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福沢諭吉における発達と教育

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(1)

福沢諭吉における発達と教育

一明治初期を中心にして一

中 江 和 恵

は  じ め  に

 教育とは、「入々が天然自然に稟け得たる能力 を発達して人間急務の仕事を仕遂げ得るの力を強

くすること勧」(1)「教育の目的は姓を発達し て願鱒くに在り」(2)「教育とは人を教へ育つ ると言ふ義にして、入の子は生れながら物事を知 る者に非ず。先きにこの世に生れて身に覚へある 者が、其覚えたることを2代目の者に伝へ、2代

目は3代目に授けて、人間の世界の有様を次第々

・に良き方雌めんとする趣意なれば……」(3)

 福沢諭吉は、明治初期において、入間の発達そ れ自体が入生の目的であるといい、入間の発達が 社会の発展を支えるといい得た唯一人の思想家で あった。彼は教育がこの発達を導く営みであるこ とを明言し、彼自身日本人すべての発達に働きか ける為にあらゆる教育活動を行った。

 一方彼は、人間の歴史が発展するという文明観 を持っていた。彼にとって文明とは、国家各々の 社会的・文化的状態の進歩であった。彼はこれを、

「人の安楽と品位の進歩」(4)といい、その進歩の 段階を規定するものが、一国内にお・ける国民の智 徳の全体的水準であると考えた。文明は、この全 体的水準の常左る発達過程、すなわち「智徳の進 歩」=「衆心発達」と定義されたのである。

 従って教育とは、彼にとって、文明化への本質 的な方法であり、同時に、入間を人間たらしめる 方法であった。彼は自己の教育活動を、智徳の発 達に対する働きかけとして実践した。彼の教育観 の真の近代性は、ここにあるといえよう。

 ここで小論の課題と方法を、従来の研究との比

較にお・いて明らかにしたい。

 最近の福沢研究にお・いて、教育論を中心にした ものとしては、安川寿之輔・牧野吉五郎の2著作 がある.(5)安川は、福沢の文獺の中核が智徳の 進歩にあり、それ故に教育思想が彼の思想の全体 構造にとって中核的存在であると指摘しつつも、

これ(智徳論)を、「社会経済的条件が未成熟だ からこそ、教育によって、上からないものをつく りだすという転倒的方策」(6)であると、切りすて てしまった。氏は「福沢の『思想』そのものは、

〈一国独立一=富国強兵〉という生涯のr大本願』

の道を一筋につきすすんだ」(7)と繍し、それが

「〈近代社会観=近代的人間像〉あるいはく近代 教育思想〉についての体系的な原理・原則を確立

しえないという犠牲のもとにあがなわれたのでは

    (8)

     と書いている。問題は、近代教育思想 左いか」

についての原理・原則とは何か、である。氏は福 沢の個別の教育論に対しては、しばしば西欧近代 教育の原則と比較して裁断を下している。西欧近 代教育の原則とは、具体的には、制度としての近 代学校を国民にとっていかなる意味をもつものと して位置づけるか、及び政治・宗教に対してどう 位置づけるかという問題に関する原則である。そ こには近代学校の存在が前提されているのだから、

それを福沢の教育論批判に使う場合、学校教育に ついての発言、特に明治政府の教育政策への発言 に対するものとなる。そのような個別の問題につ いていえぱ、確かに福沢の言説は矛盾している場 合がある。明治初期には、まだ西欧近代教育の原 則と比較しうる近代学校は作られてはいなかった。

福沢は西欧近代社会を成立させたより根本的な要

41一

(2)

因、すkわち智の発達に、教育の最も基本的左原 則を置いていた。日本に近代的な学校をどう創造 するかという問題も、智の発達を可能にするため の方法論の1つであった。彼の教育論は、日本の 現実に即して、如何にして各々立場の異左った人

々の智を発達させるかという観点から出されてい るのであって、西欧の歴史の中でその社会の現実 との闘いによって作り上げられた近代学校の理論 と、それをとりまく教育原則とを直輸入したもの ではなかった。彼の教育的諸活動が非常に大きな 影響力をもったのは、彼が根本において近代的左 教育観に立脚しkがら、日本の現実を一歩前進さ せるという立場から教育活動を実践したからであ る。学佼の理念の創造をも含めて、教育について の1つ1つの原則は、日本の社会の現実とその伝 統思想とを媒介として、その歴史の発展の上に作

られねば左らない。重要なのは、智の発達という 福沢の立脚点が、個々の教育原則を作り上げてゆ

く上で不可欠k思想的基盤となる、ということで あるQ

 安川の福沢批判の問題性は、氏が福沢のこの思 想に代表されるところの近代教育思想の本質を、

最初から切り捨てる形で出発し、それにもかかわ らず、彼の教育論を西欧近代の個別の教育原則と の比較において裁断したことにある。例えば安川 は、「学問・教育独立論」の中で、福沢が一方で

「教育のr自由』を主張しながら、他方でr国学 者流灘者流の教創の禁止を要求」(9)したことを

あげ、ここから「r近代教育原則』の主柱である

〈教育の自由〉の原理を把握できない」と批判す る。しかし福沢が「国学者流漢学者流の教育」を 禁ぜよといったのは、その教育が「スレーブ」を 作る教育であり⑩、思惟の自由を妨げ子どもの発 達を妨げる教育であると考えた為である。安川は このあとコンドルセを引き合いに出すが、コンド ルセが「教育の自由jをいう時には、教育を人間 の発達に対する働きかけとして把えているのであ

  ⑪     「スレーブ」を作る教育が、教育の名に るo 価するかどうかはさしおき、日本には「国学者流 漢学者流教育」が、まさしくそれこそが「教育」

であるとして存在していたという事実を重視せね ば左らない。安川が福沢の思想の中核であるとし ながらも切り捨ててしまった智徳の発達の思想に もう一度立ち戻り、福沢の教育についての主張を、

発達に働きかける教育という観点から検討する必 要があるのではないかと思う。

 他方、牧野は福沢の教育論を、明治政府の教育 政策との比較において検討し、福沢の初期啓蒙の 性格が、「基本的には明らかにr近代』のもの」⑫

であったと評価している。氏はその近代性を判定 する基準を、「学問勧奨が新しい『実学』をその 内容とし、自由平等自主独立の人間形成を目指し て国民全体に説かれたこと」に診いている。確か に「実学1及び「自由平等自主独立」は、一般に 近代性の尺度として用いられるが、教育思想の近 代性を測るモノサシはこれだけでよいのであろう か。教育思想を評価する尺度は、発達と教育に対 する把え方を中心にして、独自ftものとして作り 上げられねば左らないと思う。

 この論稿では、安川・牧野両氏の研究方法に対 する以上の批判をふまえて、智徳の発達の問題を 中心にして、福沢の教育観を検討してみたい。

〈注〉

(1)「家庭習慣の教へを論ず」(ユ876年)19巻56工頁

(2)「教育論」 (1879〜80年)20巻205頁

(3)「小学教育の事一」 (1879年)4巻465頁

(4)r文明論之概略』(ユ8「} 5年)55頁

(5)安川寿之輔『日本近代教育の思想構造』(1970  年、新評論)牧野吉五郎『明治期啓蒙教育の研究』

 (1968年、御茶の水書房)

(6)安川、前掲書、96頁

(7)同 14頁

(8)同 ユ8頁

(9)同3ユ1頁

⑩「松山棟庵宛書簡」(ユ869年)17巻65頁

一42一

(3)

⑪『革命議会における国民教育計画』(1949年岩波  文庫)94頁

⑫放野、前掲書、39Q頁

 なお・、福沢の文章の引用は、r学問のすNめ』r 文明論之概略』r福翁自伝』は岩波文庫から、他 は福沢諭吉全集からとする。

1・教育観の形成過程

 ここでは、主として青年時代の福沢の行動の軌 跡と、それに伴う認識発達の過程とを追うことに よって、彼の教育観が如何にして形成されたかを 検討する。その場合、次の2点に焦点を当てる。

1.福沢の教育観の近代性を支える、智が発達す  るという思想が、いかにして形成されたかを明  らかにすること。

2.智はいかにして発達するのか、という問いに  対する彼の答えの原型を、彼の成長過程にみつ  けだすこと。

 福沢の思想形成の過程を包括的に検討したもの としては、広田昌希著『福沢諭吉研究』(1976 年・東京大学出版会)があり、また政治との関係 を中心にしたものとしては、遠山茂樹著『福沢諭 吉』(1970年・東京大学出版会)がある。し かし2氏共、教育観の形成という側面に関しては

あまり論及していない。また他にも、教育観の形 成過程を検討した先向研究はほとんどない。ここ では2氏の研究成果に負いながら、前述の2つの 課題を明らかにしたい。

 幼少年時代の福沢が、合理的・実証的精神の持 ち主だったことは、既に定説となっている。それ は神様の御札を踏んだり、稲荷の社の中をあけて みたりという行動から推察されることである。(1)

これらは迷信を疑うという、環境に対する精神の 主体性を示してお・り、同時にそれを行動にお・いて 実証するという行為の主体性を示している。合理 的・実証的精神とは、そのような主体性が環境に

立ち向かう時の一貫した向かい方、ということが できよう。

 しかも彼は、幼少年時代のいたずらを除けば、

彼の主体性を常に生活上の諸問題及び自己の不満 を合理的に解決する方向に向けようとしていたと いう点に、注目する必要がある。彼は自己の手先 の器用さと、工夫するという主体的精神で、生活 上の必要を澄ぎない、またこれを内職とすること によって生活の資を補う。(2)自己の環境に対する 彼の主体性は、彼自身の技能を発達させ、自己の 生活を変革する原動力となっているのである。

 「封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空し く不平を呑んで世を去」(3)った父への思いは、彼 自身の主体性を存分に発揮し得ぬ門閥社会への憤 りと左り、更にはそれを自由に発揮し得る社会へ の願望となる。彼にとって中津は、特に門閥制度 の強固左藩風を持っていると意識された為!4》その 願望に近づく第一歩は、中津脱出への欲望とftっ た。彼は門閥制度への不満を、脱出という主体的 な活動によって、合理的に解決しようとしたので

  (5)

ある。

 中津を出た後の彼は、長崎で山本物次郎の食客 となる。彼はここで山本家の家事一切を引き受け ることによって生活力を身につけ、また蘭学の原 書を初めて読み、次第に意味がわかる様に左る。(6)

彼はこれを基礎に、1年後には大阪に出て緒方洪 庵の門に入り、本格的左蘭学修行をはじめるので ある。彼にとって、行動範囲を拡大することは、

生活力を身につげ認識を広げてゆぐことを意味し たといえよう。自己の生活領域を常に拡大し、よ り多くの事物に接し、そこで精神と身体とを主体 的に働かせることが人間を発達させるという考え は、このような体験に裏付けられたものであろう。

 以上述べた様左彼自身の主体性は、3度にわた る渡米・渡欧の経験と西欧思想の摂取によって、

新しい社会を形成する人間像の基礎として位置づ けられてゆく。

43一

(4)

 福沢の洋学研究はその時代の必要性からくる当 然の結果として、砲術・物理学・医学等からはじ ま。た.(7)彼はこれらの研究樋じて洋学研究の 基礎的能力を身につけ、ま一た洋学の漢学に対する 優縦を確信する姪ったが、(8)西欧社会の燗 像・社会観を探求する契機と左るのは、渡米・渡 欧の経験である。彼は第1回の渡米の印象として、

その生活習慣や風俗に対す礁きを記し、(9)翌年 の渡欧に際しては、この驚きの感情をヨーロソバ の事情風習・政治制度を探索するという明確な目 的意謙と発展させている。⑳他国を知ること、

他国に旅行することが、自国を客観的に認識する 為の第1歩であるという観点は、この体験に裏付        ⑪

けられたものであろう。

 この渡欧の結果、彼は政治制度・軍察力・経済 力を含めて、ヨーロッパ諸国のアジア・アフリヵ va対する優灘を確信し、⑫同時に、このよう左 強力な欧米諸国が国際関係において一応の平和的 共存を保っていることに注目した。⑬彼はここに 単左る軍事的強弱による優勝劣敗とは異左った国       ⑯ 際社会のあり方を発見し、これを「世界の道理」

「万国公法」⑮と表現した。これは国家間の諸問 題を解決するすぐれた方法として評価され、彼は

この方法を支える背景に、国内社会のあり方を見、

      ⑯ 国内世論の存在を見出すのである。

  この渡欧の成果は『西欧事情初編』としてまと められる。彼はここで従来の洋学摂取態度が科学 技術のみのものであると批判し、政治風俗を明ら       ⑰

      この書には かにすることの必要性を主張する。

 この観点に従って、各国の史記・政治・海陸軍。

銭貨出納が記述されている。

  しかし欧米社会の把握を現象面にとどまらせず、

人間像及び社会構成理念そのものに深化させるに  は、更に1つの媒介が必要であった・彼は1867  年の前半を再び米国ですごすが、帰国後・渡米中  の行動に不都合があったとの理由で謹慎を命じら  れる。このことは、これまで封建社会内にあって

も、常に新たな行動領域を開くことによって自己 の主体性を発揮し得てきた彼にとって、はじめて の坐折であった。彼はこの坐折を媒介にして、人 間の主体性が結局は権力の一方的処断の前に封殺

されてしまう社会の本質的性格に、目を向けるこ とができたのであろう。㈱しかも帰国後の幕府の 政策は、渡米前のそれにくらべると、西欧化から の後退を示すものばかりであ。た.⑲このことは、

渡米前には文明開化を志向する政治権力として大 君のモナルキを支持していた彼に、政治権力に価 値実現を托すことのもろさを認識させた.⑳勧

の恣意的な方向決定に左右される文明開化は、た とえ政治・風俗の現象面にお・いて西欧的なものに 近づいたとしても決して真の文明社会を形成する『

ものではない、という認識が、彼の関心を人間像 及び社会構成理念にと向かわせたのである。

 以上のような認識を経て著わされた著作が、r西 洋事情外編』である。彼はその「題言」で、r初 編2での予定を変更することを記し、この書の目 的が「西洋普通の事情」を、単なる印象からでは なく、洋書の研究によって原理的に明らかにする ことuaあるという。⑳燗の本質についての叙述 から始まるこの書で、彼の人間像及び教育観の原 型が出来上るのである。

 彼はここで人間の本質を「人は為すことある可 きの造物∬心躯労せざるべからず」eaという 主体的・能動的存在として把え、「自主自由」

を、この本質を全うさせる為の基本的原則とする。

ここで彼は、人間が自然と社会とに対して主体性 を自覚した存在であることを示し、人間の活動が、

その主体性の発揮であることを示したのである。

彼はこの人間によって形成される社会を・法の下 において自由・平等な社会として描き、知識の教 導(洋学)がこの社会を維持する為に不可欠であ ることを記す.㈱それは福沢が、こOA間の本質把 握及び社会構成理念、そして現実にこの社会を動 かしている科学技術が、洋学の研究成果であるこ

一44一

(5)

とを認識していた為である。福沢にとって洋学を 学ぶことは自己の人間としての本質を自覚するこ

とであり、同時に人間が自然と社会とを変革して きた歴史的発展の成果を学ぶことであると把えら れていた・彼は、近代社会を維持してゆぐ為には、

すべての人々が環境に対する自己の主体性を自覚 し、近代科学の成果に立脚して生産活動を行ない、

近代国家を支える理念を知る必要がある、と考え たのである。

 これに加えて、彼は人間の智が等しく発達可能 性をもつことを記している。彼は、盲唖者に対し ても教育方法を工夫することによって知識を獲得 させ得るという事例を紹介し、㈲教育が万入に可 能であることを示した。⑫◎

 これ以後明治初期の彼の教育的諸活動は、ここ に示された以上2点一入間の本質把握と洋学理 解、及び万人の智の発達可能性に対する信頼_

に立脚するものであり、従ってここに彼の教育観 の中核が成立したといえよう。

〈注〉

(1)『福翁自伝』(ユ899年)29〜30頁

② 同 24頁

(3)同 21頁

(4)同 2ユ.5ユ頁

(5)彼は中津の藩風に同様な不満を持つ従兄弟たちに「不  平があれば出て仕舞うが宜い、出なければ不平を言は  ぬが宜い」(『福翁自伝』52頁)といったと書いて  いるが・これは彼が、自己の立場を変革し得るような  主体性を持たぬ不満を、不毛なものと考えたことを示  すものであろう。広田昌希はこのエピソードから、福  沢が「封建的身分制に対して『闘った』こと」が1度  もなく、 「仲間たちの『闘い』の戯亡まらさえも嘲笑  的に抑える側にまわ」ったと、読みとっている。(前  掲書23頁)しかし闘いを、民衆との連帯や仲間意識  にもとついて権力に対して直接行動する、という固定 的な図式で把えて福沢を裁断するのは、その時代性を  無視したもの } 言わざるを得ないし、特に未だ思想形

成の過程にある少年福沢にそれを求めるのは無理があ  るのではないか。広田が「老成」と呼ぶところの福沢

 の意識は、第1にその時代性という側面から、第2に  少年期特有の自己意識とそこに含まれる発達可能性と  いう側面から再検討されねぽならないだろう。また民  衆との連帯意識の欠如を強調することは、福沢が知的   経済的な一身独立を強調したことの意味を見失うこ  とになるのではないか。

(6)広田はユ年間の長崎生活で獲得した独学と生活力への  自信が、福沢の「『一身独立』のテーゼの生活経験に  おけるもっとも原型的なもの」(前掲書40頁)にな  っていると書いているが、正当な評価であろう。

(7)中津藩においては、佐久間象山の門に入って蘭学を学  ぶ者が特に多く、西洋流兵学への関心が高かったと、

 加藤弘之の自伝に記されている。(『経歴談』「日本  の名著」34巻,468頁)また中津に蘭学の伝統の

   ノ

 あることは広田の研究に詳しい。(前掲書37頁)

(8)福沢は緒方塾の書生たちが「西洋日進の書を読」み、

 「智力思想の活発高尚なること」を自負していたと、

 『自伝』で回想している。(93頁)

(9)『自伝』に、 「理学上の事に就ては少しも胆を潰すと  吾ふことはなかったが、一方の社会上の事に就ては全  く方角が付かなかった」(ll6頁)と書いている。

⑩「島津祐太郎宛書簡」(1862年)エ7巻、7頁

⑪石田雄は福沢のこの観点を、「異質文化の異質性への  おどろきが、区別の論理を生みbさらに比較は区別だ  けではなく共通性の認識をも伴い、こうして普遍的基  準による比較文化の視点を生み出したとき、はじめて、

 意味の問いなおしは・自分の文化だけではなく、相手  側の文化にも向けられる」(「文化接触と創造的思考  の展開」『日本近代思想史における法と政治』1976  年岩波書店・ee頁tlという理論過程の第1歩として把  握し・福沢の移事争論1の論理がこれを日常のレベル  にまで方法化したものであるとして評価している。小論で  は氏の研究から学びながら、智の発達の概念そのもの  を問いつつ、その方法論の1つとして追求したい。

⑫『西航記』(ユ862年)では、ヨーロッパの施設  設備・政治制度等について記述し、またアジア,アフ  リヵについては、彼の経由した港がほとんど英領とな  っており、そこで「土人」が使役されていることを記  している。

⑬1863年(?)「隈川宗悦・南條公健宛書簡」で、

 薩英戦争に関する英国内の世論を紹介し、「交易の不  絶間は、公辺の御所置さへ宜敷候はS 、少々の間違は  可有之候共、容易に彼より兵端開き候事は有之間敷奉

45一

(6)

 存候」 ユ7巻工6頁)といいbまたポーランドが強  固の勢力均衡によって平和を保っていることを記して  いる。

⑯『唐人往来』(ユ865年)工巻20頁

㈹「福沢英之助宛書簡」(ユ866年)17巻31頁

⑯前述(注12)薩英戦争に関する記事「唐人往来」な  ど。

⑳『西洋事情初編』ぐ1866年)1巻285頁

⑱遠山茂樹はこの謹慎事件が「この後の彼の思想を意識  下において規定した原体験」C前掲書34頁)であろ  うと書いている。遠山はこれを福沢の政治に対する距  離の置き方という点で問題にしているのだが、ここで  はこの事件が、洋学を人間像にまで遡って追求する一  契機となったことを評価したい。

⑲ユ866年11月の福沢英之助宛書・簡では、幕府の外  人教師雇入れ、軍備の西洋化.官吏の洋服着用許可等  の政策を評価しているが、67年末の英之助宛書簡で  は情勢の後戻り、大政奉還,謹慎の事を記している。

⑳66年の同書簡では大君のモナルキを支持することが  書かれているが、67年の同書簡には、「小生輩世事  を論ずべき身にあらず、謹て分を守り読書一方に勉強  いたし居候」と書かれている。

¢D『西洋事清外編』ぐ1868年)1巻385頁

㈱ 同 389頁

㈱ 同 392頁

㈲同4・20頁。45工〜456頁

㈲「天稟不具の人あれぽ、蕾に其生命を保護するのみな  らず、又従てこれを教へ、其不具を補て平人に斉しか  らしめんことを勉めり。故に盲書に書を教るには其文  字を作り、聾唖に言語応対を教るにも其法を設け、其  功徳実に驚く可し」(同4エ5頁)と紹介している。

㈲福沢は盲唖者の教育の紹介につづいて、三重苦の女性  が「其精bはよく天地万物の理を弁じ、世界人類の情  に通」(同415頁)じていると記して教育による発  達可能性を示している。また「人の生るNや無知なり。

 其これを知るものは教に由て然らしむ所なり」(同  451頁)と、知識の獲得が教育によるものであるこ  とを明記している。

2.智はいかにして発達するか

 智がいかにして発達するかという問題は、福沢 が生涯にわたって追求した課題の1つである。こ

こでは明治初期の福沢がこれに対していか左る見 解を示していたかを明らかにし、それによって彼 の抱いた智の発達の概念の内実をも考察する。

 従来の研究に澄いては、この問題はほとんど顧 みられていない。また安川は福沢の初期啓蒙に知 ける問題性の1つとして、「r人の智徳』は左に によってどうして進歩するのか」(1)が明らかでな いことをあげ、福沢が「智力史観」とは対立する 見解を出していることを示して、「智力史観」の 思想的意味を否定している。ここでは安川の福沢批 批判をふまえて、この問題を検討したい。

 智がいかにして発達するかという課題に対する 福沢の解答は、以下の3点にまとめることができ

る。

 第1 智の発達の基礎は、西洋的実学の知識を 身につけることである。

 r西洋事情初編』において、福沢は洋学の定義 を、「万物の理を究め其用を明にして、入生の便 利を達せんがために人々をして天稟の智力を尽さ        (2)

しむるに在り」

         と述べている。この洋学理解は、

人間の活動の本質についての福沢の把握と重なる ものである。たとえば『学問のすXめ』の冒頭に ある、「万物の霊たる身と心との働を以て天地の 間にあるようつの物を資り、以て衣食住の用を達 し」(3)という文章は、人間の活動が自然と社会と に対して主体性を持つものであり、その対象は、

自己をとりまくすべての物であり、その目的は、

入間生活への利用にあるという視点を打ち出した ものである。人間活動の本質についてのこの視点 は、活動の主体・対象・目的の3点において、洋 学の定義と同様である。したがクて、洋学の定義にお ける、「智力を尽」すことは、人間の本質としての「身と 心の働」の1つの実行形態であるといえよう。

 洋学を学ぶことの意味は、まず人間活動の本質

についてのこの3点を学びとることにあった。そ

れは幕藩体制下にあって、学問に澄いても、生活

に知いても、主体的精神の発揮を阻まれてきた人

46一

(7)

々を、智を発達させうる主体とする為の不可欠の 前提であった。しかも福沢は、文明が、洋学の成 果に負うものであると把えていた。彼にとって洋 学を学ぱせることは、個々人の智を文明社会の智 の水準にと発達させることに他ならなかったので

ある。

 彼は入間の本質的平等観のもとに、誰もが洋学 を学ぶことによって、智を発達させ得ることを主 張した。彼は子どもの認識能力を無視した難解な 文章の素読、文章上の虚飾等、意味理解そのもの を重視せぬ従来の漢学教育を批判し、(4)教育内容 編成にお・いても教育方法においても、知識が身に ついたものになる為のあらゆる配慮を怠らなかっ た。それは次の3点の主張に代表されよう。

①教育内容は易から難へ認識発達に従って配列す べきであり、同時に学習者の年令段階を考慮して 学ぱせる必要がある。(5)

②学習を意欲的fi:ものにするために、教材を面白 いものにし、証拠を出して学ばせよ.(6)彼は歎 自己の教材作成においてもこれを重視し、r究理 図解』r文学の教』などでは例証や素材を身近k もの昧め、Afc笑話を集めて出版している謡7x7)

③学習内容が遊びの中にも雑談の中にも反復され、

社会全体に知識重視の風潮が広がることが必要で ある6s)彼は日本中すべての民衆にわたる矢口識の 鯖が翻訳書によって可能であると考えさ9)洋書 の翻訳・出版に尽力し、また学校はまず周く作ら れねば左らぬとの考えにより、手習師匠の改革を 提案したρ

 第2 智は生活の中で用いられて発達する。彼 は人間が常に自己の生活領域を拡大し、より多く の人々・事物・現象に接し、主体的精神を以てこ れに対応して智を活発に働かせることが、智の発 達の源であると考えた。

 福沢は「教育の要は事物に接し事物を想像する こと多きに在り」⑳「人ハ動カザル可ラズ、事ハ 変ゼザル可ラズ。動カズ変ゼザレバ精神ノ活発ハ

起ラザルモノナリ」⑫等の発言によって、智がよ り広い範囲において使用されることの必要性を主 張した。彼は日常生活のすみずみにまで法則性を 見出そうとする態度を重視し、更にその態度をよ り広い世界、異質の世界に対しても広げてゆくこ とが、智の発達にとって不可欠と考えたのである。

 一方彼は、産業革命が、人間の生活においての み左らず、精神の変革、智の発達にとっても飛躍 的な力をもつことを力説し、「蒸気船・蒸気車・

電信・郵便・印刷の発明工夫」⑬が、「人民交通 の便」04を促したことを、文明の原泉として評価 する。停滞した社会においては智も停滞せざるを 得ず、他方交通手段の発展した文明社会において は必然的に智の使用が頻繁になり発達するという 事実、文明の技術的・物質的左発展が人々の生活 領域を拡げ智を使用する機会を与えるという側面 をも、彼は正しく評価していたのである。彼が欧 米諸国からの科学技術の輸入による産業の変革、

それを可能にする受容基盤の形成等、文明の技術 的側面の発展にも尽力したのは、それが文明の本 質としての智の発達への重要な通路と認識されて いた為である。安川は福沢のこの主張を、「〈智 力史観〉とは対立する見解」㈲であると書いてい るが、それは氏が福沢の文明ee 一=〈智力史観〉を あまりにも狭く把えた結果ではないだろうか。

 智の発達についてのこの見解にもとついて、福 沢はまずその第1歩として、智を社会生活に用い る習慣を重視した。彼は「人の智恵は夏の草木の 如く一夜の間に成長するものに非ず、仮令ひ或は 成長することあるも習慣に由て用るに非ざれば功 を成離し」⑯と主張し、慶応麹の学生に対し てもより広く社会の現実に接することを勧めた。

教育内容編成においても、日常生活に密着した知 識をまずあげていること、小学教育の内容を日常       ⑰ 生活に即したものにする様にと提言していること

も、これらの教育が子どもたちの社会生活を広げ、

より多くの事物に接する機会を提供するという考

・一一

S7一

(8)

えによるものであろう。

 一方、女子教育論においては、権利にもとつい た責任が人間を発達させるという観点から、まず 家庭において女子に財産及び育児の権利を与え責 任を持たせよと主張している轡これは権利を与 えられてこそ、智が生活の中で主体的に使用され 発達する、という鋭い洞察によるといえよう。

 第3 個人の智は他の人々の智との相互交渉の 中で発達し、更に結合することによってよりすぐ れたものを生み出すこと。これは第2点に含み得

るものではあるが、ここでは特に彼が、智の発達 の概念の中に、実践的・集団的性格を含ませてい たことに注目したい。御文明が国内の智徳の全 体的水準の発達であるという点を重視し、この発 達が、多ぐの人々の智を集め、議論し、実行可能 な形にして結合するという一連のプロセスを踏む ことによって可能になると考えた。すなわち智の 発達の概念には、相対立する意見の調整の上に立 ち、実行可能であり、しかも最もすぐれた解決を 生み出すような能力という方向性が含まれている といえよう。これは、智をも含めて人間の活動の 目的が人間に役立つものを生み出すことにあると いう福沢の考えにもとつぐものであろう。

 彼は智を実践的なものにと発達させる方法とし て、第1に国内にお・ける智力の中心の存在、第2 囎力を結合する習慣が必要であると主張したρ

この観点から彼は智の相互交渉・結合の拠点とし て、明六社・交詞社の設立に尽力し、演説・討論 を、社会のすみずみva・Aで習側ヒしようとしたρ また言論.出版の自由を主張したこと即政治青 年の民会への出席を、教育的観点から位置づけた こと㈲なども、この考えにもとつくものであろう。

 石田雄は、福沢が「多事争論」を重視したこと を、「文化接触の機会に触発され、それを利用し て展開した論理を、1つの方法的な過程として設 定しよう」㈲としたものとして評価している。氏 は福沢において、異文化に接した時の驚きが、「

『意味を問う』能力へと展開」㈱されたとし、こ れを基点にして福沢のコミュニケーション論の理 論化を行なおうとしている。しかし福沢の場合、

「意味を問う」こと、すなわち法則性を探り自己 に役立てようとすることは、人間の本質として把

えられていた。福沢の論理に従うならば、創造的 思考へと発展する様な驚きは、「意味を問う」主 体的精神が環境に向かうことによってのみひきお

こされることに左るのではないか。「福沢の方法 的一貫性」㈲を見出そうとする氏の場合、文化接 触がこの主体的精神をもってこそ可能となること、

この精神が福沢に澄いて、人間活動の本質として 把えられていることを前提にする必要があるので はないだろうか。

〈注〉

(1>安川,前掲書,95頁。津田左右吉も『文明論之概略』

 の解題(1931年、岩波書店)で、「智力がどうし  て進歩するか」 「何人のもっている智力をいうのか」

 (272頁)という問題提起をし、前者に対しては明  らかな解答が与えられていないと書いている。

(2)『西洋事情初編』1巻307頁

(3)『学問のすXめ』初編Cユ872年)ユユ頁

(4)「経書が、何として6,7歳の童子に分る可きや。…

 少しも面白くなくイヤイヤに日を送り、大事の物覚へ・

 よき年頃ろは通り越して、遂に生涯書物嫌ひの廃物と  なるなり」(「或言随筆」20巻14頁)と、認識発  達を無視した教育の有害性を指摘し、また頼山陽の『

 日本外史』が漢文で書かれていることを批判し。「兎  角儒者には此癖多く、動もすれば日本人一般に分らぬ  書を著述することあり」(同14頁)と書いている。

(5)福沢は6,「?,歳が書物の学習を始める時期であり。以

 後「易きこと」から次第に学ばせよと主張している。

 で同13頁)

(6)福沢は、馬術・剣術は「勝負も見へ、自然と面白く染

,込」ぐ同ユ4頁)む為に嫌いにならないのだから、学  問も「成丈け手近く其形を示し其証拠を出して、草双  紙を読むと同様の姿にて面白く事柄を習」わせれば自  然に身につくだろうと書いている。

(7)『開口笑話』(ユ892年)である。彼はこの序で「

 教育の目的は唯才徳の発達を促すに外ならざれども、

一一一一

S8一

(9)

 其方法は千差万別ミ際限ある可らず。就中奇言を放  て人の好奇心に投じ、一笑の間に無限の意を寓して自  ら人情世態の裡面を念心せしむるが如きは、教育法の  捷径にして却て有力なるもρあるが如L](19巻773  頁)と、教育方法についての見解を示している。

(8)外国についてr条紡一国記』tl・書いてある位のこと  は「天神講に出席する子供の常談にも互に皆相話」(

  「松山棟庵宛書簡」17巻64頁)されることを期待  し、また洋書を読む地盤作りとして「文を以て人を化  す」(同65頁)ことの必要性を主張し、「一国の空  気を文物の気海に変じ度存候」 「浜口儀兵衛宛書簡l  l7巻66頁)と書いている。

(9)「松山棟庵宛書簡」ユ7巻65頁。また『慶応義塾学  校之説』でも、「国内一般に文化を及ぼすは訳書にあ  らざれぽ叶はぬことなり」(エ9巻580頁)といっ  て、原書の翻訳を洋学者の任としている。

⑳「松山棟庵宛書簡」エ7巻65頁  『啓蒙手習文』(・1871年)3巻3頁

⑪「覚書」ぐ18「} 5年〜1878年)7巻673頁

⑫「浜野定四郎宛書簡」でエ878年?)1 1 巻227頁

⑬『民情一新』ぐユ8 ) 9年)5巻6頁

㈲ 同 5頁

⑱安川,前掲書,95頁

㈲『文明論之概略』ユ02頁

⑳福沢は「小学教育の事1〜4」(ユ879年g4巻)

 で「廃学の日までに学び得たることを以て、尚其者D  生涯の利益と為すべき工夫なかるべからす」(同466  頁)という観点から教育内容についての提言を行って  いる。

⑱『日本婦人論』『日本婦人論後篇』に主として出され  ている観点である。これについては拙稿「福沢諭吉の  家族論」C東京都立大学『人文学報』12コ号,ユ977  年3月)で検討した。

⑲『交明論之概略』89・98頁

⑳『会議弁』(1873年p5巻)はこの為に出版され  た著作である。

⑳『文明論之概略』99頁。『学問のすXめ』ユ3編   ユ874年)など。

㈱彼は「人間社会教育の要は、一事にても人をして早く  実事に当らしむるに在り」(「空論止む可らず」1879  年,4巻474頁)といって、智を実践的なものに発  達させることの重要性を指摘した。

㈲石田s前掲論文,68頁

㈱ 同 49頁

㈱ 同 5ユ頁

3・智の発達とはいかなる認識の獲得か

  ここでは福沢が国民すべてが学ぶべき教育の内 容をいかに考え、いかなる教育用著作を執筆して いるかを検討することによって、彼がどのような 認識の獲得を智の発達と考えていたかを明らかに

したい。

 安川は『学問のすls・め』の提起した課題、すな わち教育の内容が、第一に「r報国の大義』一= m 人民独立の気力』」であり、第2に生産力視点か らの実学のすXめだと書いている。(1)第1点に関 しては、これと認識発達との関係が如何に把えら れているかという点にお・いて、第2点に関しては、

実学がそのような側面を持つとしても、その習得 は八間の生活を変革し、更に精神をも変革する一 契機となる可能性をもつのではないかという点に お・いて、問い直されねばなら左いだろう。

 一方、丸山真男の実学論は、福沢の抱いた教育 内容についての根本的な理念を、安川とは対照的 に把握したものということができる。氏は福沢の 主張した実学を、「近代自然科学を産み出す様な 人間精神の在り方」(2)にお・いて把え、彼が「数学

と物理学」を教育の根底においたと書いている。

小論ではこの実学論から学びつつも、福沢がより 具体的に、日本の現実を変革し一国独立を達成す る為に必要k認識という観点をもって教育内容編 成にとり組んでいたことに注目したい。

 福沢は既に1867年「或云随筆」で中津の藩 士教育について提言し、そこで漢学教育の内容・

方法及びそれによって形成される入間像を批判し、

新しい教育のあり方を追求していた。それは西欧 的学問の内容を、従来の教育への批判を通して、

また認識発達についての洞察を通して、教育に生 かそうとしたものであった。そこで出された教育 内容・方法にいての提言は、その後人闘0発達に社会

_49_

(10)

の発展を托すという観点が出され、その結果、教 育が特定の藩士教育の問題としてではkく日本人 の総体的発達の方法として追求される様になった 後にも、継承・発展される。

 そのような意味での教育内容が、はじめて追求 されるのは、1869年松山棟庵宛書簡において

である.(3)ここで福沢は「コンモン.エヂーケ_

シ。ン」の必要性を主張し、その為の教材編成に 意欲を示している。この書簡は紀州藩の学校につ

いての相談に答えたもので、ここから彼がそのよ う左教育を実現する主要左機関として学校に期待 をかけていたことがわかる。

 この段階を経て福沢が教育内容を体系化するの は、r啓蒙手習文』(1871年刊行)に澄いて である。彼は7つの「洋学の科目」を「人生欠く 可らざる学問」「人たる者の心得」(4)とし、各々 についてそれを学ぶことの意味を説明している。

これはr学問のす\め』初編では、「人間普通の 実学」(5)とされる.この内容は櫓蒙手習文』勅

「洋学の科目」と理念的には等じハものである瓜日本 の現実に立った上での教育の変革をめざした為に、

一層実用性を強調したものになっている。

 以上4度の教育内容編成を検討すると、彼が日 本を変革し得る様な智の発達に必要であると考え た知識は、以下の4種に分類できると考えられる。

第1に、日常生活上の知識及び学問の基礎。第2 に、洋学の智のあり方を示し、経済的独立を支え る知識。第3に、自国を相対化して認識する為の 知識。第4に、市民社会人としての道徳的行為を 可能にし、日本に市民社会を形成する為の知識。

 次に彼の4度の教育内容編成と彼の作成した教 育用著作を、この分類に従って表にし、各グルー

プ毎に、彼がその教育内容についていだいた理念 と、その理念の成熟過程を明らかにしたい。

①日常生活上の知識 ②洋学の智のあり方 ③自国を相対化して ④市民社会人として 及び学問の基礎 を示し、経済的独立 認識する為の知識 の道徳的行為を可能

を支える知識 にし、日本に市民社会を

形成する為の知識

1867牢

謹・蓋五ロロロ

究理学

「或云随筆」 東西南北など 人情・世帯 地理学 経済

1869年 地理学

「松山棟庵 リードル r究理図解』 国史略 モラル・フィロソフィー 宛書簡」

第2地理学

1871年 第3数学 第2地理学

r啓蒙手習 第1読本 第4究理学 第7修心学

文』 第5歴史学 第5歴史学

第6経済学

1872年 いろは 究理学 地理学

『学問のす 手紙の文言 歴史 歴史 修身学

\め』初編 張合・算盤など 経済学 r究理図解』

r文字之教』 r帳合之法』 r条約十一国記』 r童蒙教草』

教育用著作 r通俗民権論』 r世界国尽』 r通俗民権論』

r啓蒙手習文』 r民間経済録』 r通俗国権論』 r学問のす\め』

r  〃  二編』

一50一

(11)

①日常生活上の知識及び学問の基礎

 「或云随筆」で福沢は、6・7歳が知識の教育 を開始するに適した時期であることを指摘し、言 語・東西南北など日常生活に密着した知識をまず 学ぱせ、ここから進んで「世界の図をも見覚へる」⑥ 様な認識と究理学とを学ぱせ、更に17・8歳で

「備世帯経済」⑦のことを学ばせよと主張して いる。ここでは言語・東西南北等は、第1にそれ

自体、実生活に役立つという意味を与えられ、第 2に更に進んだ認識(②③グループのもの)を獲 得させる為の第1殺階として位置づけられている。

 松山宛書簡では、福沢は究理書・地理書の他に、

リードルとモラル・フィロソフィーの訳書が必要 であると書いている.(8)リードルについてはここ では説明されていないが、これは「洋学の科目」

では読本として第1教科の位置を与えられ、初学 の手引・初歩の役割を持つものとして説明されて いる。この教科書として福沢はr啓蒙手習文』を 作成しているが、この内容は上巻が、いろは・数 字等、日常生活に密着:した知識であり、下巻が、

「地球の文」「究理問答の文」など、②③グルー プの諸書の意訳・紹介と左っている。読本は「或 云随筆」での初歩的知識と同様に、日常生活に必 要な知識及び学問の基礎として把えられていると いえよう。

 r学問のすXめ』初編では教科としての読本は なぐなり、地理学・究理学等に進む以前に学ぶべ き実用的知識として、いろは以下が挙げられてい る。この様に、彼が学問の第1段階を、単にリー

ドルの翻訳としてではなく、日常生活に密着した 知識として示したことは、人々の生活の発展の上 に学問を位置づけようとしたという意味にお・いて、

すぐれて実践的ft受容といえよう。

 一方言語習得の為の教材として、彼はr文字之 教』を作っている。ここで彼は漢文調の文章表現 を主流とする従来の伝統を批判し、できるだけ簡 単に学ぶ事が出来、しかも意を達するに足る文章

表現への変革を主張している.(9)福沢は、すべて の子どもたちが、言語を馳使することによって自 己の生活領域を広げ精神を活発化し、またこれを 基礎により高い認識を獲得してゆくことを目ざし たのである。言語習得もまた、日常生活を発展さ せる為のものとして、かつ学問の第1段階として

はっ琴りと位置づけられているといえよう。

 ②洋学の智のあり方を示し、経済的独立を支える知識  福沢は洋学を、環境からの主体性を自覚した精 神が自然と社会とに働きかけ、それを自己に役立て

ようとする智の活動と考えていた。教育内容の第 2グループは、洋学におけるこのような智の姿勢 とその実利益とを示し、かつ実際にこれによって 経済的独立を達成させることを意図したものであ

る。福沢は智力を尽して自然の法則を探求し、そ こから実利益を生み出す様な学問の代表を、究理 学に見出した。1868年に刊行されたr訓蒙究 理図解』は、彼が教育的観点から執筆した著作と

しては、r増訂華英通語』⑩に次いで2作目のも のである。彼は究理学がその真実性故に必ず民衆 を洋学に導くと確信し、洋学の価値を知らしめる という意味をこめて、この著作を執筆している。⑪  「洋学の科目」で新たに加えられる教科も、す

べて入間の智による自然と社会との法則の解明及び その成果の利用という観点から説明されている。

とりわけ自然法則の探求とそれを利用しての産業 の変革、及びそれによる人々の経済生活の変革と 発展は、究理学・経済学・数学によるものであり、

それ故にこれらの教科は経済的側面における一身 独立を達成する為に不可欠左ものとされたのであ

る。

 勿論これは「先進資本主義諸国の近代的な科学

・技術の成果を日本に輸入・受容する道をきりひ らくことを期待したr実学』」⑫という面をもつ。

福沢が文明発達の内容そのものに、精神的のみな らず物質的豊かさを含ませており、しかもその:豊 かさを増す原動力を、人間の智による科学・技術

」−

T1一

(12)

の進歩に見出している以上、これは当然のことで ある。重要なのは、第1にそれが主体的精神をも って自ら働き自らの生活を変革してゆく一身独立 の人間像の形成として位置づけられている点、第

2に、既に述べた様に、科学・技術の進歩が逆に 智を発達させる環境を作るという考えに支えられ たものであるという点であろう。

③自国を相対化して認識する為の知識  鎖国下にお・いては、人々は自国を客観化するこ

とができない。その上、国内が固定化した身分秩 序によって支配されている以上、社会を変革する

ことによって国家を支えるという意識は形成され 得ず、その為に必要な自己認識、自己を社会の中 にどう位置づけ、国家に対してどう行動するかと いう認識は育ち得ない。「謂れも左く自国許りを 別段貴きものx様に思込み、世間の事に頓着せず して我意を言募」㈲るのは、国際社会の中での自 国の位置を客観化し得ぬ為であったし、「門地を       ⑯

以て無上の天爵と思ひ、世間普通の道理を知ら」

ぬとは、封建的身分秩序を不変不動のものとし、

それを多様な社会構成理念との比較において客観 化し得ぬことであろう。福沢が欧米近代国家の国 民に比較して日本人に欠けていると考えた認識能 力の1つは、自己及び自国を客観化する能力であ

った。

 自己の属する社会を客観化する為には、それを 他との比較において認識することが不可欠である。

福沢はそのような認識発達の法則性を、「彼を知 り我を知るの知識は正しく同一様に発達するの約 束」⑯と把え、「或云随筆」では自国を認識する 方策として他国への旅行を奨励し、またその認識 を形成する教科として地理学鍾視した.aa Aた 松山宛書簡では福沢は、自国についての客観的認 識が、子どもも含めて国民すべての常識にまで広 がることを期待し、r知環啓蒙』r条約十一国記』

及び日本の地理書・歴史書を教材とする様に指導 している。⑰同年彼はr訓蒙究理図解』に次ぐ教

育用著作としてr世界国尽』を著わしているが、

これもこの認識の形成が智の発達にとって重要な 内容であることを物語っているといえよう。

 自国を客観化して認識することは、自然を対象 化する究理学と、学問態度においては同様である。

「洋学の科目」で福沢は、地理学・歴史学という 学問を、自国を認識しその実践的課題を明らかに する為の教科として位置つげた。彼は、日本の国 際的立場を認識させることによって人々の心に国 家の独立を支えるナシ。ナリズムの感情が喚起さ れ、同時に如何に行動することが国家の独立を支 えるのかを見極める力が形成されると考え、国家 の独立を国民1人1人のそのようk認識発達によ

って達成しようとしたのである。

 安川は、『学問のす\め』の提起した教育の中 身として「r報国の大義』=r人民独立の気力』

を啓蒙すること」⑱をあげているが、福沢がその ような国民の気力を、いかなる認識に支えられた ものとして形成しようとしたかを問題にしなけれ ば、理性に訴える啓蒙本来の意味が見失われるの ではないだろうか。また丸山は福沢の日本思想史 上の意味を「国家を個人の内面的自由に媒介せし めたこと」⑲にあるとしている.しかし彼の論va お・いては、個人的自主性が、いか左る認識を媒介 として国家的自主性に発展するのかという、福沢 にとって非常に重要k教育の課題が追求されてい

ない。自己を社会の中に客観的に位置づけ、自国 を世界の諸国との対比において客観化するという 認識方法を普及させること、及びそれを可能にす る為の知識を提供することが、福沢の啓蒙の重要 な課題の1つであったといえよう。

 ④市民社会人としての道徳的行為を可能にし、

   日本に市民社会を形成する為の知識  松山宛書簡で、コンモン・エヂュケーションの

内容の1つとしてモラル・フィロソフィーへの着 目がみられるが、これが具体的に説明されるのは、

「洋学の科目」においてである。彼は「修心学」

一一

T2一

(13)

を、政府と人民め関係、親子夫婦の道を明らかに する為の「霊心の議論」として位置づける。封建 的身分秩序の中で不変不動のものとされていた社 会の中の人間関係が、究理学と同様な客観的な学 問の対象とされ、しかもすべての国民に必要な教 育の1つとされだことが重要である。社会を常に

より人間性にかなったものに変革してゆく可能性 がここに拓かれ、しかも彼がその変革を、国民1 人1人の認識の発達に基礎づけようとしたという 点で、非常に意義深いものであろう。

 一方『学問のナXめ』では、これは「修身学」

となり、「身の行を修め人に交り此世を渡るべき 天然の道理を述たるもの」⑳と説明される.ここ で修身学は社会を変革し得る能力の形成としての みならず、その社会を構成する1員として自己を 律し道徳的行為を実践する為の知識としての意味

をもつ。福沢は内に向って自己を律し、外に向っ て社会を変革する人間の形成をめざしたのであり、

この両面にわたる実践は、修心(身)学の認識を 媒介にして可能であると考えた。彼はこのようk 認識に支えられた実践を、社会の平和的発展を保 障する徳としたのである。

〈注〉

(1)安川、前渇書95頁

(2)丸山真男「福沢に於ける『実学』の転回一福沢諭吉の  哲学研究序説一」(陳洋交化研究』3・号1946年3月,8頁)

(3)この年はすなわち、一国独立の基礎が一身独立にあり、

 一身独立の基礎が国民一般の知識の啓発にあるという  観点が確立された年である。(第2章第1節、注(6)参  照)

(4)『啓蒙手習文』(1871年)3巻20頁

(5)『学問のすΣめ』初編(1872年)13頁

(6)(7)「或云随筆」(ユ867年)20巻13頁

(8)「松山棟庵宛書簡」Cl869年)17巻64頁

(9)福沢は「次第に漢字を廃するの用意」として「むつか  しき漢字をば成る丈け用ひざるやう心掛ること」(『

 文字之教』1873年、3巻555頁)を主張してい

 る。

⑩1860年刊。この書は日本に英語の必要性が高まっ  ているのに、それを学ぶ為の書に「楷梯を為す者」C  l巻69頁)が少ないという現状認識から著わされ、

 貿易にあずかる者の為にも、外国人で日本語を学ぶ者  の為にも、「勉めて俗語を用ひ、且つ国字を以て之を  書」( ) o頁)すると記されている。教育的観点に立  った訳書ということができよう。

⑪「一度び物理書を読み或は其説を聴聞して心の底より  之を信ずるときは、全然西洋流の人と為りて漢学の旧  に復帰したるの事例殆んど絶無なるが如し。吾々実験  の示す処なれば、広く民間を相手にして之を導くの第  1番手は物理学に在りと決定」(『全集緒言』12SM  頁)したと書いている。

⑫安川、前掲書、93頁

⑬「唐人往来」(エ865年)1巻14頁

⑭「島津祐太郎宛書簡」で1867年)17巻36頁 鉤「全集緒言」1巻23頁

⑯「人は旅行して初珀分の生国を他国と比較し、随て人  の欲にて本国の事を自慢する心も生ずるものなり」(

 「或云随筆」20巻13頁)と書いている。

Oの「松山棟庵宛書簡」17巻64頁

⑱安川、前掲書、93頁

⑲丸山真男「福沢における秩序と人聞U(現代日本思想  大系34巻、所収、筑摩書房、1943年)55頁

⑳『学問のすXめ』初編、13頁 お わ  り に

 福沢は、明治初期の日本にお・いて、人間の発達 が社会進歩を支える力であるという思想を持ち得 た稀有の思想家であった。彼は多方面にわたる言 論活動、教育用著作の執筆と出版、慶応義塾におけ ける教育等を行なうことによって、日本人すべて の発達に働きかげ、それによって社会の変革を志 た。彼は入間の発達の中心を、智と徳との発達に 澄いており、この論稿も、この発達概念を明らか にすることを目指したものである。

 さて、ここで智と徳と書いたが、実際にこの論 稿で扱ったのは、智の問題である。ここで、その 理由について述べておきたい。

 明治初期に倉ける福沢は、智と徳とが相互的な

一53一

(14)

関係に澄いて発達する、という考えを持っているσ この徳とはどういう内容のものかというと、他人 と自分との関係、社会・国家と個人との関係を把 握する力であり、この関係を理解することによっ

て自己自身の行動を律する力である。彼は、智の 発達が、おのつから社会の中の自己の役割を明確 に意識させ、日本の社会を文明化の方向に進める 行動をとらせるだろうと考えていた。しかも彼は、

      (1)

人間には「天下太平家内安全」

       という普遍的願 望があるとし、これを「平安の蟻∫2)と呼んで、

文明と教育との常なる目的とした。彼は、これが、

いかなる変革の過程においても、その段階に応じ た形で実現されているべきものであると考えたか ら、直接的・暴力的k反政府行動を一貫して批判 した。福沢は智を発達させることが、常に現段階 の社会の秩序を維持しつつ社会を進歩させようと する意志を伴うものであると考えたのであり、彼 の徳の概念も、これを行動化することが中心にな っている。彼は『学問のすNめ』初編において、

強訴・一揆等の民衆の反政府行動を、無智文盲の 結果であるとして批判するが、教育による智の発 達は、これらの行動を左くすると考えていた。

 以上述べたように、明治初期の福沢は、智の発 達がすなわち智徳の発達であると考えていたので あるから、明治初期を対象としたこの論稿に蔚い て、智の問題が中心になるのは必然的なことであ

ろう。

 最後に、これ以後の福沢の教育観・智徳論につ いて、問題点だけを記しておきたい。

 明治10年代以降、自由民権運動の高揚ととも に、彼は教育が平安をもたらすという予測を持ち 続けることができなぐ左る。彼は、知識を学ぶこ とが必ずしも彼の考えるような徳義を実行させる 力にはならぬと考えるようになり、民衆は反政府 行動をする危険性を持つと考えはじめる。彼は、

能力遺伝論・貧民教育論・二重学校体制論・徳育 教化論等の展開によって、日本人すべての智を発

達させることによって社会を変革するという教育 観を事実上崩壊させてゆく。同時に彼は、社会の 秩序を維持する為の徳を、智とは別の範疇におい て構造化しようとするのである。この道徳の問題 については、既に婦人論・家族論を中心にして小 論文をまとめたが、(3)なお智と徳との関係につい て総合的に検討することは今後の課題としたい。

〈注.〉

(1)(2)「教育論」(工879〜80年)20巻205頁

(3)「福沢諭吉の家族論_国内社会の秩序形成と家族  道徳との関係一」(東京都立大学『人文学ua 121  号、1977年3月刊行)

 追記  この論稿は、東京都立大学大学院での 修士論文(1976年1月提出)の一部をもとに

して、同大学院福沢研究会にお・ける討論の中でま とめなおしたものである。

 御指導下さった山住先生及び研究会のメンバー に負うところ大であることをここに記し、謝意を 表したい。

一54一

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