1
北 陸 大学 紀 要 第11号 (1987)pp .195〜
222日
本
に
お け る心
身 障害 者
体
育
の
史 的
研 究
(
第
14
報 )
一
昭
和
20
年
ま
で
の
柏
学
園
の
肢 体 不 自
由
児 体
育
に
つ いて
一北
野
与
一
*AHistorical
Study
ofPhysica1
Education
for
the
Handicapped
in
∫
apan(
XI
V
)
On
Physical
Education
for
the
Physically
Handicapped
atKashiwa
Gakuen
,1921
〜
’45
Yoichi
Kitano
Rece
‘ひe【オ0
)ctober16,1987
1
は
じめ
にわ が国の 肢
体
不自
由 児 を対 象と した公立学校
の 設置 は、
他の 障 害 児 学 校の それよ り遅 く,
昭 和7
(1932
) 年 設 置の東京
市立光 明学校
が 最初であ る。 同校
は,
戦 前にお け る唯一
つ の 公 立 学 校 とし て幾 多の 困 難に耐 え ながら,
その 重 責 を 果た し た。 同 校の設 置が背 景と なり,
茨 城.
大 阪,
熊 本あ るい は 三重な どの各府
県で も肢体
不自
由児学級
が 設 け ら れ,
戦 前に は14学
級。
100 名 前 (li 後の児 童 が 教 育 された。 い ず れに して も,
戦 前における肢 体 不 自 由教 育は限 られた地 域で少 数 の 限 られ た児童 に対
する教育
に終
止 して お り,
公 教育
と して真に その態 様 を 整 備・
確 立す るの は戦 後 を 待たね ば な ら な かっ たと言 え るだろ う。一
方 ,収容 ・
保護 を 主体
と し た救
護 施 設は,
明 治 期に既 に開 設されて いた。 例えば,
明 治36
〔2} (1903
)年 t 富 士 育 児 園 (静 岡 県 )が開 設され,
精 神 薄 弱 児や肢 体 不 自 由 児を収 容・
保 護 し た。明 治
末期
に は,
整 形 外科学
が発 足 し,
肢 体 不 自 由児
へ の 医 学 治 療が進 展す る。 こ う し た進 展 を背 景に,
大正期
に入 っ て医
療 と教育
を併せ施す療育
施設 の開 設が模 索 さ れ る。
こ の医 療 と教 育 を 併せ施す療 育 施 設 を最 初に開 設 したの が.
元 体 操 教 師の 柏 倉 松 蔵 (1882− 1964
)であ ?た。 東 京 大 学 医 学部
整形外科
学教
室の全面 的協 力に よっ て開 設 さ れ た柏学 園は,
わ が国の 肢 体 不 自 由 療 育 事 業の嚆 矢で あ り,
教 育 面で も近 代 的 な 肢 体 不 自 由 教 育の先 駆 的 役 割 を 果た したの で あ る。 1 以上か らもう かが える よ うに,
肢 体 不 自 由 教 育 を 通 史 的に概 観 するに当た っ ては,
前 述の 光 * 教 養 部2
北 野 与 明 学 校は勿 論の こと,
こ の柏 学 園の教 育 実 態の検 討な く して そ の全 体 像を明 らかにするこ と は 不 可 能な わ けであ る。 こ う した点か ら.
これ ま でに多
くの研究 者が,
こ の柏 学 園の全 容 を 明ら かに しよ う と取 り組ん で き た。 そ の うち,
本 稿と特
に関連が あ る と 思 わ れ る報
告に は,
杉 浦 守 邦の 「柏 学
園に関す る研 究」(1978,
1979,1980 ,1985
)や 中 川一
彦の 「柏 倉 松 蔵 を育てた日 本 体 育 会 体 操 学 校 」 (1980
) 及び 「柏倉
松 蔵の 医 療体操
に関 する考え方
」 (1983
) が あ る。 こ れ らの報 告
は,
いず
れ も日本 特殊
教 育 学 会にで
報 告 され た もの であ る。 本 稿 は,
これ らの報 告 を 重 要 な 資 料 として,
さ らに体育
史 的視点
か らも追 試 的検 討
を加
え,
同学
園に て実践
さ れた 肢 体 不 自 由児の た めの体 育 教 育 をよ り明 らかに しようと意 図 した もの で ある。 皿研 究 目 的
本
稿は,
柏 学 園 開 設 時 以 前に お け る肢 体不 自 由 児の 教 育 的 処 遇 問 題に も検 討 を 加 え,
柏 学 園 にお け る療 育の な かで実 践さ れ た体 育 教 育を検 討 し,
その史 的 意 義の一
端を明ら か に し よ う と す るもの であ る。 皿研
究 方
法 本 稿で は,
柏 倉の 唯一
の 著 書であるr
肢 体 不 自 由 児の 治 療 と家 庭 及 学 校』,
柏 学 園の 各 年 報,
『日本 特 殊教育
学 会 各 回 大 会 発 表 論 文 集』諸 報 告,
『医 事 年 報』諸報
告,
r
児童研 究』・
『日 本 学 校 衛 生』・
r
大日本 私 立 衛 生 会 雑 誌』・
r
体 育 研 究』 な どの誌 上 諸 報 告などを 主 要な史・
資料
と して 検討
し,教
育史 ・障害
児 教育史 ・体育
史・体操
史な どの歴史 書,
その他障害
児教育
に関 す る 諸 文 献 を 重 要 な 参 考 資 料 と する。IV
結 果
と考 察
【3}1 .
肢 体 不 自 由 教 育 前 史1
) 制 度 的 変 遷の概 観一
就 学 猶 予・
免 除 制 を 中 心にわ が国の 公 教 育 制
度
を規 定 し た最 初の法 令は,
明治5
(1982
)年
に頒 布さ れ欧 米の教
育 制度
を範 とした 「学 制 」であ る。 周 知の よ うに,
こ の 「学 制 序 文 」 (「学 事 奨 励に 関す る被 仰 出書」) に 「一
般
の 人民華 士 族 農工商及婦女子必ず邑 に不 学の 戸 なす 家に 不学の 人 な か ら し め ん事を期
{41 す 」 と あ り,
「学 制」 は 四 民平
等の 国民皆
学を標
榜 して い たの で あ る 。 また,
そ の第二 十一
章 15) の末 尾に 「其 外 廃 人 学 校ア ル ヘ シ」 と規 定 され,
障 害 児の ための 学 校 設 置の 発 想 もみ ら れた。 し か し な が ら,
国家
主義的
な富 国強兵策
と は 無縁の障害
児に対 する国 家 的 ・教育
的 関心 は低 く,
以後 こ の 規 定に基づいた廃 人 学 校は設 置 さ れ な かっ た。 わが国の 義 務 教 育 制 度は明 治10
年 代 以 降 徐々 に整 備 されて い くが,
それ と と もに富 国 強 兵 策 も推 進さ れ てい っ た た め.
就 学猶
予・免
除の 規 定の明確化 も示 すように,
肢 体 不 自 由 児 も含め た障 害児 の教育
軽視の傾 向は漸 次 強まっ て いっ た。 「学 制」 で は,
不 就 学は届 出 制 (第 十二章 ) t6} で 就 学 猶 予・
免 除の規 定は なかっ た。 しか し,
明 治12
(1879
) 年の 「教 育 令」 には,
「事 故 ア {7 〕 リテ就 学 セ シ メ サル モ ノハ 其事
由 ヲ学 務 委員二陳
述 ス ヘ シ 」 (第 十五条
) と規 定 さ れ た。
翌13
日 本における心 身 障 害 者 体 育の史 的 研 究 (第
14
報)3
(1880
)年児童就学の飛 躍的拡
大 を期す た め に 「教 育 令」 が改正 さ れ,
その第 十五条但 書の趣 意に基づい て,
同14
(1881
)年1
月 「就 学 督 責 規 則 起 草 心 得 」 (文 部 省 達 第3
号 )が制 定 さ れ,
当 局の干 渉 督 励が強 化 され た。 そこに は,
不 就 学が認め ら れ る 「不得己事 故」 や 「相 当ノ理 由」 につ い て の具体
的内容
が明 示さ れて いた。 すな わ ち,
小 学 科三 力年の課 程を終え ない学 齢 児童 の場 合には,
厂一
疾 病二 羅ル 者一
親 族 疾 病二 羅 り他二 看 護ノ 人ナキ者一
廃 疾ノ 者一一
家 18〕 貧窶 ノ者但此等ノ者 ヲ待ツ ヘ キ学 校ノ設備ナ キ場 合二 限ル 」の 4 項の い ずれ かに 該当 する 児 童は
,
不 就 学が 認 め ら れ ると し た。 こ の規程が 発端
と なり,
同19
(1886
) 年の 「小 学 校 令」 で {9J は,
「疾 病 家 計 困 窮 其 他 止ム ヲ得サル 事 故 」 ある もの の 就 学 猶 予が規 定され,
さ らに同23
(1890 ) tt鵬 年の 「小 学校 令
」で は,
就 学猶
予に 加 えて就 学免
除も規定 さ れ た。
ま た,
同33
(190D
)年の 「小 学 校 令 」で は,
「瘋 癲 白 痴 又ハ 不 具 廃 疾 」は就 学 免 除,
「病 弱 又ハ 発 育 不 全」 は就 学 猶 予 ao と し,
「貧
窮 」 児 童の就学 は免 除ま た は猶
予 と 規 定 さ れ たの で あ る。 以 上の よ うに,
わが国で は,
義 務 教 育 制 度の確 立 過 程で障 害 児の就 学 猶 予・
免 除の規 程が顕 現・
強 化さ れて い き,
「不具 廃 疾」 に属す る と考え ら れて い た肢体
不 自 由児 は,
法 規 上 就学 免 除該
当者と して 取 り扱わ れ,義
務教育
の対
象外
に置 か れ たの で あ る。
こ う した教 育 制 度 下で,
慈 善 事 業 的 理 念か らで はあっ た が,
明 治8
(1875
)年 京 都で聾 教 育 が,次
いで盲 教育
が 開始 さ れ る。
ま た,義務
教 育制
度の 充実
発 展 に伴っ ての就 学率
の向上 と 租 まっ て,
明 治23
(1890
)年 長 野 県 松 本 尋 常 小 学 校で 「落 第 生 学 級 」が開 設 され.
翌 年には 長 野 尋常 小学
校に 「晩 熟 生 学 級」 が設け ら れ る。 こ の 「落 第 生」 や 「劣等
児 」 あ るい は 「低 能児 」 と呼ば れ た児 童に対 して適 切な教 育 を 施そ うという意 図が,
精 神 薄 弱 児の教 育へ と発 展 して いっ た。 その 間,
ここで問 題に し よ う と して い る肢 体不自
由 児の 就学
も,
上 記の 児童らに混在す る 形で顕 現 化 して い っ たの で あ る。2
) 肢 体 不 自 由 児 就 学の 顕 現 化乙竹
岩
造の 報 告に よ れば.
幕 末時
の 寺小
屋就 学に おい て,
「不 具 廃疾
」 は 「不 就 学の事
由 」 と もなっ て い た が,
「盲・
聾・
唖・
不 具 児の 寺 小 屋に通っ た もの の 存 外 多 か っ た」 とい う。 明 治初年におい ては,
こ う し た傾 向は続い た ものと考え ら れ,
軽 度の肢 体 不 自 由 児も健
常 児と と もに少 数なが ら小 学 校に就 学 して いた もの と 推 察で きる。 しか し,
明 治10
年 代か ら同30
年 代に か け て は,
就学
猶 予・免
除の規 定の強化
な ど も あ り,
当 局の就 学 督責
に も か か わ らず 肢 体 不 自 由 児の就 学は ほとん ど み られな くなる。明 治
末
期に は,
就 学 率の 向 上 を背 景に 「劣 等児 」 あ るい は 「低 能児 」教 育が 全国 的に問 題化 し,
その就 学 児童中に 「不 具 児」 と呼ば れ た肢 体 不 自 由 児 も混 在して就 学 して い る こ と が 確認 さ れる。
以 下,
その 事 例の 若 干 を 掲 げる。
学 校 生 徒の身 体 検 査 成 績東京市各
区の小
学校
医が男生徒62 ,
898
人,
女生徒60 ,
132
人に対し,
身 体 検査 を行ひ た りしに,
其 成 績は左の如 くな り し とい ふ。 病 眼 耳 う}
種
疾 疾 歯 男生
徒
7 ,
640
4 ,
093
45 .
685
女生
徒
6
,
941
3 ,
187
43 ,
783
4
一 ,
全 身 病一 ,神 経 病
一 ,
血 行 器 病一 ,
呼 吸 器系
一
, 消
化 器 病一 ,
外 被 病一
,
運 動 器 病一 ,
泌 尿 器 及 生 殖 器 病一
,畸
形一 ,
雑 凹 大 阪 市 低 能 児 調 査 北 野 与2 .
678
19
2291
,
5684
.
9792
.
418
5611
489
363
2
,
368
19
3911
,
1974
,
8441
,
022
2217
390
272
大 阪 市にて は
,44
年 現 在の 全市小学
校 低 能児 及 び其取
扱 法につ きて調査 せ し が,
即ち 左の如 し。一 ,
低 能 児 童 数全 市 児 童 数 尋 常
88
.
965
人 高 等7
,
023
人中
低 能 白 痴 癲 癇 具 計(
盲
唖以外 )尋 常
男
1.
204 67 19 201 1 .
491
女1,
101
85
13
160 1.
395
高 等 男43
−
1
11
55
女43
−
−
5
48
広 島 県 に於 ける低
能
児 童数
広
島
県に於て調 査 し た る44
年4
月1
日現 在 学 齢 児 童 中,
不 就 学 者 数 及 び 公 私 立 小 学 校 児 童 中 低 能 児 数は左の如しと云 ふ不
就
学 児 童 数 就 学を免 除さ れた る者 計,
6519
糾 合347
他3748
麗 其 癇∩
0811
2
癲 痴167
336
白 具 不605818
体 − 身 唖−
の
07聾
1
者
留
5105
盲
1
予数
猶
096170
童鮮
112
児能
男
女 計 低 計167610937402
435344
具 不 体7539
図43
餌52
身 癇一
一
6929
癲痴
2820206620
白
能731720350231
334343
低 男 女 男 女 男 女ー
ー
ー
年年
年 ヨ 常 尋
日本に おける 心身障 害者体 育の 史的研 究 (第
14
報) 54
年陵
5
年陵
6
年陵
高 等1
年陵
2
年[
婁
3
年[
髪
計[
髪
呉 市の 低 能 児66301701811879
訓22122
333322
2 ,2621
.
878
289052
1
1
10785
7368741
3
2n δ り 00016726582431103
837453211
66
42
466
377
409
661
349
259
108
4739
15
3
12
.
8342
,
231
呉 市 内 各 小 学 校に於け る児童中に て低
能
児 及 不 具者
を調 査 し た る ところに よ れ ば,
低 能 児は 男115
人 女90
人 計205
人 不 具 者に男32
人 女28
人 計60
人に して,
之 を学 年 別に示せ ば 左の如 し と云 ふ。
低能
児 不 具者
男 女 男 女1
年2
年3
年4
年5
年6
年407n
乙 9一
2
a罰 新 潟 県の 異 常 児 及 其 取 扱0669
39
伺
9747
1
11
4451
8
尸
07尸
Dll
8843
新 潟 市に於け る低 能 児童等の調 査 及び その取 扱 法 等は,
前 号に之 を掲 載せ しが,
今 新 潟 県 下 に於け る 調査 を 得た れば 左に之 を 記す。 公 立 小 学 校 (師 範 学 校 附 属 小 学 校 を も含 む )に於 ける 児 童にして,
低 能に属 する もの男3 ,
187
人 女2 .
704
人,
白 痴 男136
人 女66
人,
癲 癇 男49
人 女24
人,
身 体 不 具 (盲 唖 を 除 く) 男443
人 女289
人 合 計 男3
,
815
人 女4 .
083
人 あ り学 年 種 別 左の 如 し。校
学 男 女 男 女 男 女男
女 小 別 常 年 年年
年
年 尋 学 1
2
3
4
低能
627
547
572
531
550
502
510
419
白
痴
382026192315194
癲 癇144636756
身 体 不 具90
59
68
48
62
59
58
48
計767630672601641583592477
6
5
年 男 女6
年 男 女 高 等 小 学 校1
年 男 女2 年 男
女3
年 男女
計 男 女461431369
・
249
63
20
32
4
3
13
,
1782
,
704
北 野 与一
−置
08QU 110
1
13666
917
角 δ2
94
凸
49
凵
4631
認31
4138
3
1443289
545468442286
102
24
46
12
6
23
,
8154
,
083
群 馬 県 低 能 児 童 数憐
鴇県 に て 調査せ る所に よれ ば,
同 県 下 公 私立小 学校
児童中
低 能児,
白痴,
癲癇 ,
身体
不 具圏
なる者 等の数は 左の 如 く なりと 云ふ 。 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 男 男 女 女 低能
尋 常 小 学 校1
学 年351
297
同 第2
学 年251
222
同 第3
学 年257
227
同 第4 学
年233
229
同 第5
学 年220
210 同 第6
学 年187
167
高 等 小 学 校 第1
学 年On
り69
凵
白 痴 − nb211011
7
凸
bρ
り2
2
43
癲 癇4q
δ 9臼
町 0 n δ2
44
q り り臼
11
身 体 不 具な る者
(盲 唖 者 を 除 く)504
∩
6 11540
囗 ◎「
OqO844nO
324n
δ ーハ
0 0014
ρ
02日本にお ける 心身 障 害者体育の史 的 研 究 (第14報 )
7
同2
学 年 男2
女 同3
学 年 男 女 計 男2
女 計 男 玉,
587
女1.
388
男 女 総 合 計3 ,
589
名
u9 岡 山 県 低 能 児 童 教 育17
置
Ond7
尸
D111
300194
岡 山 県に て は
,県下各小学校
に於
け る低能
児 童 教育状
態 を 調査 し,
之 を 女 子 師範 附
属小学 ,
岡 山 市 内 小 学 校t 和 気 郡 各 小 学 校の実 地 取 扱 方 法につ き 報 告 する所 あ りた り,
尚ほ県 下 小 学 校 就 学児童中 .
低 能 者 総 数 男 生 1.
912
人 女 生1,
468
人に して,
之 を 各 学 年 別に示せば 左の 如 し。 尋常 1
年男
女 同2
年男 女 同 3
年
男 女 同4
年 男 女 同5
年男 女 同
6
年 男 女 高 等1
年 男 女 高 等2
年 男 女 計 男 女低 能 者 白 痴
49
% 冊 皿 鴨 併 器31
聡 艇 娼95
ω122222222211
1 .
5671
.
264
6848383976531
9 日11
11
Qσ
17
・
rD
癲 癇
7523655
0647211
1
97
り臼
−身体
不 具者
(盲 唖 者 を 除 く)37
17
37
19
40
18
31
16
32
14
24
13
19
111
238129
計
鵬 鐓 嬲 盥 跚 嬲 蜥 捌 躅 拓mU6
肛2
1 .
9121
.
468
各 県の事 例 報 告は少ない の で確か なこ と は言え ないが
.
明 治44
(1911
) 年に おい て 盲・聾
児 を 除 く 「不具 児」 は,
就学
児 童中尋
常 科約
0
.
3 〜0 .
4
%程 度,
高 等 科 約0 .2〜
0
.
3
% 程 度 就 学 して いたものと推 測で き る。 また,
前 述の乙 竹の報 告に よれ ば,
「明 治四十
四年四 月一
日現在
8
北 野 与 二 於テ特 殊ノ事 情ニ ヨ リ就学
ヲ免 除セ ラレ若クハ 就 学 ヲ猶
予セ ラ レ タ者
二 就テ見ル ニ (中 略 ) 不 具 児 四,
八九四人 」であ り,
f
明 治四十四年 十 月一
日現 在 (中 略 ) 盲 聾 唖ヲ除ク不 具 児が二 22 万〇七 百二 十五人」 であっ た とい う。
この数には若干
の疑義
もあ る が,
こ の統 計 結 果か らすれ ば,
盲 児,
聾 児 を 除 く 「不 具 児」の就 学 率は約SO
%の 高 率であっ た。こう し た
高率
は、
文 部 省の継 続 的な就 学 督励
策,
明 治40
(1907
) 年にお け る 「小 学 校 令 」の 改 正 と,
そ れに伴 う文 部 省 訓 令 第6
号 「師 範 学 校 規 程ノ要 旨 及 施 行上
ノ注 意」によ る特 別 学 級 設 置 推進策な ど教育
政策
が影 響し た もの と考え ら れ る。3
) 肢 体 不 自 由 児 取 り扱い の実 態文
部省
は,
明 治45
(1912 )年 .障害
児全般に関 して であ る が,
「是 等に対
する教
育 方 針 若 し くは教 授 法に就 き未だ一
定 した る組 織 及 設 備 もな く,
各 府 県 共一
般 児 童と共に教 授 し兎 も角 も 義 務 教 育 を 終了 せ しめつ 丶 あ る 」 と報 告 してい る。
こう し た教 育 状 況は,
肢 体不自
由児 につ い て も同 様であっ た。 例えば,
新 潟 市で は,
「身 体 不 具の 取 扱一 ,
不 具 者は普 通 児 童 と同一
学 級に収 容す。 二,
不具な る が た め行ふ能はざる科目に対 し て は之 を 行は し め す,
例へ ば 体 操の 如 きは歩 行 すること能はざる もの は,
之 を 課せず.
又 右 腕 若は左 腕の伸び ざる ものは,
伸びざ 圏 る儘にて体 操 をな さ しむ。」 で あっ た。
ま た,
広 島県で は,
「公 私立小
学 校に於け る 低能,白
痴,
癲 癇 又は身 体 不 具な る児 童は,
凡て之 を 普 通 児 童と同一
学 級に 収 容 して教授
せ り,
(中 略 )一 ,
発育の不良 感 覚 若 くは運動
機能
の 障 碍及び 疾 病 等に由 るもの は,学
校 医の意 見を徴 し家 庭の注 意 を促 して栄 養の給 与,
治 療を図 り.
又 運動
遊戯
を奨励
せ り。」で あ っ た。
す な わ ち,
当時 報 告された各 県の実 態 を ま とめ ると,
概 略 次のとお りであっ た。肢 体
不自
由児 は.
健 常 児と同 じ学 級に在 籍 し た。 知 的 教 科では,
障 害に応 じて個 別 指 導 も行 な わ れた が,
芸 能 科,
特に体 操 科は,一
部 あるい は全 部 免 除さ れ たり
,
軽 減さ れ た りし た。 学 校 医の指 導に よ り,
家 庭で の 栄 養の捕 給や治 療 問 題の指 導が行な わ れ た。 以上の よ う な状 況が大正期・
昭 和 期に入っ て も続い た もの と考え られるが、
大 正 期の中 頃 か ら昭 和の初 期にか けて,
体 操 科にお け る免 除 児童の 障 害 種 別と矯正指 導 該 当 児 童の障 害 種 別が 論 議さ れ る よ うに な る。 こ の 体 育 界の 新しい動 向にっ い て,
若 干 触れて お きたい 。大正 2 (1913)年 「学
校
体 操 教 授 要目 」 が公 布さ れ.
学 校 体 操の 主 流はス ウェー
デ ン体 操に 移行 する。 こ うし た背 景 も あ り,
大正期の中 頃か ら画一
的 体 操 指 導の反 省が孵ば れ る ようにな り,
同 時に肢 体 不 自 由 児 を も含 む 障 害 児の顕 在 化 と相まっ て矯 正 (医 療 ) 体 操へ の 関心 が高 ま る。 つ ま り,
運動の実 施に関して,
児童の心身の特
質を診 断 し 厂学理 に基 礎を求めて,
与ふべ きは正 し く,
之 れ を 与へ,
免 除すべ き ものは之 れ を 免 除す る 」 とい う指 導 姿 勢が打 ち 出 され,
矯正指 導 該 当 児童 と体操
免 除 児 童 (運動 免 除 児童 と も称し た ) と が区別 さ れ,
指 導が行な わ れ た。 戦 前の 矯 正 (医 療 ) 体 操の 発 展 過 程につ い て,
著 者は,
「日本に お け る心 身 障 害 者 体 育の 史 的 研究
(第13報
)矯
正 (医 療 ) 体操
の発 展 過程
につ い て一
」 (北陸体
育学
会 紀要 ,
第23
号) に よっ て 報 告 した。 従っ て こ こ で は その詳 細は省 略するが,
大 正 期 以 後の同 体 操の発 展 状 況の 概 略は,次
の とお り であっ た。 「ス ウ ェー
デン体 操 移 入時に は,
医 療 体 操の関心 は高 くな か っ た が,
一
部 関 係 者に よ っ て そめ 指 導の 必日本に おける 心身障害者 体育の史 的 研 究 (第 14報)
9
要 性 が 叫 ば れ, 漸 次 学 校 体 育が啓 蒙 さ れて い っ た。 その背 景には,
明 治 末 期 か ら大 正 期にか けて の就 学 率 の向 上による 異 常 児や虚 弱 児の顕 現 化,
そ れに伴 う学 校 衛 生の整 備・
充 実,
あ るいは整 形 外 科 学の 進 展 な ど があっ た。 当 初 医 操 体 操は , 整 形 外 科 的 疾 患・
障害 以 外の疾 病に対 する運 動 療 法 的 体瀞
が主で あっ た が,
大 正 期,
特に後 半 期に入 る と,
整 形 外 科 的 疾 患・
障 害の軽 症 者に限 定 さ れて実 施 され た。」 「昭 和 期に入ると,
医 療と教 育の 果 すべ き 役 割が明 らか と なり,
当 初の医 療 体 操と異なっ た姿 勢 矯 正 中 心の矯 正 体 操へ と変 容 する。
また,
それは,
虚 弱 児 教 育 面から学 校 衛 生 上の問 題として と らえ られ,
その 指 導 が 本 格 化 した。 な お 昭 和10年 代に は 動矯 正 体 操 導 入 初 期の個 性 尊 重の思 想 は 消 滅 し, 国 防 力 増 強 論 を 背 景 と した体 力の 国 家 的 管 理 思 想 が 強 調 され た。
」 以 上のよ うに,
大正期の中 頃 まで 体 操を免 除さ れ た児 童の うち,
疾 病・
障 害の軽 症 児 童に対 し て体 操 指導
の手
が,
若 干で は あ る が,
差し伸べ ら れ たの で あ る。論 議が前 後 する が
,矯
正体 操の指 導 開 始と体
操の免 除は,
決 して同 時 的に 生 起 し た わ けでは な か っ た。 当 初具体 的な基 準に照 らす
ことな く免 除 (見 学 )が 実 施さ れて い く過程に お いて,
西欧の 矯正体 操と体 操 免 除 基 準の導 入が あ り,
矯 正 可 能 児 童と体 操 免 除 児 童 とが区 別さ れ てい っ たの で ある。 当 初の事 情は先に述べ た文 部 省 調査 に よ る各 県の報 告や,
大正2
(1913
) 年の文 部 省によ る学 校 衛 生 問 題 調 査によっ て も明 らかである。 体 操 免 除の基 準 は 整 形 外 科 学の導 入 と と も に西 欧 (ドイツ)か ら導入 さ れ た もの と思 わ れ る が,
その普 及に貢 献したの は柏倉
を初め,
田 辺・
石 丸.
真 行 寺 ら体 育 指 導 者た ちで あっ た。 彼 ら は,
体 操 免 除 児 童のなかに矯 正 可 能 な 児 童が多
く在在
し てい ること を指摘
し,体操免
除の基準
を提 示 する と ともに矯
正体操
適 用の必要
鋤 田 性 を 強 調 し たのであ る。 なお,
こ の体 操 免 除 は.
東 京 市に よる 「学 校に於ける不 具 児 童に関す 剛 る 調査」 や吉田章
信の 「疾 病異常
通学者
の鍛
錬に就て 」の 報 告 も示 すよ うに,
昭和 10年
代に 入っ て も続
いた こと を付言
して お き たい。 つ ま り,健常
児と ともに在
学 した軽
症 児 以外
の多
くの肢 体 不 自 由 児に体 操 免 除 が 適 用 され,
彼らは 体 育 指 導の 圏 外に置 か れ たの である。2 .
柏 学 園の創設 と経 営の概 要柏
学 園は,
わ が国最初の肢
体 不 自 由 児を対象
と し た療育
施 設で あ り,
大正10
(1921
) 年5
月1
日柏 倉 松 蔵が東 京 帝 国 大 学 整 形 外 科 教 室 教 授田代 義 徳の指 導 と援 助 を得て,
東 京 市 小 石 川 区 大 塚 仲 町に て設 立さ れ た もの であ る。 柏 学 園 及びそ の創 設 者に関する研 究 報 告の主な ものを挙 げる と,
学 会 発 表 報 告で は,
杉 浦 守 邦及び 中川一
彦
の報 告が あ る。
杉 浦は,
柏 学 園の 開 設 時か ら閉 園に至るまでの 経 営 実 態に触れ,
柏 倉 夫 妻の生 涯につ い て も詳 細に報 告 し,
本 稿で検 討 し よ うとして い る医 療 体 操や訓 練 具につ 跚 [411働 いての概 要を報 告 し ている。
ま た,
中川 は,
柏 倉が 「医 療 体 操へ の関 心 をいだ き,
肢 体不 自由 児の療 育 を 追い求め る よ うに なっ た」 背 景 や柏倉
の 「医 療 体 操に関 する考え方 」などに つ い て 幽 鱒 報 告 して い る。 さ ら に雑 誌 論 文 報 告で は,
蒲 原 宏の報 告が あ り,
蒲 原は柏 倉 夫 妻の 生 涯 を詳論
闡 觚 し,
同 学 園の設 立と その経 営 状 況につ い て報 告 して い る。 な お,
単 著として は,
宇 留 野 勝 弥の 『肢 体不 自 由児の 父 柏 倉 松 蔵さ ん 」 が あ る。 宇 留 野は,
柏 倉の 履 歴や柏 倉の著で あ る 『肢 体不 冊 自 由 児の治 療 と 家 庭 及 学 校』の一
部 を 紹 介 して い る。 そ の 他,
断 片 的に触 れたもの と して,
全 国 肢 体不自
由 養 護 学 校 長 会 (編)のr
肢 体 不 自 由教 育の 展 望』,石
部元雄のr
肢 体不 自由 児 の 励 面 教育
』や村田茂のr
日本
の肢体
不自
由教育
一
その歴史 的発 展 と 展望』 な ど,多
くの著
が あ る。 これ らは,
い ず れ も柏 学 園の創 設に係 わる問 題やそ の歴 史 的 意 義につ い て も論 述 して い る。10
北 野 与一
この
項
で は,
当然
な が らこう し た先 行 研 究 を 重 要な史・
資 料 と して取 り扱 うが,
柏 倉の設 立 の動
機,
あ るいは動 機 と関 連 性のある医
療体操
や肢
体不 自 由児 の療 育に関 心 をいだか しめ た背景
な ど,従来
若干
の疑問
を 生 起 せ しめて いた 諸 点に関 し,
さ らに検 討を加え て み るこ とに した い。1
) 設立の 動 機 と 医 療 体 操 指 向の背 景 尉宇留
野の報告
によっ て柏 倉の履
歴 を は じめに紹 介 して おこう。 こ の履 歴にも,
動機
問題 を解 く鍵が存 在 して い る よ うに思 わ れる か らで あ る。 本 籍 山 形 県 南 村 山 郡 上 山 町 鶴 脛 町429 士 族 柏 倉 松 蔵 明 治15
年 4月9 日生 現 住所 岡 山 市 内 山 下93 三 谷方 学業任 免 賞罰 明 治29
年10
月よ り33年12月ま で同 町伊 藤丹 吾 氏につ き,
国 漢,
数 学 を修む 日 日 日 日 日 日 日 日 日 日 日 日 日32023
1818222224
3053131
月 13 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月8
月2834455612361133124512338
年 6 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 元 年 謎 3637
認 4041 弼 “ 正 3 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 大 同 南 村 山 郡 私 立 教 員 講 習 会 修了 山 形 県 連 合 教 育 会 夏 季講習会修了 日本 体 育 会 体 操 学 校 高 等 本科卒 業証書を 受 く 東京 市 阪本小 学 校 代 用 教員 を命ぜ ら れ る,
2級 上 俸 東 京 市 役所 無試験師 範 中 学 高 等 女 学 校体操 科 教員免
許状を文 部 省より受 く2
ケ月間 私 立 東 京 中 学 院に於て動 物 学 を修む 無 試 験東 京府 小学 校体操 科 教 員 免 許 状を受く 東 京 市 阪 本小学校訓導に任 ぜ られ,4
級 下俸給 与,
専科 正 教 員 勤 務 東 京 市教 育会 体操 講 習会 修 了 東 京 市 教 育 会 応 用 心 理 学講習会修了 私 立 立 教 申 学 校 教 師 を命ぜ ら れ る 東 京 府 立 第一
中 学 校 助教諭に任ぜら れ,7
級 俸 給 与,
兼舎監補助東 京府 神奈川県へ 出 向 を 命 ぜ られる
東 京府 神奈川立 第三中 学 校 助 教 諭に任ぜられ
,6
級俸 給与, 神 奈 川 県 東 京 体 操 遊 戯研 究会冬季 講 習 会 修 了 岡 山 県へ 出 向を命ぜられる 神 奈 川 県 岡 山 県師範学 校教 諭に任 ぜ られ,
10給俸給 与,
岡 山県 呉 海 兵 団 信 号 法 講習会 修 了 岡 山 県 師 範 学 校 兼 任舎監 加 俸 月額 5円 給 与,
岡 山 県9
級 俸 給 与,
岡 山 県 岡山県教育 会 体 操 講 習会修了 岡 山県教育 会 修 身 科講
習会 修了8
級 俸給 与,
岡山 県 同 年 9月より7年9
月に至る4ケ年 間 私 立 盲唖学 校 教師葛 山 覃 氏にっ き按 摩 術 (マ ッ サー
ジ術を含む ) 及 学科を 修 業す 同 6年 8月31日 7級俸給 与,
当分42円 岡 山 県 同 7年7
月24
日3
週 間体操競 技講 習 会 終 了, 文 部 省 同 年11月 8 日 按摩術甲種試験 合格証 書 を 受 く 徳 島 県 同 年 12月 13日 6級 俸 給 与,
岡 山 県 同年
12
月13日公 立 学 校 職 員分限 令 第
8
条 第1項 第5号に依 り休 職を命 ぜら れ る,
岡 山 県日本にお け る 心 身障 害 者 体 育の史 的 研 究 (第14報 )
11
同 年12
月20日 同8年 7 月10日 同 年7
月10
日 同9
年5
月14日 同10年3
月31
日 同12
年10
月1
日 同 13年 7 月 10日 医 療 体 操 研 究の ため 東 京 帝 国 大 学 医 学 部 整 形 外科田代教 室に入 り研究す 東 京帝国大学医学部雇を命 ず,
月給金15円給与,
東京帝大 医 学 部 附属医 院勤 務を 命ず,
東京 帝大 医学部 年 額 金150円の 退 隠 料 証 書 を 受 く,
文 部 大 臣 月 給金33
円給与,
東京 帝大医学部 普通 恩給年 額340
円給す,
内 閣 恩給局 長 医療 体操及 びマ ッ サー
ジ法 大正7 年12月よ り12年 7 月まで本大学 医 学部整 形 外科教 室に おい て研 究せ しこと を 証 す,
東 京 帝 大 医 学 部 教 授 田代 義 徳 柏 倉の学 園 設 立の動 機につ い て,
前 述の 先 行 研 究のすべ て は,
彼の唯一
の遺 作と なっ たr
肢 体 不 自 由 児の 治 療 と 家 庭及学 校』を 中心に検 討 し た もの であ っ た。
若 干 長 くな る が,
その 主 要 箇 所を次に掲 げる。 「さて,
私 は, 自分 も体 操 教 師になっ てか ら も う10年になる。 しか し, 目分の教 えてき た 体 操 が 果 して ど れだけの効 果 を お ざめた か,
とい う反 省 と疑 問 が 起っ てき ま した。
効 果 が あっ たに して も,
こ う だ,
と はっ き り言い現 わ す 自信があ り ません。
考 えてみれ ば,
自 分が学 校で教わっ てきたま ま を,
何の工 夫 もな くや っ てきただ けです。
これで はいけない と考え ま した。
そ れ か ら,
も う一
つ 私 が 心にか かっ て な らな かったのは,
どこ の学 校に行っ て も,
体操の時間に な ると,
足や手の不自由な子 供がきっ と一
人や二人はいて,
運動 場の隅に しょん ぼりし てい ること で し た。 私は,
そ の不 幸な子 供たちの淋 しい姿が,
元気に体操 する子供た ち と対照 して余りにも傷々 しく胸に刻みっ けら れ て忘 れら れ な か っ たのです。 あの身体の不自由 な子 供た ち は,
ど ん な風に生 成して社会に 出て行 くの だ ろ う,
そ ん な こと を考え る と,
私は,
あの不 幸な子 供た ちを あの ま ま 放っ て おい てはい けない,
何 とかし て や ら なけれ ば,
とい うこ と が常に胸の中にあっ たの で した。 そ の頃,
私はr
医 療 体 操』 とい う言葉を耳に し ま し た。
し か し,
誰にたずね て も分り ませ ん。 何でも外 国へ 留学し た医者や特殊 教 育の当時大 家と言わ れ る方が言っ てい るらしいので,
早 速,
その 関係の 方 面へ 問合わ せて み ま し た が,
はっ きりし たこと は,
や っ ぱり分 りま せ んで し た。 が, お ぼ ろげに 相 像 され たこ と は,
学 校 体 操の ように,
生 徒 と教 師 が 遠 く離 れて やる もの で はな く,
教 師 が 直 接 生 徒の 身 体に手 を 触 れ て する体操 運 動だろ うとい うこ とに気 がつ い て いた。
もとも と 体 操とい う もの は,
全 身 運 動に よ っ て身 体の血 液の循 環 をよく し, 身 体の各 部 分 を均等に発 育 させること が 目 的です。 しか し自 分の毎日教 えてい る体 操 が,
その 目 的 を 果 してい るの かど うか,
自分で も分 らずにた だ 漫 然 とやっ てい た当 時の こと を 思い返 す と,
恥 入るば か りです。
」 「ある 日,
私は治療室で,
は じ め て医療 体操を行っ てい るの を見ま し た。一
目 見て,
自分が 長 年 独 りで 考えて いた こと と全く一
致して いるの に安心 した思い で した。医 療体操とい うの は筋 肉や骨 格 を矯 正 治 療 し
,
マ ヒ して動 か な くなっ た 手 足 を, 体 操 運 動 に よっ て動 く ようにす るこ となの で す。だ ん だん
,
患 者に接 するう ちに医舞
体 操のす ぐれた効 力に驚 くと共に,
治療に対 する自信がで きて き ま した。 とこ ろが,
困っ たこ とは,
これは前に も一
寸 記 しま したが,
患 者が医 療体 操を する のを 喜 ばな い の です。
外 科 医の治 療 を 受 けると,
体 操 を すっ ぽかして,
さっ さと 帰っ て し ま うの で す。
これで は外 科 的 治 療の効 果を あげるこ と が できま せ ん。
何 故か とい い ま す と,
手足の治 療とい うのは他の 病 気 と ち がっ て,
例えば 俗にい う盲 腸炎の よ う に虫 様 突 起を切っ て しまえ ば治 るとい う もので は ない のです。 曲っ た足の 筋 を切っ てまっ すぐに して も,
それで治っ た とい うわ けに は行か ない。 そ の足で歩 ける よ うに な るた め に は,
手 術 後の体 操運動が絶 対 的に必 要なの です。 とこ ろが,
こ の体 操 は 努 力 を 要 しま すので誰 も好みませ ん。
大 人は話 せ ば 分る か らよ ろ しいが,
子 供に12
北 野 与一
は全 く弱 りま した。 マ ッ サー
ジの ベ ッ ド にね か せ る まで が, ま ず 大へ んです。r
い い もの を 買っ てあ げ るか らね。』 とい う よ う なこ と を,
付 添い の母 親 がい っ て は,
なだめす か して,
よ う や くベ ッ ドへ ね かせ る。
マ ッ サー
ジをは じ め ると,
痛 く もない の に泣 き 出 す。 する と,
も う母 親の方 が お ろ お ろ し て体 操な ど は し な い で帰っ て し ま うあ り さ まで した。
こ うい うありさ ま を見る たびに,
私は,
こ の子 供たち を 甘や かす 母親たちは,
果 して本 当に子 供の 病 気 を 治 して やりたい と考えて い るの で あ ろうか と,
腹の立つ こと も あ り ま した。
し か もこれ は7
人や二 人で は ない 。’
ほ と ん どの母 親 が そ うなの です。 日本の母 親 は 何と甘 く,
弱い ので しょうか。こ の時
.
私は,
ふ と考え たの で した。
こ の子 供たちは一
ケ所に集めて医 療体操さ せ た ら ど うだ ろう。 そ れ も病 院 風にで は な く,
学校 風に,
治 療のあい まには遊 戯 も させ,
学 科 も教え よう。 そ うす れば, 子 供た ち も楽しいふ んいきの 中で体操もする よ う になるので はな かろうか……
。私は た の しい 夢に も 似 たこφ思し〕つ き を 田代 教 授に お話し て み たのです
。
する と田 代 先 生がい わ れ るの に は,
r
それはい い こ と だ。 も う欧米の文 明国で はすで に立 派に やっ て い る。 私 も実は それ をやりた い考 え も あっ た。
お前がや るな ら ば出 来 る 限 りの後 援は して や ろう。』 と,
非 常 に激 励 され ま した。 私 は,
こ の田代 先 生の激 励 を 受 けて,
大い に心 が 動 き,
やっ て みよう とい う 気にな り ま した。
」以 上に は
,
明 治 末 年か ら大正初期
に か け ての学校体
操へ の疑 問,体
操 免 除の肢 体不 自 由 児の 存 在,
並 びに東 京 大 学 医 学 部におけ る 治 療 室の治 療 状 況 と 田 代 義 徳 教 授との係 わ りの な かで の 学 園 設 立の発願状
況 な ど が記さ れ て い る。従来
の報告
のな か に は,
こ の三つ の事 項 が あ牟
か も 学 園 設 立の動 機 とな っ たかのよ う な 報 告 もみ られる。 柏 倉は,
rr
医 療 体 操』 につ い て知 りたい と願い な が ら,
詳しく知 り得
ない で い る う ちに,
ふ と,
マ ッサー
ジとい うもの に思い至 り」,
岡 山 市の私 立 盲 唖 学 校 教 師 葛 山 覃の 指 導 を 受け,
マ ッ サー
ジ師
の検
定 試験
に合格
する。 その時 点に おい て 彼はt
「万一
の 時には天 下 晴 れてマ ッ サー
ジ師 が 開 業で きる」 と考 えて お り,
さら に ま た,東京
大 学 医 学部
整 形外科
教 室に 入 っ て さ え 「研究
の上 は,
これ を学校体
操 と併用 す る 考 えで あ り ま したか ら,
再 び学 校へ 帰 るつ も りで い た」 と 述べ て いる。 つ ま り,
学 校 体 操へ の 疑問 と体
操免
除 児童の存
在は,
医療体
操へ の研究
動機
と な っ た もの と考え ら れ る が t 設立の動 機と して は副 次 的なもの であっ た と考 えるべ きで あろう。 従っ て直 接 的な動 機は,
東 京 大 学 医学
部 整 形外科
治療
内IC
お け る児童 (幼
児 )に対す る医 療 体 操の 施 術 事 情であ っ た と言え るの で あ る。
な お,付
言 すれば,
こ の動機
を具 現 化さ せ た背
景に,
同 前 教室の田 代教 授の激 励と援 助,
並 びに小 学 校 教 師であっ た妻 と くの賛 同があっ たの である。次
に,
柏倉
が医療体
操へ の関 心 を高
めて い っ た事 情につ い て,
中 川の報 告を中心 に再 検 討 し てみ たい 。 中 川 は,
「柏 倉 松 蔵 を 育て た 日本 体 育 会 体 操 学 校」 に おいて,
「体 操 教 師で あ っ た 柏 倉 松 蔵 が , 何故
,学校体
操へ の疑 問をい だ き,
運動 場に しょん ぼ りして い る足や手の不 自 由 な子 供に心 を 痛め,
片 隅におか れて いる 身 体の不 自 由 な 子 供 達へ の体 操 と して,
医 療 体 操へ の 関心 をい だき,
肢 体 不 自 由 児の療 育 を 追い求め るよ うになっ た か 」につ いて 明 ら かに し よ う と し た。
その 結論
は,次
のと お りであ っ た。’
「柏倉松蔵をして学校体操に疑 問 をいだか せ,
医 療体操 や 肢体不 自児の療 育に関 心 をいだ か しめるに至っ たものは,
彼が,
子 供の 頃,
身体があ ま り丈 夫な方で は な か っ た こと,
“ 不 具 者に対 する同 情の念は 日一
日と深 刻に なっ て く るば か りであ りま す。 ” とい う 個 性,
さ らに は,
体 操 学 校 同 窓 会 設 立に参 加 したこ と日本に お け る 心身 障害者 体 育の史 的研究 (第14 報)
13
な ど か ら伺い知るこ との できる積極 性に支えら れな が ら,
啓 蒙 主 義 的 教 育 理 念 と汎 愛 主 義 教 育の 流 れ を く む リン グの ス エー
デ ン体操を,
わが国へ 伝 承 し た日本体 育会 体操 学 校に学び,
加 納 久 宣や川 瀬 元 九 郎など 6m の影 響を受 けたこ とに よ るもの で ある」 柏 倉 を して学 校 体eelC
疑 問 をい だ か しめ,
医 療 体 操の 目 を 向 けさせ,
肢 体 不 自 由 児の 療 育に つ い ての関
心 を高
揚さ せ て い っ た背 景に関 して.
中川 は,
柏 倉の生来の体 質・
性 格 及び母 校で あ るB
本 体 育 会 体 操 学 校の影 響 が あっ たと報 告 して い る。人間 に お け る
活動
の発
現過程
に は,
こうし た個人的要素
が強
く影響
する もの と考えて よいだ ろ う。 先の柏 倉の報 告 か ら も.
彼の体 質や性 格が こ の 問 題に対 して強 く影 響 を 与 えたこ とは明 ら か で あ る。レ
か し な が ら,母校
の 日本
体 育 会体
操学校
に お け る加納
や 川瀬
らの教育
的 影 響に つ い て は,
資 料 不 足 もあ り,
若 干 疑 問が残る よ うで ある。 と もあ れ 柏 倉の学 校 体 操へ の 疑 問や 反 省 を 生 起せ しめ た事
情 を,単
に肢体
不自由 児の存 在や彼の 個人 的事情
にの み 限定 して 考え る こ と は,早
計の よ うに思わ れ る。
なぜな ら.
こ の疑 問や反省
が生 起 し たのは,彼
が体
操科
教 員 と なっ て10
年 後の明 治 末 年か ら大 正 初 年にか けて の こ とで あ り,
この 時 期は,
教 育 上 あるい は体育
上大き な変革
が行な わ れ た り進展が み られ た時
期で,
こ うし た教育
的な影 響もい くつ か考 え られるか らである。その第
一
は,
就学率
の向上を 意 図 し た教育
的環境の変容
の影響
で あ ろう。 第三次 小 学 校令
の も とにおい て,
就 学 義 務に関 す る法 規が著 し く整 備 され,
就 学 督 励に関す る規 定 も強 化 さ れ る。一
連の当局
に よ る就学督
促方策
や , そ の後
の義務
教 育 年 隈の 廷 長 (明
治41
<1908
> 年4 月
よ り6
力年
と な る )に よ っ て就 学率 ,
あ るい は実質
上 の就 学率
と言え る 通学 率 (日々 出 席 児 平 均 数 / 学 齢 児 童 数 〉 が急 激 な上 昇 を み せ る。 す な わ ち,
明 治 末 年には 就 学 率が98
% を 越え,
大 正 初年
に は通 学率
が90
%台
を示 すに 至 っ たの である。柏倉
が関 係 した岡 山 市で は,
上 記の全 国に お 樋 ける就 学 率 を 上 回 る100
% 弱の 高 率 を 示 してい た。
な お ま た
,
明治40
(1907
)年
「師範
学校
ノ規
定 改正 二 付キ注 意事項
」(文部省
訓 令 第六号 ) が発せ られ,
師 範 学 校 に 厂成ル ヘ ク盲 人,
唖 人 又ハ 心 身ノ発 育 不 完 全ナル 児 童ヲ教 育セ ン カ為特
別学級
ヲ設ケ之力教 育ノ方
法ヲ攻究
セ ン コ ト」 が要 望さ れ る。 こ の要
望 は,各
地の師
範 学 校 に対 し影 響 を 与 えると と もに,
障 害 児の就 学に も影 響 を 与え た もの と考え られる。こ うし た
教育
情勢
の も と で,
岡 山 県の 場 合,
明 治41
(1908 )年
11 月 岡 山県教 育 会によ っ て盲 唖院が設 立 さ れ,
明 治 末 年には.
岡 山 県 下 小 学 校 就 学 児 童 中 男 子238
名,
女 子129
名の 「身 体 不 具 者 (盲 唖 者 を 除 く)」 が在 籍 し てい た。
当 時.
同県の 女 子 師 範学
校附
属小 学
校に は,
「劣 等 児 低 能 児」,
「感 官に故障
を有 するもの」及び 「視 力 聴 力 等の薄 き もの」が就 学 してお り,
同 校 はこれ らの児 童に対す る教 育に強い関 心 と深い配 慮 を 示 していた。 男子
師 範 学 校 附 属小
学 校 で も,
女 子校
の それと大 同小
異で あっ た と思 わ れ,
男 子 師 範 学 校 勤 務の柏 倉は、
体 操 科 専 科 教 員 と して特に体 操 免 除 児 童に強い感心を もつ よ う に な っ た もの と推 論で きる。以 上のよ うに
,
主 と して教育
制 度の変 革を含む教育
事 情の進 展に より就 学 率が向 上 し,
そ れ に伴っ て 「劣 等 児 低 能 児」,
「盲 唖児 」 など と と もに病 弱 児や肢体
不 自 由児 も就 学す る よ うにな り.
体 操 免 除 児 童が顕 在 化 し たの で あ る。
つ ま り.
柏 倉 を して学 校 体 操へ の疑 問や反省
を生 起 せ し め た要 因の一
っ に,
当 時の教 育 的 環 境の 変 容があっ たの である。第二 に
考
え ら れ るこ と は,
大正2
(1913
)年の 「学 校 体 操 教 授 要目 」の制定
と その前後
にお14 北 野 与 け る体 育 界 動 向の影 響で あ ろ う。