敗戦直後における母子寮
副 田 あ け み
1
.戦後母子寮史の時期区分
本小稿は,戦後の母子寮の機能と処遇状況の変遷過程を調べていくにあたっ て,その出発点である敗戦直後の母子寮の性格とそこにおける母子の生活実態 を,つぎの
2つの視点からあきらかにすることを目的としている
o(1)戦前,戦 中における母子寮の問題点の後遺症はなにか,
(2)戦前,戦中にはみられなかっ た新しい側面はなにか。そこで,戦前,戦中の母子寮についても概観するが,
そのまえに,戦後の母子寮の歴史について一応の時期区分をおこなっておきた
し
'0社会福祉施設の歴史の時期区分をするにあたって,なにをメルクマールとす るかについては,議論の分かれるところであろう
D筆者は,敗戦後から今日ま での母子寮の機能と処遇状況の変遷過程について論述することを最終的な目標
としているのであるから,その機能と処遇状況の大きな質的変化をメルクマー ルとして区分することがよいと考えられる
Oしかし,その変選過程はこれから 資料発掘などしてあきらかにしていくという段階にある
Dそこで,ここでは,
母子寮の施設数の変化と,母子福祉対策および関連施策の動向の質的変化をメ ルクマールにして,表
1のような時期区分を考えてみた口前者を基準のひとつ に選んだのは,いまの段階でデータが手元にそろっているからである
O入寮者 の質的変化を基準として考えるのが適切と思われるが,それについては今後,
十分検討してからにしたいと思っている
O後者を基準に選んだのは,それが母
子寮のあり方に影響を与える側面が強いと考えたからである
O母子寮数の変遷
については表
2に示しておいた。母子福祉対策および関連施策の動向の区分に
ついては,今後,各時期をみていくさいにそれぞれ説明することにしたい。こ
表
1戦後母子寮史時期区分の試み
時 期 母 子 寮 数 母子福祉対策および 関連施策の動向
I
期 昭和
20‑23年 絶対的不足期 一般貧困対策 )戦後 としての開始期
処理
E
期 昭和
24‑33年 増
加期 対 策 期 未 亡 人 対 策 としての展開期
困 期 昭和
34‑39年 女
.‑L.疋 ,
i三
曾期 母子福祉対策の体系化期
町
期 昭和
40‑52年 減
少期 母子福祉対策安定期
刊 期 昭和
53‑減
少期 問題女子,緊急避難母子 等にたいする対策検討期
こでは,
1期を昭和
20年
‑23年までにした理由を述べておくことにする。
まず,母子寮数の変化についてであるが,敗戦の年の
20年については統計数 字が見当らなし」翌年の
21年は
168,2
2年は
188となっている
Oだが,表
2の註 に書いておいたように,
22年については,調査主体によってその把握数が異なっ ており,
226という数字もあげられている
023年の数字は,現在手元にある資料,
論文でみる限り
212である
o 24年以降は
30年あたりまで毎年
50以上増加してお り
,
24年以降母子寮が急増していることがわかる
Oこの急増する前までを母子 寮増設の前段階,絶対的にその量が不足していた時期として把握することがで
きるO
つぎに,母子福祉対策および関連施策の動向についてみておく
O政府は,敗 戦直後2
0年の
12月に国民の窮乏と混乱に対処するために「生活困窮者緊急生活 援護要綱」を閣議決定し,戦災者,傷痕軍人,軍人遺族,一般困窮者,失業者 等を援護対象とした。続いて
21年
9月に旧生活保護法を制定し,救護法,母子 保護法,軍人扶助法を廃止した。戦前の母子寮である母子ホームは,この時点 で生活保護法の宿所提供事業としての性格をもたされることになる
O22
年
12月には児童福祉法が制定され,母子寮はそのなかに位置づけられるこ
昭
5和年
6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23総 数
10 12 13 15 43 51168 188 (1)
( 1
0)( 1
7) (21) (29) (31) (226) 212公
O O O O 3 8 (101)私
10 12 13 15 40 43 (125) 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42総 数
260 313 407 (465 468) 520 574 618 640 (664412) 649 652 650 643 645 636 629 621 612 597 (651) (654) (654) (654) (650) (636) (617)I
公
276 350 408 460 498 513 507 510 512 514 509 505 505 491 487 480 469私
131 115 112 114 120 127 135 139 140 136 134 140 131 138 134 132 12843 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58
総数
574 550 527 501 490 461 441 424 416 401 388 376 369 361 357 350公
446 427 405 363 351 322 305 289 280 267 254 239 236 228 222私
128 123 122 139 136 135 136 137 133 133 135註:戦前の数字については,藤崎宏子「母子保護事業調査jから引用した。なお,
12年
‑17年 ま で の ( )内の数字は,母子保護法による認可施 設数である。
戦後
21年の数字は
I日本社会事業年鑑
J(S. 22)による。
22
年一
25年までの数字は,林千代「戦後にみる母子寮の歩みと課題(1
)Jから引用した。
22
年の
(226)は,児童福祉法に引きつがれる直前の数字として[児童福祉j (厚生省児童局監修
S.23)にのっていたものである
O26
年以降の数字は[社会福祉施設調査j (厚生省大臣官房総計情報部)によるが,
27年から
42年 ま で の ( )の数字は,林千代前掲論文(資料 出所は全国母子寮研究協議大会資料および厚生白書)によるものである。数字の異なる理由は,今のところ定かではない。
海 部 押 間 帯
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仕
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︼ ∞ 一 可
とになった。この児童福祉法制定にあたっては,中央社会事業委員会が政府の 諮問をうけて「児童保護要綱案を中心とする児童保護に関する意見書」を政府 に提出している
Dこの委員会には,戦前の「母性保護連盟」に結集した山崎し げりも委員として参加しており,戦後
20年の秋ごろから彼女らが作った「母子 問題懇談会」の母性保護の理念が,児童福祉法に生かされることになった。た だ い 母 子 寮 に つ い て は 生活保護の適用を受ける前に母子が自立しうる生活 の場として位置づけることを強調して,生活保護法から児童福祉法に入れるこ
とを要望し,母子福祉のための総合立法のなかに位置づけようという認識は十 分にはなかった。
21年には戦争未亡人を中心とする戦争犠牲者遺族同盟が結成 され,
22年には同胞援護会が母子援護対策協議会を開催するなど,未亡人団体 の運動もスタートしていたがまだ萌芽期で 2 3年までは未亡人家庭にたいする 独自の施策を要求していくだけの力を十分にもっていなかった
Oまた,政府と しても,困窮者一般対策と戦災孤児・浮浪児対策を喫緊のものとし,
GHQが 母子福祉対策そのものに積極的ではなかったことなどもあって, 23年までは母 子家庭にたいする独自の施策を実施するに至らなかった
Oところが, 2 4年以降になると, 2 4年の母子福祉対策要綱の策定をはじめ,生 活保護の母子加算,戦傷病者戦没者遺族等援護法,母子福祉資金の貸付等に関 する法律,公営住宅法における母子住宅の枠設定など多くの母子家庭にたいす る独自の施策を実施するようになる
Oまた,民間団体も 2 4年に母子福祉対策中 央協議会を組織し,全国未亡人団体協議会を結成して 母子福祉総合法の制定
にむけて積極的な運動を開始するようになる
I)O以上の母子寮数の変化と,母子福祉施策の変化という
2つの理由により,敗
戦から 2 3年までと 24年以降を一応区切ることにした
O2
.戦前・戦中の母子寮の性格
日本で最初の母子寮は 大正
11年 東京の二葉保育園内に作られた二葉保育 園母の家であるというのがこれまでの通説である
Oだが 川西康裕が「昭和
11年末内務省社会局調べ
Jによってあきらかにしたところによると,母子ホーム は,明治
13年
1ケ所,大正
7年に
1ケ所
9年以降毎年
1ケ所ずつ開設されて
おり,二葉保育園母の家は,全国で
5番目のホームであった。ただし,これら 先行した母子ホームの名称,所在地の確認はまだ十分にできていないと,川西
は注釈をつけている。
2)大正
12年の関東大震災後は,擢災母子を収容するため,
婦人向上会の愛の家母子ホーム
(12年),本所ベタニアホーム(1
3年)などが 作られ,昭和 5年には全国で 1 0施設となっている。その後もわずかずつ増えて いき,母子保護法制定前の
11年にはいっきょに
43(うち
3が公立)に,翌
12年
には
51にまでなっている。
12年制定の母子保護法によって,母子ホームは困窮 母子,浮浪母子を保護する母子保護施設として規定されることになったが,同 年には大正
6年の軍事救護法を改正した軍事扶助法も制定され,以後,軍人遺 家族や出征軍人家族のための軍事援護施設としての母子寮が創設されていく
Oそれゆえ,
12年以降は
2つの性格をもっ母子寮が存在していくことになる
O厚生省社会局児童課は,昭和
14年に『母子保護施設標準』を作成し,母子保 護法によって認可される母子保護施設の一般的な施設標準を示しているが,こ の冊子のおわりに母子保護施設一覧表が掲載しである
Oこれは,母子保護法に 依る認可を受けたる施設一覧と母子保護法に依る認可を受けざる施設一覧とか ら成っており,前者の
10施設,後者の
41施設について,収容世帯定数,在寮者 数,職員数,建物延坪数,資産, 1ヶ年の経費,室料別室数,室料別世帯数,
炊事方法,母の職業,附帯事業などが記載されている
O収容世帯定数は,
4(個人立)から
53(財団立)まである
O母子保護法によっ
て認可を受けた施設のそれは 10~17 のものが多いのにたいし,認可を受けてい
ない施設は 10未満の小さいものが多い。ただし,後者には 30~52 までの定数を
もつ比較的大きい施設も
2割弱ある(表
3。 )
表
3母子保護施設の収容世帯定数
(昭和 1 1 年現在)
計
10未満
10‑15 15‑30末 満 末 満
30‑52母子保護法に依る認可
10 3 5 1を受けた施設
100.0 10.0 30.0 50.0 10.0認可を受けざる施設
41 23 7 4 7 100.0 56.1 17.1 9.8 17.1資料:厚生省社会局『母子保護施設標準.1 (昭和
14年)
『母子保護施設標準』では,母子の居室面積を
1世帯当り
3坪 (6畳)を標 準とすることとしているが,収容世帯定数が5
3ともっとも大きい二葉母の家で は,昭和
4年の改築後
3畳
8室 ,
4.5畳2
4室 ,
5.5畳
4室
6畳
13室
2問2室 で ,
4.5畳の室屋が中心であった。記録によると,昭和
9年当時二葉母の家は 入寮希望者が多く部屋不足に悩んでいた。
3)おそらく他の母子ホームも同様の状 況にあったと思われるから,標準は
6畳でも
4.5畳の部屋を中心とした施設が 多かったであろうと推測される。残念ながら,母子保護施設一覧表には部屋の 広さの項目がない。
この施設一覧表のうち,母子保護法に依る認可を受けざる施設一覧だけに,
入所中の母親の職業が記載されている。これらによると,
40施設に入所中(1 施設は改築中)の母親460 名のうち, r 工場其他への通勤
J162名
(37%), r 居
室内職
J80名
(19%), r 其他の職業
J154名
(34% ) , r 無職
J47名(1
0%)となっ
ている。また,同じ資料によると,室料は「有料
J世帯246 (53%) , r
免除J世帯8
7 (19%), r 無料」世帯
127 (28%)であるが, r 有料
J世帯でもその室料
は
3円以下が圧倒的に多い。
昭和
9年の雑誌『社会事業
Jに掲載された早川邦子「東京都母子保護施設め
ぐり j によれば,日本福音教会ベタニアホームの居室は,
4.5畳に台所のつい
たものが3
3あった。これは空いたことがなく,
10年もの長期にわたって住んで
いる人が多く,新来の人はほとんど断わっている
O部屋代は月
2円50銭,その 他電気代,水道代各々
50銭であったが,救護法にかかっている数名の人を除い て払える人はほとんどいない。
4)母親たちは,朝早く子どもを乳児室や保育遊戯 室へ預け,あるいは学校へ送り出しておいて働きに出かける,夕方帰室すると
自炊の食事をとって子どもと団繁 1日の疲れを癒した。かれらの職業の主な ものは,雑役婦, ミシン掛け,それに附近の
A病院の付添いとなってゆくもの などである
Oこうした母子にたいするホームの指導精神は,キリスト教によっ ており,毎週木曜日夜祈祷会を聞き,その後懇談会として皆の思っていること を語り合い, ともに考え, ともに祈ることを方針としていた。日曜日には日曜 学校を開いて児童を指導している
05)ベタニアホームを同じように,キリスト教精神にもとづいて施設運営をおこ なっていた二葉母の家では,その歴史的資料を発掘,整理した川西康裕による と,設立当初から宿所提供という機能に限らず,相談・指導機能(身の上相談,
就職相談・指導,職業斡旋,養育相談・指導),教育機能(学童クラブ,宗教 教育),保育機能(乳幼児保育)などを重視し, r 母子の『身と心の安住所』を 与えその自立を促すあらゆる努力」を試み続けていた。母子保護施設一覧表に よると,認可を受けた施設も受けていない施設も種々の附帯事業をおこなって おり,困窮母子の救済と自立促進のために,宿所提供機能だけでなく相談・指 導機能,保育・教育機能を果していたことが想像される(表
4)0しかし,附帯事業をやっていることになっている施設でも職員数が
1‑2人 というところでは,十分な相談・指導,保育・教育機能は果せなかったのでは ないかと思われる
O乳児保育などの附帯事業をおこなっていたベタニアホーム では,母子寮のための職員は多いときでも
3人だけであった。当時を振りかえっ た関係者の座談会では, r いまのように職員が何人もいるんじゃなく
1人位 が住込んでいたわけですよね。だから,母子寮としてはあんまりお世話はして いなかったみたいなのね。昔入っていた人に尋ねてみると。
Jr ま,場所さえあ
りやええ位のもんでしよ ι o 」といつた発言がなされている
D日曜学校などキリスト教精神の教育,指導はおこなわれていたであろうが,職
員による具体的な相談・指導個々の援助活動は十分にはおこなうことができ
表 4 母子保護施設の附帯事業
(S .11.11
月末現在) 施 保 授 職職 診健 身人 養学
そ事共
貧児の栄
養 食 隣 業 業 康
の事育 童
の同 保
ミ員き又/L
育 産
上相 相の他 給 食 配 給 紹 斡
相 相談 談補教
i谷
事間 己 数 室 室 介 旋
療談 談導 化 業 宮
ニ主二給 業 計
51 36 15 13 10 7 5 4 4 3 3母子保護法に依る認可
10 7 6 2
I
2 1 4 2を受けた施設
認 可 を 受 け ざ る 施 設
41 29 10 11 9 5 4 4 3」 」
一
資料:表
3に同じ
表
5母子保護施設の職員数
計
1‑2人
3‑4人
5‑6人
7‑8人
9人以上 不明
母子保護法に依る
10 5 3 2認可を受けた施設
100.0 50.0 30.0 20.0認 可 を 受 け ざ る 施 設
41 17 14 3 6100.0 41.5 34.1 7.3 14.6 2.4
資料:表
3に同じ
なかったではなかろうか。
だが,そうだからといって,これらの施設が実際にたんなる宿舎提供機能し
か果さなかったとはいえない。母親が戦前のベタニヤホームで寮長をし,自分
自身もそこで成長したという喜多野進は,当時を振りかえって「現在の母子寮
からは想像もできない程社会の底辺でお互いが寄り添い,お互いの肌の温みを
感じ合いながら過していた日々のこと,そしてここで懸命に勤めていた母の姿
が更生ります。
Jと述べている。7)底辺社会の困窮母子,浮浪母子の孤立感,孤独
感を和らげ,精神的な支えあいをもたらすといった保護的機能を,これらの母
子ホームは果していたのである
O軍事扶助法成立以後 戦局が進むにつれて留守家族,軍人遺家族のための母 子寮が創設されていくが,その数はいまのところ確定できていない。 昭和
14年 の社会局による母子保護施設一覧には5
1の母子ホームが記載されており,昭和
21年の『日本社会事業年監
jには母子寮は
168と記載されている
oこの差
117の うちには,
14年以後敗戦時までに創設された母子保護法による認可施設も含ま れている
oまた,敗戦後とりあえず宿所提供施設として創設されたものも含ま れているが,それらの数は不明である
oそれゆえ,軍事援護施設としての性格 をもって創設された母子寮が,この期間にいくつあったかを断定することがで きない。
しかし,
17年には,軍事保護院,軍人援護会から『寮婦指導保護施設々置要 綱』が地方通牒され,この要綱に沿った施設が相当数新設されていったことは 確かである
O戦中から母子寮の仕事に携わり 戦後の母子寮のあり方について 多くの論議をおこなった牧野修二によると,この『要綱j は,戦没者遺族母子 寮について新設,運営にかんするかなり詳細な標準を示したもので,法的強制 力は伴わないが創設費助成があったため,多くの比較的優秀な設備をもった母 子寮が建設されていったとのことである
08)現在,この『要綱』が手元にないの で,昭和
14年の厚生省社会局が出した『母子保護施設設置基準
Jと比較するこ とができない。また この軍事援護のための母子寮についての統計資料もない ため,先の母子保護施設一覧表と比較することもできない。だが,わが国初の
「軍人遺家族母子ホーム」とよばれた武蔵野母子寮についての記録をみると,
先の困窮母子のための母子ホームより設備等はやはりよかったようである
O武蔵野母子寮は,軍事扶助法の成立に努力した中田緑郎を理事長とする救護
会が,東京巣鴨にあった療兵院の家族舎に残留する病没療兵の遺族と,満州事
変遺族を収容するために,軍当局からの援助の依頼もあって昭和
10年に創設し
たもので,昭和
14年からは軍人援護会直営の母子寮となっている
oこの母子寮
の設計図をみると,母子室は
6畳で居室前の廊下に各部屋専用の炊事場がつい
ている(困窮母子のためのホームでは,共同炊事場がほとんどであった)。部
屋代は月 6円で,この他に隣組互助費月 20銭を支払うことになっていた
f月 3
円以下が大部分である困窮母子のための母子ホームの倍の額である
Dこの部屋 代の支払い状況については不明だが,滞納者が多いとは記載されていない。当 時,母子保護法による生活扶助並養育扶助料の限度額が,
13年で
1人
1日30銭
(6大都市・
1世帯
1日1円
20銭が限度)であったのにたいし,軍事扶助法に よる生活扶助料の限度額は,同年 1 人 1 日 65~70銭 (6 大都市・ 1 世帯当り の限度額なし,ただし
2人以上のばあい漸次減額)であった。
10)また,
13年の 二葉母の家では
50世帯のうち
18世帯が母子保護法による扶助を受けているが,
扶助額は母
1人
1日5銭,子ども
2銭が最高で,全部で4
5銭が最高額受給家族 といった状態であった
OIl)これにたいし 軍事扶助法による扶助はその資格要 件や適用範囲が相対的に著しく緩やかであったから,軍人遺家族援助のための 母子寮に住む母子の扶助受給率や受給額は,困窮母子のための母子寮に住む母 子のそれよりかなりよく,室料の支払い状況もよかったのではないかと推測さ れる
o14
年には,軍事保護院が未亡人の更生施策の一環として中等学校教員の養成 にのりだし,当時の女子高等師範学校に中等教員養成所を設立した
O軍人援助 のための母子寮に住む母子世帯の母の中にも こうした授産指導事業の恩恵を 受けたものが少なくなカかミつたと想想、像される
OfIロ
2戦前カか、ら一貫して母子保護事業.母子福祉推進運動をおこなってきた山高し げりは,戦後
23年の時点でこの軍人遺家族のための母子寮についてつぎのよう に記している。「軍人援護施設中の花形として全国に出現した新母子寮は,各 府県ともいささか外部的条件にとらわれた形で,母子保護法の母子寮など足許 にもよりつけないようなものが方々にできた。ところでこの
9割
9分までが授 職補導期間中の収容施設として設けられたものであって,いよいよ補導を終っ ていざこれから世の中へ一本立という暁に 住居を提供してくれるものは極く 少なかった。」同山高が指摘するように,軍人遺家族のための母子寮は,基本的 に一時の宿所提供機能を果すものであったといえる
O山高によると,
I母子保護法による母子寮は,時代の寵児たる軍人援護施設 の母子寮に当然押されて影が薄く,たまたま同じ建物に二者を収容した場合な
ど,同じ母子寮でもよりどころとする法が異なるための扶助額に差があり,こ
れが一方には優越観となり,他方を刺激するといったような運営上に困難を感 ぜしめる事柄が少なくなかった。」戦局が進むにつれ,母子保護法による母子 寮にも軍人遺家族や留守家族が入所してくることになったから,寮内でのトラ ブルも少なくなく,その対応に困難をきたすことも多かったのではないかと推 測される
Oさらに,山高は, r 軍人家族の中から遺族が生じるに及びこれまた 二者の聞にデリケートな感情問題が起りやすく,経済的には母子保護法適用者 より恵まれていたとはいえ,そこには別の悩みもあって,結局母子寮の運営こ そは社会事業中最も困難なものといつしか定ったらしいのも至極無理のない次 第である。」と述べている。
143
.敗戦直後の母子寮
敗戦直後の母子寮についての資料は いまのところわずかなものしか発掘で きていない。母子寮の大半は都市にあったため戦災を蒙ったものが少なくなく,
当時の記録の多くが失われてしまったこと,また,政府や各自治体も本格的に 未亡人対策に着取するのが
24年からで,それまではあまり未亡人についての資 料を作成していないことなどの理由により,当時の実態を示す資料は少ないと 思われる
O敗戦の
20年に,戦禍を免れた母子寮がいくつあったか判断できる資料は何も ない。山高によると,戦災を蒙って復興が困難な状態にあるもの,戦災者引揚 者の住宅難のあおりをくって一時転用の憂目をみたものなどが大半であるが,
それでも終戦後の事態にそなえて新設のものもいくつかでき,児童福祉法
(22年)による施設となる直前の時点で公立
101,私立
125, 計226 施設(収容世帯 数4 ,
319)あったということである
015)21年には,救護法,母子保護法,軍事扶 助法が廃止され旧生活保護法が制定された。母子寮は翌22 年の児童福祉法の制 定まで,生活保護法による宿所提供施設として制度的に位置づけられることに
なる
O実際,戦時中から戦局が進むにつれて母子寮には遺家族,留守家族の入所が
ふえていたが,敗戦とともにこれに引揚母子が加わり,母子寮は敗戦処理対策
のひとつとしての宿所提供事業を担った。母子世帯でない羅災者も宿所を求め て母子寮に入ってくるという事実もなかにはあり,母子寮が母子世帯のための 施設ではなくなっていたというところも 敗戦後の混乱期にはあったようであ
る 。
16)戦争未亡人や夫行方不明の世帯,留守家族の増加により,戦前困窮母子のた めの保護施設的性格をもっていた母子ホームもそれらの家庭の入所が多くな り,戦争が直接の原因で母子世帯となったわけではない生別の困窮母子家庭な どは,施設の絶対的不足の時代にあって次第に入所しにくくなったと考えられ る
oベタニヤホームの当時の関係者は 戦前
16. 17年ころには入所者のうち死 別は半分から半分以下だったが,敗戦直後には死別,行方不明が多かった,と 述べている
omまた,二葉母の家の寮長であった徳永恕は,昭和
24年の母子寮 入所者らとの座談会のなかで, r 最近の未亡人は戦争に帰因した人が多く教養 も生活ていども高い,それゆえ戦前の浮浪母子のように日和見的なその日暮し 的な生活ではなく将来に対する考え方が深刻だ だからこそ体の弱い子どもを もっ母親にも安心して働けるようにしたいのだが,現在の母子寮としてはそこ まで世話がゆき届かない,私たちの努力も足りないが,政府の母子寮に対する 委託費が乏しいからだ。
Jと述べている
o凶)
表
6は,昭和
23年に東京都がおこなった生活保護受給中の婦人を世帯主とす る家庭の生活実態の調査結果の一部である
O東京都を表頭に示す
4つの地域に 分け,その地域内の生保受給世帯と,母子寮に居住する生保受給の母子世帯と を民生委員によって調査している
O後者については,いくつの母子寮からサン プルが選ばれたか不明である
Oこれによると,世帯主となった原因では,戦没,戦災死,在外留守家族とい
う戦争が直接の原因である世帯の割合は,母子寮入寮世帯でもっとも多くなっ
ている
(54.7%)0このほか,母子寮入寮者に特徴的なことは,母親の年齢が
相対的に若い
(35歳以下
60.4%),学歴が高い(女学校・高専卒
39.6%),比較
的安定している職業に就いているものが多く (工員,会社事務員
35.3%),無
職が少ない
(3.7%),前夫の職業も専門職・教員(1
3.2%)や会社員
(38.9%)が多く,不規則労働(1.
9%)や無職が少ない, といったことである。これら
表
6要保護婦人世帯の実態 ( 1 )
都心地帯 丘陵地帯 平地地帯 郡部地帯 母 子 寮 対 象 世 帯 数
61 75 56 39 53平 均 世 帝 人 数
3.4人
3.7人
3.7人
3.5人
3. 4 人
一般死亡
19.2% 8.7% 50.0% 35.9% 26.4%戦 没
戦 災 死
1. 6~4 1. 0 6. 7 ~ 36.1 7.1 ~4 1. 1 ‑~ 51. 3 1. 9 ~ 54.7世帯主と 在 外 留 守 家 族
3.3 6.7 3.6 5.1 11.3なった 離 婚
3.3 3.6 11.3原因別 変 死
3.3 1.3 7.7 1.9遺 棄
失 院
2.7 3.65J1j
居
1.3 1.9未 婚
1.621‑30
歳
31‑35歳
世帯主年齢
36‑40歳
21.3 25.3 23.2 28.2 35.9 41‑45歳
23.0 13.3 19.6 12.8 5.7 46歳以上
14.8 17.3 16.1 17.9無 学
4.9 8.9世帯主 小学校(中・卒)
63.9 69.3 75.0 84.6 60. 4 学 歴 女学校(中・卒)
高専(中・卒) 工 員
会社事務員
世 帯 主 和 洋 栽
24.6 6.7 8.9 5.1 18.9職 業 雑 役 婦
18.0 18.7 25.0 10.3 15.1家内手工業
8.2 30.7 35.7 12.8 9.4鉦 職
16. 4
7.3 14.3 20.5 3.7就労場所 室 内
32.8 38.7 50.0 30.8 30.2室 外
49.2 45.3 39.7 56. 4
66.0就 業 中 乳 託児(保育所)
3.8 3.6 75.6幼 児 処 理 託児(私人)
11.5 6.1 7.1(非該当 同 居
42.3 33.3 67.9 36.8 7.3除いて比 同 伴
7.7 9.1 7.1 10.5 4.9率計算) 家族監護
23.1 33.3 14.3 31.6 7.3放 置
11.5 18.2 21.1 4.9公務員
3.3 4.0 7.1 7.7 7.6会社員
24.6 16.0 21.4 10.3 38.9専門職・教員
5.0 8.0 7.7 13.2前夫の 職 人
18.0 12.0 10.7 5.1職 業 及 ぴ 商 業
13.1 9.3 19.6 12.8 17.0前 職 業 工 員
11.5 25.3 17.9 28.2 17.0軍人・軍属
1.3 3.5 2.6不規則労働
13.1 10.7 12.5 12.8 1.9無 職
3.3 7.1一一一一
資料:東京都民生局
I要保護婦人世帯実態調査報告j昭和
23年度
註 :学歴の(中・卒)は,中退者と卒業者の双方をさす。
の数字から,母子寮には,戦争を直接の原因とする母子世帯が相対的に多く入 寮しており,在宅の生保受給母子世帯よりも,母子世帯となる以前の社会階層
はやや高く,入寮後も比較的安定した職業をもっ母親が多いといえる
o戦前も戦局が進むにつれて,戦争を直接の原因としない困窮母子,浮浪母子 は,母子ホームの絶対的不足のなかで次第に入所しにくくなったと思われるが,
敗戦直後は,下層だけでなく,かつては中流以上の社会階層にいた母子が戦争 犠牲者として母子寮に次々に入所してくるようになり,この傾向はいっそう強
まったものと推測される
o表
7要保護婦人世帯の実態 ( 2 )
都心地帯
E陵地帯 平地地帯 郡部地帯 母 子 寮 住 宅 一室以上
24.6% 45.3 33.9 38.4(室数) 一室占有
75.4 54.7 58.9 56.4 58.5雑 居
7.2 5.1 41.5住 宅
7.5畳 以 上
24.6 50.7 42.9 74.4(畳数)
4.5畳
6畳
57.4 32.0 44.6 25.6 62.3 3畳以下
18.0 17.3 12.5 2.6 37.7救護米受給 Z 6245..64 6382..00 8127..19 6345..19 963..82
医療機関 生保機関
24.6 20.0 16.1 25.6 56.6の 自 費
16.4 17.3 10.7 5.1 7.6利用状況 盤
59.0 60.0 73.2 66.7 35.9生保以外の扶助 有
22.9 34.7 35.7 43.6 7.6(公的,私的) 主
E 77.1 65.3 64.3 56.4 92.4 6ヶ月以下
6.6 6.7 10.7 7.7 20.8生保受給
1年以下
8.2 13.3 12.5 7.7 17.0期 間
1年
3年以下
82.0 73.3 69.6 74.4 56.6 3年以上
3.3 6.7 7.1 10.3 5.7主今配 満 配
23.0 61.3 32.1 76.9 100.0給 状 況 遅 配
77 .1 37.3 64.3 10.3主食代替物 全部自家消費
27.9 21.3 12.5 38.5 11.3 (砂糖)の処置転売・物交
23.0 13.3 26.8 42.9 32.13
歳未満
2.9 4.9 14.6 3.5 6.7子どもの年歳
3‑7歳
40.3 34.6 50.7 38.8 50.8 (20歳まで)
8 ‑15歳
47.5 54.1 34.0 52.9 41.716