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大正期の西宮神社十日戎
平山
昇
ヴ ェロッパーの登場 「旧暦廃止」 以後 で あ っ た が、 「 汽 車 」 の 開 通 に よ っ て 徐 々 に 都 市 部 か ら 行 楽 が て ら に 参 詣 調関係抜きには考えられないものとなっていったのである。 しかし、両者の関係は常に協調ばかりというわけにはいかなかった。電鉄にとって は運賃収入が増えればそれでよいが、神社にとっては伝統を厳守することも決してゆ る が せ に で き な か っ た。 そ の た め、 時 と し て 両 者 の 間 で 齟 齬 が 生 じ る こ と も あ っ た。 このように神社と電鉄会社の間に協調と駆け引きがせめぎあう中で、十日戎は今日の 姿へと落ち着いていった。 以上の検討から、日本近代の大都市における社寺参詣の変容過程を理解するために は、①鉄道の登場による変化、特に明治末期以降のディヴェロッパー志向の鉄道会社 による変化、②もっぱら都市部からの参詣客の増加を志向する鉄道会社と伝統の維持 も重視する神社との間に生じた協調と駆け引きがせめぎあう関係、という二点に注目 することが有用であると結論づけた。 【キーワード】 近代、参詣、鉄道、都市 Toka Ebisu Festival at Nishinomiya Jinja Shrine in the Meiji and T
aisho P eriod A N ob or u
はじめ
に
本稿は明治・大正期の西宮神社十日戎の動向を鉄道との関わりに注目 しつつ検討し、近代日本の都市圏における社寺参詣の変容の一端を明ら かにせんとするものである。 社寺参詣をめぐる研究は、前近代(特に近世)については活発に行わ れており (( ( 、戦後・現代についても一部の宗教社会学者によって興味深い 研究がなされてきた (( ( 。しかし、不思議なことに、近代の社寺参詣の動向 を検討しようとする研究はきわめて稀で、特に都市周辺のそれに関する 実証研究は皆無に近い (( ( 。 もし仮に、明治以降の都市部において、社寺参詣が近代化の荒波の中 でただ細々と残存しただけであれば、本稿の問題関心はさ ほ ど重要な意 味をもたないだろう。しかし、今日各大都市圏では初詣や節分などの参 詣 行 事 が、 衰 退・ 消 滅 す る ど こ ろ か 毎 年 大 変 な 盛 況 ぶ り を み せ て い る。 しかも、伝統的な装いを見せるこれらの参詣行事の様子をよくよく観察 してみると、鉄道、マスメディアといった近代的な装置が重要な役割を 果たしていることがわかる。してみると、社寺参詣という近世以来のも のが明治以降の近代化の展開のなかでどのような変容を遂げたのかを明 らかにすることは、現代の大都市における参詣行事を理解するために必 要なことと思われる。 そこで本稿では明治・大正期の西宮神社十日戎を検討対象とする。西 宮神社の十日戎といえば、例年一月九日、一〇日、一一日(一〇日が大 祭)に合計百万人近くの参詣客を集めており、阪神一帯では最も人気が ある参詣行事の一つである。そして、今日の大都市圏では鉄道を利用し て郊外の有名社寺に参詣するという傾向が顕著であるが、西宮神社の十 日戎はその典型をなしている。したがって、その動向を検討することに よって近代日本の都市圏における社寺参詣の変容過程について、一定の 見通しを得ることが期待できよう。 検討過程で特に注目するのは、鉄道の開業による参詣行事の変化、お よび神社と鉄道会社との関係である。 明治初年以来鉄道網が整備されていくなかで、西宮神社は次第に阪神 両都市(特に大阪)との関係を深めていく。特に明治末期に登場した阪 神電車による変化はきわめて大きなものであった。鉄道によって十日戎 参詣にどのような変化が生じたのかを明らかにしたい。 また、筆者は既に別稿で明治期東京における初詣の形成過程について 検討したが (( ( 、史料が新聞に限られたため社寺側の視点を組み込むことが できず、結果として諸社寺が単なる受動的な存在としてイメージされか ね な い と い う 問 題 点 を 残 し て し ま っ た。 本 稿 で は、 新 聞 史 料 に 加 え て、 幸 運 に も 閲 覧 を 許 さ れ た 西 宮 神 社 の 社 務 日 誌 を 活 用 す る こ と に よ っ て、 神社側が鉄道開業などの変化に対してどのような反応 ・ 対応をしたのか、 さらには参詣行事のあり方をめぐって神社と電鉄の間でどのような協調 と駆け引きがあったのかという点についても注目してみたい。 なお、本稿の主たる検討課題ではないが、付随する問題として改暦を めぐる諸相にも言及していく。今日の大都市圏の参詣行事は新暦で行う のが当り前になっている。もちろん西宮神社十日戎も例外ではない。歴 史学・民俗学の研究者も含めておそらく ほ とんどの人が、これは明治五 年末(明治六年初め)の改暦の結果であり、改暦以後も旧暦が長らく残 存したのは農村部のみであると予想するのではないだろうか。しかし実 際には、西宮神社では改暦後も旧暦による十日戎が行われ続け、都市部 からの参詣客も多数訪れた。しかも、明治末期にはかつてない ほ どの活 況を呈した時期があった。それはなぜか。そして、その後何がきっかけ となって旧暦十日戎が衰退へとむかっていったのか。本稿は従来注目さ れてこなかった明治期の新暦・旧暦の一側面も明らかにすることになろう。 なお、使用する史料について注記しておく。 ・西宮神社の社務日誌は『日誌』 、『大阪朝日新聞』は『大朝』と略記 する。 ・適宜旧字体を新字体に改め、句読点を付した。 ・必要に応じて「二月二二日=旧正月十日」のように旧暦による日付 を付した。 ・省略箇所は「……」によって示した。 ・ 史 料 中 の〔 〕 お よ び 傍 線 は 引 用 者 に よ る も の、 ( ) は 原 史 料 の ものである。
第一章
明治改暦から阪神電車開業前まで
エビス信仰はもともと漁業との関わりで生まれ、その後農民、商人に も浸透していったとされており (( ( 、近世の西宮十日戎は丹波 ・ 丹後 ・ 但馬 ・ 播磨・淡路といった農漁村地帯の人々や大阪・兵庫の商人が参詣して賑 わっていた (( ( 。 明治に入ってこの西宮十日戎に変化をもたらしたのが、 明治五年末 (明 治六年初め)の改暦と、明治七年五月の大阪―神戸間鉄道の開業にとも なう西ノ宮ステーションの設置である。面白いことに、西宮神社では新 暦と旧暦の二つの十日戎が行われるようになった。以下、それぞれの十 日戎の動向をみてみたい。 第一節 新暦十日戎の不人気 改暦直後の明治六年一月、初めて新暦による十日戎が行われた。しか し、改暦直後ということもあって周知されていなかったためか、きわめ て不振だった (( ( 。その後はいくらか参詣客が訪れるようになるが (( ( 、注意し た い の は、 「 参 詣 人 ハ 兵 阪 ノ 人 ノ ミ ラ シ ク、 汽 車 ノ 着 ノ 度 毎 ニ 一 斉 ノ 参 詣ノミ (( ( 」という記録からわかるように、その参詣客が主に大阪・神戸か ら「汽車」を利用して訪れる人々だったということである。改暦と鉄道 開業によって、農漁村部信者ではなく都市からの参詣客が中心という新 しい形の十日戎参詣が生まれたわけである。 もっとも、この新暦十日戎の人気はいまひとつだったようで、後述す る旧暦十日戎とは対照的に徐々に衰微していった。 〔史料 (〕 汽車着シタル時而已少々ノ詣者アリテ、其間寥トシテ人ナシ ((1 ( 。 〔史料 (〕 サラヌダニ近年此祭日ハ年一年参拝者ヲ減スルニ、カテヽ加ヘテ雨 天ナリシカ バ 終日賽者寥々タリ ((( ( 。 このようになった要因としては、農漁村部のエビス信者たちが旧暦十 日戎に集中したことにくわえて、大阪周辺の参詣客が今宮神社に集中し たことが考えられる。 後者に関してみると、西宮神社が新旧両度の十日戎を行うようになっ た の に 対 し て、 大 阪 の 今 宮 神 社 は 新 暦 十 日 戎 の み を 執 行 す る よ う に な り、毎年大阪の市中・周辺地域から多くの参詣人がつめかけた。特に明 治一八年末の阪堺鉄道(南海鉄道の前身)の開業後はいよいよ賑わいを 増 し、 「 府 下 に 於 て 年 中 第 一 の 群 集 雑 沓 を 極 む る 恵 比 須 祭 り ((1 ( 」 と 称 さ れ る ほ どになった。西宮神社の関係者たちも今宮十日戎の賑わいぶりが気 になったとみられ、明治一九年と二一年には同神社の世話人や神職が視 察に行ったことが記録されている ((1 ( 。 第二節 旧暦十日戎 ―農漁村部信者と都市部からの参詣客の混在― さて、もう一方の旧暦の十日戎であるが、さすがに改暦直後にはいっ たん衰微または中絶したようで、数年間は社務日誌に関連した記述が見られない。しかし、明治一〇年になると「殊之外賑々敷…… ((1 ( 」という記 述 が 現 れ、 そ の 後 は 毎 年 の よ う に 盛 況 が 記 さ れ る よ う に な る。 こ れ は、 農漁村部の信者たちが元通り旧暦十日戎に参詣するようになったととも に、 官 鉄 ((1 ( お よ び そ れ に 接 続 す る 私 鉄 各 社 が 積 極 的 に 便 を 図 っ た た め で あった。明治一四年の『日誌』には旧暦十日戎の様子が次のように記録 されている。 〔史料 (〕 幸ニシテ春来ノ好天気且前日数日間天気打続キ、遠近ノ衆賽人頗ル 多 ク 在 リ 大 雑 沓 ヲ 極 ム。 汽 車 最 モ 低 価 ニ 引 下 ケ 七 回 ノ 臨 時 車 ヲ 発 ス ((1 ( この史料にもあるように、官鉄は毎年欠かさず旧暦十日戎のために臨 時汽車の増発や運賃割引を行った。明治一六年には新聞広告まで掲載し ている ((1 ( 。 これまでの改暦をめぐる研究では、明治政府が国民に旧暦を棄てて新 暦に従うように奨励・強制したと繰り返し論じられてきた ((1 ( 。しかし、そ の政府の一組織であるはずの官鉄が、旧暦行事のために増発のみならず 運賃割引まで行い、あまつさえ新聞紙上で堂々と広告を出しているので あるから、驚かざるをえない。営利性を伴う部門ゆえに、時には政府の 建前とずれる方針をとることさえあったという、官鉄の「私鉄的」な一 側面とも言えようか。 それはさておき、明治二〇年代以降になると、官鉄に接続する山陽鉄 道 ((1 ( 、播但鉄道 (11 ( 、阪鶴鉄道 (1( ( が開業し、いずれも官鉄と連携して旧暦十日戎 への参詣客を呼び込むようになった。 〔史料 (〕(阪鶴鉄道の広告) 二 月 廿 七 廿 八 ノ 両 日 間( 旧 暦 正 月 九 日 十 日 ) 蛭 子 神 社 祭 礼 ニ 付 往復ともにきしやちん 官線ハ二割引 社線内半ちん 但三田以北 の各駅より西ノ宮に往復する旅客に限 る (11 ( 〔史料 (〕 汽車は殊更に同地〔西宮〕への便利を計 ママ ると覚えたり。山陽鉄道は 今明の両日姫路以東の各駅より西宮迄の連絡往復切符を発売し、尚 姫路大阪間に臨時汽車を加へ、又官線も山鉄と連絡を取り西宮を中 心として梅田(大阪)神戸の両駅より臨時汽車を運転する事と成れ り (11 ( 。 このように、幹線(官鉄と山陽鉄道)だけでなく内陸部への鉄道路線 も拡張し、諸鉄道が協同して積極的に参詣客輸送にあたったことによっ て、丹波・丹後・但馬・播磨といった農漁村地帯からの旧暦十日戎への 参詣は、単に元通りに回復したのではなく、むしろ近世期よりも活性化 していくことになる。 注意すべきは、これに加えて都市部からの参詣客も多数訪れるように なったということである。その様子をよく示しているのが、次に引用す る明治三二年の新聞記事である。 〔史料 (〕 一昨日〔旧正月九日の宵戎〕は大阪、神戸辺より出掛くる普通の参 詣人の外に、講中は大抵泊り掛けなれば同町二十二軒の宿 や ど や 屋業は何 れも客を以つて満され……阪鶴鉄道の便にて丹波、但馬其他よりも 赤毛布を被りし連中多く入込み一層雑沓を極めたり。 ……汽車は数回の臨時列車を発したるも、却 なかなか 々乗切れぬ処から我一 に乗車せんと相争ふ様言語に尽されず、梅田停車場の雑沓実に非常 なりき (11 ( 。 つまり、西宮神社の旧暦十日戎は改暦によって消滅したどころか、近 世以来なじみが深い農漁村信者たちに阪神両都市からの 「普通の参詣人」 も 加 わ っ て、 む し ろ 賑 わ い を 増 し て い っ た の で あ る。 そ の 発 展 ぶ り は、 神社関係者も「参詣人年一年増加ス (11 ( 」と記す ほ ど、目に見えて明らかな ものであった。
第三節 「普通の参詣人」 ここで、都市部からの参詣客、すなわち史料 (で言うところの「普通 の参詣人」について考えてみたい。というのも、今日の都市部の参詣行 事で大多数を占める参詣層の原型をここに見出すことができるからであ る。 すでにみたように、農漁村部の人々は、旧暦十日戎には参詣するもの の、 新暦十日戎には集まろうとしなかった。すなわち、 彼らにとっては、 旧暦正月十日という日取りが重要な意味をもっていたと思われる。この ことは、 第三章で述べる明治末年の動向からもあらためて明らかになる。 これに対して、大阪の人々についてみると、新暦十日戎の際は大多数 が今宮神社に、ごく一部の者が西宮神社に参詣するようになった。しか し、また他方では、旧暦十日戎の際にも少なからぬ人々が西宮神社に参 詣した。つまり、都市部からの「普通の参詣人」にとって、新暦と旧暦 の区別はさ ほ ど重要な意味をもっていなかったと考えられる。それどこ ろか、正月十日という日取りさえも別段重要ではなかったのかもしれな い。次に引用する『日誌』と新聞記事を見てみたい。 〔史料 (〕 本 日 ハ 節 分 ト 日 曜 ト 合 シ タ レ ハ、 大 阪 地 方 ヨ リ ノ 参 拝 人 頗 ル 多 ク、 午后大ニ賑ハヒタリ (11 ( 。 〔史料 (〕 前 日 の 宵 蛭 子 は 日 曜 日 の 事 と て 岡 本 の 梅 見 が て ら に 参 詣 す る 者 多 く、 大 阪 神 戸 は 勿 論 京 都 又 は 姫 路 等 よ り 出 た は 出 た は、 普 通 列 車、 臨 時 列 車 に 溢 る ヽ 許 り に て 雑 沓 の 為 に 乗 遅 る ヽ 婦 女 子 も 少 か ら ざ し。……境内には所々「お神楽を上げます」 「神札は一銭より」 「御 神 体 は 此 処 か ら 出 ま す 」「 お 燈 明 を 上 げ な さ い 」「 神 籤 を 授 け ま す 」 「福箸は如何」 「御紋入りの盃は五銭」 と袴着けたる人は呼かけ居り、 吉兆、福俵めでためでたの鯛は跳るが如く、慾の熊鷹ならぬ熊手の 店など所狭きまで推列び声々に呼立つる賑はしさやかましさ、実に 言語に絶せり (11 ( 。 ここでは、日曜にあたったとか行楽のついでにといった理由で都市部 からの参詣客が多かったと記されている。 『日誌』 ・新聞記事ともに、こ のような記述は明治二〇年代以降目立つようになる。そうすると、史料 (にある「普通の参詣人」とは、十日戎だから毎年必ず参詣するという 慣習の持ち主というよりは、休日の郊外行楽として参詣して、ついでに 福を授かることができればなおよし、といった感覚の人々であったと考 えられよう。そして、史料 (からは、旧暦十日戎がそのような行楽本意 の参詣客を十分にひきつけ得る賑やかなイベントになっていたことがう かがえる。 このようなタイプの参詣客の増加は、西宮神社だけにかぎったことで はなかった。すなわち、鉄道が整備されるにつれて都市部の人々の郊外 行楽が盛んになり、結果としてそのついでに社寺を訪れる人が多くなる というのが当時の関東・関西の都市圏に共通する傾向であった (11 ( 。大阪で は、この傾向は明治二〇年代以降鉄道路線が相次いで開業していく (11 ( なか で徐々に顕著になっていく。その状況の一端は、明治三六年の旧正月の 模様を記した次の新聞記事からもうかがえる。史料中の「住吉」とは住 吉神社、 「我孫子」とは我孫子観音のことである。 〔史料 (〕 一昨日は旧正月に当り好天気なれば、寒さも厭はず諸方へ出掛けた る者多し。中にも南海鉄道の三日間の汽車賃割引に引かれて、住吉 我孫子及び堺の大濱へ水族館の建物を見がてらに遊散せしもあり (11 ( 。 第四節 神社 に よる 「普通の参詣人」 への PR こ の よ う に、 都 市 部 か ら 郊 外 へ と 繰 り 出 す「 普 通 の 参 詣 人 」 た ち は、
特定の社寺・行事にさ ほ どこだわらない浮動層であった。それゆえ、こ の 人 々 が 少 し で も 多 く 西 宮 神 社 十 日 戎 に 足 を 運 ぶ よ う に す る た め に は、 何らかの PR が必要となる。当時、不特定多数の人々の目に触れる PR 媒体といえば、何といっても新聞広告であろう。 すでに見たように、官鉄は旧暦十日戎に際して毎年運賃割引・臨時列 車 増 発 を 行 っ た が、 新 聞 広 告 に 関 し て は、 『 大 朝 』 を み る か ぎ り で は 第 二節で触れた明治一六年のもの以降三二年までしばらく途絶える。停車 場 の 掲 示 な ど 新 聞 広 告 以 外 の 媒 体 で 宣 伝 し た 可 能 性 も 否 定 で き な い が、 少なくとも、主要参詣行事の際には毎年欠かさず新聞広告を掲載してい た私鉄各社 ほ どは熱心でなかったといえる。 ここでむしろ注目したいのは、西宮神社による広報活動である。とい う の も、 「 普 通 の 参 詣 人 」 が 目 立 つ よ う に な る の と 時 を 同 じ く し て、 西 宮神社は明治二三年から毎年欠かさず旧暦十日戎の広告を新聞に掲載す るようになったのである。 この広告掲載は当初は『大朝』のみであったが、二五年からは『大阪 毎日新聞』 、三〇年からは『神戸又新日報』にも掲載するようになった (1( ( 。 新 聞 を 通 じ て 阪 神 両 都 市 の 人 々 に 向 け て 十 日 戎 を 宣 伝 し た わ け で あ る。 広 告 に は 十 日 戎 神 事 執 行 の こ と だ け で な く、 「 当 日 坂 ママ 神 間 臨 時 汽 車 出 発 賃 金 減 額 (11 ( 」 の よ う に 官 鉄 の 臨 時 汽 車・ 運 賃 割 引 の 情 報 も 併 記 さ れ た。 た だ し、 官 鉄 と 打 ち 合 わ せ て 出 し た と い う 形 跡 は み ら れ ず、 「 午 後 良 秀 永田ヲ伴ヒテ上阪ス。……朝日毎日両新聞社ヘ広告依頼ノ為ナリ (11 ( 」とい う記録からもわかるように、 西宮神社が単独で掲載した広告とみられる。 明治三二年には同神社の広報活動がより一層意欲的なものになる。 『日 誌』の記録をみてみたい。 〔史料 (0〕 当日大阪毎日新聞ニ当社由来記ヲ其儘附録トシテ刷出シ、尚売子数 名ヲ当地ニ派出シテ公売セシム。……右広告的由来書ハ大ニ世上一 般ニ効力ヲ示シタリ。明年ハ朝日新聞ニ向ツテ交渉ヲ要スベシ (11 ( 。 実際に新聞に掲載されたもの (11 ( を見てみると、同神社の由来や十日戎を 含む年間の主な祭典が詳細に記されている。まるごと二頁を使用してい るうえに、表門と本殿の絵も添えられており、多くの読者の目をひいた ものと思われる。西宮神社は、新聞という不特定多数向けの媒体を通じ て、 同神社に馴染みが薄い人々をも旧暦十日戎に呼び込もうと図り、 「大 ニ世上一般ニ効力ヲ示」すことができたわけである。これが都市部から の「普通の参詣人」の増加に寄与したことは想像に難くない。 以上みてきたように、西宮神社の旧暦十日戎は、単に細々と残存した わけでも、衰微したわけでもなかった。鉄道路線の拡大によって従来の 農漁村部のエビス信者たちの参詣が活性化したのみならず、都市部から も多くの「普通の参詣人」が訪れるようになった。しかも、神社側はこ の浮動層を呼び込むべく新聞広告を活用するようになった。一見すると 時代の流れからもっとも縁遠いように思えるこの伝統行事も、実は近代 化・都市化の趨勢と深く関わりながら変化するようになったのである。 なお、補足しておくと、官鉄は明治三二年に西宮旧暦十日戎の新聞広 告を復活させ、以後毎年ではないものの継続させていく。ときには同じ 紙面に西宮神社と官鉄の広告が両方掲載されるということもあった (11 ( 。
第二章
阪神電車開業後
―ディ ヴ ェロッパーの登場 第一節 阪神電車の開業 大阪出入橋と神戸三宮を結ぶ阪神電車が開業したのは、明治三八年四 月一二日のことである。西宮神社から至近の場所にも戎停車場が設置さ れた。この停車場設置の詳細な経緯は不明であるが、明治三四年の社務 日誌には「電気鉄道線路ヲ可成南門前ニ敷設セハ、将来神社隆盛ノ一端トモナランニ付、交渉セハ如何」という関係者の提案をうけて、神社職 員が阪神電鉄関係者に面会しに行ったという記録がある (11 ( 。このことから も、 同神社が新設の阪神電車に強い関心をもっていたことがうかがえる。 前章でみたように、すでに旧暦十日戎に際して都市部からの参詣客の誘 引を図っていた ほ どであるから、 これはまことに自然なことと言えよう。 さて、前章でみたように、もともと官鉄とそれに接続する私鉄各社は 旧暦十日戎の際に増発・割引を行っていたのであるが、阪神電車のディ ヴェロッパー的ともいえる集客戦略はこれら従来の鉄道とは明らかに異 なるものであった。以下、阪神電車開業後の動向を具体的にみていきた い。 第二節 新暦十日戎 ―「電車 に よつて開拓された祭り」 ― 既述の通り、明治二〇年代以降は、旧暦十日戎のみが賑わうという状 況が続いていた。諸鉄道も旧暦十日戎の際には臨時汽車運行 ・ 運賃割引 ・ 新聞広告などの対応をしたが、新暦十日戎には全くと言っていい ほ ど関 心を示さなかった (11 ( 。つまり、確実に輸送需要が見込める行事に便乗して 収益増加を図るという姿勢はあるものの、そうでなければ特に何もしな いという姿勢であったと察せられる。鉄道がこのような姿勢にとどまっ ているかぎりは、祭典はあくまでも神社主導であり、鉄道は単に参詣客 を輸送する交通機関にすぎなかった。 と こ ろ が、 新 し く 登 場 し た 阪 神 電 車 は そ う で は な か っ た。 す な わ ち、 開業翌年の明治三九年、阪神電車は「全線半賃」の触れ込みで、長らく 忘れ去られていた西宮新暦十日戎を宣伝したのである (11 ( 。しかも、おそら くは同電車のよびかけに応じたものと思われるが、新聞社が「福神像授 与」をするというオマケまでつくことになった (11 ( 。 こ の よ う に 大 々 的 な 客 寄 せ が 行 な わ れ た 結 果、 は た し て 西 宮 新 暦 十 日戎は前年までの不人気が嘘のように思える ほ どの大変な賑わいとなっ た。 〔史料 ((〕 西の宮の蛭子神社にては例年旧暦の十日蛭子の外に今年は新暦にて 臨時祭を執行したるが、金銀の蛭子の当福や〔阪神〕電車の全線半 賃といふに、イヤ出たは出たは、九日の午後から十日に掛けて電車 は上り下りとも満員の札を掲げ、出入橋の出札所の如きは待合所よ り遠く長蛇の陣を造れり (1( ( 。 き わ め て 残 念 な こ と に、 こ の 前 後( 三 八 ・ 三 九 年 ) の 社 務 日 誌 は 現 存 していない。 筆者としては切歯扼腕するばかりである。 ただ、 前述の通り、 西宮神社は旧暦十日戎の新聞広告は出していたものの、新暦十日戎の新 聞 広 告 は 一 切 行 っ て お ら ず、 『 日 誌 』 を み て も 新 暦 十 日 戎 を 盛 り 上 げ よ うとした形跡はみられない。このことだけを考えても、この新暦十日戎 が阪神電車側の主導でプロデュースされたことはまず間違いない。それ は、次のようなユーモアたっぷりの新聞記事からもうかがえる。この新 聞記事は今宮神社の十日戎の景況について報じる記事であるが、そのな かで西宮神社( 「西の宮の兄弟分」 )の新暦十日戎について次のように述 べている。 〔史料 ((〕 世智辛きは人間社会の流行ばかりではないものと見えて、毎年旧暦 正月の十日には開運のお守授けられる例の西の宮の兄弟分が、何処 の誰におだてられてか此九日十日に今宮と競争の祭礼執行ある由 (11 ( 。 当 時 の 新 聞 読 者 に は、 「 何 処 の 誰 」 が 阪 神 電 車 を 指 し て い る と い う こ とは一目瞭然であったにちがいない。また、 数年後の新聞記事であるが、 「 電 車 に よ つ て 開 拓 さ れ た 祭 り ゆ ゑ 何 事 も 電 車 本 位 (11 ( 」 と い っ た 身 も 蓋 も 無い表現さえ見られる。 このように、それまで下火になっていた西宮神社の新暦十日戎は、阪 神電車主導で「開拓」され、一転して多くの参詣客で賑わう行事になっ
た。そしてこの成功を受けて、阪神電車は翌年以降も積極的に宣伝に努 めていく。もちろんその主なターゲットは大阪・神戸の両都市部の人々 であった。翌年の『日誌』をみてみると、阪神電車が両都市にむけて盛 んな宣伝を行い、それにひかれて多数の参詣客が訪れた様子が詳細に記 されている。 〔史料 ((〕 電鉄会社ハ三日間阪神ヨリ当所ヘ往復賃金半減ノ上、三日間大神楽 ヲ奉納、一日弐拾円分神楽料祭典ノ際奏上シ、終日神楽処ニテ舞奏 セシム。右各新聞紙ヘ広告、外ニ阪神両市ニ大々的広告ヲナセシヲ 以テ、朝来賽者多シ。且大阪ヨリ恵方ニ当ルヲ以テ大ニ人気ヲ引立 タリ。戎停車場ニハ二棟ノ待合所ヲ新設シ、数十ノ電燈ヲ点火、美 歓ヲ添ヘタリ。……夜十一時迄絶エズ参詣者アリ。本日ハ非常ノ盛 況ニ終ル (11 ( 。 翌四一年に掲載された新聞広告をみると、前年に行なった往復割引や 神楽に加えて、 「参詣者には参万人を限り福御守札 (無料) 授けらるべし」 という新しい目玉も登場し、ずいぶんと楽しそうな参詣行事として宣伝 さ れ て い る( 図 ()。 し か も、 エ ビ ス に ゆ か り が 深 い 鯛 を 背 景 に、 阪 神 電 車 の 社 章 を 染 め た 服 を 着 た エ ビ ス が「 阪 」「 神 」「 電 」「 車 」 と 書 か れ た扇をもつというイラストになっており、読者の目をひこうとする工夫 がよく感じられる。もっとも、大切なエビス様をあたかも阪神電車のイ メージキャラクターでもあるかのように都合よく用いられて、神社関係 者は如何に思ったのであろうか。 それはともかくとして、ここで注意したいのは、阪神電車が右のよう な宣伝だけにとどまらず、神社境内のことにも関わるようになったとい うことである。例えば、右の史料 ((にある通り、阪神電車は新暦十日戎 の際、費用を投じて終日境内で神楽を舞奏させた。これが行楽本位の参 詣客向けの演出であることは明らかである。神楽が舞奏されているとも なれば、いかにもそれらしい雰囲気を味わうことができ、多くの参詣客 を楽しませたことであろう。また、明治四二年になると、都市部からの 参詣客が夜間遅くまで訪れるようになったことをうけて、西宮神社では 「 電 鉄 会 社 ヨ リ ノ 交 渉 ニ 依 リ 九 日 十 日 両 夜 ト モ 十 一 時 迄 点 灯、 本 殿 拝 殿 其他一切ニテ参者ノ便ニ供ス (11 ( 」という対応をとった。都市部の人々がよ り一層参詣しやすくなるように、阪神電車が神社にはたらきかけを行っ たのである。このようなことは、在来の諸鉄道にはおよそ見られないこ とであった。すなわち、旧暦十日戎に便乗して増発や割引をすることは あったものの、それはあくまで神社の外部で行うことであり、参詣の現 場そのものをどうこうしようという意図はなかったのである。 右のような阪神電車のあの手この手の PR ・演出によって、 ほ どなく し て 新 暦 十 日 戎 は 旧 暦 十 日 戎 に も ひ け を と ら ぬ ほ ど 賑 わ う よ う に な っ た。例えば、出店・見世物についてみると、はじめは旧暦十日戎のとき 図 1 阪神電車の広告(『大朝』明治 (( 年 ( 月 (日)
ほ どの数は見られなかったが (11 ( 、わずか二年後には「境内出店ハ本年ヨリ 非常ニ増加、旧大祭ト殆ト同様ノ観ナリ (11 ( 」という状態になった。神社関 係者も参詣客への対応が相当に忙しくなったと実感したらしく、 『日誌』 には「明年ヨリハ旧大祭ノ例ニ慣ヒ祭典ヲ早メテ祭典後開門ノ事。依テ 五時三十分迄ニ祭典ヲ終ルベシ (11 ( 」と注記されている。 以上みたように、 新暦十日戎は阪神電車の主導によって「開拓」され、 都市部からの参詣客を中心に賑わいを増していった。この経過から明ら かなように、阪神電車の登場は、ただ単に西宮神社にアクセスする交通 機関が一つ増えたという程度の出来事ではなかった。すなわち、阪神電 車は既存の人気行事に便乗するにとどまらず、新たに行事を「開拓」し た。しかも、都市部からの行楽客にあわせて神社境内にも工夫を ほ どこ す、 あるいはそのように神社にはたらきかけるという特徴をもっていた。 単なる交通機関ではなく、沿線ディヴェロッパーとしての性格が強い鉄 道会社であったといえよう。 第三節 旧暦十日戎 ―阪神電車と国鉄 ((4 ( の競争― それでは、旧暦十日戎の動向は阪神電車開業後どのようなものであっ たか。実は、新暦十日戎が賑わうようになったからといって旧暦十日戎 が衰退したわけではなく、むしろ以前よりも賑わいを増していった。 まず、開業翌年の三九年であるが、阪神電車は新暦十日戎同様に旧暦 十日戎の宣伝も行った。その広告文句は次のようになっており、どうい うわけか新暦十日戎の広告にはなかったエクスクラメーションマークが 多用されている。 〔史料 ((〕 西宮十日蛭子 !!! 往復切符発売 !!! 不停車停留場 !!! 二月二、 三、 四の三日間 西宮十日蛭子祭り 蛭子停車場は神社に接近 三日共往復切符を発売 す (11 ( 『 大 朝 』 は「 明 三 日 は 西 宮 の 十 日 戎 な り。 今 年 は 電 鉄 の 便 利 も あ り 官 線汽車の方も用意せる由なれば参詣の群集想ひやるべし (1( ( 」と予想したが、 は た し て そ の 通 り、 「 朝 よ り 参 詣 非 常 に 多 く、 電 車 を 初 め 蛭 子 神 社 附 近 は 先 月 の 臨 時 祭〔 新 暦 十 日 戎 〕 以 上 の 雑 沓 を 呈 し (11 ( 」 た。 電 車 に「 開 拓 」 されて新たに賑わうようになった新暦十日戎だけでなく、もともと相応 に 賑 わ っ て い た 旧 暦 十 日 戎 も さ ら に 賑 わ う よ う に な っ た の で あ る か ら、 新 旧 両 方 の 十 日 戎 を 合 わ せ れ ば、 参 詣 客 は 相 当 に 増 加 し た こ と に な る。 神社のふところもさぞかし潤ったであろう。 旧暦十日戎の賑わいはその後もさらに増していく。翌四〇年の日誌を 見てみたい。 〔史料 ((〕 九日十日両日共未曾有ノ群参、特ニ十日ノ盛況筆紙ニ尽〔シ〕ガタ シ。午前十時頃ヨリ午後四時迄辛門内立錐ノ地ナシ。西辛門出口ハ 身動キモ出来ズ……思フニ古来斯ノ如キ大盛況ハアラザルベシ (11 ( 。 実際の参詣客数は不明ながら、旧暦十日戎がかつてない ほ どの大盛況 となったことがわかる。 しかも、翌四一年には国鉄が阪神電車への対抗策に本腰を入れるよう になる。例えば、阪神電車に刺激されたためか、国鉄はこの年初めてイ ラ ス ト 付 き の 広 告 で 旧 暦 十 日 戎 を 宣 伝 し た( 図 ()。 こ の 広 告 が 従 来 の ものとどれ ほ ど異なるかは、前年の広告(図 ()と見比べてみれば一目 瞭然であろう。しかも、この広告でも告知されているように、国鉄はこ の年はじめて臨時の「ゑびす駅」を設置した。これは、阪神電車の戎停 車 場 が 国 鉄 西 宮 駅 よ り も 神 社 に 近 い 位 置 に あ る こ と に 対 抗 す る た め で あった。
両者のサービス合戦はますます過熱していく。翌四二年、まず阪神電 車が広告に「電車は一分毎に発車します (11 ( 」と記載し、国鉄が真似するこ と の で き な い フ リ ー ク ェ ン ト サ ー ビ ス を 前 面 に だ し た。 さ ら に、 「 え び す停留場を装飾し、夜間はイルミネーシヨンを点じ、乗客休憩所には幔 幕を張つめ暖炉を設け湯茶の接待をなす (11 ( 」という徹底ぶりであった。 対する国鉄も負けてはいられない。 〔史料 ((〕 夜は阪神電鉄が戎停留所に二十余個のアーク燈にイルミネーシヨン の装飾を施し景気を添ゆるとの事を聞き、鉄道院〔国鉄〕にても戎 の仮ステーシヨンに元山陽〔山陽鉄道〕の蓄電車を運び来り、無数 の色電燈を点じ、此の外四個のルツクス燈を掲げたれば、中々に壮 観なりし (11 ( 。 当時、夜間に多数の電燈を照らすことは、それだけでも人々の目を大い に楽しませたであろう。このときの現場での客引き合戦の様子は、次に 引用する新聞記事が生き生きと伝えてくれる。 〔史料 ((〕 鉄道院にては道筋の要所々々に 「汽車乗場はこちら」 と貼紙せし外、 本通を札場筋の突当に汽車の時間表を掲げ、此処に駅員交代にて出 張して客を引けば、電車もなかなか負けて居らず、境内社殿の脇に 「 電 車 の 乗 場 に は( 銭 い ら ず ) だ ん ろ と 湯 茶 の 備 あ り 」 と 大 書 し て 貼紙し、又汽車乗場に通ずる今在家の踏切には「電車は一分毎に発 車まつせわなし」と立札して乗客の吸集策、何事も勉強の世と凄ま じかりし (11 ( 。 仮に国鉄ではなく私鉄であれば、間違いなく阪神電車が参入した三九 年から早速対抗策をとったであろう。あえてすぐに対抗策をとらなかっ たのは、いかにも国鉄らしい。しかし、阪神電車が大々的に客寄せをす るのを目の当たりにして、さすがの国鉄もただ指をくわえてだまって見 図 2 国鉄の広告(『大朝』明治 (( 年 ( 月 (日) 図 3 国鉄の広告(『大朝』明治 (0 年 ( 月 (日)
ているわけにはいかなくなったと思われる。 以上みたように、阪神電車というディヴェロッパー的な性格が強い私 鉄 の 登 場 に よ っ て、 西 宮 神 社 で は あ ら た に 新 暦 十 日 戎 が「 開 拓 」 さ れ、 都市部からの参詣客で賑わった。さらに、それのみならず、阪神電車は 旧暦十日戎でも盛んに集客を行ない、空前の賑わいをもたらした。あり ていに言えば、阪神電車にとっては、新暦であろうが旧暦であろうが運 賃収入が増えさえすればそれでよかったのである。しかも、旧暦十日戎 の方では国鉄を競争に引きずりだし、両者の間で激しいサービス競争が 起こった。その結果、この行事はエンターテイメントとしての性格を強 め、ますます多くの行楽客をひきつけることになったのである。
第三章
明治四三年の
「旧暦廃止」
以後
第一節 明治四三年の 「旧暦廃止」 改暦といえば先行諸研究ではもっぱら明治六年(明治五年末)の改暦 がとりあげられる。しかし、あまり知られていないことであるが、明治 四 三 年 か ら 政 府 は 官 暦 へ の 旧 暦 併 記 を 廃 止 し た。 こ の 改 正 は、 「 太 陰 暦 廃 止 (11 ( 」、 「 旧 暦 廃 止 (11 ( 」、 「 新 暦 施 行 (11 ( 」(!) と 称 さ れ た こ と か ら も わ か る よ うに、今度こそ本当に旧暦廃止という印象を人々に与えた重要な改正で あった。この改正によって様々な影響・混乱が生じたが、なかでも社寺 行事は西宮十日戎のように旧暦にもとづいて行なわれるものがあったた め、少なからぬ影響を被ることになった。 新聞をみるかぎりでは、多くの社寺は従来の旧暦の日取りをそのまま 新暦に移行したとみられる (1( ( 。西宮神社の関係者たちも、今度ばかりはさ す が に 旧 暦 十 日 戎 の ま ま で 継 続 す る の は 具 合 が 悪 い と 認 識 し た よ う で、 祭 日 を 変 更 す る こ と に し た。 た だ し、 新 暦 十 日 戎 へ の 一 本 化 で は な く、 新暦十日戎を従来通り行なうとともに、旧暦十日戎の代わりに月遅れの 二月十日を本来の十日戎とするというものであった (11 ( 。ところが、これが 思わぬ事態を引き起こすことになる。 第二節 新暦十日戎 まず、新暦十日戎であるが、この年から国鉄と阪神電車がサービス競 争をするようになった。前章で述べたように、国鉄は明治四一年から旧 暦十日戎に際して阪神電車と競争をするようになったが、新暦十日戎で は 目 立 っ た 対 抗 措 置 を と っ て い な か っ た。 後 に 引 用 す る 新 聞 記 事 ( 史 料 (() も 示 唆 す る よ う に、 四 三 年 の 改 正 に よ っ て 旧 暦 十 日 戎 か ら 新 暦 十 日 戎に参詣の比重が移ると予想したのであろう。国鉄は遅ればせながらよ うやく新暦十日戎に本腰を入れることになったわけである。 このときの阪神電車と国鉄のサービス合戦の様子は、次の新聞記事が 記すように前年までの旧暦十日戎とまったく同様のものであった。 〔史料 ((〕 阪神電車は西宮初戎〔新暦十日戎〕に就き九、 十、 十一の三日間車輌 を増発し、十日の本祭当日は往復八百七十四回の運転をなし、賃金 は大阪神戸より西宮ゑびす行往復十六銭に割引をなし、同停留場に は幔幕を張り、夜は無数のイルミネーシヨンに景気を附け、西部鉄 道 管 理 局〔 国 鉄 〕 に て も 昨 年 迄 は 旧 十 日 戎 だ け 今 在 家( 神 社 裏 手 ) の鉄道側に仮停車場を設けて電車の向ふを張りたれど、今年は九十 両日の人出を予想せしか仮停車場設備の上、 ネツクス燈、 イルミネー シヨンを施して、花々しく競争的に参詣人の便利を与ふるよし (11 ( 。 は た し て 結 果 は と い え ば、 次 の 新 聞 記 事 が 報 じ る よ う に「 郊 外 散 策 」 を求める都市部の人々がつめかけて、空前の大盛況となった。 〔史料 ((〕 昨日は日曜にて郊外散策の地を求むる者多き上に、今年は大阪よりの恵方に当る事とて、西宮戎神社の初祭は実に大当りであつた。汽 車も電車も前年以上の人出を予期して夫々其の心構へをしてゐたが ……午後一時頃よりは刻々人足殖えて、ノベツ幕なしに運転する往 復の電車は悉く満載となり、戎停留場では発車毎に取残される客が 多かつた。神殿は〔旧暦〕十日戎の時と同様神楽巫女の鈴の音絶え ず響いて心耳をすまし「例年の福守はこれから出ます」と正装の世 話役声を限りに呼立てるので、参詣人は先を競うて波の如くに押し よせ一時は危険を感ずる程であつた (11 ( 。 こ の と き の 賑 わ い に は 神 社 関 係 者 も「 新 暦 十 日 祭 ト シ テ ハ 空 前 ノ 盛 況 (11 ( 」 と 驚 嘆 し て い る。 た だ し、 『 日 誌 』 が 次 の よ う に 分 析 し て い る こ と に注意したい。 〔史料 (0〕 本年参詣人ノ多カリシハ、好天気ト大阪ヨリ恵方ニ当レルニ依ルハ 申迄モナケレド、当年ヨリ旧暦廃止ノ結果従来ノ旧十日大祭ハ廃セ ラレテ新十日祭ニ改正セラレタルモノト誤解セシ向モ多数見受ケタ リ (11 ( 。 つまり、神社側としては旧暦十日戎を月遅れの二月十日戎に移行して 最も重要な行事にしたつもりであったのだが、参詣客の中には新暦十日 戎に一本化されたと思った人が多数いたのである。実際そのようにする 社寺が他にもたくさんあったのであるから「誤解」してしまうのは無理 もないことであった。 新暦十日戎はすでに阪神電車による「開拓」によって相当に賑わうよ うになっていたが、右に述べたように、この年からは、阪神電車と国鉄 のサービス合戦に加えて、前年まで旧暦十日戎に参詣していた客が多数 合 流 し た こ と に よ っ て、 「 空 前 ノ 盛 況 」 と な っ た の で あ る。 た だ し、 史 料 ((・ (0からはこの参詣客の中身が主として都市部の人々であったと察 せ ら れ る( 農 漁 村 部 信 者 の 動 向 に つ い て は 後 述 )。 つ ま り、 前 年 ま で 新 暦十日戎と旧暦十日戎に分散していた都市部からの参詣客が新暦十日戎 に収束したのである。 第三節 二月十日戎と旧暦十日戎 それでは、一ヵ月後の月遅れの二月十日戎はどうであったか。神社は 大祭が二月十日に変更になったことを告知する新聞広告を出し (11 ( 、阪神電 車 ・ 国鉄も増発 ・ 割引の広告を出した (11 ( 。ところが、 宵戎にあたる九日は 「参 詣人寥々、殆ト平日ト異ラズ。一同意外ノ感ニ打タレ……夜モ早ク門ヲ 閉ザシ八時全ク終了セリ」という状況で、肝心の十日も全くの空振りに 終わるという結果になってしまった。 『日誌』は次のように記す。 〔史料 ((〕 本年ヨリ暦面ニ太陰暦記載ヲ廃止シ新暦ヲ励行セラルヽ事トナリシ ヲ以テ、当社年中ノ祭典行事ヲ改メスベテ一ヶ月送リト改正シ、本 日ヲ以テ旧正月十日大祭ヲ執行スル事トセリ。是ヲ以テ一般ニ普ク 熟知セシムルノ必要アルヲ以テ、本月一日二日両日ニ渉リ各新聞紙 ヲ以テ講社員及信徒ニ予告シ、更ニ七日八日九日三日間阪神全部ノ 新聞ニ広告セリ。于然意外ニモ参者三日間ヲ通シテ平年ノ拾分ノ一 位ノ少数ニテ前代未聞ノ一日ニ属シ、一同無念ノ外ナカリシ。…… 三丹洲〔丹波・丹後・但馬〕信者ハ一人ノ参者モナカリシ。聞ク処 ニ依レハ本月二十日祭即チ旧十日祭当日ニ参詣スル由各村申合セシ 処モアリトカ。兎モ角モ案外千万ノ状況ナリキ (11 ( 。 神社が驚いたことには、農漁村地帯である「三丹洲」からの参詣は皆 無であった。そうすると、引き算で考えれば参詣したのは都市部の人々 ということになるが、それでも「平年ノ拾分ノ一位ノ少数」という有様 であった。おそらくは、都市部の人々の多くはすでに前月の新暦十日戎 を満喫していたので、あらためて二月十日戎に参詣しようとする人は少 数であったものと思われる。
そして、 旧暦正月一〇日にあたる二月二〇日は、 次のような状況となっ た。 〔史料 ((〕 昨今ハ旧正月十日祭ニ相当スルヲ以テ参者多カルベシトノ予想ヲ以 テ境内出店等旧大祭ト同様多数アリ。于然平年ノ三分ノ一ニモ足ラ ズ。殊ニ阪神ヨリノ参詣ハ皆無ニシテ三丹洲ノ人ノミナリ (11 ( 。 史料 ((の最後に記された伝聞情報の通り、農漁村部の人々は、神社関係 者の意図にはお構いなしに、申し合わせたように(おそらくは実際に申 し合わせて)旧暦十日戎に参詣に訪れた。彼らにとっては、神社関係者 の想像が及ばない ほ どに旧暦正月十日という日取りが重要なものであっ たわけである。これに対して、都市部からの参詣は皆無で、結果として 「平年ノ三分ノ一ニモ足ラ」ないという有様となった。 神 社 に と っ て こ れ は 一 大 事 で あ っ た。 『 日 誌 』 は 一 連 の 経 過 に つ い て 次のように分析している。 〔史料 ((〕 本年ヨリ改暦励行ノ為メ、明年ノ大祭ヲ二月十日ニ設定シ、普ク広 告シ、汽車電車側モ同様一般ニ広告セルニモ拘ラズ、参者稀少ナリ シガ、本日ノ二十日祭〔旧暦十日戎〕ハ本社ヨリ広告セズ汽車電車 ノ割引等モナシ。于然両日共相応ニ賑ハヒタリ。尤モ平年ノ旧十日 大祭トハ比スベクモアラネド、旧慣ハ容易ニ脱却シガタキ事ヲ察ス ルニ足ル (1( ( 。 結局、翌年以降も二月十日戎は賑わいを見せることはなく、神社関係 者 も こ れ を 維 持 す る こ と を あ き ら め、 旧 暦 十 日 戎 に 重 点 を 移 す こ と に なった。 以上の経過を整理しておきたい。明治四三年の 「旧暦廃止」 を受けて、 西宮神社としては新暦十日戎と二月十日戎の二本立てに改正したつもり で あ っ た が、 ふ た を あ け て み れ ば 実 質 上 は 三 つ( 新 暦・ 月 遅 れ・ 旧 暦 ) の十日戎となってしまった。新暦十日戎は阪神電車と国鉄のサービス合 戦の場となり、前年まで旧暦十日戎に参詣していた都市部参詣客も新た に加わって、 三つの十日戎の中で最も賑わった。しかし、 皮肉なことに、 神社側が最重要行事として意気込んでいた月遅れの二月十日戎は、都市 部の人々がわずかに訪れた程度で、農漁村部の人々からは全くと言って いい ほ どかえりみられず、最も賑わいが少なかった。一方で、旧暦十日 戎は都市部の参詣者は皆無であったが、農漁村部からは相変わらず参詣 客がやってきた。 結局、明治四三年の「旧暦廃止」以降、都市部からの参詣客は新暦十 日戎に集中し、農漁村民は相変わらず旧暦十日戎に参詣するという形に 落ちつくことになったのである。
第四章
神社と電鉄の協調と駆け引き
周知のごとく、明治末期から大正にかけて、阪神両都市、特に大阪の 都市化が著しく加速していくとともに、両都市にはさまれた地帯も阪神 電鉄や小林一三の箕面有馬電鉄 (のちの阪急) といったディヴェロッパー によって急速に郊外宅地化していった (11 ( 。西宮神社にとって、急速に人口 が膨れ上がる阪神一帯からいかに多くの参詣客を呼び込むかということ が重要となっていく。もちろんそのためには参詣客の誘引に威力を発揮 する阪神電車との協力関係が不可欠であり、両者の協調のもとで十日戎 はますます発展し、今日にまで至る人気を確立していくことになる。 ただし、常に協調ばかりというわけにはいかなかった。両者ともに参 詣 客 増 加 を 望 む と は い え、 あ く ま で も 神 社 は 神 社、 電 鉄 は 電 鉄 で あ り、 思惑がずれてしまうこともあった。そのため時として両者の間に駆け引 きが起こり、協調と駆け引きのせめぎあいのなかで今日の十日戎の姿へ と落ちついていく。第一節 旧暦十日戎 明治四四年以降も二月十日戎がまったく振るわなかったために、まも なく神社側もその維持をあきらめるようになり、そのかわりに旧暦十日 戎を再びもとの賑わいに戻そうと努めるようになった。ここで考えてみ るに、前章でみた通り、農漁村部の信者たちの多くは「旧暦廃止」や新 聞広告といったものにはお構いなしに、自発的に参詣にやってくる人々 であった。そうすると、問題は浮動層とも言うべき都市部からの参詣客 を再び呼び込めるかどうかということになる。そしてこれには阪神電車 の集客力がなんとしても必要となろう。 すでに西宮神社は阪神電車の集客力に注目し、これを利用する道を考 えるようになっていた。十日戎ではないが、明治四〇年の節分のときの 『日誌』には、次のような興味深い一節がある。 〔史料 ((〕 本 日 節 分 ニ 付 且 大 阪 ヨ リ 恵 方 ニ 当 ル ヨ シ ニ テ 電 車 ヨ リ 広 告 シ タ リ。 故ニ早朝ヨリ大阪人ノ参詣夥シ。非常ノ賑ナリ。……明年ハ恵方ナ ラズトモ電車ヨリ節分ノ広告ヲナサシムル方法ヲ考フベシ (11 ( 。 ここからは、阪神電車の強力な集客力を目の当たりにして、同電車とタ イアップして神社の発展につなげようという発想が神社関係者のなかに 萌芽したことがわかる。そして実際に、西宮神社は旧暦十日戎の挽回を 図るべく阪神電車に協力を求めるようになった。つまり、第二章第二節 でみた「阪神電車→西宮神社」とは逆の「西宮神社→阪神電車」という はたらきかけが行われるようになったのである。 十日戎に関してこの動きが明確化するのは大正三年である。その前年 の大正二年の『日誌』には次のようなメモが記されている。 〔史料 ((〕 明年ハ前以テ阪神電鉄会社ニ交渉シ二月十日祭ノ広告ヲ廃シテ本祭 〔 旧 暦 十 日 戎 〕 ニ 広 告 セ シ ム ル 事。 鉄 道 院 ヘ モ 交 渉 シ テ 本 祭 ニ 広 告 セ〆 バ 一層効力多カルベシ (11 ( 。 つまり、この時点で神社は二月十日戎に見切りをつけ (11 ( 、重点を旧暦十日 戎に戻す決断をしたのであるが、そのために電鉄・国鉄の宣伝を利用し ようと考えたのである。翌三年、どういう事情からか国鉄の広告は実現 しなかったものの、阪神電車とは打ち合わせが行われた (11 ( 。十日戎にさき だって神社から電鉄会社におもむいて打ち合わせをするというのは、 『日 誌』をみる限りではこれ以前には皆無である。交渉の結果神社側の要望 に沿って話がまとまったとみられ、右のメモの方針通りに、旧暦十日戎 に合わせて阪神電車の広告が新聞に掲載された (11 ( 。 ところが、その結果は「本日ハ節分ニ当レル上阪神電鉄ヨリ広告セシ ヲ以テ定メテ多数ノ参拝アラント予期セシニ、割合ニ少ナカリシ (11 ( 」とさ えないものであった。この史料が示すように、神社関係者たちは阪神電 車の集客力に相当な期待をしていた。しかし、都市部の人々が新暦十日 戎に集中するという傾向は明治四三年の「旧暦廃止」以降わずか数年の 間にすでに定着しており、電車の宣伝をもってしてもその傾向はいかん ともしがたいものとなっていた。明治四三年の「旧暦廃止」による変化 はそれ ほ ど大きなものだったのである。 電 鉄 に と っ て は、 参 詣 客 が 多 く な っ て 運 賃 収 入 が ア ッ プ す れ ば こ そ、 宣伝をする価値があった。しかし、宣伝をしたにもかかわらず右のよう な 成 果 し か 得 ら れ な い と な る と、 も は や 旧 暦 十 日 戎 は 電 鉄 に と っ て メ リットを失うことになる。実際、これ以降電鉄側は明らかに消極的な姿 勢を見せるようになり、神社側は電鉄側の協力を引き出すために苦心す るようになる。翌四年、神社は前年同様に電鉄の担当者とあらかじめ広 告の打ち合わせをしていたのであるが、それにも関わらず次のような珍 事が起こってしまった。 〔史料 ((〕
当祭〔旧暦十日戎〕広告ノ件、十日以前ニ阪神電鉄太宰運輸課長ニ 交渉セシニモ拘ラズ、旧八日ニ至ルモ各停留場ノ掲示ハ更ナリ新聞 紙ニモ広告セズ。依テ同日電話ヲ以テ掛合ヒタルニ、失念セシ由ニ テ直ニ着手セリ。明年ヨリ再度入念ヲ要ス (11 ( 。 阪神電車が掲示や広告を「失念」してしまうなどということは、旧暦 十日戎が大いに賑わっていた明治四二年以前であればおよそあり得ない ことであった。旧暦十日戎は阪神電車側にとって明らかにどうでもいい ものになりつつあったのである。 さらに翌五年、阪神電車側ははっきりと広告廃止を切り出してきた。 〔史料 ((〕 午前、良晃、阪神電鉄山口運輸課長ニ面会、旧十日祭広告ノ件ヲ談 ス。電車側ニ在テハ昨年不況ニ鑑ミ本年ハ広告ヲ廃スル意見ナリシ モ、交渉ノ結果例年ノ通掲示スルコトヽセリ (11 ( 。 神社側の要請によりなんとか広告は廃止を免れ、その後も継続される ことになった。ただし、 やはり目立った成果をおさめることはなかった。 さすがの神社関係者もあきらめ気味となり、やがて「時勢ノ傾向ニ依ル カ年一年減少ス (1( ( 」、 「年々衰微ニ向ヘルハ已ムヲ得ズ (11 ( 」といった慨嘆が繰 り返し記されるようになる。阪神電車の新聞広告もついに昭和五年で打 ち切られた (11 ( 。現時点では十分に解明できるに至らないが、明治四三年の 「 旧 暦 廃 止 」 に 都 市 化・ 工 業 化 に よ る 農 漁 業 の 比 重 の 低 下 と い っ た 趨 勢 があいまって、いよいよ旧暦行事は衰微せざるをえなくなったと予想さ れる。 それにしても、どうして西宮神社は明治四三年の改正後ただちに新暦 十日戎に一本化せずに、二月十日戎や旧暦十日戎の維持にこだわったの で あ ろ う か。 そ の あ た り に つ い て は、 『 日 誌 』 に も 述 べ ら れ て お ら ず、 正確なことはわからない。あえて推測してみるとすれば、新暦十日戎は つい数年前に電車が「開拓」した行事であり、神社本来の伝統行事では ないという思いがあったのかもしれない。あるいは、エビス神の総本社 として、明治六年の改暦後あっさりと新暦十日戎に一本化してしまった 今宮神社とあくまでも一線を画し、農漁村民のための十日戎という性格 を残したかったのであろうか。 結局、旧暦十日戎の挽回策は失敗に終わってしまった。ただし、この 経過のなかで注意したいのは、西宮神社から阪神電車に宣伝を依頼する というはたらきかけが行われるようになったということである。 つまり、 神社は阪神電車の集客をただ受け身で傍観したのではなく、逆にその集 客力を利用して参詣行事の維持・発展を図るようになったのである。そ して、このような神社と阪神電車の協力関係は、その後の同神社の参詣 行事に不可欠なものとなっていく。 ただし、両者の利害が常に一致したわけではなかった。本節でみたよ うに、 旧暦十日戎に関しては、 都市部からの参詣客増加が見込めなくなっ たとたんに阪神電車側が消極的になり、 しばらく駆け引きがあったのち、 最終的には神社側があきらめざるをえなくなったのである。 第二節 新暦十日戎 ―夜間参詣をめぐる駆け引き― ひるがえって新暦十日戎の動向はといえば、既述の通り、明治四三年 以降都市部からの参詣客が集中するようになり、事実上西宮神社の最人 気行事として定着する。 大正期の 『日誌』 をみると、 「参拝者ハ年一年多ク、 本年ノ如キ殊ニ多数ヲ究ム (11 ( 」、 「賽者非常ニ群参近年ニ比類ナシ (11 ( 」といっ た記述が繰り返されており、新暦十日戎の賑わいがますます増していっ たことがわかる。 新暦十日戎の参詣客が増えること自体は、神社にとっても電鉄にとっ ても好都合なことであり、その点に関しては両者の立場は一致していた と思われる。しかし、思惑が大きく食い違ってしまう場合もあった。特 に神社関係者の頭を悩ませるようになったのが、九日(宵戎)深夜の参
詣をめぐる問題である。 古来より西宮神社では十日戎祭に先立って前夜より忌籠を行うことと なっており、九日夜には必ず閉門していた (11 ( 。この慣わしは明治になって も変わることはなく、明治三二年の旧暦十日戎を報じる新聞記事にも旧 九日の様子について「但当日戎神社は午後六時より閉門したり (11 ( 」と記さ れている。 と こ ろ が、 阪 神 電 車 開 業 に よ っ て 都 市 部 か ら の 参 詣 客 が 増 加 す る と、 閉門後であるにもかかわらず参詣につめかける人が少なからず見られる ようになった。 〔史料 ((〕 当日参者非常ニ多ク、夜八時閉門後も電車停留場ヨリ門外迄陸続群 集セリ (11 ( 。 このため、明治四一年、神社は旧暦十日戎を告知する新聞広告に「旧九 日は恒例に依り夜八時門を閉づ (11 ( 」と明記した。しかし、このような告知 にもかかわらず、この年もやはり「十一時過迄門外参者群集セリ (11 ( 」とい う状態になってしまった。 このような参詣客が見られるようになったのは、阪神電車の開業後に 西宮神社の伝統を熟知していない参詣客が増加したためと思われる。ま た、大阪からやってくる参詣客のなかに、今宮神社の十日戎と同じ感覚 で参詣する人が少なからずいたのかもしれない。というのも、今宮神社 の一月九日の宵戎は深夜も参詣客で賑わうことが珍しくなかったのであ る (1( ( 。 しかし、後から考えてみれば、このときはまだ良い方であった。なぜ なら、明治四三年の「旧暦廃止」以前は都市部参詣客が新暦・旧暦の二 つの十日戎に分散していたからである。ところが四三年以降都市部から の参詣客が新暦十日戎に集中するようになると、西宮神社はいよいよ不 都合を痛感するようになる。特に大正七年には、神社関係者の神経をと がらせるようなトラブルが発生した。 〔史料 ((〕 夕刻ヨリ参者群集、夜ニ入リテ殊ニ殺到ス。十二時ニ至リ閉門セシ モ、尚門外多数ノ参詣者アリ。不平ヲ鳴ラシテ怒リシ由ナリ。是ハ 本年ハ何故カ電鉄ヨリ九十二日終夜運転ノ□□〔宣伝ヵ〕セシニ依 ルナラン (11 ( 。 電鉄側が神社との相談なしに終夜運転を行ったため、十二時に閉門した 後もなお門外に参詣客が続々押し寄せて文句を言うというトラブルが起 こってしまったのである。神社関係者もさすがにこの事態には危機感を 覚 え、 「 明 年 ヨ リ ハ 会 社 ヘ モ 予 告 シ、 尚 各 新 聞 記 者 ニ モ 九 日 夜 閉 門 ノ 御 例ヲ予告スベシ (11 ( 」と再発防止策を注記している。しかし、翌年の阪神電 車広告 (11 ( をみても、閉門に関する明記はなされていない。 その後、阪神電車の終夜運転こそ繰り返されなかったものの、九日の み な ら ず 十 日 夜 ま で も 深 夜 ま で 賑 わ う 傾 向 が 強 ま り (11 ( 、 例 え ば 翌 八 年 の 一〇日夜は「晩十二時ニ至ルモ尚陸続来参アリ。一時過門ヲ閉ス (11 ( 」とい う状態であった。深夜一時に閉門などということは、阪神電車開業以前 にはおよそあり得ないことであった。 神社側は、閉門時刻が遅くなることはある程度仕方ないとしても、せ めて九日夜の閉門・忌籠の伝統はなんとしてでも厳守したいと考えたよ うで、大正一四年には「今夜閉門ニ関シテハ前以電車側ト交渉シ、九日 晩ハ十一時ニ総門ヲ閉鎖スベキ旨大阪神戸両停車場ヘ掲示セシム (11 ( 」とい う対策をとった。しかし、それにもかかわらず、翌一〇日早朝には一部 の 参 詣 客 が 開 門 前 に 勝 手 に 境 内 に 入 り 込 む と い う ト ラ ブ ル が 生 じ、 「 明 年ヨリ三門トモ門衛ヲ附」すようにと『日誌』に記されている (11 ( 。都市部 からの不特定多数の参詣客が増加していくなかで、西宮神社の厳粛な忌 籠の伝統などお構いなしという者も出てきたのである。 このような不心得者まで運んできてしまう当の電鉄側はといえば、神
社の要請をうけて停車場の掲示で九日閉門の旨を告知するという対応を とったものの、もっとも強力な宣伝媒体であるはずの新聞広告にはなか なか明記しようとしなかった。電鉄側にしてみれば、閉門を明記してし まうと、いわば稼げるはずの時間に店じまいをしてしまうということに なる。同じ十日戎でも、ライ バ ルの南海電車は今宮神社参詣客のために 終夜運転をしていた (11 ( 。阪神電車もできれば同じように終夜運転をしたい ところであるが、神社に門を閉められてしまっては仕方がない。それゆ え、終夜運転は我慢するが、深夜も多少は稼がせてもらいたい、という のが阪神電車の本音だったのではなかろうか。 その後夜間参詣客はさらに増え続けたとみられ、昭和八年にいたって 西宮神社の危機感はピークに達する。神社側は、もはや停車場の掲示だ け で は な く、 新 聞 広 告 に 明 記 さ せ る こ と が 不 可 欠 で あ る と 判 断 す る に 至った ((11 ( 。そして神社側が強く要請したためであろう、電鉄側は翌九年に なってようやく九日夜の閉門の旨を新聞広告に明記した。閉門時刻は夜 一二時となり、先に見た大正一四年の神社の方針よりも一時間遅くなっ て い る。 神 社 側 も 多 少 は 譲 歩 せ ざ る を 得 な か っ た の で あ ろ う。 た だ し、 非常に面白いことに、この広告をよく見てみると、広告文句がたくみに 言い換えられたものとなっていることがわかる。 〔史料 (0〕 九日宵戎 古例に則る居籠祭 午後十二時迄開門 ((1( ( 物は言いようとはまさにこのことであろう。神社側の意向は「忌籠を するために、九日夜に閉門する」というものであったはずであるが、阪 神電車は勝手に「忌籠祭」という何やら楽しいことでもありそうな響き がする名称にしてしまった。しかも、 おそらくは「十二時に門を閉じる」 と す る と 印 象 が 悪 く な る と 考 え、 「 十 二 時 迄 開 門 」 と 肯 定 的 な 表 現 に カ ムフラージュしたのである。このしたたかさは、もはやお見事という ほ かはない。これを見た神社関係者はどのように思ったであろうか。 その後も神社と電鉄の間で夜間参拝客をめぐる駆け引きはくすぶり続 けるのであるが ((10 ( 、すでに表題に反して先の時代まで行き過ぎてしまった。 その後の経過については別の機会を期す ほ かはない。 それにしても、神社としても、もし仮に終夜参拝を許せば、その分参 詣 客 が 増 え て 賽 銭 収 入 が 増 加 す る と い う メ リ ッ ト が あ っ た は ず で あ る。 それにも関わらず頑なに九日の閉門にこだわり続けたところに、エビス 神の総本社として忌籠習俗を守り抜こうとしたこの神社の人々の強い意 志が垣間見えるように思われてならない。
おわり
に
以上、明治期から昭和初期までの西宮神社十日戎の変容過程をみてき た。ここで以上の内容を簡単に要約しつつ、本稿で得られた知見を整理 しておきたい。 ふりかえってみれば、もともと西宮神社十日戎は農漁村民や都市商人 た ち を 中 心 と す る 参 詣 行 事 で あ っ た が、 「 汽 車 」 の 開 通 に よ っ て 徐 々 に 都市部から行楽がてらに参詣する「普通の参詣人」が訪れるようになっ ていった。神社側もこの浮動層を呼び込むべく自ら新聞を通じて都市部 に向けて広報をするようになった。そのため、西宮神社旧暦十日戎は衰 微するどころかむしろ賑わいを増していく。一見すると時代の流れから 最も縁遠いようにみえる参詣行事も、実は鉄道や新聞といったものと深 く関わるようになり、確実に近代化・都市化の文脈のなかで変化し始め たのである。 だが、なんといってもこの傾向を決定的にしたのは阪神電車の登場で あった。重要なことは、阪神電車の登場は、ただ単に西宮神社への交通機関が 一つ増えたというだけにとどまらなかったということである。この電鉄 は、長らく寂れていた参詣行事(新暦十日戎)を新たに「開拓」したと いう点、さらには、神社境内のことにまで関わるようになったという点 で、従来の諸鉄道とは決定的に異なっていた。 既存の鉄道史では、明治末期以降の大都市近郊電鉄の特徴として、単 なる交通機関としての性格にとどまることなく、沿線の不動産営業やレ ジャー開発といったディヴェロッパー的な多角経営を行なうようになっ たことが指摘されている ((10 ( 。ただ、そのような視点に基づいた先行諸研究 は、もっぱら阪急の宝塚や東急の田園都市などといった目新しいものに 注目し、社寺参詣という近世以来の伝統をもつものとの関わりを看過し てきた。しかし、本稿の検討内容からわかるように、大都市近郊電鉄の ディヴェロッパー志向は社寺参詣にも深く関わるようになった。 そして、 今日の大都市圏の社寺参詣の有り様はこの点を考慮することなくしては 決して理解することができないのである。 一方、阪神電車の大々的な乗客誘引によって都市部からの参詣客が大 幅に増加していく状況を目の当たりにして、神社側も電鉄会社の強力な 宣伝力を利用して都市部からの参詣客の増加を図るようになる。大都市 からの参詣客が多数を占めるようになった西宮神社の参詣行事は、もは や従来のように神社と氏子・崇敬者だけで維持できるようなものではな く、電鉄会社との協調関係抜きには隆盛を望めないものとなっていった のである。 し か し、 両 者 の 関 係 は 常 に 協 調 ば か り と い う わ け に は い か な か っ た。 あくまでも神社は神社、電鉄は電鉄であり、双方の思惑がずれてしまう こともある。例えば明治四三年の「旧暦廃止」以後、都市部からの参詣 客が新暦十日戎に集中するようになると、にわかに電鉄側は旧暦十日戎 に関して消極的になり、神社側は電鉄会社側の協力を引き出そうと種々 苦心せざるをえなかった。また、西宮神社の忌籠習俗の伝統に頓着しな い者たちが九日夜間にも押し寄せるようになり、神社側はこの伝統を維 持すべく電鉄側に協力を求めたが、電鉄側はなかなか全面的に協力しよ うとはしなかった。電車にとっては運賃収入が増えればそれでよかった のであろうが、神社にとっては賽銭収入も大事だが伝統を厳守すること も決してゆるがせにできないことであったのである。このように神社と 電鉄会社の間に協調と駆け引きがせめぎあう中で、十日戎は今日の姿へ と落ち着いていった。 以上の検討から、日本近代の大都市における社寺参詣の変容過程を理 解するためには、 ①鉄道の登場による変化、 特に明治末期以降のディヴェ ロッパー志向の鉄道会社による変化、②もっぱら都市部からの参詣客の 増加を志向する鉄道会社と伝統の維持も重視する神社との間に生じた協 調と駆け引きがせめぎあう関係、という二点に注目することが有用であ ると結論づけたい。 なお、本稿の主たる検討目的ではなかったが、改暦をめぐる問題につ いても付言しておきたい。従来の諸研究はもっぱら明治五年末(明治六 年初め)の改暦にばかり注目し、しかも明治政府による旧暦抑圧という 側面を強調してきた。しかし実際には、西宮神社では改暦後も旧暦によ る十日戎が行われ続け、都市部からの参詣客も多数訪れた。しかも、官 庁から規制が行なわれた形跡は一切見られず、それどころか、政府の一 組織であるはずの官鉄が積極的に便を図った。明治末期には新たに開業 した阪神電車と国鉄が熾烈な競争を繰り広げ、神社関係者が「古来斯ノ 如キ大盛況ハアラザルベシ」と驚嘆する ほ どの空前の賑わいとなった。 そ し て、 こ の 旧 暦 十 日 戎 か ら 都 市 部 参 詣 客 が 離 れ る 最 大 の き っ か け と なったのが、 明治四三年に実施されたもう一つの「旧暦廃止」であった。 こ の 明 治 四 三 年 の 改 正 に つ い て は こ れ ま で ほ と ん ど 注 目 さ れ て い な い。 もちろん、本稿で取り上げた事例を一般化するのは拙速に過ぎるが、少