著者 平良 好利
出版者 法学志林協会
雑誌名 法学志林
巻 107
号 2
ページ 53‑94
発行年 2009‑09
URL http://doi.org/10.15002/00009907
戦後沖縄と米軍基地
( 一 一 一 )
││沖縄基地をめぐる沖米日関係
│
│ 序本論文の課題
第一章沖縄米軍基地の形成(以上百六巻二号) 第二章沖縄の戦後復興と米軍基地(以上百六巻三号) 第三章沖縄の分離と軍用地使用問題 第一節対日講和と沖縄
一﹁日米安保条約﹂の沖縄適用をめぐって
二沖縄住民の日本復帰運動 三特別基地協定と沖縄返還
戦後
沖縄
と米
軍基
地(
三)
(平
良)
第二節第四章
第五章
第六章
第七章
おわりに
平
女 子 利 良
軍用地使用問題
陸軍省の軍用地買い上げ構想
軍用地買い上げ構想の後退(以上本号)
土地接収と補償問題
軍用地使用政策の確立と基地の拡大
沖縄返還と﹁基地問題﹂
基地労働者・軍用地主にとっての日本復帰
五
法学志林
第 一
O
七巻
第二号
五回
信用 二一 立
早
沖縄
の分離
と軍用地使用問 題
周知の通り ︑一九五一年九月八日にサンフランシスコで調印された対日平和条約は︑その第三
条で
︑
アメリカが沖
縄を国連の信託統治のもとに置くという提案をするまでの問︑アメリカは沖縄の﹁行政 ︑立法及び司法上の権力の全 ︐
(1) 部及び一部を行使する権利を有する﹂ ︑と定めている︒そして講和会議でアメリカ代表のジョン・
F
・ダレス
(] OF
D
吋 ・
ロ ロ ロ
︒
ω )は︑この対日平和条約を説明する際 ︑沖縄に対する日本の
﹁
潜在主権
﹂(吋
2 5 5 ‑
ω 0 3
吋包∞
ロミ
)を
認め
る発言を行っている︒
つまりアメリカ政府は ︑このダレス発言によって沖縄に対する﹁潜在主権﹂を日本に残すこと
を認めって対日平和条約第三条によって引き続き沖縄そのものを排他的に統治することになるのである︒
そもそもアメリカ軍部が沖縄の戦略的重要性を認識し ︑その沖縄を﹁主要基地地域﹂に含めることを決定したのは︑
第一章でみたように ︑沖縄戦終結から僅か四ヵ月後の一九四五年一
O
月のことである ︒この沖縄の戦略的重要性に関するアメリカ軍部の認識は ︑その後米ソ冷戦が本格化していくなか国務省にも共有されるようになり ︑
アメ
リカ政府
は四
九年二月
︑
沖縄基地を長期
にわたって保
有し︑
その沖縄基地を本格開発することを国家レベルで決定する
( Z ω
のロ
¥∞
(印
))
︒そ
の後
アメ
リカ
は
︑この沖縄基地の長期保有を前提としたうえで ︑沖縄そのものを排他的に支配
するための国際的承認を如何に獲得するかについて ︑その本格的な検討を開始する ︒その検討の末にアメリカ政府が
導き出した答えが︑上に挙げた対日平和条約第三条と﹁潜在主権﹂であった︒
この対日平和条約第三条と﹁潜在主権﹂をめぐる政策決定過程については︑
すでに河野康子
︑宮里政玄 ︑
ロ
ノ1
ト・エルドリッヂ︑そして明田川融らによるすぐれた研究が存在する︒そこで本章では︑沖縄の処遇をめぐる議論の
なかで︑日本︑
アメリカ︑沖縄のそれぞれの政治指導者たちが在沖米軍基地をどのように取り扱ったのかに焦点を絞
り︑この政策決定過程を考察していくことにする︒
また本章後半では︑この沖縄の処遇問題と並行してアメリカ軍部が検討した沖縄における軍用地使用政策について 考察する︒国際政治の観点からみれば
︑
アメ
リカは
対日平和条約第三条によって沖縄そのものを排他的に統治したこ とで︑沖縄基地を他国からの干渉なしに自由に使用できる態勢を整えたわけであるが︑しかしそれだけで沖縄基地を 安定的に使用できると
い
うわけではなかった︒沖縄墓地を安定的に使用するためには
︑他国か
らの承認の
他に
︑
アメ
リカは沖縄住民の支持ないし黙認がどうしても︑必要だったのである︒この沖縄住民の支持ないし黙認を土地という観
アメリカは沖縄の基地用地︑すなわち軍用地を講和後も継続使用するために︑その土地の使用権を土 地所有者から取得するか︑あるいはその土地を強制収用しなければならなか
ったのである
︒ 点からみれば︑
世 田 畑 一 片 即
対日講和と沖縄
﹁日米安保条約﹂の沖縄適用をめぐって
対日講和に関する国務
・国防両
省間の合意事項をまとめた覚書が
トル
l
マン大統領の承認を得たのは ︑一九
年
O
五九月八日のことである︒対日講和交渉を進めていくことを彊ったこの覚書
( Z ω
の
8
¥
日 )
は︑軍部の意向を採り入れ て︑北緯二九度以南の琉球諸島の排他的で戦略的な管理を対日平和条約で保証すべきことを打ち出している︒この覚
室田に基づいて国務省は︑九月一一目 ︑
対日平和条約草案(九月草案)を作成するが︑そのなかで沖縄の処遇について 戦後沖縄と米軍基地(三)(平良)
五五
法学志林
第一
O
七巻第二号
五六
次のように定めている︒﹁合衆国は北緯二九度以南の琉球諸島(中略)を︑合衆国を施政権者とする信託統治システ
ムの下に置くよう国際連合に対し提案するであろう︒この提案が承認されるまでの問︑合衆国はこれら諸島に対する
行政︑立法︑司法の全権を有する﹂︒この九月草案をコンパクトにまとめたものが︑のちに﹁対日講和七原則﹂とし
( 5 )
て知られる九月一一日付けの覚書である︒同覚書は沖縄の処遇について︑﹁(日本は
( 6 )
琉球諸島および小笠原諸島の国際連合による信託統治に同意する﹂︑とのべている︒ (中略)合衆国を施政権者とする
このように九月段階で国務省は︑沖縄を国連の信託統治下に置くことを方針として打ち出していたわけであるが︑
しかしその翌月から同省は︑沖縄を日本に返還することを模索することに
な る
︒
この
﹁信託統治﹂案に疑
問を
もち
︑
代わりに﹁沖縄返還﹂案の検討を北東アジア課のアレクシス・ジョンソン
( d
‑
O ω
︼E
也o y
ロ
ω
O
ロ)次長に提案したのは︑東京からワシントンに帰任したばかりのジェラルド・ワ
l
ナl
5 0 5 5
ぎ
ω
5 0
円 )
と ︑
その元上司であった東
吉小
のウ
ィリ
アム
・
R ‑
シーボルト
( 巧 E 5 5 月 ・ ∞
︒ g E )
政治顧問であった︒
ジョンソンに宛てた一
O
月 二
二 日
付けの文書のなかでワ
l
ナーは︑﹁琉球諸島を日本の管理下に置いて米国の安全保障上の目標を達成することができるのであれば︑(中略)米国による信託統治か日本の領有かを再検討する価値が
ある﹂と進言している︒また同月二六日には東京のシlボルトが︑﹁戦略的要請を満たす有効な支配をしながら︑日
本に領土を保有することを認める領土条項の可能性を丁寧に模索する﹂ことの必要性について︑北東アジア課に提起
( 7 )
している ︒
注目すべきは︑このワlナl
やシ
lボルトの進言が︑実は領土問題に関する日本国民の世論や︑日本政府および諸
政党
の態
度︑
そして外務省高官との会談等に基づいて導き出されたものであったということである︒とりわけ外務省
高官との会談は︑直接ワ
l
ナーやシ!ボルトに日本政府の意向を知り得るチャンスを与えたということで︑極めて重
要なものであった︒また外務省にしてもこの会談は︑
日本側の意向を直接アメリカ政府職員に伝える︑またとない機 会であった︒
外務省管理局長の倭島英二は︑ワ
l
ナ!に対し沖縄の処遇問題を次のように訴えている︒﹁米国が墓地を得るため に日本の信託統治を必要とはしないのと同様に︑基地を得るために琉球の信託統治を必要とはしない︑と非常に強く
感じている︒爪中略)したがって︑基地を獲得することが信託統治の第一の目的ならば︑
( 8 )
日本自体に適用されるのと同様の基地取り決めを結んでもらいたい
﹂︒ここで倭島は
︑日本と沖縄の米軍基地を同じ
(中略)琉球の主権を回復し︑
法的枠組み
(基地取り決め)
に置いたうえで︑沖縄を日本の施政権下に戻すことを求めたわけである︒
また外務省条約局の安藤吉光も︑シ
l
ボルト顧問に対し︑﹁国民が講和に対し好意的になるかどうかは︑領土条項
にかかっている﹂︒﹁琉球諸島は︑四
OO
年来(慶長の役以来)日本の一部である﹂と訴えるのであった︒倭島らのこ うした行動は︑後述するように︑当時西村熊雄条約局長を中心に外務省内部で進められていた︑対日講和準備作業に
基づくものであったといえる︒
さて
︑
シ
l
ボルトやワ
l
ナーからこうした進言を受けたジョンソン次長は︑部下のロバ!ト・
A
・フィアリi
( 問
︒
σ σ
ユ
﹀
・
司 ︒ω
吋AUM︑ )
に対し︑﹁信託統治﹂案の再検討を指示している︒これを受けたフィアリ
l
は ︑
一一
月
一回
目︑
ジョンソン宛の覚書を作成し︑
そのなかで次のようにのべている︒すなわちフィアリ
1
は︑﹁なぜ我々は北緯二九度以南の琉球諸島全域を恒久的に支配しなければならないのか﹂︒﹁レーダー基地や主要基地周辺地域の必要性は認めら
れようが︑なぜ我々はそれ以外の土地と住民まで支配しなければならないのか﹂︒﹁なぜ我々は日本本土で得られると
戦後沖縄と米軍基地(三)(平良)
五七
法学志林
第 一
O
七巻
第二号
五 八
考える ︑かなり広範囲な軍事的権利よりもさらに大きな権利を琉球諸島で獲得しなければならないのか﹂と
のべ
︑
(叩 )
メリカ軍部の立場を批判している︒
ア
これを受けたジョンソンは
︑一
一月
一七日
︑
ディ
lン・ラスク
( ロ
g D
H N g
宵)国務次官補に対してこのフィアリ ーの覚書を転送すると同時に︑みずからの見解を記した次のような覚書を送っている︒ジョンソンはいう
︒
﹁我
々は
琉球の信託統治問題を完全に解決済みの問題として考えるべきではなく︑日本との二国間軍事協定が固まった段階で︑
ペンタゴンに対してこの協定を琉球にも延長することで軍部が必要とするもの全てが得られるのではないかという問
(日 )
題を提起すべきである﹂︒このジョンソンの進言に基づいてディlン・
G
・アチソン
( ロ
g
ロの
・﹀
の
y
g o
ロ)国務長官
は ︑
それから一ヵ月後の一二月一三目︑ジョ
ー
ジ・
C
・ マ
ー
シャ
ル ( の ゆ
O門
的︒
(
・
ミ ζ
Vω 宮口)国防長官に書簡を送り
︑
次のような打診を行っている︒すなわち︑
﹁
沖縄の地位を特別に考慮することが想定される軍事的安全保障協定の規
( ロ ) 定を条件として
︑
琉球と小笠原諸島を日本の主権下に残す﹂というのはどうか︑という
打
診で
ある
︒ このように国務省が日本の主権下に沖縄を残すことを模索していたころ︑ちょうど国防省は国務省と協力して︑米 軍の日本駐留に関する細目まで組み込んだ日米二国間
﹁
軍事的安全保障協定﹂案を検討していた︒この協定案は︑の ちに日米間で成立する
﹁
日米安保条約﹂
のアメリカ側原案とでもいうべきものであったが︑国務省はこの日米二国
間
﹁
軍事的安全保障協定﹂を沖縄にも適用することによって︑軍部の求める沖縄基地の排他的権利も確保でき︑また日
本復帰を求めている沖縄住民や日本国民の感情をも満足させ
︑
しかも沖縄統治にかかる経済的負担も回避できる
︑と
考えたわけである
︒
しかし国務省の提案したこの﹁沖縄返還﹂案に対し︑アメリカ軍部は真っ向から反対する
︒
陸軍省に宛てた一二月
二八日付けの電報で東京のマッカ
l
サl
極東軍司令官は ︑﹁アメリカの費用で要塞化されたこの地域(沖縄と小笠原に対する支配を手放したり︑この地域の使用を放棄することなど問題にもならない﹂(括弧は筆者)との
べ ︑
( 日
)国務省の返還案に強く反対する︒また統合参謀本部も翌五一年一丹三目 ︑直接ダレスやラスクに対し ︑
﹁琉
球と
小笠
諸島
)
原諸島はアメリカの戦略的支配下に維持されるべきであり ︑日本の主権は回復されるべきではない﹂ ︑と明確にのべ
るのであった︒統合参謀本部がこのように返還案に反対した背景には ︑少なくとも次の三つのことがあったといえる ︒
一つ
は
︑同本部の下部組織である合同戦略調査委員会が指摘しているように︑日米聞に﹁恒久的な軍事的安全保障協
定﹂を設けることは︑﹁日本の主権概念とは調和
しない
﹂︑とい
うことである︒
つまり岡本部は︑﹁恒久的な基地﹂が
必要とされている沖縄を日本本土と同じ法的枠組み
(軍事的安全保障協定)
に置いた場合 ︑その法的枠組みは﹁恒久
的﹂な性格を有するものとなってしまい︑そうすると独立回復後の日本の主権を侵害することになってしまう ︑と考
えた
わけ
であ
る︒
いま一つは ︑明田川融が指摘しているように ︑国防省と国務省が検討して
いた日 米二国間﹁軍事的安全保障協定﹂ 案の内容自体が︑沖縄を自由に使用することを考えていた岡本部の意向と全く相容れないものであった ︑とい
うこと
つま
り
︑有事の際の基地使用および軍隊の配置に関する日本との﹁協議﹂を謡った同協定案が︑沖縄基地を 他国からの干渉なしに利用することを考えていた岡本部の意向と ︑全く相容れないものであったというわけである︒
であ
る︒
三つ自の背景には︑朝鮮戦争を戦っているなかで
B l
二九爆撃機の出撃基地や対空砲火部隊の演習基地として有効
に使用していた沖縄基地を︑行動の自由を制約することになる同協定の下に置くことなど︑岡本部にとっておそらく
容認しえるものではなかったということである︒柴山太が明らかにしたように ︑ちょうど統合参謀本部が沖縄返還案
戦後沖縄と米軍基地(三)(平良)
五
九法学志林第一
O
七巻
第二号六
O
を拒否したところ︑朝鮮半島において米軍(国連軍)は中国の本格介入によって劣勢に立たされており︑岡本部はこ
( 口
)
の戦争が﹁極東大戦争﹂ないしはソ連参戦による米ソ﹁全面戦争﹂にまで発展することを︑深刻に懸念していた ︒こうした極度の危機的状況下にあって沖縄基地に制約を課することなど︑同本部にとってはおそらく想像もできないこ
とであったといえよう︒以上︑こうした軍部の強い反対を受けて国務省は︑結局のところ沖縄に日米二国間﹁軍事的
安全保障協定﹂
を適
用し
︑
その施政権を日本に返還するという案を取り下げることになるのであった ︒
では︑国務省がこうした﹁沖縄返還﹂案を模索していたころ︑日本政府は沖縄の処遇問題についてどのような考え
を持っていたのであろうか ︒外務省が講和条約締結に向けた準備作業を本格的に開始したのは︑
一九
O
五年九月に入ってからのことである ︒同月一四日にトル
l
マン大統領が発した声明(対日講和問題に関する非公式討議を各国と開始するという声明)や︑翌一五日にアメリカ政府当局者が発表した﹁対日講和構想﹂を受けて︑同省はその準備作業
を開始したわけである ︒
トル
l
マン大統領の特使としてダレスが日本を訪問し︑吉田茂首相と会談をもったのは︑翌五一年一月末から二月初旬にかけてのことであるが︑それまでのおよそ四ヵ月間︑西村熊雄条約局長を中心とする外
務省は︑吉田の指示を受けながら︑この講和準備作業を進めていくことになる ︒
まず西村ら事務当局が最初にまとめ上げたものは︑彼らが﹁
A
作業﹂と呼んだ文書類である︒一O
月四日に完成したこ
の﹁
A作業﹂
は ︑
﹁Aー一対日講和問題に関する情勢判断﹂︑ ﹁
Al二米国の対日講和条約案の構想﹂
︑ ﹁
Al三
米国の
対日平和条約案の構想に対応するわが方要望方針案)﹂(以下﹁わが方要望方針案﹂という)︑そして﹁
Al
四対米陳述
書﹂の四つの文書からなっ
ている
︒このなかの二番目の文書︑すなわち﹁
A
ー二米国の対日講和条約案の構想﹂のなかで外
務省
は︑
アメリカが引き続き日本に米軍を駐留させる意図を持っていることと︑沖縄を国連の信託統治下に置
( 河 川 )
くことを考えていることを説明している ︒このアメリカの対日講和構想を念頭に置いたうえで外務省は︑﹁わが方要
(凶 )
望方針案﹂のなかで︑沖縄について次のような要望方針を示している︒
琉球列島(中略)は︑日本から切り離されないこと︒これは︑今後長きにわたる国民感情上の問題であり ︑
従つ
て米国側にとっても ︑政治的に重要な点として強く要望する︒米国の対日平和条約案の構想によれば ︑日本の本土
に米国軍が駐屯することとなる以上︑これらの諸島を本土と別個のベイシスにおく必要は︑何もない ︒
つまりここで外務省は ︑講和後も日本本土に米軍が駐留することを前提としたうえで︑その日本本土に適用される
米軍駐留に関する取り決めを沖縄にも適用し︑そのうえで沖縄を日本の主権下に残すことを考えたわけで
あ る
︒
前述
したように︑同省管理局長の倭島英二がワ1ナ
l
に対し
︑
﹁琉球の主権を回復し
︑日本自体に適用されるのと同様の
基地取り決めを結んでもらいたい﹂とのべたことは︑こうした同省の方針を示したものであったといえる︒
この日本本土に適用される米軍駐留に関する取り決めについて外務省は ︑同じ﹁わが方要望方針案﹂のなかで ︑次
のような基本方針を打ち出している ︒まず第一に ︑米軍駐留に関する取り決めは﹁平和条約と別個﹂にすること︑第
二に︑同取り決めでは米軍駐留の﹁期間﹂と
﹁地
点
﹂︑駐留
﹁経
費の
負担
﹂︑
そして駐留米軍の﹁特権﹂などを﹁合理
的且つ明確に規定﹂すること ︑
そし
て第
三に
︑
できる限り﹁国際連合との結び付き﹂を﹁密接且つ具体的﹂にするこ
と︑以上の三点である︒この基本方針に基づいて外務省は
︑
一O
月二目︑﹁日本の安全保障に関する日米条約案﹂なる文書を作成することになる︒外務省が﹁
B
作業﹂と呼んだこの﹁日米条約案﹂は ︑
のちに日米間で成立する﹁日
戦後沖縄と米軍基地(三)(平良)
ームー/¥
法学志林
第 一
O
七巻
第二号
‑'‑・ー /'¥
米安保条約
﹂の日本側原案とでもいうべきものであっ
たが
︑この条約を外務省は沖縄にも適用し ︑沖縄の日本か
らの 分離を阻止しようと考えたわけである ︒この﹁日米安保条約﹂の適用という考え方は︑上述した国務省の考え方と︑
ほぼ同じものであったといえる︒
しかし︑こうした﹁要望方針﹂を打ち出した外務省は︑
アメ
リカ側が
﹁
本土と別個のベイシスにおくことを固執す る場合
﹂
のことも考えて ︑次のような方式をその次善の策として
︑
前出
﹁
わが方要望方針案﹂のなかで記してい
る ︒
(幻)すなわち︑琉球諸島の﹁特定地域を限って︑本土とは別個の軍事的使用協定を締結する﹂という方式である︒つまふ杓ノ
外務省は︑琉球諸島内の特定地域に限って日米間で特別基地協定を締結し︑そのうえで同諸島を日本の主権下に残す
という方式を次善の策として考えたのである︒
しかしながらこの方式もアメリカ側が拒否した場合には︑やむを得ず外務省としては︑次のような態度をとるとし た︒すなわち︑
日本側は沖縄の﹁信託統治を受諾する﹂が︑しかしその場合でも信託統治地域を﹁最小限度に限定
︺
したうえで︑次の﹁いずれかの方式﹂をとるようアメリカ政府に要求する︑という態度である︒つまりその方式とは ︑ 第一に﹁日本と米国が共に共同の施政権者となる﹂こと︑第二に
﹁信託統治の期間を定め
︑期間
終了後は人民投票に
以 よ
上 つ
の て 三 帰
つ 属で を
あ(定
る23め
。 る
しー
しー
と
そして第三に﹁特定期間経過後︑米国は施政権者としての権利を日本に引継ぐ﹂こと︑
このように外務省は﹁
A
作業﹂において︑まずは日本本土と沖縄の米軍基地を同じ法的枠組み
(日米安保条約)
の
なかに置くことを考えて︑次いでもしそれをアメリカ側が拒否した場合には日本本土とは別個の
﹁
軍事的使用協定
﹂
(特別基地協定)を締結し︑
さらにこの﹁軍事的使用協定﹂の締結さえアメリカ側が拒否した場合には
︑
やむ
を得
︑ず
上記の条件のもとで信託統治を受け入れる︑という方針を打ち立てたのである︒
この
﹁A作業﹂を完成させた西村ら事務当局は︑翌一
O
月五日︑これを吉田首相に提出する ︒しかしこれに目を通した
吉田
は︑
一
O
月一一目︑これを厳しく批判したうえで西村に差し戻している︒﹁A
作業
﹂
の﹁
A
ー一対日講和問題に関する情勢判断﹂なる文書に﹁経世家とし市の経論に乏しきを遺恨とする﹂と書き込んだ吉田は︑さらに沖縄に関
する上記方針も謡われた﹁わが方要望方針案﹂についても︑﹁野党の口吻の如し無用の議論一顧の値無し経世家的
研究に付一段の工夫を要す﹂とその表紙に﹁大書﹂し︑これを痛烈に批判するのであった︒
吉田が
﹁ わ
が
方要望方針案﹂をこれほどまでに痛烈に批判したのは︑楠綾子が指摘するように︑西村ら事務当局の
立てた安全保障構想が︑吉田の意に全くそぐわないものであったからである︒﹁国連の集団安全保障の枠組﹂のなか
に日本の安全保障を位置づけて︑米軍の日本駐留を﹁あくまで国連による安全保障の代替措置﹂として位置づけてい
た事務当局の構想に対して︑吉田 の構想は︑﹁米国による安全保障という実質を重視する﹂ものであっ問︒かくて吉
回から辛錬な批判を受けた西村ら事務当局は︑﹁﹃経世家的見識﹄を吐露する意気込み﹂をもって︑
﹁
A
作業﹂の改訂版ともいえる﹁D
作業﹂を完成させる︒そして西村らは目黒官邸で堀田正昭元大使の意見を二度
に
わったて聴取したあと︑﹁
D
作業Lを一部訂正しその訂正版を吉田に提出している︒翌五一年一月五日に完成したこの﹁
D
作業﹂訂正版は︑吉田の意向を体現して︑﹁米国による安全保障﹂をより全面に打ち出したものとなっていた︒ 一二月二
七 日
︑
またこの﹁
D
作業﹂改訂版は︑沖縄に関する要望方針も書き変えており︑部分は訂正版で新たに付け加えられた部分︒なお︑括弧は原文のまま)︒ その方針は次のようになっていた
(括
弧の
戦後沖縄と米軍基地(三)(平良)
ームー/'¥
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第一
O
七巻
第二号
六四
沖縄︑小笠原諸島は︑覚書三によれば米国の信託統治の下に置かれることが提案されている︒われわれは︑米国
の軍事上の必要については十分にこれを理解し︑いかようにでもその要求に応ずる用意がある︒しかしながら︑こ
れら諸島が日本から分離されることは︑国民感情のたえがたいところである︒この点再考されんことを希望する︒
(もし信託統治に付せざるを得ざる場合においては︑その地域を軍事上必要とせらるる最小限にとどめ︑日本を共
同施政者とし︑また︑信託統治を必要とする事態の解消するときはこれらの諸島が再び日本に復帰せしめらるべき
ことを何らかの形において明らかにせらるるよう希望する)︒
この﹁
D
作業(訂正版)﹂が先に挙げた﹁A
作業﹂と比べて大きく異なる点は︑日本本土に適用される米軍駐留に関する取り決め(日米安保条約)を沖縄にも適用するという考え方が︑削除されている点である︒如何なる理由でこ
れが削除されたのかは不明であるが︑これによって西村ら事務当局が︑沖縄への米軍駐留と日本本土へのそれとを別
個に扱うことを明確にしたことだけは確かである︒
つ ま
り ︑
日本本土における米軍駐留に関しては日米安保条約に基
づくものと
し ︑
一方の沖縄に関してはアメ
リカ
の軍事上の要求には﹁いかようにも応じる﹂︑という態度をここで西
村ら事務当局は明確にしたわけである︒
さて︑第一回吉田
・
ダレス会談が開かれたのは一月二九日のことであるが︑その日の夜西村ら事務当局は吉田の指導を受けながら︑徹夜でアメリカ側に提出する﹁わが方見解﹂なる文書を作成している︒三
O
日の夕方にアメリカ側に手交されたこの
﹁ わ が方見解﹂なる文書は︑
前出﹁
D
作業﹂の内容を大方基盤とするもので
あっ
たが
︑﹁
﹃領
土
﹄と
か﹃安全保障﹄とか﹃再軍備﹄といった高度に政治性
のある事項について﹂は︑
吉田が直接西村ら事務当局に対して︑
( 却
)﹁﹁そこはこういいたまえ﹄と文言をみずから
口述
﹂して作成された ︒
この吉田が指示した﹁高度に政治性のある事項
﹂の
一つ
が
︑沖縄に関する文言
であ
る
︒西村ら事務当局は当初﹁
D
作業﹂を踏まえたうえで ︑
の軍事上の要求につ日本は)米国﹁ (
いて
はいかようにでも応ずる用意がある﹂(括弧は筆
者)という文言を﹁わが方見解﹂に記していたが ︑吉田はこの文言の後に﹁パl
ミュ
iダ方式による租借も辞さな
(却 )
い﹂という文言を加えるよう指示している ︒この吉田の態度について西村は ︑のちにこう回想している︒﹁沖縄・小
笠原を﹃租借地﹄として提供していいから信託統治にすることを思いとどまってほしいといわれる総理の勇断にいた
(剖 )
く感銘した﹂︒かく
して日本側は︑沖縄が信託統治下に置かれることを何とか阻止するために︑沖縄における
﹁
米国の軍事上の要求についていかようにでも応じる﹂と
いう立
場から︑さらにもう一歩踏み込んで︑沖縄を
﹁租
借﹂
地と
して提供することも﹁辞さない﹂
とい
う立場を明確に
する
ので
あっ
た︒
またこの﹁
わが
方見
解﹂
で は
︑
アメリカが信託統治に固執する場合のことも
考え
て︑
次の点を考慮するよう謡って
いる
︒すなわち︑①﹁信託統治の必要が解消した暁には︑これらの諸島を日本
に返還
﹂すること︑②住民が﹁日本の
国籍を保有する﹂ことを許可すること︑そして③日本を﹁合衆国と並んで共同施政権者﹂とすること︑以上の三
点で
(幻 )
ある︒先の﹁
D
作業﹂では︑信託統治地域を﹁軍事上必要とされる﹂特定地域に限定することを謡っていたが
︑
この
﹁わ
が方
見解﹂ではそうした限定はなくなっており ︑
一方
﹁
D
作業﹂には謡われていなかった沖縄住民の日本国籍保有が新たに加えられていた︒
この﹁わが方見解﹂をアメリカ側に提出したそ
の翌日
(一月=二日)︑第二回吉田・ダレス会談が開かれるが ︑こ
こでダレスは吉田に対し︑﹁国民感情はよく解るが︑降服条項で決定済みであって︑これを持ちだされることは︑
ア
戦後沖縄と米軍基地(三)(平良)
六五
法学志林
第 一
O
七巻
第二号
ム ハ ム ハ
ンフ
ォ
l
チュ
lネlトである︒セットルしたこととして考えて貰いたい﹂とのべ︑沖縄などの領土問題を議題とする
(犯 )
ことを拒否するのであった︒これまでの経緯をみても分かるように︑対日講和準備を進めるにあたって吉田と西村ら
事務当局は︑沖縄の処遇問題にかなりの意を配っていた︒しかしその吉田らの努力を無視するかの如く︑ダレスはそ
れを﹁解決済み﹂として冷たくあしらったわけである︒このダレスの態度について西村は︑のちにこう述懐している︒
﹁日米聞に恒久の友好関係を樹立するためには領土という国民感情上の根本問題にわだかまりを残しておいてはなら
ないとの確信から沖縄・小笠原の本国残留を実現するためパ
l
ミュ
l
ダ方式による租賃まで申しでられた総理の勇断にたいし些否反応も示さないで﹃解決済﹄てう冷たい鉄のとびらをおろした先方の態度は︑事務当局にとって
│
総理(泊)は平常の顔色・平常の態度でいられたが│まことにショッキングであった︒﹂︒
この会談以後日本側は︑﹁平和条約案に定められている原則(沖縄への信託統治適用)に修正を要講しようとする
ものではない﹂(括弧は筆者)と断ったうえで︑沖縄住民の日本国籍確保や日本本土と同様な教育方針の継続︑
て日本本土と沖縄との経済関係の維持等をアメリカ側に求めていくのであった︒
そし
沖縄住民の日本復帰還動
ところで︑こうした講和会議に向けた動きが徐々に活発化していくなか︑沖縄現地の政治指導者たちは如何なる態
度をとったのであろうか︒彼ら沖縄の政治指導者たちが講和会議を脱んでその動きを具体化させるのは︑五一年に入
ってからのことである︒沖縄群島政府知事の平良辰雄を党首とする沖縄社会大衆党が︑前出第二回吉田・ダレス会談
の行われた同じ目︑すなわち一月三二目
︑党常任
委員会で日本復帰署名運動を行うことを決定したのである ︒
沖縄群島政府とは︑志喜屋孝信率いる沖縄民政府に代わって︑前年(一九五
O
年)
一一
月に
‑設
置さ
れた
住民
側の
自
治組織である ︒この沖縄群島政府の発足に先がけて沖縄では︑群島政府知事選挙と群島議会議員選挙が同年九月に行
われたが︑この群島知事選挙に名乗りを挙げたのが︑琉球農林省総裁の平良辰雄と︑沖縄民政府工務部長の松岡政保︑
そして沖縄人民党党首の瀬長亀次郎の三氏であった ︒この選挙は事実上︑のちに初代行政主席となる比嘉秀平や︑二
代田行政主席となる当間重剛︑そして志喜屋孝信などが推す平良と︑護得久朝章︑大宜見朝計など沖縄民政府部長ク
ラスが推す松岡との一騎打ちの様相を呈したが︑選挙の結果は六万九五九五票を獲得した松岡に対して︑平良がそれ
(なお︑瀬長は一万四
O
八一
票)
︒
を八万九
0 0
0
て一五万八五二O
票を獲得し︑大差で勝利した票近くも上回っこの沖縄群島政府知事選挙で当選したばかりの平良を党委員長に据えて結成された政党が︑沖縄社会大衆党︑すな
わち社大党であった︒
一
O
月=二日に結成された同党は︑イデオロギーを前面に押し出すことなく﹁ヒューマニズムを基底﹂とした﹁革新的政策﹂を実施する﹁国民的政党﹂としてスタートし︑九月の群島議会選挙で当選した二
O
名の議会議員のうち︑実に一五名を同党所属議員とした︒沖縄群島議会で第一党の地位を占めたこの社大党が︑平良辰
雄を先頭に立てて沖縄における復帰運動を主導していくことになるのである ︒
﹁知事になれば︑自分のすべてをかけて︑復帰問題一
つ ﹂
に取り組む決意を固めていた平良は︑復帰署名運動を行
うことを党常任委員会で決定したあと︑さらに﹁沖縄の日本復帰促進のための決議﹂を行う目的で︑党書記長の兼次
佐一に命じて臨時党大会を開催させる ︒この平良の要請で聞かれた三月一八日の臨時党大会では︑次のような﹁馨明
書﹂が決議されるのであった ︒
戦後沖縄
と米軍基地(
三)
(平 良)
六七
法学志林第一
O
七巻 第二号﹂
¥ 1
︑
一/
︐/
(中略)思うに琉球人が日本民族なる事は今更論ずるまでもなく同一民族が同一の政治体制下に置かれる事は人
類社会の自然の姿である︒(中略)琉球が日本を中心としたアジア経済圏から独立して存在し得る事は恐らく不可
能であろう
︒
かく経済的に日琉の分離が不可能とするならば寧ろ琉球の日本復帰が琉球人の経済福祉上望ましいことは当然である︒更に旅行︑居住の自由︑学問の研究の利便等を考慮した場合日本に復帰することの望ましいこと
は論ずるまでもない︒故に琉球住民がその素質力量を充分に発揮し︑以て米国の世界政策に協力し︑人類永遠の平
和に貢献し得る道は歴史的︑地理的︑文化的︑経済的各方面から考察して︑日本行政下に立戻るに在ると思考され
る
︒
大多数の琉球人亦これを熱望している︒
よって我が社会大衆党は葱に琉球の日本復帰を要望する︒このように社大党は︑
﹁
米国の世界政策に協力﹂するとの態度を明確にしって沖縄の日本復帰を強く要望したわけであるが︑しかし﹁これだけでは対外的に沖縄住民の念願を訴えるには不十分﹂とみた平良は︑さらに翌一九目︑
沖縄群島議会において社大党所属議員の稲嶺盛昌に日本復帰要請決議案を提案させ︑一六対三(社大党議員一五名と
沖縄人民党議員一名が同決議案に賛成︑沖縄の独立を唱える共和党の三議員がこれに反対)の圧倒的多数でこれを可
決する︒そしてさらに平良は︑沖縄群島政府でも部長会議を聞き︑﹁復帰要綱﹂を決議するのであった︒こうして︑
党︑議会︑政府の三者を日本復帰の線でまとめた平良は︑最後に復帰署名運動を行うことによって沖縄住民の復帰意
思を国内外に示すことをめざすことになる
︒
一方︑社大党と並んで日本復帰に向けて行動を起こしたのは︑瀬長亀次郎率いる沖縄人民党(以下︑人民党ともい
う)であった
︒
人民党は︑戦後間もない一九四七年七月に結成された政党で︑沖縄で最もアメリカの沖縄統治に批判的な態度をとっていた政党であ犯
o
この人民党は二月二ニ日の党中央委員会で日本復帰を党の方針として決定するや︑さらに社大党が復帰決議をした同じ目
︑
すなわち三月一八目︑臨時党大会を開いて次のような復帰決議を行うのであ(必 )
っ た
(中略)琉球民族は初めから日本民族の一部である琉球民族の幸福はあらゆる面に於て日本人民との結合な ︒
︑
︒くしてはあり得ない ︒人民の大多数はこの事を理解し且望んでいる ︒これは単なる感情では無く過去に於ける生活
の体験から得た貴重なる結論である︒(中略)また講和条約は戦争状態の終結であり平和への移行でなければなら
ない
︒もし戦争を再び招来する要素を持つ講和形式ならば吾が民族の利益にとっては何の縁もないものであるだけ
でなく︑吾が民族にとって実に由々しい問題である︑人民の幸福を欲し平和を希望する人民党は当然全面講和を主
張するものである︒
社大党が対米協調路線をとりつつ日本復帰を主張したのに対して︑人民党は国内外の共産主義︑社会主義勢力の主
張する﹁全面講和﹂論を支持しつつ日本復帰を主張したのである︒この社大︑人民両党がそれぞれ復帰決議を臨時党
大会で決議する二
O
日ほど前(三月六日)︑人民党党首の瀬長は平良辰雄を訪問し︑﹁
日本復帰運動の共同闘争﹂を申し入れている ︒
しか
し平
良は
︑
﹁人民党のいう復帰論と︑われわれのそれとは思想的にも質的にも異なっていたし
︑
われわれの方向としては反米の線は一つもなかった﹂という理由から︑これを断っている ︒しかしこの共闘申し入れ
を拒絶した社大党は︑その後人民党が
﹁ 全
面講和﹂方針を留保にするという譲歩を行ったことにより︑結局のと
ころ
戦後沖縄と米軍基地主己(平良)
六九
法学志林
第 一
O
七巻
第二号
。
七人民党と協力して復帰署名運動にあたることを決定するのであった ︒
この復帰署名運動を推進するために四月二九日に結成された超党派の組織が︑日本復帰促進期成会である︒兼次佐
一社大党書記長を会長とするこの日本復帰促進期成会は︑五月二
O
日より復帰署名運動を開始し︑その後約三ヵ月間で対象住民(﹁琉球内に居住する二
O
歳以
上の
男女
﹂)
の七二・一パ
ーセントの署名(一九万九
0 0
0
余)を集め︑八月 一
O
目︑その署名録を日米両政府をはじめとする関係諸機関に送付する︒沖縄住民の復帰意思を国内外に示すという当初の目的を果たしたことにより︑同期成会はその結成趣意書で定めた通り︑その後組織を解散する︒
こうしてサンフランシスコ講和会議を目前に控えて沖縄の政治指導者たちは︑復帰署名運動を展開して沖縄住民の
復帰意思を国内外に示したわけであるが︑この日本復帰との絡みで彼ら政治指導者たちは︑沖縄の米軍基地について
どのような態度をとったのであろうか︒復帰署名運動を推進した同期成会は︑その結成趣意書のなかでこうのべてい
る︒﹁全面講和や基地提供反対等の主張をせず此の運動を単に琉球の帰属問題に局限する﹂︒
つま り周 期成 会は
︑
アメ
リカへの﹁基地提供反対﹂を主張せずに︑いわば墓地の存在を是認したうえで︑沖縄の日本復帰を求めたのである ︒
日本外務省とアメリカ国務省が当初沖縄の米軍基地の存在を容認したうえで︑沖縄の施政権返還を考えたのと同じよ
うに︑沖縄の政治指導者たちの多くもまた︑アメリカの基地使用を容認したうえで︑沖縄の日本復帰を求めたわけで
ある
前章でのべたように︑沖縄の政治指導者たちがこの復帰署名運動を精力的に展開していた頃︑沖縄では本格的な基 ︒
地建設が推進されていた ︒この基地建設工事に職を求めて沖縄本島には︑奄美群島や宮古・八重山群島などからも
人々が殺到し︑沖縄はまさに﹁墓地建設ブlム﹂で活況を帯びていた︒戦後停滞していた沖縄の経済復興は︑こうし
た基地建設のもたらす経済的な波及効果を最大限に活かす形で推し進められ︑沖縄の経済構造はこの頃から急速に基 地依存経済へと変貌を遂げていく︒こうした経済環境の変化のなかで沖縄の政治指導者たちは︑アメリカへの
﹁
基地 提供﹂に﹁反対
﹂しないと明言
したうえで︑復帰署名運動を展開したわけである ︒
特別基地協定と沖縄返還
さて︑話をアメリカ側の動きに戻すが ︑一月一三日の吉田・ダレス会談でダレスが沖縄問題は
﹁
解決済み﹂との態 度を吉田にとったことは前述した通りである︒しかしこの会談以後ダレスと国務省は︑信託統治の沖縄への適用回避 と沖縄に対する日本の主権残留という方向で動き出
すことになる
︒その具体的な表れとして国務省は
︑三月二三日付
けの平和条約草案(三月草案)のなかで︑次のように沖縄の信託統治化を希薄化してみせるのであった︒すなわち︑
前年九月に作成した九月草案では︑アメリカは北緯二九度以南の琉球諸島を国連の信託統治のもとに置くことを
﹁
提案する
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ロ) 公使 は︑
その
二日前の三
月二 一目︑この表現変更についてイギリスの外務次官に対し︑次のように説明している︒すなわちア
それで﹁提案する﹂ではなく﹁提案するか
(日 )
もしれない﹂という表現を採用することにした︑とイギリス側に説明したのである︒ リソンは︑琉球に対する主権はいずれ日本に返還する可能性もあるので︑
この平和条約草案の表現変更に影響を与えたと思われ
る要因の一つに
︑国務省極東局のル
l
ス ・
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ー
コン
(月三宮間∞
R O
ロ)女史が作成した信託統治に関する覚書がある︒上司であるアリソンの依頼に基づき三月七日に作
戦後沖縄と米軍基地(三)(平良)
七
法学志林
第 一
O
七巻
第二号
七
( M )
成した覚書のなかでベ
ー コ
ンは
︑信託統治を沖縄に適用するこ
との
問題点を次のように列挙して
いた
︒
(一)ソ連が琉球の戦略的信託統治について拒否権を行使することが予想さ
れる
︒
(二)通常の信託統治についても国連総会がそれを承認するにはかなりの困難がある︒
(三)米国は施政権者として信託統治に関する国連の査察を受け入れる義務を負う︒
(四)琉球の人々が日本統治下でかなりの程度の自治を享受していたことを考えれば︑彼らに相当程度の自主的
政府を認めなければ
︑い
かなる統治体制にも反発する︒
(五)琉球の人々の間には︑現在︑日本復帰を望むかなり強固な感情が見受けられる
︒
(六)戦前の琉球の貿易はほとんど日本との閣のものであったが︑もし琉球が日本から切り離されてしまえば︑
その対日輸出は日本の関税規制に服することになる ︒
(七)琉球を信託統治下に置けば︑
アメリカは同諸島の経済状態を改善するために財政上の義務を負うことにな
る
(八)もし安全保障上の目的で住民の土地がかなりの程度アメリカ側に譲渡された場合︑国連の信託統治理事会
は住民福祉に与える影響を調査し︑調査結果や勧告という形で懸念を表明する恐れがある︒
(九)施政権者の諸施設と比較して現地住民の住宅や他の施設が差別的に扱われた場合︑信託統治理事会が懸念
を表明する可能性がある ︒
(十)アメリカが琉球の信託統治を国連に申請すれば︑
他国
から
︑
アメリカは領土の拡大や軍事基地を獲得する
ための手段として信託統治制度を利用しようとしていると解釈されてしまう ︒
本稿のテ
l
マとの関連で特に興味深いのは︑(八)の指摘である︒
ここでベ
ーコ
ンは
︑
アメリカが安全保障上の目
的で住民から﹁
相当程度
﹂の土地を接収した場合︑信託統治理事会が介入してくる可能性を指摘したわけである ︒後
述するように︑国務省が一九五二年に入って再度﹁沖縄返還﹂案を軍部に提案した際︑軍部は沖縄返還によって土地
接収が困難になることを理由の一つに挙げてこれに反対するが︑そのことと重ねて考えれば︑このベーコンの指摘は
興味深い ︒軍部が沖縄を日本に返還した場合に新規の土地接収が困難になると指摘したのに対して︑
一方
のベ
ー
コン
は沖縄を信託統治下に置いた場合にそうなるであろうと指摘したわけである ︒
このように沖縄への信託統治適用回避に向けて再び動き始めた国務省は︑一九五一年五月三日作成の米英共同条約
草案に対する関係諸国の見解を記した六月一日付けの文書のなかでも︑﹁琉球の喪失に対する日本の強い感情を考慮
して
︑名目上の主権を日本に残すほうが利益となる﹂とのべている︒また︑六月七日に聞かれた米英協議でも ︑
ダレ
スが
ハ
lパlト・モリソン
( E 2 Z
ユ 7
A 2 1 8
ロ)英外相に対し︑日本と沖縄との経済的歴史的なつながりを指摘し
たうえで︑沖縄に対する日本の主権を他に委譲することに反対である旨を伝えている︒これを受けた
モリ ソ ンは︑こ
の問題は本来的にアメリカの意向にかかわる問題であるとして︑ダレスの見解に同意するのであった︒
当初イギリスは︑
オーストラリアやニュージ
ーラ
ンドなど英連邦諸国への配慮等もあって︑沖縄に対する日本の主
権放棄と信託統治の適用を主張していたが︑この米英協議の結果同国は︑日本の主権放棄に反対するアメリカ側の見
解を受け入れたのである︒かくして河野康子が指摘するように︑﹁この時期には講和条約における沖縄の信託統治と
戦後沖縄と米軍基地
(三
)(
平良 )
七
法学志林
第 一
O
七巻
第二号
七回
は︑日本の主権放棄を伴わないものであるとの理解が米英聞に成立した﹂のである︒なお︑米英間で合意した条約草
案は次
の通
りで
ある
︒
日本国は︑北緯二九度以
南の 琉 球 諸 島
(中略)
を合衆国を施政権者とする国際連合の信託統治システムの下
に置
くという︑合衆国の如何なる提案にも同意する︒このような提案が行われ︑かつ承認されるまでの問︑合衆国は領
水を含むこれら諸島の領域︑住民に対する行政︑立法︑司法の権力
の全
て及び一部の権利を行使する権利を有
する
もの
とす
る︒
かくしてダレスや国務省にとって残る大きな問題は︑沖縄の﹁排他的な戦略的管理﹂につ
いて
の
最大限の保障を求
める米軍部をどう説得するかにあった︒ダレスは六月二七日のマーシャル国防長官との会談に備え ︑沖縄に関する覚
書を用意するが
︑そ
のなかで次のような主張を展開している︒すなわちダレスはこの覚書のなかで ︑
アメ
リカは領土
不拡大の原則に従って沖縄
の﹁主 権を取得することは望まない﹂とのべたうえで ︑もし日本が主権移譲国を決めない
で主権を放棄した場合︑あるいはアメリカの申請する信託統治を国連が承認しなか
った場合
︑主権の所在をめぐ
っ て 国際的な混乱が生じることを指摘している ︒ ダレスが想定したのは次の四
つ の
場面である︒まず第一は ︑主権が沖縄住民に与えられる場面である ︒
第二
は︑
ソ
連を含む対日戦争の戦勝国が日本の放棄した主権を獲得する場面である︒第三
は ︑
国連が独自の方法で沖縄の領土と
住民を取り扱う権利をもっ場面である︒そして第四は︑アメリカが口実を‑設けて主権を実際上取得する場面である︒
ダレスはこうした主権の所在をめぐる問題点を指摘したうえで︑主権をむしろ日本に残したほうが軍部の要求する
沖縄の﹁排他的で戦略的管理﹂を実現することができる︑と主張するのであった︒つまりここでダレスは ︑
﹁日
本に
主権を残すことと ︑米国の排他的支配とは両立するばかりでなく ︑
(印 )
条件でもある﹂という論理を展開したわけである︒ 日本に主権を残すことが米国の支配にとって必要
六月二七日のダレスとマーシャルの会談記録がないので確かなことは分からないが ︑おそらくマーシャルはこのダ
レスの論理に納得したのではないかと思われる︒かくしてそれからおよそ二ヵ月後の九月五日 ︑サンフランシスコ講
和会議においてダレスは︑沖縄に対する日本の﹁潜在主権
﹂を口頭で容認し︑最終日の九月八日には ︑沖縄の処遇を定めた対日平和条約が各国間で調印されるのであった︒
こうしてアメリカは対日平和条約第
三条によって引き
続き
沖縄をみ
ずからの統治下に置くための国際的承認を得ることになるのだが︑しかし同条約の調印から僅か一ヵ月後の一 O 月一七日︑米軍内部から思わぬ提案が上がることに
なる
︒
マッ
カ
l
サl
に代わって司令官となったマシュl・B
・リッジウェイ( 宮 内 巴
5 0
話 回
・
2
己的宅ミ)率いる極東軍司令部が ︑
沖縄の施政権返還案を提起したのである︒同司令部の提示した﹁沖縄返還﹂案とは
︑在沖米軍基地の
﹁
排他的支配
﹂を
‑
認める特別基地協定を日本と結んだうえで︑沖縄の施政権を日本に返還する︑というも
ので
あっ
た︒
アメリカの極東戦略のなかで重要な位置を占める沖縄基地をこれまでと変らず排他的に支配できる特別基地協定を日
本と結ぶことができれば︑あえて沖縄そのものをアメリカが政治的に支配する必要もなく ︑逆に同協定を結んで沖縄
の施政権を日本に返還すれば︑沖縄統治にかかるアメリカの経済的負担も軽減でき︑しかも沖縄返還を切望する日本
国民と沖縄住民の感情をも満足させ日米関係を良くすることができる︑というのが極東軍司令部の考えであっ問︒
戦後沖縄と米軍基地(三)(平良)
七五
法学志林
第 一
O
七巻
第二号
七 六
この極東軍司令部の提案を受けて国務省も︑翌一九五二年四月二日︑統合参謀本部との会議の場で︑再び﹁沖縄返
(位
)還
﹂
案を提起することになる ︒この国務省の返還案も同司令部と同じく︑日米行政協定を上回る権利をもった特別基地協定を日本と結んだうえで︑沖縄の施政権を日本に返還する︑という内容であった︒しかしこの会議で統合参謀本
部は︑同省の提案する﹁沖縄返還﹂案に真っ向から反対し︑沖縄の現状維持を強く主張するのであった︒国務省の提
案した返還構想が政治的・経済的なメリットをもっていたにもかかわらず︑しかも特別基地協定によって日米行政協
定を上回る権利が米軍側に保証されるにもかかわらず︑なぜ統合参謀本部はそれに強く反対したのであろうか︒その
理由のなかにこそ︑
アメリカ軍部が沖縄の基地ないし﹁基地の島・沖縄﹂を如何に捉えていたのかが︑よく示されて
いる
とい
える
︒
この国務省との会議でコリ
ンズ
陸軍参謀総長は︑
﹁現在沖縄には五つの飛行場がある ︒仮に沖縄住民が︑十分な耕
作地がないのでアメリカは飛行場を一つだけ持つべきだ︑と言えばどうなるか ︒彼らは日本政府に訴えるであろうし︑
そうすると我々はあらゆる種類の問題をかかえることになる﹂(括弧は筆者)とのべ︑沖縄返還後に現地住民が飛行
場用地の返還を日本政府に求める可能性を指摘している︒またパンデンバーグ空軍参謀総長も︑﹁我々は七つの飛行
場を持つこと︑あるいは飛行場を拡大することを望むかもしれないが︑そうした場合に多くの問題をかかえることに
なる
﹂とのべて︑沖縄返還後に新規の土地接収が困難になることを訴えている︒
これに対して国務省のシlボルト政治顧問は︑﹁こうした問題はあなた方の実際の要求に応じるための
委員会によって解決できるのではないか﹂(括弧は筆者)と返答するが︑これに対してオマ
1
・N
・ブ ラ
ッド
レ
ー
(日
米合
同)
( O B R Z ・ 尽 包
‑ 3 )
統合参謀本部議長は︑﹁日本が常に我々の側についているとは限らない﹂と反論するのであっ
た︒ つまりここでブラッドレーは︑日本がもし反米化あるいは中立化した場合︑行政協定を上回る権利を持
った特別
基地協定があろうがなかろうが︑また土地接収を話し合うための日米合同委員会があろうがなかろうが︑そもそも沖 縄基地を利用すること自体が困難になるのではないか︑という根本的な疑問を国務省に投げつけたのである︒
このブラッドレーの発言は︑今後も良好な日米関係を果たして維持できるのかというアメリカ軍部の不安をよく表 していると同時に︑もし日本が反米化あるいは中立化して将来アメリカから離れていった場合でも︑戦略的に重要な 沖縄だけは絶対に確保するという軍部の強い意志を表したものだといえる︒
アメリカ軍部はたとえ日本が将来アメリ カ陣営から離脱したとしても︑最後の最後まで確保すべき
﹁担保﹂としてこの沖縄を捉えていたわけである︒結局国 務省はこの軍部の態度を変えることができず︑翌五三年一二月末︑沖縄の処遇が確定することになる︒奄美返還協定
が日
米間で調印された同月二四日︑ダレス国務長官が﹁極東に脅威と緊張の条件が存在するかぎり︑残りの琉球諸島 (中略)において︑米国政府が現在の権限権利を行使しつ
οつける﹂という声明を出したことにより︑沖縄の現状固定 化が確定したのである
︒
では
︑
一方の統治される側の沖縄住民は
︑前述した復帰署名運動を展開したあと︑こ
の沖縄の処遇問題について如 何なる態度をとったのであろうか︒対日平和条約の発効(五二年四月二八日)
からおよそ九ヵ月後の五三年一月一
O
日︑日本復帰促進期成会に続く組織として沖縄諸島祖国復帰期成会が結成される
︒沖縄教職員会︑沖縄青年連合会︑
に そ 置 し
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長 を会 と と 念 な 頭 った屋良朝苗が就任し︑その彼を先頭に立てて
同期成会は一月
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人を動員して那覇で祖国復帰総決戦後沖縄と米軍基地(三
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法学志林
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七巻第二号七
八
起大会を開催する︒この講和後初の復帰運動を成功させた同期成会の基本的なスタンスは︑その会則で謡っている通
(侃 )
り︑﹁日米相互の理解に基づいて﹂日本復帰を実現していく︑というものであった︒復帰署名運動を展開した前出日
本復帰促進期成会と︑ほぼ同様なスタンスである︒また米軍基地への態度についても︑日本復帰促進期成会と同様に︑
米軍の基地使用を容認する︑というものであった︒デlビッド・オグデン(ロミ広﹀
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0向島
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民政副長官に宛て
(前 )
た五四年二月五日付けの書簡のなかで会長の屋良は︑次のような態度を明らかにしている
︒
沖縄が︑世界共産主義の侵略に対する自由諸国の防衛基地として︑戦略的に重要であることは︑住民もよく理解
しており︑住民は︑この目的のために︑米国の基地建設工事に貴重な土地と労力を提供して協力して来た︒また︑
基地の存在が︑現在の国際情勢下において︑住民の生活を支えるものの一つとなっておることも︑われわれは認め
ております︒従って︑われわれは︑米国の沖縄に於ける基地の維持には︑理念的にも経済的にも︑反対する立場に
はないのであります
︒
屋良はこのように日本復帰促進期成会と同様に︑いやそれよりもさらに明確に︑﹁世界共産主義の侵略に対する自
由諸国の防衛基地﹂としての沖縄の戦略的重要に理解を示し︑また﹁住民の生活を支えるものの一つ﹂として﹁基地
の存在﹂を容認する態度を示したのである︒
しかし現地米軍当局はこうした性格をもって進められた期成会の復帰運動に理解を示すことなく︑次のような書簡
を屋良に送り復帰運動の中止を求めることになる︒﹁沖縄において貴殿が復帰を扇動し続けることは︑琉球人に混乱