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三四
アルチュール・アダモフについての覚書き ︵そのⅠ︶
塩 瀬 宏
アルテユール・アダモア 二九〇八−一九七〇︶ を︑演劇の方へと絶えずいざなって止まなかったものは︑いったい
何だったのか〜
なるほど︑アダモフには︑処女戯曲﹃パロディー﹄︵一九五二年初演︶ から最後の作品﹃今一度︑夏来たりなば
﹃︵一九七〇年刊︶ に至る大小十いくつかの戯曲があり︑それに︑ゴルキー︑クテイスト︑ストリンドベルグなどの戯
曲の翻訳︑作家論︑エセーなどが加わって︑彼の演劇への関心の激しさを証拠だてている︒だが︑ここで︑すぐ附言し
なければならない︑その演劇への関心は︑なみの演劇への彼の憎悪と分かちがく結びついていたと︒彼は︑在来の浜
ばね劇の在り方を憎み︑その憎悪を発条として︑まだ見ぬ演劇︑もうひとつの演劇の在りようを想い措いたのだった︒な
みの演劇とは︑アダモアが深く敬愛し兄事したアルトーにより完膚なきまでに礼弾された︑︽金銭あるいは肉慾につ
いてのさまざまないかがわしい感情︑情熱︑慾望︑衝動などを︑後生大事にまつりあげ︑それらをもっぱら台辞の練
糸で美々しく織りあげ飾りたてることによって成立している態の演劇︾︵1︶の謂である︒
観客に他愛ない一夜の慰めを提供し︑ついでに彼等の覗き趣味をも抜け目なく満足させることによって︑永く王座
を保って来たかかる俗悪な演劇への嫌悪を唯一の辛がかりとして︑まだ見ぬ演劇の彼方に飛翔せんとしたのは︑もち
アルチュール・アダモフについての覚書き ︵そのⅠ︶ ︵塩瀬︶三五
三六
ろん︑アダモフだけではない︒
−−−当時︑われわれは︑劇界に横行していた〝心理のレース織り″ の見せかけのきらびやかさ︑もっともらしさに
つくづく食傷していた︒われわれは切にのぞんだのだった︑あの台辞のレース織りのぴらぴらを引き裂いてやりたい
ものだと︒︵ジャン・ヴィラール︶︵ヱ
ぺてん
− 上っ調子の︑なめらかな台秤の交換のみがかたちづくっている劇︒手慣れた詐術︒何世代も前から︑舞台と客
席は︑協力して︑この詐術を成立させて来た︒多少ともうすら寒い後ろめたさとともに︒だが︑声を大にして言わな
ければならぬ呼が来たようだ︑もう結構だ︑こんなものは︑われわれの生の真のあり方と何の関係もありはしないと︒
︵ロジエ・ブラン︶︵ヱ
彼らのいう<われわれ>とは︑ヴィラール︑ブラン︑セローなどの若い演出家たち︑ベケット︑イオネスコ︑それ
にアダモフなどの作家たちのことだ︒もちろん︑彼らを一つの徒党のなかに強いて押しこめたりすることはあやまり
である︒だが︑彼らは︑第二次世界大戦直後の演劇生活の起点において︑こぞって︑ブランの言うように︽もう結構
だ︾と考え︑こぞって︑彼らの生の真のあり方に光を投げかけるが如き新しい演劇をこころざしたのだった︒けだし︑
強制収容所の惨禍を頂点とする二次大戦下の暗黒の日々の酷烈な記憶を抱いて︑再び生きることを絶望的に試みつつ
あった彼らにとって︑当時の劇界のありさまは鼻持ちならぬものであったろう︒そこでは︑例えば︑相かわずのプチ・
ブルジョアの徴くさい道徳と風俗に手のこんだ当世風の化粧をほどこすことに成功したジャン・アヌイ氏が︑栄光に
つつまれていたのだから︒
厚化粧による瞞着を排して︑擦り切れぼろぼろになり︑自分自身にすら得体のしれない奇怪なものと化してしまっ
たおのれの姿をおそれず直視すること︑そして︑その奇異な姿を︑出来得る限り直裁に写し出すこと!彼らにとっ
て︑演劇とは︑何よりもまずこのような要請に応えるものでなければならなかった︒
台辞のきらびやかな縦糸横糸の交叉の上に登場人物たちの心理を掬い上げ椀め取ろうとする従来の劇のあり方に嘘
偽を看て取った彼らは︑劇のなかのことばに新しい役割りを与えることで︑既存の演劇の枠組みを蔽砕しようとする︒
もっぱら登場人物間の心理の対立交錯練れあるいは密着などをドラマのみなもととする従来に劇においては︑台辞は︑
各登場人物がそれぞれ内に秘め持つ心理を過不足なく表わし伝え得る忠実無比な侍女と看倣されて来た︒だが︑つい にはファシスムの恐怖と重圧となって露呈するに至った現代社会の諸矛盾に揉みしだかれぽろぽろにされたおのれの
生を代価として︑ことばが過不足なく伝達の機能を果し得るかについて疑うこと︑ひいては︑ことばによって伝えら
れるべき<心理>自体についても疑いの目を向けることを︑否応なしに学んでしまった者たちにとっては︑かかる劇
の構造やそれを支えている台辞などの一切がうさん臭く思えたのは︑しごく当然であろう︒彼らは︑彼らに残された
唯一のたしかなものを頼りに︑彼らの演劇を創り出そうとする︒唯ひとつのたしかなもの ー ことばの曖昧さ︑不確
かさについての実感を頼りに︒
それ故︑彼らの劇は︑言語の不確かさ曖昧さについての検討の場︑批評の場とならざるを得ない︒この時︑台辞は︑
もはや︑心理の忠実な侍女としてつつましく劇に参与することを止める︒それどころか︑ここでは︑ことばが劇の主
人公なのだ︒ことばを主役とし︑ことばに照明があてられる劇︑ことばのスペクタクルが出現したのである︒
劇を︑言語の不確かさ曖昧さについての批評の場とする時︑考え得るもっとも手っとりぼやい批評の手口は︑日常
語の含み持つ無気味な空洞を極度に拡大してみせることだろう︒イオネスコがその奇才を遺憾なく発揮するのは︑こ
こだ︒あるいは語のしつこい繰り返しにより︑あるいは慣用句の微妙な変形歪曲により︑イオネスコは︑われわれの
日常用いていることばを破壊し︑意味を剥ぎ取り︑奇怪なものと化せしめる︒ものとなりオブジェと化したことばは︑
もはや︑心理の方へとわれわれを導く慎ましくも優美な侍女などではなく︑われわれを取り巻き圧迫し噸弄し圧殺す
る異様な怪物たちとして猛威を揮うにいたるのだ︒イオネスコの劇中人物の交わす無類に陽気な暁舌は︑その実︑絶
対的な沈黙︑死の沈黙の︑逆説的表現にほかならない︒たとえば︑彼の初期のすぐれた劇のひとつ﹃ジャック又は降
参﹄では︑反逆児ジャツのブルジョア社会の秩序への降服と帰順の経過が面白おかしく述べられて行く︒が︑事態の
進行とともに︑ジャックを圧服せしめた筈のブルジョアの秩序自体が︑その実︑無残な解体のさなかにあることが暴
アルチュール・アダモフについての覚書き ︵そのⅠ︶ ︵塩瀬︶三七
三八
露される︒幕切れ近くにおいては︑もはや︑登場人物たちを取り巻くのは︑暗灰色の死の世界でしかなく︑その刻々
深まる闇のなかを︑けだものじみた坤き声唸り声を発しながら︑主人公ジャックとそのフィアンセ︑ロベルトが相擁
し塞き這いずりまわるのだ︒そしてついには︑︽もう誰もいない︒ただ︑一条の灰色の光に照らされて︑ロベルトが
舞台上にじっと横たわっているのみ︒三つの鼻を持つロベルトの顔はあくまで蒼白︑彼女の手の九本の指は爬虫類を
思わす義動を繰り返して倦まない︾︵ l ︶ 最終場面にいたるのである︒劇は︑すべてのものの意味の消え失せたあとに
ひろがる暗黒の世界︑本能と死の司祭ロベルトの君臨する恐怖世界の恐るべき姿を観客につきつけて︑終わる︒
図式化を恐れずに言ってしまえば︑﹃ジャック又は降参﹄にかぎらず︑イオネスコの戯曲には︑殆ど常に︑︵言語の解
体 1 世界の解体 1 解体され意味を剥ぎ取られたものたちの登場人物たちの上におよばすテロ行為←ユマニテの
死滅 1 暗黒の恐怖世界の出現︶という基本構造が看て取れるようだ︒
では︑アダモフの場合は︑どうか〜彼の最初の戯曲﹃パロディー﹄は︑一九四五年に着手され︑四七年にようやく
脱稿された︒そこには︑リリーなる女性のほかに︑ N ︑勤め人︑ジャーナリスト︑支配人などの男たちが登場する︒ アダモフが︑リリーをのぞく他の人物たちを︑単なるイニシャルか職業上の地位で区別するのみにとどめたのは︑
︽個人の性格とか特性︑個性などというものがもはや︑容易に信じられず︑すべてがせまり来る闇のなかに︑おぼろ
に没しかけているとしか思われなかった︾︵ 5 ︶ がためにほかならない︒ ﹃パロディー﹄の舞台となるのは︑名も知れぬ巨大な都市︒そこでは時も流れるのを止めたかのように︑街頭の大
時計も時針を失い︑ただ文字盤のみが白々と光っているのだ︒夜が︑この事意に満ちた都市をすっぽりとおおい︑そ
の闇を切り裂いて警官のパトロール・カーが疾走する︒そのまがまがしいサイレンの断続音と毒々しいヘッドライト の光菅は︑この街の荒廃をいやが上にもきわだたさずにはおかない︒﹃パロディー﹄は︑この夜の都市のなかを︑リ
リーの愛を求めていたずらに右往左往する四人の男︑ N と勤め人︑ジャーナリストと支配人の物語りなのだが︑各人
のみじめなアヴアンチエールは︑それぞれにみじめな結果をもたらす︒即ち︑陽気で楽天的な〝勤め人″は︑失職し︑
盲目となって牢獄に押し込まれ︑陰気で無気力な〝 N ″は︑自動車の車輪の下に身を投げて命を絶つのだ ︵すると︑
すかさず︑市の清掃人夫たちが︑街路の塵芥もろとも︑いとも無雑作にそれを回収してしまうのであるー・︶︒一方︑〝ジ
ャーナリスト〟もいやまさる失意の内に打ち沈み︑又︑邪険な誘惑者リリトの上にも︑決して救済の光は射してはこ
ない︒ただ︑〝支配人〟 のみは︑その持てる経済力によって︑かろうじて打撃を回避し︑おのれの地盤の沈下を喰い止
めることに成功する︒
後年︑アダモフは︑この劇を回顧し︑その成立の事情をあかすとともに︑きびしい批判を投げかける︒ ︽あの当時︑とりわけわたしの心を強く打ったのは︑人々の行き交い︑群衆のなかの孤独︑各人のかわすことばの
驚くべき多様さといったもので︑そうしたことばのはしぼしをだけをわたしは好んで耳に留めたものだ︒そうしたき れぎれのことばは︑ほかの種々の物音の断片といっしょになって︑ある混然たる総体をかたちづくり︑その断片的性
格が︑かえって象徴的な真実を保証しているかのように思われたものであった︒ だが︑もし︑わたしがある時︑ひとつの事故を目撃しなかったとしたら︑たぶん︑以上のようなことは︑すべて︑
わたしのうちにさだかならぬもろもろの想念をかきたてるだけに終わっていただろう︒その事故は一見まことに無意
味であったのだが︑それを目にするやいなや︑わたしは︑︽これこそまぎれもない演劇だ︒わたしのつくり出したい
と願っているのはこれ︑これなんだ!∨とわれとわが身に語りかけたものだった︒めくらが一人︑もの乞いをしてい
るすぐかたわらを二人の若い娘が唄を歌いながら通り過ぎようとして︑不注意から盲人をつきとばしてしまったのだ
が︑その唄の文句が︑なんと︑<あたしは︑うっとり眼を閉じた︑なんてすてき⁝⁝>というものだったのだ︒この
ことから︑もっともあらあらしく且つ可能なかぎり眼に見えるようかたちで︑人間存在の孤絶︑人間相互間のコミュ
ニケーションの不在といったものを舞台の上に描き出してみようという気になった︒換言すれば︑実際に起こるたく
さんの事象のなかから︑わたしは︑あるひとつの 〝形而上学″をひき出したのであった︒三年間かかって︑いろいろ
な書き方をこころみてみた 1 その最初の草稿ときたら︑盲人がそのまま登場することになっていたのである! −
そのあげくに出来あがったのが﹃パロディー﹄であった︒
アルチュール・アダモフについての覚書き ︵そのⅠ︶ ︵塩瀬︶
三九
四〇
この﹃パロディー﹄を今読み返すと︑あらたゆる処女作につきものの構成上の多くの欠陥が眼につくが︑それを不
問に付してもなお︑安易な途を選んだものだという気がする︒わたしは世界を高みから見下していたのだ︒そうする
ことによって︑ほとんどお互いに入れ替えることの出来る︑そして又いつも変らぬ人物たち︑つまりマリオネットた
ちが創り出されたのだ︒きわめて現実的なディテール︑よく耳にする現実の会話を土台にしながら︑その実︑わたし
は︑いつの間にか一般的な観念論を採択してしまったのである︒それは︑わたしにとって都合のよい自己弁護の機会
でもあった︒なにしろ︑すべての運命は結局おなじようなもので︑Nのように︑生きることを拒んでみても︑勤め人
のように他愛なく生を肯定してみても︑いずれも︑おなじ道をたどって不可避的な失敗︑全面的な破滅にと至るだけ
だというのだから︒このような並行論は真実ではなく︑したがって劇的でもないということを︑今︑わたしは知って いる︒︾︵ヱ
そして︑アダモアは︑﹃パロディー﹄ 以降の彼の初期の戯曲をひっくるめて同様に断罪した後に言明する︑︽﹃ピン
ポン﹄執筆とともに事態が一変した︾へ7︶と︒たしかに ﹃ピンポン﹄︵一九五五年︶ にアダモフの決定的転機を認め︑
それ以前の戯曲と以後の戯曲を手ぎわよく対比して︑孤独な人間の生の悲惨をひたすら凝視する不条理劇の作者から
社会的視野をもつ劇の作者への彼の変貌を論じる論者は数多い︒そのうちのある者は︑不条理劇の輝ける開拓者の一
人が永遠に失われてしまったことを慨嘆し︑アダモフの社会的政治的関心を冷笑する︒かと思えば又︑他の論者たち は︑逆にアンガジュする劇作家のあらたな誕生に喝采を惜しまない︒
だが︑ことば︑さように簡単であるのか〜アダモフは︑まことに︑﹃ピンポン﹄においてにわかに 〝変貌″ したのか〜
﹃パロディー﹄にむけてアダモフのみずからくだした批判の剣のきっ先は︑そのままイオネスコの作品をも刺さず
にはおかない︒︽ブルジョア社会の蝕まれ空洞化した言語に注目し︑その言語の涙廃のさまを拡大して観客に提示し
ようとしたイオネスコやわたしたちの出発点は︑謬っていたとは思われない︒だが︑わたしたちがそこから一足跳び
に︑言語の無意味︑生の無意味を性急に主張し︑いたずらに︑人間を永遠の地獄におしこめたことは︑あきらかに誤
りであった︒これは︑人間を原型としてのみとらえ︑その悲惨を永劫にうち続くものとして無条件に承認することに
ほかならず︑図式主義︑公式主義に身をまかせることにほかならない︾︵ヱ
だが︑このようにアダモア自身によってひとつに括られ︑共に糾弾されるアダモフとイオネスコの初期の戯曲の間
には︑なおも大きな相異が存在し︑その相異は︑既に第一作﹃パロディー﹄においてあきらかだとは言えないか〜
アダモフは︑なるほど︑イオネスコと同様︑﹃パロディー﹄によって︑人物相互間のコミュニケーションの全き不在
を示そうとした︒そのために︑彼は︑登場人物たちの口にする台辞に工夫を凝らす︒だが︑その工夫は︑イオネスコ
ヽ ヽ
のように︑ことばをものと化し︑ものと化したことばの跳梁によって諸人物の生が無残に崩壊するさまを示すための
ものではなかった︒諸人物の内なるたしかな〝心理″を手ぎわよく外に向けて伝えるものとしての台辞の役割りを拒
否しっつも︑アダモフは︑ことばを単なるものと看倣しはしない︒彼が︑﹃パロディー﹄の人物たちに与えることばは︑ いわば︑不透明な皮膜のこときものだ︒諸人物の内部世界をすっぽりと覆いつつむ曇った皮膜としてのことば︒Nや
勤め人たちの感情や思考情熱などは︑この曇った膜を通してのみ︑きわめておぼろげにうかがわれる︒もはや︑各人 には︑この皮膜を突き破っておのれの生を十全にあらわし︑又︑他の人々の生の核心に深くわけ入るすべはない︒だが︑
にもかかわらず︑彼らは︑この曇った反膜の上にそれぞれののぞみや慾望︑失意や憎悪の図柄を措き続けるのだ︒
このような︑内なる〝心理″を過不足なく伝えるにはあまりにも不透明でありながらも︑単なるものと化すには登場
人物たちの生のあまりにも色濃く投影された台辞をつくり出すこと︑これこそ﹃パロディー﹄以来のアダモフの変わら
ざる意図ではなかったか〜 そして﹃ピンポン﹄も又︑そのもっとも成功した例として評価されるべきではないのかー・
ともあれ︑劇がひとたびこのようなことばを獲得すると︑その時︑観客の前には︑病める社会の病めることばと︑そ
のことばによって歪められざるを得ない生の危機的な様相が︑ふたつながらにあきらかにされ︑同時に︑一つの社会
におけることばと生の悲喜劇的な関係が浮き彫りにされるのだ︒
ことばと生の悲喜劇的な関係 − これは︑もちろん︑アダモフにとって︑単に作劇上の興味ある主題にすぎぬもの
アルチュール・アダモフについての覚書き ︵そのⅠ︶ ︵塩瀬︶四一
四二
ではなかった︒それどころか︑彼は︑この悲喜劇を身をもって生き︑そののっぴきならぬ生き方が︑彼を<書くこと>
へ︑そして︑演劇の方へといざなったのだ︒
彼が︑劇作を開始する以前に公にした断想録﹃告白﹄︵9︶がその間の事情をよくあかしている︒﹃告白﹄は︑何にもま
して︑若年のアダモフの孤独の叫び苦悩の坤きのなまなましい記録であり︑そこには︑たとえば︑︽追放︾とか︽切
断︾︽離別︾︽根なし草︾︽変質︾などのことばが繰り返し述べられていて︑故郷コーカサスを追われて父母ととも
にヨーロッパの各地を転々としたアダモフ︑父母との不和︑不幸な恋愛︑おのれの性的不能などに悩み抜いたアダモ
フの︑青年期の傷の深さをしのばせる︒だが︑︽すべての悪運が︑わたしの上に落ちかかって来る︒のがれるすべは
ない︾へ川︶︑あるいは︽わたしは︑切り離されている︑すべてから︑決定的に切り離され︑分かたれている︾︵11︶と感
じっつも︑彼は︑生きるために手だてを尽くす︒そのひとつが︑︽マゾヒスティックに悪運に身をゆだねる︾︵1
2︶こと であり︑迷信深い被虐的な儀式に身をゆだねることであった︒だが︑救いは到来しない︒真の救済は︑︵書くこと︶に よって始めて彼にもたらされるのだ︒︽おのれの悪運をわれとわが手で表現すること︑これが︑わたしを悪から解き 放つ︾︵1︒︶︒まことに︑︵書くこと︶は︑彼にとって︑おのれにまつわる魔を払う悪魔祓いの唯一の方途となったのだ︒ だが︑彼はすぐ附言する︑︽書くことはわたしに必要だ︒だが︑ことばのなんと遠くにあることよ︾︵1
▲︶と︒自己の生 のレアリテを即座に定着するような直裁な表現を力をつくして求める彼が書きなぐる短い切迫した章句の数々は︑時 として︑無類の美を爆発させ虹のように輝くのだが︑このレアリテの輝く諸断片に時間的持続と空間的ひろがりを与 え︑それらを正しく位置づけるまでには至らない︒彼は痛みとともに述懐する︑︽虚空に宙ぶらりんの章句︑留め綱 を失ったことば︑凛うことば︑漂うわたし⁝⁝︾︵15︶と︒ だがやがて︑演劇が︑この求められた持続とひろがりの獲得の可能性をアダモフに顕示する︒舞台の上では︑すべ ては︑常に︵現在︶としてしかあらわれないが︑その︵現在︶の各瞬間は又︑互いに結び合って︑劇のゆきて還らぬ 時間の流れをかたちづくり︑持続を形成するのだ︒まことに︑現在ただ今のレアリテの濃密な緊迫感を時間の流れに 無理なく組み込むものとして︑劇にまさるものが他にあろうか〜それに又︑事物をひろがりのなかにあきらかに位 置づけ関係づけるものとして︑舞台空間にまさるものが︑他に見出せようか〜 アダモフは︑﹃パロディー﹄のリハーサル期間中︑しじゆう稽古場に顔を見せ︑ただ憑かれたように稽古を見まもり 続けたという︵禁彼の分身ともいえる N ︵アダモフは親しい仲間からはエルヌ=同 RN と呼ばれることを好んだそうだ︒
エヌなる名はこれに由来するものだろう︶ や彼に手ひどい痛手を与えた最初の恋人イレーヌを思わすリリーなどを目
のあたりにすることで︑彼は︑激烈な衝撃とともに︑悪魔祓いの最良の療法を体験したのであろう︒
こうして︑アダモアは︑舞台の時間と空間のなかに彼の呪われた生を解き放ち︑なまなましい生のレアリテを︑あ
くまでその迫真性を保ちつつ ︵時間︶ と ︵空間︶ のなかに位置づけようとする︒この ︵時間︶ が歴史に彼の注意を喚
起し︑︵空間︶が社会の方へと彼の関心をみちびき︑やがて︑彼に︽相も変わらぬ宿命論の堂々めぐりを克服︾︵け︶させ︑
︽人間は変り得るものであり︑変り得る存在である人間たちの手によって作られる歴史の諸相の忠実な所産であるさ
まざまな偽りの宿命を︑根こそぎ糾弾するような芝居︾︵崇を目ざして歩み出させるのだ︒だから︑﹃ピンポン﹄におけ
るアダモフのいわゆる〝変貌〟をことごとくあげつらうことより︑﹃パロディー﹄以来のかかる着実な歩みの跡をたど ることこそ急務であろう︒
だが︑︽社会︑政治︑経済などの諸側面と個々人の奥深い心的側面のすべてにわたって仮借なき追求検証批判を行
テ丁トル.トータル
うが如き演劇︑語の真の意味での完全演劇︾︵ 19 ︶を実現すべくアダモフのたどった険しい道のりをたしかめ︑就中︑夢
魔と現実の不思議な混清のなかに深い美をたたえた最後の戯曲︽今一度︑夏来たりなば︾に注目するためには︑稿を 改めなければならない︒
一証︵l︶ アントナン・アルトーのロジエ・ブラン宛て書簡より引用
アルチュール・アダモフについての覚書き ︵その︶ Ⅰ ︵塩瀬︶
四三
四四
︵2︶演劇誌↓heaterHeute企画による現代演出家インタヴューより引用 ︷3︶右におなじ ︵4︶イオネスコ作︽lgque¢Ou−PSO∈n訂siOn︾の幕切れのト書より引用 ︵5︶ガリマール刊アダモフ戯曲集第二巻序文より引用
︵6︶右におなじ ︷7︶右におなじ ︵8︶アダモフ演劇論集︽︻c世etMaintenPnt︾中に収録された小論︽ロeque−q仁袋fa訂︾より引用 ︷9︶原題︽L︸A扁u︾︑一九四六年Sagぎa小re刊 ︵1
0︶︑︵11︶︑︵12︶︑︵13︶︑︵14︶︑︵1
5︶︽A≦Ⅷu︾より引用 ︵1 6︶演出家lean・mar仰Serreauの妻のene5.㌢eSerreau著︽H訂Oired仁:ZOu扁au↓hか㌣re:︾より引用 ︷17︶︑︵1 8︶︽IcietMaぎtenant︾中のエセーー︽Thか㌣re.Argent.etPO−it茸ue︾より引用 ︵19︶前記︽ロeq完−quesfai済︾より引用 武田康雄教授略年譜 長年に亘って本学のフランス語教育に寄与されました武田康雄先生は︑本年 三月三十一日を以って停年に適せられ︑御退職になります︒玄に先生の略年譜 を掲げますと共に︑先生の末長き御健勝をお祈りいたしたいと思います︒なお︑ 先生は︑本年四月より引き続き非常勤講師として︑本学の教壇に立たれます︒ 明治四十年十二月四日 東京に生る︒ 昭和 四 年三月 浦和高等学校 ︵旧制︶ 文科丙類を卒業︒ 同 年四月 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科に入学︑フランス演劇を専攻し︑主として辰野隆教授に師事 昭和 七 年三月 昭和 八 年四月 昭和十二年四月 昭和二十年九月 昭和二十四年四月 昭和二十八年四月 昭和三十年九月 昭和四十七年四月 す︒ 同学科を卒業︒ 陸軍経理学校講師を拝命︒ 陸軍教授に任ぜられ︑同校教官に補せらる︒ 退官︑復員︒ 立教大学非常勤講師 ︵経済学部︶ を依嘱さる︒ 立教大学専任講師に任ぜらる︒ 同 助教授に任ぜられ︑一般教育部勤務を命ぜらる︒ 同 教授に任ぜらる︒
武田康雄教授略年譜四五