グスタフ・ラートブルフ『法哲学綱要』(1914年)(
二・完)
著者 上田 健二
雑誌名 同志社法學
巻 61
号 6
ページ 1‑137
発行年 2010‑01‑31
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012097
グスタフ・ラートブルフ『法哲学綱要』(1914年)(二・完)③法の目的 1
(2116)
グスタフ・ラートブルフ『法哲学綱要』
(1914年) (二・完)③法の目的
上 田 健 二 (訳)
法の目的
問題の提起[82]。法と国家は同じ対象の異なる考察の仕方にすぎない[83]。解答 の方法[84]。
諸価値の体系[84]。実際に善、真理および美は絶対的な、すなわち独特の価値で のみ0 0あるのか[84]、またそれらは実際にすべてが0 0 0 0絶対的、すなわち最高の価値を意 味しているのか[87]。諸価値の君主国家的位階の必然性[87](文化の概念[87])、
けれどもそれらの価値特性は破壊されることはない[91]。最高の価値とみなされる のが人格性諸価値(倫理)か、共同体諸価値(法と国家)か、作品的諸価値(真理と 美)かに応じた法の価値体系における三つの可能な態度[94]。これに従えば法の目 的は:自由もしくは権力もしくは文化である[95]。政党の分類との関連:自由主義 と民主主義、保守主義、教権主義(中世の共同体の理想)[95]。法哲学と政党理論[96]。
最初の ₂ つの立場:人格主義と超人格主義[97];この法哲学上の対立は個人主義 と社会主義との経済上のアンチテーゼと一致していない[97]。人格主義は幸福主義 ではない[99]。法は倫理の可能性0 0 0しか根拠づけないが、しかしこれとともに不倫理0 0 0 の可能性をも根拠づける;法は、一方で倫理を可能にするが、しかし他方でその行動 領域を限定する[100];このことは自由競争を、決闘を、戦争を、無政府状態を根拠 づける[101]。超人格主義のパトス[102]。この ₂ つの見方の方法論的構造[103]。
₂ つの法観の具象化としての有機体と契約[104];有機体としての国家[104]。契 約説[106]。その歴史的な意義ではなく、合理的な意義[107]。根拠のない諸々の異 論:実定法上の契約形式の自然法的絶対化[107];無政府主義的な諸帰結[108]。死 刑は契約説と調和することができるか[109];ベッカリア[110]、ルソー[110]、カ ント[111];帰結:問題の否認[112];人格主義と生死に関する国家の権利[113]。
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契約説の豊饒性[114]。契約説による人格主義の人格性概念の展開:経験的な人格性 ではなく、倫理的な人格性でもなく[115]、むしろ倫理的な人格性になるための経験 的な人格性の人格化された能力である:自由[116](法の共同体を破壊する諸々の作 用[116])。自由とともに平等が必然的に定立されるのであり、それゆえに人格主義 の個人は全く個性を欠いている[117]。人格主義的な共同体思想を個性に方向づける ことの失敗した諸々の試み。倫理的な個性への方向づけの失敗した試み:警察国家
[120]、経験的個性への失敗した試み:無政府主義[121]。個性を破壊する平等理論 の諸帰結:婦人の地位[123];非歴史的思考法方法[123];人格主義と国家主義[124]。
超人格主義としての保守主義[125]。「保守的な」世界観[125]、キリスト教的な 世界観[126]、歴史的な世界観[126]、権威思想と権力思想[126]。応報刑法の保守 的性格[127]。支配機構[127];正統性、神の恩寵、君主制原理[128]。地方分権思 想[129]、不平等[130]、婚姻[130]、家族[131];貴族[132]。労働法にとっての 保守的思考形式としての「家」[132]。同業組合および他の団体の人格性[133]自治、
国民代表[134]、国家主義、国際法および戦争[134]。
人格主義法観としての自由主義と民主主義[137]。その諸帰結の差異:人間的諸権 利と多数派支配[137];権力分立と議会主義体制[139]。自治についての異なる態度 表明[139]。倫理的な人格性概念に異なる構造に基づく個人の無限の価値と有限の価 値[140]。超人格主義としての民主主義[142]
第 ₃ の立場:作品文化に奉仕する法と国家[143]。個別性とその不平等を顧慮する こと[144]。帰属主義的ではあるが、身分的ではない体制[145]。プロテスタントの 人格主義とは対立するカトリック教会と中世世界におけるこの見解の具現化[146]
中央党の国家観[150]。この第 ₃ の国家観は宗教上の生活観を基盤にしてのみ実現す ることができる[151]。
社会主義[154]。唯物史観は社会主義の法哲学的に方向づけられた政党制度への編 入を禁じているのは、唯物史観によれば哲学しているのは経済哲学だけであって、法 哲学は存在しないからである[155]。
《問題の提起》
法とは何であるか(123)
については前章で究明した。法は何ゆえに妥当するのか
については、次章で検討することが求められる。しかし法がその正当化を自力で賄う ことができない―これができるとすれば、ひとは妥当を効力と、法を権力と同一視 しないわけにはゆかないであろう。法はその正当化をむしろ、人間のいっさいの行為 が正当化されなければならない法廷の前で、すなわち倫理の前に求めなければならな いのである。それというのも、これまでの諸々の考察の帰結が法を倫理から厳格に分(2115)
グスタフ・ラートブルフ『法哲学綱要』(1914年)(二・完)③法の目的 3 離することであったにしても、それでも決してそれらが完全に無関係に並存していた のではなく、法の正当化をその内容の倫理性に求めることができなかったのである が、しかしそれでも倫理のなかにその目的を求めることは決して排除されていないで あろうからである。法の概念を問う問題とその妥当を問う問題との間には、それゆえ に法の目的を問う問題が組み込まれているのであり、全く同じ意味においてこれを、
その価値を、その意味を、その理念を、その正当性(
124)を、その正義を問う問題
と言うことができよう。それというのも正義(125)は法的諸現象へのその適用にけ
る正当性以外の何ものでもないのであって、法の目的のもとに、それがここでなされ るように、経験的な目的設定ではなく、絶対的な目的規定が、まさに価値が、意味が、法の理念が理解される限りで、法の合目的性から区別されないからである(126)。
われわれ
(123) ここで誤った企てられる法と国家との同一視に対して用いられるべきは、Wolzendorff, Der reine Staat 1924 S. 15←でのそのおよす全思考過程である。―国家理性と正義と の差異も、しかしま た私の場合では、法的安定性―正義という後の区別において否認さ れている。
(124) Nelson← S. 133 (131も)は、私が証明なしにさきへと、
₁ . 正しい法の単なる概念に滑り出しており、
₂ . 法の理想というものの現存の主張、しかしこれとともに必然的に、
₃ . そのうえにこの理想の内容の―つまりは形式的な威容の―承認もまた証明されて おらず、
₄ . 法の理念は法の価値 (これについては後の[95]頁の所見を参照 )と同じであると述 べている。
(125)正義の概念については、M. Rhümelin← Die Gerechtigkeit 1920 (正義=合目的性)
(126)卿らよ、国家を用いることが卿らにとって正義として現われないことを不審に思え。
Schiller←.
にとっては法の目的を[82]を問う問題と国家の目的を問う問題[91](127)もまた、
これと同じ意味のものでなければならないのである。法は国家に「先行する」のか、
それとも国家が法に「先行する」のか、もしくは、―法または国家の時間的な優先 ではなく、「論理学的な」優先が問われていることを明らかにしておくために―国 家はその命令権(128)を法に負っているのか、それとも法はその妥当を国家に負っ ているのかは、ひとつの古い係争問題である︵ ₁ ︶。国家は法源であり、そのようなものと して法に先行すると、ある者は言う―これとは逆に他の者は、国家はそれ自体とし
(1) Jellineck, Allg. Staatslehre, S. A. ←, S. 346 ff.; Krubbe, Die Lehre der Rechtssouveränität, 1906: Graboesky, Recht und Staat, 1908; ここに与えられている問題については、Kelsen, ← Hauptprobleme der Staatslehre, S. 405 ff.(129).
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て法的形象であり、国家はその現存において憲法の産物であって、それはそれで法を 前提としていると言う。この問題に答える見通しが明らかにないということが、問題 設定が不当であることを推測させる。実際のところ、両者は同一であり、ひとつの実 体の異なる様式にすぎず、同一の対象の異なる見方にすぎないがゆえに、法または国 家の優先性を問うことは、全くできないのである。法律家にとって国家は、それが諸 法律のなかに現れている限りでのみ、また現れているや否や現存する―社会的権力 としてではなく、歴史的な形象としてではなく、その諸法律の主体および客体として。
すでに立法 (Gesetzgebung)
という言葉が、この語尾をもつすべての言葉と同様に、
ひとつの過程と同時にその産物を、ひとつの意欲であると同時に意欲されたものを特 徴づけている。われわれが立法のなかにある一定の意欲の内容を見るならば、それは われわれにとって法として現われるのであり、われわれが立法のなかに特定の内容の 意欲を見るならば、それは国家にまで擬人化される。整序する秩序としての立法は国 家
(127)国家―有機体、法―組織化。
正義=合目的性という[82]頁での所見について、ところでそこでは、正義の本質をな している、他の何らかの目的のためにではなく、自己目的として努められる平等という形式 的な要素があまりにも顧慮されていないように私には思われる。もちろん この正義の理想 は、機械的な同害報復 (Talion)以来、ますます解消されている―そして今日の法哲学が 同害報復をほとんど正当に評価していないということは、この展開がどれほど広く進展して いるのかのひとつのしるしである。そしてそれでも;そのうちのどれほど多くが今日でも民 主主義の諸要求のなかに差し込まれていることか!それはともかくこの意味における正義を 法哲学の中心に置くことはできない。それが言わんとしているのは、ただ万人にとっての等 しい権利だけであり、どのような権利かではない。
(128)その範囲からその限界が規定され、裏づけられている。
(129)法哲学と国家哲学:Ravá S. 31 f.
(130)Ad. Staat und Recht Salomõ← S. 251 ff. これに従えば、社会はその規範の服従を通して結 ばれた人間の多数であり、国家は特殊的に法的諸規範の服従を通して特徴づけられる社会で ある。(これに対して私の論述では法の 定立にではなく、服従に照準が合わせられる。
Somlõ S. 254 f. は、国家領域という要素が彼の―私のそれにとってと同様に― 国家概 念にとってもたらす諸々の疑念について論じている。(教会もまた、私の論述によれば国家 である。これについては、Somlõ S. 262 Anm.)―けれども先の論述のなかではSomlõと の対立というものは成り立っていないのであって、それというのも私の論述は法の前法的な 概念にではなく、法の内容的な概念にかかわっているからである。(cf. S. 269 ff,)
(131) 「ある権力関係は、それが法の諸形式をのなかに現れることを通してはじめて国家にな る」、Tillich Syst. d. Wiss. 1920 S. 138 f.← 以下では、Tillichは、それにもかかわらず国家 の法に対する優位を主張している。
であり、整序される秩序としては法である(130)。国家は、[92]規範化する活動と
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グスタフ・ラートブルフ『法哲学綱要』(1914年)(二・完)③法の目的 5 しては法であり、法は規範化された状態としては国家である。一方を他方から区別す ることは確かにできるが、しかし分離することはできないのである。それゆえに法の 目的と国家の目的を問う問題もまた、これを分割することができないのである。
この問題に一義的に答えることができないということは、以前に示されている― 答えることができるのはむしろ、その解答のすべての可能性が余すところなく体系的 に展開されることを通してのみである。法の思考可能なすべての目的規定は、しかし ながら次のような仕方でしか、これを解明することができないのである。すなわち、
法の目的論的な諸関係をそもそも思考可能なすべての目的規定について検証するとい うようにして、諸価値の体系における法価値の可能なすべての立場を吟味するという ようにして。かくしていまや、先に(「40」頁)暫定的かつ一面的に示唆されたもの を究極的かつ全般的に徹底させることが求められる。
《価値の体系》
真、善、美という絶対的な価値の三つ組みというものが信じられるのをつねとして いる―が、この三つ組みを何らかの仕方で尽くされているものとして証明すること はできないであろう。それが不完全であることについて諸々の徴憑さえ存在している のである。絶対的な価値の三つ組みという想定の根底には、三つの「魂の能力」が置 かれている。すなわち、意欲には倫理的価値が、思考には論理的価値が、感情には美 的価値が当てはまるのである。さて、感情が美において余すところなくその充足を見 出すわけではないことは、思考が真に、意欲が善にそれを見出さないのと同じである ということは、直ちに明らかでなければならない。心理学が感情をますます、意欲ま たは思考ではないすべてをそのなかに取り込んでいるような集合名詞として、全く異 なってはいるが、[93]しかしいまだ十分には分析されていない魂の能力のひとつの 混同として認めるようになってきていることは、これと関連している。しかしながら、
魂の新たな諸能力の発見は、それらに割り当てられる絶対的な諸価値の発見もその結 果としてもたなければならないであろう―なぜかと言うに、つまりは魂の他の諸々 の能力を想定することは、逆に他の諸々の絶対的価値を想定することにおいてのみ、
[93]その根拠づけを見出すことができるからである。魂の諸能力は実に純然たる存 在形象ではなく(そしてそれゆえに正当にも自然主義的心理学には疑いがもたれる)、
ある絶対的な価値と関連してのみ構成することができる文化形象である―これは本 書のなかで法の概念をもってなされたことと全く同じである。
しかし、絶対的な諸価値をこのように完全なものするということは、おそらく法の 価値体系における地位に触れることはないであろう。これに対して、法哲学的には、
伝統的な価値三対についてのもうひとつの思念、つまりは前の思念のように諸価値と
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の主観的な態度様式とではなく、客観的な実体と結びついているような思念がより重 要である。存在する者に由来するどのように些細な断片にも絶対的な価値帯有性が到 達することができるということに、すでに以前に注意が喚起された。人間の人格性の みが倫理的価値に、人間の作品、学問と芸術のみが論理学的および美学的な価値に相 応しい―存在者の残りの全多様性は、その実現のためにそれが奉仕する絶対的な諸 価値の導き出された価値帯有性をもって、単なる反映をもって満足しなければならな いのである。これによれば、人間の共同生活もまた、間接的にしか価値帯有性に関与 することができないであろう。それというのも、この共同生活を倫理的価値の実体と 見ることもできないからである。[83]倫理学は人格性の価値をその唯一の対象とし て有するのであり、それだからとくに「社会倫理学」もまた確かに個人を他の個人と の関係においてではあるが、しかしこの関係それ自体ではなく、客観的な意味におけ る正義をではなく、せいぜいのところ主観的な意味における正義をその対象にするの である。それどころか、社会倫理学は時として人間的な諸関係が何らかの、たとえ導 き出されたにすぎないにせよ、価値帯有性への能力を有していることを否認する。他 の人々とのその諸々の関係における人間の善意がすべてであり、このような関係それ 自体の正義は無であるとトルストイは教え、福音書は「汝を訴えて下衣を取らんとす る者に上衣をも取らせよ」←と教える。しかしまた逆にひとはしばしば、社会的なも のの導き出された価値帯有性に満足しようとせず、むしろ正しきもののために善、真 および美とならぶ第四の場所を要求するか︵ ₂ ︶、もしくは個人倫理は個人倫理である優勢 的な共同体価値の単なる契機にまで[94]格下げし、国家をはじめて「倫理的理念の 現実態」←(Hegel)として描いた。ゲオルク・イエリネク (Georg Jellineck)
がその
前途有望な青年時代の作品︵ ₃ ︶のなかで法を「倫理の最低限」←として特徴づけるとき、一見してまさに逆に解することができるこの関係をもって法に対する倫理の奉仕可能 性を表現しているのである。それというのも、倫理が法に付け加わるこのプラスは、
単に法の義務を良心の義務にまで持ち上げることによる[86]その遵守のひとつのよ りよき保障にすぎないからである︵ ₄ ︶。
さて、ここではもはや「絶対的な」諸価値の完全な数についてばかりでなく、それ
(2) 現に、Gierke, Deutsche Pravatrecht, Bd. ₁, 1895, S. 120, 121;「正しきものの理念は、善、真、
美の理念と同様に、それ自体とのみ比較可能であり、それ自体のなかにのみその価値を有し ている。」
(3) Jellineck, Die sozialethisches Bedeutung von Recht, Unrecht und Strafe, ₂. A., 1908←.
(4) ヘルマン・コーエン(Hermann Cohen)における倫理学の法および国家への方向づけに つ い て は、Natorp in den Kantstudien Bd. 18←, S. 34 ff., Lilienfeld, Zeitschr. f. d. ges.
StrafRsW., Bd. 26← S. 41 ff.
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グスタフ・ラートブルフ『法哲学綱要』(1914年)(二・完)③法の目的 7 らの順位についても争われているということが知られる。実際のところ、哲学は絶対 的な諸価値の多数を無関係に並置することの前に止まることができない。哲学は世界 像を統一化するものであり、それゆえに一元論は(この意味において)、二元論また は多元論がもうひとつの哲学であるように、ひとつの可能な哲学上の理論ではなく、
むしろすべての哲学上の思考のひとつの先験的な必然性であり、これとならんで二元 論と多元論は未完成な哲学としてのみ通用することが許されるのである。ところでし かし、絶対的な諸価値を一にして同じ普遍的な価値の細分化として、それに適用する ことが要求される実体の尺度に従って表象されるということによってはいまだ、諸価 値の体系を一元論的に先鋭化するというこのような要求をいまだ充足することはでき ない。それというのもあの諸価値の関係は、それがここで現われるような互いに平和 的な寛容の関係ではなく、優位を争う過酷な競争の関係だからである。もっとも、諸 価値のいずれにも全く独自の支配領域というものを割り与えることができると考えら れる限りでは、人間が思考、感情、意欲の触れ合うことのない合体として把握される 限りでは、異なる価値諸領域のどのような衝突の可能性も可視的にはならないであろ う。しかし、人間はその魂の諸能力の三つ組みではなく、三位一体であり、それらを 関連づける点は、しかし意志である。意志は自己自身だけでなく、思考と感情をも、
意志がそれらを操縦するというようにしてでは確かにないが、それでもそれらを回路 に入れたりそれから切り離したりするというようにして思考と感情をも任意に処理す ることができる結果として、真理と美が思考の目標としてだけでなく、意欲の課題と しても現われるということが、[95]論理的および美的に価値あるものがその上にな お倫理的な価値帯有性をもって覆われ得るということが生ずるのである(
133)。こ
れとともに絶対的な諸価値は意志という一にして同じ基盤の上に置かれているのであ り、その上でそれらはいまや争い、この基盤をいまや互いに主張することができるの である。どのような道徳的義務に優位が保障されるのか、本来的な倫理的諸財に、直 接的な人格性諸価値に向けられているそれにか、それとももともとは倫理の外に置か れていたが、事後的にのみ倫理化された諸財に、作品的諸価値または社会的諸価値に 向けられているそれにか。ナイル川の島フィレーの上に建つ寺院が灌漑設備のために犠牲に供されたとき、ジ ョージ・バードウッド卿(Sir George Birdwood)←はそれについて公共に訴えた。
これについてヘンリー・ノーリズ卿 (Sie Henry Kkollys)
彼に質問を向けた。「ジョー
ジ・バードウッド卿が燃える家のなかで一人の生きている子とラファエルのドレスデ ンのマドンナとともに取り残されているとき、彼は何をするのであろうか」と。ジョ ージ・バードウッド卿は、一通の公開の手紙のなかで、自分はマドンナのほうを優先 するであろうと応えた。(134) これとは逆に、あるきわめて読むに値し、愛すべき
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著者は次のような『文明開化した社会秩序の基本原理』を一冊の本全体の主題とした。
「どのような他人の生命をも意図的に危険にさらしていない誰かある個人が、たとえ 彼がどれほど取るに足らない者であっても、その意志によらず、またそれに反してさ えこの世から消え去るとすれば、それは、政治的、宗教的または国家的[96]なすべ ての出来事よりも、またすべての世紀の、すべての民族の学問的、芸術的および技術 的なすべての進歩をあわせたよりも比較にならないほどに重大な出来事である」←︵₅︶。
(133)このことは倫理学上の善論の本質である。
(134)一人のベルギーのパルチザンを罰するためのドイツの軍隊による諸々の破壊に関してゲル ハルト・ハウプトマン(Gerhadt Hauptmann)がロマン・ローラン(Romain Rolland)
に宛てた一通の公開の手紙 (Vos-Ztg. の1914年月 )から。「戦争の混乱のなかでルーベンス のかけがえのないひとつの作品が破壊されるならば、確かにそれは不都合なことですが、
―ルーベンスに栄誉あれ!―しかし私は、ある人間兄弟の打ち抜かれた胸のほうにはる かに深い苦悩を強いられるあの人々に属している。」 ←これに対してKurt Eisner Ges.Schr.
122:「私は少なくとも私の生命を永遠の芸術の創造ほどに評価していないのであり、芸術を、
……それが生きている存在よりも価値において低いというほどに低く査定していない
←……。」
諸価値の順位については、Scheler Krieg S. 75:←「すべての事物価値を凌駕する人格とい う価値」(HegelとWundtに反対!)S. 361 Anm 38でシェーラーは次の順位←を呈示してい る:神聖(人格価値!)―天才(事物価値!)―英雄 ―指導的精神(生命価値)―
(135) Hermann Bahr Dialog vom Marsyas←における「作品か、それとも人間か」についてのき わめて見事な対話。とくにS. 22(プルターク:「私はひとつの作品を評価し、その創造者を 軽蔑する」 ←)を、そして―S. 25 (ニーチェ:「作品のない偉大な人間はおそらく偉大な 作品よりも多くのものが必要であり、そのために人間の魂というあのような代償を払わねば ならない」←―
ウイーンは、その売上金で飢えている子供に給食するために芸術作品を売却した(1919 年)。
しかしこの問題はつねに、[96]言及された特殊事例のように、提出されない事項
(casus non dabilis)
という不合理な形態においてのみわれわれに立ち向かうのでなく、
それはむしろ端的に言って文化の―前章で用いられたようなその歴史的な概念にお ける文化ではなく、その哲学的な意義における文化の、文化的諸事実という意味にお ける文化ではなく、文化的諸価値および文化的諸目標という意味における文化の― 本質を問う問題である。文化は、それが一にして同じ実体(136)について実現され る限り、絶対的な諸価値の全体である―しかし、これによって同時に階層的な上下
(5) Phantasieen eines Realisten, 1910の著者、Lynkeus (Josef Popper)のDas Individium und die Bewertung nenschlicher Existenzen.
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グスタフ・ラートブルフ『法哲学綱要』(1914年)(二・完)③法の目的 9 秩序にもたらされることが考えられているのである。文化の実体として考えることが できるのは、詰まるところ文化的人間か、それとも文化的作品か、より厳密には、そ の生産者の国民性または時代によって画された文化的諸作品の総体、ある一定の民族 またはある一定の時代の文化的業績か、それとも、それに代えて不正確な言い方をす るのがつねであるように、文化民族または文化時代それ自体かのいずれかである。そ して文化の実体が考えられるのが人格主義的にか、それとも超人格主義的にかに応じ て、作品的および社会的諸価値が人格性諸価値に従属させられるか、もしくは逆に、
後者が前者に手段として従属されられる。文化の実体として文化的人間が考えられる ならば、芸術と学問の諸作品は文化的手段でしか、精神の糧 (nutrimentum spritus)
でしか、個人的な教養が、生気の文化 (cultura animi)
がそこから摂取される貯水槽
でしかないのであって、文化[89]目的は倫理的な人格性でしかないのである。これ に対して文化の実体が文化作品であるならば、文化と学問の諸作品のなかに文化目的 はすでに達成されているのであり、倫理的な人格性は、それが奉仕する分肢として価 値の客観化というこの世界に寄与する限りでのみ、価値を有する。同様に、そのもの として個々人についてではなく、社会全体について実現される法秩序は、人格性が文 化の実体をなしている場合には文化手段にすぎないのであり、文化作品が文化の実体 をなしている場合にのみ文化目的であり得るのである。かしこでは文化目的は、主観 的な文化においてはじめて、ここではすでに客観的な文化において達成される。かし こでは文化目的は、各個人がモナドのように社会全体の文化業績を反映している場合 にのみ達成され、ここでは、それが社会全体の数多くの分肢にわたって配分されてい ようとも、すでにこの文化的業績それ自体のなかに達成されているのである。ある国 民の文化の高さを問う(136)ある価値の担い手(実体 )であることができるということを、Sauerはまさにうまく「価 値能力」←と呼んでいる。
問題は、[97]かしこでは社会全体の文化的総計を問う問題であり、ここではその分 肢の平均的文化を問う問題である。国民の文化的豊かさを問う問題はかしこでは総資 本にのみ、ここでは資本の配分にもかかわっている―そしてこの経済学上の比喩は 実際のところ、二つの文化観のある一定の経済制度との関連を示唆しているといって よい。人格主義的な文化観にとっては価値の擬人化が、超人格主義的な文化観にとっ ては価値の客観化が、ここではある者が成し遂げたものが、かしこでは彼が現にある ものが、ここでは(ゲーテとともに)「成し遂げ創造すること」が、かしこでは「行
(2108)
同志社法学 61巻 ₆ 号 10
動し活動すること」が人生の意味なのである︵ ₆ ︶。[90]
この二つの文化観のひとつを取るか、それとももうひとつを取るかを証明可能な仕 方で決めるのを、本書の根底に置かれている相対主義は不可能であると考える。その 意味内実において実に絶対的な両価値のいずれもが一方が他方に従属して意志を裏切 ることをしないのである。むしろ両者は、まさに絶対的に、言い換えれば、自力で妥 当するという要求のすべてを認めなければならないのであり、それゆえに二つの0 0 0文化 観、二つの価値を従属させる試みが両価値それ自体の意味的内実と一致していないの ではないか、むしろこれを通して最高の諸価値の多元的な並列関係が避け難いことと して要求されなければならないのではないかという問いが提起されなければならない のである。他のすべての価値が倫理的な人格性に奉仕することができるようにされる ならば、美と真の自己法則性は破壊されることにならないか、美は道徳上の働きと、
真は実用的に何らかの実際的な目的に役立つことと同一視されないか。逆に、倫理的 人格性が社会的および作品的価値の道具にまで格下げされるならば、倫理の自律性が 破壊され、倫理がそれ自体で、個々人の良心で測られる代わりに、共同体、学問およ び芸術にとってのその有益性で測られることにならないか。しかし、上位に、そして 下位に置かれている絶対的な諸価値は、法領域の内部における実体法と手続法と同様 の関係に並列しているとされるべきか。手続法は実体法に奉仕すべきものであるが、
しかし前者が後者に現実に役立つ限りにおいてではなく、無条件的に[91]法的妥当 を[98]を要求する。それゆえに手続法は、ある目的のもとへの従属を、この目的に よって影響を受けない自己法則性にそのなかで結びつけているのである。このように して人格性諸価値も作品諸価値を、もしくは逆に作品諸価値は人格性諸価値をそれら の自己法則性を完全に維持しつつそれぞれに役立たせるのである。真と美とは外見の 上でのみ唯一無類のものであるが、しかし実際には倫理によって指令された価値とし て認められるのではなく、むしろまさにその論理的および美的な価値の固有性におい て倫理の用に供せられるのであり、このようにしてもう一度、倫理的評価の対象にさ れるのであり、これに応じて対立する文化観によって人格性諸価値はまさにその不可 侵の自律性において美学的および論理的な価値実現の手段および間接的な美学的およ び論理的な価値の担い手として評価されるのである。諸価値の固有性と順位の問題、
(6) Simmel, Philosophie des Geldes. ₂. A., 1907, S. 502 ff., Rickert, Vom System der Werte, Logos, Bd. IV, 1913, S. 295 ff., ならびに著者0 0の論文:Über den Begriff der Kultur, Logos, Bd.
II←, S. 200 ff., 参照。Münch, Zeitschrift für Rechtsphilosophie, Bd. I, S. 131, Anm. ₃ の異論 は対象を欠いている。私にとっても人格主義と超人格主義は「現実化の実体と現実化の媒体」
との差違にすぎないのであり、私にとっても「超社会的でも超個人的でもある」←諸価値の 妥当の源泉ではない。
(2107)
グスタフ・ラートブルフ『法哲学綱要』(1914年)(二・完)③法の目的 11 細分化と階層の問題は互いに厳格に区別されなければならない。より下位の階層にあ る価値は、それでも同時に絶対的に固有の価値であり得るのである。
以上の考察はわれわれを、現代の人格性文化の運命的な混乱に批判を加える状態に 置く。人格主義的な文化観が人格性形成の作品諸価値を役立つことができるようにす る場合、それはそれによって決してこの文化的諸価値の自己法則性を個人的な需要と いう尺度に従って破ることを命じているわけでも、許しているわけでもなく、芸術の なかに客観的な芸術理念の代わりに独創性を追究し、学問のなかにただ単なる真理だ けでなく、なおひとつの「人格的な特性」を探究することを命じているわけでも、許 しているわけでもない。まさにその厳格な全自己法則性においてのみ、[92]作品価 値は人格性価値(
137)にとって必要であることの実が明らかになるのであり、学問
と芸術のこの自己法則性への忘我的な献身を通してのみ、道は自己へと導くのであ る。「そこで魂を維持しようと努める者は、それを失うであろう。魂を失うであろう 者は、それが生命を獲得するのを助けるであろう」←。人格性は、これを努めて獲得 することができない。それは事物への忘我的な献身の予期しない報酬に、賜物に、恩 寵にすぎないのである。レンブラント(Rembrandt)の「金の兜を被った男」におけ るほど感動的に表現されているのはどこにもないであるが、一人の高貴な短気者の青 ざめた、苦悩にゆがんだこの顔付きのなかに作品に突入した全生涯とその過去に(137)ここで個々人の人格性について言われることを、相応にSchelerが 国家の特性について述 べている:S. 333 f.←。
Max Weber Wissenschaft als Beruf .S. 13←:「学問的な領域での『人格性』を、純粋に事 物に奉仕する者しか願わなかった」etc.
対する絶望を、[99]タルボートの死の瞬間の絶望を読み取ることができる―そし てその上ではそれでも、その被り手がそれを気にしてもいないのであるが、感動的な 対照において兜の高貴なきらびやかさが後光のように、人生の王冠のように輝いてい る。
そしてそれでもひとは人格性価値を作品価値のために犠牲に供しようとする人々、
ある事物のためにその自我を消し去ろうとする人々に対してまさに反対物を言い返そ うとしよう。「別のことができない者だけが最も偉大なことを成し遂げる」←―自 分自身のために、最も個人的な問題を解決し、最も個人的な苦悩から救済するために 創造する者だけが最も偉大なことを創造する、というように。先には、ひとはあたか もその作品を迂回して自分自身に帰ることができるかのように見えたが、いまや逆 に、人格性を通して物への道が通じているかのように見える。そしてこのようにして
(2106)
同志社法学 61巻 ₆ 号 12
作品価値と人格性価値との相互の関係のなかに一面的な従属関係よりもむしろ相互的 な目的関係が、相互的な支配と利用可能性が認められようともしよう。しかし相互的 な目的関係というのは相互作用と同様に、実行が可能でない考え方である︵ ₇ ︶。時間的連 続を逆転させることができないのが真実であるのと同様に、因果性と目的論のカテゴ リーをつねにひとつの0 0 0 0方向にしか適用することができず、逆の方向には適用すること ができないのは真実である。体験は、始めと終りをもたず、そこではすべての道と目 標が等しい円の記号に等しいにもせよ、―認識的には、この円がどこかで断ち切ら れ、始めと終りを、手段と目的をもつ直線に曲げられる場合にのみ、把握され得る。
それゆえに世界観上の諸々の態度表明の学問上の事後構成もまた、その豊かさにおけ る―そしてその矛盾における―世界観の体験(138)
それ自体と較べてつねに教
義的に、貧弱かつ暴力的に現われるのである。われわれの諸々の決断はたいていの場 合、(138)何ゆえに最高の諸価値がそれらの実体から整序されるのかについては根拠づけを必要とし ている。これには以下の ₂ つの思想が役立つ:
₁ . 共同体の規制としての法はその対象として個々人と共同体との間の、そして両者と諸 物との間の関係を有している。
₂ . それゆえに法価値は、価値の担い手としてのこれらの諸関係に依存しなければならな い。―おそらく第 2 の立場の表現形式の場合では、「共同体」という言葉は「全体」
という言葉によって置き換えることができるであろう。後者の表現だけが実力説によ りうまく適合する。
私のトピック論には、存在していない価値の担い手に向けられているがゆえに、神権
国家は、神の国家はどのような場所も見出さない。
それらの動機よりも古く、それらの動機から[100]完全かつ無矛盾的に再構成する ことはまれにしかできない。そして、法哲学上の矛盾というものもまた、それにもか かわらずその争うことができない体験の権利を擁護することができることを、法哲学 はこの法的体験を解釈しようとするだけで、これを押しのけたり取り換えたりしよう としないことを忘れないために、ひとは法哲学の諸体系とならんで個人的な法体験の 信条告白をも視野から見失わないほうがよいのである︵ ₈ ︶。
(7) Schopenhauer, W. a. W. u. V←, (Reckamaugabe I, S. 589 ff., 参照。
(8) たとえば、以上を総括するものとして、Köhler, Luther und die Juristen, 1873; Bode, Meine Religion; Mein politischer Glaube; zwei vertrauliche Rede von J. W. v. Goethe, 1988; Rosin, Grudzüge einer allg. Staatslehre nach d. polit. Reden u. Schriftstücken Bismarks, Freiburger Universitätsprogramm, 1897; Falter, Staatsideale unserer Klassiker, 1911.
(2105)
グスタフ・ラートブルフ『法哲学綱要』(1914年)(二・完)③法の目的 13
《価値体系における法》
以上のように多くの準備と弁論の後に、いまや遂に最高の諸価値の思考可能な目的 論的な位置関係およびこれとともに法の可能な全目的規定を確定することにしたい。
われわれは、最高の諸価値をそれらの実体に従って三つの種類に区別することができ た。すなわち、倫理の人格性価値、真と美の作品価値、正義0 0(139)の共同体価値(140)
がこれである。これらの価値種類 (241)
のいずれもが指導を引き受け、他の両価値
を利用に供することができることから、三つの可能な配置が明らかになる。₁
. 作品価値と共同体価値が人格性価値に奉仕する場合
―芸術と学問、国家と法が個人的な倫理に奉仕する場合である(
142)。
(139)いかにしてどのような国家原理も一貫して貫徹されるならば反対物に変わるのかというこ とが、なお指摘されるべきであろう。たとえば文化のない共同体は全く空虚である―それ ゆえに このもとには 文化価値が置かれているのである;人格性は事物への献身を通して のみ可能である―等々。人為的 に一面的かつ一義的な立場にされるということは純然た る循環である。
(140)このような概念はここでは排除され、実体的な人倫というヘーゲルの概念によって置き換 えられなければならない。
(141)Nelson← S. 132: この図式には法的評価の本質についてのまさに正しい洞察が欠如してい る。私は、法が―価値に満ちた目的または価値に満ちた目的のための手段として―一個 の価値であることを証明されることなく前提とした。実際のところ不法は確かにひとつの無 価値であるが、しかしそこからはいまだ全く、法がひとつの価値であることを帰結すること はできない。法は、可能な積極的な諸目的に限定する消極的な条件」(S. 132)という意義 しか有していないのであり、共同体生活に価値を息づかせるための必要条件ではあるが、し かし十分条件ではない (S. 132)。ゲーテ (W. ―Ö Divanについての所見 ):「詩人は、彼に 党派を作ることを求めるには、あまりにもお高くとどまっている。」
(142)個人主義的な国家観
[101] ₂ .人格性価値と作品価値が共同体価値に奉仕する場合―倫理、学問およ び芸術が法と国家に奉仕する場合である(143)。
₃ .人格性価値と共同体価値が作品価値に奉仕する場合―倫理、法および国家が 学問と芸術に、それゆえに(客観的な)文化に奉仕する場合である(
144)。
われわれが法と国家の任務をこの ₃ つのいずれについてもひとつの標語をもって特 徴づけるならば、それはこの ₃ つの立場の法哲学上の諸帰結の暫定的な具象化に役立 ちもしよう。すなわち、自由―権力―国家である。同時にこれを通して、われわ れがあの3つの出発点を踏み出す道の終点で、どのような政党綱領(145)がわれわ れを待ち受けているのかが示唆される。第 ₁ の出発点は自由主義と民主主義に、第 ₂ の出発点は保守主義に注ぎ込むのに対して、第 ₃ の立場は、―それが後に続く考慮
(2104)
同志社法学 61巻 ₆ 号 14
に基づいて教権主義のなかに見出そうとされない限り―今日では政党による組織化 を有していない。[95]可能な法哲学上の諸出発点(146)の経験的に与えられた諸 政党の分類との一致を通してはじめてあの体系もその窮極的な正当化を獲得するの は、前章で演繹的に展開された法概念が実定法学によって扱われたそれとのその一致 によって証明されなければならなかったのと全く同じである。ひとはまさに、近年に なってあれほど急速に歴史的および社会学的な関心が高められ︵ ₉ ︶、
(143)超個人的な国家観
(144)超人格的な国家観
(145) Adolf Glaßblenner: 空気が何者にも置かれていない諸政党について。闘争者の間で馬鹿者 どもがあちこちで駆けずり回る、戦闘の確実な犠牲者 ←。
さらに:Gottfri. Keller←:Wie über den Parteien etc.
(146)ひとは 3 つの国家観を次ぎのように表現することができる:
社会 (Gesellschaft)
全体 (Gesamtheit)
共同体 (Gemeinschaft)―
(147) Ranke Epochen S. 21.←
「同様に国民の、もしくは王侯の主権の問題は科学を通してではなく、政党の形態化を通 して決着が付けられている。」
いまや法哲学的にも根底的であることが明らかになっている政党理論(147)を[102]
相対主義的な法哲学の対象として挙げることができる。とはいえ、特殊法哲学上の問 題設定は歴史的―社会学的な現実をではなく、個々の政党の方向の思考可能性をその 対象としているのである。どのようにして自由主義、民主主義、保守主義は可能であ るのか、それらなしにはそれらを考えることができない諸前提とは何であるのか、そ こからそれらが体系的な必然性をもって展開する世界観上の根源は何であるのか、と 特殊法哲学上の問題設定は問うのである。もっとも、経験論者は、諸政党を集合させ るか、もしくはそれでも繋ぎ止めたのは共通の世界観ではなく、共通の経済上の必要 であり、政治上の理念ではなく、経済上の関心であり、共通の諸原則ではなく、共通 の諸利益であると異議を申し立てるであろう。しかし、このような展開をきわめて鋭 く描き出したまさにその著作者が、経済的利益集団のいずれもが[96]どのようにし てその利益に相応する正常のイデオロギーを形成するのか、彼らの利益に相応してい るものであるこのイデオロギーを国家理念によって要求されているものとして現出さ
(9) 総括的に、Rehm, Deutschlands politische Parteien, 1912; 政党制に関する古典的で法哲学 的に最も重要な本は、Stahlの講義、Die gegenwärtigen Parteien in Staat un Kirche, 1863, で ある。
(2103)
グスタフ・ラートブルフ『法哲学綱要』(1914年)(二・完)③法の目的 15 せるのかをも指摘した︵₁₀︶。法哲学的に重要なのは、その世界観的な背景との体系的な関 連におけるこのようなイデオロギーだけであって、経済上の諸利益とのその発生的な 関連におけるあの政党の現実ではない―この場合に法哲学は何か全く本質を欠いて いるもの、偽善的に経済上の背後に隠している以外にどのような意義をも有していな いような美しい理念の玄関に従事していると言うのではない。それというのも、それ を呼び出した者はそれを再び任意に去らせることができないということ、それは、利 益に奉仕するためにのみ呼び出されるが、それが奉仕することを止めるところであっ ても効果を発揮し続け、それはその側で呼び出した者を奉仕させ、呼び出した者0 0 0 0 0 0が欲 するようにではなく、呼び出された者0 0 0 0 0 0 0が欲するように帰結から帰結へとともに道連れ にするということが、諸々のイデオロギーおよび精神の本質だからである。
《人格主義と超人格主義》
このような下準備の後にいまや個別的な法および国家観の分析に立ち入られる場 合、議論をさしあたり最も明瞭に完成された立場、あの法哲学上の3つの立場の最初 の2つの立場、すなわち、人格主義0 0 0 0と超人格主義0 0 0 0 0に限定することが求められる。この 両見解を、互いに個人主義的な見解と社会主義的または有機的な見解として対置する のが通例である。このよ
(148) Michels Probleme d, Soyialphilosophie S. 34 ff.参照。
うにするにしても、しかしこの法哲学上の区別が同じ名称を用いる[103]経済政策 上の選択肢と混同されてはならない。公共経済の[97]の要求、経済政策上の社会主 義が法哲学上の個人主義として現れることは全く思考可能であり、実際のところ個人 福祉に方向づけられたマルクス主義的社会主義は、法哲学的には「増強された個人主
義」(
149)として特徴づけられ、個人主義的な経済秩序と社会主義的なそれに関する
論争は、「純個人主義的な世界観
(149) Othmar Spann(「 個 人 主 義 」、「 普 遍 主 義 」)Haupttheorien d. Volksw.Legre ₇. Aufl.
Quelle u. Mayer) S. 29―33.←
(150) Windelband← Einl. S. 306:「普遍主義的―構造的」、「超個人主義的―機械的」:自らの態 度表明( ₃ つの立場)S. 217 f. 本書のなかで提唱された立場に対してWindelbandは法治国 家 と 文 化 国 家 と の 立 場 に お け る あ の 対 置 を 再 び 見 出 す:S. 325―328. こ れ に 対 し て Jerusalem← Krieg im Lichte d. Gesellschaftslehre 1915, は、社会主義が「個人生活の無条
(10) Lederer, Das ökonomische Element und die politische Idee im modernen Parteiwesen, Zeitschrift f. Politik, Bd. ₅ ←, S. 535 ff. (148)
(2102)
同志社法学 61巻 ₆ 号 16
件的評価」に基づいているのであり、「それゆえに個人主義の発達傾向のひとつの成果」で あると述べており、これについてMax Adler Der Kriegessozialismuns, Arbeiterzeitung v.
13⁄4 1914によりどころを求めている。―Troeltsch D. Zukunft, 1916、S. 31 ff.は西洋の国 家観と中間権力的国家観を対置するためにわれわれの差異を用いる。彼はドイツ的見方を次 の公式のなかに把握している。
国家社会主義と教育個人主義(S. 52)←
のひとつの内部事項」と呼ばれている︵₁₁︶。[98][104]
人格主義的な見解によれば、法と国家は個人に奉仕する。人格主義は必ずしも幸福 主義であるとは限らない(151)、それどころか、必然的に幸福主義でさえない(152)。
幸福をひとつの絶対的な価値として証明することができない限り、幸福を法と国家の 最終目的とすることもできないのであり、法と国家はそれが奉仕するような価値から 価値を借用することができるだけである。共同体ならびに個人の生活の最終目的は、
(11) Diezel, Art. Individualismus im Handwörterbuch der Staatswissenschaften, を、Bruckhardt, Was ist Individualismus? 1913, をも参照。すでにSchillerがDie Gesetzgebung des Lukurgos
und Solon←という論文のなかで両国家観を対照している。同じ意味においてJellineck (Allg.
Staatslehre, ₃. A. ← S. 173 ff.)が「個人主義的―原子論的な」国家理論と「集団主義的―普 遍主義的な」それ(150)を、Stahl (先の脚注(9))「革命の諸政党」と「正統性の諸政党」
とを区別し、Tönniesが共同社会と利益社会という社会学的な形態の可能性を区別している
(Gemeinschaft und Gesellschaft, ₂. A., 1912). 著者の論述への決定的な影響を及ぼしたの は、Lask (oben S. ₃ Anm. 2) S. 283 ff.の論証であった。個人主義的国家観と超個人主義的 国家観との著者の区別に反対0 0を言明したのは、Münch (oben S. 91, Anm. 6), Salomon, Idee der Strafe (Philosophische Abhandlungen, H. Cohen dargebracht, 1912, S. 225 ff.), Erich Kaufmann, Das Wesen des Völkerrecht und die clausula rebus sic stantibus, 1911, S. 140 ff.
Salomon と同様に、Kaufmannもまた、国家と法を個人にも全体にも方向づけることはでき ないのであり、むしろそれらのなかには単一性と全体性が置かれていると見るのであり、こ れをKaufmann自身は、法と国家のなかに置かれているひとつのアンチノミーと呼んでいる。
これに対しては、相互的な目的関係を考えることができないということと体験と認識に関し て上述したことを指摘するだけで足りる。このような論述から、ここで作られた型式は全生 活の千回に及ぶ推移には相応していないというGrobowskyの批判 (Preuß. Verwaltungs-
blatt, Bd, 33←, Nr. 23)は適切であるが、しかし厄介なものではない。最後に、Richard
Schmidt, Die Strafrechtsreform in ihrer staatsrechtlichen und politischen Bedeutung
(Birkmezer u. Nagler, Kritische Beiträge zur Strafrechtsreform, Heft 15), 1912, S. 196 ff., は、
法哲学上の根本的対立と諸政党の対立との関連を争った。R. Schmidtは、個人主義的な目的 規定または超個人主義的なそれではなく、国家と個人との間の権力分配が政党編成の規準で あること考える。しかしながら、ここで提出されている政党理論は、超個人主義的な権威と 権力拡大との間の、個人主義的な正当化と国家の権力の限定との間のひとつの関連と考えら れるならば、それは誤りである。この誤りは、保守主義の地方分権的な傾向と民主主義の中 央集権的な傾向についての、ならびに警察国家の個人主義的な性質についての後の論述を通 して論駁される。他ではR, Schmidtの反論は、政党理論の歴史的な取り扱いと哲学的、理想 型的なそれとの混同に基づいている。
(2101)
グスタフ・ラートブルフ『法哲学綱要』(1914年)(二・完)③法の目的 17 それゆえに幸福ではなく、幸福たるに相応しいことでしかあり得ず、福祉ではなく、
個人の倫理的規定、文化的使命である。法秩序が配慮するのは、人間がその目を絶え 間なく歩哨のように光らせていなければならないのではなく、その視線をしばしば安 んじて星座と花咲く木々に、現存在の必然性と美に向けることであり(153)、自己 保存欲求の求める絶え間のない叫び声を、少なくとも良心のやさしい言葉をそもそも 聞き届けることができる間には沈黙させるというようにして、個人的な文化の、学問 的、芸術的な、そしてより狭い意味において倫理的な教養の第一条件を作り出すこと である。このようにして人格主義もまたもちろん、福祉を法秩序の直接的な目的にす るのであるが、しかし幸福主義のように第一目的にするのではない。法は個人倫理に 奉仕しはするが、しかし法がそれを直接にもたらすのではない。倫理は個
(151)幸福主義的な法哲学を論駁するために、ここではなお次のことが延べられなければならな い。すなわち、ある人間の幸福は、彼がそれについて考えていることのなかにしか見出すこ とができないということであるが、しかしその偶然的な諸々の願望をもつ経験的な個人から は法と国家へのどのような道も通じるのではなく、他が無政府主義にしか通じないというこ とである(これについてはなお後に!)。
(152)社会主義もまた幸福主義的に考えているのでないことを、エアフルト綱領が証明してい る。この綱領は「最高の福祉」とならんで「あらゆる側面にわたって調和のとれた完成」を 挙げている。
Tönnies, Gem. U. Ges. ₂. A. S. 308 f← をも参照。
(153)おそらくここでSchilerが引き合いに出されるべきであろう。Cf. Windelband← Einl. i. d.
Ph. S. 383.
人の自由のひとつの営みでしかあり得ないのであり、それゆえに法は倫理に[105]、 そのなかで倫理的な自由が最も栄える社会的な安定性、外的な自由を保証するという ようにして、間接的にのみ奉仕するのである。倫理と法との関係についても、「自己 の完全性―他人の至福」←というカントの公式が稔り多いことの実を明らかにして いる︵₁₂︶(154)。
もちろん、法は倫理の可能性0 0 0に奉仕するというようにして、法は(これはすでに指 摘された)必然的に不倫理0 0 0の可能性にも奉仕する。さらに進んで、法は倫理を容易に するというようにして、―法は同時に倫理を困難にすると言わなければならないよ うにさえ思われる。一方において義務感情の成り立ちを可能にするということが法の
(12) 今日の法哲学では、このような倫理的個人主義はStammler の「社会的理想」―「自由 に意欲する人々の共同体」←―によるほか、van Calker (Politik als Wissenschaft 1896) の 示唆により Netter (Das Prinzip der Vervorkommung als Grundlage der Strafrechtreform 1900)
によって構築された「完全理論」を通して提唱される。
(2100)
同志社法学 61巻 ₆ 号 18
目的であるならば、他方において義務感情の活動と実現にはつねにより狭い限界を引 くことはその必然的な効果であるように思われる。人と人との間に保護柵を設けるこ とに法が成功することが多ければ多いほど、戦いにおいて互いに自らを試す機会はま すますなくってゆく。大多数の人間は、その生涯をその義務のために賭けつつ他人に 対してその倫理的価値の証明を全くすることなしに死んでゆくのである。法が徳から 生命の危険性を奪って以来、徳は安価なものになっている。法状態の内部で自然状態 に、万人に対する万人の闘争 (bellum omnium contra omnes)
に一種の飛び領土を、
―国家内のインデアン地区という侮蔑的な比較が許されるならば―一種の「特別 保留地」を空けておくという倫理的な要求、すなわち自由競争、決闘は、しばしばこ の種の思考過程に支えられる。これと同じ考慮の上に、そこでは「心がなお測られる」
国家間の無政府状態や戦争の倫理的正当化が根拠づけられる。このような考慮は最終 的に、法の全面的な否認というものの、倫理的に動機づけられた無政府主義というも のの基盤にもされかねないであろう。
倫理的な目的と法の倫理的な働きかけとの間のこのようなアンチノミーを解決する ためには、しかしながら次のような思念が役立ちもしよう。もちろん法は、一面に向 けて、人間がそれで倫理的に自らを実証することができる任務を限定する。倫理的な 行動のより逞しい形式には、白刃をかざした接近戦の勇敢さにはますますその任務の 適用領域によって
(154)カントにおける至福と法については、Lewkowitz S. 48.
引導される。しかし法的平和の保護のもとに倫理には新たに広い課題領域[106]も 増大する。洗練された人間的諸関係の錯綜した多様性を倫理の要求を通して整序する ことがこれである。「戦場での勇気はわれわれにおける共有財産であるが、しかし諸 君は、全く尊敬すべき人々に市民的勇気が欠けているのを見出すのはまれでないであ ろう」←とビスマルク (Bismark)は言った。配慮と義務にとっては、実際のところ 空白の恐怖 (horror vacui)
という古い法則が当てはまる。ある者が去った場所にはつ
ねに直ちに他の者が占領する。そしてそれは確かにかなりの部分について、われわれ に文化なき時代のより手荒い紛争を回顧的に熱望させる文化のより繊細な、より苦し める諸々の紛争に対する恐怖なのである。かくして人格主義的な見解によっても、幸福主義的な合目的性だけではなく、倫理 的な品位も法に特有のものであり、この見解によっても法は、神聖そのもの(ラッソ ン (Lasson))←ではないにしても、いくらかは神聖なものであり、倫理的人格性価 値に従属したひとつの価値にすぎないにしても、価値の担い手ではある。これに対し
(2099)
グスタフ・ラートブルフ『法哲学綱要』(1914年)(二・完)③法の目的 19 て、「何らかの仕方で個人主義的な見解からはじめて引き出されるのではない固有の 価値」←(ラスク(
Lask))、法がほかではなお個人に果たすこともできようすべて
には依存していない超個人主義的な品位が法に超人格主義によって賦与される。この ような人格主義的な法観には原則的に与していないまさに一人の哲学者がそのために 具象的な表現を見出した―カントである︵₁₃︶。「市民社会が全員一致で解散する(たとえ ばある孤島の住民が互いに離散して世界中に散らばることを決定した)場合であって も、何人もその所為に相応しいものが何であるかを知るために、そして殺人の責を住 民が負わないために、牢獄につながれている謀殺者は処刑されなければならないであ ろう」←(155)。正義は、個々の人間が逆に正義のなかにしか
(155)Nelson← S. 131: このカントの命題は法秩序を決してひとつの自己価値にするものではな い。私は 価値の必要条件を十分条件と取り違えた(S. 132)―[95]頁の所見を参照。
私自身はこの関連でのカントの引用を(Einführung ₂. A. S. 17をも参照)を、いまでは 誤りだと考えている。それは、すでに妥当している(自然または実定)法の確固不動さとい う意味における正義と関係しているのであり、それゆえにむしろ、(ここで問題になってい る )正義の別の概念が、どのような法が妥当 すべきか(先の[82]頁 )という答えとはま さに対立している法的安定性の視点に属している (後の[175]頁参照。―この二重の意 味から「正しき裁判官」という表現のより単純な説明も生ずるのであり、正義の ₂ つの見解 についてひとはさらに主観的正義と客観的正義とを区別することができるのである([56]
頁)。
その現存在の正当化を見出さないほどに彼らにとって役立たないのである。[107]「そ れというのも、正義が滅びるならば、人間が地球上に生きることはもはやどのような 価値をももたないからである」←。世界は滅ぶとも、正義をして行われしめよ (Fiat
justitia, pereat mundus)!ここで法と国家に基づいている絶対性のパトスには、個人
主義的な法および国家哲学のすべてがこれと同じ感動的なものをいささかも対置する ことができない。これらの哲学にとっては法と国家は究極的には個人に奉仕する諸手 段のための手段にすぎないのであり、きわめて冷めた合目的性の技術的な諸処置であ り、必要悪にすぎない。そして個人主義もまた絶対性というパトスを有しているとし ても、それでもそれは法と国家とは別のところに、すなわち人格性に、それゆえに国 家思想の此岸または彼岸に置かれているのである。その生涯の仕事の領域を諸価値の 王国の中枢に可能な限り近づけたいと思っている「純血種の法律家」の「所轄愛国主 義」は、それゆえに超人格主義的な法観に傾くであろう。人格主義的―自由主義的な(13) こ の 矛 盾 に つ い て は、Salomon, Kants Strafrecht in Beziehung zu seinem Staatsrecht, Zeitschrift f. d. ges. StrafRW., Bd. 33,← S. ₁ ff., 参照。
(2098)
同志社法学 61巻 ₆ 号 20
見解に対して防衛するために、それゆえにそれよりも後に成立しており、それよりも 深い坑道を穿たなければならなかった超人格主義的―保守的な見解は、その倫理的な 態度表明においてより細分化された思弁的な深意とより包括的な共鳴という学問的美 学的な趣味の理由を通して自らを決定させようとする者にとっては、つねにより大き な魅力を保持するであろう。
ところで、超人格主義の防衛的な成立の仕方からしてさしあたりは消極的でしかな いその本質もまた明らかになる。超人格主義は、法と国家がその品位を個々人から知 行として受け取るのでないと主張することに自らを制限するが、しかし、では、他の どこから法と国家にこの品位が流れ込んでくることがあり得るのかについては、きわ めて多様な見解を許す。超個人主義的な法価値の最も唯心論的な見解にも最も自然主 義的な見解にも―神の命令から人種の保存に至るまで―、それゆえに超人格主義 を通して最も広い余地が開かれるのであるが、このように可能な超人格主義的な法形 而上学の体系[103]を展開し、この体系の完全性をどうにかして保障することがで きるであろうような何らかの手段も、どうやらないようである。相対主義が人格主義 的な法観の積極的な諸要求を、法の倫理的な諸目的を達成するために必要な社会的手 段を学問的な確信力をもって展開することができる一方で、しかし相対主義は、超人 格主義的な見解については、厳密に考えて、この見解が人格主義的な諸要求を否認し なければならないであろうということを確認することに自らを限定しなければならな いのである。積極的な内容というものを、哲学的思念よりも多く歴史的な思念に基づ いて、すなわちまさに超人格主義の弁明的、保守的な性質への思念を通して超人格主 義に与えることができるのである。超個人主義の積極的な諸要求は、与えられた法状 態の維持に向けられているのであり、このような要求の[108]の根拠づけは、純個 人主義的な、それゆえに超人格主義にとっては拘束力のないその敵対者の諸論拠を論 破することにおいて成り立っているのである。
《有機体説と契約説》
2つの国家観のいずれもがその国家理想をひとつの像のもとに考える。超人格主義 的な国家観は有機体(156)という像のもとに、人格主義的な国家観は契約という像 のもとに、というように。
《有機体としての国家》
一個の有機体におけるように、人間の身体におけるように、良き国家というものに おいても全体はその成員のためにあるのではなく、成員が全体のためにある―この ように超人格主義はメネニウス・アグリッパ (Menenius Agrippa)から下ってギール
(2097)