日
本女讐更の研究
(一一〇p)讐墨士 吉
岡
博
人
繕
腎
圓
豫め御断りして置く。此の緒言は﹁日本女讐史の研究﹂としての緒言ではない◎實は此に私が一般に﹁女真愛﹂といふもの に興味を持ち初めた動機とでもいふべきものを記したいと思ふのである。そして私は今後事情さへ許せば、 ﹁日本女馨皮﹂の 研究より、進んで﹁駄留女讐皮の研究﹂に進む豫定であるから.此の緒言は.寧ろ﹁東西女馨皮の研究﹂の緒言ともいふべき ものであるQ 閑話休題、先年叔父正明が、漱米よ動鶴朝の際.簑震るづδ円塚do簿電讐畠凄雪岡g慧鴨Φ.、び図ピ9密質置鴛二八自巴①なる一書を 携へ脇つた。開いて是を見るに、悪騒としては仲々内容の確齢し潅ものを書き.殊に英忍女讐史に就きては、該博なる知識を 以て、要領を得て書いて居る。是は私にとっては或る意昧で啓蒙的の文献で竜あったのだ。そこで此の書を繹帯する事は.日 本の女讐諸君にとっても極めて有意義の如くに感ぜられ、且つ自分にとっても語墨の勉強になること転思って、大正十三年四 月號の﹁女霊界﹂から、母の名で生れて秘めて、翻諜といふものに手を着けたのであった・それは丁度私が高等學校三年生の時の 事である。それから殆ど毎號欲かさす課点して.昭和二年七月號、第三十回目を以て課了したのであった。考へて見れば足掛 四年の月日を費し、その闘私は高等墨校三年よ砂大葉三年に警んだ諜であった。 けれど.斯ういふものを.毎號途切れ∼∼に謹配したのでは.どうして竜、本の眞債が傳へられぬと思つで、箪行本にしたい 告職“日本女繋更の研究 一こ九士ロM囲﹃日屯A∴女盤史の研究 一三︵U と思って居った所が、菓書隷より二年里馬、此れを出版してくれといふ依頼を受けた。その際、その書灘が是丈では原稿が足 らぬから.側本の女馨に就いての原稿を補充してくれぬかといふ事であった。そこで私は、書離の期限までに、 ﹁日本の女馨 史﹂に就いて纏めて見ようと思った所が、到底出來ない。何故なれば、日本に於ける女醤の歴史といふものは殆ど分って居な いといふことを焚見したからである。富士川博士の﹁日本讐學史﹂を見ても、﹁女醤﹂に就いては、ほんの僅少の頁を三栖て 居るに過ぎない。同博士が、三省堂の﹁日本百科大躍典﹂中の﹁女早﹂の項に就いて執筆して居られるが、是亦﹁女轡史﹂ゐ 名付くべき程の分量ではない。斯る専門大家にして此の如しとすれば、﹁日本女至仁﹂といふものは、學界未開の分野と考へら れるのであるQ 然るに、﹂方前述の私の課了したものを、讃み返して見るに,丈字通りの悪難、到底上梓するに堪えないことを知り、此に 於て噺然、私は畢生の業として、東雲の女讐史の研究を完成せんことを思ぴ立ったのである。そして、二君との契約は破棄し 私の研究の成れる時聚行せんことに決心したのであった。 爾來、本職の衛生學研究の傍、余暇を愉んでは、束酉の文献の蒐集に努力し、現在では小書架に充満する程となったのであ る。そしてそれらの書籍をぼつ一讃み行くに從ひ、欧米の研究は殆ど完壁に近いに拘ちす、日本女讐史の研究は異常の困難 なるに一驚を喫した程で、その愛嬢とすべき材料が容易に手に入らないのには閉口したのであった。 斯くて、馴初は﹁日本女讐史﹂は到底手が着けられぬやうに考へられ柳か失望したのであったが、あらゆる機會を利用して 史料の蒐集に努めた所が、漸次朧氣ながら、前途に光明を認むるに至ったOである。それは入名録その他文献等を葉叢よく盲 減法に探索して居る中に、回り知られて居ない女讐がぼつく焚見されて來たのである。 それで卒生は自分の研究が忙しいので、夏休に輕井澤千ケ瀧に赴いた飾、必ず研究の成ったものから、整理し原稿を作った それが、今では無爵の分量に饗したのである。されど是が完成は何日の事か分ら歩、寧ろ何等かの羅誌に、研究の成るに從っ て揚姦し、 ︵夫故、揚載の順序が年代に從はざる事を諒せられたい。︶大方の叱正を仰ぎ、慾を去へば史料の御提供まで願へ
れば勿怪の幸といふ課で、本號よゆ蓮載することムなったのである。歴史の專門家でない私が.女馨史といふ如きものに手を 染めた理由は、如上の通りである◎護者幸に是を回せられよ。 此の研究に際しては、富士川游博士の御懇篤なる御教示を賜び、畏友板倉洋吉漕が資料の蒐集に一方ならぬ御薩力下されし 事を、此の薫習に際して深謝の意を表する次第である。また成女高等女學校長宮田葺石より富貴軍なる書籍の御貸與に滞り、 日本斎燈會幹事多川澄子氏、、杉田鶴子氏よむ懲資料を提供せられし事を感謝する.、街筆爲の勢を執られし前田倭子氏、吉岡八 重子に謝意を表する。
明治以後の女警
概
読
我が國に於て女馨皮を書く者は、正確に孟へば明治から初めなければならぬだらう。何故なれば、明治以前に﹁女色﹂と唱 ふる者があっても、それは,眞の意味では,産婆。看護婦の類であるといふも過言ではないからだ。 明治時代は、総べてのものに革新の氣充ち充ちた時代である。制度も脅慣も。階級も門地も。傳統も、殆ど全く一掃されて ﹁明治新政﹂の名の下に、﹁文明開化﹂の標語によって・溌溺たる意氣を以て・活躍を試みようとした時代であった。新肚會が 新玄徳が、薪思想が、iあらゆる新丈化が建設されて行ったのであった。されば女性の世界にも,どうして改新が行はれな いで居ようか。 私は﹁明治女醤史﹂を語る前に、癒着治女性崖に就いて物語らなくてはならない。いふ迄もなく﹁女讐史﹂は﹁女性 史﹂の一部分に渦ぎないから。﹁綴本史﹂を﹁女性史﹂に關聯しつ玉見てゆく時.初めて﹁女署史﹂自身の本質が認識される のである。 吉岡11日本女轡史の研究 コ一二吉岡け日本女讐史の研究 コニニ 明治時代。それは日本の資本主義に礎石を置いた時代であると考へる時に最もよくその根本的特徴が把握されると思ふ。 すべての制度、慣習が打破せられて、そこに黙黙に移入せられたものは、西洋の物質文明.であった。それが爲に從來の杜會生 活は一果すること玉なった。即ち封建駐會が一いふ迄もなく、農業本位の杜會であったのが一1明治維新を一韓機として、 こ玉に商工業本位の肚會が出現したのであった。 斯る誓言の出現は必然的に、男滝の家庭形態を攣化させすには居られない。何故かと云へば、商エ業の繁榮には、どうして も都會生活が必要である。さうなると、入ロはどし、/\都會に集溢してくる。從って土地に附着した農民の様に自給音楽は出 來ないで、物資は金銭を以て購入する様になる。依て斯る肚裂溝攣動は、婦人の生活、就會的地位を改照せすには居られない 帥ち昔日の如く、婦人は土地も耕さす、機も織らすその他文明の進歩と共に.諸々の家庭内の流勢は.婦人の手より解放され て來た。從って、婦人の家庭に於ける仕事は、漸次その範園を嵩めて行ったのである。それと同時にといふか、それに反此例 して家庭の金鈍の必要は点々増大して來た。要するに、我が國に於ける﹁産業革命﹂が、漸次此の時代より完成に向って來た のである。從って、此等の事情を動機として婦人も途に從來の如く家庭内にのみ山踏して居る課には行かなくなった。然し乍 ら婦人を斯く活批會に活躍せしむる檬になったのは.必ずしも斯る維豪語動のみに依ると見る繹には行かないだらう。斯く婦 人を黒髪に投げ出して、從來の家族制度を七言せしセるに拍車の如き役割をなしたものは、云ふまでもなく、指掛楡愛せられ た西洋思想である。 西洋思想の汐先に輸入せられたものは、ミル・ベンザム等の功利主義思想である。それを輸入紹介した先騙者は、幅澤論吉 である。そして是等が我が女性に與へた影響が、かなり大であったことは自明である。殊にミルの唱へた女性の自由平等と猫 立の論は、我が國に深い影響を與へた。斯る思想を根抵として、明治九年には、土居光華の﹁三明論女大様﹂が出版されたの であるが、それにも優して、肚會に深き衝動を與へたのは、明治三十一年に出た輻澤楡吉の﹁女大學評論﹂及び﹁新岡大學﹂ であった。是等の著述に依て、明治の女性は如何に奮來O家庭生活が不合理であるか、そして如何に女性が忍從の生活を績σ
て來たかを.はっき砂自畳したのであった。 是を至るに,自由、亭等、博愛といふ餐個人圭義思想が.斯く盛に輸入せられ藁たのであるから、これまで蒙﹄の 爲には個人などは殆ど顧みられす、盲從と義理に縛られて居た家族制度の根幹は、漸次こ玉に動揺して断て、新蕾恩想の衝突 婦人の家庭外への飛躍は時代と共に増加して來たのである。 績いて日露戦争前後に齎された交藝上の自然主義とイプセンやエレンケイ等の新婦人道は、婦人の枇會的自畳を釜々促して 行ったのである。 一斯ういふ時代を背景にして馬明治政府は,西洋の⋮教育制度を輸入し.女子敏育を盛にしたのであるから、女性の自畳は 斯る方面からも促されたといび得るのである。 斯も時代を鳥轍的に親て行くと.心入が.憾んで就會に入って職業を求むるに障害となるものは何物もない。否それを促進 せしめる條件のみ備はつて居るといふも過言ではないのである。鋤ち外は肚曾生活の薦骨よめ來る必然的結果と,内は女性自 身の自畳とよ吟、多数の婦人は職⋮菜戦線に臨まぎるを得なくなつ潅のである。 斯る聴講的情勢であるから、讐師といふ世界にも女性が出現するは,猛りにも轟然なことである。而して私は明治以後の代 表的女讐として、荻野吟子、高橋瑞子.吉岡彌生の三女皮を學げ様と思ふ。世には、課口岡彌生を以て、我が國女讐の嗜矢であ るかの如く誤解して居る入があるが.第一代の女署は荻野吟子である。荻野は、時の衛生局長、長與触診氏をして途に女子にも 馨︻術開業試験を届くるを許可せしむるに至った婦人で.女変か馨術開業試験に及第したのは、明治十八年三月のことであった のだ。斯る時代に.女難となったといふことは到底凡庸なる婦人でないことを謹するに募りがある。高橋瑞子は、女子として 馨出校に入早した最初の婦人で・女工も時の濟生學舎長、長谷川泰氏を動かして、それ迄男子のみ入學を許可せられて届た逆蓮 學倉、明治+七年+二月に入墨を許可せられたのである。女更は、眞に男性の生れ響の袈人で,その奇談逸事は.鍛知 れないのであって、後章に詳述しようと思ふ。吉岡彌生は.我が國に女子の歯質校を設立した最初の婦人で、その設立は明治 霧筒“ロ本女磐史の概鴛 一蚤二
冑隅騒ロH本女馨点の研究 =嵩四 三十三年のことである。吉岡に労する事蹟についても後章に詳述すること玉ならう。何れにしても、此三女史は、我が國の女 馨史を論ずる者にとっては、逸するぺからざる人々である。こ玉に、荻野ぎん子より吉岡彌生に至る書術開業試験に及第せる 女留の氏名を列しよう。此の氏名は、内務省の原簿を零した者であるが.震災の爲。内務省でも原簿が焼失し、辛くも官報に 依て,再び原簿らしいものが出血上ったのであるから,多少の誤記は免れないかもしれない。加ふるに、男警であるか.女醤 であるかは、軍にその筑名より推察するに過ぎないのであるから、多少の不正確さは已むを得ざること塾して、左に記すこと 曳する 警籍登録年月 明治 + 八
伺同同同同同同同同同同
年
二十年三月
二十年十二月
二十二年七月
二十三年一月
二+四年.三月二+四年七月
二+四年八月
二十五年三月
二+五年四月
二十五年山ハ月二+五年+月
輻宮栃東東岐岐群翻愛埼埼本
島城木京京阜阜馬岡知玉玉
縣縣縣府府縣縣縣縣縣縣縣籍
加山本 賀丸
改
藤崎田 川茂 姓
中日水俘山深村露宿高生荻
野野澤 温血上樂田橋澤野姓
ク吟
セ りナハ
eム
ン瑚ノ子名
ルツネ巖ウ
ミ 歌 ネ同同同同同
ご十五年十一月 同二十六年二月
同 二十六年五月荻
野
同静愛神静
岡知奈rti
川
懸縣縣縣
ム魂 麗子
吉江鼓藤
周聞 田
鷲富久棺丸
藤田木橋
㌔島 千早力
生ネ調代ツ
﹁人その友の爲に己れの命をすつるは此よ砂直なる愛はなし﹄。 是は吟子刀自生前の愛踊の聖句であるが、刀自の一生は誠 にこの聖句そのものを.身を以て行ったのであった。全女性の爲に、貴き愛の化身として.愛の輻音を傳ふるものとして、そ の牛涯を全く犠牲にした女性であった。 刀自の傅記を調べれば調べる程、斯る印象を愈々深く感ずるのである。先芸者たる不屈不擁の精紳に加ふるに.温情玉の如 き女性味を以て一貫した生涯を.私ば出熱るだけ忌門に書きたいと思ふが.文これに俘はざるを遺憾とするのである。日本に 於ける女馨の阻﹁荻⋮野吟子﹂の四字は.日本の女魚津を物語る者には馬到底逸することの出來ない巻のである。乞ふ、暫く刀 自、の傳記を語らしめよQ 吟子刀自は荻野綾三郎の第五女で、嘉永四年三月三臓.埼玉縣犬里郡泰村に生れ江。幼時より學問を好んで,早くよ⑳才媛 の轡があった。そして書翰の碩儒松本萬年翁に就いて漢文學を修め.黒皮百家の書に通じ.其造詣淺からす、萬年翁の息女で 轟者名の漢學者たる松本荻江女皮とも義姉妹の交を結んだと云ふことである。 がぐ吟子刀自は、肇問を好んで居たので.皐を以て身を立てようといふ志があったが,偶々紹介があって、明治六年東京に 出て、國愚者で歌人なる井上霜囲氏の門弟となった。時に年齢僅に廿三才であったが、非帝の勉強家で、師もその學識を認め .由口岡“口Hホ女搬嗣史の瀞耕究 一三近吉岡罰日本女鰐口の研究 一三六 翌七年には、既に聰せられて、甲府に赴き、内藤豪壽子虚構の経費に係る女塾に教鞭を取るに至ったのであった◎ 翌明治八年には、刀自の向墨の念は愈々彊くなって、現今の東京女子高等師範學校の前身である、民営の東京女子師範學校 がそ.の年に開設せられたので、卒去して入書したのであっ充。時年甘五である。先患者となる人は、何事につけてもその着眼 鮎の凡ならざると同時に、その勇氣有る事に敬服せすには居られないものであるが、刀自についても.斯ういふ例を見るにつ け面々その感を深うするものである。斯くて四年にして、即ち明治十二年七月優等の成績を以てお茶の水女高師第一同卒業生 となったのであるQ 私は、こ曳で、一寸立戻って、最も我々に興味あり、且つ重要である刀自が女讐となった動機に就いて述べよう。汐時帥ち 明治の初期は.否中期頃まで、早婚が一般の風であったから、刀自も十六歳で郷里の薔家に縁付いた。然るに聞もなく重い婦 人病に冒されて、二年聞も東京の順天堂讐院の病室に坤吟ずる身となった。此間に、刀自は熟々斯る病氣の際に男馨に診察し て貰ふことを不快に感じて,女讐の必要を痛感したのであった。是が後年刀自が忍摺となった動機となったのである。英國の 女面の輯、エリザベス④ブラックウエルの女讐となった動機も殆ど是と同一であるが、東西その軌を一にして居ることは、偶 然とは云へ、人情に攣りはなきことを感ずるのである。刀自のこの疾患は.遽に全治するに至らす爾來殆んど情態となり、而 も斯る病弱の身を以て、前述の如く退院後釜もなく井上頼囲氏の門に入砂、進んで東京女子師範學校に學んだのであるから、 盆点異性の馨師の不便を感じ、愈々他日學が若し成就したならば、自ら卒点して書業に從具することを心に響く誓ったのであ った。 そこで、東京女子師範學枚を卒業せる明治十二年.その年の十月に、刀自は愈々素志を貫徹すべく、石黒忠恵子爵の紹介に 依って、下谷匿練塀町にあった好壽院に入墨した。好壽院といふのは.侍轡讐學士高階経艦橋の主宰に係る當時民聞唯一の讐 學校であった。而して、刀自が此の學校に入聾するについても決して坦々として入聾したのではなく、その時の女子師範聖書 幹事の永井久一郎氏の紹介に依り、石黒子爵に面碧し、その意を告げた所、石黒子もその心を諒とせられ、種々鑑力の上、初
めて入墨を許町せられたのである。 かく入器が出來たのは好いが、天は斯る女傑を大成せしむるに決して未だその刀自の苦痛を和げす、更に維濟的に苦しむる に至った。元來刀自が學問に志すことは.兄弟は云ふに及ぱ歩,親戚も賛成ぜす.只一姉野羽とも子女史の助力があるのみで あったから、その勉學たるや文字通りの苦學であった。墜ち女子師範を卒業する迄に既に尋常人の耐ふべからざる苦痛を嘗め たのであった。現代でも嬬人が高級の墨問に志すことは容易の事ではないのに、況してや明治初年に勉學するのであるから、 反乱の多かりし事は察するに早りがある。されば更に慎んで、讐術を修めんとするのであるから、刀自の決心は、異常なもの であり、而して、亦その困難も今日では到底窺知出來ない底の癒のであったらう。 そこで、刀自は経書的に自立の道を得べく.海軍兵語校敏官荒川重平氏、互商高島嘉右衛門氏、農商務省書記官前田正名氏 刷領事太田即言氏等の家庭無罪、或は敏育顧問となったのであった。然るに.是等の家庭と學校との距離は、殆ど一里に垂ん として、而も交通機關の不備である時代であるから.その辛苦たるや署しきものであった◎それにも係らず、刀自の志は百難 を経て釜々堅く、毫も嗣態の態がなかったのである。 こ玉で、私は、刀自が家庭教師となった荒川氏との關係に就いて物語らなくてはならない。 荒川重雫氏夫人は、栃木縣の出身で夙に単磁女子師範を卒業して居たが,新聞紙上で刀自の用器志望及苦心を知って、大に 共鳴し、刀自を敬慕の飴⋮り上京し.共に下谷優練塀町に假寓し、物質的に女史を援助し.精帥的に助け合ひ乍ら、共に讐學の 道に精超したのであった。所が、磁界夫人は.父を除く外馬溜一同が女学となる事に反立したので、野牛ぱで慶試し、荒川氏 と結婚すること玉なったのである。けれども夫人は結婚後も常に女史の苦學に同情して、前記の如く、刀自が自活の爲に家庭 教師として日に里飴の道を往復したの響,刀自を自邸に招き.家庭教師を依頼して、其経濟的困窮を助けたのである。刀自は 此薩で後期の試験にも及第して馨師となる事を得た◎ 1一斯くて、刀自は好皇院に於て苦學力行すること三年.明治十五年十月、遽に首尾よく卒業の榮轡を荷つたのであった。 曽岡“日本女瞬史の研究 一議七
吉岡μ日本安讐史の研究 一三八 然るに、警塾校は卒業したはしたもの、、當時女僧には開業規定がなぐ,、折角修得した讐術は寳の持腐れといふ・課であっ た。斯くて天は此の女傑を大成せしむるに、様々の難關を提供したのであった。刀自は自ら屡々當局と折衝して其抱負を述べ 素志の貫徹に諌むる事一再でなかったが、容易に所志を果さす、斯くして、荏再ニケ年の歳月を維過してしまった。刀自は、 此に於て決心したのであった、﹁自分は同性患者の慰安者となり、犠牲者とならうと思って筈術を學び、且つ女子の爲に虚し き職業の道を開かうとしたにも拘らす、我が國の制度の不備の爲政府が認めないならば、外國に行つτ要脚椿を求め、齢朝し ・て堂々門戸を張って、開業しよう﹂と。その決心や、寧ろ悲批のものがあった。斯く刀自は背水の陣を敷いて、更に我が當局 と折衝せんと、前蓮せる如く好壽院時代に家庭教師をして居た高島嘉右衛門氏に、先づ其識見を話した所が,氏も此の三曹に 大に共鳴し、刀自の奮師たる井上頼囲氏に署して、歴史上より本邦女鵬の滑革を調査せしめ史實の徴すべきものあるを握るに 至った。 依って刀自は、再び素志を貫徹せんと、時の内務省衛生局長、長與專齋氏を訪ひて、論難数刻に渉って、途に長與氏を読服 し、氏の大膿なる英臨に依って、男子と同様開業試瞼を異くる裏を許可さる曳に至ったのである。この事によりて我が國に初 めて女醤が出現するに至ったのである。刀自の努力は誠に徒爾でなかったと云ひ得よう。 一斯くして、明治+七年九月置は、前期試験に及第し、翌十八年三月過は、後期試験に及第し、此に初めて、我が國最初 の女讐となり、且つ謄業を開く資格を獲得したのである。 然し、此の長野局長が英霊を以て許可したのも、先に刀自が書留院に入焦する際に要脚されし石黒子爵の助言が、興って力 があったことを忘れてはならない。 こムで私は刀自の女讐とな都迄の奮闘談を直接聞いて見ようと思ふ。 1私の醤者になりました動機と申して格別普きな抱負があったわけではありません。自分が永らく病身になやみました時 三聖の必要を痛切に感じましたので、どうかして聖業を學び自分の病室をいやした上、自分と同様男馨にか掛るのをつらが
つてみる婦人の病者の爲に空したいといふ希望を起したに遍ぎないので御座います。そんな考を抱いて居たところへ、和漢 名数といふ書に偶然、承了博士なる文字を見出しました。それから興味を喚起しましていろくの書物をあさって見ます 内に、了義解といふ本に割合委しく女讐の事が記されてあむました。書物に因って見ますると日本でも極古代から女讐らし い者があったのは確であります。役人の娘で極怜剛な者七入を撰み御殿内で博士が讐學上に評する事を口授し之を修得した 者は内侍所の傍に設けられた室で灸三等の御用を勤めたと言ふ事が見えて居ます。︵之等の調べた事は何祖次號にでも御話す る折があるであらうと思ひますから略します︶。 兎に角総量になる志望を起しまして.明治+二年九月當時の侍馨高階経徳氏の開いて居られる好呈露といふ讐墨校に這入 日ました。結託に這入る事が出和まし允のは石黒男爵の御世話であったのでござい託す。此石黒男爵を知ったのは初め永井 久一氏︵當時私の富ました女補正の幹事をして居られました。︶に卜者志願の意を蓮べまもた塵、同氏から石黒さんに添書を 頂きましたので、これに自分の考を認めたものをそれにそ’へて持って上ったのであります。石黒男爵は私の心を諒して下さ いまして大攣御需力下され、工面院へ入監する迄の運びにして下さつ旋のであのます。明治十五年に工事を卒業いたしまし たが、肝心の開業試験と云ふものを受ける事が出塁ません。まだ女子が読師冤許状を得た前例がないのであります。折角鳶 凧を學んでも古れを人に男用するには資籍がなければ所志を果す事ができません。卒業してからこ年の間と言ふもの、この 爲に東奔西走致しました。東京府へ足を並んだことも幾度だか知れませんが、なかノ\とむあっては呉れませんでした。こ れはどうしても當局の内意を知るよむ外はないと思ぴまして.明治十七年四月,高島嘉右衛門氏の紹介朕を貰って衛生局長 の許︵當時局長は寮長與專齊氏でありました︶に窪むまして内意を伺ぴまし陀。そして愈々許可して頂けねば海外へ行く外 はないと畳満したのでありました。虚が長與民は許可してもよい.と言ふ御考へだったのです。已でに醤學を修得して出願 したのは女では私が初めて穿あったそうで,學力がある以上は開業試験を受ける專を許可して差支へない、と言ふ事になウ ました。それに力を得まして、同十七年九月前期試験を受けて.嘗尾よく及第致す事が出來ました。 吉岡“日本女讐曳の研究 一三九
吉岡h”日本女讐史の研究 ﹂四〇 判型女子の前期受験者が︵最初の受験者︶私以外に三人ありました。木村秀子、松浦さと子、岡田みす子の方々で、此内初 の二人は成肥會出身︵高木鍍世世が校長の海軍軍讐の愛校でありました︶でした。此御三人は此時不合格でございました。 そして今は皆故人となられましたQ 翌十八年三月には後期試験を及第致しまして、同年五月木郷湯膓三組町八十四に初めて開業致しました。開業した時も女 醤は私一入きりでありました。 以上が受験當時のあらましで御座いますが、それから星移り物鍵り、廿八年ばかりの間に、我國に裏罫が二百人も御出來 になったことは何だか夢の様で、その長足の進歩に驚かすにはみられません。そして眞から,此の隆盛を喜んで居ります。 私など唯必要に迫られて女醤と云ふ者になったと言ふ丈であ塾まして,砒會に豊した虚は極微々たる者でございます。又 それ丈の天分しかないもので御座いますけれど、皆様方は御自愛遊ぱして立派な御成功を遽げられ肚會の爲に大に御貢献な される慕を切に所って居ります。 ︵日本女盤會雑誌第一磐第一號四−六頁︶ 明治十八年三月に、署術開業試験に及第して讐師となったのは前述の通りであるが、及第すると直ちに本郷匠湯島三組町に 開業したが、漸次盛業に向ひ、狡隆を告げたので、下谷匿西黒門町端居番地に移忘した。實に我が國に女留が開業した噛矢と いふ事が出來よう。刀自の當時の感慨は,どんなであったらう! 私はこ玉で此の傅記風の記述を攣へて、刀自の性格,逸事、エピソード等を物語らうと思ふ。 刀自の性格に就いて述べれば、記憶が強いといふより、根氣の好い熱心な人であった。それは女史の生涯を見れば直に分る ことである。爲翼でも分る通り身隈の小さい容萎の端麗な入で、後述する所の高橋瑞子女史など玉は正反封であったが,見掛 けに似合はす謄力の大きい人であったQ此の黙は爾者共通して居たと添ふ事が出縛る。かく刀自は細型の美人であ・つたから、 かなり誘惑も多かったらしい。殊に讐學志望を援助するべく見せて,誘惑叉は迫害する人もかなりあったのである。現代でも こういふ實例は数多あるのだから、況してや、當時婦人が職業を以て猫立しょうとしたのだから,さぞ色々の察件に出逢はれ
たことだらうが、刀自の事事の意志は.是等を切抜けて進まれ云たことはふ迄もない。斯る一面にまた一方遺嘱家であった。 それは同性の婦人病者に同情の齢の、白痢を有する蒲柳の身を以て女馨たらんと志した一事を以ても推測し得られることであ る。 更に刀自の情熟家であったであらうといふ例を述べたいが。それが爲に.女婁の傳記を今少しく綾けることエするσ刀自が下 谷匠西黒門町に開業した事は既述の通勢であるが.その後明治暦年六月本郷敏會に於て.田ロ卯吉氏夫妻と共に牧師海老名暉 正氏より洗禮を受けた。元來刀自は幼時から敬度の念が厚く,前記の如き情熱家であったから、宗敏家たる風格が自ら備はつ て居ったと悉ふ事が出贈るQそして刀自がまだ宗教に悉如何に熱心であったかは,聖書の文字が細心で覗力を損・ずるの虞があ るとして、自分で手爲して彪大な寓本を作った事に依ても知られる。越えて明治廿三年十一月。刀自は突然熊本母人志方之善 氏と結婚したのであった。一斯ういふ黙に.刀自が如何に惰熱家であったか穿察知し得られる。郎ち身筍も日本最初の女早 .として人にも電敬され、難業は門前布をなす盛況であっ充のを,周志赦出身の無名の一青年宗敏耳糞業家と共鳴すれば、直ち に結婚し,事業を﹃還したのではなかつ艶か。刀自は更に進んで.夫志方氏が北海道開懇地の宗敷振興を思ひ立つと、明治廿 、四年、夫君の後を追って後志の原野に赴ぎ.開懇の傍傅質し.刀自は良入の業を開くると同時に、馨院を開き、宗⋮教的理想の 村を開いたのであった。是が今のインマヌエル村てある。一是等の事績に.刀自の情熱的の面目、躍如として居るものがあ ると思ふ。 斯くて此の村に諜す寓十有六年。岡らず巻明治措八年九月に至って良入志方氏ば病狡したのであった。刀自の悲嘆もさる事 乍ら.,刀自等の理想は牛ばにして挫折ずるに至った。そして.故人の選業は女性の縫書する事の出來ないものであったから。 他人をして経界せしめたけれども.刀自の故人を哀悼するの念は容易に去らす.籔年間猫り留って故人絡焉の地を守って居た けれども親戚の切なる玄翁に依って.明治四十軸距十一月上京し℃本所匿毅小梅町一番地に開業した。こ玉で、刀自は晩年を 遍さんと、令姉野口友子女史を迎へて.忠實に仕へ光のであった。友子女皮は.既述の如く、刀自にとっては誠の恩人であっ 告岡u口本女磐皮の研究 ︸四一
害岡悶日本女留史の研究 一四こ て、刀自が女醤を志した時、兄弟親戚の一嵩に反馨した翼直中に,女皮のみは影になり、日向になりして刀自を助けたのであ った。女史は今術健在で、埼玉縣熊谷町に齢八十鹸の高齢で届られる。 刀自が、斯く上京開業せらる玉や、刀自の名を未だ世人が忘却せす、網誤るものが交々門を叩いて,公私重要の職を托さう としたが、悉く之を跡退して、清廉な生憎を螢んだのであった。刀自が、如何に名利に悟淡であったか窒窺知されるのである 刀目の維歴は此の位にして、エピソード、逸話、趣味等を物語って、刀自の風貌を更に明瞭にせねばならぬ。 刀自は,斯く明治の初期に職業墨入たらんと志した程の嬬人であるから,當時の婦人界の先蝿者として婦人隠男にも携はつ て居たらしい。極左に寄継政治制定當時に矢島かち子女史初め.他の婦人先言者達と、唐笛に議會傍鋸を許す様、誰力方を時 の自由蕪本部へ懇請した文を掲げる。此文は、前婦人矯風堂々頭故矢島かち子女史が書いたものだ相だが,明治廿三年初めて 議會が成立した際、婦人が傍蕪を許されないのを、之等先蝿者達が憤概して反謝蓮動を起された時の文章で、今讃むと興味津 々たる間のがある。誠に條理の通り、且つ女性らしき風格もあって、而もいかめしい議會政治に封比して﹃侍るになん﹄といふ 様な和交髄も面白いと思ふ。何にせよ、此の一文は、荻野刀自の首記といふ黙からのみならす、恐らく婦人の政治濯動に謝す る文章の噛矢であったらうといふ鮎から云っても 好資料たるを失はないであらう。 謹みて大成會各賢毫にまうす、衆議員規則第百十六條に皆人は傍聴を許さすとの盲あり妹ら讃みし日夜憂ひにた得ず、如 何なる事課のあるありて斯る規則の定まらんとするやと.世の大方に伺ぴ申すに、今日に至る迄未だ之と云ふ解繹を承はる を得す、融々歎かはしき事に思ぴて、撫は貴會の高き教を請ぴ、妹らが切なる疑を散ぜんと欲するに至り侍る。妹等密に思 ふやう 天皇民の春心を聞し召し.萬機を公論に麗せんとて、其御大権を多分に割かせ我國古事にためしなき國會を初めて 開かせ玉はんとするは、︹方ならぬ御記にして、皇民聖徳を感謝講美せすと言ふ事のなし。斯る時には與望にかなひ民に選ば れて議員たる方々が夙夜この大.御心を芳し、率先叡慮のある所に力を鑑し玉はんとするは、亦尋常ならじ、溢れ素と陛下に 忠なるがための御勤務とはいへ、四干萬同胞の貨へる所莫大にして、妹ち感謝を寄すみの蹉な葦穂とと存じ侍る。妹等は審
竜蝕し得すといへども.此際旧暦心して能く身を修め.家政を験し.屡家経濟の搾めに幾分の鹸裕を造り、諸兄が内顧の憂 を⋮慰め奉らんも、帥妹ら女性が天の命職を畳悟し、同志十七まして常にその心得を學び居O候虚に侍る。諮れど切めては時 々玉器に於ける諸賢御厳力の御模様を影ながらにて鳶拝し.以っていよいよ妹らが務めを深く感じ申すべしと存じ.嘗てより 當日の光影を想像いたし居候ぴつるに.今將か玉る最善なる規則の設けられて.女性は其女性なるが爲に、 一切入場傍轟の 榮を得がたしと相成候はぼ、終生の遺憾此上なきことと涙にむせび更す所を知らざる程に候。政治上の集會には、軍人.警 察官、教師、生徒なども臨席し難しとあれば,女性が亦之に望みがたしと禽ふに付きては.街幾分の理由あるやうに伺ひ候 へど、衆議院の傍聴には兇器を持てる者と.酩酊したる八を禁ずるの外.墾業の教師生徒は言ふ迄もなく.馬追ふ童も、飴 うる翁も、田舎の田作り男も、得て自田に入場いたし蛭巻のを.女性は其女なるを以って、一切其許を得がたしと云ふは. 不思議此上なき定めの様に思はれ、疑ぴはれ難く候◎そ蔭斯る規購の設けられんとするは、如何なる理由ある故に候や,高 き⋮敏を蒙の妹ら無限の憂を散し.切めて止むを得ざる地位に安んじ以て心慰さめ申べくと贅悟いたし侍る。あはれ狭き胸を 察し雄々しきますら男の義心振起し玉ぴて.この痛めるもの等の爲に同情を賜はらんととを新る。而して若し.諸賢.上津 規則を宜しからすと思召之を取除くことの正當なるを認め玉ふに以ては.願はくは妹らが爲に、冤を伸し、二千工人の嬬人 の爲にその將に奪はれんとする樺利を挽剃し玉はらんことを講ぴ申すに南。情あゆて欝足らす禮なき文をゆるして、心のあ る斯を推し玉はんことを所る。可澗。 明治二十三年十月 有志惣代 甫 み さ 吉岡11昌本女慰史の研突
湯金竹島三
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吉岡臨日本女騒史の研究
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︵日本女讐會雑誌第三十四號三十入i四+頁︶ 此の一文は、明治廿三年十月のことであるから、丁度刀自が、下谷西黒門町に開業して居た長時である。開業の傍當時のモ ダン・ガールとして大に尖端を行ったものらしい。而も此の翌月刀自は結婚したのであるから、そういふ意味にも此の文章は因縁附きのものと零ふことが出來る。 刀自に署するエゼソードとして、次の物語は︸暦興味があらう。當時の文部大臣.森有震域が.鰍洲より新知識を得て意氣揚 々と編朝した所が.婚約の婦入︵古市某女︶を弊履の如く捨て他の某女と結婚した。荻野刀自は之を聞いて非常に憤慨し、軍身 森有心氏の許に押しかけて、其の不道徳を詰ったので、流右の森氏も顔色なく.結局古市某女の爲に、女子師範學校︵今の女 高師︶を卒業せしむる鴎資を出させたといふととである。この物語は.刀自の仁侠と勇氣あの、飽くまで婦人の権利を擁護せ んとする堅き信念が滋む出で、極めて刀自の刀自らしさが表はれて居る一佳話であると思ふ。 刀自は斯く男性的理智方面のみでなく.婦人ろしての技藝も相當出來た。裁縫も融々の達者で、商事の鯨暇、人の知らぬ間 に衣服など縫上げて、屡々傍人を驚かしたといふことである。手紙を書くのも早く,饗紙を片手に持ち乍ら、片膝立てすらず らと書役.其文字は上手といふよのも。一種の風格を備へた頑白い字であった。和歌にも巧みであった。尤も井上頼囲氏の門 に遊んだのであるから、それは云ふ迄もないことである。歌集でも作らうと思へば8一來たであらうに、殆ど今に残って居ない ・ので、それも出來ないのは獲念である。た窒一つ、敢男欝吉市公威買入︵奮名川名客止︶の結婚の醜ひに途つた次の一首が ある。 千早ふる神の造りし殿なれば動きはあらじ君のちぎむは 心に小閑を得た時などは、時々義太夫の鰯を唄ったといふことである。また荒川民の畏女などを遊ばせ乍ら﹁高い山から谷 底見れば﹂を歌ぴ乍ら踊ってみせたといふ様な酒晩な﹃繭もあっお。荒川夫人の令妹海軍大歳栃内曾次郎氏夫人ω娘時代には 三味線を引かせて小唄などを歌ったと義ふことで・60る。此の栃内夫人と刀自とは.因縁淺からざるものがあった。夫人は刀自 が校讐をして居た明治女學校︵点本善治氏と其夫人着松虫子女更!一﹁小公子﹂の諜者として有名一の経螢になる當時のハイ カラな女學校︶に學んで居たが.荻野刀自の媒酌に依て栃内氏に嫁したのである。刀自は.此の夫人を吾が子の様に愛して夫 人の前途に就ても色々心配されたといふことである。刀自は.﹄方では侠氣ある男性的の牟面に、斯ういふ風に周團の入前を 書陶“臼本女讐臭の研鋸 一四五
吉岡h凹本女爵更の研究 ︼四六 愛するといふ、極めて愛情に富んだ一面もあった。その深い關係から、夫人は、刀自生存申は親類つき合ひをされて、刀自が 晩年向島小梅に佳まはれた時も厘々見舞ひ、病申は毎日の如く手緋當で看病に通ったといふことである。 刀自に更に敬服すべきは﹁女主﹂といふ天職の自畳から、斯る時代に町鳶事業にも講力せられたといふことである。後に瀧の 、川に白痴児童の面起を開いた願誓亮一氏夫妻が、孤見の牧容所を創設するに當って,刀自は西黒門町の舗装を石井氏に提供し 且つ病兇は自ら診療に盛事した。當時、刀自の夫君志方氏は、既に北海道に赴き、刀自自身は明治女學校に校讐及生理衛生の 教授をして居られた。して見ると、刀自の北海道に赴いたのは、夫君より饒程後のことであったらしい。丁度明治廿四年,濃 尾の震災のあった時で、十二人の孤児を牧容した。中には、生後僅に十五日の嬰児もあって、刀自は此子を毎日抱いて寝、生 後百二.三十口の子を當時女學生であった栃内夫入が、やはの古血から彿褥の取替まで世話をし、夜もおち一寝すに働いた といふことであるGこれが後年孤兇院の抑々の初めだといふことである。 斯ういふ肚會事業といふ様な奉仕的精紳を多分に持って居る刀自は、また後進を愛する念も強く、刀自の家には絶えず女馨 志望の婦人が二三人居ったといふことである。 斯る不生出の女傑も、病態には抗し難く、大正二年五月廿三日、突然磯充血を起し卒倒し、爾來療養に努めたが、藥石効な ・く六月廿三日眠るが如く享年六十三で大往生を途げた。 葬儀は逝去後二日、即ち六月二十五日、刀自受洗の場所本郷倉堂に於て、洗禮を授けたる海老名牧師によりて行はれたので あるから、刀自もさぞ喜ばれたことであらう。 刀自の墓地は、府下雑司ケ谷に在る。女皇たる者は一度は此遣瀬の塞を弔はるべきだらう。 文 献 一、日本女蟹遠田誌 第一春第一號︵大正二年六月︶第二號︵大正三年三月目第三+號へ昭和二年+こ月︶、第三十四號︵昭和四年六月︶。 二、中川一男著,日本女性史論,大正+四年三刀。三.鈴木丈四郎著、婦人問題の話︵朝日常識講座第九巻︶昭和四年六月四、フィリップ ラッパポート同bo聾ロ窪Q聞自毛程山︵山川菊榮課、肚會進化と嬬人の地位、昭知薫習二月︶