争と労働組合 7.ひとつの理論 : 「協力的な団体交 渉」モデル
著者 小池 和男
出版者 法政大学経営学会
雑誌名 経営志林
巻 48
号 2
ページ 35‑60
発行年 2011‑07
URL http://hdl.handle.net/10114/9192
〔研究ノート〕
戦前昭和期の労働組合 ― 厚い中堅層の形成 (6)
小 池 和 男 6 . 戦争と労働組合
6 . 1 . 視点
グローバルな視点
人の真価は, このシリーズ冒頭のことばをあ えてくりかえすが, もっともむつかしい状況で の行動にあらわれよう。 労働者組織や労働組合 もなんらかわらない。 もっともむつかしい状況 とは第二次大戦への態度であり行動である。
1931年のいわゆる満州事変, 1932年第一次上海 事変, とりわけ1937年からはじまる日中戦争, そして第二次大戦にいかに対処したか, である。
ここでは, その行動を 「産業報国会」 への対処 に焦点にすえて吟味する。 その理由はふたつあ る。 第一は国際的な視点であり, 第二は労働者 の発言の重要性である。
こういっても, いまの方には産業報国会とは なんのことか, さっぱり見当がつくまい。 それ も当然なのであって, いまは記憶のはるかかな たに消えうせている。 ただし, その概略も国際 視点から説明していかなければ, とうていその 実際に迫るのはむつかしい。 理由の第一, 国際 視点の説明から始める所以である。
どうか日本だけが 「侵略」 戦争をはじめた, と断定しないでいただきたい。 戦争のすくなく とも片方が侵略戦争といわれない戦争を, わた くしは寡聞にして知らない。 なにも日本に限ら ない。 戦争とは資源のとりあいであり, 日本に かぎらず戦争をはじめた国で働く人たちは家族 のくらしのために, 悲しみながらも戦争を否定 せず, いやときに意気高揚し, 戦場に向かい命 をかけてとり組んだのであった。 少年ながら
(敗戦時中学一年) 第二次大戦時の日常を生き
たわたくしはそう感じた。 そうしたことを直視 しないと, 庶民の組織である労働組合の戦争に たいする行動は, どの国についてもとても理解 できない。 英米の主要組合も戦争を支持した。
戦争には大別ふたつある。 「正義の戦争」 か どうかではまったくない。 交戦国はどちらも
「正義」 を叫ぶ。 真の区分は 「総力戦」 と 「借 り物戦」 である。 借り物戦とは1960年代のエジ プトとイスラエルの中東戦争のように, 武器を 他国から借りる, あるいはもらう。 エジプトは ソ連からの武器に全面的に依存し, 他方イスラ エルはアメリカからもらった武器で戦った。 自 分で設計はもちろん製造もできなかった。 自分 で製造しては勝てる武器ができなかった。 それ ならば, もらった戦車や飛行機が破壊されれば, 戦争は終わりになる。 したがって借り物戦争は 概して短く死傷者もすくない。 もっとも短い第 三次中東戦争は周知のようにわずか 6 日であっ た。 もちろん, そのあとのゲリラ戦は途切れな がら長いが。
他方, 総力戦は交戦国がそれぞれ他国と対抗 できるレベルの武器を自国で設計し製造する。
それゆえ戦争は数年と長くつづく。 第一次大戦 と第二次大戦がそうであった。 日本が形ばかり 参戦した第一次大戦は別として, 総力をあげて 戦った第二次大戦をとれば, 空の主力 「ゼロ 戦」, 海の主力, 空母, 巡洋艦など主要な武器は 日本が自力で設計, 製作し, それで交戦した。
それゆえ戦争は数年という長期にわたった。
そうした総力戦では, 武器の設計はもちろん, それをはるかにこえてその製造が戦争の帰趨を 左右する。 武器を製造するのはいうまでもなく 軍ではなく労働者である。 そして武器を設計,
製造できるほどの国ではどこでも武器を製造す る工場は大規模で, したがってまず労働組合が ありストライキもできた。 日本の戦前の軍工廠 にもほとんどもれなく労働組合があった1)。 ス トライキを打たれては戦争に勝てるはずがない。
そこで総力戦は, 武器を造る労働者がストライ キを打たないように, なんとか労使関係のしく みを工夫することが肝要であった。
その工夫は, 先進国をみればごくおおまかに ふたつのタイプがあった。 ひとつは英米タイプ であり, 他は独日タイプである。 英米タイプと は労働組合のリーダーによいポストを提供して 政府に組み込む。 具体的には有力労働組合のリ ーダーを内閣の大臣にする。 または重要な政府 機関の長にすえる。 英では第二次大戦時, 戦時 内閣の重要閣僚に当時の英最大組合, 運輸一般 労組の書記長すなわち組合役員のナンバーワン, ベヴィンをつけた。 労働大臣に任命したのであ る。 英では労働組合のナンバーワンは委員長で はなくて書記長なのである。 米では閣僚ではな いが重要な生産管理局の副長官に, 合同男子服 労働組合のリーダー, やや左翼とみられたヒル マンをすえた。 なお長官は当時最大企業の GM の社長クヌードセンであった。
他方, もうひとつのタイプは, 政府の権力で 労働組合を解散する。 とはいえそのままでは紛 争や怠業, ときにはストライキがおこり, 武器 製造に労働者の協力が得られず, 戦争に勝てる はずがない。 そこで, それにかわる労働者組織 をあらたに造る。 ドイツでは 「労働戦線」 であ り, 日本では 「産業報国会」 であった。
こうした国際的な流れのなかで, この本が注 視する総同盟はどのような行動をとったのであ ろうか。 それがこの章の視点である。
最後まで労働組合をまもる
第二の理由は職場で働くものの発言の重要性 である。 戦時であれ平時であれ, 生産性を高め るには職場の労働者の協力が欠かせない。 日常 のくりかえし作業でも協力がなければ効率は下 がる。 というのは, もっとも低いレベルの協力 でも, それがないと欠勤や企業間移動が多くな る。 戦時は労働需要がどの国でも激増し, 超過
需要すなわちはなはだしい人手不足で企業は他 社からひきぬき, また労働者は高賃金をもとめ て移動しよう。 移動が多くなれば, その仕事に なれた人が少なくなり生産性は下がる。
まして高度な働き, たとえば生産方法の改善 に資する職場の工夫, 知恵となれば, 労働者の 積極的な協力なしにはとうてい期待できない。
協力を得るには, 労働者の組織とその活動にも とづく発言の尊重が必須となる。 発言もできな くて, どうしてその人たちが知恵をだしてくれ ようか。 その発言を戦時にいかに確保したか。
あるいはできなかったか。 発言を確保すべくい かに総同盟は力をこめたか。 それがこの章のテ ーマである。
総同盟の行動は鮮明であった。 労働組合とし ての発言を最後まで主張し, そのために戦時ス トライキ絶滅宣言までしながら, その組織をま もろうとした。 政府の事実上の解散命令に抗し 最後まで孤塁をまもろうとした。 残念ながら総 同盟は解散を余儀なくされ, まもるべき孤塁す らも消えた。
なお, 総同盟のストライキ絶滅宣言を労働組 合の役割放棄ととる向きが日本の研究者では少 なくないが, 戦時中のストライキ自粛はなにも 日本にかぎらず英米にも共通した。 労働組合の 自粛方針にもかかわらず, 事実上ストライキが 戦時中もつづいた点も, 英米日に共通してみら れる。 ひとり日本のみを断罪する傾向がここで もみられる。 他国の状況を冷静に見ようとしな い悲しい動向である。
総同盟のリーダー松岡駒吉は1940年の解散の あと45年の敗戦まで, まったく他の組織に入っ ていない。 ということは収入ある仕事に一切つ いていないのだ。 その誘いがなかったわけでは ない。 それどころか多くの誘いがあったことは わかっている (たとえば産業報国会からなど。
中村 [1963] p.263)。 松岡はそれらにまったく 乗らず, ひっそりと暮らすのである。 いったい どのようにして, いつ終わるとも知れぬ敗戦時 まで暮らしていたのか。
総同盟の西のリーダー西尾末広も一切の誘い に乗らなかったが, かれは松岡と違い選挙に強 く, 東条の翼賛選挙にもまけず最後まで衆議院
議員であった (途中議会から除名されたけれど, すぐに補欠選挙でカムバックした)。 当時の衆 議院議員歳費は, 敗戦後の歳費より, 働く人の サラリーへの倍率では大分低い。 それに立法調 査費や滞在費, 秘書手当などまったくつかない。
それでも年3,000円, 当時の製造業男性平均賃 金のほぼ 3 倍であった。 さまざまな経費を見込 んでも, とにかく生活はできよう。 敗戦後, 比 較的大きな改定があった1958年をとると, さき の倍率はほぼ 6 倍になる2)。
だが, 松岡は選挙によわかった。 いったいそ のあと, 松岡はどのようにして暮らしていたの か。 わたくしのような素朴なエコノミストは, こうした暮らしをかけた状況にこそその人の本 然の姿が現れる, と考える。 いつ終わるともし れない第二大戦時, 他に収入のあてがあるとも おもえず, 資産があるともみえない松岡がいか に暮らしていたか。 奥さんが内職していたこと はわかっている (中村 [1963] p.272-3)。 ただ ただ, その志のつよさを感じるほかない3)。
これにたいし, 「いさましい」 リーダーたち ほど, 政府に迫られずとも自主的に労働組合を 解散し, なだれをうって産業報国会に就職する のであった。 総同盟, 松岡たちを 「ダラ幹」 と あざける人たちほどすばやく転進した。 このよ うに暮らしをかけた発言権の重みこそ, なによ りも総同盟に注視する理由である。
6 . 2 . ナチスドイツの 「労働戦線」
戦前日本の議論
産業報国会を説明するには, それが範とする ドイツの労働戦線からみなければなるまい。 対 する英米方式についてはすでにかなりわかって いる。 それまでの方式すなわち労働組合, した がって団体交渉という枠組みをそのまま認め, そのリーダーを政府の重要ポストにつけてその 協力を得る。 そしてストライキを事実上おこな わないよう要請し, 武器製造を確保した。
これにたいしナチスドイツの方式は案外にわ かっていない。 心酔して紹介するか, 他方ただ 侮蔑する文献が多く, 実態の追求はとぼしい。
なおイタリアについてはわたくしにその解説能 力がまったくない。 というのは, ものごとを多 少とも推察するには, たとえかなり時代が下が るにせよ, その地の工場, 職場をおとずれ, そ の慣行を観察することが欠かせない, とわたく しは考えるからである。 文書だけに頼った文献 では, いったいどんなことが実際におこってい るのか, よくわからないことが多い。 時代が違 っても職場の慣行を調べた経験があると, 案外 に類推しやすい。 その実例は以下ドイツを説明 する際にあげよう。
当時のドイツに関する日本文献は, 職場の慣 行をあまり知らずに字面だけでドイツ語文献を 日本語に訳すことが多いらしく, 案外に実情が わかってないようだ4)。 わたくしはおそろしく 時代は下がるが, 1970年代と80年代複数回にわ たり, わずかな事例ながらドイツ地元企業の職 場を尋ねベテランの話をじっくりと聞いたこと があり, そこからの類推がある。 他方イタリア は, 土地を踏んだことは複数回あっても, イタ リア労働経済学会の招待講演や日本大使館文化 センターの招きなどにすぎず, その職場を訪ね, 話を聞いたことは 2 , 3 にとどまるからである。
ドイツの労働戦線は当然ながら当時の日本文 献におどろくほどひんぱんにあらわれる。 日本 の経営や政府側にとどまらず, 研究者の文献も, また労働側の文献も大いにとりあげている。 な かでも大原社会問題研究所が精力的に, 批判を ふくみながら紹介をくりかえす。 大原社会問題 研究所は, いまは法政大学の 1 機関だが, もと もとは当時の大企業, 倉敷紡績のオーナー, 大 原孫三郎の出資による大阪での大きな研究所で ある。 大原は, ときの日本の主導産業, 紡績業
10大紡のむしろ下位の企業ながら, 女性労働者
の寄宿舎を大部屋方式から日本女子大寄宿舎風 の一軒家方式にかえるなど, 斬新な試みをした 経営者, いまにのこる倉敷西洋美術館の創始者 でもある。 かれが当時東大教授を辞任したばか りの高野岩三郎に声をかけ, 戦前日本産業の中 心地大阪にかなりの規模 (スタッフ 2 , 30人ほ どか) の研究所を設立した。
高野は国際労働機構ILOの労働者代表に政府 から任命されたが, 東大の教え子の労働組合リ
ーダーたちから反対された。 労働者代表は当然 に労働組合からだすべきもの, という正論であ った。 その意をくんで高野はILO代表のみなら ず東大教授も辞したのであった。 当時の東大教 授の地位はいまと違い, サラリーも他の職にく らべはるかに高く, それをきっぱりと辞するの はまことにいさぎよい行動であった。 その高野 を大原は招いた。 そして戦前いわゆる森戸事件, 不祥事ではなく書いた論文の責を堂々ととって 東大をおわれた森戸辰男をも研究所のスタッフ とする。 なお高野は敗戦後 NHK 初代の会長に おされ, 「労働組合の父」 といわれながら NHK の労働組合のきびしい争議に対応せざるを得な かった。 また社会党の後援者でもあった。 そし て森戸は戦後社会党右派 (いまの民主党の一 部) の領袖であり文部大臣をつとめ, のちなが らく郷里の広島大学の学長をつとめた。 いずれ も戦前最高の銘柄学歴, 一高卒であった。
高野はドイツにくわしい。 明治期東京帝国大 学の若手教員は国費で数年欧州に留学する。 高 野はドイツが留学先であった。 その地でドイツ 娘と結婚し日本に帰る。 その長女の夫が戦後マ ルクス経済学の泰斗, 宇野弘蔵であり, かれは 戦前東北大学に赴任するまで大原社会問題研究 所所員であった。 わたくしはかれの最晩年法政 の教員食堂で, 他者を明快に遠慮なく批判する, 気持ちのよい議論をよく聞いた。 おなじ倉敷出 身の山川均などにつき尋ねると, 率直な批判を 聞かしてくれた。 話をもどして, 高野は当然ド イツにくわしく, 東京大学をやめたあとも政府 から依頼されたりしてドイツに出張する。 森戸 はもと東京大学助教授 (いまの准教授), ドイツ 語にくわしい。 したがって大原社会問題研究所 はドイツの新思潮の紹介に熱心となる。
その一環としてドイツの労働戦線の文献を精 力的に翻訳出版し, 日本に紹介する。 そのひと つが森戸 [1941] である。 それは東京市役所
(いまの都) 職員への連続講演にもとづく。 し
かも当時の代表的な雑誌 「改造」 にのせた文章 を本にした。 そのころの産業報国会をめぐる議 論をうかがうによい文章と考える。
うかがうによいとは, なかなか微妙なことを 意味する。 微妙とは, 産業報国会の全否定では
もちろんない。 むしろ喧伝している。 ドイツの 労働戦線, したがって日本の産業報国会も, 営 利本位の資本主義への, 有意義な反対運動と強 調する。 「末期」 の資本主義を革新するもの, と位置づけている。 自由主義にもとづく資本主 義, いわゆる 「高度資本主義」 はいまや末期だ, と無秩序で個人的な相互競争の弊害を強調する。
それを革新する必要があり, その重要なひとつ の方向がドイツの労働戦線とみる。
革新の方向は森戸によれば 3 つある。 第 1 , 英米の 「民主主義」 であり, 「集団主義的」 な 労働秩序を重んじる。 第 2 , ドイツ, イタリア の 「全体主義」 であり, 経営共同体的秩序を重 視する。 第 3 はソ連の 「社会主義」 である。 こ の 3 者のなかでドイツの労働戦線は有効な方式
(p.26.) とみているのである。
この第 2 の方式に近い産業報国会はそれなり にひとつの方向であるといいながら, その危険 も森戸は指摘する。 それは 「上からの変革」 の つよさであり, 「ややもすれば官僚臭と資本家 的色彩のみが濃くなり・・・勤労大衆の離反を 招来する懸念なしとしない」 と記す (p.33.)。
労働者側の発言のとぼしさをいうのであった。
資本主義, 自由主義をチェックする機構として の意義をみとめながら, なおその前提条件がと とのわない, と指摘する。
それはなるほど適切な指摘であるにせよ, そ れでは労働者の発言をいかに確保するのか, そ の点の説明がまったくない。 当時の環境からす ればやむをえない言説であったのかもしれない。
こうした戦前の議論をふまえてナチスドイツの 行動をみていく。
「信任者会議」
ナチスドイツは 2 度の総選挙につづけて第一 党となり1933年政権をとった。 暴力でナチスは 勝ったのではない。 当時のドイツ庶民の多数は 暴力で脅されたわけではなく選挙でナチスに投 票したのである。 20-30%にものぼる膨大な失 業率をなんとかして下げたいもの, と庶民は期 待したのであろう。 ナチスが政権をとるや, 早々とドイツ労働組合を解散させたことは, も ちろんよくわかっている。 ナチス突撃隊が労働
組合の事務所を占拠し解散させたのである。 問 題はそのあとの労働者の発言をどのように確保 したか, あるいはしなかったか, である。
まず法律によってその機構を説明しよう。 た だし, そのまえに時期のずれを指摘しておかね ばならない。 というのは, ナチスドイツの労働 機構は戦争の直前あるいは直後のものではない。
ナチスが政権についたのは1933年だが, すぐに 戦争をはじめたわけではない。 第二次大戦の開 始とされるポーランド侵攻は1939年, そのまえ のチェコ併合をとっても1938年であって, ナチ スの労働組合解散の数年後となる。 ナチスは戦 争を始めるかなりまえに労働組合にかわる 「労 働戦線」 などの機構をつくっていたのであった。
ナチスがつくった労働機構は, 法律上はひと まずつぎのようである。 1934年国民労働秩序法
(ほとんど直訳, ときに国民労働統制法との訳
もある) を成立させ, それによって 「労働戦 線」 をつくった。 その施行令もふくめた法律面 の規定は, 労働者の発言の機構として 「信任者
会議Vertrauensrat」 を設けた。 ことばに即して
いえば 「頼りになる人たちの会合」 とでもいえ よう。 当時の日本語文献は多く 「信任者会議」
あるいは 「信任者委員会」 や 「信任者協議会」
などと訳しており, ここでも踏襲する。 もっと も訳すだけで, 当時の日本文献はその内実があ まりわかってないようだ。 いったいどんな機構 であったのか。
その理解には 「信任者」 すなわち 「頼りにな る人」 ということばが鍵になろう。 後代のドイ ツの職場では 「頼りになる人 Vertrauensman」
という言葉は職場委員をさす。 職場委員とは英 米の職場であれ (shop stewards) 現代日本の職 場であれ, 職場で働く数十人に一人の世話役で あって, もちろん非専従, つまり日々職場の仕 事をしながら, 職場の仲間のさまざまな問題, 苦情を聞き, それを最初に経営側と交渉する人 をいう。 労働者組織の草の根ともいうべきであ って, そうした人がいなければ職場の発言はど の国でも確保されない。
ただし, いまの職場委員よりもナチスの 「信 任者」 は, 法律上はやや人数が少ない。 人数は 国民労働秩序法に規定され, 20-49人規模の事
業所では 2 名, 50-99人規模では 3 名, 200-399 人規模では 5 人, あと300名を増すごとに 1 名, 上限は10名とされている。 1,000人規模で 7 人, 2,000人以上では10人と, 300名規模以上では, ほぼ現代の事業所従業員代表組織のメンバーな みの人数に近いであろうか。 以上は法律の規定 で, 実際はわからない。 その手がかりとして前 史をみよう。
1920年事業所協議会法
信任者会議には前史がある。 おそらくはながいド イツ社会の伝統があるようだが, れっきとした法律 では1920年の 「事業所協議会法 Betriebsratsgesetz」
である。 この法律は1919年制定のワイマール憲 法の規定にもとづく。 周知のようにワイマール 憲法とは, 第一次大戦敗戦時それまでの帝政を ひっくりかえし共和国をつくりあげたときのも のであり, 高い理想にもえていた。 そのワイマ ール憲法第165条は, 労働者, 職員は経営者と 同等の権利で共同して賃金と労働条件の規制な らびに生産性の向上に参加し, また, 労働者, 職員はかれらの社会的, 経済的利益をまもるた めに発言すべきであり, そのために 「事業所協議 会」 を設ける, と規定した (協調会 [1936] p.6.)。
この憲法の規定をうけて1920年の事業所協議 会法ができた。 この法律の事業所協議会という 機関の訳語につき一言しておきたい。 ふつう, この機関は 「経営協議会」 と訳される。 実態を よく承知している山田 [1989] ですら, あまり にその訳語が普及したためか, そう訳している。
だが, あえて注釈しておく。 そうしないと誤解の 損失が大きすぎるからである。 しばしば Betrieb を経営と字面だけで訳すが, この場合は事業所 以外のなにものでもない。 その点山田 [1989,
p.180] はきちんと本文で記しており, また正
確に事業所と訳しているのは, わたくしの知る かぎり吉森賢 [1982] である。 他は戦前戦後を とはず, 実態を別にして字面だけで訳している ようだ。
なお 「協議会」 という訳にもわたくしには多 少の異議がある。 もとのことば Rat とは, なる ほど人々があつまり協議する会合であり, 別に 異論をたてるまでないであろうが, わたくしの
知るこの機関は, 1970年代80年代はもちろん, おそらく当時も従業員代表者の組織あるいは会 合であって, 経営と協議する場ではない。 協議 会などと訳すと, 日本語では経営側と協議する 場のように誤解されかねない。
吉森 [1982] や山田 [1989] はそのことをよ く承知しているけれど, わかっていないかにみ える文献がはなはだ多いようだ。 実態をふまえ れば, 「事業所従業員代表組織」 と訳すのがも っとも素直と考える。 それゆえ以下わたくしは そう訳していく。 そう訳していかないと, 1920 年法の規定は理解できず, そしてその規定の内 容は1970年代80年代の実際にやや近い。
1920年の事業所協議会法はつぎのように規定 する。 まず第 1 条で規模20人以上の事業所は事 業所従業員代表者組織を設けるべし, と記す。
ナチスの機構はそれを踏襲している。 ただし罰 則はなく, どれほどこの規定が実際に普及して いたかはわからない。 そのおなじ第 1 条は働く 人の利益をまもり, かつ経営者の能率的な企業 運営を支持するため, という文言をつけくわえ ている。 第66条は経営者の能率的な企業運営へ の労働者の協力の必要をくりかえす。 すなわち 最高の生産性, あたらしい作業方法に貢献すべ し, とある。
そうした貢献を期待する以上, 労働者側の発 言を多少とも確保しようとする。 すなわち第84
-90条で解雇告知, また解雇への異議申立権を, この事業所従業員代表組織にみとめる。 さらに 一定の制約つきながら, 配置の際の異議申立件 もみとめる。 申立先は 「労働管理官」 である。
その説明は後にゆずる。
はるか時代は下がるが1952年の経営組織法に よる事業所代表者組織の権限は, この1920年の方 式をより強めながらなぞっている。 その意味で まさにドイツの伝統といってもよいのであろう。
1952年経営組織法
この点はあえて説明しておく必要がある。 そ うでないと, ナチスドイツのいわば仇花として みすごされようから。 第二次大戦敗戦直後焦土 のなか, ドイツでは法律がないにもかかわらず 自生的に事業所従業員代表者組織がぞくぞくと
うまれていた, とブルーメはいう (二神, オッ トー・ブルーメ [1975, p.116])。 それをドイツ の伝統にしたがい法律化したのが, いま EU で ヨーロッパの多国籍企業に適用される制度のも ととなっている。 すなわち1952年の経営組織法 Betriebsverfassungsgesetz (山田 [1989] は経営 体規則法と訳している) である。
この法律の核心はふたつある。 a. 役員会へ の従業員代表の参加と, b. 事業所従業員代表 組織である。 いまは後者bに話をしぼろう (a については小池 [1978] 参照)。 規模 5 人以上 の事業所には事業所従業員代表者組織をつくら ねばならない。 「ならない」 といっても罰則は ないから, 実際にどれほど普及したかは別であ る。 のちのドイツの調査では, 200人未満事業 所規模ではあまり普及していなかったようだ。
この事業所従業員代表組織とは, 従業員が選挙 で自分たちの代表を選び, その代表者の集まり をいう。 人数からいって職場委員の全部ではな く一部しか選ばれない。 ところがこの機関を日 本文献はほとんど 「経営協議会」 と訳してきた。
そして日本で経営協議会といえば, 経営側と経 営問題を話し合う機関のようにとられる。 ドイ ツの場合はけっしてそうではない。 その誤解を おそれる。
この法律はとり扱う事項を 3 つにわけ, それ ぞれ発言権を規定している。
第 1 , 「社会的事項」 であって, それは事業所 従業員代表組織の 「共同決定権」 を認める。 い まの日本のことばでいえば 「協議決定権」 であ る。 労働側がイエスといわないと企業側は実施 できないことをいう。 それほどつよい権限がお よぶ社会的事項とはどのようなものか。 社会的 事項とは直訳であって, 字面ではなんのことか わかるまい。 内容は 2 種ある。 ひとつはこまか い労働条件である。 労働時間が何時にはじまり 何時におわるか, などである。 労働時間の長さ そのものといった基本的な労働条件は, 労働組 合と企業との交渉によるのであって, 社会的事 項ではない。 他はまさに福利厚生である。 社宅 の割当てなどである。 つまり重要な労働条件に は共同決定権がない。
第 2 , 「人事事項」 である。 従業員の採用, 配
転, 解雇であり, きわめて重要な労働条件であ る。 ただし, これにたいしては 「協議権」 のみ であって, 労働側の承諾がなくとも経営側は実 施できる。 労働側は不服なら法律上は労働裁判 所, すなわち調停にかけることができる。 日本な ら機能上は地方労働委員会にあたるだろうか。
第 3 , 「経済事項」 である。 企業の経営事項, 生産や投資計画などであって, 事業所従業員代 表組織はその説明をもとめることができる。 そ してそれにとどまる。 とはいえ企業への影響は 大きい。 企業が投資しようとするとき, 法律上 は最高経営機関である 「監査役会」 の株主側は むしろ消極的なのに, 従業員代表が大いに経営 陣をバックアップした, という指摘がドイツ文 献に多い。 雇用を重視する長期勤続の従業員で あれば, 当然の行動であろう。
こうして案外に1952年時点でも事業所従業員 組織の発言権は, 法律上はつよくない。 実際は, 当時のドイツのいくつかの調査や, またわたく しも少ないながらドイツ地元企業の職場で聞き とりした結果からいえば, ほとんど法律ないし それ以上の慣行を形成していた (小池 [1978])。
後年からみれば1920年事業所協議会法は, 規定 としては弱くても, かなり現代の礎をきづいて いたのであった。
ナチスの発言機構
話がもどるが, 1920年の事業所協議会法とい う前史のうえに, ナチスドイツは1934年国民労 働秩序法によって, 事業所従業員代表組織にか え 「信任者会議」 を設けたのであった。 規定上 は多少とも1920年法をひきついだか, とおもわ れる。 信任者とは従業員代表である。 従業員と は 「労働者」 と 「職員 Angestellte」 (戦前の日 本文献は 「使用人」 と訳すばあいが多い) であ る。 労働者とは現代日本でいえば生産労働者に あたり, 「職員」 とはいまの日本でいえば大卒ホ ワイトカラー層にあたるだろう。 その点ではま さにひき継いでいる。 ただし現代ドイツの管理 職員層 (leitende Angestellte ほぼ課長クラス以上 層にあたろうか) も含むかどうかはわからない。
違う点は, その会議が工場長を議長とする点 である。 つまり信任者会議には信任者にくわえ,
事業所の長すなわち工場長もはいる。 その信任 者会議を招集するのは工場長である, と規定は 明記する。 この点でワイマール時代とも, また 第二次大戦後とも異なる。 労資をひとつの 「共
同体 Gemeinschaft」 とみるのがナチスの方針で
あった。 こうなると事業所協議会というに一見 近くなろう。
その信任者に, どのような人を選んだか, す なわちその選抜もひきついだかどうか。 その点 ナチスはすくなからず前史とは異なるようにお もえる。 というのは, 従業員によるふつうの投 票ではない。 なるほど投票方式をナチスも詳細 に明記している (国民労働秩序法第二施行令)。
しかし, それは提示された名簿についての賛否 の投票にとどまる。 その名簿をつくるのは工場 長なのである。 しかも事業所ごとに存在するナ チスの事業所細胞の同意を得て, 工場長が作成 する。 このナチス事業所細胞のことがよくわか らないので, どれほど従業員の意見を反映した 信任者名簿かどうかは不詳である。 法律上の規 定では, もしその候補者名簿に従業員が同意し ないときは, 「労働管理官」 が信任者を任命す る。 だが, 実際はまったくわからない。
労働管理官とは, 法律の規定では国 (いまで いえば連邦政府) の公務員であって, 日本でい えば中央労働委員会や地方労働委員会にでもあ たる機関であろうか。 州ごとにまたおおまかな 産業ごとに設ける, と法律は規定する。
「信任者会議」 の機能面はどうか。 法律では, a. 労働条件を規定する 「事業所規則」 への発 言が認められている。 事業所規則とはいまの日 本でいえば就業規則にあたるものであろうか。
労働時間, 報酬, その他こまかい労働条件を規 定する。 それをきめるのは国民労働秩序法では 工場長である。 その内容につき信任者会議が討 議し, 多数が不満であれば, 労働管理官に提訴 できる。 また, 具体的な労働条件に職場から苦 情がでたとき, それを信任者会議が討議し, 出 席者の過半数がみとめると, 労働管理官に提訴 でき, 管理官が調停する。 つまり職場の労働者 のさまざまな問題が, 職場の従業員代表を通じ, 法律上その調停者にあがる (菊池春雄 [1941], 協調会 [1936])。
ただし以上は法律の規定にすぎず, その実際 は当時の文献では, さっぱりわからない。 この 信任者会議がどれほど普及していたか。 またそ の従業員側の代表者がどれほど実質的に従業員 の選挙でえらばれたか, そしてそれがどれほど 苦情なりを提訴できたか。 その調停者である労 働管理官とはどのような人で, その人たちがど れほど労働者の苦情を実際にとりあげていたか。
こうした肝心のことはわからない。
だが, 1990年代にはいると, 重工業大企業の 当時の実状を立ち入って調べた研究があらわれ る。 それによると, 法律上の規定よりは労働者 の発言は多少つよかったようだ。 たとえば信任 者の選挙では, なるほど施行規則どおり工場長 とナチス細胞が候補者名簿をつくったが, 職場 の人の信頼を失うのをおそれ, 人望のある人,
「かつての闘士」 かつての職場委員を名簿の上 位においた。 そうした信任者会議が多かった, という (Frese 「1991」 pp.177, 78, 194.)。 日本 の産業報国会をみる際の重要な視点が示唆され よう。
6 . 3 . 産業報国会をめぐる議論
国内視点 ― 企業別組合との連続性?
うえにみたドイツの流れからいえば, 最大の 視点は職場の労働者の発言がどのていど確保さ れたか否かにあろう。 ところがこれまでの日本 の産業報国会についての議論は, ひとつの見解 をのぞき, まったく国内視点に埋没し, うえの 視点を見失っていた。
国内視点とは, 日本の企業別労働組合の起源 論争に終始したことにほかならない。 西欧や米 は産業別で横断的な労働組合なのに, 日本のみ 企業別組合, はるかに遅れた特異な組織という 認識である。 その特異な組織の起源が戦時中の 産業報国会の遺産であったのではないか, とい う論点である。 そもそも企業別組合はきわめて 特異な組合というつよい意識があったのだから, 国際視点がないのも無理はない。
だが, 日本の労働組合はけっして特異ではな い。 日本も産業別組合がほとんどの企業別組合
の上部にあり, 他国もまた産業別組合の基礎組 織は企業や事業所レベルの組合なのであった。
たんにひとびとが日本の産業別組合を弱くみす ぎ, また他国の人も自国の企業や事業所別の労 働 者 組 織 を 軽 視 し て い る に す ぎ な い (小 池
[2005] 第11章, また小池 [2009] 第 5 章参照)。
この議論の主唱者は, 産業報国会を推進した 協調会が信奉していた同時代の理論家たちであ った。 表向きは日本主義者の東大教授難波田春 夫などが中心とされたが, 実際の推進者が信奉 した理論家は大河内一男であった。 そのかれが 企業別組合連続説の主唱者であった。
大河内が産業報国会について直截な文章を公 にするのはおそらくは敗戦後であろうが, さま ざまな文書が物語るかれの行動は, 歴然と産業 報国会を支持していた。 その一, 二をあげてお けば, まず松岡駒吉関係の文書では, 産業報国 会の結成時, またその後も, 松岡に産報に参加 するよう複数回熱心に慫慂した, との話が伝わ っている (中村 [1963] p.263)。 それはまこと にありそうなことだ。 また, のちにも引用する 桜林 [1985] によれば, 産業報国会の主要な講 師であり, 警察や軍部がかれを外すようにつよ く反対したにもかかわらず, 産業報国会はその中 心講師として大河内にあくまで依頼した (p.i)。
さもありなん, とおもう。 戦後公にされた文 章によれば, 大河内はあの産業報国会こそが戦 後の企業別組合の母体となった, と連続説を鮮 明に主張している (大河内 「1972」)。 そしてか れの 「生産力理論」 からすれば, 労働者の 「順 当な再生産」 なくして戦争遂行能力は維持でき ず, その役割の一翼を産業報国会が担った, と みる。 その生産力理論は当時の労働組合の多く, とりわけ左翼右翼とは別の中間派の信奉すると ころであった。
戦時体制は, 順当に軍需生産をおこなうため に, 一方で労働者の発言を抑えようとする。 ス トライキがあっては困るからである。 他方, 抑 えるばかりでは生産力をよわめる。 労働者の生 産への協力が得られないからである。 労働者の 発言を認めざるをえない。 それを認識するのが 大河内のいう 「総資本の理性」 である。
この抽象的な概念を体現するものの一翼が産
業報国会であった。 そのゆえに, 日本のほとん どの事業所に急速に普及し, それが敗戦直後急 速に広がった日本の企業別組合, ホワイトカラ ーも入った労働組合の基礎となる, という立論 となる。 もしこの論理が妥当ならば, どの国も 企業別組合となるはずであろう。 なぜなら 「総 資本の理性」 はどの国にも通用する一般理論で あるはずだから。
なにも大河内だけではない。 左翼もふくめた, 他の名だたる労働問題研究者も産業報国会をと りあげ, ナチスを範として労働者の発言をもっ と 強 め る よ う 主 張 し た (服 部 英 太 郎 「1941,
42」)。 ただし, ナチスを範とするのは, その主
張を発表できるようにするための口実, と戦後 弁明されることが多かった。 これにたいし大河 内はわたくしの知るかぎり, そうした弁明を一 切していない。
この大河内の連続説にたいし, 大河内ゼミ参 加者の桜林 [1985] は, 大河内理論そのものは 大いに評価しながら, 真っ向から反論する。 桜 林 [1985] はわかりにくい文章ながら, 大河内 の論点をいちいち否定する。 産業報国会は, 初 期はともかく後期には, ほとんど労働者の発言 の機会がなかったし, 戦後の急速な労働組合の 発展はむしろ日本の集団主義, すなわち体制順 応主義の発露にすぎず, そのゆえに労働組合の 急速な後退も当然に説明できる, と主張した。
産業報国会にたいするごくふつうの見解の一例 として, ここに紹介した。
その見解は, しかし, わたくしからみれば, あまりにステレオタイプの日本論にもとづくか におもわれる。 後退といいながら, 後退したそ の組織率のレベルは当時35%前後であり, 西欧 先進国の労働組合の組織率そのものに近いので はないだろうか。 むしろ50%という敗戦直後の 異常な高さから常態にもどった, というべきで はないか。 どうして後退といえるのであろうか。
すなわち他国の状況を無視し国内視野に終始し た議論とおもわれる。 労働組合の基礎組織とし て事業所や企業ごとの組織をおき, そのうえに 産業別組織があるのは, 日本でも西欧, 米でも かわらない傾向ではないだろうか。 他国を理想 化し過大評価するひとつの例と考える。
わたくしも大河内ゼミの参加者であり, 先生 の学識, 人格を高く評価し尊敬している。 戦時 先生がいつ逮捕されるかわからぬ情勢を, 戦時 の学部ゼミ参加者からくりかえし聞いている。
セミナーが休講になると, 逮捕を心配して参加 者が先生の自宅まで確かめにいった, という話 をたびたび聞かされた。 逮捕された学生の受け だしに奔走されたことも聞いている。 戦後もか わらず, ある時期勢威をほこった共産党系であ れ, その反対派であれ, 誠実にその議論に対応 した人柄をこころから尊敬する。 また明晰な主 張を高く評価する。 にもかかわらず, その視点が 他国の過大評価にあって, 日本の過小評価になっ た点だけは, それが当時の日本知識人に共通した ものであったけれど, わたくしは賛同できない。
産業報国会とは
だが, 産業報国会にたいする残るひとつの見 解は, グローバルな視点をもっていた。 しかも なお, わたくしはそれに付言したい微妙な点が ある。 その微妙な点を説明するには, いまの方 にはわかりにくい産業報国会そのものを, やや 立ちいって説明しておかねばなるまい。
産業報国会とは1937年以降すなわち日中戦争 の開始以来, 日本のほとんどの産業, 企業, 事 業所に広がった一大運動であった。 一年半もた たないうちに全国の中規模以上の企業, 事業所 の大半に産業報国会ができた。 それというのも, 多くの日本の労働組合が組織を解散し, なだれ をうって参加したからであった。 とりわけ左翼 系の組合, といっても, もっとも急進的な左翼 はすでに壊滅しており, 残るなかでやや 「左 翼」 あるいは 「中間派」 とみられたグループほ ど, とくに帝大卒 (いまでいえば東大京大卒の こと5)) をリーダーとする労働組合がみずから 解散し, それに積極的に参加していった。
産業報国会とは具体的にいえば, 企業ごと, 事業所ごとの, 経営者と従業員を 「一体」 とし 社長を会長とする組織であって, 労働組合を排 除した。 ナチスドイツの労働戦線を範とする組 織とみてもよい。 さらに具体的にその内実は, 機能からみていくとわかりやすい。 どうやらそ の機能はふたつのタイプ, あるいは時期にわけ
ることができる。
第 1 のタイプあるいは初期の段階では, 従業 員の発言を確保しようとした。 「労資使懇談会」
をつくり, 従業員代表を選挙で選ぶ方式を推奨 した。 それを推進したのは内務省社会局のスタ ッフ, のちの厚生省そして警察のスタッフ, ま たその密接な外郭団体ともいうべき 「協調会」
であった。 戦争に負けないためには争議をさけ 労働者の協力が必要, との考えがそこにある。
ドイツの機構をすくなくとも字面で理解し, そ れを推進しようとした。 なお警察がむしろ労働 者側の発言を擁護したということに疑問をもた れる方も多かろう。 警察は弾圧者ではないか, との先入主がつよかろう。 だが, 実際の争議に 調停者として立ち入らざるをえず, その実情を もっともよく知るのは警察であった。 その過程 で労働者の発言の重要性を認識してきた, とわ たくしはみている。 その点, 三輪泰史 [1978]
というすばらしい事例研究がある。
だが, 経営側の反対にあう。 従業員代表を選 挙でえらび労資懇談会をもうけるとは, それだ け経営側の行動を掣肘することになる, そう考 える企業が多かった。 まず大企業では, すでに その従業員代表が参加する事業所内コミュニケ ーション機構, すなわち 「工場委員会」 がかな り普及していた。 あえて報国会として職員層ま でも一体とした組織をつくる必要があるのか, と考えた。 しかも企業の営利を制限する 「革新 官僚」 などの考えが高まり, 企業経営への掣肘 がみられるようになってきた。 営利中心では戦 争は戦えない, 営利を制限しなくては, という 統制経済である。 それへの反発がある。 他方, まだ 「工場委員会」 という協議機関がなかった 中小企業では, 「労資懇談会」 というかたちの 労働者組織をわざわざ造ることに反対した。 そ れが経営を制約すると考えた。
その結果, 第二のタイプがでてくる。 それは 労使を一体とする産業報国会を 1 種の精神修養 団体におしこめてしまい, 従業員の発言する機 構を設けない方式であった。 そしてどうやら後 者がしだいに主流になっていった。 以上の実態 は, 当時の日本の産業報国会につき立ちいった 萩原 [1979, 1983] による。 だが, さらに問題
は広がる。
萩原の議論
他方, 国際視点をふまえたほとんど唯一の見 解が萩原の議論である。 それは労働者の発言を 重視しながら, 他国の動向を踏まえ, 一段と視 野 を 広げ た枠 組を 展 開 す る 。 とり わ け 萩原
[1983] は産業社会のもっともむつかしい枠組,
労使関係につき, つぎのふたつのモデルを提示 する。 ひとつはa1. 「団体交渉」 であって, 労 資は基本的に利害が対立する, との考えがその 基底にある。 その典型は現代の英や米などであ る。 他はb1. 「労資協議制」 であって, 事業所 レベルでの労資のフォーマルなコミュニケーシ ョンをはかり, 協調的な面を強調する。 そのめ ざましい例は1920年代の米であり, かの福祉資
本主義Welfare capitalismである。 従業員組織を
つくり, 事業所レベルでのコミュニケーション をはかり, 企業福祉を増進した。 ただし, 極度 にきびしい大恐慌の環境下, 多くが敵対的な労 使関係にその後転換した。 米につきその点を解 明した, Moriguchi 「2005」 というすばらしい研 究がある。
日本は1931年までa1 の途を内務省社会局が 描いてきた, とみる。 だが, 敗戦後の東大総長, 若き日の内務官僚, 南原繁が力をこめてつくっ た労働組合法案が議会をとおらなかった。 企業 人がつよく反対したからである。 反対の根拠に, 株主と労働者の間を調停することに使命をみい だす企業人のエートスがあった, と萩原はみて いる。 Aoki 「1988」 風の経営者像でもある。
そこで内務省社会局のエリートは, 1930年代 なかば以降別の道を探す。 b1 の道である。 そ の具現が前期の産業報国会であった。 労資懇談 会と従業員代表の公選制を推奨するのであった。
だが, すでに記したように, 日本の巨大企業中 心に労資の事業所内コミュニケーション機関が あった。 第 3 章でもふれた 「工場委員会」 であ る。 しかもさきにふれたように, しだいに営利 を敵視する傾向が官僚中心にでてくる。 統制経 済の考えである。 企業行動への制限がくわわる。
産業報国会にたいし大企業は面従腹背であった。
さらに, 大半の中小企業にとって, そもそも労
資懇談会をもうけ労働者の発言をみとめるのは, はなはだ面倒なことであった。
その結果, あらたに方式cが広がる。 すなわ ち一種の精神修養団としての産業報国会であっ て, 労働者が待遇にたいしても発言できなくな る方式であった。 それが一時的にでもつづいた のは, 大戦という非常時, 職場の同僚が応召さ れ戦場におもむく姿をみてのことであろう, と 萩原 [1983] は推測する。
協力的な団体交渉の可能性
以上の議論の大筋にたいし, わたくしはほと んど異論がない。 ただひとつ, ささやかな論点 がのこっている。 それはやや異なった方式ない し枠組の提示である。 すなわち 「a2 協力的な 団体交渉」, あるいは 「b2 団体交渉をふくむ労 使協議制」 といってもよい。 この両者は同義と わたくしは考えている。
萩原のb1 方式は事業所内にとどまるのか, それとも企業をこえて産業や上部団体へ広がる のか, その点が不分明である。 というより, ど ちらかといえば, 企業内にとどまる, とみるよ うだ。 だが, わたくしは, 協調的でありながら 事業所や企業の枠をこえる労働組合上部組織に つながるタイプがある, と考える。 その具体例 のひとつが戦前の総同盟であり, また1960年代 なかば以降の日本の労働組合ではないだろうか。
総同盟はその先駆者としての働きを, あのもっ ともきびしい時代に切り開いた。 かの製綱労働 組合はきちんと団体交渉しながら, 企業をこえ た上部団体をもち, かつ生産にも協力する。 そ の姿勢を鮮明にしめしていた。 ふつうの議論は, 上部団体が絵に描いたような産業別組織でない がゆえに, 日本の遅れときめつけた。 だが, 絵 に描いたような産業別組織, 下に企業や工場ご とに組織をもたない組合は, 大工のようなクラ フトユニオンは別として, わたくしの知るかぎ り, どこにもない。 そして現代最大のクラフト ユニオン, 職能別組合はまさに日本の全建総連, 大工の組合なのである。
a2 「協力的な団体交渉」 モデル, あるいは b2 「団体交渉を含む労使協議制」 モデルにつ いては, 終章で短いながら展開を試みる。
総同盟の最後の抵抗
ここに総同盟松岡の, 最後まで組合解散に抵 抗した行動の意義がありはしないか。 あえて考 えられるひとつの仮説は, 労働者の発言を無視 した国は総力戦に勝てない, ということである。
総力戦になんとか生き残るには, それなりに職 場の労働者, それも技能のある中堅層の発言を 重んじるシステムでないと無理であろう。
その点につき第二次大戦は, はらった犠牲は 大きすぎるけれど, ひとつの傍証をしめしたの ではないだろうか。 ふつう第二次大戦の帰趨を もてる物量のみで判断する。 だが, たんなる物 量のみによる考察では, 早い話がその後のベト ナム戦争や朝鮮戦争の帰趨は説明できまい。 米 が負けるはずがなくなる。 その難問をゲリラ戦 争というモデルで解こうとするのが一般的だが, すくなくとも中国参戦以後の朝鮮戦争, またダ ナンの攻防戦以後のベトナム戦争などはとても 解けるものではない。 それらはともに正面切っ た戦争でなかったか。
この仮説はもっと広く適用できよう。 戦場で もビジネスでも中堅層の発言が重要になる, と いう仮説である。 この仮説が妥当ならば, 今後 の日本にとっても職場の中堅層の発言はまこと に重大であろう。
そうした目で見直すと, 発言の母体にならない 産業報国会の意味, そしてなによりも職場の発言 の母体として労働組合の解散に最後まで反対し ていた総同盟の意義が鮮明になろう。 総同盟を 解散においこんでは総力戦には勝てない, たとえ その他の条件が同じでも, という含意になる。 厚 い中堅層の形成と活用は, まさに戦時平時をとは ず競争力の基底ともいうべき意味があろう。
6 . 4 . 出征兵士への手当
国からの報酬
なお労働者組織の役割として, きわめて注目 すべき問題点がのこっている。 それは戦場へ赴 く兵士と残された家族への手当を, どれほど労 働組合が企業に要求し獲得しているか, である。
その理由を説明しておく。 いまの方にはわかり
にくいであろうから。
戦前日本は周知のように徴兵であった。 徴兵 とは志願兵と違い, 税金とならぶ国民の 2 大義 務のひとつであり, 逃れることはできなかった (仮病をつかって逃れた高学歴者の卑怯な例も あるようだが)。 徴兵には 「現役」 と 「応召」
の別があった。 現役とは数え年で21歳, 今風に いえば20歳のとき男性全員に徴兵検査があった。
知識検査と体格検査である。 心身ともに健全な 男性を選び, 2 - 3 年間 (規定では 2 年, ときに 3 年に延長) 現役兵として兵営に入れ訓練した。
「入営」 という。
今日では韓国の兵役をみるとわかりやすかろ う。 韓国のプレイヤーがサッカーのワールドカ ップやオリンピックで, 徴兵免除をもとめていか に奮闘することか。 徴兵の重みが推察できよう。
なお, 日本で平和の国の象徴とされるスウエーデ ンも徴兵の国であり, わたくしが短期ながら勤め た研究所の男性も, そのほとんどは兵役をつとめ 銃を打った経験があった。 ただし, 戦前日本で現 役として徴兵された割合はまさに需給関係によ るのであり, 戦時ではきわめて高く, 平時では低 かった。 なお韓国ではその割合はいまなおきわ めて高いようだ。 南北対立のゆえであろうか。
戦前日本の現役兵は 2 - 3 年間仕事からまる まる離れる。 その間賃金が払われない。 その期 間の本人の生活費は軍が衣食住をふくめ負担す る。 小遣いていどのサラリーが国家から兵士に 払われた。 いま1941年時点での数値をしめせば
(米陸軍 「日本陸軍便覧」 p.17.), 兵士への賃金
額はほぼつぎの表となる。
表 6-1 戦時の兵士への国家からの給与 月額基本給
(円) 戦時加俸をふくめた合計額 伍 長 20.00 40.00
兵 長 13.50 27.00 上等兵 10.50 21.00
一等兵 9.00 18.00
二等兵 6-9.00 14.00 (基本給を中間の7.00として算出) 注: 当時は物価上昇に応じた加俸があった。 それ は勤務地などによって基本給の80-100%と いわれ, 表では100%のばあいをしめした。
出所: 米陸軍省編, 菅原完訳 「日本陸軍便覧」
1998, 光人社, p.17.
うえの金額は当時の製造業男性賃金平均額月
80円からみればはるかに少なく, かりにベテラ
ン兵士の兵長としてもその 3 分の 1 , 現役兵で あれば多分上等兵として 4 分の 1 となる。 兵士 でも小遣いは必要であろうし, 若いから扶養家 族がないばあいが多いにしても, 親兄弟という 扶養家族を抱えるなら, のこりを仕送りしても, とうていそのくらしを支える金額ではない。 な お当時の平均賃金額は, 戦後の記念碑的な一橋 大学経済研究所チームの業績 「長期経済統計 物価」 (製造業平均賃金, B系列, p.108) にもと づく。
まして 「応召」 となれば事情は一層きびしい。
応召とはa. 現役後, 職場で働いていても戦時 となれば, 召集され職場から戦場にむかう。 b.
さらに戦争がきびしくなれば, 現役として入営 経験がなくとも 「補充兵」 などとして戦場にむ かう。 第二次大戦末期にはその年齢層は40歳代 にまでおよんだ。
応召兵は, 年齢層からいっても支えるべき扶 養家族が少なくない。 そして現役であれ応召で あれ, 戦場に赴く人ほど心身ともに健康で, 当 然に職場では中心の働き手であった。 わたくし の少年時, 生家の繊維中小企業では, 五体健全 な男性はもれなく応召となった。 のこるは身体 障害者ばかりであった。 応召された人の暮らし をいかに支えるか。 それこそが労働組合のまさ に直面する大問題なのであった。
企業からの手当
総同盟はいちはやくその問題をとりあげ, す でに満州事変直後の1932年の組合大会で 「出征 兵士, 家族の生活保障」 を決議した。 他の組合 もひとまず同様な決議をした。 問題はもちろん 決議ですまない。 それをどれほど実行できたか に あ る 。 さ い わ い内 務 省 社 会 局 「 昭 和 7 年
(1932年) 労働運動年報」 (刊行は1933年, 以下
同様) は, 大阪府の調査結果を記している。 調 査時点は1933年 3 月, つまりほぼ満州事変, 第 一次上海事変当時の日本企業の対応を知る時期 といえよう。 それは68事業所の対応の摘要であ って, 表 6-2 にまとめてみた。 なお事業所規 模200人以上の事例だが, 名前からすればほぼ
大企業中心で一部中企業とおもわれる。
また日中戦争開始時の1937年時点では, 総同 盟機関誌 「労働」 が32企業への調査, また 8 組 合からの回答を記載し, 結局40事例がわかる。
その回答もあわせ記載した。 なお, いずれの時 点も組合の事例数をかっこ内に記した。 1933年 時点の組合の事例数の算出方法はのちに記す。
表 6-2 出征兵士への企業からの手当
― 1933年, 大阪府調査, 1937年総同盟調査
1933年大阪府調査 1937年総同盟調査
事例数 % 事例 %
出征の全期間への支払い 36 (6) 52.9 28 70
全額 19 (4) 27.9 8 (1) 20
ほぼ2/3 3 (1) 10 (2)
ほぼ半額 12 (1) 8 (1)
ほぼ1/3 2 2 (1)
ある期間までの支払い 18 26.5 10 25
一年ほど 2 3 (2)
半年ほど 1 4 (1)
3ヶ月ほど 4 (1) 2
一ヶ月ほど 11 (1) 1
一時金 7 (2) 10.3 1
以上小計 61 89.7 39 95
なし 3 1
未定 4
小計 7 10.3
計 68 (10) 100 40 100
注: かっこ内は総同盟加盟組合の事例数, 内数である。 総同盟加盟組合の事例の算出方法は本 文参照。
出所:1933年時点は内務省 「昭和 7 年 (1932年) 労働運動年報」, pp.329-335。
1937年時点は総同盟機関誌 「労働」 1937年 8 月 1 日号, および 9 月 1 日号。
注記しておくべきことは少なくない。 出征全 期間の支払いといっても, 独身者か, 妻ありか, さらに扶養家族の人数などによって, 当然なが ら数値の異なる事例が少なくない。 また, ある 期間までの支払といっても, 全額か半額かなど 金額の違いもある。 ここでは妻帯者のばあいを 中心におおまかな傾向を記した。 ただし 「全期 間全額」 の事例は, 扶養家族の有無にかかわり なくまさに全額であった。
2 時点を比較すると, すでに1933年時点すな わち満州事変や第一次上海事変のときに, 大方 の支払基準ができているかにみえる。 1937年の 日中戦争時点では, なるほどすこしはよくなっ ているが, 満州事変時点と大差はないようだ。
両時点を通じ, ほとんどの事例でなんらかの手
当の支払があった, とみてよかろう。
総同盟の働き
ただし, うえの数値が総同盟の活動によるも のかどうかは, かならずしも明らかではない。
1937年の39事例中 8 事例 (うちひとつが会社側
から資料を得たばあいと重複している) はまさ に総同盟加盟組合のある企業であるけれど, 他 はわからない。 組合の事例数はかっこ内にしめ した。 事例数がすくなくはっきりしたことはい えないが, 待遇のよい事例は会社側資料のほう が多く, 他方, 組合側の事例では待遇のよくな い部分がない。 つまり待遇のよい部分はおそら くは大企業中心であって, 総同盟の組合がなく とも, 規模の効果によった, とおもわれる。 他
方, 組合効果としては, 待遇の下限を引き上げ ている, ということであろうか。
1933年時点について, つぎの方法で多少とも
接近してみた。 総同盟加盟組合の個別事業所名 はふつうの資料ではなかなかわからない。 内務 省 「労働運動年報」 や 「社会運動の状況」 でも, 組合名しか記されていない。 そしていまと違い, 総同盟の組合名は個別企業や事業所名よりも地 域や業種を冠していることが多く, 企業や事業 所名を察知しにくい。 さいわい大原社会問題研 究所 「日本労働運動年鑑」 はその労働組合が組 織している事業所名を 「関係主要工場」 として 記している。 組織している事業所のすべてをし めしているかどうか心もとないけれど, ともか くもそれを使う。 そうすると1933年 「労働運動 年報」 記載の68事例のうち, おそらく10事例に 総同盟加盟組合があることがわかる。 その数値 をカッコ内に記した。 内数である。 それをさき の表に併記した。
そこから示唆されるのは, 1937年時点の傾向 とは違い, かなりよい条件を得ている事例に総 同盟の組合があることだ。 多分大企業も一部組 織した総同盟関西同盟会の力をしめすのであろ う。 1932年現在関東同盟会組合員15,159人に対 し, 関西労働同盟会は15,509人, 差はわずかと はいえ, 関西が多い。 そして1937年には関東 28,229人に対し関西は37,269人と圧倒する (人 数は内務省社会局 「労働運動年報」 による)。
いまと違い, 戦前日本では関西こそが産業の中 心地であった。
この点からあえて推論すれば, 総同盟は当時 のほぼ日本の大企業の相場をすくなからず中企 業にも広げた, とみることができよう。 また一 時金にとどまるなどやや劣る事例も, 総同盟加 盟組合にみられる。 それは中小規模を組織する 総同盟の傾向を反映しよう。 それでも 「待遇な し」 あるいは 「未定」 はない。 総同盟があれば, なんらかの手当を獲得している, とみることが できる。
とはいえ, これらは基本的には大企業と, せ いぜい中企業までの数値にすぎない。 当時の日 本の大半をしめる中小企業ではどうであったの か。 それがわからない。 世に 「識者」 の戦争糾
弾の声はかまびすしい。 しかし, こうした基本 的な数値にはまったくふれない。 首をかしげざ るをえない。
この総同盟の行動は当時の他の組合とくらべ ると, なお鮮明になろう。 当時の巨大企業でも 官業では, あまりそうした条件を確保していな い。 それは軍の工場では徴兵免除の傾向がつよ かったから, とおもわれる。 戦争遂行に枢要な 兵器をつくる有能な労働者は, 徴兵されない確 率が高いのだ。 また出征兵士やその家族への扶 助支援は, 左翼もふくめ他の組合もスローガン としては掲げた。 だが, はたして総同盟ほど熱心 にその獲得に挺身したかどうか。 はなはだあや しい。 一般に団体交渉を軽視している組合がこ うした条件をはたして獲得できるものかどうか。
なおのこる問題がある。 それは, こうした重 要な問題の処理を, 日本は他国とくらべ働く人 にとくに不利に処理したかどうか, それを知り たい。 しかし, 英米や独伊などの当時の戦争参 加国がいかに処理したかは, 非力なわたくしに はいまのところ資料も探しだせない。 そうした ことを記した文献を残念ながら知らない。 ご存 知の方にぜひとも教えてもらいたい。 こうした 資料こそが戦争に対することばだけの 「糾弾」
などよりも, はるかに働く人たちを大切にした かどうか, それを知る枢要な手がかりではない だろうか。
6 . 5 . 組合の解散
満州事変
うえに記したように, 日中戦争とともに日本 の労働組合は解散し, 産業報国会にのまれてし まう。 その流れの前兆は1931年, いまの中国東 北地方での戦争, いわゆる満州事変のときであ った。 といっても, 教科書では侵略戦争の一言 で片付けられ, さっぱり内容の説明がないであ ろうから, ごく簡単にでもふれておこう。 さき にも記したように, およそ戦争の一方が侵略と よばれない戦争はまずなく, したがって侵略戦 争というだけでは, なにも説明したことになら ないからである。