論 文
統覚と自我
一カント『純粋理性批判』からの考察一
清 水哲 朗*
はじめに
21世紀を迎えた現在,世界にはテロリズムが 横行し,凶悪な犯罪の増加により私たちの日常 生活も脅かされつつある。大小を問わないテロ
リズムの存在は,単に宗教的な原理主義を背景 としたものというよりも,もっと普遍的な21世 紀的な問題性をはらんでいるように思われる。
私たち自身の中にかつて考えもしなかった生命 への軽視の思想,生命観の希薄化の現象が発生 しており,それによって,チロル(暴力)の温 床を,私たち自身が世界の中に,知らず知らず のうちに用意してしまっているのではないだろ
うか。
生命への軽視の状況の原因が,どこにあるの かは,政治的,経済的,宗教的,環境問題への視 点等,種々の観点から分析する必要があるだろ
う。だが,根本的な要因の一つには,それらの 種々の観点を包摂する「近代」の変遷,否,私た ちが今まで盤石なものと信奉してきた(あるい は信奉させられてきた),私たち自身の中にある
「近代的価値観」自体が懐胎する問題点,そして 同時に「近代的価値観」を育み,それによって支 えられてきた「近代的自我」意識の持つ問題点
にその要因の一つがあるのではないだろうか。
それは,歴史の中で培われてきた「近代=モ ダン」の概念の二つの側面と切り離せない関係 にある問題点だ。ボードレールは,「一時的なも の,移ろいやすいもの,偶発的なもの」ωである が,そこから「永遠なもの」,「不変なもの」を 抽出し,人間が自らの生の時空の「いま,ここ」
を最も生き生きと充実したものとすることので きる「現在性二modernit6(モデルニテ)」に,
「近代=モデルヌ」の,あるいは「近代的自我」
の良き側面を析出した。だが,ここで問題とさ れるのは,そのような「現在性」とは隔たった
「近代二モダン」のもう一方の在り方の持つ問題 性である。それは,産業社会の進展の中で「合 理性」と「効率」を追うあまり,充実した生の 時としての「現在性」からは遠ざかった,功利 一辺倒の「近代=モダン」社会の偏った在り方 であり,そこで次第に自閉し,内閉化してゆく 自己中心的な生の在り様,自我の在り方として の「近代的自我」の悪しき側面を意味する。
本論においては,以上のような意味合いから,
現在の世界における生命軽視と生命観の希薄化 の状況を踏まえ,その根本要因としての「近代 的価値観」,「近代的自我」観の問題性とその変
*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程1年
質,変容の様を考える。ここにおける本質的な 論点を把握するため,「近代的自我」に対して,
カント批判哲学における「超越論的自我(すな わち統覚)」を対置させ,そのあり方と意味を考 えていくことによって,反証的に「近代的自我」
の持つ問題性を析出する。それによって,現在 の世界における生命軽視的人間観,生命観の状 況において,考え得る「21世紀的自我」の方途 として,カントより発する「超越論的自我」の 現在的な可能性を探っていくこととする。
1.自己同一性としての自我と非自己同
一性としての自我「近代的自我」の在り様は,自己のアイデン ティティ(自己同一性)をその揺ぎなき根拠と してきた。現在の社会における不安と混沌の状 況は,このような「近代的自我」のアイデンティ ティ (自己同一性)の意識の揺らぎと崩壊の現 象によってもたらされているということもでき
るだろう。
アイデンティティとは広辞苑によれば「ある 人の一貫性が成り立ち,それが時間的・空間的 に他者や共同体にも認められていること」とあ るが,「ある人の一貫性」がどのように保たれ得 ているかということを決定することはそれほど 容易ではない。おそらく「自分が自分であるこ と」の意識,「自分らしさ」の実感が,具体的な
「自己同一性」としてのアイデンティティの概念 を築く主要な根拠とされるのだろう。
アイデンティティの概念は,「近代的自我」を もっとも良く示す「ゆるぎなき自己」,「近代的 個」の意識として,近代社会,特に20世紀現代 社会の価値観の中で中心化され,私たちの思想,
生活全般にとって,あるいは法,政治,経済に
かかわる権利や義務の概念,そして利益(利潤)
の感覚全般を根底的に支える要素とされてきた。
だが,このような「自己」の意識の在り様は,
「近代」という歴史的な時間の進行の中で,外的 な教化を受けながら,自己の内部における一種 の進歩主義の実現として,個々の意識のレベル で拒絶することも許されずに,,内的に強化され つづけてきたのである。
このように,「近代的自己」からの要請によっ て,「近代的自我」は,「自分が自分であること」,
「自分らしさ」として「自我」の概念の成立のた めに,ある意味で強固に自己のなかで「自己同 一的」なものとして実現することを,制度的に 余儀なくされてきた。それは自己が自己に行使 する,「近代的自我」に関するある種の内的な政 治性でもあろう。そこでは,自己と自我は同一 的に存在していなければならず,あるべき自己 の像(自己の表象)と自己の意識(自我)とは 常に同心円的に重なりあう必要があるのである。
その二つの円の重なり合いによって「近代的自 己」と「近代的自我」は見事にその円環を閉じ 完成されなければならない。中心が一つの二つ の円は「ズレ」ていてはならないのだ。
しかし「近代的自我」でなくとも,自己の同 一性をたもつことはそれほど容易でもないし,
人間の在り方として自然なものであるとも言い がたい。精神病理学者の木村敏は次のように述 べている。「ここでわれわれはひとつの重要な 帰結に到達する。『自己』の名で呼ばれる自他の 差異ないし勾配とは,生物としての人間の意識
に生じた個別的な主体性と集団的・面的主体性 との間の差異あるいは二重構造が生み出したも のであり,その意味でこの二重構造と別のもの ではない。個体の内部においていわば『内主体
的差異』として形成されたその同じ構造が,個 体間の『間主観的差異』としてみられたときに は,自己と他者との『自他勾配』あるいは『自 己』という姿をとることになる。さらにいうな らば,『自己』とはある個体みずからの関与する この内主体的かつ間主体的な差異一これを私は 従来から『あいだ』とよんできた一を意識した ものだということになるだろう」②。木村の「自 我」の見方は,自己同一的な「近代的自我」の 見方とは大いに異なるものである。求められる べき「自我」の像は「同一的」なものとしてで はなく,「非同一的」なものとして求められてい るのである。
ここでは,「自我」を成立させるために「他者」
が導入されている。木村は「勾配」という実に たくみな言い回しで,「自己の内部での他者」の 存在の意義を語ろうとしている。単に外部的な 対象としての「他者」が自己の「内部」に取り入 れられたのであれば,「自己」と「他者」が内的に 対立するだけである。あるいは,「他者」が「自 己」に吸収されるのであれば,「自己,他者」間 の内的な力の構造によって自己の内部での「他 者性」が理解されるに過ぎなくなる。そうでは なく,そこには「自己」の内部にもたらされた
「他者」が自己との間で差異化され,その差異か ら,両者間の相互的な関わり合いの作用によっ て,「勾配」が生じるのである。そして,その勾 配によって,双方が動的に関係し続けていくこ
とが示されているのである。ここでは,内的な
「自己」と「他者」の「勾配」の持つ「非同一性」
によってこそ「自我」の在り様が明らかにされ てくる。
「近代的自我」による「自己同一的」自我の概 念をくつがえす,自我への「非対称的(自己内
部的な)他者」の導入は,上田閑中による「十牛 田」の解釈にも見出される。「十三図」とは,牧 人と牛とのかかわりを表す十の図を通して,自 己の在り様を示そうとする禅道の指南のための 画題の一つである。逃げてしまった牛をさがす
「第一尋牛」に始まり,牛の足跡をみつける「第 二見跡」,牛を見つけてその跡を追っていく「第 三見牛」,牛に手綱をつけ暴れる牛を手なずけよ
うと格闘する「第四得牛」,牛を飼いならすこと ができ,手綱を引いてともに静かに歩んでいる
「第五牧牛」,牛の背に乗りゆったりと笛を奏で 家路を辿る「第六騎牛帰家」から第七図「第七 忘牛仁人」に至り,牛の姿が消えるまで,以上 のような展開の「十牛図」では,真の自己への 希求から,自己獲得に至るプロセスが,内面的 な葛藤として描き出されている。
しかし「十牛図」は,八番目の図において,全 体の流れの中で大きな場面展開を迎える。「第八 人置墜下」では牧人の姿も消え,何も描かれて いない円だけが取り残される。「第九返本還源」
ではただ川の流れと花咲く岸辺の木だけが描か にってんれるに至る。そして十番目の図「第十入邸吊手」
では布袋様のような老人と一人の若者が対離す る姿だけが描かれ,それをもって「十牛革」は 一応の終幕を迎えるのである。
上田閑照は「制動図」の第八図以降の場面転 換に注目し,「問題は第入・第九・第十図が示す
『真の自己』の在り方である。しかしこれも次の ようなことを考慮にいれるならば,我々にとっ て共通の基礎的事態であり得るであろう。通常 人間と人間,人間と自然,人間と超越という仕方 で人間の在り方が取りあげられる。或いは客観 的に人間という言い方ではなく,自らその当の 人間である立場に注目して主体性をこめて『自
己』という言葉で言い直せば,自己を構造的に 組成する契機として,一般に自.己と自己(我と 汝),自己と自然,自己と超越の三つの関係(古 来の形而上学で人間,世界,神という三つ一組 の述語で問題にしてきた総連関)が見られてい る。『十牛図』の『真の自己』は,その三つの関 係を『我々の自己』の事柄として,自己という 在り方のなかに(といっても,自己への内在化 ではなく,逆に自己の脱自性において)統合的 にふくまれていることと見るのである。自己と いうものがあって,自己と例えば自然というの ではなくて,自己というとき,自己と自己/自 己と自然/自己と超越,それが自己だというこ とである。そしてこうなるのは,自己が自己と して場所的であるとき,自己が場所にひらかれ るそのところで『自己なし』というところから である。」(3)と述べる。上田は上の叙述の「場所 的である」ことをハイデッガーの世界内存在㈲
や「人間とは,人間とその環境である」という オルテガの考えによって例証しようとする。
上田が語る,自己成立上の不可欠な要素とし ての「脱自」と「自己なし」とは,自己=自己 とする「近代的自我」の「自己同一性」の持つ 自己観の「対称性」を不十分なものとして看破 する「非対称的」な自己観であり,そこでの自 己は「非同一的」な「瞑目」としての「自己な
し的場所」において初めて自己であることを獲 得する「超越論的な自己」の姿である。
第八,第九,第十図が示している「非同一的」
な「脱自」としての「自己なしの場所」は,第 七図までの,「近代的自我」の成立構造にも類比 することができる統合的な自己像を越えている
ことをもって,重要であると上田によって指摘 されている。
上田はさらに次のように続ける。「自己とは 場所的自己であるとは,正確にいえば,自己は,
「自己なく』して自己の於いてある場所であると 同時に,場所に於いてある自己であるという一 種独特な二重性をなしているということである。
その上で,・もう一つ,自己の於いてある場所が 最終的に見えない仕方で二重になっているとい
うことがある。諸場所の場所である包括的意味 空間としての世界(世界内存在と言われる時の
『世界』)は,包括的ではあっても意味空間(な いし意味の総称)として限られている。世界は 世界として有限であり,有限な世界としてそれ 自身r限りない開け』に『於いてある』。世界と いうとき,とりもなおさず,限りない開けに於 いてある有限な世界ということである。従って 我々が世界に『於いてある』ということは,限り ない開けに『於いてある』世界に『於いてある』
という二重の『於いてある』なのである」(5)。こ こにおける「限りない開け」とは魅力的な響き を持つ。上田は「脱自」としての自己の考えを もう一歩進め,世界の「限りない開け」の中で自 己の在り方を考えていく。ここでは,私たちが
「於いてある」世界自体が,限りない開けに「於 いてある」ということになり,私たちの「於いて ある」世界は,底の抜けた限りなさの中に存在
していることとなる。またそれによってこそ有 限な意味空間として規定されるのである。そし てそのような限りない開けの中で「於いてある」
世界と自己との二重構造こそが私たちの「自我」
を構成しており,従ってその「自我」は限りな い開けとしての世界との,非対称的な「超越論 的」構造の中で,常に同時に「非同一的」に開 かれ続けていくものとして構造的にしかも存在 論的に運命づけられているのである。
2.デカルトの「方法的懐疑」と「自我」
の在り様
2−1 「近代的自我」批判と「コギト・ユ:ルゴ・
スム」
前節において,歴史の中で訓化されつづけて きた「自己同一」的な「近代的自我」の構造と,
一方それとは逆の「非同一的な」自我の在り方 の解釈を検討してきた。
「非同一的」な「自我」は,木村敏が言うよう に,もともと自己の内部の内的「他者」の存在 を想定した「自己」の非対称的な差異の「勾配」
の上に立った,不安定だがどのような状況にも 対応し得る柔構造を備えている。また,上田夕 照が「十牛図」の第入館から十図にみる,限り
なき開けに「於いてある」世界に「於いてある」
自己とは,二重の世界構造の中で,内的な閉塞 性や中心性を脱した,それ自体が常に即自的な
「外的」場所において成立する「自己」の姿であ り,それ故に,「自我」の成立においても,本来 的に,不確定的な内的な振動,あるいは「揺ら ぎ」の運動性を保持している。従ってそのよう な「自我」の在り方に依拠するならば,「自己」
の外の外的状況の揺らぎは,不調和なストレス に終わるものではなく,「自我」の存在証明とし て受けとられるべきものである。つまり外的場 所に共鳴する自己とは,「自己の内部での他者」
に出会う自己に他ならないと言える。
「非自己同一的」な在り方によって逆に,「自 己同一的」な「近代的自我」の構造的な欠陥が顕 在化する。そして「非自己同一的」自我によっ て開けをもたない「近代的自我」の欠陥の要因 がたどられる。その際にかならずといっていい ほど引き合い出されるのがデカルトの存在であ
り,またその第一原理とされた「われ思う,故に われ在り(cogito, ergo sum)」なる言説である。
デカルトは「方法的懐疑」によって,この世 の一切のものを疑うことができ,それによって 一切のものを虚偽と判断できても,疑っている
(考える)自己の存在だけは疑うことができない とし,そこに揺ぎ無き人間の「自己」の存在を示 すに至った。デカルトによって示された,その
ような揺ぎ無き「自己」の存在の中に,近代社 会の成立過程で相即的に求められてきた近代的 な人間の「主体性」の源泉が求められ,それを もととして「近代的自我」の成立根拠も同様に そこに求められるというわけである。しかし同 時に,そのような「近代的自我」が批判される とき,その大元の根拠とされるデカルトの「コ ギト(われ)」の概念が常に批判の同上にのせら れるのである。
しかし,「近代的自我」の在り方が批判される 時,本当にそのようにデカルトの「コギト」は批 判されるべきなのであろうか。そのような「近 代的自我」の源泉をデカルトの「コギト」に求 め,それを批判する方法論には,批判的視線の 常套化とデカルトの思想についての歪曲化の現 象が見出されるように思われる。
デカルトの思想は17世紀の本格的な近代哲学 の幕開けであったことは論を待たない。同じく 17世紀に顕在化してきた経験論とともに,近代 哲学を画する二つの潮流の一方である大陸合理 論を代表するものとして認識され続けてきた。
デカルトの合理論の特徴は,ガリレイらに代 表される近代科学的な分析の視点に根拠を置い ているところにあるが,さらにそこで,そのよ うな近代科学的な視点を可能にする「思惟する 主観」の在り方自体を哲学的な検討の対象にす
えたところに,哲学的ターニングポイントが存 在している。
それをもって後世の者たちは「自我」の存在 とその存在論的な意味での確実性をもとに,「近 代的自我」の起点を,デカルトの「コギト」に 求めようとする。だが,そこで行われる批判の 根拠は,多分に「コギト」の物象性に偏るもの ではないだろうか。
2−2 「方法的懐疑」と「主観」の成立
デカルトは「省察」の冒頭部分で次のように 述べている。「すでに数年も前のことであるが,
私が若い頃,いかに多くの偽なるものを真なる ものとして認めてきたか,また,それらのもの の上にその後の私が築きあげたものがどれほど 疑わしいものであるか,また,それだから,も
しいっか私が学問においてもなにか確固とした 持続的なものを確立しようと欲するならば,一 生に一度は一切のものを根底からくつがえして,
最初の土台からやりかえなくてはならない,と 私は気付いたのであった」(6)。ここでは,デカル
トの「方法的懐疑」は,渇きのような内的な必 要性にもとづいていることが読みとれる。
さらに,デカルトは「実のところ,このよう な論拠にたいしては,私は答えるべきことを何 ももたないが,しかしけっきょく,私がかつて 真であると思っていたもののうちには,疑うこ
とを許さぬようなものは何もないことを告白せ ざるをえない」(7)と続け,世界に対する一切の 懐疑の貫徹の意思を明瞭に示すに至る。
デカルトは世界に存在するものの疑わしさを 問い,それによって逆に,唯一確実なものの存在 を求めるため,「隈疑」を方法論化した。デカル トは徹底して疑い続ける。感覚に対しては,「し
かし,いま私は確かに覚めた眼をもってこの紙 片をみつめている,私が動かしているこの頭は 眠ってはいない,私は故意に意識してこの手を 伸ばし,そして感覚している。眠っているもの には,(このように明晰な,そして)このように 判明なことは生じないのであろう。しかし(よ く考えてみると)他の時には夢のなかで私はま た同じような考えによって欺かれたことのある のを思いださないわけでもないのである。この ようなことをさらに注意深く考えるとき,私は 覚醒と夢とが決して(的確な指標や)確実な標 識によって区別されえないことを明らかに認め て驚愕し,そしてこの驚愕そのものが,私は現 に夢見ているのだという意見の正しさを私にほ とんど確信せしめるのである」(8)。眼の前にある 紙片の動かしがたささえも,夢の中の一情景に すぎないのではないかと疑い,現実存在の確証 性を保証するはずの感覚の存在性さえ,デカル トは疑おうとする。さらにデカルトは巧みな文 章上のレトリックを用い,「私は覚醒と夢とが決 して(的確な指標や)確実な標識によって区別 されえないことを明らかに認めて驚愕し」と言 い,そのことによって私たちにとっての「現実」
と「現実感」双方に根底から揺らぎを与えよう とするのである。デカルトの「1褻疑」は,「懐疑」
の方法論をよく読むならば,科学的で現実的で あるはずの近代性にとっても極めて異端審問的 な存在であると言えるだろう。
一方,この徹底した「懐疑」によって逆説的 に浮かび上がってくるものこそが,デカルトに とって,「コギト」としての「主観」である。私 たちはデカルトといえば,「われ思う,故にわれ 在り」にもとづいた「自我」の源泉としての「主 観」の,不動なる存在性のみを思い描いてしま
うが,実はデカルトの「コギト」はその当時の哲 学的思索の現場的状況として考えたならば,徹 底した「懐疑」に貫かれた,いわば累々たる懐 疑の屍の上に築かれた,「懐疑」の修羅の中から 獲得された「主観」の姿であり,それは決して 近代的な合理的科学性のみによって獲得された
「主観」の輝かしき勝利の姿ではないのだ。その
「主観」とは,徹底した懐疑の果てに「懐疑」の背 理としてようやく取り残された抹消不能の「懐 疑」の残存物であり,その意味で「懐疑」あっ ての「主観」,「疑い」あっての「確信」として の「主観」の姿であり,その意味ではデカルト の「コギト=主観」とは,その揺るぎなさと等 価の「懐疑」の集積の姿そのものだ。
デカルトは次のように語る。「思惟することは どうであろうか。ここに私はそれを発見する,
思惟がそれなのである。これのみは私から切り 離されることができない。私はある,私は存在 する,これは確かなことである。しかしどれだ けの間なのか?もちろん私が思惟している間で ある。なぜかというに,もし私が一切の思惟を やめるならば,おそらく私はただちにあること
(あるいは存在すること)をまったくやめると いうことになるであろうから。(中略)しかし,
私は真のものであり,真に存在するものである。
しかし,いかなるものなのか。私はいった,思 惟するもの,と」(9}。営々と続く「懐疑」の果て
に,「思惟」する主体としての「コギト二主観=
自我」をようやく獲得することとなるのである。
このようなデカルトの「懐疑」と「コギト」の 関わり合いを位置関係としてとらえようとする ならば,興味深いことがわかってこよう。デカ ルトは自己の感性までを含め,世界のあらゆる 存在を疑う。そこでその疑いを可能にする唯一
「思惟」のみを,疑い得ない存在として認めよう とするのである。とするならば,「思惟」は世界 の「内部」に存在することはできないのではな いか。なぜならば偲惟」が世界の「内部」にあ れば「思惟」自体も「懐疑」の対象となり,「真 に存在する」ものとは言えなくなるからである。
2−3 「主観」の外部性
「懐疑」と「思惟」の位置関係,その関わり合 いの構造に,デカルトの「方法的懐疑」とそれ によってなされる「思惟」の存在定位のメカニ ズム理解の盲点がある。「思惟」は膿疑」に対 して「外部」になければ「思惟」足りえないし,
またそのような「外部」としての「思惟」がな ければ「懐疑」も「懐疑」として決定できない。
「懐疑」あっての「思惟」,「思惟」あっての「懐 疑」なのである。この関係構造がなければデカ ルトの「方法的懐疑」と「思惟」は論理的に結 びつくことができない。
とするとここに,奇妙な逆転現象が生じるこ ととなる。つまり,揺ぎ無き「自己」としての
「思惟」は,自己の「内部」の「懐疑」の中には存 在し得ないこととなるのである。つまり「自我」
は「内部」にはないこととなってしまう。これ はどのような事態なのであろうか。このような 事態を不合理と思ってしまうところが,私たち の「自我」意識,つまり内的な,自己中心性の イメージに固定化されている「近代的自我」意 識の難点たる所以である。
デカルトは,「懐疑」が「内部」で,それ故の
「思惟」が「外部」にあるとは言っていない。た だ「懐疑」にとっての「思惟」の不可避性を「方 法的懐疑」によって求め,それをもとに「コギ
ト・エルゴ・スム」と言ったまでである。
ここでは,「懐疑」の「外部」に「思惟」はな ければならないが(逆に「思惟」から見れば「懐 疑」は「内部」になければならないが),「懐疑」
と「思惟」は超越論的な構造によって不可分離 に結び付けられているのである。
このような構造の存在性を認めないと,「懐 疑」と「思惟」の関係は,「懐疑」がなければ「思 惟」もありえず,また「思惟」がなければ「懐 疑」もありえず,という循環論証に陥る。デカ ルトは,「懐疑」の「外部」,「思惟」の向こうに,
それら「懐疑」を内包した「思惟」を可能にす るものとして,「壊疑」と「思惟」の循環論証を 断ち切る超越論的構造を置く。最終的には,そ れを可能にする絶対的な根拠として,「神」の存 在証明を行おうとしたのである。ここでは,デ カルトの「神」の存在証明について詳述はしな いが,重要なのは次のことである。求められて いるのは,単なる絶対者としての「神」の姿で はなく,「懐疑」を超えた「思惟」の限界と源泉 としての「神」である。そして,この「神」は,
「陵疑」と「思惟」を行うわれわれ人間と関係す ることによって,相対化されつつも同時に絶対 性が証されようとする近代的な「神」である。
しかし,「神」の存在の証明以上に本論におい て重要なのは,デカルトの「思惟」つまり,近 代の私たちが問題多き「近代的自我」の根拠と 即断しやすいデカルトの「主観」が,「二時」の 外部にあったと言う点である。
デカルトに出自を求める近代的主観に即して 言えば,「対象」が「主観」に先んじることは明 らかに転倒と思える。だが,デカルトにおいて はそのような「主観」をもととした「対象」の把 握の一切が「疑わしい」のである。しかし,対 象に関わる「疑わしい主観」の存在だけが唯一
「疑わしくない」のだ。繰返しとなるが,問題あ る「近代的自我」の在り方を批判するときに,そ の出自として,デカルトの「主観」に遡り,そ こで私たちが通常抱いている「内的」な「主観」
のイメージをもとに,デカルトの「主観」の問 題性を追及しようとすることは,大いなる誤解 であるように思われる。デカルトの「主観」は,
私たちが通常抱いている,自己の内部で中心化 された,すべての判断の基準とされる内的な主 観のイメージへの「疑い」から生み出されたも のであり,その疑いを否定せずに最後に取り残 されたものである。それは,「疑い」の果てに未 知なる「精神」,「霊魂」,「理性」へと覚醒的に導 かれ,「神」の存在へと延長される,「疑い」の外 部へ要請された「外なる主観」の在り方である。
そう考えると,「近代的自我」批判において,
デカルトの「われ思う,故にわれ在り」にすぐ さま遡ることは早計な行いだろう。逆にデカル トの「主観」の持つ「外部性」の検討は,「近代 的自我」の在り方への批判力をもっていよう。
3.カントによる「超越論的自我」として の「統覚」の在り方について
3−1 「合理論」と「経験論」の統合,そこにお ける「コペルニクス的転回」の意義 カントは,周知のように,デカルトやライプ ニッツらの大陸合理論とロックやヒュームに代 表されるイギリス経験論とを独自の方法におい て統合し,自らの批判哲学を生み出したと言わ れている。
カントはある意味において,先に述べたデカ ルトの思想の正当な継承者であり,デカルトに おける「主観」の成立はカントの認識論において 高度な形で進化させられている。観念論的「主
客二元論」の立場で言えば,「主観」は「客観」に 優先する。「客観」をとりあえず「主観」対「対 象」の「対象」とするならば,「主観」は「対象」
に優先し,「対象」を構成するもととなる。カン トはr純粋理性批判』第二版の序の中で「もしも 直観が,対象の性質に従わなければならないと すれば,私は,対象の性質について先験的に何
らかを知り得ることを理解できない。しかしな がら,もし対象が(感官の対象として)直観の能 力の性質に従わなければならないとすれば,対 象の性質を先験的に知ることができるという可 能性を,大変によく言い表すことができるよう になる。」(XVII)と述べる。いわゆるカントに よる「コペルニクス的転回」の部分である。デ カルトにおいて見出された「思惟二主観」は,カ ントにおいて見事に結実する。
同時にカントは,ヒュームによって「独断の まどろみを破られた」(『プロレゴメナ』序文)と いうほどにヒュームからの影響も蒙っている。
カント批判哲学を,大陸合理論とイギリス経験 論の統合と考えるなら,まさにヒュームを通し
て経験論的側面の吸収ということになるであろ う。しかしその場合,経験論は,あくまでも独 立した要素であり,構成的な意味でカントの認 識論の部分として考えてはならないだろう。そ のような構成的「内容」としてではなく,むし ろ合理論と経験論の統合の中で,経験論的立場 が,認識の成立に対してどのように内的な働き 掛けを行っているかを考えていく必要がある。
その場合に重要なのは,ヒュームの,やはり
「懐疑論的」立場である。ヒュームは,「経験」
をもとにしてあらゆる実体の在り方を疑ってい く。物体について私たちに与えられるのは,そ れらの知覚の束であり,物体とは経験から得ら
れる諸性質の集合に過ぎない。同時にヒューム は精神の実体性をも否定した。精神を何か一つ のまとまりある実体とみなすことを虚構とし,
むしろ経験にもとつく知覚のみを拠り所とする のである。ヒュームはその意味で徹底した経験 論者であり「経験」にもとづいた「懐疑論者」で あった。
カントにとってみれば,デカルトと同様ヒュー ムの「懐疑」は極めて重要である。「コペルニク ス的転回」における「対象」に対する「主観」の 優位も,単に「対象」が「主観」に従うことに
よって,「主観」が固定化されるのでなく,「主 観」は「対象」の「経験」によって成立するとい
う「経験論的立場」は「主観」にとって欠不可欠 な要素である。つまりカントの認識の成立のメ カニズムにおいては,「対象」の経験を可能とす るため,先験的に「主観」の形式が用意されてい なければならず,また「主観」を機能させるため には,「対象」の「経験」が不可欠である,とい うように「主観」と「対象」,「合理論」と「経験 論」は相補的なものとして置かれている。「コペ ルニクス的転回」による「主観」の位置が決し て絶対的なものではなく,「経験」によって限界 づけられているということを,カントはヒュー ム的な「懐疑」から学び取っている。ヒューム の「懐疑論」は,「主観」の「実体的な」固定化 を回避させ,常にその機能と限界を知らせるた めの要素として極めて重要な観点を,カントの 中で構成させたのである。
3−2 「ア・プリオリ(先天的)」で「超越論的」
な「自我」としての「統覚」の在り方 大陸合理論とイギリス経験論の統合としての
カントの批判哲学が,あくまでも理性の機能と
その限界を示そうとするものである時,カント 哲学における「批判」とは,「主観」が外的「対象」
を攻撃するような「非難」としての「批判」では ない。それは,「合理論」と「経験論」を,それぞ れのもつ「陵疑論的」特性を生かしながら,互い の限界が互いの機能の範囲を照らし出すように 取り込み,それらを統合することによって生み出 されたものである。それは,「理性」の機能と限 界の「規定」としての「自己批判(self−criticism)
的」な「批判」なのである。
「合理論」と「経験論」の高度な統合の側面 は,カント批判哲学の面目躍如たるところだが,
それによってカントが用いる「ア・プリオリ(先 天的)」と「ア・ポステリオリ(後天的)」なる用 語もかなり理解しやすいものとなる。そしてカ ントにとって決定的に重要なのが「ア・プリオ リ」の方である。カントが『純粋理性批判』にお いて最終的に求めようとした命題は,「ア・プリ オリな綜合判断はいかにして可能か」であった。
「ア・プリオリ(先天的)」を理解していく上 では,それと不即不離の関係にあり,カント批 判哲学を可能にする「統覚」の概念が理解され なければならない。そして「統覚」が,「自我」
に対してどのように「超越論的」であり得,ど のように「超越論的自我」として形成され得た かを考えなければならない。
デカルトの「懐疑」は,対象を把握する「感 性」を中心に展開されていた。「疑わしい」と感 じられる一切の対象が排除され,逆に「疑わし い」と感じ得る「思惟」そのものの構造が,「懐 疑」の背理として唯一確証の持てるものとして 取り残されたのだ。
だが,カントは,そのような「感性」のみに よる世界の感受の「疑わしさ」だけでは世界の
有り様を否定することはできなかった。むしろ
「疑わしさ」を転倒して「感性」のメカニズムを 解明しようとした。そこには,カントなりの認 識の作用に関する幾つかの役割分担がなされて いた。「事物」はコペルニクス的転回に従って,
あくまでも認識に従うわけだが,そのプロセス は「対象」対「認識」といった二元論的な単純 構造になっていない。「対象」は綜合ということ からすれば,「覚知の綜合」,「再現の綜合」,「再 認の綜合」の三つの綜合作用によってようやく
「認識」されるのである。そして,それぞれの綜 合の段階において「感性(直観の二つの純粋な 形式としての時間と空間)」,「構想力」と臼吾性」
の三つの機能が関与することになる。これら三 つの綜合の作用が,連続的に一挙に,統合的に作 用し,認識を可能にする時,それらを統合する 作用として「統覚」なる概念を置いたのである。
つまりカントの『純粋理性批判』においては,そ のような,三つの綜合作用の連合体としての「統 覚」によって,「対象」の認識が可能になり,そ れによって自己の外部の無規定なものが,認識 の「対象」としてコペルニクス的に回転させら れ成立するのである。統合作用そのものとして の「統覚」の存在は,単なる「対象」と「思惟」
の二元論的な経験的意識の地平を超えた,「超越 論的」な次元での「純粋意識」であり,「超越論 的自我」の有り様を示すものである。
3−3「分裂」としての「物自体」あるいは「統 覚」の存在性
「統覚」による「超越論的自我」の結構によっ てカント批判哲学における「自我」の有り様は 完遂されるかに見える。だがここで「統覚」の 成立とともにそれを可能にするものの中にカン
ト批判哲学にとってのアポリアである「物自体」
を考慮していく必要があるだろう。
「対象」の認識を可能ならしめることによっ て「対象」の存在性を保証するカントの「統覚」
は,その「対象」を可能にする場としての「現 象」と不即不離の関係にある「物自体」の存在性
を抜きにしては真の意味で理解することのでき ないものである。というよりも,直観構想力,
悟性の三つの綜合作用によって成り立つ「統覚」
が「対象」の認識であり「対象」を「対象」足ら しめているとすれば,その「対象」を可能にする 場としての「現象」を成立させるために「触発」
という起点を与える「物自体」は,実は「現象」
にとって,つまり人間の認識にとっては欠かす 事のできないものとなる。その意味でカントに おける「超越論的自我」の姿は,「物自体」と表 裏一体的なものであり,その点にこそカンrト批 判哲学の「自我」の有り様の特徴が示される。
エーリッヒ・アディッケスはその著『カント と物自体』において次のように述べている。「わ れわれの自我を触発する多数の物自体の超主観 的存在は,カントにとっては批判期全体を通じ て一度も疑ったことのない絶対的に自明なこと がらであったが,この自明性はかれ独特の実在 論的色彩の濃い体験にもとづいていた。この体 験においてかれは,現象のアポステリオリな素 材のうちに,それとは別な超越的な力を感知し た。そのためかれはこの素材は,なにかそれ自 体存在するものの証拠,いな!それを告示する ものとなった。かれは湖源推論を手にして,結 果としての現象から原因としての超越的なもの を模索しながら,苦労してやっとそれに辿りつ いたのではない。かれにとってはむしろ,超越 的なものは現象のうちに直接あらわれ,その本
質からいってたしかに認識不可能ではあるが,
その現存在からすればけっして疑いえないもの
であった」⑩。
アディッケスの「物自体」論は,多分に自然 科学的な「実在論的」性質に傾く嫌いがあるが,
「アポステリオリな素材のうちに,それとは別な 超越的な力を感知した」とは,「物自体」の拭い がたい存在性を示すものだろう。ここにおいて カントの「物自体」の概念が単に「現象」を超 えた「上への超越」ではなく,「現象」を内部か らに根底的に支えるものとして,むしろいわば
「下への超越」ωとして「現象」を「現象」足らし めることが示唆される。カントの「超越論的自 我」の有り様として,「統覚」の在り方を考える 上で,「物自体」は,不可欠な要素である点が指 摘されているのである。
「物自体」はアディッケスが言うように,「た しかに認識不可能ではある」が,やはり「けっし て疑いえないもの」である。それが認識の根幹 をなす「統覚」にとって不可欠な存在であると すれば,認識は,認識不可能なものによってこ そ可能なものとなり,いわば認識に対する認識 不能の「分裂」の構造をもっとも中心的な部分 に内包していることになる。カントの「超越論 的自我」を根底にもつ認識の作用は,「物自体」
と「統覚」との分裂的相即性によって可能とな る。このことは,われわれの認識が,認識不可 能なものによって支えられているという認識の 不思議な転倒構造を示している。
3−4 「構想力」の作用
カントは,「Aという概念から離れて,Aと は無関係だが,にもかかわらずAに結合してい ると信じられている述語を見つけ出したと確信
する場合,悟性が依拠する不可知なXとはなん であろうか。それは経験であることはできない」
(B13)と述べている。ここでは主語A(ここで は「生起するもの」とされている)とは異なる述 語(「原因」とされている)によって「生起する ものはその原因を持つ」という綜合判断がもた らされる時に,つまり「経験」を可能にする綜合 判断を可能にするために,「経験」を用いること はできない,と言明されている。その場合,悟 性は受容的な感性を超えて,(不可知なもの=)
Xのところまで自発的に出向いて行かなければ ならない。しかし悟性とは,12のカテゴリーに よる純粋概念の範囲内で,感性が得た直観の多 様をそれらのカテゴリーに適合させ統一する機 能である。感性の受動性に対して,悟性はそれ にカテゴリーを適用していく能動性だけをもつ ように見えるが,しかし,一つの触発を契機に 感性を経由してもたらされるものを受け取って いる点では半ば受身である。従って「経験」を 超えて,あるいは「経験」に内属して,「経験」
を「経験」足らしめる(不可知なもの=)Xに 出会うためには,もう一つの牽引力が必要なの である。
ここにおいて,「物自体」とならびカント認識 論において不可欠な「構想力」の存在性が浮かび 上がってくる。感性と悟性の作用によって「対 象の知覚」つまり「経験」が可能となるために は,あらかじめ連想の作用によって表象を結合 する「再生的構想力」が働いている必要があり,
また悟性のカテゴリーに表象を適合させるため には「産出的構想力」の作用がどうしても必要 になるのである。
「感性」と「悟性」を結びつける蝶番のよう な役割をする「構想力」はカント認識論にとっ
て不可欠な要素である。しかし『純粋理性批判』
において「構想力」の実体は,必ずしも明確な ものとは言いがたい。r純粋理性批判』第一版と 第二版の異同の問題においても第一版では,「感 性」と「悟性」という異質なものを媒介する超 越論的機能として構想力の独自性が認められて いながら,第二版では感性と悟性の存在性を明 確化するため,構想力は悟性の能力の一部とし てむしろ縮減されている。
しかし,「構想力」こそは,「自己」の中で欠 くことのできない自発性として,認識にとって 要請されなければならないものであり,それは,
「物自体」とともにカント認識論にとって不可知 ではあるが,真に「ア・プリオリ」な必要性と
してカントの認識を認識足らしめる不可欠な要 素なのである。
3−5 「物自体」と「構想力」によって形成され る「超越論的自我」の様相,そしてそこに おける「生命的」な「自我」の在り様につ いて
「物自体」と「構想力」の存在は,私たちの 意識にとってみれば違和を禁じえないものであ る。「物自体」を見たり,「知覚」によって「構 想力」を感じ取ることはできない。しかし,私 たちの認識は,認識の外にある認識の不可能性 によってこそ支えられているのではないだろう か。私たちの認識が認識不可能な「物自体」や
「構想力」によって可能になっているとすれば,
カントの「超越論的自我」の有り様としての「統 覚」,つまりカントにとっての「自我」とは,認 識の不可能性によってこそ成立しているとも言 えるだろう。それは,「自意識」の及ばぬ地点で こそ「自我」は可能になるというパラドキシカ
ルな「自我」の構造を提示する。
そのような認識の及ばぬ認識の不可能性こそ が,私たちの認識に深く穿たれている。「『わた
くしは考える』という意識が,すべてわたくし の表象にともなわなければならない。というの
も,もしそうでなければ,まったく考えられな いものが,わたくしの中で表象されることとな り,そうすると,表象は不可能となるか,ある いは,少なくともわたくしにとって無であるか のどちらかになるからである。」(B132)とカン
トは言う。ここでの「わたくしは考える」こと を可能にするのが,とりもなおさず人間の根元 的な思惟の自発性としての「純粋統覚」の在り 方である。しかし,そこでの「わたくしは考え る」時の「思惟」とは単にゼロから何かを生み 出すプラスの「思惟」ではないだろう。
だから「わたくしは考える(Ich denke)」こ ととなる。ここには,「物自体」と「構想力」が,
私たちの「考える」作用に及ぼす根元的な逆説 がある。私たちは私たちの認識に深く穿たれて いる認識不可能な「物自体」と「構想力」によっ て根元的に触発され,単なる「無」(無気力と無 関心による,私たちの生にとっての完壁な虚無)
に堕するかもしれない危険性を回避し,「統覚」
の発動によって「わたくしは考える」ことを可 能にする。つまり私たちの生存本能として「わ たくしは考える」のである。そしてさらに,「よ
り良く」,「より生き生き」と生きようとするこ とによって,単なる「無」に対して,圧倒的な 逆襲を企てようとする。「物自体」と「構想力」
そして「統覚」の相補的な関わり合いが,私た ちの生の本源的なメカニズムを物語る。
「純粋理性批判」は,単に認識可能な理性の 能力の規定にとどまらない。むしろ理性の限界
の触知としての「物自体」と「構想力」の存在 性を通して,私たちの生にとっての根元的な根 拠とその創造的なエネルギーの態様を物語ろう とする。私たちの生は,認識不可能な「物自体」
と「構想力」の存在によって引き裂かれ,分裂さ せられているようだが,そのような分裂によっ てこそ「統覚」を得,「超越論的自我」としての 統合が可能となるのである。
わたしたちは,「一人のわたし」⑰としては,あ らかじめ分裂的(先験的)に「物自体」と「構想 力」という「もう一人のわたし=他者」を私た ちの内部に内包させてしまっている。そのよう な他者的存在によって,はじめて私たちの「自 己」の意識は,「わたくしは考える」,「一人のわ たし」を構成するのである。
しかし,もしもそのような私たちの生にとっ ての根元的な「分裂」がなかったとしたら,私 たちは,人としての豊穣な「瞬間」{13〕という「人 間としての時」を欠き,動物のようにただ「永 遠に継起する今」〔141をもつだけとなってしまうだ ろう。だからこそ私たちは,「物自体」による根 元的「触発」を生かして,「構想力」を駆使し,
個々にとって,独自のかけがえのない生の「瞬 間」を生きようとするのである。そこでは,斯 くあるべきという借り物の「私」のスタイルは 溶解され,斯くあり得,斯くありたいと願う,私 たちの生のありのままの姿が獲得されていくこ ととなるのだろう。
4.おわりに
現在私たちが直面している価値の崩壊現象は,
今まで私たち自身を私たちとして保ってきたは ずの「自我」の感情にさえ揺らぎをあたえ,む しろそれを崩壊的な方向に導いていないだろう
か。それは,「近代的自我」が本来内包している 宿痢でもあるだろう。自己中心的に自己を存立 させることを価値とする「近代的自我」の悪し き側面が,宿雪の元凶となる。それは,自己の 内的な「他者性」を自己の中から放逐させ,「自 我」の引きこもり状態を人にもたらす危険性を 持っている。
このような「近代的自我」の宿瘤の側面を検 討し,そこから21世紀の現在に,自己も他者 をも含め,生命を軽視することのない,あるべ き「自我」の方途について本論において一つの 検討を試みた。そこでは,「われ思う,故にわれ 在り」という「近代的自我」の起源ともされるデ カルトの「主観」について見た。しかし,デカ ルトの揺ぎ無い「主観」の存在でさえ,徹底的 な「1裏疑」の末に,「懐疑」の外部にようやく求 められる。それは,「懐疑」とはいえ,花や木,
海や空,そして他者という自己の外部との活発 なコミュニケイションの努力によってようやく 到達された「主観」の姿なのだ。カントの「超 越論的自我」としての「統覚」の成立にとって 不可欠な存在である「物自体」も「構想力」も,
自己を内閉から解放し,外へと開く,「他者」と
「外部」へのコミュニケイション能力の起源です らある。カントの「物自体」と「構想力」は,デ カルト的外部としての「自我」と本質的に共通 した性質をもつものである。だからこそ,「近代 的自我」の宿痢の中にいる21世紀の私たちに
とって,「自我」が招来すべき「外部」と「他者」
を告知するためには,デカルトもカントも依然 として有効な手がかりをあたえてくれる。自ら の時代における,自己と他者にとっての宿悪と 闘い,「外部」と「他者」とのコミュニケイショ
ンによって常に自己を開く豊穣な生を生きるた
めには,デカルトやカントが語らんとしたこと を再検討するという温故知新を,今着実に行う 必要があるのである。
〔投稿受理日2003.9.30/掲載決定日2003.12.19〕
注
カント『純粋理性批判』からの引用箇所の翻訳はKa撹,
㎞manue1:Kri七ik der reinen V6rnunfし/Immanuel Kant. Nach der 1. und 2. Orig.一Ausg. Lrgs. von Jens Timmermann, Mit einer Bibliogr. von Heiner Klemme.一Hamburg:Meiner,1998によった。ま た,翻訳のあとのローマ数字で示された表記はrオリジ ナル版』の頁数を示している。またAは『純粋理性批判』
第一版,Bは同書第二版を示す。
ω シャルル・ボードレール「現代生活の画家」,阿部 良雄訳,『ボードレール全集IV」,人文書院,1974
年,306頁
② 木村敏「自己と他者」見田宗介他編『岩波講座 現 代社会学第2巻 自我・主体・アイデンティティ』,
岩波書店,1995年,32−33頁。
(3)上田開脚「自己の現象学」(前掲書),227頁。
ωハイデッガーの「世界内存在」では,人は,「認 識」や「実践」といった尺度によって規定される,
世界の内部的な存在者としての個別的存在性を超越 して,「無」にも比肩される世界そのものの中に存 在している存在者としてとらえられる。従って,こ こでの「世界内存在」としての「存在」は,超越論 的な「存在」としてとらえるべきものであり,故に 「存在性」は世界に向けて本来的に開示された「存在 性」として把握されるべきものである。「十牛図」第 八,九,十図はいずれもこのような超越論的な「開 示」性を示唆している。
(5}上田閑照(前掲書),227−228頁。
⑥ ルネ・デカルト「省察」,枡田啓三郎訳,『世界の 大思想 デカルト』所収,河出書房新社,1965年,
143頁。
㈹ 同書,146頁。
(8)同書,144頁。
(9)同書,150頁。
〔10〕劃一リッヒ・アディッケス『カントと物自体』,赤 松崇弘訳,法政大学出版局,1974年,189頁。
〔ll)「下への超越」の概念については,那須幽玄「結界と 幽界一生への基層/哲学的断片」(行人社,1992年,
67頁)を参照した。ここで那須はカントにおける 「超越論的」なるものを「下への超越」とし「現象界 の基礎付けのために,カントは,つねにすでに触発 されてしまっている状態以前へと遡及しなければな らない。『以前』とは,時間的以前ではなく,構造的 以前である。現象界は,『つねにすでに触発されて しまっている状態』として,われわれにとっていつ も『ある』。構造的に以前へと遡及するとは,この 現象界から『下へ』と超越することである。(中略)
しかし現象界を基礎づけるためには,『下への超越』
が必要である。ウントはこの『下への超越』を先験 的[超越論的](transzendental)と名づけた。」と 述べる。「先験的」であるということは,「現象」を 「現象」足らしめるための黙約の必要性であり,それ は旧来の形而上学で求められた「超越的」な「上へ の」飛翔性ではなく,「現象」の下へ予め深くもぐり こみ「現象」を「現象」足らしめるものとして「下 への超越」であるとする。カントの,「超越的」にで はなく,「超越論的」であることの意味を的確に形容 している。
{12)「一人のわたし」の概念については,前掲書288頁 を参照した。ここで那須は「『一つの意識』とは,『こ のわたしはただ一人であるべきである」という意識 である『ただ一人のわたし』が要請されているので ある。(中略)つまり未だない(未来的な)『一人の わたし」が,表象の同一性を支えるものとして,認 識を構成する。認識における『今』は,未来と関わ ることによってはじめて今なのである。未だない幻 の「わたし』が今を構成する。」と述べる。ここで は,カントの「超越論的統覚」を成立させるための,
「覚知の綜合」,「再生の綜合」,「再認の綜合」の三つ の綜合作用,つまり「統覚」の生成において,カン ト超越論哲学における自己意識(=「一人のわたし」
なる意識)がどのように形成されていくかのメカニ ズムが明らかにされようとしている。
U3}「瞬間」の概念については,前掲書291頁を参照 した。ここで那須は「われわれにとって瞬間はその つど存在しているはずであり,また『一人のわたし』
という意識もその瞬間に立ち会っているはずである。
動物にあってはそれでおしまいである。否,動物に
あっては瞬間という想念も生ぜず,『永遠に継起する 今』しかない。しかし,人間は瞬間を自らのものに したいのである。生きてしまってはいるが知っては いない瞬間を,真に自らのものにしたいのである。」
と述べる。ここでは,「一人のわたし」としての意 識(自意識)である「統覚」の成立について,その
・時間性が問題とされている。また那須は「たしかに,
瞬間は人間によって生きられているし,生きられた はずである。しかしさらに,人間は自らが生きてい る瞬間を回復するために瞬間は固定されなければな らない。しかし固定された瞬間はすでに瞬間ではな いξそこで固定化を回避するために,瞬間がXとさ れると,それはいつまでも『知られうる対象』とは ならない。Xは,固定されないままに,われわれの ものとされなければならない。そこで構想力が過去 を現在に再生し,あるいはすでにない過去を現在に 産出して,その『過去』と『瞬間の変形された(覚 知としての)X』とが比較・結合される。瞬間は完
全に死んだわけでわけではなく,Xという『半殺し の状態』で過去と比較・結合される。カントの覚知 の綜合の説明が,ブヨブヨとして掴みどころがない
.のは,瞬間が半殺しの状態にあるからである」とも 述べる。そのような「覚知」の不可能性としてのX は永遠に私たちによって獲得され尽くすことはない が,つまり「半殺しの状態である」が,であるがゆ えに存在し得,そこで,機能する「統覚」の「覚知の 綜合」作用の必然性が述べられる。そのような「半 殺し」の「宙吊り」状態とは,同時に私たちが生き ている生の瞬間の把握の不可能性を言いあてている が,同時にそれによって,「私たちはなぜ生きるの か」という私たちの生のアポリアに対する「解」の 獲得への挑戦の時が与えられるのである。
α4〕前掲書,291頁。