こ の 書 籍 に よ る も の で あ る 。 ( 10) 大 正 一 二 年 ( 一 九 二 三 ) 生 ま れ 。 明 治 二 三 年 ( 一 八 九 〇 ) 七 月 に 山 形 県 か ら 入 植 し た 菅 原 庄 次 郎 の 孫 で あ る 。 平 成 一 七 年 ( 二 〇 〇 五 ) 五 月 一 七 日 の 聞 き 取 り 。 ( 11) 屯 田 兵 名 簿 』 に あ る 滝 川 兵 村 の 屯 田 兵 に は 風 穴 姓 は な い 。 結 婚 し て か ら の 姓 な の か 、 旧 姓 は 何 で あ っ た の か 、 い ず れ も 記 録 が な い た め 不 明 で あ る 。 尚 、 風 穴 カ ン 氏 よ り の 聞 き 取 り は 、 滝 川 の 開 基 八 十 年 記 念 で 滝 川 市 郷 土 史 研 究 会 に よ り 作 成 さ れ た 『 わ が ふ る さ と 』 に よ る 。 ( 12) 屯 田 兵 村 の 兵 屋 配 置 が 、 明 治 初 期 は 「 密 居 制 」、 明 治 二 〇 年 代 は 「 疎 居 制 」 に な っ た 理 由 は 、 屯 田 兵 設 置 の 目 的 が 警 備 重 視 か ら 開 拓 重 視 へ 移 行 し て い っ た た め で あ る ( 増 田 一 九 六 二 : 九 二 ~ 九 三 ) と 指 摘 さ れ て い る 。「 密 居 制 」 は 、 隣 人 関 係 で は 極 め て 融 和 が と れ た が 、 耕 地 が 遠 い た め か 通 い 作 上 に 時 間 的 ・ 労 力 的 に 相 当 無 駄 が 多 か っ た 。「 疎 居 制 」 は 、 一 七 八 五 年 以 降 に ア メ リ カ で 実 行 さ れ た タ ウ ン シ ッ プ 制 に 倣 っ た と い わ れ る が 、 通 い 作 上 は 有 利 だ が 、 対 人 関 係 上 不 利 で 兵 落 の 融 和 が な か な か と れ ず 、 且 つ そ れ に よ る 協 力 が 弱 く 、 ひ い で は 生 産 意 欲 の 低 下 を 促 す と さ れ た 。 明 治 三 〇 年 代 に な る と 、 短 冊 型 の 土 地 割 で 兵 屋 は 任 意 の 位 置 を 決 め る と い う と い う 半 密 居 制 、 言 い 換 え れ ば 半 疎 居 制 の 兵 屋 配 置 が な さ れ た 。 ( 13) 野 崎 貞 次 は 、 明 治 一 九 年 ( 一 八 八 六 ) に 入 植 が 完 了 し た 札 幌 地 域 に お け る 江 別 兵 村 に お い て 、 明 治 二 三 年 ( 一 八 九 〇 ) に 勧 請 さ れ た 江 別 神 社 の 前 身 と な る 遙 拝 所 の 発 起 人 に も 名 前 を 連 ね て い る ( 遠 藤 二 〇 〇 六 : 三 八 )。 大 隊 本 部 が 江 別 兵 村 か ら 滝 川 兵 村 に 移 動 し た た め 、 野 崎 は 滝 川 兵 村 に 転 勤 と な っ た 。 ( 14) 屯 田 兵 名 簿 』 に 残 る 佐 伯 姓 は 「 佐 伯 寅 吉 」 だ け で 、 い ず れ の

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記 述 違 い で あ る の か は 、 明 確 に で き な か っ た 。 ( 15) そ の 後 、 大 正 七 年 ( 一 九 一 八 ) に 村 社 、 昭 和 三 年 ( 一 九 二 八 ) に 郷 社 、 昭 和 一 一 年 ( 一 九 三 六 ) に 県 社 に 列 せ ら れ た 。 ( 16) 江 部 乙 兵 村 に お い て 、 屯 田 兵 村 が 創 立 し た 神 社 で あ る 。 も と も と 江 部 乙 町 で あ っ た が 、 昭 和 四 六 年 ( 一 九 七 一 ) に 滝 川 市 と 合 併 し 、 滝 川 市 江 部 乙 町 と な っ た 。 ( 17) 滝 川 地 域 で は 平 成 二 年 ( 一 九 九 〇 ) に 追 跡 調 査 を し た と こ ろ 、 そ の 後 の 所 在 が 分 か る 滝 川 屯 田 兵 の 子 孫 は 一 七 八 戸 で あ っ た 。 ( 18) 近 代 開 拓 村 と 神 社 ― 旧 会 津 藩 士 及 び 屯 田 兵 の 帰 属 意 識 の 変 遷 』( 御 茶 の 水 書 房 、 二 〇 〇 八 年 ) に 各 屯 田 兵 村 に つ い て の 調 査 が 掲 載 さ れ て い る 。 滝 川 兵 村 も 例 外 で は な い 。 ( 19) 深 川 は 、 ア イ ヌ 語 で 「 ラ ウ ネ ナ イ 」( = 深 い 川 ) を 意 訳 し た も の で あ る 。 明 治 二 三 年 ( 一 八 九 〇 )、 道 庁 の 命 を う け た 上 田 方 正 が 空 知 ・ 上 川 で ア イ ヌ 語 で 呼 ば れ て い る 地 名 を 調 べ 、 新 し い 地 名 の 選 定 に 当 た っ た 。 当 時 、 道 庁 は ア イ ヌ 語 に 漢 字 を 当 て は め る の で は な く 、 意 訳 し た も の に し よ う と 考 え て い た 。 上 田 は 『 北 海 道 蝦 夷 語 地 名 解 』 を 著 し て い る ( 深 川 市 編 一 九 七 七 : 三 七 二 ~ 三 七 三 )。 平 成 二 九 年 ( 二 〇 一 七 ) 一 月 現 在 の 人 口 は 二 一 五 五 三 人 ( 一 一 〇 〇 〇 世 帯 ) で あ る 、 ( 20) 雨 竜 川 ポ ン ヌ ポ ロ マ ッ プ 上 流 原 野 、 タ ト ー シ 原 野 、 メ ム 原 野 、 イ ヂ ヤ ン 原 野 、 ヲ サ ナ ン ゲ プ 原 野 、 空 知 太 ヲ ト エ ボ ッ ケ 原 野 、 雨 竜 川 上 流 原 野 の 七 地 域 で あ る 。 ( 21) メ ム 」は ア イ ヌ 語 で「 水 が 湧 き 出 る 沼 に 魚 が 多 く 入 る と こ ろ 」。 江 戸 時 代 の 蝦 夷 地 地 図 に す で に 使 わ れ て い る 。 メ ム に 「 芽 生 」 の 漢 字 を 充 て た 経 緯 は わ か っ て い な い 。 ( 22) 雨 竜 か ら 妹 も 背 せ 牛 うし 、 深 川 、 納 おさむ 内 ない 、 神 かむ 居 い 古 こ 潭 たん に 至 り 、 上 川 道 路 と 連 結 す る と い う 経 路 で あ っ た 。 ( 23) 約 三 三 ヘ ク タ ー ル 。 ( 24) 生 没 年 は 安 政 四 年 ( 一 八 五 七 ) ~ 明 治 三 八 年 ( 一 九 〇 五 )。 元 治 元 年 ( 一 八 六 四 ) に 藤 原 氏 北 家 閑 院 流 西 園 寺 家 の 庶 流 で あ る 今 出 川 家 を 継 ぎ 、 こ の 時 菊 亭 姓 に 改 姓 し た 。 明 治 一 一 年 ( 一 八 七 八 ) に 開 拓 使 御 用 掛 と な り 、 明 治 一 七 年 ( 一 八 八 四 ) に 侯 爵 を 授 け ら れ た 。 ( 25) 生 没 年 は 弘 化 三 年 ( 一 八 四 六 ) ~ 大 正 七 年 ( 一 九 一 八 )。 徳 島 藩 一 四 代 藩 主 。 明 治 維 新 後 、 フ ラ ン ス 公 使 、 東 京 府 知 事 、 文 部 大 臣 な ど を 歴 任 し て い る 。 ( 26) 明 治 二 二 年 ( 一 八 八 九 ) 一 〇 月 一 八 日 、 外 務 大 臣 大 隈 重 信 が 玄 洋 社 団 員 の 来 くる 島 しま 恒 つね 喜 き に 爆 弾 を 投 げ ら れ 右 足 切 断 と い う 重 傷 を 負 い 、 二 五 日 に 内 閣 総 理 大 臣 黒 田 清 隆 は 全 閣 僚 の 辞 表 を 提 出 し た 。 明 治 天 皇 は 、 内 閣 総 理 大 臣 の み の 辞 表 を 受 け 取 り 、 閣 僚 は 続 投 さ せ 、 内 大 臣 で あ っ た 三 条 実 美 に 内 閣 総 理 大 臣 を 二 カ 月 間 兼 任 さ せ た 時 期 で あ っ た 。 時 の 内 閣 総 理 大 臣 の 名 で 「 土 地 御 貸 下 願 」 が 出 さ れ た こ と に つ い て 「 一 説 に は 、 岩 村

参照

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