平 安 時 代 前 期 に お け る 親 王 出 家 と そ の 処 遇
│
│ 高 丘親 王 出 家の 影 響
││
岩 田
真 由 子
は じ め に 本稿
の目 的は 平安 時代 前期 にお ける 親王 出家 の実 態と 処遇 とを 明ら かに し︑ その 淵源 を探 るこ とで ある
︒当 該期 の 親 王 の 出 家 に 関 し て は︑ 平 安 時 代 の 臨 終 出 家 や
︑入 道 親 王 と 法 親 王 の 関 係 に つ い て 検 討 さ れ る 中 で 言 及 さ れ て い る⑴
︒し かし
︑出 家し た親 王の 処遇 を含 めた 解明 が主 要な 目的 では ない の で
︑ま だ 再検 討 す べき 余 地 があ る
︒そ こ で 本 稿で は︑ 先行 研究 の成 果を ふま えつ つ︑ 親王 が出 家後 に国 家か ら受 ける 処遇
︑と くに 経済 的支 給の 実態 を明 らか に し てい きた い︒ なお
︑本 稿で は︑ 僧か ら還 俗し た早 良親 王や 七世 紀に 出家 した 大海 人皇 子︑ 古人 大兄 皇子 等の 出家 は 考 察に 加え ない
︒
― 285 ―
第一 章 平安 初 期 の親 王 出 家の 特 質 第
一節
九 世紀 の皇 子女 の出 家の 特徴 九世 紀に は︑ 親王 八人
︑内 親王 四人
︑あ わせ て 十二 人 が 出家 し て いる
︵表 参 照
︶︒ 同 じく 天 皇 の皇 子 で ある 一 世 源 氏 は十 一名 出家 して いる
⑵
︒九 世紀 の親 王の 出家 理由 につ いて は︑ すで に 先 行 研究 に よ り︑ 病に よ る もの が 多 く︑ 他 は 天皇 の出 家・ 崩御 にと もな うも の︑ 仏道 修行 を志 した もの
︑政 争に より 廃太 子に 追い 込ま れた もの 等が 指摘 され て い る⑶
︒親 王 の出 家 の 初例 は 弘 仁 十三 年
︵八 二 二︶ に出 家 し たと 考 え ら れて い る 廃太 子 の 高丘 親 王
︵平 城 天皇 皇 子
︶ で ある
︒承 和七 年︵ 八四
〇︶ もし く は九 年
︵八 四 二︶ に出 家 し た正 子 内 親 王︵ 嵯峨 天 皇 皇女
・淳 和 天 皇 皇后
︶以 後
︑ 嘉 祥二 年︵ 八四 九︶
・ 嘉祥 三年
︵八 五〇
︶・ 仁寿 元年
︵八 五一
︶に 集中 して 出家 者が 出る
︒淳 和太 上天 皇と 仁明 天皇 の 崩 御時 期︵ それ ぞれ 承和 七 年︵ 八四
〇
︶︑ 嘉 祥三 年
︵八 五
〇︶ 崩御
︶に 集 中 し てい る が︑ 両 太上 天 皇・ 天 皇の 臨 終 出 家 や仁 明天 皇の 不予 によ る出 家が 影響 を及 ぼし
︑皇 族・ 貴族 の臨 終出 家や 病に よる 出家 者が 出て くる 契機 とな った と の 指摘 があ る⑷
︒ しか し︑ 当該 期の 親王
・内 親王 の出 家者 を概 観す ると
︑別 の 特 徴 が浮 か び 上が る
︒第 一 に親 王 の 出 家 年齢 が若 いと いう 点で ある
︒親 王八 人す べて が十 代・ 二十 代で 出家 して いる
︒嘉 祥三 年︵ 八五
〇︶ に父 仁明 天皇 の 出 家・ 崩御 にと もな い出 家し た三 人の 親王 も︑ これ に含 まれ る︒ ただ し︑ 内親 王に つい ては
︑出 家年 代の 判明 する 正 子 内親 王︵ 三十 代︶
・ 安勅 内親 王︵ 五十 代︶
・繁 子内 親王
︵三 十代 か
︶の 出 家 年齢 は 若 くな い⑸
︒第 二 の特 徴 は
︑第 一 の 特徴 と関 わる が︑ 出家 後ほ ぼ長 生き して いる とい う点 であ る︒ 出家 後す ぐ死 亡し たの は︑ 仁寿 元年
︵八 五一
︶以 前 に
﹁久 嬰二
熱病
一
︒医 療 難レ
救
﹂と い う理 由 で 出 家し た 繁 子内 親 王︵ 嵯 峨天 皇 皇 女︶ ぐ らい と 思 わ れ る⑹
︒ ま た 安 勅 内
平安時代前期における親王出家とその処遇 ― 286 ―
親 王︵ 桓武 天皇 皇女
︶は 出家 六年 後に 亡く なっ てい るが
︑他 は出 家後 二十 から 四十 年間 程度 生き てい る︒ 病を 理由 に 出 家す る人 が多 く︑ 臨終 出家 の文 脈で 捉え られ がち であ るが
︑病 を理 由に 俗世 を離 れて もそ の余 生は 長い
︒僧 とし て 長 い人 生を 送る 人が 多か った
︑と いう こと を前 提に 当該 期の 親王 の出 家を 考え なけ れば いけ ない
︒ 第
二節
親 王出 家の 手続
│上 表と 品位 の返 還│ 当該 期の 親王 が出 家す る際 の手 続き はど のよ うな もの であ った のだ ろう か︒ すで に牛 山佳 幸氏 が﹁ 入道 親王 は︑ 僧 尼 にな るこ とが 予定 され てい なか った 親王 もし くは 内親 王が 遁世 した 場合 に生 じた もの であ った から
︑法 親王 とは 対 照 的に
︑出 家時 に品 位を 辞退 する のが 原則 で あっ た と 思わ れ る︒
﹂ と述 べ
︑ま た
︑そ れ に伴 う 封 戸な ど も 返還 の 対 象 と なり
︑入 道親 王に なる こと は基 本的 に国 家か らの 経済 的保 障を 失 う と 指摘 し て いる
⑺
︒氏 は
︑安 勅 内親 王
︵桓 武 天 皇 皇女
︶︑ 是 忠親 王︵ 光孝 天皇 皇子
︶︑ 昭平 親王
︵村 上天 皇皇 子︶ の三 例の みか らこ れら の指 摘を され てい るの で︑ 表 に あげ た九 世紀 から 十世 紀前 半の 出家 した 親王
・内 親王 の実 例か らこ れら を再 検討 した い︒ まず
︑親 王・ 内親 王は 出家 する 際に 上表 を行 い︑ 出家 の許 可︑ 品位
・官 職・ 品封 の返 還を 申請 し︑ 天皇 から 出家 の 許 可を 得た 後︑ 品位 や官 職︑ 品封
・品 田・ 帳内 を返 還し てい たこ とが 確認 でき る︒ 嘉祥 二年
︵八 四九
︶に 出家 した 三 品 基貞 親王
︵淳 和天 皇皇 子︶ は出 家を 願う 上表 を行 い許 可さ れて いる
⑻
︒同 じく 嘉 祥 二 年に 出 家 した 四 品 安勅 内 親 王
︵桓 武天 皇皇 女︶ は﹁ 四品 安勅 内親 王入 道︑ 上表 還二
爵品
一
︒許
レ
之
﹂と あ り
︑上 表 し品 位 の 返還 を 申 請し て い る⑼
︒ そ の 一ヶ 月を 過ぎ た頃 に﹁ 勅︑ 四品 安勅 内親 王依
レ
願令
二
入 道一
︒ 宜二
封戸 及 帳 内 資人 品 田 收一 レ
公
︒但 無 品 本封
・帳 内 資 人 依レ
旧行
レ
之
﹂と あり
︑こ れら を収 公さ れて いる
⑽
︒ま た︑ 貞観 元年
︵八 五 九
︶に 出 家し た 四 品人 康 親 王︵ 仁明 天 皇 皇 子
︶は
︑出 家を 請う 上 表 の中 の
﹁若 矜レ
臣 優 者︑ 寛レ
奬 收二
其 封職
一
﹂や 上 表後 の 詔﹁ 詔︒ 人 康親 王
︑辞
二
其 官爵
一
︒帰
二
― 287 ― 平安時代前期における親王出家とその処遇
於 釈侶
一
︒宜
下
准二
国康 親王
一
收中
其品 封上
︒但 本封 旧并 帳内 資人 准二
無 品例
一
充レ
之﹂ から
︑官 職︵ 弾正 尹・ 常陸 大守
︶・ 品 位
・品 封の 収公 を願 い出 てお り︑ 品封 を収 公さ れて いる こと が確 認で き る⑾
︒そ し てこ の 詔 から
︑三 年 前 の斉 衡 三 年
︵八 五六
︶に 出家 した 四品 国康 親王
︵仁 明天 皇皇 子︶ も出 家 の 際に 品 封 を収 公 さ れ てい る こ とが わ か る︒ 貞観 十 四 年
︵八 七二
︶に 出家 した 惟喬 親王
︵文 徳天 皇皇 子︶ の場 合は
︑出 家 二 年後 に 異 母弟 清 和 天 皇が 封 百 戸を 増 し 与え る と い う 勅の 中で
︑﹁ 親 王譲
二
還 爵邑
一
之日
︵後 略︶
﹂と 述べ てお り︑ 惟喬 親王 が出 家の 際に 品位 と品 封と を返 還し てい るこ と が 判明 する
⑿
︒ 以上 のよ うな 手続 きを 経て 出家 した 有品 親王
・内 親王 は﹁ 無品
﹂と なる
︒こ れは 表に 示し たよ うに
︑出 家し た有 品 親 王
・内 親 王の 史 料 上の 表 記 は ほぼ
﹁無 品
﹂と な って い る こと か ら 明 らか で あ る︒ 多く は 薨 伝を み る と わ か る の だ が
︑例 えば
︑天 長五 年︵ 八二 八︶ に出 家し た三 品大 宅内 親王
︵桓 武天 皇皇 女︑ 平城 天皇 元妃
︶は
︑薨 伝で は﹁ 無品 大 宅 内 親 王薨
﹂と あ り⒀
︑ 三 品基 貞 親 王 も薨 伝 で は
﹁無 品 基 貞 親 王 薨
﹂⒁
︑四 品 宗 康 親 王
︵仁 明 天 皇 皇 子︶ も 同 様 で あ る⒂
︒親 王出 家の 先駆 けで あり
︑弘 仁十 三年
︵八 二二
︶頃 に出 家し たと 思わ れる 廃 太 子 四品 高 丘 親王 の 場 合も 同 様 に 無 品と なっ てお り⒃
︑ 出家 した 有品 親王
・内 親王 が﹁ 無品
﹂と なる こと は︑ 親王 出 家 の 初期 か ら 行わ れ て いる こ と が 確 認で きる
︒ 第
三節
親 王出 家の 増加 の影 響│ 帳内 に関 する
﹃延 喜式
﹄条 文の 成立
│ これ ら親 王・ 内親 王の 出家 に伴 う一 連の 手続 きに 関す る法 令は
︑十 世紀 前半 成立 の﹃ 延喜 式﹄ に収 めら れた
︑出 家 し た親 王の 帳内 の取 り扱 いに つい て規 定し た式 部上 101出 家条 が唯 一の もの とな る︒ 本節 では
︑こ の条 文か ら九 世紀 の 親 王出 家の 増加 の影 響に つい て考 察す る︒
﹃ 延喜 式﹄ 式部 上に は﹁ 凡親 王已 下五 位已 上出 家入 道︑ 其帳 内資 人考 満二
六
平安時代前期における親王出家とその処遇 ― 288 ―
年一
留省
︒若 還俗 并敍 位︑ 以二
旧人
一
充之
︒旧 人 若 遷二
他 色一
︑ 以二
新 人一
充 之
﹂と 規 定 され て い る︒ 親王 以 下 五位 以 上 の 者 が出 家し た際 に︑ その 帳内
・資 人の うち 勤務 評定 の考 を六 年以 上積 み重 ねた 者は 式部 省に 在籍 させ る︑ もし 本主 が 還 俗し て叙 位さ れた 場合 はも との 帳内
・資 人を 支給 し︑ もと の帳 内・ 資人 が別 の本 主に 仕え たり
︑他 の官 職に 移っ た 場 合は
︑新 しい 人を 充て ると いう 内容 であ る︒ 親王 は品 位に より 帳内 を︑ 官人 はそ の位 階・ 官職 によ り︑ 位分 資人
・ 職 分資 人を 支給 され る︒ 養老 軍防 49令 給 帳内 条 に は︑ 一品 一 六
〇人
︑二 品 一 四
〇人
︑三 品 一 二〇 人
︑四 品 一
〇〇 人
︑ 官 人の 場合 は一 位一
〇〇 人︑ 二位 八〇 人︑ 三位 六〇 人︑ 正四 位四
〇人
︑従 四位 三五 人︑ 正五 位二 五人
︑従 五位 二〇 人 と あり
︑こ れら は女 性の 場合 半減 され る︒ また
︑太 政大 臣三
〇〇 人︑ 左右 大臣 二〇
〇人
︑大 納言 一〇
〇人 の支 給が 規 定 され てい る⒄
︒ 条文 は︑ 出家 した 親王 と五 位以 上の 官人 の帳 内・ 資人 の扱 いに つい て規 定し た前 半部 分と
︑そ の親 王や 五位 以上 の 官 人が 還俗 した 場合 の帳 内・ 資人 の支 給に つい て規 定し た後 半部 分と から 構成 され る︒ 前半 部分 は帳 内・ 位分 資人
・ 職 分資 人す べて が対 象で ある が︑ 後半 の規 定 は︑
﹁還 俗 并 敍位
﹂と あ る よう に
︑再 び 官 職に 就 く こと が 条 件と な っ て い ない
︒し たが って
︑帳 内と 位分 資人 との みが 対象 であ る︒ 還俗 した 官人 が太 政大 臣・ 左右 大臣 など の官 職に 復職 す る こと はな いの で︑ 再び 職分 資人 を支 給さ れる こと はな いと 想定 され てい るた めで あろ う︒ 後半 の還 俗に 関す る規 定は 補足 的性 格を 帯 びて い る︒
﹃ 延喜 式
﹄が 編 纂さ れ た 十 世紀 前 半 まで に 出 家し た 親 王・ 内 親 王の うち 還俗 した 者は いな い︒ また
︑官 人に つい ては
︑嘉 祥三 年︵ 八五
〇︶ に父 仁明 天皇 の出 家に 際し
︑異 母兄 弟 の 宗康 親王
︵四 品中 務卿
︶と とも に出 家し た源 多︵ 従四 位上 阿波 守︶ が仁 寿二 年︵ 八五 二︶ 正月 十五 日に は阿 波守 と な って おり
︑出 家後 二年 もた たず に還 俗し たこ とが 確認 でき るぐ らい で あ る⒅
︒ 官 人層 に つ いて は
︑九 世 紀に は 一 世 源 氏を 中心 に数 名の 出家 者し か史 料上 見え ず︑ 十世 紀半 ば以 降に 臨終 出 家 者 が増 加 す る⒆
︒ よっ て
︑十 世 紀前 半 ま で
― 289 ― 平安時代前期における親王出家とその処遇
に 還俗 した 五位 以上 の官 人は ほと んど おら ず︑
﹃ 延喜 式
﹄の 本 条文 の 還 俗し た 場 合 の帳 内
・資 人 の支 給 に 関す る 部 分 は
︑還 俗の 可能 性を 想定 して 作ら れた 部分 であ ると 言え よう
︒ さ て︑ 本条 文 で は親 王 に 関し て 対 象 範囲 を
﹁親 王﹂ と しか 規 定 し てい な い が︑ どの 範 囲 が対 象 に な る の で あ ろ う か
︒後 半部 分の
﹁若 還俗 并敍 位﹂ に注 目す ると
︑﹁ 并
﹂は 付加 の意 味が あり
︑﹁ 還俗
﹂が 主体 とな り﹁ 叙位
﹂は 付加 的 要 素 と なる
︒官 人 の 場合 は 五 位 以上 に
﹁叙 位﹂ さ れな い と 資人 を 支 給 され な い︒
﹁ 還 俗﹂ だ け で 支 給 さ れ う る の は
︑ 無 品親 王と なる
︒親 王の 場合 は︑ 叙品 され なく ても 帳内 が支 給さ れる こと を意 味す る︒ ここ から
︑延 暦二 十一 年︵ 八
〇 二︶ に定 めら れた 四歳 以上 の親 王・ 内親 王へ の帳 内の 支給
︑す なわ ち無 品親 王へ の帳 内の 支給 は延 喜式 編纂 段階 で は 有効 であ った とい うこ とが わか る⒇
︒ ただ し︑ 現実 に延 喜年 間ま で無 品親 王へ の 帳 内 支給 が 行 われ て い たか は 定 か で はな い︒ あく まで 延喜 式の 規定 上︑ 無品 親王 への 帳内 支給 を含 めた 条文 とい うこ とに なる
︒ では
︑こ の条 文は どこ まで 遡り うる であ ろう か︒ 表を 一覧 する と明 らか なよ うに
︑出 家す る親 王が 嘉祥 二年
︵八 四 九
︶・ 嘉 祥 三 年
︵八 五
〇
︶を 一 つ の ピ ー ク と し て 八 五
〇 年 代 に 続 出 す る
︒貞 観 元 年
︵八 五 九
︶に 出 家 し た 人 康 親 王
︵仁 明天 皇皇 子︶ の後 は︑ 貞観 十四 年︵ 八七 二
︶に 出 家し た 惟 喬親 王
︵文 徳 天 皇皇 子
︶と な り︑ 十三 年 ぶ りの 出 家 と な る︒ その 次は 延喜 元年
︵九
〇一
︶に 出家 した 斉世 親王
︵宇 多天 皇皇 子︶ とな り︑ 二十 九年 の間 があ く︒ また
︑官 人 の 出家 につ いて は︑ 承和 四 年︵ 八三 七
︶の 源 鎮︵ 嵯峨 天 皇 皇子
・従 四 位 上︶
︑ その 十 三 年後 の 嘉 祥三 年
︵八 五
〇︶ に は 源多
︵仁 明天 皇皇 子・ 従四 位上 阿 波 守︶
・源 明
︵嵯 峨 天皇 皇 子・ 正 四 位下 参 議︶
・ 良岑 宗 貞︵ 従 五位 上 左 近 衛少 将
︶ と 続き
︑そ の十 九年 後の 貞観 十一 年︵ 八六 九︶ には 源啓
︵嵯 峨天 皇皇 子・ 従四 位上 越前 守︶ が出 家す る︒ 親王 と比 べ る とま だ数 が少 ない が︑ 一世 源氏 を中 心に 出家 する もの が出 てき てい る!
︒ この よう な九 世紀 半ば の親 王出 家の 増加 と九 世紀 の官 人の 出家 の出 現と に対 応す るた め︑ 帳内
・資 人に つい ての 措
平安時代前期における親王出家とその処遇 ― 290 ―
置 が必 要に なっ たと 考え られ る︒ 特に
︑ピ ーク 時に 出家 した これ らの 親王
・内 親王 八人 のう ち︑ 三品 は二 人︑ 四品 は 四 人
︑無 品 は二 人 で ある が!
︑帳 内 支 給人 数 は 三 品 一 二
〇 人︑ 四 品 一
〇
〇 人 で あ り︵ 無 品 親 王 の 支 給 人 数 は 不 明
︶︑ 膨 大な 数の 帳内 が本 主の もと を去 るこ とに なる
︒現 実的 に彼 らの 処遇 をど うす るか が課 題と なっ たで あろ う︒ それ ま で 帳内
・資 人に つい ては 本主 が死 亡し た場 合と 理を 以て 官を 去っ た場 合︵ 致仕
・服 解・ 侍解
・患 解等
︶と につ いて の み しか 法令 が存 在し なか った から であ る"
︒ 以上 の九 世紀 の親 王・ 官人 の出 家動 向と
︑高 丘親 王を 初例 とす る親 王の 出家 が弘 仁十 一年
︵八 二〇
︶の 弘仁 式撰 進 以 後で ある 点と をふ まえ ると
︑﹃ 延 喜式
﹄の 条文 の 淵 源と な り うる 条 文 が 貞観 十 三 年︵ 八七 一
︶に 撰 進・ 施行 さ れ た
﹃貞 観式
﹄の 段階 で入 れら れた と考 えら れる
︒ 第二
章 親王 出 家 者に 対 す る処 遇 と その 淵 源 第
一節
無 品封 の支 給 無品 親王
・内 親王 とな った 出家 者に は国 家か らな んら かの 経済 的支 給が あっ たの であ ろう か︒ 先行 研究 でも 指摘 さ れ てい るの は以 下の 二例 であ る︒ 嘉祥 二年
︵八 四九
︶に 出家 した 四品 安勅 内親 王︵ 桓武 天皇 皇女
︶は
︑出 家を 願い 品 位 の返 還を 申請 後︑
﹁ 勅︑ 四品 安勅 内親 王依
レ
願 令二
入 道一
︒宜
二
封戸 及帳 内 資 人 品田 收一 レ
公︒ 但 無品 本 封・ 帳 内 資人 依レ
旧 行レ
之
﹂と あり
︑勅 によ り品 封・ 帳内
・品 田が 収公 され たが
︑無 品封 と帳 内 と が 支給 さ れ るこ と に な った
#
︒ま た
︑ 貞 観元 年︵ 八五 九︶ に出 家し た 四 品人 康 親 王︵ 仁明 天 皇 皇 子︶ も出 家 の 上表 後 に﹁ 詔︒ 人 康親 王
︑辞
二
其 官爵
一
︒帰
二
於 釈侶
一
︒宜
下
准二
国康 親王
一
收中
其品 封上
︒但 本封 旧 并 帳内 資 人 准二
無 品 例一
充レ
之﹂ と あり
︑詔 に よ り品 封 が 収公 さ れ た
― 291 ― 平安時代前期における親王出家とその処遇
が
︑無 品封 と帳 内と が支 給さ れて いる
!
︒無 品封 とは
︑大 同三 年︵ 八〇 八
︶に 無 品 親王
・内 親 王 に支 給 さ れる こ と に な った 食 封 の こと で あ り︵ 各二 百 戸︶
︑ 翌大 同 四 年 には 無 品 内親 王 は 半減 さ れ る こと と な った
"
︒竹 島 寛 氏は 人 康 親 王 の 例 に触 れ
︑有 品 親王 が 出 家 した 場 合︑ 品 封 は 収 め て︑ 更 に 無 品 親 王 の 例 に 依 り 礼 遇 さ れ た と 述 べ て い る#
︒ ま た
︑伴 瀬明 美氏 はこ の二 例か ら︑
﹁ 無品 帳内
・無 品封 は全 親王 に 与 えら れ る 基本 的 給 付 とし て 位 置づ け ら れて い た と 思 われ る︒
﹁ 無品 本封
﹂と いう 称さ れ方 に︑ 無品 封の 性格 が端 的に 表さ れて いる ので はな いだ ろう か︒
﹂と 指摘 され て い る$
︒し か し︑ 上述 の 牛 山佳 幸 氏 は︑ 入 道親 王 に なる こ と は基 本 的 に 国家 か ら の経 済 的 保障 を 失 う と述 べ
︑ま た
︑ 安 田政 彦氏 は無 品封 につ いて 論じ る中 で︑ 四品 安勅 内親 王︵ 桓武 天皇 皇女
︶の 例か ら﹁ 特に 但書 を付 して 無品 封・ 帳 内 資人 を与 えて いる こと をみ ると
︑普 通︑ 出家 の場 合は 無品 の状 態に ある とは いえ
︑無 品封 支給 の対 象と はな らな か っ たの では ない かと 推測 され る︒
﹂ と述 べて いる
%
︒果 たし て出 家し た親 王へ の経 済 的 支 給は も れ なく 行 わ れ たの か
︑ そ れと も特 例と して 行わ れた ので あろ うか
︒ ここ でも う一 つ考 察の 材料 とな るの が︑ 貞観 十四 年︵ 八七 二︶ に出 家し た四 品惟 喬親 王︵ 文徳 天皇 皇子
︶の 例で あ る
︒二 年後 の﹃ 日本 三代 実録
﹄貞 観十 六年
︵八 七四
︶九 月二 十一 日条 には
﹁无 品惟 喬親 王益
二
封百 戸一
﹂と あり
︑続 け て 清和 天皇 の勅 が掲 載さ れて いる
︒封 百戸 を﹁ 益す
﹂と いう こと は︑ すで にな んら かの 封戸 を得 てい るこ とを 意味 す る
︒勅 で は﹁ 親 王譲
│ 二
還 爵 邑一
之 日
︑朕 以下
親 王 平 昔 家 途 省 素
︑唯 仰二
県 官一
︑ 非上 レ
可二
分 衛一
︒ 以 為 資 定二
於 斎
&
一
而 多レ
妨
︒然 憚レ
忤二
高 情一
︒ 未レ
敢二
処 分一
︒ 今 果聞
二
夫 屡空 之 事一
︒ 悲悵 不レ
可二
勝 言一
︒ 宜!
下
全!
二
彼! 旧! 封!
一
返!
二
此! 百! 戸!
一
︑ 以 助二
衣 鉢 之 費一
︑ 慰中
朕 惻 然 之懐
上
﹂︵ 傍 点筆 者
︶と 述 べ られ て い る︒ 惟喬 親 王 の封 戸 を 旧 封 の 状 態 に し︑ 百 戸 を 返 し﹁ 衣 鉢 之 費
﹂と する とい う︒ 惟喬 親王 はも と四 品で あり
︑そ の品 封は 三百 戸で あっ た︒ 百戸 を益 し旧 封の 額に する とい うこ と は
︑出 家以 後︑ 二百 戸を 支給 され てい たこ とに なる
︒二 百戸 は無 品親 王が 支給 され る額 であ り︑ 惟喬 親王 は無 品親 王
平安時代前期における親王出家とその処遇 ― 292 ―
と して 無品 封を 支給 され てい たこ とが 判明 する
︒こ れは 翌十 月十 八日 条の 惟喬 親王 が封 戸の 増加 を辞 退す る上 表の 中 で
﹁若 更! 蒙!
二
新! 賞!
一
猶! 満!
二
旧! 封!
一
︑水 石幽 閑 之 地有
レ
嫌二
於 貯 藏一
︒ 煙霞 晩 暮 之 家無
レ
節二
於 遊 用一
﹂︵ 傍 点 筆 者︶ と述 べ て い る 点か ら も 明 らか で あ る!
︒ また
︑封 戸 辞 退の 上 表 を 受け て 出 され た 同 日条 の 清 和 天皇 の 勅 にも
﹁今! 之! 封! 疆! 極! 為!
二
窄! 隘!
一
︑聊 助二
斗藪 之法 具一
︒ 安足
二
対 山之 禅粮
一
﹂︵ 傍点 筆者
︶と あり
︑現 在の 少額 の封 戸で は惟 喬親 王の 出家 後の 生活 に は 足り ない と嘆 いて いる 点か らも
︑無 品封 二百 戸を 支給 され てい たこ とが うか がえ る︒ ここ で注 目す べき は︑ 上述 の﹃ 日本 三代 実録
﹄貞 観十 六年
︵八 七四
︶九 月二 十一 日条 にあ るよ うに
︑惟 喬親 王が 出 家 のた め品 位・ 品封 を返 還し た際 に︑ 清和 天皇 はあ えて 特別 な措 置を せず にし ばら く様 子を みて いた が︑ 惟喬 親王 の 現 状を 聞き 及び
︑悲 しみ 嘆き
︑あ らた めて 百戸 の封 戸を 加増 した 点で ある
︒惟 喬親 王は 出家 後に 無品 封二 百戸 を支 給 さ れた 点を 指摘 した が︑ 清和 天皇 が﹁ 未レ
敢二
処 分一
﹂ を悔 い て 行っ た 措 置が 百 戸 の 加増 で あ る点 を 考 える と
︑清 和 天 皇 はこ の無 品封 支給 につ いて は特 別な 措置 と認 識し てい ない こと が判 明す る︒ 私は これ らの 例か ら︑ 有品 親王
・内 親王 が出 家 した 際 に は︑ 無品 封 が 支給 さ れ る 慣例 が あ った と 考 え る︒ ただ し
︑ 上 述の 安勅 内親 王や 人康 親王 の場 合に
﹁但
⁝﹂ とし て無 品封 と帳 内が 支給 され てい るが
︑出 家後 にこ れら が自 動的 に 支 給さ れる ので はな く︑ 品封 収公 の勅 が出 た際 に︑ 同時 にあ らた めて
︑そ の都 度︑ 勅に より 支給 がさ れる もの であ っ た と思 われ る"
︒ 出家 して 無品 とな った 親王 が無 品封 を支 給さ れて いた こと は︑ 出家 後も 無品 親王 家と して 維持 され てい る点 から も 裏 付け られ る︒
﹃ 日本 三代 実録
﹄貞 観五 年︵ 八六 三︶ 四月 十一 日条 に﹁ 人! 康! 親! 王! 家! 田 九十 四町 有二
近江 国愛 智郡
一
︒為
二
伝 法料
一
︒常! 康! 親! 王! 家! 田百 卅町 在二
同国 高嶋 郡一
︒ 為二
救急 料一
︒ 並施
二
入 延暦 寺一
︒ 詔︒ 付二
国司
一
︑永 勿レ
徴レ
租
﹂︵ 傍点 筆 者
︶と ある よう に︑ 出家 四年 後の 人康 親王 と出 家七 年後 の国 康親 王︵ 両親 王と も仁 明天 皇皇 子︶ とが 田を 延暦 寺に 施
― 293 ― 平安時代前期における親王出家とその処遇
入 して いる が︑
﹁ 親王 家﹂ と記 され てい る︒ また
︑翌 貞観 六年
︵八 六四
︶十 一月 七日 条の
﹁詔 免│ 二
除無 品人 康親 王家 借 絹 百 卅 疋
︑綿 三 百 屯︑ 調 布 四 百 端︑ 錢 三 千 三 百 貫 文一
﹂ に も﹁ 無 品 人 康 親 王 家﹂ と あ る
︒安 田 政 彦 氏 は︑ 大 同 三 年
︵八
〇八
︶の 無品 封の 設定 を︑ 延暦 年間 に国 家が 帳内 を 支 給し
︑別 当 官 人に よ っ て 家機 構 を 管理 さ せ る以 上
︑官 僚 で は あり えな い無 品親 王の
﹁家
﹂維 持の ため に経 済的 基盤 を支 給す る必 要が でて きた ため とさ れる
!
︒ 第
二節
親 王出 家の 淵源
│高 丘親 王の 出家
│ では
︑こ の出 家し た親 王・ 内親 王に 無品 封を 支給 する とい う慣 例は いつ から どの よう な契 機で 開始 され たの であ ろ う か
︒そ れ は親 王 出 家の 初 例 の 四品 高 丘 親王
︵平 城 天 皇皇 子
︶ま で 遡 りう る
︒高 丘 親王 は 平 城朝 の 皇 太 子 で あ っ た が
︑薬 子の 変の 後︑ 廃太 子と なる
︒弘 仁十 三年
︵八 二二
︶に 無品 から 四品 を与 えら れ︑ ほど なく 出家 し︵ 二十 四歳 の 頃
︶東 大寺 に居 住し た︒ その 後空 海の 弟子 とな り︑ 貞観 四年
︵八 六二
︶に は入 唐し 天竺 を目 指す も︑ 元慶 五年
︵八 八 一
︶︑ 在 唐 中の 僧 中 䛃か ら 羅 越 国で 死 亡 した と い う情 報 が も たら さ れ た"
︒ この 間
︑貞 観 十五 年
︵八 七 三︶ に は 残 さ れ た二 人の 子 息 在 原善 淵 と 安貞 が
︑父 高 丘親 王 の 封 邑の 返 還 を願 う 上 表を 行 っ て いる
#
︒﹁ 従 四 位上 行 大 和守 在 原 朝 臣 善 淵・ 前 肥後 守 従 五位 上 在 原 朝臣 安 貞 等上 表 請︒ 無 品高 丘 親 王 入唐 之 後︑ 多 歴二
年 序一
︑帰 却 之 期 已 過︑ 存 亡 之 分 難レ
决︒ 而偏 准二
於平 常一
︑ 猶受
二
其 封邑
一
︒静 而思
レ
之
︑慙 悚難
レ
耐︒ 望請 早被
二
返 收一
︒ 将レ
免二
謗 議一
﹂と あり
︑父 高丘 親 王 は入 唐し てか らず いぶ ん年 も経 ち︑ その 生死 も定 かで はな いの に︑ 通常 時に 準じ てず っと 封邑 を支 給さ れて いる と い う︒ この 上表 で返 還を 願っ てい る﹁ 封邑
﹂は 食封 のこ とで ある
︒天 安元 年︵ 八五 七︶ 二月 に太 政大 臣に 任じ られ た藤 原 良 房は 再三 その 任を 固辞 する が
︑そ の 上表 の 中 で﹁ 伏望 可二
新 加賜 封! 邑!
・ 職 田・ 資人
・帶 刀 等 類一 切 停 止一
﹂︵ 傍 点 筆
平安時代前期における親王出家とその処遇 ― 294 ―
者
︶と 述 べ てい る
︒太 政 大臣 の 職 に 関 わ る 支 給 の 固 辞 で あ り︑
﹁封 邑
﹂は 職 封 の こ と を 意 味 し て い る!
︒ 同 年 に は
︑ 右 大臣 藤原 良相 が職 封の 減 額・ 職田 類 の 返還 を 願 う︒ その 上 表 の 中で は
﹁今 算二
封 邑一
︑ 当レ
食二
二 千一
﹂と あ り
︑右 大 臣 の 職 封二 千 戸 を﹁ 封邑
﹂と 述 べ て いる
"
︒ま た
︑貞 観 十三 年
︵八 七 一︶
︑清 和 天 皇 が太 政 大 臣藤 原 良 房 に 規 定 通 り の 職 封︵ 三 千戸
︶や 随 身・ 准 三宮 を 給 う 勅の 中 で﹁ 而 至二
于 封 邑一
︑固 譲二
二 千一
唯 享二
千 戸一
﹂ と あ り︑ 職 封 の こ と を
﹁封 邑﹂ と述 べて いる
#
︒職 封の 例だ けで はな い︒ 貞観 十六 年︵ 八七 四︶
︑上 述の 惟 喬 親 王が 清 和 天皇 か ら の封 戸 百 戸 の 加増 を辞 する 上表 を行 った 際に は︑
﹁ 無品 惟喬 親王 上表
︒辞
二
封 邑一
曰
︑︵ 後略
︶﹂ と ある
$
︒ この よう に﹁ 封邑
﹂は 職封 や食 封の 意味 で用 いら れて おり
︑広 義に は食 封を 意味 する
︒よ って
︑高 丘親 王の 子息 が 返 還を 願っ た﹁ 封邑
﹂も 食封 であ り︑ 親王 出家 の初 例で ある 高丘 親王 は出 家後
︑食 封を 支給 され てい たこ とが 判明 す る
︒そ の支 給額 は不 明で ある が︑
﹁ 無品
﹂高 丘親 王が 支給 さ れ てい た も ので あ る の で︑ 無品 封 二 百戸 を 支 給さ れ た 可 能 性が 高い
︒た だし
︑果 たし て高 丘親 王の 出家 時に 食封 の支 給が 開始 され たの かと いう 疑問 があ る︒ 高丘 親王 が出 家 し た時 の同 時代 史料 には 何も 書か れて いな いか らで ある
︒逆 に九 世紀 半ば の親 王出 家の 増加 時に 無品 封支 給が 慣例 と な り︑ その 頃に 高丘 親王 も支 給さ れた とい う可 能性 もあ りう る︒ しか し私 は︑ 高丘 親王 が出 家時 から 食封 を支 給さ れ た と考 える
︒王 から 僧と なり
︑父 光仁 天皇 の即 位に より 親王 とな り︑ 後に 還俗 した 早良 親王 の例 が四
・五 十年 前に あ る とは いえ
︑親 王か ら僧 にな った 者は 奈 良時 代 以 後い な い︒ し かも 廃 太 子 であ る
︒弘 仁 十三 年
︵八 二 二︶ と いえ ば
︑ ま だ薬 子の 変や 高丘 親王 の廃 太子 に直 接関 わっ た嵯 峨天 皇の 代で あり
︑高 丘親 王は 過去 の人 では ない
︒高 丘親 王の 出 家 はこ れら 二つ の意 味で 当時
︑衝 撃的 な出 来事 であ った ので はな いだ ろう か︒ その 処遇 につ いて も検 討が なさ れた は ず であ る︒ 出家 から 四年 後頃 と思 われ る天 長三 年︵ 八二 六︶ には
︑阿 保親 王︵ 平城 天皇 皇子
︶が 子達 の賜 姓を 申請 し た 上表 の中 で﹁ 無品 高岳 親王
﹂と 表記 され てお り︑ 出家 後に は四 品か ら 無 品 とな っ た こと が う かが え る%
︒ま た︑ こ
― 295 ― 平安時代前期における親王出家とその処遇
の 上表 や上 述の 子息 在原 善淵 達の 上表 など の公 的な 文書 に﹁ 無品 高丘 親王
﹂と 表記 され てい る点 から
︑親 王は 出家 後 も 親王 の身 分の まま であ るこ とが わか る︒ 皇 親は 課 役 免除 と い う特 権 を 有 し︵ 養老 戸 令5 戸 主条
︶︑ そ の 範囲 は 変 遷 す る が﹃ 養 老 令﹄ で は 親 王 か ら 四 世 王 ま で を 範 囲 と し
︵養 老 継 嗣 令 1皇 兄 弟 子 条︶
︑そ の 名 簿 を 正 親 司 が 管 理 し た
︵養 老職 員令 45正 親司 条︶
︒一 般に 俗人 が出 家す る場 合︑ 中務 省管 轄の 戸籍 から 抜か れ︑ 玄蕃 寮が 管轄 する 僧尼 の名 籍 に 入れ られ
︵養 老雑 38令 造僧 尼籍 条︑ 養老 職員 18令 玄蕃 寮条
︶課 役が 免除 され たの だが
︑高 丘親 王の 場合
︑出 家後 も 無 品親 王の まま であ った とい うこ とは
︑正 親司 の管 理す る皇 親の 名籍 から 玄蕃 寮が 管理 する 僧の 名籍 へ移 籍に なっ て い ない と考 えら れる
︒高 丘親 王は
︑寺 に属 し活 動し た僧 では あっ たが
︑得 度官 許制 によ り度 縁を 発給 され 僧尼 名籍 に 付 され る得 度出 家で はな かっ たと いう 点に 注意 しな けれ ばな らな い!
︒ 親王 が 出 家 する と い う前 代 未 聞の 事 態 に︑ 朝 廷 は皇 籍か ら抜 き︑ 僧の 名籍 へ 移す と い うこ と は せず
︑﹁ 親 王
﹂の 身 分に 留 め た︒ これ は
︑聖 武・ 称 徳天 皇
︑平 城 太 上 天皇 など のこ れ以 前の 天皇
・太 上天 皇が 出家 して もそ の身 分が 変わ らな かっ たこ とに なら った
﹁親 王﹂ に対 する 当 然 の措 置な のか
︑政 治的 判断 なの かは わか らな い︒ 高丘 親王 の出 家は 皇位 継 承 権 の放 棄 表 明と い う 見方 も あ り"
︑ 彼 が どこ まで
﹁皇 親﹂ から の離 脱を 望ん だの かは 定か では ない
︒た だ︑ 彼は 俗界 から 離れ るこ とは でき たが
︑親 王と い う 身分 は変 わら ない まま であ った
︒親 王は 賜 姓さ れ な い限 り
︑﹁ 皇 親﹂ から は 離 脱 しえ な い 存在 な の であ る
︒こ の よ う な経 緯の ある 出家 であ り︑ 朝廷 が﹁ 無品 親王
﹂と して
﹁皇 親﹂ に留 めた 以上
︑出 家後 も無 品親 王と して の処 遇を 行 う のは 当然 であ った ろう
︒た だし
︑帳 内の 支給 につ いて は行 われ なか った 可能 性が 高い
︒な ぜな ら︑ 子息 たち の上 表 は 食封 の返 還の みを 申請 して いる から であ る︒ こ の食 封 は 結局
︑高 丘 親 王の 入 唐 後︑ 実 に十 一 年 間も 支 給 さ れ続 け た︒ 子 息達 は
︑通 常 では な い こ の 状 況 に 対 し て
︑﹁ 慙 悚 難レ
耐
﹂・
﹁ 将レ
免二
謗議
一
﹂と 述 べ
︑恥 じ 入 り
︑世 間 の 謗 り を 恐 れ て い る︒ 続 く 勅 で は﹁ 勅︑ 存 亡 難レ
卜︒ 何
平安時代前期における親王出家とその処遇 ― 296 ―
許二
来請
一
﹂ とあ り︑ 生死 が定 かで はな いた め食 封の 返還 は許 され なか った
︒結 局︑ 清和 天皇 の代 では 食封 の収 公は 見 送 られ
︑次 の陽 成天 皇の 時代
︑元 慶 三年
︵八 七 九︶ に 至り よ う やく 収 公 さ れる
︒﹁ 勅
︑無 品 高丘 親 王 入唐 之 後
︑男 正 五 位下 在原 朝臣 安貞 等請
レ
被レ
返│ 二
収 親王 封邑
一
︒ 朝家 思二
其 遺愛
一
︑ 不レ
忍二
許 聴一
︒ 如今 年紀 徒積
︑帰 来無
レ
期
︒宜
下
仰二
所 司一
︑令
上レ
充二
安 貞往 日之 請一
焉﹂ とあ り︑ 貞観 十五 年︵ 八七 三︶ の子 息等 の上 表が 許可 され た!
︒ 高丘 親王 が入 唐し て か ら十 七年 後の こと であ る︒ 世間 から 子息 が謗 られ るよ うな 状況 の中
︑な ぜ食 封の 支給 が継 続さ れた のか
︒﹁ 朝 家思
二
其 遺愛
一
︑不
レ
忍二
許聴
一
﹂ とあ るよ うな 清和 天皇 の高 丘親 王に 対す る想 いな のか
︑ま たは 廃太 子の 憂き 目に あい
︑な お か つ親 王で あり なが ら出 家し たと いう 特殊 な事 情を 有す る高 丘親 王に 対す る政 治的 配慮 なの か︑ もし くは 前例 のな い 状 況に 判断 が下 せな かっ たの か︑ それ は定 かで はな い︒ いず れに せよ 注目 すべ きは
︑弘 仁十 三年
︵八 二二
︶頃 に出 家 し たと する と︑ 高丘 親王 の入 唐後 も含 め︑ その 無品 封の 支給 は五 十七 年に 及び
︑九 世紀 最後 の惟 喬親 王の 出家 後ま で 続 いた とい う点 であ る︒ 九世 紀に は多 くの 親王 が出 家し たが
︑常 に親 王出 家の 初例 であ る高 丘親 王は 想起 され
︑意 識さ れた であ ろう
︒そ の 食 封は
︑親 王の 入唐 後も 含め
︑諸 親王
・内 親王 が出 家し た時 分に は現 在進 行形 で支 給さ れて いる
︒彼 の出 家は
︑当 時 の 人々 にと って 過去 のも ので はな い︒ 出家 した 親王
・内 親王 の処 遇は
︑高 丘親 王の 例に 准え る形 で先 例が 積み 重ね ら れ
︑慣 例化 して いっ たと 考え られ る︒ お
わ り に 考察
結果 をま とめ ると 以下 のよ うに なる
︒
― 297 ― 平安時代前期における親王出家とその処遇
一︑ 平安 前期 にお いて
︑親 王は 十代
・二 十代 とい う若 さで 出家 して いる
︒ま た︑ 出家 後に 僧と して 長い 人生 を送 る 人 が多 かっ た︒ 二︑ 当該 期の 親王
・内 親王 は出 家す る際 に上 表を 行い
︑出 家の 許可
︑品 位・ 官職
・品 封の 返還 を申 請し
︑天 皇か ら 出 家の 許可 を得 た後
︑品 位や 官職
︑品 封・ 品田
・帳 内を 返還 した
︒ 三︑ 出家 後︑ 有品 親王 は無 品親 王と なる
︒勅 によ り︑ あら ため て無 品親 王と して の食 封︑ 場合 によ って は帳 内も 支 給 され た︒ 四︑ 親王 が出 家後 に﹁ 皇親
﹂を 離脱 せず
︑無 品親 王と なり
︑無 品封 を支 給さ れる とい う処 遇は
︑親 王で 初め て出 家 し た高 丘親 王︵ 平城 天皇 皇子
︶を 淵源 とす る︒ 五︑ 帳内 は出 家後 に収 公さ れる が︑ 帳内 のそ の後 の処 遇を 定め た﹃ 延喜 式﹄ 式部 101上 出家 条の 規定 の淵 源と なり う る 条文 が貞 観十 三年
︵八 七一
︶に 撰進
・施 行さ れた
﹃貞 観式
﹄の 段階 で入 れら れた と考 えら れる
︒ 第一 章第 二節 の冒 頭で 触れ たよ うに
︑牛 山佳 幸氏 は入 道親 王を 遁世 した 親王 であ ると 指摘 され たが
︑初 例の 高丘 親 王 から そう であ った
︒出 家し ても その
﹁親 王﹂ とし ての 身分 は変 化し ない のは
︑親 王の 尊貴 性か ら自 明の こと かも し れ ない
︒し かし
︑な ぜそ うな のか とい う視 点で 見た 時︑ 高丘 親王 の出 家の 重要 性が 浮か び上 がる
︒廃 太子 の出 家︑ そ し て律 令国 家に おい て初 の親 王出 家と なっ た高 丘親 王の 出家 が当 時の 貴族 社会 に与 えた イン パク トは 大き かっ たで あ ろ う︒ 以後 の親 王・ 内親 王の 出家 者の 中で
︑高 丘親 王の よう に寺 に入 り官 僧的 に活 動し た人 は限 られ るが
︑彼 の出 家 時 にお ける 処遇 は後 に続 く親 王・ 内親 王の 出家 者の 処遇 を方 向づ けた
︒ 十世 紀成 立の
﹃延 喜式
﹄正 親司 11諸 王条 には
﹁凡 諸王 有二
出 家一
停レ
給二
時 服一
︒ 其女 王節 禄亦 停﹂ と規 定さ れて いる
︒ 王
・女 王が 出家 した 場合 には
︑そ の身 分に 対す る国 家か らの 経済 的支 給が 停止 され る︒ この 条文 がど の時 期に 作ら れ
平安時代前期における親王出家とその処遇 ― 298 ―
た もの なの かは 不明 であ るが
︑親 王と の 差が 如 実 に示 さ れ てい る
︒﹃ 延 喜 式﹄ には
︑無 品 親 王・ 内親 王 が 出家 し た 際 に
︑無 品封 が停 止さ れる とい う規 定が ない
︒親 王・ 内親 王は 出家 して も︑ 国家 から の経 済的 支給 は︑ 基本 的な 部分 で は 停止 され ない
︒九 世紀 から は官 人の 出家 も見 え始 め︑ 十世 紀半 ば以 後に は臨 終出 家す る者 が増 加す る︒ 得度 官許 制 自 体が 崩壊 して ゆく 中︑ それ ら官 人の 出家 の在 り方 も含 めて 考え る必 要が ある
︒ま た︑ 出家 した 親王 に対 する 経済 的 支 給が 平安 中期 以降 も同 様に 継続 した のか どう かに つい ても
︑本 稿の 考察 範囲 を超 えて おり
︑見 通す こと がで きな か っ た︒ これ らは 今後 の課 題と した い︒ 注
⑴ 臨 終 出 家 に 関 し て は
︑ 堅 田 修
﹁ 王 朝 貴 族 の 出 家 入 道
﹂︵ 同
﹃ 日 本 古 代 信 仰 と 仏 教
﹄ 法 蔵 館
︑ 一 九 九 一 年
︑ 初 出 一 九 八 五 年
︶︒ 三 橋 正
﹁ 臨 終 出 家 の 成 立 と そ の 意 義
﹂︵ 同
﹃ 平 安 時 代 の 信 仰 と 宗 教 儀 礼
﹄ 続 群 書 類 従 完 成 会
︑ 二
〇
〇
〇 年
︑ 初 出 一 九 九 七 年
︶︒ 入 道 親 王 に 関 し て は
︑ 牛 山 佳 幸
﹁ 入 道 親 王 と 法 親 王 の 関 係 に つ い て
﹂︵ 同
﹃ 古 代 中 世 寺 院 組 織 の 研 究
﹄ 吉 川 弘 文 館
︑ 一 九 九
〇 年
︶︒
⑵ 林 陸 朗 氏 に よ る と
︑ 源 勝
・ 源 清
︵ と も に 嵯 峨 天 皇 皇 子
︶ も 出 家 し て い る が
︑ 出 家 時 期 は 不 明 で あ り
︑ 表 に は 入 れ な か っ た
︒ 林 陸 朗
﹁ 嵯 峨 源 氏 の 研 究
﹂︵ 同
﹃ 上 代 政 治 社 会 の 研 究
﹄ 一 九 六 九 年
︑ 初 出 一 九 六 二 年
︶︒
⑶ 堅 田 註
⑴ 論 文
︒ 牛 山 註
⑴ 論 文
︒
⑷ 堅 田 註
⑴ 論 文
︒ 三 橋 註
⑴ 論 文
︒ 三 橋 氏 は 臨 終 出 家 に つ い て の み 言 及
︒
⑸ 常 康 親 王
︵ 仁 明 天 皇 皇 子
︶ は 第 七 皇 子 と さ れ る が
︑ 年 齢 の 判 明 す る 第 二 親 王 の 宗 康 親 王 が 当 時 二 十 四 歳 な の で そ れ 以 下 の 年 齢 と 思 わ れ る
︒ 無 品 な の で
︑ 元 服 前 も し く は 元 服 後 で あ り 叙 品 前 と 考 え ら れ る が
︑ 仁 明 天 皇 の 子 で あ る 親 王 は 十 六 歳 か ら 十 八 歳 で 元 服 し
︑ 元 服 後 の 恒 例 叙 位 日 に 叙 品 さ れ て い る と い う 服 藤 早 苗 氏 の 指 摘 を 踏 ま え る と
︑ 十 八 歳 以 下 と 推 定 さ れ る
︒ 服 藤 早 苗
﹁ 元 服 と 家 の 成 立 過 程
│ 平 安 貴 族 の 元 服 と 叙 位
﹂︵ 同
﹃ 家 成 立 史 の 研 究
﹄ 校 倉 書 房
︑ 一 九 九 一 年
︑ 初 出 一 九 八 九 年
︶︒ ま た
︑ 国 康 親 王
︵ 仁 明 天 皇 皇 子
︶ は
︑ 斉 衡 元 年
︵ 八 五 四
︶ に 四 品 を 叙 品 さ れ て 数 日 後 に 上 野 太 守 に 任 じ ら れ て い る
︒ 服 藤 氏 の 指 摘 を 踏 ま え る と
︑ そ の 数 年 前 に は 元 服 し て い る と 考 え ら れ る
︒ 叙 品 任 官 の 二 年 後 に 出 家 し て い る の で
︑ 二 十 代 前 半 と 推
― 299 ― 平安時代前期における親王出家とその処遇
定 さ れ る
︒﹃ 日 本 文 徳 実 録
﹄ 斉 衡 元 年
︵ 八 五 四
︶ 正 月 七 日 条
︒ 斉 衡 元 年
︵ 八 五 四
︶ 正 月 十 六 日 条
︒ 安 勅 内 親 王
︵ 桓 武 天 皇 皇 女
︶ の 年 齢 は
︑ 年 齢 の 確 認 で き る 同 母 兄 仲 野 親 と 同 母 妹 紀 内 親 王 と の 年 齢 か ら 推 定 し た
︒
⑹
﹃ 日 本 文 徳 天 皇 実 録
﹄ 仁 寿 元 年
︵ 八 五 一
︶ 十 二 月 九 日 条
︒
⑺ 牛 山 註
⑴ 論 文
︒
⑻
﹃ 続 日 本 後 紀
﹄ 嘉 祥 二 年
︵ 八 四 九
︶ 十 二 月 八 日 条
︒ 薨 伝 に も
﹁ 上 表
レ請 入 道
︒
レ許 之
﹂︵
﹃ 日 本 三 代 実 録
﹄ 貞 観 十 一 年
︵ 八 六 九
︶ 九 月 二 十 一 日 条
︶ と あ る
︒
⑼
﹃ 続 日 本 後 紀
﹄ 嘉 祥 二 年
︵ 八 四 九
︶ 閏 十 二 月 二 十 一 日 条
︒
⑽
﹃ 続 日 本 後 紀
﹄ 嘉 祥 三 年
︵ 八 五
〇
︶ 二 月 二 日 条
︒
⑾
﹃ 日 本 三 代 実 録
﹄ 貞 観 元 年
︵ 八 五 九
︶ 五 月 七 日 条
︒
⑿
﹃ 日 本 三 代 実 録
﹄ 貞 観 十 六 年
︵ 八 七 四
︶ 九 月 二 十 一 日 条
︒
⒀
﹃ 続 日 本 後 紀
﹄ 嘉 祥 二 年
︵ 八 四 九
︶ 二 月 十 四 日 条
︒ 出 家 の 記 事 は
﹃ 日 本 紀 略
﹄ 天 長 五 年
︵ 八 二 八
︶ 十 一 月 二 十 五 日 条
︒
⒁
﹃ 日 本 三 代 実 録
﹄ 貞 観 十 一 年
︵ 八 六 九
︶ 九 月 二 十 一 日 条
︒
⒂
﹃ 日 本 三 代 実 録
﹄ 貞 観 十 年
︵ 八 六 八
︶ 六 月 十 一 日 条
︒ 出 家 の 記 事 は
﹃ 続 日 本 後 紀
﹄ 嘉 祥 三 年
︵ 八 五
〇
︶ 三 月 十 九 日 条
︒
⒃
﹃ 日 本 三 代 実 録
﹄ 貞 観 四 年
︵ 八 六 二
︶ 六 月 十 四 日 条
︑ 貞 観 十 五 年
︵ 八 七 三
︶ 十 一 月 十 四 日 条
︑ 貞 観 十 七 年
︵ 八 七 五
︶ 二 月 二 日 条
︑ 元 慶 五 年
︵ 八 八 一
︶ 十 月 十 三 日 条
︒
⒄ 慶 雲 二 年
︵ 七
〇 五
︶ に 中 納 言 が 設 け ら れ た 際 に
︑ 中 納 言 に 資 人 三
〇 人 が 支 給 さ れ る こ と に な っ た
︒﹃ 続 日 本 紀
﹄ 慶 雲 二 年
︵ 七
〇 五
︶ 四 月 十 七 日 条
︒
⒅
﹃ 続 日 本 後 紀
﹄ 嘉 祥 三 年
︵ 八 五
〇
︶ 三 月 十 九 日 条
︒﹃ 公 卿 補 任
﹄ 斉 衡 元 年
︵ 八 五 四
︶ 条
︒ 最 終 的 に 源 多 は 右 大 臣 に ま で 昇 進 す る
︒
⒆ 堅 田 註
⑴ 論 文
︒ 三 橋 註
⑴ 論 文
︒
⒇
﹃ 類 聚 三 代 格
﹄ 延 暦 二 十 三 年
︵ 八
〇 四
︶ 九 月 二 十 三 日 太 政 官 符 引 用 の 延 暦 二 十 一 年
︵ 八
〇 二
︶ 九 月 二 十 三 日 格
︒
! 良 岑 宗 貞 は 仁 明 天 皇 の 寵 臣 で あ っ た が
︑ 仁 明 天 皇 薨 去 七 日 後 に そ の 死 を 哀 し み 出 家 し て い る
︒﹃ 日 本 文 徳 天 皇 実 録
﹄ 嘉 祥 三 年
︵ 八 五
〇
︶ 三 月 二 十 八 日 条
︒ 一 世 源 氏 の 出 家 に つ い て は 表 参 照
︒ 表 中 に あ げ た 天 安 二 年
︵ 八 五 六
︶ に 出 家 し た 源 毎 有
・ 時 有
︵ 文 徳 天 皇 皇 子
︶ に つ い て は
︑ 元 服 前
・ 叙 位 前 の 出 家 の 可 能 性 が 高 く
︑﹁ 官 人 の 出 家
﹂ の 対 象 に は 入 れ な か っ た
︒ 九 世 紀
平安時代前期における親王出家とその処遇 ― 300 ―
以 前 の 官 人 の 出 家 に つ い て は
︑ 奈 良 時 代 に 数 名 確 認 で き る が
︑ 九 世 紀 の 官 人 の 出 家 の 出 現 ま で 七 十
〜 八 十 年 程 度 の 間 が あ く た め
︑ 本 稿 で は 連 続 的 な も の と し て 考 え な い
︒
! 正 子 内 親 王
︵ 嵯 峨 天 皇 皇 女
・ 淳 和 天 皇 皇 后
︶ は 皇 太 后 の た め 数 に 入 れ な い
︒
"
養 老 選 叙 令 17 本 主 亡 条 に よ る と
︑ 本 主 が 死 亡 し た 場 合
︑ 帳 内
・ 資 人 は 服 喪 期 間
︵ 一 年
︶ 後
︑ 式 部 省 に 留 め ら れ
︑ 無 位 で 勤 務 年 数 が 六 年 未 満 の 者 は 本 貫 に 還 さ れ た
︒ 和 銅 四 年
︵ 七 一 一
︶ に は
︑ 本 主 が 死 亡 し た 場 合
︑ 帳 内
・ 資 人 は 選 に 預 か る こ と を 禁 じ ら れ
︑ 本 貫 に 還 さ れ る こ と に な り
︑ 他 主 の 帳 内
・ 資 人 に な る こ と を 希 望 す る 者 は 許 さ れ た
︒︵
﹃ 続 日 本 紀
﹄ 和 銅 四 年
︵ 七 一 一
︶ 五 月 七 日 条
︶︒ そ の 後
︑ 和 銅 七 年
︵ 七 一 四
︶ に は
︑ 本 主 が 死 亡 も し く は 理 を 以 て 官 を 去 る 場 合
︑ 職 分 資 人 の み
︑ 勤 務 年 数 に 関 係 な く
︑ 式 部 省 に 留 め ら れ る こ と に な っ た
︒ そ し て 本 主 が 復 任 し た 場 合 は
︑ も と の 職 分 資 人 が 充 て ら れ る こ と と し た
︵﹃ 続 日 本 紀
﹄ 和 銅 七 年
︵ 七 一 四
︶ 六 月 十 九 日 条
︶︒ 親 王 や 五 位 以 上 の 官 人 の 出 家 に 関 す る 帳 内
・ 資 人 の 扱 い を 規 定 し た
﹃ 延 喜 式
﹄ の 本 条 文 は
︑ 六 年 の 考 を 満 た し て い る 場 合 の み 帳 内
・ 資 人 は 式 部 省 に 留 め ら れ る と い う 制 限 が あ り
︑ 養 老 選 叙 令 17 本 主 亡 条 に 準 じ た 条 文 と い え よ う
︒ 条 文 後 半 の 還 俗 し た 場 合 の 処 置 に つ い て は
︑ 職 分 資 人 の 本 主 が 復 任 し た 場 合 の 処 置 に 準 じ て い る と 考 え ら れ る
︒
#
﹃ 続 日 本 後 紀
﹄ 嘉 祥 三 年
︵ 八 五
〇
︶ 二 月 二 日 条
︒
$
﹃ 日 本 三 代 実 録
﹄ 貞 観 元 年
︵ 八 五 九
︶ 五 月 七 日 条
︒
%
﹃ 類 聚 三 代 格
﹄ 大 同 四 年
︵ 八
〇 七
︶ 六 月 二 十 三 日 太 政 官 奏
︒ そ の 中 で 引 用 さ れ た 大 同 三 年
︵ 八
〇 八
︶ 六 月 二 十 九 日 式 に
﹁ 無 品 親 王 食 封 二 百 戸
︑ 男 女 並 同
︒ 但 叙 品 之 後 一 従二
停 止
一
者
﹂ と あ る
︒ 無 品 封 に つ い て は 安 田 政 彦
﹁ 無 品 封
﹂︵ 同
﹃ 平 安 時 代 皇 親 の 研 究
﹄ 吉 川 弘 文 館
︑ 一 九 九 八 年
︑ 初 出 一 九 八 四 年
︶︑ 伴 瀬 明 美
﹁ 八
〜 九 世 紀 に お け る 皇 子 女 扶 養 体 制 に つ い て
│ 令 制 扶 養 体 制 と そ の 転 換
│
﹂︵
﹃ 続 日 本 紀 研 究
﹄ 三
〇 六 号
︑ 一 九 九 七 年
︶ 参 照
︒
&
竹 島 寛
﹁ 王 朝 時 代 に 於 け る 皇 親 の 御 封 禄 制 度 と 御 経 済 状 態
﹂︵ 同
﹃ 王 朝 時 代 皇 室 史 の 研 究
﹄ 名 著 普 及 会
︑ 一 九 八 二 年 復 刻 版
︑ 初 版 一 九 三 六 年
︶︒ ' 伴 瀬 註% 論 文
︒ ( 牛 山 註
⑴ 論 文
︒ 安 田 註% 論 文
︒ )
﹃ 日 本 三 代 実 録
﹄ 貞 観 十 六 年
︵ 八 七 四
︶ 十 月 十 八 日 条
︒﹃ 菅 家 文 草
﹄ で は 貞 観 十 六 年 十 月 十 九 日 の 上 表 と す る
︒﹃ 菅 家 文 草
﹄ に は
︑ 封 戸 の 加 増 を 辞 退 す る 惟 喬 親 王 の 上 表 が 第 三 表 ま で 収 め ら れ て い る
︒ 結 局
︑ 封 戸 の 加 増 は 行 わ れ た の か は 不 明
︒
― 301 ― 平安時代前期における親王出家とその処遇