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我が国における地域振興の変遷に関する一考察

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我が国における地域振興の変遷に関する一考察

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Japan

小 泉 祐 一 郎

Yuichiro KOIZUMI

(令和元年9月30日受理) 1 9 6 0年代から 19 9 0年代にかけての我が国における地域振興は、国の施策の重点 が全国一律の底上げを図る方式から地域の個性発揮を促す方式へと移行している。こうし た国の施策の変化に先行して、過疎地域等の条件不利地域においては、個性を生かした先 進的な取組みが行われた。 個性発揮型の取組みの事例を見ると、キーパーソンの存在と地域振奥のノウハウとも言 うべき創意工夫の手法がある。キーパーソンの存在と様々な創意工夫は既に知られている ところであるが、筆者が約30年間にわたって地域振奥の先進地を調杏した中で判明した ことは、地域振興のキーパーソンには、「地域経営の哲学」が存在することである。ただし、 地域経営の哲学と言っても、人々を導く思想ではなく、自分(たち)に言い聞かせるため のものであるため、地域振興のキーパーソンに共通する思想的な意識が存在するかどうか は不明である。 地域振腕を国の施策と地域の取組みの両面から総体的に捉えるならば、 19 6 0年代か ら19 9 0年代にかけての我が国の地域振興は、全国的には底上げ型の地域振興が行われ る中で、次第に条件不利地域における個性を生かした取糾みがスタートし、その後、国の 地域振興施策の重点が底上げ型から個性発揮型に移行していったことで、全国的に個性発 揮型の地域振腺が広がったと言うことができる。そして、先進的な取糾みが行われた地域 においては、キーパーソンとなる人材が地域経営の哲学とも言うべき理念、精神を有して 取り組んだことに特徴がある。 したがって、個性的な取組みを行う上では、先進地のノウハウを模倣すること以上に、 地域経営の哲学とも言うべき理念、精神を自分なりに持つ人材が存在することが重要なの である。この点は、地域振興の政策上、見逃されてきたと言えよう。 キ ー ワ ー ド 底 上 げ 型 地 域 振 興 個 性 発 揮 型 地 域 振 輿 地 域 経 営 の 哲 学 1.

はじめに

地域振腺は、国や自治体の施策の名称として用いられており、住民のレベルでは、村お こし、まちづくりといった言い方がされてきた。本稿では、公共政策学の見地から考察す るため、施策の名称として一般的に用いられている「地域振興」の用語を用いることとす る。この場合の地域振典の用語は、行政の施策だけでなく、住民の活動も含めた広い意味 で用いるものである。

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我が国における地域振興は、古くは戦国大名による領国経営、江戸期の諸藩による特産 品の奨励、二宮尊徳の報徳運動に代表される農村の経営改革、明治期から大正期の農村お ける地方改良運動など、脈々とした歴史を有しているが、本稿が対象とするのは、 19 6 0年代から 19 9 0年代にかけての地域振興である。 地域振興には、 2つのタイプがあると考えられる。一つのタイプは、時代の潮流や社会 環境の変化に合わせて、日本全体の発展の効呆を地域に呼び込む方式である。高度経済成 長期の工場の誘致、鉄道の開通に伴う観光需要の受け皿としての宿泊地の整備などが典型 例である。もう一つのタイプは、時代の潮流や社会環境の変化を生かすための条件を満た していないことを前提に、独自の発想で方策を開発する方式である。いつの時代にも、こ の 2つの方式は併存しうるものであり、しかも、両者のタイプの中間的なものも存在しう るわけであるが、時代の潮流や社会環境の変化を受けて、時期によって両者のタイプの一 方が流行することがある。 1 9 6 0年代から 19 9 0年代にかけての時期は、この点が顕 著に表れているのである。 本稿では、 19 6 0年代から 19 9 0年代にかけての地域振興の変遷を、国の施策と地 域の取組みの両面から総体的に捉えて論ずるとともに、個性発揮型の先進的な取組みを行 ってきた地域の事例においては、キーパーソンが地域経営の哲学を有していることを紹介 し、地域振腺の政策において、地域経営の哲学を持つ人材に着目することの必要性を論ず るものである。 2. 先 行 研 究 と 本 研 究 の 位 置 付 け 地域振興に関しては、都市計画学、農村経営学、経済学、商学、経営学、地理学、公共 政策学など様々な学問分野の研究対象とされおり、本研究は、公共政策学の観点からの研 究である。従来の公共政策学の研究では、国、都道府県、市町村の政策としての地域振興 が研究の対象としてされてきたため、産業振興、観光振興、文化振興、山村振興といった 政策分野別の内容や、公共事業、官民の協働、民間事業の支援、第三セクター、地域づく りの人材養成、交流、イベント、拠点整備といった政策手法を対象に論じられてきた。こ のため、先進事例の考察においては、取組みの内容や手法の特徴に多くの関心が寄せられ、 取組みの中心となったキーパーソンに関しては、地域振興に取り組む人材の養成・確保の 問題として捉えられてきた。 地域振奥の事例を取り上げた研究は、公共政策学に限らず数多く存在するが、多くの研 究は、個別の事例を調査し、各学問分野の理論を当てはめて考察するものである。このた め、地域振腺の事例を地域経営の観点から考察した研究は少ない。そうした中で、地域経 営の理念について論じたものは、佐藤俊夫の「地域経営の理念と研究の系譜」が存在する。 佐藤は地理学の研究者でありながら地理学だけでなく様々な学問分野の研究にも言及して いるが、そこで取り上げられている地域経営の理念とは、田園都市に代表される地域を客 観的に捉えた将来の姿=ビジョンであり、キーパーソンとは無関係である。筆者の知る限 り、 19 6 0年代から 19 9 0年代にかけての地域振興を総体的に捉え、これをキーパー ソンの地域経営の哲学に着目して論じた先行研究は見当たらない。 本研究は、国の施策と地域の取糾みを総体的に捉え、我が国の地域振興の変遷を底上げ

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型から個性発揮型への移行として位置付け、個性発揮型の先進事例について、従来の公共 政策学が用いてきた政策内容や政策手段からではなく、キーパーソンの地域経営の哲学に 着目して考察することで、地域振興の政策上の盲点を指摘するものである。

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我 が 国 の 地 域 振 興 施 策 の 変 遷 (1) 国の事業メニューによる底上げ型の地域振興 戦後の復典期から高度経済成長期における我が国の地域振興施策は、国が企画した事業 を自治体が実施する方式が一般的に行われていた。その場合、国の地域振興施策は国庫補 助制度として制度化された。国庫補助制度のメニューにある事業を、自治体がその基準に 従って実施するのである。この仕組みには、国が企画した事業を自治体が実施すれば、地 域の振興に役立つという国の供給サイドの論理があった。このような供給サイドの施策展 開が意味を持つのは、本来あるべき状態と現状との間のギャップを全国一律に是正するた めに底上げを図らなければならない場合である。戦後の復興から高度経済成長に至る過程 は、まさに底上げの時代であったから、国が主導した全国一律の供給サイドの施策展開が、 自治体においても有効なものと認識されていたのである。 (2)先進的な自治体による試行錯誤 高度経済成長が終了した昭和50年代以降は、国民の生活水準が一定のレベルに達し、 国民のニーズも多様化、個性化するに至った。象徴的なのは、製造業の生産ラインが、昭 和50年代には少品種大量生産から多品種少量生産へと転換したことである。 こうした多様化時代の変化は、後述するように、先進的な自治体における地域振巽にも 見られるようになる。次第に全国一律の底上げを目指した施策から地域の個性を生かした 施策に移行する動きが見られるようになった。そうした先進的な自治体の多くは、国庫補 助事業に手馴れた過疎地域の市町村であった。そして、国庫補助制度の活用にあたっては、 都道府県の職員が大きな役割を果たした。 すなわち、市町村職員が地域のニーズを踏まえて事業化を検討し、活用できそうな国庫 補助金を担当している都道府県職員に相談する。都道府県職員は国の縦割り行政を前提と ながらも、市町村のニーズを尊重して各国庫補助制度の趣旨に反しない範囲でその活用の 可能性を検討し市町村職員に助言するのである。そうした場合、国庫補助制度に適合しな い部分は国庫補助の申請の対象から除外するため、 1つの建物に 2つの玄関をつけるなど のアドバイスをするのである。都道府県職員と市町村職員が連携して国庫補助制度と現実 の事業とのギャップを創意工夫で埋めたことで、地域のニーズに適合した事業展開が図ら れたのである。 (3)個性発揮型の地域振興の全国展開 昭和60年代になると、個性発揮型の地域振興で成功した市町村が全国的にも注目され るようになった。また、都道府県の地域振興施策も大分県の一村一品運動に象徴されるよ うに地域の個性発揮に重点が置かれはじめた。そうした中で国の地域振興施策の転換を促 したのが竹下内閣の「ふるさと創生」事業である。平成元年から始まったふるさと創生事 業は、その個別の事業内容ではなく、その発想において地域振興施策の転換を象徴したも のであった。何よりも影曹を受けたのは、底上げ型の国庫補助制度を所管してきた中央省

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庁であり、特に内閣総理大臣が主導したことが中央省庁にインパクトを与えたと言えよう。 ふるさと創生以降、国の地域振興施策は、国庫補助事業においても個性の発揮が重視さ れるようになり、以前のようなメニューの押し付けや施設基準などは、ある程度緩和され るようになった。

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先 進 的 な 取 組 み の 調 査 結 果 地域振典の事例は一般的には振興の対象や手法による紹介がされており、定まった分類 方法は存在しないが、例えば、財団法人地域活性化センター(当時)が平成元年10月に 発行した地域づくりハンドブックでは、地域活性化全般、産業、環境、交流、文化、観光、 イベントという分類で紹介がされている。本稿では、この分類をベースに、地域活性化全 般に代えて多様な手法で取り組む事例が多い山村を分類に加えて、産業、環境、交流、文 化、山村、観光、イベントの 7分野に分類する。 筆者は、これまで約 30年間にわたって、全国各地の個性発揮型の地域振興に取り組ん だ先進的な地域を訪問し、キーパーソンヘのヒアリング等によって、先進的な取組みの経 緯と、取組みの内容、どのような考え方でその取組みが導き出されたのかを調査してきた。 産業では北海道池田町のワインのまち、山梨県勝沼町(当時)のブドウのまち、愛媛県内子 町の内子フレッシュパークからり、環境では富山県高岡市の街並み、千菓県佐原市の街並 み、愛媛県内子町の街並み、岐阜県白川村の合掌集落、交流では大分県小国町の木魂館、 北海道釧路市のフィッシャーマンズワーフ、富山県富山市の新交通システムと岩瀬地区の 芸術家の移住、文化では沖縄県与野原町の大綱曳、北海道白老町のアイヌ文化の継承、岐 阜県郡上八幡町の郡上おどり、富山県富山市の越中八尾おわら風の盆、滋賀県草津市の街 道文化の継承、岐阜県大和町(当時)の古今伝授の里、山村では愛知県富山村(当時)の山村 振興、長野県大鹿村の山村振興、富山県利賀村の山村振興、観光では大分県湯布院の温泉 地づくり、群馬県草津町の温泉地づくり、長野県小布施町の観光地づくり、滋賀県長浜市 の観光地づくり、富山県氷見市の観光地づくり、イベントでは山梨県八ヶ岳山麓のポール ラッシュ祭、岡山県・香川県の離島の瀬戸内芸術祭、新潟県十日町市・津南町の大地の芸 術祭などである。 本稿では、 7分野ごとに事例の全国的な知名度の観点から代表事例を取り上げて詳述す ることとする。なお、先進地の現地には何回か訪間しているが、調査

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は、本稿で記載し た内容を調査した時期を記載することとする。 (1)内子町の産直と伝統的な街並みの保全・活用 (20 0 5年 5月調査) ①内子フレッシュパークからり 愛媛県内子町は、松山市から南西に約4 0キロ、平成17年1月に旧内子町、旧五十崎 町、旧小田町の 3町で合併し、「キラリとひかるエコロジータウン内子」づくりが進められ てきた。人口は約 2万人、而積は約 300平方キロで、 7割以上を山林が占めている。 農地が傾斜地に散在する

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日内子町では、中山間地域の農業の活性化をめざして、昭和

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1年に「内子町知的農村塾」が開講され、平成 4年には「内子フルーツパーク基本構想」 を策定し、約 5 0回に及ぶ合意形成のための集落説明会を経て、平成 6年に産直実験施設 「内の子市場」が開設された。実験施設で生じた課題を「情報化」によって解決したのが

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平成8年にオープンした「内子フレッシュパークからり」で、当初は特産物販売所と情報 センターからスタートした。その後、平成9年にはレストラン、平成 10年にはパンエ房、 平成13年には農家の女性組織が運営する農家のお拇さんの店あぐりがオープンしている。 8年目の平成 16年度には年間 50万人が訪れ、直売所だけで 4億 1千万円、全体では 6 億2千万円を売上げている。また、出荷している農家は 4 1 0人に及んでおり、出荷者平 均の売上げは11 0万円で、販売額が1千万円を超える農家も3戸あるとのことである。 特産開発部の山本真二部長のお話を聞く中で最も驚いたのは、農家を対象とした農業簿 記、パソコン、顧客管理などの講座の開催などを経て導入しだ情報機器を駆使した出荷シ ステムである。各農家は、自ら値段を決めバーコードシールを張って出荷するが、農家の 携帯電話等の端末には、リアルタイムでその日の販売状況が表示され、これに基づいて逐 次畑から新鮮な商品が追加出荷されるのである。しかも、商品には、生産者の名前と電話 番号が記載され、クレームも直接農家に伝わる仕組みになっており、クレームを寄せてく れた消費者が、その後の固定客となるなど、からりが目指す「顔の見える農業」への変化 が進んでいる。 また、一般的に農産物の直販施設では、出荷した商品を施設が買い取るのではなく、販 売手数料のみが直販施設の収入となり、売れ残りの商品は出術者の全額負担になるため、 販売者ごとの籠に多品種の農産物が入れられて陳列されることが多い。「からり」では、バ ーコードシールによって販売者が特定されるため、スーパーマーケットのような商品ごと の陳列が可能となっており、消費者は、同じ農産物について生産者ごとにつけられた値段 を比較して購入することができる。 「からり」が成呆をあげている理由を筆者なりに整理すれば、旧内子町が「作るだけの 農業」から「作り・売り・サービスする農業」への転換による「農業の総合産業化」を目 指した理念にあると思われる。国の農政の基本である選択的規模拡大と

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出荷体制に真 っ向から反旗を翻したわけであり、農協を通じて出荷すれば、値段は安くとも販売の手数 がかからないという便利なシステムとは別に、新たな方式を導入することは、農家にとっ て容易なことではなかったものである。これが可能となった背最には、中山間地域の農業 をとりまく厳しい環境と男性社会の現システムにとらわれない女性パワーに加え、新たな 試みにチャレンジする人がいたことであった。そして、農業の総合産業化は、中山間地域 を産業によって振興するための地域経営の哲学としての意義を有しているのである。 ②内子町の商家群の歴史的町並みの保全と活用 1日内子町は、江戸・明治期にかけて全国有数の木蝋産地として栄え、その製品は海外に まで輸出されていたが、大正期になると新技術のパラフィンに押されて木蝋産業は衰退し た。八日市・護国地区の町並みは、繁栄した当時の面影を今に伝えている。保存運動によ って継承された約6 0 0 mに及ぶ商家群の歴史的町並みは、昭和 57年に国の重要伝統的 歴史建造物群保存地区に選定され、魅力的な町並みの存在は今日では全国に知られている。 大正 5年に建築された木造の歌舞伎劇場内子座や、薬商を町が購入した「商いと暮らし 博物館」、木蝋の生産工程を現物で紹介する木蝋資料館「上芳賀邸」では、建築物の内部が 公開されるとともに、内子の繁栄の歴史や当時の生活の様子を知ることができる。エコロ ジータウンをめざす内子町では、町並み運動に続く村並み運動が展開されており、住民有

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志による水車小屋の復元や、石畳地区の古い民家を移築した農家民宿「石畳の宿」の農家 の主婦による運営などが行われている。 こうした取組みの原動力となったのが内子町役場職員であった岡田文淑さんである。岡 田さんについては、後述するように、地域経営の哲学が存在する。 (2)富山市のLRTと岩瀬地区のまちづくり (20 1 0年8月調査) ①日本初のLRT 富山ライトレールは、平成18年4月に日本で初めての次世代型路面電車である LRTと して登場した。愛称は「ポートラム」、赤・オレンジ・黄・黄緑・緑•青・紫に塗られた 7 両の車両が走っており、料金は200円である。富山ライトレールは、地方都市の交通の 新たな担い手として全国から注目を集め続けてきた。 富山ライトレールは、北陸新幹線の開業に伴う富山駅の再整備に伴い、富山駅と富山港 を結ぶ JR富山港線のリニューアルとして導入されたもので、旧富山港線の岩瀬浜駅と奥 田中学校前駅の間は鉄道路線として継承され、奥田中学校前駅と富山(駅北)間は、新たに 軌道区間として新設された。 富山市、富山県及び企業の出資で設立された富山ライトレール味が運行しており、平成 2 1年度の輸送人員は約 18 4万人、鉄道の営業収入は 2億 5千万円、広告等の収入を含 めた収入は約 3億円となっている。このほか、レール&バスのためのフィーダーバスを蓮 町駅と岩瀬浜駅でバス会社への委託により運行している。駅舎には地元企業の公告が多く あり、地域で路線を支えていることを窺い知ることができる。 ②北前船の港町「岩瀬」のまちづくり 富山市の岩瀬地区は、江戸期から明治期にかけて北前航路で栄えた富山港の港町で、江 戸期には加賀藩の御蔵があり、江戸前期の寛文年間には、北国街道を表構えにし、河岸を 背にした回船閲屋が立ち並んだ。北前船で米や木材を大阪や江戸に運んだ回船業は、明治 前期には全盛期を迎えた。 明治6年の大火により町並みの多くが焼失したが、回船問屋をはじめとした財力によっ て、岩瀬独自の家屋様式である「東岩瀬回船間屋型」等の家屋が再建され、今日の町並み が形成された。街並みの中心は、国指定重要文化財に指定されている森家の住宅・士蔵で ある。 岩瀬地区の町並みの再生は、枡田酒造店や地元金融機関の建物をはじめ、民間の自主的 な取り組みが先行して行われ、その後に、国のまちづくり交付金等を活用しながら富山市 による街路等の修景整備が行われた。民間による町並み再生の中心人物である枡田酒造店 代表取締役の枡田隆一郎さんに現地を案内してもらい、町並みの再生と芸術を生かしたま ちづくりの状況を伺った。 特に注目されるのが、再生した町並みの建築物が若手芸術家のアトリエ兼住届として活 用されていることである。芸術をまちづくりや産業の振興に活用する取り組みは、欧米の 丁業都市の再生等で注目され、 20 1 0年の公共政策学会においても創造都市論の展開が 全体討議で紹介されたところであり、日本においても、金沢市や横浜市、川崎市の取り組 みが知られている。また、家具の産地の大川市では、家具のデザイナーの誘致も行われて いる。しかし、これらは行政主導で進められているためにアトリエはあっても住居がなく

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職住近接でないなど芸術家の地域への定着には課題も多い。 岩瀬ではガラス、木工、漆工芸、陶芸、鉄、木彫の若手作家が活動しており、アトリエ と生活の場が一体となった私的な空間が形成されようとしている。枡田さんの案内で様々 な作品を拝見した中で、岩崎努さんのアトリエでは、日本の昔話を題材にした木彫りの作 品が今にも動き出しそうであり、その躍動感には驚かされた。若手作家の活動は岩瀬を拠 点に行われているが、東京赤坂のとらや東京ミッドタウン店のギャラリーで「特別展示冨 山の作家展一岩瀬の仲間たち」が開催されるなど、全国に向けだ情報発信が行われている。 かつて北前航路と北国街道で栄えた岩瀬地区の回船間屋の寄付によって、旧富山港線が 敷設され1日制富山高校が建設されたという民間主導の地域づくりの精神は、今日において、

LRT

の運行が地域の企業によって支えられ、また、岩瀬地区の町並みの再生の取組みが行 政に先行して民間によって行われたことに見られるように、地域づくに取り組む地域経営 の哲学として継承されている。 (3)越中八尾おわら風の盆 (20 1 0年 8月調査) 飛騨の山々から越中へのびる 8つの尾根を意味する「八尾」は、富山平野の南西部、飛 騨山脈の麓、岐阜県と富山県の県境に位置し、街道筋に発達した坂の町である。江戸時代 には街道の交易の拠点として繁栄し、養蚕の生産が盛んで、その販路は丹波や東北など 1 7カ国にも及び、その商いは和紙、薬草、木炭などに拡大し、これらの生産物の集積地と して発展を遂げた。そうした中から豪商たちが生まれ、富山藩の御納所(財政蔵)となり富 山藩の財政の6割を支えるほどの繁栄ぶりであった。こうした繁栄を今に伝えるのが絢爛 豪華な「曳山祭」であり、曳山展示館には、曳山が常時展示されている。富山市との合併 前の八尾町の人口は約2万3千人、中心部の人口は4千人であった。普段静かな山あいの 町が、全国からの見学者で埋まるのが 9月初旬に 3日間開催される「おわら風の盆」であ る。 越中八尾のおわら節は、昔から知名度が高く、明治期から多くのレコードが録音された。 その起源は所説があるが、元禄 15年 3月に加賀藩から下された町建に関する重要秘文書 である「町建御墨付」を、八尾の町衆が町の開祖である米屋少兵衝の子孫から取り戻した 祝いに、 3日3晩、歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされている。 これをきっかけに、二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う風の盆と称する祭りに変化して いったとされている。風の盆とは、台風の到来で山脈から吹き下ろす風が稲に被害をもた らすことを防ぐため、唄や踊りで風の神様を鎮める豊作祈願の祭りである。 おわら節の特徴は、音曲と踊りに芸術性を求めて変革に取り組んだことにあるとされて いる。江戸時代には、経済力を背屎に文化的に成熟した人々が上方や江戸の清元、常盤油、 浄瑠璃、謡曲などの芸事をたしなむ中で達人が生まれ、明治30年代から昭和初期にかけ ての全国的な民謡ブームの中で、おわら節は全国的に知られるようになった。 一方で、大正期になると、大正ロマンといわれる文化的に自由な気風が広がり、民謡に 対する人気が衰退しはじめた。こうした中で、大正13年設立の「民謡おわら研究会」を 経て、昭和 4年に「越中八尾民謡おわら保存会」が設立され、川崎順二が初代会長に就任 すると、おわらをより格調の高い芸術にするために各界の文人墨客を八尾に招き、新作お わらが誕生した。

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筆者が訪問したのは、おわら風の盆の前夜祭の日である。おわら風の盆が行われる 11 町が日替わりで順番に行っており、当日は、今町で開催されていた。今町は、八尾の古刹 聞名寺の正門前に位置しており、戸数が少ないため、早くから「今町おわら後援会」を組 織して、結婚や引っ越しで今町を離れた人も参加できる体制づくりをしてきた。今日では、 富山県各地から参加しており、 15歳から25歳までの踊り子の多くは、今町には在住し ていない後援会のメンバーであった。踊り子の中には、後援会ができた20年前から参加 している人もおり、当

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は、後援会のメンバーである児童の踊りも披露された。町外から の参加のための後援会組織を立ち上げて伝統を継承している今町の体制は、人口減少で伝 統の継承が困難になっている地域のモデルとなるものである。踊りの披露は、午後 8時に 路上で始まった舞台踊りを経て町流しが行われ、午後 10時まで続いた。 曳山展示館にある越中八尾観光協会を訪間し、観光カリスマでもある幅島順二観光協会 長から、越中八尾の「伝統文化が映える観光のまちづくり」についてお話を伺った。 福島会長からは、おわら節には、格調が高く、飽きがこない素朴さと哀愁の深さがあり、 民謡の原点に返って本物の味わいのある芸術性をいかに伝承していくかが重要であること、 坂の町の中の静かなたたずまいの中で伝統芸能を味わっていただくために通年で鑑賞でき るステージづくりをしていること、農業や温泉との連携など多様な核づくりや散策ルート づくりを進めていることなどをお話いただいた。福島会長のお話で特に印象深かったのは、 有名になりすぎて多くの人が集中的に訪れることで、おわら節の本当の魅力を味わっても らえないこと、そうしたことがおわら節を継承していくうえでも間題となっていることへ の危惧である。多くの地域の祭りでは、伝統を継承する保存会と観光誘客を進める観光協 会は全く別の組織として別の論理でバラバラに動いている。福島観光協会長が伝統の継承 という地域経営の哲学を持っていることは、おわら風の盆が地域外の人々との協働によっ て継承されている要因を最も端的に物語っていると言えよう。 (4)利賀村のまちづくり (20 1 0年 8月調査) 利賀村は、平成 16年の市町村合併により南砺市利賀村となったため、本稿では自治体 としての利賀村を旧利賀村と、地域のエリアとしての利賀村を利賀村と表現する。平成元 年から始まった「ふるさと創生事業」とその後の全国的な地域づくり運動の展開において、 1日利賀村の存在は非常に大きなものがあった。その中心となった人物が旧利賀村の係長で あった中谷信一さんであった。中谷さんは、当時の自治体職員の中で最も有名な人の一人 であり、全国の自治体職員や地方議員が利賀村を視察した。筆者が中谷さんと最初に出会 ったのは、平成 3年であった. 旧利賀村のまちづくりが注日されたのは、県境の人口千人足らずの村の存在が全国的に 知られるようになったことである。その始まりは、舞台演出家の鈴木忠志氏が主宰する早 稲 田 小 劇 場 が 、 昭 和

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年 に 東 京 か ら 利 賀 村 に 拠 点 を 移 し て

SCOT(SUZUKI

COMPANY OF TOGA)

と改称し、合掌造りの民家を改造した劇場を利賀山房と名づけ て活動を開始したことである。その後、 1日利賀村と連携して野外劇場、稽古場、宿舎等を 増設し、昭和 57年には

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本で初めての枇界演劇祭「利賀フェスティバル」を開催し、平 成 11年まで毎年、世界の舞台芸術家が集まり、利賀村は世界の舞台芸術の聖地の一つと 言われるようになった。

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一方、 1日利賀村は、木炭や和紙の生産が衰退する中で、そばを活用した地域活性化を昭 和 62年に企画し、建設予定の「そばの資料館」に展示する民具等の収集のため、昭和 6 4年の正月に村長以下19名でネパールを訪間した。これを契機にツクチェ村と友好協力 村となり、チベット仏教の曼陀羅との出会いは、瞑想の郷の建設に発展する。 瞑想の郷は、ふるさと創生資金を活用して平成 2年にオープンした瞑想の館と、平成 7 年にオープンした瞑想美の館を中心としたチベット仏教の曼陀羅や仏像の展示施設である。 オープンした年には、約3万3千人が入場し、その後の年間入場者は約6千人となってい る。そばの郷は、日本で初めてのそばの資料館「そばの館」を中心に、そばの料理が堪能 できる大きなそば店が 3店舗集まっており、そば打ち体験も要予約で 10 0名まで可能と なっている。 観光カリスマでもある中谷信一さんの自宅を訪問しお話を伺った。中谷さんは、南砺市 を定年退職されて、財団法人利賀ふるさと財団の理事長をされるとともに、利賀村の上畠 地区の区長として地域の活動を行っている。財団法人利賀ふるさと財団は、旧利賀村以来 の地域振腺施設である、瞑想の郷、飛翔の郷、そばの郷、天竺温泉の郷、スノーバレー利 賀、利賀国際キャンプ場、スターフォレスト利賀を指定管理者として管理運営している。 中谷さんは最初に「4 0年間、過疎対策と地域振巽に取り組んできたが、結呆的には、 高齢化と少子化による人口減少に歯止めがかからず、寂しい思いをすることもある。しか し、旧利賀村のまちづくりの取組みがなければ、人口の減少はもっと進んでいたであろう から、その鈍化に寄与したと言うことはできる。」と言われ、この4 0年間の地域振興の取 組みを振り返った。 そして、 1日利賀村は、いろいろな挑戦をしてきたが、これからは、集落を再生して元気 にするというよりも、集落を残すことに力を入れていきたいとして、上畠地区の状況と取 組みを紹介いただいた。上畠地区は標高約 6 0 0 mで、 4 2軒の住居うち、居住している のは15軒、 32人で、平均年齢は67歳で75歳以上の人が多く、高齢化率は70%を 超えて、地域の高齢者のコミュニケーションも少なくなっている。このため、中谷さんは、 上畠地区の 11軒の住居や畑、空き地等を会場に「上畠アート」というアートイベントを 開催している。 8月に4日間開催し、これを支えるために、東京から会社員等が手弁当で 応援に来てくれており、アートの展示・販売や地元産物の販売に加え、革小物ワークショ ップ等の体験やソロコンサート等のライブも行い、約千人が来場している。この事業費は、 地元の負担約 2 0万円にその他の収入を加えた 35万円で実施したとのことであり、通常、 自治体主導で行った場合に比べ極めて安いコストで行われている。中谷さんは、これまで は行政の立場でメニューを作って、地域に玉を投げかけてきたが、これからは地域住民の 一人としての活動に力を入れていきたいと語った。 中谷さんの役場での活動と退職後の住民としての活動には、過疎地に外から人を呼び込 むことで地域の存続を図ろうとする過疎地域の地域経営の哲学を見ることができる。中谷 さんについては、後述するように地域づくりの哲学の全国的な伝播も見ることができる。 (5)氷見市のまちづくり (20 1 0年 8月調査) 氷見市役所を訪問し、観光カリスマでもある堂故茂市長(当時。以下同じ)から氷見市 のまちづくりについて話を伺った。堂故市長からは、越中式定置網の発祥の地としての水

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産のまちづくりや、氷見を舞台とした映画のロケ地づくり、氷見市出身の漫画家である藤 子不二雄Aさんの漫画を生かしたまちづくりなど、個性的な取組みを紹介いただいた。 氷見フィッシャーマンズワーフ海鮮館は、筆者が 1年前 (20 0 9年)のシルバーウイ ークに訪れた際には、イベントをしていた職員の方から氷見市内の飲食店の情報を詳しく 教えていただいたことが印象深かったが、 1年後に訪間してみると、市内の飲食店やみや げ物店のマップが既に観光協会で作成されていた。 市役所のすぐ近くにある光禅寺には、氷見市出身の漫画家である藤子不二雄Aさんの作 品の石造が設懺されている。笑ゥせえるすまん、プロゴルファー猿、怪物くん、忍者はっ とりくんの石造の前で記念写真を撮る観光客が多いとのことである。潮風通りのシャッタ ーには忍者はっとりくんが描かれており、歩道には氷見で獲れる魚をモニュメントにした タコ八、ブリンス等の「氷見の魚紳士録」が設置されている。 氷見市潮風ギャラリーには、藤子不二雄Aさんの漫画の原画や作品、記念品が展示され ており、そこで初めて藤子不二雄Aさんの本名が安孫子素雄という名前であること、先ほ ど訪れた光禅寺で住職の長男として生まれたこと、藤子不二雄としてコンビを組んだ藤本 弘さんとは定塚小学校で出会い、高岡高校 3年の時に 2人でデビューしたこと、手塚治虫 さんと出会いトキワ荘14号室に敷金を引き継いで入届できたこと、連載に穴を開けたと きには手塚治虫さんから叱られたことなど、多くのエピソードを知ることができる。潮風 通りには、地元の物産店があり、氷見の町中を試食しながら多くの士産品を買い込む「町 歩き」を体験できるようになっている。楽しく歩いて食べるコースと体験メニューづくり は、観光客を商店街に呼び込もうとするものである。 堂故市長のお話は非常に示唆に宮む内容で、特に、氷見フィッシャーマンズワーフ海鮮 館は、全国の様々な事例を検討し、「①素朴にする。②過大投資しない。③経営者を選定し て口を出さない。」という考え方を基本にして建設したとのことである。 氷見市では、港の海鮮館、潮風通りの町歩き、漫画の石像や魚のモニュメントのいずれ も素朴さが魅力となっており、素朴さを地域経営の哲学としていることで、地域の個性が 発揮されていると言えよう。 (6)新潟県大地の芸術祭 (20 0 8年 10月調査) ①アートネックレス整備構想とフィールドアートミュージアム 平成8年3月に策定された「越後妻有アートネックレス構想」は、 6市町村がアート(知 恵・技術)を出し合って、ネックレスのように結びついた整備をしていきたいということか らこのような名称が付けられた。その内容は、地域の魅力を再発見するために写真コンテ スト等を開催する「ステキ発見事業」、世界的な建築家・アーティストが参画して拠点施設 等を整備する「ステージ整備事業」、花をテーマにして各市町村を巡る「花の道事業」、世 界のトップアーティストによる野外芸術祭を3年ごとに開催する「大地の芸術祭」の4つ の柱で構成されている。 これらの取組みで注目されるのは、大地の芸術祭の総合ディレクターである北川フラム 氏と同氏が代表取締役を勤める(株アートフロントギャラリーのスタッフの存在、里山に魅 せられたアーティストと地域住民との関係、都会の若者サポーター(こへび隊)と企業スポ ンサー(大へび隊)の存在である。特徴的なのは、(株アートフロントギャラリーが、公共施設

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の指定管理者となるだけでなく、大地の芸術祭実行委員会が実施する様々なソフト事業を 運営するうえで事務局的な機能を担うとともに、「妻有ファンクラブ」などの自主事業を展 開しており、地元では「まつだい農舞台事務局」という愛称の方が広く知られるようにな っていることである。 ②里山アートを車で巡る仕掛け 大地の芸術祭は、広域的に点在するアート作品を、来訪者が自家用車等で巡るというス タイルで行われている。車中からも多くの野外アートを見学しながら移動することができ るようになっており、広域的に点在するアート作品を巡る仕掛けができている。 まつだい雪国農耕文化村センター「農舞台」は、ほくほく線まつだい駅の南側の里山(城 山)約 6Oha に 3 0点あまりの作品が散りばめられたフィールドアートミュージアムにお ける交流拠点として 20 0 3年にオープンし、(株アートフロントギャラリーが指定管理者 となって運営している。 1 9 8 8年に廃校になった旧三省小学校の校舎は、 2006年に宿泊施設としてリニュ ーアルされて大地の芸術祭の関係者の宿泊施設として利用された後、現在では、一般の宿 泊やセミナーの開催、合宿などに利用されている。「こどもサマーキャンプ」(大地の芸術 祭実行委員会主催)に香港や関東地方から参加した小学生も宿泊している。 自然科学館「森の学校キョロロ」は、里山の身近な自然の中に生息する昆虫等の生態を 子供から大人まで学び体験できる施設で、耐久性の銅板で造られた建物は豪雪地域の潜水 艦のような作品である。また、廃校(旧真田小学校)を利用した「絵本と木の実の美術館」で は、絵本作家の田島征三さんの作品の原画や数百個のかぼちゃを木造の体育館の天井から 吊り下げるインスタレーションが展示されている。 「うぶすなの家」では、地元の女衆(おんなしょ)の皆さんが作った夏季限定の野菜を ふんだんに使った料理を陶芸家の作品の器でいただくことができる。この建物は、中越大 地震で被害を受けた古民家を改造したもので、レストランそのものがアートの展示館とな っている。 ジェームズ・タレル氏が設計した光の館は、スライド式の屋根が開くと、四角く切り取 られた 2階の天井から刻々と変わる空の様子を見ることができる。床に寝転んで空を見て いると、まるで映画館のスクリーンを見ているような気がしてくるようになっている。こ の建物は宿泊施設として利用されており、光ファイバーを組み込んだ浴槽も名物となって いる。 ③大地の芸術祭りの経緯と発想の特性 大地の芸術祭 20 0 9の実行委員会の事務局である十日町市観光交流課芸術祭推進室長 の高橋勝芳さんから、 2000年、 2003年、 2006年と 3回開催された大地の芸術 祭の経緯とコンセプト、協働の仕掛け等を紹介いただくとともに、開催されている「 2 0 0 8夏大地の祭り越後妻有」の概要、 2009年 7月 26日から 9月 13日まで開催され る大地の芸術祭の計画をお話いただいた。 大地の芸術祭は、平成 6年に新潟県が打ち出した「ニューにいがた里創(りそう)プラン」 の第 1号として、十日町市、川西町、律南町、中里村、松代町、松之山町の 6市町村(現在 は市町村合併により十日町市と津南町に再編)からなる「越後姦有(えちごつまり)地域」が、 指定されたことが契機となっている。このプランは、広域行政圏が 3年間のプラン策定と

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1 0年間の事業実施を行い、これを県が支援するというもので、新潟県内の 6広域行政圏 が指定を受けていた。 この平成 6年という時期に、新潟県が広域行政区域を対象とした施策を打ち出したこと に、筆者としては大変興味を持っている。なぜならば、当時は、ふるさと創生事業による 市町村単位の地域づくりと、広域市町村圏を中心としたソフト事業による広域的な地域づ くりの 2本立てで施策が進められていたが、市町村単位の取組みが全国的に活発であった のに比べ、広域市町村圏単位の取組みは一部の地域を除き、従来の枠を超える取組みは見 られなかったからである。 さらに、筆者は平成4年に新潟県庁を訪問し、新潟県が取り組んでいた広域市町村圏の エリアの再編についてご教示いただいたが、圏域を見直すだけでなく、地域の広域的な取 組みを新潟県が強力にバックアップする仕組みを設けたことの意義は大きいと言えよう。 ここで、越後妻有(えちごつまり)地域の状況を簡単に整理しておこう。平成 6年 4月、従 来の十日町地域広域行政圏に東頚城郡松代町と松之山町を加えた 1市 4町 1村からなる新 しい圏域が誕生した。そして、平成 6年に新潟県から「ニューにいがた里創(りそう)プラ ン」が示されると、この地域は精極的に受入れを表明し、第 1号の地域指定を受け、十日 町地域広域事務組合に企両振興課を設け、広域事業の推進体制を整備した。その後、同組 合が中心となって平成8年3月に「妻有郷アートネックレス整備構想」が策定された。 平成9年9月の)1│西町広報誌によれば、十日町地域広域事務組合で進めている「妻有郷 アートネックレス照備構想」の内容を多くの住民に理解してもらうため、同年 7月に十日 町市で開催された「+

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町地域ニューにいがた里創プラン推進懇話会」において、平山新 潟県知事(当時)は「私は、地元から出てきた地域づくりの発想を生かしてやりたいと考え ています。そうした中で、ほくほく線が開通した十日町圏域は、これから高速交通体系が 整備され、変わっていく地域なので早めに広域的な議論をし、魅力ある地域づくりの方向 を見出すために、『里創プラン』の第1号として優先的に指定しました。」と述べている。 また、同年 10月の中里村の広報誌には、県指定の理由として「この地域は人口の減少 と高齢化の進行が著しく地域活性化のための対策が急がれていることと、平成 9年 3月に 北越北線の開通により圏域の交流人口の増と活性化を図りたいという圏域共通の課題があ ったためです。」と説明している。そして、「今までのように各市町村の個々のハード(いわ ゆる箱物)を優先するのではなく、 6市町村全体の振興を考え、ハードを活用する知恵を出 し合って広域の振興策を作り上げていこうとするものです。」と述べている。 平成 8年から平成 9年は、政府の地方分権推進委員会の第 1次勧告が出された頃であり、 市町村合併を推進する機運は国会や政党のレベルでは盛り上がりつつあったものの、政府 や自治体では遠い先の話のような雰囲気の時期であった。また、市町村単位の箱物建設の 弊害が顕在化し一部地域で問題視されていたものの、大勢はまだまだバブル期の発想から 抜け出されていなかった。 こうした時代に、しかも、鉄道の開通という地に足の付かない異常な発想を呼び起こす 要因があったにもかかわらず、ソフト事業を中心とした広域的な取糾みを促した新潟県と 取組みを推進した旧6市町村の関係者の卓見は注目に値すると言えよう。 旧)1│西町の企画担当者、十日町市の産業観光部長として大地の芸術祭に携わった渡辺正 範氏によれば、鉄道の開通を契機に各市町村では箱物を整備していこうという構想もあっ

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たが、関係市町村と新潟県の担当者が検討する中で、広域的な地域をイベントのネックレ スで結ぶという考え方が共有されたとのことであり、ハード整備ありきの施策展開からの 転換は先進的な取組みであったと言える。広域的な地域をイベントで結ぶという地域経営 の哲学の存在が、イベントというソフト事業による地域活性化を実現するうえで、ベース となったのである。

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先 進 的 な 取 組 み の 核 心 に あ る 地 域 経 営 の 哲 学 地域づくりをどう捉えるかは、答えがあって答えがないような禅問答に近いものがある。 地域づくりやまちづくりの概念は、多義的な要素を多く含んでおり、究極の目的は、国や 自治体の行政目的と共通した住民褐祉の増進にあると言えようが、地域経済の繁栄、人口 の増加や人口減少の歯止め、地域の文化の再生など、具体的に目指している意図は様々で あり、一つのものさしで測ったり、一つの価値基準で評価することはできないものである。 共通して言えることは、「地域づくりは人づくり」とも言われるように、地域に対する「熱 い思い」と「クールな頭脳」、そして「地道な実践活動」を担う「人」がいることであり、 「熱い思い」、「クールな頭脳」、「地道な実践活動」のバックには、「地域経営の哲学」とも 言うべき「理念」、「魂」が存在している。 多くの先進地の現場の調査をする中で、先進的な取組みの核心に地域経営の哲学とも言 うべき理念、魂があることを明確に理解できたのは、 20 1 0年 8月に内子町を調査し、 役場職員であった岡田文淑さんにお目にかかってお話を伺ったときである。岡田文淑さん の発言の概要は、次のとおりである。 (1)社会正義の喪失が問題 20世紀は、なーな一、なしくずし、いいかげん、仲良しの時代であったが、そのツケ が今出ている。社会正義が失われており、地域づくりには、社会の不正義から国民・住民 の目をそらすという面もある。失政は公民館活動の中で不間に付され、間題を見据える心 が失われているように思える。 (2)引き算型のまちづくり 大都会にあって地域にないものを求めて足し算をして、あれも必要、これも必要と創っ ても創っても地域が良くならない。ハードは予算があればやれるが、経営のノウハウが不 足し、当初企画した担当者は異動していない。ないよりあった方がいいような「おためぼ かしな事業」が多い。 企業の不祥事に見られるような世界的な企業の稚拙なやり方や、国や県による予算消化 のための市町村への補助事業の押し売り、本質的な議論をしないで行われる議会の議決、 町内会の行政への依存体質などの問題は、既存の制度や仕組みを壊さないと解決しない。 創ることはできるが、壊すのはたいへんである。今は壊す勇気が必要。 (3)多数決や常識ではダメ まちづくりは、多数決や常識ではできない。自分の目で見て、自分の責任で考えて行動 すべき。立場を変えて見ると、常識だと思っていることがとんでもない非常識であること に気づく。団体の会長などの肩書き組を対象としたまちづくりではなく、肩書きのない人 たちとまちづくりを進めなければ成功しない。

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(4)公務員の改革が必要 どんなにいいマニュアルや仕組みを提供しても、公務員の体質を改めなめれば改革にな らない。予算がないことを理由にする人に限って予算要求をしていない。行政管理は良い が職員管理ではダメで、現在のような公務員の研修ではなく、自治体の役割を考える前に 本来の公務員の役割を考えさせなければならない。 公務員が悪法の番人になるのではなく、現行制度のおかしいと思ったことをどうするか が重要であり、市町村の職員が国、県の出先機関の意識になってはいけない。決裁とは起 案した人間の責任を明らかにするもので、責任を転嫁するものであってはならない。町の 課長は首長の意識で仕事をしないと務まらないように、自分をワンランク上に位置付けて 仕事をすることが必要である。自分が変わり同僚を変えるのである。 (5)オフレコ会議のススメ 正しいと思ってやっても組織の中では馬鹿扱いされたり、一人で矢面に立たされたりす る。「オフレコ会議」で地下で輪を広げておくことが重要である。 (6)町並み保存運動の秘訣 日本人は、美には敏感であるが、醜には鈍感であると言われる。町並み保存や景観形成 は、条例や要綱づくりから入るのではなく、自分がやるとしたら、まず、住民に気づいて もらうためのきっかけづくりから始める。内子町の場合、理論から理解する住民は少なく、 町並み保存運動に対する理解というより、熱心さに対する同情と期待の方が強かったので はないか。 不平不満を吐き出せない住民が多く、住民と本音で話せる関係を創ることが必要である。 公務員が集会所のひな壇で住民に説明しているうちは本音の閲係はできない。公務員が住 民に対して何かを与える側、住民が受け取る権利者側の関係でいるうちは、まちづくりは 進まない。条例や要綱では基準を設定することが多いため、基準さえ満たしていればいい という逆の効果を生じさせる場合もあるので、条例や要綱だけで町並みを保存することは できない。

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地 域 経 営 の 哲 学 の 伝 播 筆者が全国の地域づくりの先進地を訪問し、キーパーソンのお話を伺う中でわかったこ とは、地域づくりのキーパーソンは、地域づくりの理念、魂、すなわち、自分の言葉で語 れる「地域経営の哲学」を有していることである。そして、この「地域経営の哲学」は、 他人に対して語るためのものではなく、自分(たち)に言い聞かせるためにあるというこ とである。 このため、地域づくりの先進地において、キーパーソンの地域経営の哲学を理解してい る人は、同じ活動をしている仲間のごく一部に限られている。先進地の現地でヒアリング をしてみると、取組みのスタートの時点で賛同した住民の多くは、地域振興策の内容に賛 同したものでもなければ、キーパーソンの経営哲学に共感したわけでもない、ただ、キー パーソンの熱心さに心が動かされたのだという声を聴くことがある。地域の身近な人の間 では、理屈や理念で説得することが相応しくない場合があるということである。 一方で、キーパーソンの地域経営の哲学は、地域外には伝播している。筆者が全国の地

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域づくりのキーパーソンを訪問し、地域づくりのスタートの前後で、他の地域の先進地を 訪問したことがあるか、そこで、誰に会ったのかを伺うと、一種の師弟関係のような、教 える人と教えてもらう人の連鎖構造の存在を知ることができた。 そして、誰のところに話を聴きにいくかという選択の段階で、その人が地域づくりの実 践をしていく方向性が概ね定まっている場合が多いのである。したがって、誰のところに 何を聴きにいったのかと尋ねることは、あなたは、何に関心を持って地域づくりに取組み 始めたのかを尋ねているのと同じことなのである。地域づくりのキーパーソンの話には、 様々なノウハウや体験談が盛り込まれており、地域づくりの活動にとって参考になること は多いが、最も重要なことは、地域経営の哲学の伝授を受けることである。 ここで、前述した利賀村の中谷信一さんの場合を例に、地域経営の哲学の伝播の状況を 述べることとする。中谷さんたちが地域づくりに取り組み始めた当時は、「まちづくり」と いう平仮名の用語もなければ、「地域づくり」という行政用語もない時代で、自治体の職員 としては変わり者、地域の中では変人という見方をされていた時代と言っても過言ではな い。当時は、国の補助事業の実施や企業の誘致に力を入れていた時代であり、人々は都会 に憧れ、都会と同じものを地域にどう造るかに関心が集まっていたのである。そうした中 で、地域の将来を見据え、地域をどうしていくべきかに悩み、試行錯誤を繰り返している 中で、自然と全国的なネットワークが形成されたということができよう。 中谷さんの場合は、昭和50年に福島県三島町の斉藤茂樹さんの話を伺いに行ったのが 最初であった。斉藤さんは三島町企画課当時に昭和49年から「ふるさと運動」を展開し て「特別町民制度」を立ち上げ民泊を推進するとともに、三島編組み細工に代表される生 活工芸品を生かした地域の活性化に取り組んでいた。次に中谷さんが注目したのは、山形 県西川町の松田武志さんであった。松田さんは、西川町企画開発課当時に「月山の自然水」 の販売を企画し、第ロセクターの西川町総合開発闊を立ち上げて販売するという、日本で 最初の「水売り」を始めた人物であった。西川町のその後の地ビールヘの展開は、自然水 が発端であった。中谷さんが、次に注目したのが愛知県旧足助町(現豊田市足助町)の小澤 庄一さんであった。小澤さんは観光カリスマとしても活躍されており、旧足助町企画課当 時に足助の町並みの保存運動の先頭に立って活躍されたことはよく知られている。 中谷さんが訪れた地域づくりの実践者の特徴は、過疎化が進む山間地域の町の企画課の 職員が、従来の行政の枠を超えて、地域住民とともに地域の活性化に取り組んだことであ る。その後の中谷さんの活動は、まさに、これまでの村の職員の枠を超えるものであった。

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結語 昭和60年代から注目されるようになった先進的な地域振興の取組みについては、その キーパーソンの存在と地域振興のノウハウとも言うべき創意工夫の手法が、研究者やキー パーソン本人によって著書や論文、講演、フォーラムなどで紹介されてきた。また、国や 自治体の職員は、先進地の視察を長年にわたって行い、情報を蓄積してきた。 先進地をいくつか調査すれば、様々な個性的な取組みを可能にした要囚がキーパーソン の存在にあることは理解できる。そして、キーパーソンは馬鹿になってやる人であり、「ば かもの」の存在が重要なことも以前から指摘されてきたところである。しかしながら、な

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ぜ、「ばかもの」が存在しているのか、なぜ、そこまで熱心に取り組むのかは、キーパーソ ン本人に聞いてもわからないくらい謎なのである。 筆者が約30年間にわたって地域振興の先進地を調査する中で判明したことは、前述し た事例で見られるように、地域振興のキーパーソンには、これまで言われてきた地域振輿 の熱意だけでなく、「地域経営の哲学」が存在することである。地域経営と言えば、二宮尊 徳の報徳思想が有名である。また、マックス・ウェーバーは、著書「プロテスタンティズ ムの倫理と資本主義の精神」において、宗教的な意識から歴史的に由来した天職という思 想に着目して資本主義の生誕を論じている。 一方、地域づくりのキーパーソンの地域経営の哲学は、人々を導く思想ではなく、宗教 的な意識でもなく、自分(たち)に言い聞かせるために各々が導き出した独自のものであ るため、共通する思想的な意識が存在するかどうかは不明である。 国の関係者の著書では、昭和 62年 6月に策定された第 4次全国総合開発計画に「個性 豊かな地域づくりの推進」が掲げられ、その後竹下総理大臣の下でふるさと創生がスター トしたとされている。国の地域振興施策の説明としてはそのとおりである。 しかしながら、 19 6 0年代から 19 9 0年代にかけての地域振興を国の施策と地域の 取組みの両面から総体的に捉えるならば、我が国の地域振興は、全国的には底上げ型の地 域振興が行われる中で、次第に条件不利地域における個性を生かした取組みがスタートし、 その後、国の地域振興施策の重点が底上げ型から個性発揮型に移行していったことで、全 国的に個性発揮型の地域振輿が広がったと言うことができる。そして、先進的な取糾みが 行われた地域においては、キーパーソンとなる人材が地域経営の哲学とも言うべき理念、 精神を有して取り組んだことに特徴がある。 したがって、個性的な地域振興の取糾みを行う上では、先進地のノウハウを模倣するこ と以上に、地域経営の哲学とも言うべき理念、精神を自分なりに持つ人材が存在すること が童要なのであり、地域振興の政策においても、地域経営の哲学を持った人材に着目した 政策展開が必要と言えよう。 [参考文献] 丸谷金保(1976)『乾杯!ワイン町長』日本の自治を考える会 中谷健太郎(1983)『たすきがけの湯布院』アドバンス大分 佐藤俊夫(1987)「地域経営の理念と研究の系譜」『商学集志』第57巻第2号 日本大学商 学研究会 社団法人農山漁村文化協会(1989)「ふるさと創生考え方と進め方」『現代農業6月増刊号』 萩原茂裕(1989)『第四の教育』日本ふるさと塾 財団法人地域活性化センター(1989)『地域活性化ハンドブック 9 地域づくりの人びと

PARTII

』 湯浅利夫編 (1995)『地域振興の戦略的展開』ぎょうせい 望月達史著 (1995)『地域経営の知恵』ぎょうせい 幸田雅治、佐々木敦朗、長谷川彰一、三輪和夫著(1995)『地域づくり戦略』ぎょうせい 西村幸夫著(1997)『町並みまちづくり物語』古今蓄院

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榛村純一(1998)『よみがえる二宮金次郎』消文社 竹内宏(2004)『町おこしの経済学』学生社

参照

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