尾上柴舟の「高野切」研究
著者 村山 美恵子
雑誌名 國文學
巻 96
ページ 123‑138
発行年 2012‑03‑01
URL http://hdl.handle.net/10112/9188
(一) 尾上柴舟の﹁高野切﹂研究
伴い︑古語の使用は相応しくない︒従って短歌の存在を否認し
ようと思う︒という内容であり︑これは︑百年を経た今日も短
歌界に於いて︑しばしば議論の的となっている︒
柴舟は︑昭和二十四二九四九︶年一月には歌会始選者とな
り︑歌集の発行は︑明治三十五年一月の﹁叙景詩﹂︵新声社︶を
始めとして︑十四冊に及ぶ︒
書に関しての柴舟は︑﹁桂宮万葉集﹂などの臨模による独学
で︑大正博覧会に扉風を出展して︑入賞以来注目されるように
なり︑日本書道会幹事等を経て︑昭和十二︵一九三七︶年六月
に書道会で初の芸術院会員に推きれて︑昭和二十三︵一九四八︶
年十月には日展審査員となり︑仮名の大家として名を馳せてい
る︒
一方︑国文学者としては︑東京大学卒業後︑学習院女学部︑
東京女高師等に勤めつつ︑主に古筆とそれに関連する平安朝文
村
山美恵子
歌人としての尾上柴舟は︑新桂園派の大口鯛二に和歌の手ほ
どきを受けるが︑後︑旧派の歌に飽きたらず︑和歌革新運動家
の一人︑落合直文門に加わる︒しかし︑同門の与謝野鉄幹︑晶
子等の︑﹁明星﹂のロマン主義にも同和することなく︑﹁美を希
求せずして真を発揮する﹂として自然主義に傾く︒そして︑自
然主義歌人として大正三︵一九一四︶年四月以来没年迄︑﹁水
蕊﹂を主宰した︒この﹁水翌﹂は現在も存続している︒
柴舟と短歌について特筆すべきは︑﹁水斐﹂創設以前︑﹁創作﹂
明治四十三︵一九一○︶年十月号に﹁短歌滅亡私論﹂を発表し
て当時の歌壇に警告を発したことである︒この論は︑歌は一首
のみを見るのではなく︑連作を一つとして見るべきものであり︑
現代語を用いての散文の時代に︑三十一音の短歌形式は苦痛を
名﹂﹁伝藤原行成筆の草仮名﹂などの項目により︑十世紀か
ら十二世紀末︑﹁伝西行筆の草仮名﹂にまで記述が及んでい
る︒古筆の書風を分類整理した先鞭として︑この著述は画
期的なものであった︒
と︑評価し︑特に︑﹁古今和歌集の古写本﹂中の︑伝貫之筆﹁高
野切古今和歌集﹂に対しては︑現存の全部が三人の手になって
いることと︑それぞれの筆致に類似の種々の古筆と照らし合わ
せて︑高野切の書写の時代を推逓していること対して︑
今日︑この伝紀貫之筆﹁高野切本古今和歌集﹂が平安時
代︑十一世紀半ばの書写たることは︑すでに定説である︒
これを﹁永承附近のものとならねばならぬ﹂と主張した先
鞭は︑じつにこの尾上柴舟であった︒柴舟によって︑﹁三人
の手﹂と断定された﹁高野切本古今和歌集﹂の三人は︑源
豊宗博士・飯島春敬氏︑さらに私などの考証の結果︑①第
一種書風が藤原佐理むすめで左兵衛督藤原経任母︑②第二
種書風が内匠頭︵従五位上︶源兼行︑③第三種書風が式部
少丞︵従六位上︶藤原公経︑の寄合書きと推定している︒
これらの推定の基礎は︑尾上柴舟によってかためられてい
たのであった︒
と︑柴舟を称えている︒
− ●
バ』
学の研究を重ね︑大正十二︵一九二二︶年に﹃平安朝時代の草
仮名の研究﹂の論文により博士号を取得し︑大正十四︵一九二
五︶年四月にはこの研究と︑平安朝の和歌︑歌人論等を基に﹁歌
︵1︶と草仮名﹂を上梓した︒
以後︑書関係や︑平安朝の和歌︑物語に関する研究書︑中国
の小説の訳本等︑多くの著普を残している︒
﹁浜松中納言物語﹂については︑従来四巻本であったものを柴
︵2︶舟所蔵の巻五を加えて五巻本として﹁尾上本浜松中納言物語﹂
を刊行︑今日の研究資料に供している︒
かように︑歌人︑書家︑国文学者として知られる柴舟が︑古
筆の研究に関して︑どのような評価を受けているのであろうか︒
これを見るとき︑今日の古筆学に於ける第一人者であった小
松茂美の︑﹁古筆の書道史的研究者たち﹂︵﹁古錐学大成﹂第三十
︵3︶巻論文編︶を挙げられよう︒
ここには︑筆頭に尾上柴舟があり︑﹁古筆といえば尾上柴舟
︵一八七六〜一九五七︶を逸することはできない﹂と記されてい
る︒
小松の論文には︑続いて柴舟の著書﹁歌と草仮名﹂について
﹁古今和歌集の古写本﹂︑﹁平安朝時代の女流作家﹂をはじ
めとして﹁伝小野道風筆の草仮名﹂﹁伝藤原佐理筆の草仮
本論では︑このように︑今日の古筆学の基礎を成すと認めら
れた柴舟の︑﹁歌と草仮名﹂に於ける古筆に関する観点︑及び︑
﹁高野切古今和歌集﹂について︑小松茂美の注目した内容につい
ての初出に当たり︑詳細を見ていきたい︒
また︑その柴舟の﹁高野切古今和歌集﹂の論考と︑今日の見
解との同異点につき順を追って確認していくことにする︒
ロ
も用ゐた︒更にまたこれに止まらず︑それらを略画して︑
いよいよ簡便にした︒草仮名はこれによって起ってきた︒
このように︑漢字の行︑草を略画して︑漢字の草体の意味か
ら遠ざかって生じた草仮名は︑歌が優美華麗な情趣を発揮する
に伴って︑当時の歌の趣致を遺憾なく表現する役を果たすよう
になった︒と説く︒
但し︑今日﹁日本国語大辞典﹂︵小学館︶による﹁草仮名﹂の
意は﹁草書体の万葉仮名︒女手︑またひらがなのようには漢字
の字形からくずさない中間の字体﹂となっていて︑柴舟の用い
ている﹁草仮名﹂という表記は︑今日の﹁ひらがな﹂又は﹁女
手﹂を指し︑小松茂美も先述の﹁古筆の書道史的研究者たち﹂
にそのことを断わっている︒
柴舟は︑この草仮名は短歌同様に日本にのみ存し︑隆盛︑衰
退の運命を歌と共にしていて︑両者の隆盛は平安朝にあり︑﹁真
の立派な草仮名を知らうとするのは︑必ず歌の坑盛の平安朝の
を見ねばならぬ﹂と主張するのである︒
また︑柴舟は︑平安朝の歌と草仮名とは︑相互に連絡して︑
不可分の関係を持っているが︑徳川幕府時代に国文学が復興せ
られて以来︑歌に関する議論は多く起こったにも拘らず︑草仮
名についてを説く人は︑極めて少ない︑と具体的に国学者︑賀
一一・応 尾上柴舟は﹁歌と草仮名﹂に於いて︑﹁歌の殊に栄えたのは奈
良平安の両朝である︒﹂と言い︑﹁平安朝時代は奈良朝時代に一
歩を進めている︒﹂と述べている︒
柴舟は︑奈良朝時代には︑漢字を借りて︑これを写していた
ものの︑大体において書が煩雑で書くのに手間を要し︑正確に
写す困難さを避ける為に字画を略す片仮名が出来たとする︒そ
して︑草仮名の発生を次のように述べる︒
漢字には︑桔体のみならず︑行もあれば草もある︒こと
に行の宛転たる趣致は︑漸次柔らかになり来つた歌の情趣
とよく一致し︑且つ画︵登︶の数も少なく︑比較的簡便で
ある故に︑楕体の略画したものを用ゐると︑もに︑これを
柴舟は古筆学に関して︑﹁明治以降になっても︑以上の状態は
続いている︒﹂と言う︒
そこで︑柴舟の研究以前の古筆についての︑言及の有無を調
べてみることにする︒
︵6︶小松茂美編集の﹁古筆学の歩み﹂には古筆研究の端緒となっ
た明治二十三年発足の難波津会の構成人員の説明と︑明治四十
四年発足の法書会編集発行の﹃書苑﹂への言及があり︑﹁普苑﹂
一巻一号の収録古筆が記されている︒
柴舟の短歌の師であり︑書家の大口鯛二は︑難波津会︑法書
会共に所属していることからも︑﹁瞥苑﹂︵明治四四年一九八
○・一二・五︶を紐解いてみたところ︑平安朝の仮名書きの古
筆に関する解説を見出した︒
一巻一号には﹁紀貫之筆高野切﹂と﹁桂万葉断片﹂︑﹁西行法 ものはない・
香川景樹の著書としては︑歌集に関するものを見るのみで︑
柴舟の記する通り︑仮名に関するものは賀茂真淵同様に見出せ
ない︒
E)
一︿
茂真淵︑他の名を挙げている︒
即ち︑賀茂真淵は︑万葉集を宗としながら古今集に関する講
説をも作り︑その上に︑能書家であって晩年は草瞥体の変形文
︵4︶字である﹁天朗帖﹂を手本としたと一一口われているが︑日本の古
筆跡の何を模範としたかは不明であり︑草仮名に関する論議を
聞かない︒古今集を主とする景樹は︑古今集に全力を入れてい
る︒古今集以外の諸撰集にも種々の人が色々の論議を費やして
いるが︑歌と同様の発達︑変遷をしている草仮名に関してはほ
とんど何らの研究もしていない︒春海も千蔭同様に能筆であり︑
行成の筆という歌合を臨模したものがあるが︑深い研究はない︒
古書は校合︑校訂の用には供するが︑それより進んだ参考には
せぬときめてしまっていたとみえる︒と︑詳細に且つ厳しい︒
︵5︶そこで︑久松潜一監修の﹁賀茂真淵全集﹂から︑真淵の研究
書を調べてみると︑﹁古事記﹂に始まり︑﹁万葉考﹂﹁万葉解﹂等
万葉集に関する注釈類︑その関連書としての﹁古事記寓葉集抜
抄略解﹂﹁古事記頭書椴名書﹂﹁古今和歌六帖﹂︑そして︑﹁源氏
物語新釈﹂﹁伊勢物語古意﹂や大和物語︑竹取物語等︑物語に関
する注釈の書︑更には﹁延喜式祝詞解﹂﹁祝詞考﹄﹁冠辞考﹂﹁宇
比麻奈備三巻﹂﹁百人一首古説五巻﹂﹁三部仮名紗言釈七巻﹂
等︑研究書の幅は多岐にわたっているが︑確かに仮名に関する
さて︑それでは︑柴舟は﹁紀貫之筆高野切﹂に関してどのよ
うな見解を持っていたか︑について︑調べてみることにしたい︒
柴舟は︑小松茂美が﹁古筆学大成﹂﹁第三十巻論文編﹂に記し
た如く︑大正十四年に刊行の著書﹁歌と草仮名﹂中の﹁古今和
歌集の古写本﹂と題する一項に︑﹁伝貫之筆高野切古今和歌集﹂
に対して﹁現存の全部が三人の手になって居るのである︒﹂と見
ている︒
その︑古今和歌集の古写本に関する論考の初出は︑﹁歌と草仮
名﹂刊行より四年早い﹁水翌﹂大正十年七月号であり︑﹁歌と草
仮名﹂同様の﹁古今和歌集の古写本﹂という題目にての発表で
ある︒
ここでは︑その﹁水蕊﹂誌上の初出に当たってみることにし
たい︒
古今和歌集について︑柴舟は︑藤原定家の頃は古今和歌集に
異本が多く︑諸家の説が異なっていたのを︑定家が一本に纏め︑
今日貞応本と称されている貞応年間校合本がそれであることを
述べ︑その事実の知られる奥書として︑次の記載を挙げている︒
四
ご L 身
師興蹟住吉歌合﹂︑二号では︑﹁小野道風朝臣填践解風土代﹂︑五
号に﹁行成卿筆古今集切﹂︑﹁宗尊親王の有栖川切︵元暦万葉︶﹂︑
八号に﹁公任卿小草切﹂︑﹁俊成卿填蹟住吉切﹂︑十号に﹁小野道
風朝臣筆本阿弥切﹂等である︒
関連記事である﹁紀貫之筆高野切﹂については︑解説者︑田
中親美によって︑﹁高野山にあった完本が散逸︑諸家の所蔵品と
なった︒﹂という書き出しと共に次の如く記されている︒
さて︑この料紙は︑いづれの巻も︑皆︑雲母を撒き散
し︑︑同一の紙なれども︑筆者に就て考ふるに︑三人の手
になれるを認め得くし︑即︑巻一︑巻九︑巻廿は一人︑又︑
巻二︑巻三︑巻五︑巻八は一人︑巻十八︑巻十九は一人な
り︑かくの如くなれば︑貫之の筆なりと云ふ事に付ては︑
何れをそれと定めがたけれど︑はやくより古筆家にては︑
しか定め置きしものにしあれば︑今は筆者の誰なることの
論をなさず︑1以下略l
ここに見るように︑古今集が三人の手になることは︑明治四
十四年十一月の時点で︑すでに明らかにされていた︒しかし︑
貫之筆と伝えられていることに︑いささかの疑義は呈している
ものの︑後述の︑尾上柴舟の如き筆跡からの筆者についての考
察はなされていない︒
之﹂とあり︑これらの記述から︑貫之自華本の存在したことは
明らかであるが︑後日消失し︑﹁今日までの伝来すべき訳はない
のである﹂とみている︒
柴舟は︑今日猶︑貫之自筆として緒家に襲蔵せられている古
今集をみると︑全巻は存在せず︑巻五︵秋下︶︑巻八︵離別︶︑
巻二十︵大歌所︶は完全であり︑他は切れ切れになっていて︑
高野切と称すことを述べている︒
これらの古今集を書体によって見ると︑巻一︵春上︶︑巻九
︵覇旅︶︑巻二十︵大歌所︶は一人の筆︑巻二︵春下︶︑巻三︵夏︶︑
巻五︵秋下︶︑巻八︵離別︶は一人の筆︑巻十八︵雑下︶︑巻十
九︵雑体︶は一人の筆であり︑現存の全てが三人の手によって
書かれている︑と述べる︒
これは︑先に記した﹁書苑﹂に於ける田中親美と同様見解で
ある︒
次に︑柴舟は︑﹁古今和歌集﹂が貫之筆と伝えられていること
を︑否定すべき資証を順次挙げている︒まず︑巻一︑九︑二十
の一群については︑以下のように述べている︒
以上の三筆の中の巻一︑九︑二十の一群は原氏蔵の和漢
朗詠集と筆致全く同一である︒恐らくは同人の筆であらう︒
和漢朗詠集は藤原公任の選と言はれてゐる︒これが確でな
こぎ ノく
此集家々所称雛説々多︑且任師説又加了見︑為備後学之讃
本︑不顧老眼之不堪︑手自書之︑近代僻案之好士等︑以書
生之失錯︑称有職之秘事︑可謂道之魔性︑不可用之
但如此用捨只可賄其身之所好︑不可存自他之差別︑志同者
可賄之
貞応元年十一月廿日︑戸部尚瞥藤在判
後朝以人合読書入落字畢
但し︑今日世間に流布せるものは貞応二年本であって︑ここ
︵耳j︶に﹁元年﹂とある本のことではない︒
定家は︑後日︑嘉職本と称される嘉藤年間の校合による︑別
なる定本を作っているが︑柴舟は︑この嘉藤本は流布少なく︑
今日は貞応本のみ流行していることを補っている︒
次に︑柴舟は︑本編に於いて︑古今集の貫之自筆本の存在に
疑義を呈している︒
まず︑栄華物語には︑御裳着の巻に﹁一品宮︵禎子︶の御お
くりものに︑貫之が手づから書きたる古今廿巻御子左︵兼明親
↓︑︾︑︵8︶王︶の書きたまへる後撰廿巻︑道余がかきたる万葉集などをぞ
奉らせたまひける︒﹂とあるが︑袋草紙には﹁古本護陽明門院御
本鯉是延喜御本相伝也︑後顧綱朝臣申賜︑其後転々して於公信
朝許焼失之﹂とあり︑続きに﹁小野皇太后宮御本願端獅於宮焼失
様巻一の一群はまた寛弘付近︽
ばならぬ︒この二つの徴讃か緯
減することとなるべきである︒ いとしても︑猶寛弘付近のものであらねばならぬ︒さうすると︑これと同筆と考へられる一群は︑また寛弘付近か︑それ以後の書罵であらねばならぬ︒
更にまた前期の一群と酷似したものに本願寺旧蔵の深窓
秘抄がある︒この書も藤原公任の選と博へられてゐる︒後
拾遺集の序文にも公任が深き窓にかくすの抄といふものを
つくったと書いてある︒さうすればこれも前者と同時代の
ものであらねばならぬ︒これを書いたものがあれば︑前同
様巻一の一群はまた寛弘付近か︑その以後の書罵とならね
ばならぬ︒この二つの徴讃から貫之の筆たることは全然消 しても︑この一群は︑和漢朗詠集︵寛弘九年.一○一二︶の作られた寛弘︵一○○四〜一○一二︶付近かそれ以後の書写であらねばならず︑この一群と酷似した筆跡のものに︑公任撰といわれている本願寺旧蔵の﹁深窓秘抄﹂があり︑こちらは公任の筆であることによって︑これらも前者同様に寛弘付近のものであらねばならず︑この二つの徴証からも︑古今集一群は時代的に貫之︵?〜天慶九年.九四六︶の筆たりえないとし︑貫之筆を否定している︒
以上のことから巻一︑巻九︑巻二十の一群は︑貫之の死後の
時代に普かれたものであることが明らかにされているのである︒
次に︑柴舟は︑巻二︑巻三︑巻五︑巻八の一群については︑
これと同様のものを捜して見ること︑前一群の場合のや
うにすると︑吾々はまたそれと極めてよく類似した桂宮蔑
蔵寓葉集︑及び関戸氏蔵和漢朗詠集を見るのである︒この
菖葉集はたざ第四巻のみ残存してゐるのであるが︑その書
体は全然巻二の一群と同様で︑ほとんど差異を発見しない︒
と︑ほとんど差異のない普体のものとして︑桂宮旧蔵万葉集と︑
関戸氏蔵和漢朗詠集を見出したことを述べている︒﹁関戸氏蔵和
漢朗詠集﹂とあるのは︑今日の﹁関戸家色紙朗詠集﹂である︒
ノし
ここに﹁原氏蔵の和漢朗詠集﹂とあるのは︑今日は﹁大字和
漢朗詠集﹂と呼ばれていて︑柴舟は︑昭和六年の﹁日本名筆全
︵9︶集第一二回配本﹂中の﹁古今集解説﹂では未だ﹁原氏蔵﹂と表記
︵︑︶しているものの︑昭和三十年刊行の﹁書道全集第十三巻﹂中の
﹁日本書道史4平安三﹂の高野切解説には︑﹁大字和漢朗詠集﹂
と改めている︒
さて︑柴舟は︑巻一︑巻九︑巻二十は︑原氏蔵の和漢朗詠集
と筆致が全く同一であり︑同人の筆と見倣される︑とし︑和漢
朗詠集は︑藤原公任の選と言われているが︑それが確でないと
八年︵一○五三︶に建てられ︑扉の筆者は源俊房であると伝え
られているが︑仮に筆者不明としても時代は建立年代の頃であ
るべきことから︑扉の字と類似することになる二巻を含む群の
古今集は︑﹁公任の時代よりも更に下って永承付近のものとなら
ねばならぬ﹂としている︒
柴舟は︑漢字方面からの考察を続けて︑
漢字方面のみを考へると︑吾々はまた前田家蔵の伝藤原
︵Ⅲ︶公任筆の北山抄に想到する︒これも漢字のみであって仮名
のない事は前者の如くであるが︑その字はまた前者と酷似
し更に桂宮万葉集︑関戸氏蔵朗詠集と同様である︒北山抄
は朗詠集同様藤原公任の撰と云はれてゐるが︑寛弘時代の
著作たることは明らかである︒これと同様の字を含むとす
ると︑二巻の一群はまた貫之より下って︑公任常時または
それ以後の書写であるに相違ない︒加ふるに永承付近にこ
ママれと類似のものがあると︑すると︑その付近まで下らざる
を得ない︒
﹁北山抄﹂︵十巻︶は︑有職故実の書であるが︑柴舟の示す﹁北
山抄﹂は巻三を指し︑巻三は前田育徳会尊経閣文庫によると甲
乙丙三本あり︑伝公任筆は丙に当たる︒
柴舟は︑その前田家蔵伝藤原公任筆の﹁北山抄﹂も︑漢字の 一三つ
後述の久曽神昇の論には後者の表記で示されている︒
桂宮旧蔵万葉集については︑万葉集撰述以降と漠然と言うの
みで︑書写の時代を明確に為し得ず︑料紙文様が平安朝のもの
であることから︑平安朝とは言いうるものの︑貫之以前か以後
かは判然としないが︑和漢朗詠集は文字がその桂宮万葉集同様
であって異人の筆とは考え得ないとし︑
全体が現存して一字の欽行も欽字もなく白壁の微暇も認
められないのであるから︑十分にその筆致を見得るのであ
るが︑いかにしても同筆としか思はれないのである︑朗詠
集は前記の如く寛弘の頃に出来たのであるから︑貫之より
は遥かに後のものである︒
と︑巻二︑巻三︑巻五︑巻八の群との同筆性を強調し︑和漢朗
詠集編纂の寛弘が︑貫之の時代よりはるかに後のものであり︑
従って︑この一群の貫之筆は否定され得る︑としている︒
更に柴舟は︑宇治平等院風鳳堂の扉の色紙形は全て漢字であ
るが︑この漢字が先に挙げた桂宮旧蔵万葉集︑及び︑関戸氏蔵
和漢朗詠集︵関戸家色紙朗詠集︶の漢字と酷似し︑些少ではあ
るが︑巻二の一群中の漢字と同様の筆致を見出す︑とし︑此の
事から﹁これらは同一系中のもの︑多くの隔たりの無いもので
あらねばならぬ﹂と見ている︒そして︑平等院鳳風堂は︑永承
尊親王筆の歌合の仮名の筆跡の酷似性︑朗詠集の中の漢字と酷
似する平等院鳳風堂の扉の色紙形漢字︑及び︑前田家蔵伝藤原
公任筆の﹁北山抄巻三︵丙︶﹂の漢字を挙げて︑それぞれの成立
時期から考え合わせて︑当該古今集の貫之筆説を否定している
のである︒
次に︑柴舟は︑巻十八︑十九の一群が︑貫之筆であるか否か
について︑
これにも同様の和漢朗詠集のあることが発見せられる︒
それは︑帝室御物及近衛家蔵の和漢朗詠集︑その他諸虚に
法輪寺切と言ってゐる類であるが︑その筆致は巻十八の一
群とほとんど同様で︑区別のつけかねるものである︒この
朗詠集がある以上は︑同様の巻十八一群は︑貫之より下っ
て公任の当時またはそれ以後の書写でなければならぬ︒
と見て︑貫之筆でありえないことを示している︒
また︑柴舟は︑元暦校本万葉集の巻一と巻二︑﹁ことに巻一に
於いて多くの類似を発見する﹂とし︑元暦校本万葉集の書写の
時代は不明であるが︑高野切巻十九と西本願寺蔵三十六人集中
の家持集が同筆と考えられる︑と︑記し︑
この三十六人集はその中の貫之集下︑順集︑中務集が︑ みであることが平等院鳳鳳堂の扉のものと同様であり︑字体も酷似し︑桂宮旧蔵万葉集と関戸氏蔵和漢朗詠集とも同様字体であることと︑﹁北山抄﹂が︑和漢朗詠集同様に藤原公任の撰であることに鑑み︑古今集高野切の巻二を含む一群は︑公任当時またはそれ以後の書写であるに相違ない︑とし︑同時に︑前述の鳳風堂建立の時期と考え合わせて︑巻二を含む古今集の群の書かれた時期は永承付近まで下り︑いよいよ貰之の筆という説は覆されることを立証している︒
柴舟は︑続いて巻二を含む古今集の群と筆致の同様のものと
して︑再び仮名の分愚の多い伝宗尊親王筆の歌合を挙げ︑次の
ように見ている︒
これは前述の諸種と異なって︑隈名の分湿の大いに多い
ことは云ふまでもないのであるが︑これが猶巻二の筆致と
同様なものを含んでゐる︒こ︑に永承五︑八年のもの於い
て然りである︒この書罵の時代は明確でないが前記のがあ
る以上は︑その年か︑その年以後のものに相違ない︒l中
略l貫之よりも以後の書篤といふ一事はどうしても承認せ
られなければならぬ︒
以上の如く︑柴舟は︑巻二を含む古今集の一群と︑桂宮旧蔵
万葉集︑関戸氏蔵和漢朗詠集︵関戸家色紙朗詠集︶︑及び︑伝宗
番写でなければならぬ︒
と︑五首一紙を挙げ︑これに類似の巻十八︑十九の一群も康保
か康保以後の書写と見倣されて︑延喜より下がり︑このことか
らも貫之筆は否定すべきとしている︒
この記述にある﹁五首一紙﹂は︑賀の歌五首が書かれていた
のであるが︑昭和九年に︑一首づつ五葉に切断されて︑以後は
︵吃﹀各葉を﹁蓬莱切﹂と呼んでいる︒
柴舟は︑ここに述べてきたように︑貫之筆と伝わる古今集高
野切を他の写本の筆跡と比較検討することによって︑三群共に
寛弘︵一○○四〜一○一二︶から永承︑元永︑下って保延︵一
一三五〜一一四一︶の間の書写であり︑貫之存命の延喜︵九○
一〜九二三︶の時代をはるかに下っていることが明白であり︑
貫之の筆とは為し得ないことを立証している︒
以上見てきたところの﹁水蕊﹂誌に発表された内容は︑﹁歌と
草仮名﹂中の﹁古今和歌集の古写本﹂︵二に記されていること
と︑二点を除いて︑全く同一である︒
まず︑巻二︑巻三︑巻五︑巻八の一群と︑ほとんど差異のな
い書体のものとして︑初出の﹁水翌﹂では﹁桂宮旧蔵万葉集︑
関戸氏蔵和漢朗詠集﹂を挙げているが︑﹁歌と草仮名﹂では﹁御
物桂宮旧蔵万葉集﹂と詳述︑次に︑﹁巻子本和漢朗詠集﹂を加え 保延六年︵一一四○︶に道風行成の書巻に奥書をした藤原定信の筆と一致し︑また貫之集下が︑元永三年︵一一二○︶書写の古今集と同一であるところから︑元永保延付近の書写と考へられる︒かくその中の一部と同様であるのを見ると︑元暦校本万葉集は︑また前書と同じ頃の書写であるべきである︒
と記している︒三十六人集中の貫之集下︑順集︑中務集が︑元
永︑保延付近の書写であることを推量し︑先の家持集は︑その
三十六人集の一部であることから︑同様に元永保延付近の書写
であり︑家持集に普体が近似の元暦校本万葉集も︑同期の讐写
であり︑その書体に近似の高野切古今集巻十八︑十九の一群も
同様に︑元永保延付近の書写であり︑貫之の延喜より下がって
いることによって︑貫之筆を否定する結果になる事を述べてい
るのである︒
柴舟は︑更にまた︑高野切巻十八︑十九の一群と瞥体の酷似
したものとして︑
松浦家蔵の五首一紙がある︒之は︑一紙に五首を認めた
もので作者不明の歌もあるが︑その中の二首の一は︑藤原
寅頼ので天暦中の詠︑一首は藤原信方ので︑康保五年︵九
六八︶の作である︒であるから此書写は康保か康保以後の
では︑今日の古筆学者は︑高野切古今集をどのようにみてい
るであろうか︒
︵咽︶まず︑久曽神昇は︑﹃仮名古筆の内容的研究﹂に於いて︑高野
切現存九巻は三種に区別せられ︑第一種︵巻一︑九︑二十︶︑第
二種︵巻二︑三︑五︑八︶︑第三種︵巻一八︑一九︶と呼ばれる
ことを記している︒
この﹁第一種︑第二種︑第三種﹂の呼称について︑柴舟が高
野切識別の時期は呼称の定まらないままに﹁一群﹂と記してい
田
たようであり︑先の小松茂美も柴舟に触れる時︑注を加えてい
たのであるが︑昭和三十年の﹁日本普道史4平安三﹂には︑柴
舟も﹁一種︑二種︑三種﹂と記している︒
久曽神昇は︑﹁二○巻のうち僅かに九巻が知られているのみ
で︑その他の一一巻は全く不明であるが︑現存九巻の分担を吟
味すれば︑ほぼ推定できるようである︒﹂として︑
最初の巻一︑最後の巻二○および中央の巻九など四巻︑
都合六巻を︑第一種が担当したと考えられるので︑それが
第一席である︒第二種は︑現存四巻の位置より見て︑残り
の前半︑おそらく巻二より巻八までの七巻であったと推定
せられる︒したがって第三種は︑残りの後半︑おそらく巻
一三より一九までの七巻であったと思われる︒
と︑非在の巻について三種分類を想定している︒
また︑論考は三種の筆者に及び
筆者を見るに︑第二種は︑平等院鳳風堂色紙形九品文と
同筆であり︑殊に源兼行の書状と同筆であり︑兼行と知ら
れる︒したがって第一種は︑当時の書道界を見るに︑藤原
行経が考えられ︑穂久迩文庫所蔵行経書状と比較し︑同錐
と断定せられる︒l中略第三種は不明であるが︑歌合筆
者などを参照すれば︑藤原公経が考えられる︒公経は承徳 て﹁巻子本和漢朗詠集及関戸氏和漢朗詠集﹂と記している︒
﹁巻子本和漢朗詠集﹂は今日の﹁雲紙本和漢朗詠集﹂であり︑
後述の久曽神昇の論考には﹁伝行成筆御物雲紙朗詠集﹂と表記
されている︒
次に︑鳳風堂の成立を初出の﹁水蕊﹂には﹁永承八年﹂と記
載していたが︑﹁歌と草仮名﹂には﹁永承年間﹂と訂正している︒
相違はこの二点のみであり︑高野切古今集に関して︑初稿よ
り四年の後も︑柴舟の見るところは殆ど変わらなかったと知ら
れよう︒
︵M︶次に春名好重編著﹁古筆大事典﹂をみると︑まず︑紀貫之筆
高野切の存在と消失の事実として︑柴舟同様の﹁栄華物語﹂﹁袋
草紙﹂の記載を引用し︑更に高野切が三人の手になること︑第
一種と同様書風の古筆に伝藤原行成華﹃太字朗詠﹄を挙げるこ
とによって︑第一種の書風を行成風とみている︒
第二種と同様書風の古筆には︑伝紀貫之筆﹁桂本万葉集︵伝
源順筆栂尾切匡伝藤原行成筆﹁雲紙本和漢朗詠集﹂﹁関戸本和
漢朗詠集﹄を挙げて︑﹁関戸本和漢朗詠集﹂の漢字の書風と︑平
等院風風堂の扉絵の色紙形の書風と同様であり︑﹁桂本万葉集﹂
の仮名の書風は﹁高野切﹂第二種と同様であることによって︑ 北山抄は同筆であり︑色紙形九品文は板面に大書したもので︑事情が著しく相違するが︑やはり同筆とすべきであろう︑と柴舟よりやや多くの同筆写本を挙げている︒
これらは︑柴舟の時代に目に触れることの可能な写本であっ
たかどうか︑が問題となりそうである︒
第三種について︑同筆と目すべきものに伝行成筆御物唐紙粘
葉本朗詠集︑同伊予切︑同法輪寺切︑同近衛本朗詠集︑同蓬莱
切︵賀歌五首︶などを挙げ︑これらの書写年代を参照して︑筆
者は藤原公経であろう︑とみている︒
一言 jq
三年七月八一歳前後で没したようであり︑永承三年は三○
歳となり︑三種中最も若い筆致からも首肯せられるであろ
う︒かくて高野切は永承三年頃の書写で︑第一種は行経︵三
七歳︶︑第二種は兼行︵四八歳前後︶︑第三種は公経︵三○
歳前後︶と推定せられる︒
と︑同筆筆者の年齢からの想定によって︑高野切の作者を推定
している︒
行経は永承五年に三十九歳で没しており︑第一種高野切は比
較的若い筆致ではあるが三十五歳前後と見られ︑兼行は承保二
年ごろ七十五歳前後で没したと思われ︑永承五年は五十歳前後
であり第二種の筆致は五十歳に近く︑矛盾はない︑としている︒
同筆または類筆と知られるものについては︑高野切第二種で
は︑兼行書状のほか伝貫之筆桂本万葉集︑同部類家集切︑伝行
成筆御物雲紙朗詠集︑同関戸家色紙朗詠集︑伝宗尊親王筆十巻
本歌合︑伝公任筆前田家本北山抄巻三︑平等院鳳風堂色紙形九
品文︑穂久迩文庫蔵香紙法華経などがあり︑そのうち桂本万葉
集︑御物雲紙朗詠集︑関戸家色紙朗詠集︑前田家本北山抄の四
種は︑酷似しているのみならず︑特異の変体が僅かながら同様
に混在するので同華である︑と見ている︒﹁十巻本歌合﹂は︑永
承五年宮歌合のみを高野切と同筆と見るべきで︑香紙法華経と
さて︑柴舟は︑色紙形の筆者を俊房と伝えられることのみを
記しているが︑小松茂美は如何様にみているであろうか︒
﹁古筆学大成﹂から該当柵をしらべてみると︑小松茂美は︑﹁古
筆学大成﹂中の﹁古今和歌集﹂に於いて︑平等院内の子院たる
浄土院に伝わる古文書によって︑色紙形の筆者は大和守源兼行
であることが判明し︑同時に︑﹁高野切﹂第二種の漢字の部分
と︑鳳風堂色紙形の漢字の適合によって︑﹁高野切﹂第二種が︑
源兼行の筆であることを︑左の如く明らかにしている︒
この色紙形をいったいたれが書いたものなのか︑それが
問題なのである︒いま︑平等院内の子院たる浄土院に伝わ
かれゆきる古文書の一巻の中に大和守源兼行︵〜一○一一一二七四〜︶
が書いた︑という記録がみつかったのである︒兼行は藤原
えんかん行成と並んで能書を謡われていた僧延幹の子︒l中略lま
た︑この﹁高野切﹂の第二種の漢字の部分と︑鳳風堂の色
紙形の漢字を互いに比較すると︑すべてがぴたりと適合す
る︒つまり︑これらは兼行が書いたということが証明でき
たわけである︒
更に︑小松は︑論文篇﹁第三章古筆と手本﹂中の﹁第三節
手本の諸相4﹁和漢朗詠集﹂の古筆﹂に於いて︑古筆切を含む
三十九種の﹁和漢朗詠集﹂の内︑﹁伝藤原行成筆雲紙本和漢朗詠
︾二言&
宮〃 鳳風堂建立の天喜元年前後が第二種の書写年代と考えられる一方︑第二種は︑天喜四年から治暦四年の間の書写の伝宗尊親王筆﹁十巻本歌合﹂とも似ていて︑この高野切風に先行すると考えられる為︑高野切二種の書写は天喜より後ではなく︑前かと考えられる︑としている︒
ここで︑注目すべきは︑色紙形の筆者を︑﹁平等院仮名日記﹂
では俊房としているが︑俊房は︑天喜元年には未だ十九歳で年
齢的に色紙形筆者には早すぎる︑として︑
﹁平等院真名日記﹂では兼行が色紙形の筆者になってい
る︒﹁平等院真名日記﹂は︑藤原道長が建立した法成寺の阿
弥陀堂︵無逓寿院︶と鳳風堂が混同しているから︑それに
よって兼行を色紙形の筆者とすることはできないが︑兼行
は鰍風堂を建立した藤原頼通に手書きとして重用された人
であるから︑色紙形の筆者は兼行であろうと考えてよい︒
と︑記し︑さらに九条家伝来の﹁延喜式﹂︵巻三十九︶の紙背に
兼行自著のある消息があり︑その書風と高野切との類似性から︑
二種の筆者は兼行と考えられる︑と述べている︒
春名好重も第一種︑第三種の筆者を知るてがかりはない︑と
しつつ︑第二種については筆者を想定しているのである︒
では︑柴舟は如何様にしてこのように大正期にすでに古筆の
筆跡の類似性を見極めたのであろうか︒
︵腸︶柴舟の﹁和様概説﹂には次のような略歴がある︒
明治九年八月岡山県津山町に生まれた︒l中略l上京後
は︑大口鯛二先生の門に入った︒先生は仮名書の大家で︑
古筆にも精しかったが︑まだそれに同頭しなかった︒
高等学校に這入ってから︑ぼつぼつ仮名を書いてみたく
なって︑版本の﹁高野切﹂などの真似をしはじめた︒大学 いる︒柴舟がこの色紙形に注目したことは︑今日の古筆学者による筆者推量の手がかりを示唆したこととなるであろう︒
即ち︑柴舟の高野切二種と色紙形の字の類似性の指摘によっ
て︑今日︑鳳風堂色紙形の錐者追跡が成されたことは︑柴舟の
功績を知るところとなるであろう︒
また︑柴舟指摘の高野切第二極と︑関戸氏蔵和漢朗詠集︑桂
宮奮蔵寓葉集︑御物雲紙朗詠集等の筆跡の類似性も︑今日の古
筆学者の見るところと同様であることは︑柴舟の鑑識の確かさ
を確認するところともなるであろう︒
㈹
.ざ●申︑
■一/
集﹂﹃伝藤原行成兼関戸本和漢朗詠集﹂及び﹁関戸本和漢朗詠集
切﹂は︑高野切本古今和歌集︵第二種書風︶と同筆であり︑
天喜元年︿一○五三﹀三月落成した宇治の平等院鳳鳳堂
の色紙形と同一筆者である︒
その筆者は︑考証の結果︑源兼行︿3一○二三七四;﹀
であることが判明した︒
と︑再び記している︒
さて︑ここで︑柴舟の平等院色紙形についての考察を再録す
ると︑
平等院の鳳風堂は永承八年︵一○五三︶に出来たもので︑
その扉の筆者は源俊房であると伝へられている︒この兼者
は不明であるとしても時代はその頃であるべきである︒
とあって︑扉の筆者を﹁平等院仮名日記﹂に記職の源俊房説は
知りながら﹁平等院真名日記﹂の兼行説は知り得なかったのか
もしれない︒しかし俊房であると伝えられていることは知りつ
つ﹁この筆者は不明であるとしても﹂という条件をつけて︑そ
の俊房説を採ろうとはしていない︒これは︑色紙形の字を︑伝
えられる俊房の字とは見ていなかったからではあるまいか︒
筆者は不明としながらも︑柴舟は︑高野切二種の書かれた時
代を色紙形の書かれた永承八年頃と見て︑紀貫之筆を否定して
いた﹁桂本万葉集﹂︑高野切第三種︑特に古今集巻十八との類似
性を説いた︑﹁和漢朗詠集︵法輪寺切匡と﹁元暦校本万葉集﹂︑
そして︑﹁伝行成筆和漢朗詠集﹂を原本としての臨書も加えられ
ている︒
これは︑柴舟が平安朝のそれぞれの古筆の臨書を繰り返すこ
とによって︑運筆の細部にわたっての特徴を体得し︑類似性を
見極めていることの証左となるであろう︒
なお︑柴舟は︑大正十年の﹁古今和歌集の古写本﹂︑及び大正
十四年の﹁歌と草仮名﹂に︑伝貫之鉦高野切古今和歌集が︑三
人の手によって書かれていることと︑筆者を紀貫之と伝えられ
ながら︑いずれも貫之の時代を遥かに下ることを︑同筆と見ら
れる諸本を挙げて実証してきたが︑﹁巻一︑巻九︑巻廿の群は一
人の筆︑巻二︑巻三︑巻五︑巻八の群は一人の筆︑巻十八︑巻
十九の群は一人の筆︑﹂と︑それぞれに﹁群﹂の表記をしている
が︑昭和六年刊行の﹁和様概説﹂及び﹁日本名筆全集第三回配
本古今集﹂に於ける﹁古今集解説﹂には︑﹁巻の順序から云っ
て第一種とすべきものは﹂という表現によって︑それぞれに今
日の呼称となっている﹁第一種﹂﹁第二種﹂﹁第三種﹂の表記を
使用している︒
これが︑今日の呼称の原点ではなかろうか︒
底
に入ってから︑﹁桂宮万葉集﹂の写真を先生から貰ったの
で︑その臨模をして︑はじめて今までの木版のくだらなさ
を知った︒
大学を出てからもやはり﹁桂宮万葉集﹂を手本としてゐ
たが︑随分変なものばかり書いてゐた︒その中に御物の﹁朗
詠集﹂が出版せられるといふので大喜びで︑早速買入れて︑
懸命にしばらくやったが︑その中倦怠を生じた︒﹁関戸本古
今集﹂が出版せられたので︑これに転じてしばらくやって
ゐた︒が︑また気が変って﹁朗詠集﹂に帰って来て︑今も
これを無二の手本としてゐる︒l中略l大口先生から︑い
ろいろの写真を貰ったり︑実物を見せて貰ったり︑諸家へ
連れて行かれたりして︑いろいろの品物と︑その特徴とも
云ふくきものを思った︒
柴舟は高等学校入学以来︑﹁桂宮万葉集﹂や﹁朗詠集﹂の写本
を手本として臨模を続けていたのである︒
即ち︑目で見るだけでなく︑自ら手で書くことによって古筆
の一字一字の特徴を捉えてきたのであり︑その結果︑それぞれ
の写本の手跡の類似性を見極めることに確かさが備わったので
︵崎︸あろう︒柴舟には︑古筆とその臨書を見開きに納めた﹁友鏡﹂
がある︒ここには︑﹁伝貫之筆高野切第二種﹂とその類似性を説
︹注︺
︵1︶尾上柴舟﹁歌と草仮名﹂︵大正一四年四月雄山閣︶
︵2︶尾上八郎・松尾聡編﹁尾上本浜松中納言物語﹂︵昭和一一
年春陽堂書店︶
︵3︶小松茂美﹁古筆学大成第三十巻﹂︵一九九三・一一講
談社︶
︵4︶天朗帖作書年代は不詳︒全文字数は︑百八十九文字
天朗気清から始まり︑菖神という文字にして終了
書体は︑草書体の変形文字を使って作成但し︑草書体
の大文字部分欠損︑小文字では全文が明記
︵5︶久松潜一監修﹁賀茂真淵全集﹂︵羽巻︑一九七七・四〜一
九九二・一続群書類従完成会︶
︵6︶古筆学研究所編代表小松茂美﹃古筆学の歩み﹂︵平成七年
一二月八木書店︶
︵7︶﹁解題片桐洋一﹂冷泉家時雨亭文庫編﹁古今和歌集嘉禄 二年本・古今和歌集貞応二年本﹂︵一九九四・一二朝日新聞社︶によれば︑高松宮旧蔵の伝為世筆の本がこの奥書と一致する︒
︵8︶﹁栄華物語﹂には﹁道風﹂とあり︑﹁道余﹂の﹁余﹂は誤
直才
︵9︶尾上柴舟﹁日本名筆全集第一一一回配本古今集﹂︵昭和六年
二月雄山閣︶
︵皿︶下中禰三郎編集﹁書道全集第過巻﹂︵昭和三○年四月平
凡社︶
︵u︶前田育徳会尊経閣文庫編集雨蛎醗7北山抄こ︵平成七
年七月八木瞥店︶
︵岨︶監修小松茂美解説神崎充晴﹁蓬莱切﹂﹁平安古筆名品抄
︵二﹂︵一九八五年八月二玄社︶
︵B︶久曽神昇﹁仮名古筆の内容的研究﹂︵昭和五五年二月ひ
たく書房︶
︵叫︶春名好重編著﹁古筆大事典﹂︵昭和五四年一一月淡交
社︶
︵巧︶尾上柴舟﹁和様概説﹂︵昭和六年二月雄山閣︶
︵略︶尾上柴舟﹁友鏡﹂︵昭和一六年一二月駿々堂︶
︵むらやまみえこ/本学大学院生︶
一言
ノく
柴舟には︑平安朝の他の古筆に関する考察もあるが︑今は措
いて︑以上のことから︑本論は︑柴舟が﹁伝貫之筆高野切古今
和歌集﹂に関しての︑今日の古筆の研究の先駆者たり得ること
を明らかにした次第である︒