信濃路にみる〈恋─愛〉のメモリ 或いは堀辰雄─
〈看取り〉の結婚者─
著者
竹内 清己
著者別名
TAKEUCHI Kiyomi
雑誌名
東洋学研究
巻
57
ページ
107-126
発行年
2020-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00012034/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja序 夢の告げ、或いは論の発端 今は昔、昔ならぬ今、ここ、のお話をする。こことは信濃路の軽井 沢・信濃追分、の堀辰雄が生涯を閉じた堀辰雄文学記念館、今は語る この講演そのものである。 依頼を受けた翌日の夢は、習いの謡「井筒」の詞章で閉じた。 シテ ま ろ が た け 地 生 ひ に け ら し な シテ 老 い に け る ぞ や 地 さ ながら見みえし。昔男の。冠直衣ハ。女とも見えず。男なりけ り。 業 平 の 面 影 シテ 見 れ ば な つ か し や 地 我 な が ら 懐 か し や。 亡 ボ オフ 婦 魄 ハクレイ 霊 の姿は 凋 シ ボ める花の。色なうて匂ひ。残りて在原の寺乃 鐘もほの〴〵と。明くれば古寺の松風や芭蕉葉の夢も。破れて 覚 サ めにけり。夢は破れ明けにけり 後シテは紀の有常ノ娘、筒井筒の井筒の女となって、業平の形見の 直衣を被て序ノ舞をまう。 「業平」は業平橋のほとりに育った堀辰雄、 「 亡 ぼうふ 婦 魄 はくれい 霊 」 は 思 う 人 の 面 影 を 偲 ぶ 多 恵 子 夫 人 か 。 メ モ リ か ら の 「 恋 ─ 愛 」 の 日 本 文 学、 夢 の 告 げ、 目 覚 め は、 表 記 の 論 題 の 発 端 と な っ た。 そ う だ、 夢 の 中 の 気 づ き は、 か つ て、 「 看 取 り の フ ィ ア ン セ、 あ る い は 青 春 の 別 れ ─ 横 光 利 一『 春 は 馬 車 に 乗 っ て 』 と 堀 辰 雄『 風 立 ち ぬ 』 に見る─」 (二〇〇七 ・ 三)において、新感覚派の横光とこれを継ぐ新 心理主義の堀の婚約者を失った看取りを論じたものだった。その末尾 に、 病 め る 人、 病 ん で 死 に ゆ く 人 が あ れ ば 看 取 る 人 が い る。 「 そ し て そこには大変な疲労や葛藤やそういうものがあるわけでありますけれ ども、一つの文化の知恵として、あるいは近代を知ってしまった我々 と し て は、 そ う い う ゆ と り の 場 と い う も の を、 浪 漫 化 に 導 か れ な が ら、 や は り そ う い う も の を も 可 能 に す る よ う な 場 と い う よ う な こ と を、考えていかなければならないと思います。……医療というものを 使わなければならないけれども、精神の持ち方とか、あるいは人間の 尊厳だとかいうようなことの道を、芸術表現は担って、何らかのひと つ の 作 品 に し う る の で は な い か。 」 と 記 し た こ と だ っ た。 あ れ は 福 田 真 人『 結 核 の 文 化 史 』 な ど の 示 唆 か ら の〈 恋 ─ 愛 〉 の メ モ リ だ っ た。
信濃路にみる〈恋
─愛〉のメモリ
或いは堀辰雄
─〈看取り〉の結婚者
─
竹
内
清
己
そうだフィアンセ・婚約者であって、節子を看取った人は、やがて結 婚者となって、妻多惠に看取られて昇天した。これを信濃路の〈恋 ─ 愛〉のメモリとして語る、語るにふさわしい者として今私はあるので はないか、と。 す で に、 『 堀 辰 雄 人 と 文 学 』( 二 〇 〇 四 ・ 一 二 ) で、 堀 の 文 学 的 生 涯 を、 大 正 末 期 の モ ダ ニ ズ ム 時 代 の Ⅰ 実 験 の 人 か ら、 Ⅳ 鎮 魂 の 人 一九三〇年代後半の信濃へ、愛する女性─結婚者─を語り、Ⅴ 回帰の 人 一 九 四 〇 年 代 前 半 の 大 和 へ、 ふ る さ と び と ─ 大 戦 下 ─ を く ぐ っ て、 Ⅵ 新 生 の 人 一 九 四 〇 年 代 後 半 以 降 の 戦 後 へ、 夢 は 冬 野 を ─ と 展 望 し た。 結婚相手の妻多惠は、堀の鎮魂の人、回帰の人を共に生きて、新生 の人の戦後に「豆自伝」 (一九四九 ・ 一一)の末尾に「今私は信濃追分 の仮寓にゐる。この浅間の麓で、病を養ふやうになつてから、既に五 年 の 歳 月 を 過 し、 又 凍 しみゆき 雪 の 冬 を 迎 へ よ う と し て ゐ る。 」 と あ る。 共 生 の看取りを受ける人では、 「わぎもこ」 (一九五二 ・ 三 ・ 二三)に「もう 足かけ九年、こんな信州の山のなかにこもつて、何ひとつ厭な顔をせ ず、 寝 た つ き り の、 め ん だ う な 私 の お つ き あ ひ を し て 貰 つ て ゐ る の は、なんともありがたいことだ。 」と書き閉じた。 「おつきあい」の看 取りは、すでに「ありがたい」ことで、有難い
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そう有ることなか な か 難 し い─
と い う 原 義 に お い て、 そ れ は 恋 れん 、 恋 い で あ り 愛 な の だ、と。 一、信濃路 信濃路は古代からの山路分け行く交通路であり、歌枕として多くう た(歌・唄・謡・詠)われてきた。近現代文学も、ここに分け入りこ こ を う た っ て い る。 「 古 事 記 」 の ヤ マ ト タ ケ ル の 東 征 の 旅 も、 筑 波 嶺 に 到 っ て 帰 路 に つ き、 「 そ の 国 よ り 科 しなの 野 の 国 に 越 え て、 す な は ち 科 野 の 坂 の 神 を 言 ことむ 向 け て、 尾 張 の 国 に 還 り 来 て 」 と 記 さ れ る。 「 万 葉 集 」 には、 信濃道は今の 墾 は り道刈りばねに足踏ましなむ 沓 くつ はけ我が背 信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ 日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ ひなぐもり碓日の坂を越えしだに 妹 いも が恋しく忘らえぬかも とうたわれ、 「伊勢物語」の在原業平の東下りの途次、 浅間の嶽に、けぶりの立つを見て、 信濃なる浅間の嶽に立つけぶりをちこち人の見やはとがめぬ とよんでいる。信濃─浅間─煙の連環は、遠く今、ここ、に到る伝 承 で あ っ た。 「 更 級 日 記 」 の 冒 頭「 あ づ ま 路 の 道 の 果 て よ り も、 な ほ 奥 つ 方 に 生 ひ 出 で た る 人 」 と 書 き 出 し た 少 女 の 日 記 は、 終 い は 京 に あって夫が信濃守として任地に赴くのを「親のをりよりたちかへりつ つ見しあづま路よりは近きやうに聞こゆれば、いかがはせむに、ほど も な く 下 る べ き こ と ど も い そ ぐ に 」 門 出 は 八 月 十 余 日 に す。 ( や が て夫 の 死 )「 い と 暗 い 夜、 六 郎 に あ た る 甥 の 来 た る に、 め づ ら し う お ぼ えて、 月も出でて闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ とよむ。それは「古今集」読人しらずの わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て の本歌取りであって、信濃の姨捨は月の名所の歌枕ともなった。 堀文学はまた、これにちなんだ小説、随筆を連ねることになる。 謡 に は、 「 柏 崎 」 に、 「 今 行 く 道 は 雪 の 下。 」「 山 之 内 を も 過 ぎ 行 け ば。 袖 冴 え 増 さ る 旅 衣。 碓 氷 の 峠 う ち 過 ぎ て。 越 後 に 早 く 着 き に け り。急ぎ候程に。故郷柏崎に着きて候。 」とある。 「姨捨」の月の名近 き 秋 の 姨 捨、 「 木 曾 」「 巴 」「 木 賊 」「 紅 葉 狩 」「 富 士 太 鼓 」「 雲 林 院 」 「杜若」 「望月」 「山姥」など。松尾芭蕉「更科紀行」の 俤 おもかげ や姨ひとりなく月の友 の句は、いうまでもなく姨捨、 吹き飛ばす石も浅間の野分かな は、まさに、今、ここ浅間神社の句碑と拝まれる。 か つ て 堀 の 愛 弟 子 中 村 真 一 郎 は「 文 学 の 地 理 学 」 と い う 一 文 を 草 し、国文学者風巻景次郎説の「日本文学の伝統と従来云われているも のは、実は京都の風土に根ざしたもので、……もし首都が一時、信州 にあったとしたなら、日本文学はもっと乾いた、もっと理窟っぽいも のになり、自然描写もより非情緒的で、思想的哲学的要素の強いもの に な っ た ろ う。 …… そ れ が 特 色 に な っ た か も し れ な い。 」 を 引 い て い る。 一 千 年 の 古 都、 京 都 の 湿 気 優 艶 の 文 化 に 対 し て 信 濃 高 原 の 明 澄 は、フランス文化に相通うことになる
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と。信濃路のメモリ、堀の フランス文学愛好もさもありなんである。 『姨捨』 (一九四〇 ・ 七)のラストシーン。 「或晩秋の日、女は夫に従 つて、さすがに父母に心を残して目に涙を溜めながら、京を離れて往 つた。穉い頃多くの夢を小さい胸に抱いて東から上つて来たことのあ る 逢 坂 の 山 を、 女 は 二 十 年 後 に 再 び 越 え て 往 つ た。 「 私 の 生 涯 は そ れ でも決して空しくはなかつた─
女はそんな具合に目を 赫 かが やかせなが ら、ときどき京の方を振り向いてゐた。 近江、美濃を過ぎて、幾日かの後には、信濃の守の一行はだんだん 木 こぶか 深 い信濃路へはひつて往つた。 」と。 さらに最後の小説作品『ふるさとびと』 (一九四三 ・ 一)で、冒頭の 今、 こ こ「 浅 間 根 越 の 宿 場 の 一 つ と し て の、 瓦 解 前 の 繁 栄 に ひ き か へ、今は吹きさらしの原野の中に、いかにも宿場らしい造りの、大き な二階建の家が漸く三十戸ほど散在してゐるきりだつた。……その少 し先きのところで、街道が二つに分かれ、一つは北国街道となりその まま林のなかへ、もう一つは、遠くの八ヶ岳の裾までひろがつてゐる 佐 さ 久 く の 平 たひら を見下ろしながら中山道となつて低くなつてゆく。そこのあ た り が、 こ の 村 を 印 象 ぶ か い も の に さ せ て ゐ る、 「 分 わかさ 去 れ 」 で あ る。 」 と書き出し、掉尾を「松平もそれきり黙つて、もうすつかり秋めいて近かぢかと見える火の山の火口のあたりに小さな雲がたえず移つてゐ るのを見やつてゐた。小さな雲がひとつづつ立ち去ると、そのあとに 火 の 山 の 煙 ら し い も の が 一 す ぢ、 か す か に 立 ち の ぼ つ て ゐ た。 ……」 と、自己の分身を油屋に逗留した画学生をして、火の山の煙の「風立 ちぬ」ならぬ「立ち」に出逢わせている。 二 恋 ─ 愛 恋愛=愛恋は、近代以降の連語であって、この言葉の魅力は、つき ない、喚起力をもつ。これを今一度、恋と愛に分かち、それぞれの魅 力に目覚め、恋 ─ 愛とハイフンで結ぶ発想を、長らく私は追求してき た。大和言葉の、こい、はもともと魂乞い・恋にあると主張したのが 堀の敬愛した釈迢空=折口信夫だった。 恋 ─魂ごひ─乞ひ・恋ひ・恋し・懐かし・慕わし・忍ぶ・偲ぶ・焦 が れ る・ 恋 心・ 恋 慕 恋 衣・ 恋 枕・ 恋 路・ 恋 草・ 忍 ぶ 草・ 恋 の 縁・ 恋の淵・恋の証・恋の乱れ・恋の奴 愛 ─ い と し・ い た わ し・ め ぐ し・ 愛 で る・ 哀 れ・ 憐 れ・ 愛 情・ 愛 欲・ 愛 染・ 愛 執・ 愛 憐・ 愛 慕・ 愛 惜・ 慈 愛・ 恩 愛・ 寵 愛・ 偏 愛・ 貪 愛・信愛、と表現は豊か。以下、 情 ─ な さ け・ 恋 情・ 純 情・ 殉 情・ 旅 情・ 情 事・ 情 夫( 婦 )・ 情 死、 思 ─ お も う・ 思 う・ 想 う・ 念 う・ 思 慕・ 思 春、 好 ─ 好 き・ 好 む・ 好 色・ 好 意・ 愛 好、 色 ─ い ろ・ 色 好 み・ 色 恋・ 色 香・ 色 情、 懐 ─ 懐 か し・懐思・懐古・懐郷、 憧 ─あこがれ・憧れ・憧憬、 憬 ─憬れ、 惚 ─ 惚れる・惚ける・うっとり、 問 ─問う・妻(夫)問ひ・言問ひ、 契 ─ ち ぎ り・ 契 る、 切 ─ 大 切・ 親 切、 待 ─ 待 つ・ 待 ち 望 む、 最 後 に、 結 ・ 婚 ・ 約 も恋愛用語であること。 これらをもって、外国語のラブ・アモール・リーベ・エロス・フィ リア・アガペー・カリタスの訳語となった。…… 「 源 氏 物 語 」 の 色 好 み な ど も は や た ど ら な い。 謡 に、 世 阿 弥 作「 松 風 」 は、 流 さ れ 人 の 行 平 の 寵 を う け た 須 磨 の 海 女 松 風・ 村 雨 の 恋 慕 は、 「思ひを乾さぬこころかな」 「変わらぬ色の松一本。緑の秋を残す 事 の 哀 れ さ よ。 」 と あ り、 車 と 結 び、 汐 汲 車・ 忍 び 車・ 恋 車、 草 に 結 び・ 捨 草・ 恋 草・ 思 ひ 草、 衣 と 結 び、 汐 衣・ 汐 焼 衣・ 縑 の 衣・ 馴 れ 衣・ 恋 衣、 路 に 結 び、 汐 路・ 恋 路・ 関 路・ 夢 路・ 通 ひ 路 を 通 り、 侘 ぶ・ 寂 び・ 恨 め し・ 懐 か し・ 恥 ず か し の 心 を あ ら わ す。 「 思 ひ 内 に あ れ ば。 色 外 ほ か に 現 れ さ む ら ふ ぞ や。 わ く ら は に 問 ふ 人 あ ら ば の 御 物 語。 余 り に な つ か し う 候 ひ て。 」 と て、 と き に 執 心・ 妄 執・ 及 ば ぬ 恋 は、 恋の責め苦・乱るる恋の淵に落ちることになる。 同 じ く「 恋 重 荷 」 は、 「 我 が 君 菊 を 御 寵 愛 」 の 菊 の 下 葉 取 り の 賤 し き荘司が、 「忝くも女御の御姿を拝み申し。勿体なくも恋となりたる」 に、 「 こ の 荷 を 持 ち て 御 庭 を 百 度 千 度 廻 る 」、 「 そ の 間 に 御 姿 を 拝 ま せ 給 ふ べ き 」 と の 約 束、 「 こ れ こ そ 恋 の 重 荷 よ。 重 荷 な り と も 遭 ふ ま で の。 恋 の 持 夫 に な ら う よ 」 と ま わ る、 「 総 じ て 恋 と 申 す 事 は。 高 き 卑
しき隔てぬ事にて」 、「恋よ恋。我が中空になすな恋。恋には人の。死 なぬものかは」と恋死にする。謡の詞章に、 「重荷と云ふも。思ひなり」 「浅間の煙。浅ましの身や。 」「恋路の闇 に迷ふとも。 」とこんなところにも、浅間の煙と恋路の闇を連結して、 今ここ、の信濃路の〈恋 ─ 愛〉のメモリを刻んで歓ばせる。 近現代、例えば、 佐藤春夫 『同心草』 「水辺月夜の歌」 せつなき恋をするゆゑに 月かげさむく身にぞ 沁 し む。 身をうたかたとおもふとも うたかたならじわが思ひ。 北原白秋 『水墨集』 「落葉松」 からまつの林を過ぎて、 からまつをしみじみ見き。 からまつはさびしかりけり。 たびゆくはさびしかりけり。 からまつの林を出でて、 浅間嶺にけぶり立つ見つ。 浅間嶺にけぶり立つ見つ。 からまつのまたそのうへに。 立原道造 『萱草に寄す』 「はじめてのものに」 いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか 火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に その夜習つたエリーザベトの物語を織つた 『優しき歌』 「夢みたものは……」 夢みたものは ひとつの愛 ねがつたものは ひとつの幸福 それらはすべてここに ある と と、例示にとどめる。堀は、 堀辰雄 『風立ちぬ』の冒頭をあげる。 それらの夏の日々、一面に薄の生ひ茂つた草原の中で、お前が 立つたまま熱心に絵を描いてゐると、私はいつもその傍らの一本 の白樺の木蔭に身を横たへてゐたものだつた。さうして夕方にな つて、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばら く私達は肩に手をかけ合つたまま、遙か彼方の、縁だけ 茜 あかね 色を帯 びた入道雲のむくむくした塊りに覆はれてゐる地平線を眺めやつ
てゐたものだつた。 そうして 風立ちぬ、いざ生きめやも。 ふと口を衝いて出て来たそんな詩句を、私は私に靠れてゐるお前 の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返してゐた。 と「序曲」が奏でられる。そうして眺めやっていた地平線の彼方の 八ヶ岳の麓の結核療養所での「冬」の節子の看取りは、 私はそれから急に力が抜けてしまつたやうになつて、がつくり と膝を突いて、ベットの縁に顔を埋めた。さうしてそのままいつ までもぴつたりとそれに顔を押しつけてゐた。病人の手が私の髪 の毛を軽く撫でてゐるのを感じ出しながら…… 部屋の中までもう薄暗くなつてゐた。 と閉じられる。看取る「私」の「顔」がベットの「縁」に押しつけ ら れ、 死 に ゆ く 病 人 の 節 子 の「 手 」 が、 「 私 」 の「 髪 」 を 撫 で て い る その労りの構図を読み解いたことがあった。 (岩波「文学」 ) また、その鎮魂曲ともいうべき終章の 或はひよつとしたら、それも矢つ張お前のためにはしてゐるのだ が、それがそのままでもつて自分一人のためにしてゐるやうに自 分に思はれる程、おれはおれに勿体ないほどのお前の愛に慣れ切 つてしまつてゐるのだらうか。それ程、お前はおれに何んにも求 めずに、おれを愛してゐて呉れたのだらうか?…… 「 死 の か げ の 谷 」 の 自 己 愛、 他 者 愛 の 問 い の 厳 し さ 優 し さ に つ い て 苛烈にも「支配の構造」と副題して、根源的試練の裡をうかがった私 である。 こ こ で『 堀 辰 雄 事 典 』( 二 〇 〇 一 ・ 一 一 ) の 編 者 と し て、 「 対 談 堀 辰雄の文学と生活譜」の一コマを引用させていただく。 竹 内 ・『 山 麓 の 四 季 』 は、 軽 井 沢 追 分 地 区 の 自 然 誌 と で も い う べ きもの、それから多恵子さんの育ちから掘り出しゆく。自ら女性 像を編まれたといえる。ですから今後は堀辰雄研究の一つ独立し た分野として考えてゆくべき多恵子研究となる。そうなってくる と堀辰雄における女性譜的なものを問題の中で多恵子さんも相対 の中にくみこまれることになる。 堀 ・ そ れ は あ る か も し れ ま せ ん ね。 い ろ い ろ の 女 性 が 周 り に ……。 ここで、これをなにか申し訳なかった悔いのように、引き出した多 恵 子 さ ん の 言 葉 を 反 芻 し、 し か し さ ら に 酷 薄 に も、 堀 の「 女 性 譜 」、 つまり恋愛譜をメモリとし提示する。 志気もの
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甘栗・鼠・麦藁帽子・燃ゆる頬・顔・挿話・従姉・墓 畔の家・幼年時代・花を持てる女・春浅き日に・行く春の記・豆自伝 多恵子もの─
七つの手紙・牧歌・山の日記・木の十字架・初秋の 浅間・ 「美しかれ、悲しかれ」 ・四つ葉の苜蓿・巣立ち・閑古鳥・ユウ ジニイ ・ ド ・ ゲラン(共訳) ・ 朴の咲く頃 ・ 花晩夏 ・ おもかげ ・ 曠野 ・大 和 路・ 信 濃 路・ 妻 へ の 手 紙・ 我 思 故 人・ 炉 辺・ 豆 自 伝・ 追 分 よ り・ 近況・わぎもこ 内海妙もの
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清く寂しく・甘栗・麦藁帽子・顔・閑古鳥・山茶花 片山広子・総子もの─
多恵子『堀辰雄の周辺』の最後は、片山広 子「辰雄があこがれ 尊敬した夫人」と題される。総子の項目はない が、宗瑛・死の素描・ルウベンスの偽画・聖家族・窓・恢復期・萩の 花・ 美 し い 村・ 夏・ 暗 い 道・ 伊 勢 物 語 な ど・ 「 更 級 日 記 」 な ど・ 物 語 の女・菜穗子・楡の家・菜穂子覚書・ふるさとびと 綾子もの─
美しい村・夏・暗い道・風立ちぬ・おもかげ・豆自伝 加えて『堀辰雄の周辺』で女友達とした「辰雄が好意を寄せた女友 達」佐多稲子と「親しい付き合いを続けた女友達/若い詩人たちのあ こがれのひと」と題された中里恒子。 佐多稲子─
不器用な天使・二人の友・ 「美しかれ、悲しかれ」 中里恒子─
閑古鳥・山茶花など 三 メモリー 四 堀辰雄 五 看取り 六 結婚者 講 演 題 目 か ら の 三、 四、 五、 六 章 を ま と め て、 以 下『 堀 辰 雄 事 典 』 の 谷田昌平「訂補年譜」で簡略にたどる。 綾子譜 綾子の登場は、一九三三・昭和八年、堀二十九歳。六月、軽井沢に 行き、つるや旅館に滞在。七月、胸を病み、軽井沢に来て、つるや旅 館に滞在していた矢野綾子と知り合った。二人の交際の中、九月、こ れ を 反 映 し た「 美 し い 村 ─ ─ 或 は 小 遁 走 曲 」「 夏 」 を 書 き 終 え て、 軽 井沢より帰京。翌、一九三四・昭和九年三十歳、七月一二日、軽井沢 に行く。いったん帰京後の二六日に信濃追分に赴き、油屋旅館に秋ま で 滞 在。 綾 子 は、 七 月 末 よ り 軽 井 沢 に 父 が 借 り て く れ た 別 荘 で 静 養 し、 九 月 ま で 滞 在。 そ の 間、 堀 は 追 分 か ら 綾 子 の 許 を 何 度 か 訪 ね た。 九 月、 八 日、 「 物 語 の 女 」 を 脱 稿。 矢 野 綾 子( 明 治 四 十 四 年 九 月 十 二 日 生 ま れ ) と 婚 約。 そ う し て 二 十 日 過 ぎ に、 婚 約 者 綾 子 の 帰 京 に 付 添って、上京した。一九三五・昭和十年三十一歳、七月、胸を患って いた許嫁矢野綾子の病状が進み、自分の健康も思わしくないので、付 き添って共に富士見の高原療養所に入院した。結果は十二月六日、矢 野綾子死去、享年二十五歳だった。 綾子没後、一九三六・昭和十一年三十二歳、七月、軽井沢つるや旅 館 に 逗 留。 八 月、 信 濃 追 分 に 移 り、 油 屋 旅 館 に 滞 在。 十 月、 「 風 立 ち ぬ 」( 「 序 曲 」「 風 立 ち ぬ 」) を 書 く。 十 一 月、 「 冬 」 を 執 筆。 十 二 月、 終章は成功しなかった。 「風立ちぬ」を「改造」に発表。 多恵子譜 多恵子の登場の年は、一九三七・昭和十二年三十三歳。一月、前年 暮 れ に 東 京 に 帰 っ た が、 二 日 に 戻 る。 ( こ の 年 は 大 半 を 信 濃 追 分 で 暮ら し た。 )「 冬 」 を「 文 芸 春 秋 」 に 発 表。 四 月、 「 婚 約 」( 後「 春 」) を 「新女苑」に。六月、初めて京都に旅した。 『風立ちぬ』を新潮社より 刊行。八月、この夏、静養のために弟の加藤俊彦と共に油屋旅館に滞 在 し て い た 加 藤 多 恵 と 知 り 合 っ た。 辰 雄 は 多 恵 を 三、 四 度 軽 井 沢 の 犀 星宅に連れて行ったりした。夏の終りの頃、矢野綾子の父透が、綾子 の妹を連れて油屋旅館に辰雄を訪ねて来た。この折、辰雄は透達に多 惠を紹介した。十一月、九月から着手していた「かげろふの日記」を 書 き 上 げ、 七 日 に 上 京、 國 學 院 大 學 へ 行 き、 折 口 信 夫 に 初 め て 会 い、 十 五 日 に 信 濃 追 分 に 戻 る。 川 端 康 成 の 家 で 一 泊 し、 翌 十 九 日 追 分 へ 帰ってみると、油屋は消失していた。軽井沢の藤屋、つるやなどに滞 在 し た 後、 二 十 六 日、 川 端 別 荘 に 移 り、 十 二 月、 二 十 日 過 ぎ、 「 死 の かげの谷」を脱稿。同伴の野村英夫が帰京した後、暮れに神西清が訪 れ、ここで正月を迎えた。 「かげろふの日記」を「改造」に発表。 翌、一九三八・昭和十三年三十四歳。二月、加藤多恵と結婚するこ と を 決 め、 川 端 康 成 や 神 西 清 に そ の 報 告 を す る た め に 鎌 倉 に 出 か け、 深田久弥宅に寄ろうとして途中で喀血、鎌倉額田病院に入院した。三 月、 下 旬 退 院 し、 向 島 の 自 宅 へ 帰 っ た 後、 加 藤 多 恵 の 実 家 で 静 養。 「 死 の か げ の 谷 」 を「 新 潮 」 に 発 表、 こ れ で 綾 子 と の〈 恋 ─ 愛 〉 の 物 語を完成。 四月、十七日、室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵(大正二年七月三十 日生まれ)と結婚。下旬、犀星別荘を借りて家探し、愛宕山の水源地 の 近 く に 新 居( 軽 井 沢 八 三 五 ) を 定 め た。 『 風 立 ち ぬ 』 野 田 書 房 よ り 刊行。五月、中旬、父が脳溢血で倒れ、夫人と二人で向島の家に行き 看 病 す る。 七 月、 「 幼 年 時 代 」 を 執 筆 開 始。 十 月、 下 旬、 軽 井 沢 を 引 き 上 げ、 逗 子 の 山 下 三 郎 の 別 荘 に し ば ら く 落 ち 着 い た。 一 二 月 一 五 日、父上条松吉が死去。 以下、翌年からの結婚生活は、戦中、戦後を越えて、一九五三・昭 和 二 十 八 年、 五 月、 二 六 日 よ り 病 状 悪 化 し、 二 八 日 午 前 一 時 四 十 分、 夫人多惠にみとられながら永眠。三〇日、信濃追分の自宅で仮葬。六 月三日、東京芝の増上寺で川端康成が葬儀委員長となり、告別式を執 行。三十年五月二十八日、多磨霊園の墓地に納骨された。 堀辰雄作品 多恵子ものを中心にたどる。 昭和十二年 一九三七 九月「閑古鳥」 (「郭公」改題) 「もう三十にもなつた私は、或る七月の雨上りの夕方、 ・あの部屋で私 の 書 い た 小 説 に 出 て く る 私 の 少 年 時 代 の 恋 人 は、 私 の 知 ら な い 間 に、 結婚をして、さうして若い母になつて、しばらくして死んで行つたと 云 ふ こ と を、 私 が 聞 き 知 つ て か ら も う 大 ぶ に な る。 ・ 自 分 の 少 年 時 の 掛け換へのない恋人を失つたのであることを、胸が痛くなるほどはつ きりと感じ出した。 (中略)
われは死者をもてど、彼等をして去るがままにす…… これは、初恋の人、 『甘栗』 『麦藁帽子』に母志気の愛との葛藤の中 でえがかれた、国文学教授内海弘藏の次女妙の消息である。その人の 死が、次作『山茶花など』と併せて『生者と死者』とまとめられてい る こ と が 注 目 さ れ る。 十 月「 牧 歌 恩 地 三 保 子 嬢 に 」 が、 「 し か し そ の一瞬の光景は僕には忘れがたい印象を与えた一枚のセガンテイニば りの絵」 「一枚の牧歌的な絵」と書かれ、 「明朝はもうあなたはこの村 からお帰りになる。そのときお父様へのお土産にと思って、僕は一所 懸命にせつせつと書いた」と〈恋 ─ 愛〉的であること、恩地三保子は 萩原朔太郎の詩集『月に吠える』などの装幀でも知られる恩地幸四郎 の娘で、多恵子の親友にして、二人連名宛の手紙も書いている。牧歌 の絵の中に多恵子も三保子と住んでいる。 昭和十三年 一九三八 一月『山茶花など』作中に「いまからこんな事ばかり考へてゐて、私 はこれからどうしたら 為 しあは 合 せになれるのでせうか?」と質問する青春 の悩める女人は、多恵子なのか、同時に交際していた中里恒子か。私 は対談で伺ったが、中里さんよと、きっぱり、夫人の答えの声は、こ ころなし固かった。事実、横浜の外人墓地、これは明らかに恒子の案 内。 二 人 見 出 し た 墓 碑、 「 こ の 人 は 私 と 同 じ 年 で 死 ん で ゐ る わ
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」 と ジ ュ リ イ・ P や す ら ふ。 行 年 二 十 三 歳、 一 八 七 一 年 三 月 六 日 歿 す。 ここでも「その夏O村の墓地で私の考へつづけてゐた数年前に死んだ 一人の若い女の面影、……さう、さう云へば、あいつが私の知らない 男と結婚したのはやつぱり二十三ぐらゐの時だったんだなあ……」と 思いは妙に、そうして「今度来るときはジュリイさんに花を持つてき て上げたいわ」という女は恒子と想到できる。ここを訪ねた二人の文 学者が墓の背後に「他の樹立のかげになりながら一本の山茶花がいく つかの目立たないやうな花をこつそり簇がらせてゐ」た、とある、そ の一本の山茶花を文学散歩で立ち寄った私らも捜したのはいうまでも ない。 四月、 『風立ちぬ』野田書房出版。六月、片山広子来訪。 風まじり雨ふる林に杉皮の家ぬれてゐたり君の家なるや むすめらしくほそき姿のわかづまは黒き毛糸の上着をきたり また釈迢空・折口信夫の朱の短冊(供養塔)が掲げられていた。 人も馬も道ゆきつかれ死ににけり旅寝かさなるほどのかそけさ 七月「卜居 津村信夫に」 、「全く一人つきりで、昔の自分にそつくり そのままの自分に返つて、心ゆくまで自分の青春に訣別を告げようと い ふ 陰 謀 」 と 書 き、 階 下 の 部 屋 に は、 「 女 房 に 買 つ て も ら つ た ト ル ス トイ全集だの、ジャック・シャルドンヌの「 祝 エピタラアム 婚歌 」や「クレエル」 」 が あ り、 「 大 い に 結 婚 生 活 者 の 心 理 研 究 」 と あ る。 八 月 か ら の「 七 つ の 手 紙 或 女 友 達 に 」( 「 山 村 雑 記 」 改 題 ) は、 綾 子 と の『 美 し い 村 』 に見合う出逢いの物語の素材となる。 九月「初秋の浅間」 、「さういつた凄さを何処かその底にもつてゐる山だが、その浅間も、追分の供養塔などの立ち並んだ村はづれ
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北国 街道と中山道との 分 わ か 去 さ れ─
に立つて真白な花ざかりの蕎麦畑など の彼方に眺めやつてゐると、いかにも穏かで、親しみ深く、毎日見慣 れ て ゐ る 私 の 裡 に ま で そ こ は か と な い 旅 情 を 生 ぜ し め る。 」 と あ る。 川 端 康 成 が 長 編 随 筆「 落 花 流 水 」「 秋 風 高 原 」 で 堀 の「 初 秋 の 浅 間 」 を引く。 十 一 月、 ユ ウ ジ ェ ニ イ・ ド・ ゲ ラ ン の 日 記 夫 人 と 共 訳、 を「 文 体 」 「四季」に発表。 昭和十四年 一九三九 一 月『 巣 立 ち 』「 或 牧 歌 」 と 傍 題。 新 婚 生 活 を 反 映 し た 最 初 の 小 説 作 品。 「 彼 女 は 窓 を あ け た、 さ う す る と、 ま る で さ う い ふ 彼 女 を 待 つ て ゐたかのやうに、 小 コツテエヂ 屋 のすぐ傍らの大きな 樅 もみ の木から、アカハラが一 羽、うれしさうに啼きながら飛び下りてきて、その窓の下で餌をあさ り出した。 」「この山奥の村─
去年彼と彼女とが其処ではじめて知り 合つた─
に二人が結婚して、一しょに暮らしにきたのは、もう一月 ばかり前になる、六月のはじめだつた。丁度、アカシヤが花ざかりだ つた。 」と書き出される。ラストは、 こ の 頃 よ く 庭 に 落 ち て ゐ る 栗 の 花 か な ん ぞ だ ら う と 思 つ て ゐ た ら、それは、一ぴきの蚯蚓だつた。彼女が思はず両手で目を掩つ てゐると、いつのまにか彼女の背後に突立つてゐた彼が、さうい ふ彼女の肩に手をかけながら、そつと彼女の耳に口をよせて、 「これが人生といふものさ……」とやさしく呟くのだつた。 これは夫婦愛の人生のすがたではあり、シャルドンヌ「祝婚歌」の 摂 取 と と も に そ の 愛 の 形 が 形 象 化 さ れ て い る。 「 こ れ が 人 生 」 の 人 生 の新婚者には、酷薄ともいえる鎮魂の人に入った後の愛として。 五月『おもかげ』 (『麦秋』改題)冒頭「アトリエとその中庭は、節子 の死後、全く手入れもせずに放つておかれたので、彼女が絵に描くた めに丹精して育てられてゐた、さまざまな珍しい植木は、……」とあ り、 「が、さうやつて思ひがけないやうなところから光をあてられた、 亡き人の様子の方が、弘なんぞが故人と共に聞き手の彼女をもいたは るやうに話してくれる姿よりも、かへつて生き生きとおもかげに立つ て、 一 瞬 彼 女 は 胸 が し め つ け ら れ る や う な 気 が す る 位 だ つ た。 」 と あ る。弘は作家本人辰雄。 「「何もかもいいわ……」そんなことを言つて ゐ さ う な、 夭 折 し た 人 の 絵 姿 が 浮 か ん だ。 「 本 当 に 私、 と き ど き い け な く な る わ 」 伸 子 は 思 ひ 返 し た。 」 と。 節 子 は『 風 立 ち ぬ 』 の 節 子 に し て 綾 子。 伸 子 は 多 恵 子。 「 自 分 に は こ れ か ら 幸 福 に、 で な く と も 少 く も こ の 人 生 を 居 心 地 よ く さ せ て あ げ な け れ ば な ら な い 人 が あ る の だ。 そ し て そ れ だ け が ま た 自 分 を 幸 福 に さ せ て く れ る の だ。 」 と。 作 家の妻多恵子への諭しの如し。 ラストは、 麦秋─
もう一度、彼女はそんな言葉を口のなかに繰り返しなが ら、 も う 向 う に 見 え 出 し て ゐ る 駅 の 前 で、 白 い 耳 を か し げ な がら、きょとんと坐つてゐる小犬と共に、こちらをぼんやりとして 見 て ゐ る ら し い 洋 子 の 方 へ、 「 マ リ ア へ の お 告 げ 」 を も つ た 方 の 手を快活さうにふつてみせた。 と閉じられる。洋子は綾子の妹良子。 この小説の受容史の一コマとして、対談への慚愧の思いで田宮虎彦 の《亡妻もの》に関する堀多恵子から引き出した言葉を、しかし、今 ここ、では、引いておく。 堀 そ う で す ね、 「 お も か げ 」 に つ い て は い ろ い ろ エ ピ ソ ー ド が あるんですけど、田宮虎彦さんの奥さん千代さん、あの方は私の 友人なんです。大学時代の。 竹内 そうですか、田宮虎彦といえば《亡妻もの》で知られる。 堀 それで亡くなった後に『愛のかたみ』を出して、あの本の中 に私と千代さんとやり取りした手紙が載っているんですね。 竹内 え、そう。僕は少年時代に北海道で姉の手文庫から原田康 子 の『 サ ビ タ の 記 憶 』 と 一 緒 に 読 ん だ の が『 愛 の か た み 』 で す。 その中に多恵子さんとの手紙のやり取りがあったんですか。 堀 ええ、多分『愛のかたみ』だと思うんです。それで「おもか げ」なんですけど、田宮千代さんがこれを読んで主人に手紙を書 いたんです。その手紙があるかもしれない。捨ててしまったのか もしれない。 (*全集の書簡集にこれに当たる書簡はない。 )そう いうひどい小説を書くのはけしからんと、それでもう少し多恵子 さんのことを考えてあげなきゃいけないんじゃないか、というこ とを書いたんですよ。そんなこともあって主人はあの作品をしば らく何にも載せませんでした。別に私はどうということもないん ですよ。 以下、そこから『風立ちぬ』におよび、成城の家のことから、矢野 透の葬儀と墓の世話をした話、 堀 その時お嬢さんの日記が出てきたんです。その日記を読んだ とき、ああ知っていたんだなぁと分かりました。 という重大な聞き取りに及んでいる。堀も上条松吉が養父であるこ とを知っていた、少なくとも感知していたと私は考えたことだった。 一二月「美しかれ、悲しかれ」 (「旧友への手紙」改題)堀の佐多への 思いを語る往復書簡については、すでに論じたことがある。 昭和十五年 一九四〇 七月『姨捨』その結文は先に引いた。七月「木の十字架」 。「私達が結 婚 祝 ひ に 立 原 か ら 貰 つ た ク ロ ア・ ド・ ボ ワ 教 会 の 少 年 達 の 歌 や ド ビュッシイの歌のレコオドをはじめて聴いたのは、その翌年の春さき に、なんだかまるで夢みたいに彼が死んでいつてしまつた後からだつ た。 」と記される。そうして、 九 月『 晩 夏 』( 『 野 尻 』 改 題 ) こ れ は『 お も か げ 』 に 続 く 小 説 の 第 三 作。 「けさ急に思ひ立つて、 軽井沢の山小屋を閉めて、 野尻湖に来た。 」 と書きだされ「森の上には黒姫山が大きく立ちはだかつてゐる。その
左手に、やや遠くなつて見えるのは戸隠山だらう。ここは、本当に信 濃 路 と い ふ 感 じ だ。 」 と 書 か れ る。 そ こ に 優 れ て 酷 薄 な 愛 の か た み、 があった。それは愛のイデーといっていい。 「 Zweisamkeit! ……」 そ ん な 独 逸 語 が 本 当 に 何 年 ぶ り か で 私 の 口 を衝いて出た。
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孤 ア イ ン ザ ア ム カ イ ト 独の淋しさ とはちがふ、が殆どそれと同種 の、いはば 差 ツ ワ イ ザ ア ム カ イ ト し向ひの淋しさ と云つたやうなもの、そんなものだ つて此の人生にはあらうぢやないか? 「 さ う だ ら う、 ね え、 お 前 ……」 私 は 口 の 中 で そ ん な 事 を つ ぶ や くやうに言つて見た。 「 何 あ に?」 と、 ひ よ つ と し た ら 妻 が 私 に 追 ひ つ い て 訊 き 返 し は し な い か し ら と 思 つ た。 し か し 妻 に は そ れ が 聞 え よ う 筈 も な く、 私の少しあとから黙つてついて来るだけだつた。 昭和十六年 一九四一 一月『朴の咲く頃』ラストは、 私はなかなか寝つかれないまま、けさ歩きまはつてゐたその谷ぢ うに自分の持つて行き場所のない想ひをさまよはせてゐたが、そ のうちにふいにそれが一つのものに落着いたやうに、その谷かげ で見つけた朴の木の花が急に鮮やかに浮かんで来た。私はおもは ず何かほつとしながら、その真白い、いい匂のする花でもつて自 分のどうにもならない心をすつかり占めさせて行つた。 「どうにもならない心」から、 〈恋 ─ 愛〉がひきだされる。 三月『菜穂子』を「中央公論」に発表。 昭和十七年 一九四二 八 月『 花 を 持 て る 女 』「 私 は そ の 日 は じ め て 妻 を つ れ て 亡 き 母 の 墓 ま ゐりに往つた。 」と書き出される。 「「ずゐぶん汚い寺で驚いたか。 」私 は妻のはうへふり返つて言つた。 「元禄八年なんて書いてあるわ……」 妻はそれにはすぐ返事をしずに、立ち止つて自分のかたはらにある古 い墓の一つに目をやつてゐた。 」 こ こ に は 母 志 気 と 初 恋 の 少 女 内 海 妙 と の〈 恋 ─ 愛 〉 の 相 剋 と 同 様 に、結婚者多恵子との相克が潜んでいる。ここに全面的に生い立ちを 巡 る 作 家 の 生 涯 の 帰 結 が 継 承 さ れ た の で あ っ た。 無 論、 妻 多 恵 子 は、 堀の没後にも命を込めてその解明に当たったのだった。 昭和十八年 一九四三 一月『ふるさとびと』は、今、ここ、の信濃追分が舞台、生涯の小説 の最終作品。 一 ~ 八 月「 大 和 路・ 信 濃 路 」。 連 載 随 筆 は「 く れ が た 奈 良 に 着 い た。 僕のためにとつておいてくれたのは、かなり奥まつた部屋で、なかな か 落 ち つ け さ う な 部 屋 で 好 い。 」 と あ る 手 紙 は、 ま さ に 妹 背 の〈 恋 ─ 愛〉の形象化であり、多恵子の『妻への手紙』に後づけられた。 昭和十九年 一九四四 一 月「 樹 下 」。 二 月 下 旬、 森 達 郎 を 伴 っ て、 疎 開 の た め の 家 を 捜 し に 信濃追分に行き、帰京後喀血が続く。五月まで絶対安静、一時重態とな る。 六 月、 津 村 信 夫 死 去。 九 月、 信 濃 追 分 の 油 屋 旅 館 の 隣 の 家 を 借りて住む。 ?月「炉辺」 。「九月のなかば、約束の日限を二三日過ぎてから、蕎麦 の花ざかりのなかを、三人ほどして戸隠に上つていつた。 」戸隠行き。 三 人 は 堀 夫 妻 と 日 塔 聡、 『 堀 辰 雄 の 周 辺 』 で「 孤 高 を 貫 い て 生 き た 詩 人 / 北 海 道 で の 靜 か な 生 活 」 と 掲 げ ら れ る。 津 村 は す で に 下 山、 「 そ の翌日山を下りて別所温泉の小さい宿に泊まった。日塔さんは背が高 い の で 蒲 団 か ら 足 が 出 て し ま う。 私 は な ん だ か 気 の 毒 で、 そ の 辺 に あった座布団を足の方に置くと、彼は足を縮めて困っていた。そんな た わ い な い こ と を 覚 え て い る。 」 と い う 多 恵 子 の 思 い を 思 い と し て 私 は受けとる。 昭和二十年 一九四五 療養に専念した。日本の古典への関心と共に、新しい仕事への意欲 を示す、とあるなかの、唐の詩人の「万事傷心在目前/一身憔悴対花 眠」があった。 昭和二十一年 一九四六 三 月、 「 雪 の 上 の 足 跡 ─ ─ 高 原 の 古 駅 に お け る、 二 月 の 夕 方 の 対 話 」 を新潮に発表、小説か随筆かの論議を残すが、これが生涯の作品らし い 作 品 の 最 後 と な っ た。 月 末、 角 川 書 店 よ り 刊 行 す る『 堀 辰 雄 作 品 集』の打ち合わせのために上京し、帰って床についた。一一月頃より 健康思わしくなく、病臥。 昭和二十二年 一九四七 四月「近況」 (「追分より」改題) 「この五月の末ごろの或る温かい日、 家のものたちと裏の山へ 楤 たら の芽をとりにいつて、つい気もちがいいま ま、二三時間 山で 0 0 過ごした。 」(傍点、堀) * 平成二十二年 二〇一〇 堀 多 恵 子、 四 月 十 六 日 夜、 追 分 の 家 で 永 眠。 「 そ の 夜 か ら 落 葉 松 の 葉のような雪が降りしきり、翌日は一面の銀世界でした。四月十七日 は、夫である辰雄さんとの結婚記念日でもありました。 」(岩崎信子編 著『かるいさわいろ拾遺』 )に、感慨は無量である。 *私の最後となった面会 やはり、追分での講演の後だった。雑木林のお宅から出る私に呟く ようにおっしゃった。 「 竹 内 さ ん、 私、 来 年 で 九 十 六 歳 よ、 な ん だ か、 こ の ま ま で 死 な な いような気がするの」 七 〈看取り〉の結婚者=随筆家堀多恵子 堀多恵子作品 女性譜は〈恋 ─ 愛〉の双方性からしてそれぞれ女性の側からのアプ ローチがあるわけで、妻多恵子の表現が求められる。随筆家堀多恵子 の成立、その最終が『雑木林のなかで』となった。たとえばその中の
「朴の花 深沢紅子さんへの感謝」 (一九九三年八月「軽井沢高原文庫 通信」 )に、 「野尻湖湖畔の荒れ果てた庭の草の中に咲くわすれな草を 見付け、しゃがみこんでスケッチをしていらした容子が懐しく思い出 されます。 」と書き、 「そうした可憐な花たちに心ひかれ、魅せられ画 家となって、沢山の美しい作品を残して下さいました。完璧な生涯に 思 え て き ま す。 」 と、 そ の「 完 璧 な 生 涯 」 は 多 恵 子 の 問 い で あ り 願 い だったように思われる。深沢は『堀辰雄の周辺』に「野の花や清楚な 女 性 を 描 い た 画 家 若 い 詩 人 た ち の あ こ が れ の ひ と 」 と 掲 げ ら れ た。 「 完 璧 な 生 涯 」 は 理 想 の 夫 婦 像、 こ こ 追 分 の お 隣 の 中 軽 井 沢 の 美 術 館 や 盛 岡 の 野 の 花 の 記 念 館 を 見 て き た 者 と し て、 多 恵 子 の「 生 涯 」 の 「 完 璧 」 が 問 わ れ た。 最 初 の 随 筆 集 は『 葉 鶏 頭 辰 雄 の い る 随 筆 』 だった。戦後、最初の多恵子の堀の生前の随筆は、 「 タ ツ オ・ 花・ 小 鳥 」 に「 い つ だ っ た か、 主 人 の 旧 友 ぬ や ま・ ひ ろ し さ ん が、 『 愛 情 の 問 題 』 と い う 小 さ い 本 を 私 達 に 送 っ て 下 さ っ た。 そ の中で夫婦、兄弟お互いを呼ぶのに、呼びすてにする楽しさをこんな ふうにお書きになっていらっしゃった。 」と書き出し、 『タツオ、もうねましょうか』 などと言ってみたけれど、なかなか自分の声にならなくて、い つ の 間 に か や め て し ま っ た。 今 こ の 文 章 を 書 こ う と し て、 主 人、 堀、 辰 雄 な ど と 並 べ て 考 え て い た ら、 こ ん な 事 を 急 に 思 い 出 し て、 こ こ で は タ ツ オ と 呼 ぶ こ と に し た。 ( 一 九 四 九 年 十 一 月 二 十 日、初雪の日、追分にて) と 書 く。 堀 の 病 を 看 護 す る 日 々 に み せ る 茶 目 っ 気 の よ う な 明 朗 さ。 「 む か し の 人 」 に 油 屋 旅 館 の 離 れ の 生 活 の 日 々 を 描 き、 辰 雄 の 子 供 の 頃の回想から、 「 お ふ く ろ が 生 き て た ら ば、 僕 は き っ と 黒 襦 子 の 衿 か な ん か か け た、 清 きよかた 方 好みの美人でも女房にしてただろうなあ」 と、私のすっかり田舎じみた姿をちらりと見ながら、そんな小 憎らしいようなことを言ったりしたこともある。 と か、 「 こ の 夏 も ま た、 急 に 病 気 が 悪 く な っ て、 随 分 お 友 達 の 方 々 に 御 心 配 を お か け し て し ま っ た。 こ う し た 私 の 看 護 の 生 活 も も う 長 い。私もいい加減度胸が出来てもよさそうな頃なのに、やっぱり少し でも容態が変ろうものなら慌ててしまう。自分の意気地のなさがほん と う に 涙 の 出 る ほ ど 情 け な く な る。 」 と 綴 る( 一 九 五 〇 年 十 二 月 十 八 日、信濃追分にて) 。綴る文藻は、堀の目を通しているかと推測する。 「葉鶏頭」では、 「最近の「展望」誌上に富士見の療養所長の正木先 生 が「 高 原 二 十 五 年 」 と い う 随 筆 を 書 い て い ら っ し ゃ い ま し た が、 」 と『風立ちぬ』 『菜穗子』のサナトリウム生活に触れつつ、 私達の結婚生活もいつの間にか十四年の歳月がたち、その殆ん ど半ば以上を浅間山麓に籠もってしまったわけです。ここ五年ほ ど、辰雄はだいぶ不調でずつと寝ついておりますが、それほど病 気を苦にせず、いまだに病気とたわむれているという風です。今
年はどうやら好調です。 この春頃 鶏頭の十四五本もありぬべし という子規の句を本で読んで、これは好い句だと申し、それか らいろいろ俳句のおもしろさなど聞かせてくれましたので、私も ひとつその真似でもと思って、…… (一九五一年十月一日、信濃追分にて) 「ふるい日記より その二」には、七月二日(日) 雨。 鯛がうまく手に入ったので塩焼きにし、野菜の煮込みに辰雄さ んの好きな茶碗むしを造り、二人で新築祝いをした。私は一人で 赤玉葡萄酒を飲み、病人の床のそばで何かとこれからのことなど を話し、明るい一日を過ごした。 読書休む。 とある、これが堀生前の多恵子の最後の文章。没後の追悼に、 「ふるさと」 (一九五八年五月二三日、信濃追分にて) 。 「 お も か げ 」。 「 私 は 今 で も 机 に 向 っ て 静 か な 気 持 で「 風 立 ち ぬ 」 を 読 むとき、自然に目頭があつくなって来るのをどうすることも出来ませ ん。 」と書き出し、 辰雄は自分の生命を大切にした人、自分の生活を大切にしたひ と、芸術家として、小説家として自分を高め、深めて行くために は自分に必要なものは努力して受け入れ、不必要なもの、肌に合 わないものからは心して遠ざかった。そんな人だったと思うので す。 だ か ら い つ も 自 分 を 孤 独 に お く こ と に 堪 え ら れ た の で し ょ う。 辰雄にとって自分というのは、辰雄自身と 自分の愛する者 0 0 0 0 0 0 0 を意 味しているのではないでしょうか。 (傍点竹内) 一九五九年一〇月、信濃追分にて と記す多恵子は「自分の愛する者」だった。そう確信できた妻多恵 子 は 幸 福 で あ っ た、 そ れ を し て「 生 涯 の 完 璧 」 を 言 え る か ど う か は、 やはり読者にゆだねられている。 『 堀 辰 雄 妻 へ の 手 紙 』( 一 九 五 九・ 昭 三 四 ・ 三 新 潮 社 ) に「 辰 雄 の 思ひ出」二文。 「辰雄の手紙」の最後に、 「この京都への旅は辰雄の生涯にとつての最 後の旅となつてしまひました。……戦後文壇活動が盛んになつて来た 頃、皆さんの仲間入りも出来なく、一人病床に呻吟してゐる辰雄を慰 め て、 「 晴 耕 雨 読 を 二 人 で 分 け あ つ て、 晴 耕 は 私 が 担 当 し、 雨 読 の 方 はあなたが引き受けて、静かに此処でくらすやうにしませう。気長に 元 気 に な る ま で 日 を 待 ち ま せ う 」 と 申 し ま す と、 辰 雄 は、 「 僕 は 元 気 になつたら今度は京都に住んでみたいんだ。お前は東京でも追分でも 好きな処に住めばいゝよ。さうしたら毎日お前に手紙を書くことが出 来るだらう。 」「しかしそれは、もう思ふやうに仕事も出来ないと思つ た時、手紙でも書けば仕事への段階ともなつてゆく、日頃の自分を考
へての、もつと切ないものであつたのかもしれないと、私は此頃にな つて思ひはじめてゐます。 」と結ぶ。 「辰雄の晩年」これは、 短夜の看とり給ふも 縁 えにし かな こんな石橋秀野さんの句を見付けて、 「女らしい、いい句だね」 と言つたのはいつ頃だつたかしらと、ふつと考へてゐると、あと からあとからいろいろの事が思ひ出に浮んで来て、私は又自分自 身をさいなむ気持ちになつてゐることに気づいて、あわてて考へ をそらせてしまひたくなるのでした。 と書き出し、茅舎、秋桜子、虚子、芭蕉の 山路来て何やらゆかしすみれ草 に及び、 やがて五月には七回忌がめぐつて来ます。何んの不自由もない 東京の生活の中で、あの厳しい寒さの追分に帰つてみたいと思ふ のは、何も大昔のひとびとのやうに死者の霊が山に棲むと信じる わけでもないのですが、あの「雪の野を赤あかと赫かせながら山 の か な た に 落 ち て ゆ か う と す る 日 」 を 見 た い と 思 ふ か ら な の で す。 と結んでいる。中途の堀臨終の看取りの瀬戸際の引用は、あえて控 え さ せ て い た だ く。 『 風 立 ち ぬ 』 の「 私 」 で あ る 堀 が 十 二 月 七 日 で 綾 子の臨終の八日、一日を省筆したのに、どこか倣う気持ちもある。 以上、多恵子夫人その人の文学世界が垣間見えて興味深い。そこか ら照応する堀作品を論ずることも求められるが、別の機会に委ねる。 八 生きることは文学すること /文学することは生きること 室生犀星から 堀とその文学を見守る代表的な文学者は室生犀星だった。そのいく つかに、 「日録」 (大一二 ・ 一〇「改造」 ) 七日、堀辰雄君来る。本所なれば母を亡くせしといふ。十九の美 青年この一夜にして二十一二歳に見ゆ。ともに泪なくして語るべ からず。 同十月十九日付書簡 手 紙 を 見 て 君 に や は り お 母 さ ん が 居 ら れ た ら い い と 考 へ て ゐ る。 と に か く 学 校 は や り た ま へ、 そ の う ち こ ち ら へ 出 か け て 来 た ま へ、 全集所収最初の来簡、金沢市上本多町川御亭三十一より、東京市外 葛飾本田村大字四ツ木二七八、上篠方宛 『母』 (大一三 ・ 五「女性」 『新選室生犀星集』 ) これは、堀からの聞き書きの告白体。 いまから考へると何が何やら一切夢のやうな気がします。だい
いち母があんなに惨たらしく死んだかどうかさへ私にはまだ信じ られないのです。……医者の話ではこんどの震災では非常に病人 が多くなつたと言ひますが、そのうちでも精神系統の発作的な疾 患が多いと言つたが、あなたのお父さんのはそんなに心配したほ どのものではない、 と あ り、 「 そ れ で な く と も 此 頃 の 私 は 妙 に 父 に 似 た 或 る 心 持 ち を だ んだんに踏んで行くやうで怖いのです。父の考へてゐることとは別で すが、父と同じい日常を送る私がだんだんに父に近い心持ちを継いだ り、知らず知らず模倣することはどうしても免れません。私はそれだ けが恐ろしいのでございます。 」と閉じられる。 位牌の裏書き「 震 ない わが母を見わけぬうらみかな」の記述もいたわし い。 『うつくしからざればかなしからんに』扉書きに これは作者のなかの一等うつくしいものに手をつけた愉しく哀し い、にじみでる人と人を現した作品、結局、私といふ作家はいつ も此処までまひもどつて、静かに息を凝らしてゐるやうなしほら しさが何時もほしいのではなからうか。 とある劈頭の小説、 『信濃』 (昭一五 ・ 二「改造」 ) モデルは、野木=室生犀星 泉辰太=堀辰雄 あや子=矢野綾子 小説=『風立ちぬ』 あや子からいへば一生に一度しかないやうな日々の愉しさが、そ のまま死へのみやげになるやうな日々であつたのだ。……かうい ふ生活のあひだにねばり強く生きて行かふとした泉は、誰も生き られぬところを生き抜いた男ではなかつたらうか。 と あ り、 「 わ た く し も 愉 し い わ。 」 は『 風 立 ち ぬ 』 の 一 節 か ら。 「 古 い年代の艶をいたるところの木地に見せた宿屋」とはあぶら屋。原道 夫=立原道造 鈴木=水戸部アサイ 津川=津村信夫 長野=小川昌 子 今治大佐=矢野透 綾子の父の「このころ泉さんがつれて歩いてゐる玳子さんといふ人 をあなたはどう思ひますかね。 」の玳子=加藤多恵子。 「あや子も大変 可愛がつて貰ひましたから、それに、わたしがお世話をすることにな れ ば あ や 子 も き つ と 喜 ん で く れ ま す よ。 」 と い う 言 葉 は、 堀 の『 お も か げ 』 に も 使 わ れ た。 「 人 情 と い ふ も の の 生 え 抜 き の 美 し さ を 泉 辰 太 によって、余りにも鮮かに見せられたのが、 」とか、 「野木さんわたし もこれであや子の心をかなへてやることが出来ましたよ」と多恵子の 結婚が導かれる。立原の病床を見舞っての「この少女の顔には原と一 緒にどこへでもついてゆくといふ固い決意と、極端につかれた黄ばん で ゐ る も の が 得 も い は れ ぬ 優 し い 色 さ へ 見 せ て ゐ た。 」 と は、 津 村 信 夫 と 江 古 田 の 病 院 を 見 舞 っ て の「 一 等 う つ く し い も の 」「 愉 し く 哀 し い、 に じ み で る 人 と 人 を 現 は し た 」 も の( 『 う つ く し か ら ざ れ ば か な しからんに』 (昭一五 ・ 六)扉書き)だった。
「日記」昭和二十八年 五月二十八日 堀辰雄死す。朝子をやることにし出立。……朝日 新聞に堀の死亡報告が出てゐたが、少し派手だ、何かの便宜によ るものか、文芸春秋社でやつてくれたのかも知れない、ラジオの 録音放送もあり堀の死は堀のふだんにくらべて華やかである。し か し 追 分 村 の と 葬 ら ひ は、 身 に つ い た し た し い も の で あ つ た ら う。 「悼詞」 (昭二八 ・ 八「文芸」 ) 堀君、君こそは生きて生きぬいた人ではなかろうか、一日の命の あ た ひ を て い ね い に 手 の う へ に な ら べ て、 劬 は り な で さ す つ て、 けふも生きてゐたといふふうに、命のありかを見守つてゐた人で な か ら う か。 …… 君 危 し と い は れ て か ら、 三 年 経 ち、 五 年 経 ち、 十年経つても、君は一種の勇気をもつて生きつづけて来た、 『我が愛する詩人の伝記』 「堀辰雄」 病床十年を切り抜けたところで夫の死を見た彼女は、烈婦のカガ ミのような人であった。カガミはいまは辰雄の小説の中から美し い 嫉 妬 を ほ じ く り 出 し て、 そ れ を 唇 に く わ え て 遊 泳 し て い た。 ……そういう堀は愛している人にも、つまり半分言ってあと半分 を察してもらっていたのであろうか、愛しているのか、愛してい ないのか、もうろうたるものもあったとしたら、それはたえ子夫 人によく聴いてみないと判らないことである。堀は誰にでもほれ て い た、 誰 に で も ほ れ る と い う こ と は 男 の 素 直 さ に よ る も の で あ っ た。 だ が 誰 に で も 口 説 い て み る と い う こ と を し な い ほ れ 方 は、男であるための美しい徳であった。 とは、この際、 「堀辰雄/看取りの結婚者」の論題に応えた、 「信濃 路にみる〈恋 ─ 愛〉のメモリ」の証言ともなろうか。 それにしてもたえ子夫人の看とりがなかったら、堀はあんなに永 く生きていられなかったであろうというのは、あとに残った私ど もが彼女におくる褒め言葉だったのである。彼女はそんな褒め言 葉なぞいらないと言うだろうが、横を向かないで受けとってほし いのである。 今ここ、に! 犀星の多恵子評は、峻烈にして大悲、慈愛。我が愛 する詩人「堀辰雄」の掉尾であるとは!。 付 宮崎駿製作アニメーション映画『風立ちぬ』の構図 堀越二郎×堀辰雄 東京(下町・上野広小路・代々木上原・成城) 軽井沢高原・万平ホテル・富士見高原療養所・名古屋製作所 ロマン・飛行機/文学 大震災・世界戦争・結核 菜穂子+節子
〈 恋 ─ 愛 〉 の メ モ リ ─。 雪 中、 結 核 療 養 所 を 出 奔 し た 里 見 菜 穂 子、 堀越二郎と製作所上司・黒川夫妻のはからいで結婚式をあげ黒川邸の 別室で新婚の生活、だが、死を覚悟した菜穂子、置き手紙を残して一 人療養所に立ち戻る。 生きて! そ れ は 死 に ゆ く 節 子 + 菜 穂 子 の 究 極 の 叫 び、 看 取 ら れ た も の の 看 取 っ た も の へ の 遺 言、 愛 の 詞 章。 「 生 き て! 」 と い う 女 の 声 は、 看 取った男に託された(男は飛行機製作所にあって不在だが) 、『風立ち ぬ 』 の 生 と 死 の 声 が、 現 代 に お い て 生 の 声 を よ り 強 く 響 か せ て い る。 こ こ で 節 子 が 菜 穂 子 と 呼 ば れ、 『 菜 穂 子 』 の 片 山 広 子・ 総 子 母 子 へ の ロマンに結ぶとき、信濃路の〈恋 ─ 愛〉のメモリは、全き綜合への路 を得ることになる。 結 うつつのカガミ(鏡・鑑) 、或いは論の帰趨 作品論の試み
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それがこの世にあって、出逢った師の一人、三好 行雄の論題であった。これを逆縁ながら、私は、作品論は、最終、作 品であらねばならない─
と想を発して、出版したのがわが処女出版 『堀辰雄の文学』であった。 「 文 学 研 究 に お い て、 窮 極 作 品 論 し か な く、 文 学 史 を 想 定 す る と し ても、作品論→文学史であって、その間に入るものとして芸術論、風 土 論 そ の 多 が あ る だ け で あ る。 」 と 年 譜 → 作 家 論 を 避 け よ う と し た ス トイシズムは、さすがに今はないが、ここ文学記念館でお示しした資 料 は、 い わ ば 作 品 論 の た め に 用 意 し た 創 作 ノ ー ト で あ っ て、 今、 こ こ、から論題の作品論を試みなければならないのだ。 アニメ『風立ちぬ』で制作者宮崎駿らがあらわしたものは堀辰雄文 学の受容の一つの典型である。 堀多恵子において著された文学の受容を、信濃路の〈恋 ─ 愛〉のメ モリとして受容し返した私の作品論は、堀の代表作『聖家族』と『菜 穂子』の間に『風立ちぬ』を構えたロマンに、生きて! の願いを差 し挟んでの、堀文学に自らも対峙しつつ、それには半世紀の生前、没 後の自らの生涯を注ぎ込んだ文学への未来への参与であって、さきわ いであった。そのための文学記念館であったといえば、おちにすぎる だろうか。 節子+菜穂子の間にあるもろもろの女性譜を、犀星の言葉をかりれ ば「烈婦のカガミ」は夫の小説の中から「美しい嫉妬」をくわえて夢 とうつつの間を遊泳した、堀の師の一人犀星亡き後も、生きて九十七 歳を閲した多恵子夫人は夫人という立場をかなぐり捨てて、随筆家と して著作をかさねて、辰雄─多恵子の文学世界を、今、ここ、に現し ている。 〽︎思へば伊勢と三輪の神。思へば伊勢と三輪の神。一体分身乃 御事 今 イマサラ 更 何と 磐 イワクラ 座 や。その関の戸乃夜も明け。かくありがたき夢の 告 ツゲ 。 覚 サ むるや名残なるらん覚むるや名残なるらん 謡「三輪」のキリ。シテの謡う伊勢の天照と三輪の明神は本体は同 一、 磐 いわ 座 くら や「 か く あ り が た き 夢 の 告 」、 夢 の 告 げ は 名 残 を の こ し て、 あ り が た く も、 論 ず る 者 の〈 恋 ─ 愛 〉 の 御 座 を 守 る。 夢 か う つ つ か、 うつつは夢か。現の今、ここ、千葉野の住み家で、論の結びを尽くそ うとする。 日本における近・現代の恋愛の「磐座」は、近代以降の即位の正殿 の儀が、天皇・皇后二つ並べた座であることに則っている。これも一 つ の め お と( 夫 婦 ) カ カ ミ( 鏡・ 鑑 )、 妹 いも 背 せ の〈 恋 ─ 愛 〉 の か が み と なった。 覚むる名残に、本稿を結ぶ。まさに令和元年十月二十二日、令和天 皇即位の 高 たか 御 み 座 くら ・正殿の儀が執り行われた。伊勢と大和の祖霊への即 位のご挨拶、報告に赴かれる。 多恵子、結婚して十五年、辰雄歿して五十八年を生きて、九十七年 の生涯は、やはり見事であったと讃えるばかりである。その間の愛別 離 苦 の 修 羅 は ま た 別 様 に 語 ら れ る。 近 現 代 の う つ つ の リ ア リ ズ ム は、 今、ここ、の先にメモリとして語られる。