九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
信用の必然性について : 『経済学批判要綱』におけ る展開を中心に
深町, 郁弥
https://doi.org/10.15017/4403324
出版情報:經濟學研究. 33 (3/4), pp.225-278, 1967-10-25. Economic Society of Kyushu University バージョン:
権利関係:
信 用 の 必 然 性 に つ い て
﹃資本論﹄における信用論は︑第一一一巻第五篇﹁利子と企業者利得への利潤の分裂
章より第二四章にいたる利子生み資本の形態規定の措定に続いて第二五章以下に展開されている︒そこでこのような展
開の序次をめぐって利子生み資本と信用論との関係︑とくに信用論に利子生み資本の形態規定が先行していることの意
義にかんしてこれまでいくたびか問題が呈示されている︒利子生み資本は、資本の再生産過程ーー直接的生産過程と流通過程の統一としてのー—から疎外され自立した資本の
四 三 ニ ー
は じ め に
目 次 は じ め に 信用論の体系
信用の﹁某木規定﹂の展開
むすびにかえて
ー
﹃ 経 済 学 批 判 要 綱
﹄
信 用 の 必 然 性 に つ い て
第三十三巻第三・四合併号
深
に お け る 辰 開 を 巾 心 に
I
利子生み資本﹂において︑第
町 ニ ニ 五
郁
弥
独自の形態規定である︒そこにいたる資本の形態規定としては︑直接的生産過程で可変資本に等しい必要価値をこえる剰余価値を創造することによってあたえられる基本的な産業資本の規定性、再生産過程における投下総資本|—ー可変資
本と不変資本││Iにたいする右の創造された剰余価値の関係で措定される個別利潤︵率︶をもたらすものとしての個別
産業資本の規定性︑さらにこのような個別産業資本の相互的行動としての競争を媒介として︑それぞれの投下資本の大
きさと回転期間によって規定される年平均利潤︵率︶をもたらすところの資本の規定性︑その内部に直接的生産過程を
もたず︑したがって剰余価値の創造をおこなわず︑流通過程において産業資本の商品︑貨幣形態にある流通資本の形態
転換を媒介することによって年平均利潤︵率︶の形成に参加しそれにあづかる商業資本の規定性︑といった各段階があ
たえられている︒こうした利子生み資本にいたるまでに資本が辿る道程は︑資本が剰余価値源泉から遠ざかり︑資本お
よびそれが取得する剰余価値の形態が隠蔽されていく過程にほかならない︒
以上の点から明らかなように︑利子生み資本の形態規定の﹃資本論﹄の体系上での位置づけ︑取扱いは︑たしかにま
ずもって資本ならびに剰余価値の物神化という視角からおこなわなければならない︒それは﹃資本論﹄の体系展開の基
本的な導きの糸を社会関係の物神化に求めることからすれば当然の視角であろう︒しかしながら︑こうした視角にたっ
ばあ
い︑
第三十三巻第三•四合併号
﹃資 本論
﹄
第五篇の第ニ︱章から第二四章までと第二五章以下の固有の信用論の叙述展開とのあいだに﹁とつ
ぜん屹立した大断層に遭遇するおもいをいだく﹂ことにならざるをえない︒
もちろん︑利子生み資本の形態規定が措定されることによって︑第二五章以下で展開される信用︑信用制度にかかわ
る種々の範疇規定がはじめてあたえられうるということに︑利子生み資本の先行の重要な意義があることは強調されな
ければならない︒利子生み資本の体系としての銀行制度︑﹁擬制的貸付資本﹂としての銀行券
11
信用貨幣の規定︑また
信 用 の 必 然 性 に つ い て
二二
六
信 用 の 必 然 性 に つ い て
この点にかんして手がかりをあたえるのは︑
ニ ニ 七
利子生み資本における物神化︑すなわち資本そのものが﹁商品﹂として取引され︑利子が﹁価格﹂としてあらわれると
いうことを前提とすることで可能となる︑擬制資本︑したがってさらに進んで株式会社の信用制度としての規定などが
そうである︒この点は︑後述するように︑利子生み資本!利子の形態規定を剰余価値の分割︑転化形態であることを
暴露する収人論にかかわらしめて展開した段階から︑それを信用︑信用制度との関連において展開するコ資本論﹄段階
にいたってはじめて可能となったことであるeそれは﹁経済学批判体系﹂のプランの発展拡充にかかわるものである︒
ところが︑以上のような点にかんして︑利子生み資本の信用論への前置の意義︑両者の関連を評価するとしても︑両言
者のあいだの﹁断層﹂感はなお払拭しきれないようである︒それは︑利子生み資本の形態規定が︑再生産過程の外部に
自立したものとして措定され︑それゆえに︑総生産過程の内部で機能する諸産業資本相互のあいだの関係として展開さ
れるそれまでの構成と異なって︑過程の内部で機能する産業︵機能︶資本家とその外部に存在すると想定される貨幣資
本家とのあいだの関係として展開されるという構成をとっていることにたいする批判としてあらわれてきている︒信用
論は︑産業資本相互間の関係から︑資本の再生産過程の運動から展開さるべきだとする視角からの批判である︒
そこでわれわれは問題を︑マルクスが信用論を資本の再生産過程との関連でどのように展開しているか︑またそのよ
うな展開にあって利子生み資本の形態規定がどのような意義と菫みをもっているか︑を考察することに求めたい︒
﹃資本論﹄第三巻第五篇第二七章﹁資本主義生産における信用の役割﹂
である︒いま︑内容の詳細にはわたらずに︑問題をしめす意味で項目のみを指摘しておくことにしよう︒あげられてい
る項目は︑まず︑
I
利潤率の均等化の媒介︑I I
流通費の節減︑
I I I
株式会社の形成︑である︒そして︑
I I
流通費の節
減は︑さらに︑1
自己価値であるかぎりの貨幣そのものの節約その三つの方法としての︑
A
商業信用による相殺︑第三十三巻
第一 ニ・ 四合 併号
マルクスは︑それまでにすでにあたえられている商業信用︑銀行信用という信用の諸形態を前提のうえで︑資本の再
生産過程にたいする信用の役割11機能を要約しているのである︒流通費の節減機能は︑その対象が資本の再生産過程に
とって必然的契機である流通過程において︑社会的総資本11国民的資本の一部がそうした形態をとらざるをえない貨幣
それ自身の節約と︑さしあたり個別資本にとって貨幣資本として拘束されざるをえない資本部分の制限︑縮小にわたる
わけであるが︑いずれにしても︑商業信用︑銀行信用の両形態にかかわるものである︒また利潤率の均等化の媒介の機
能は︑貨幣資本形態での資本ならびに剰余価値の配分変更の機能にほかならず︑遊離貨幣資本を媒介する銀行信用にか
かわるものである︒そしてこのような銀行信用の形態での資本の配分変更の機能は︑必然的に資本の集中機能へと結び
つく︒株式会社の形態においては︑この信用による資本の集中機能はもっとも典型的に実現されている︒
ところで﹁信用の役割﹂については以上のような展開に続いて︑右の資本の配分変更・集中の機能にかんして次のよ
﹁
I V
株式制度ーー'それは資本主義体制そのものの基礎の上での資本主義的な私的産業の止揚であり︑それが拡大され
て新たな生産部面をとらえていくのにつれて私的産業をなくしていくーーーは別としても︑信用は︑個々の資本家に︑ま うに敷桁している︒ ペ
ージ
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Ka pi ta l, D ie tz Verlag,
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476‑︑
7.
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民文
庫皿
︑ 本 の 制 限
︑ し た が っ て 総 過 程 に と っ て の 流 通 媒 介 物 の 節 減
︑
内容が具体化されている
(M ar x, Da s
信 用 の 必 然 性 に つ い て
第一 二十 三巻
一七
九ー
八一
ページ
︒
第三・四合併号
ニ ニ 八
B
銀行制度の媒介による貨幣の流通速度の加速︑C
紙券による金貨幣の代位ーー︑2個別資本の流通過程での商品変態の加速を媒介とする再生産過程一般の加速︑その結果としての準備金の縮小1個別資本にとっての貨幣形態にある資
に分けられ︑
以下の引用では原典は•K'と略記、
汀数
字は
原典
信 用 の 必 然 性 に つ い て
しての生産物の貨幣との転置
11
等価交換関係であり︑ たは資本家とみなされる人びとに︑他人の資本や他人の所有にたいする︑したがって他人の労働にたいする︑ある範囲
内では絶対的な支配力をあたえる︒人が現実に所有している︑または所有していると世間が考える資本そのものは︑も
はやただ信用という上部建築の基礎になるだけである︒﹂(
K . I I I . S . 48 0.
叩一
八四
ペー
ジ︶
の集
中﹂
︑
および﹁直接生産者から小中の資本家そのものにまで及ぶ﹂収奪を実現する杭杯として機能することに及ん
以上の﹁信用の役割﹂に関連して次の二つの点を一応の結論とすることができるであろう︒
して︑流通費の節減と資本の配分変更・集中であり︑それらを実現する信用の形態として商業信用︑銀行信用︑株式会
社といった諸形態があたえられていることである︒もう︱つは︑このような形態を媒介とする信用の機能発展︑したが
って信用制度の発展が︑さきの引用からもうかがえるところであるが︑
産様式の枠内での﹁資本所有の潜在的な止揚﹂
の敷術をおこなっておこう︒
第三•四合仇号 そして続いて信用が﹁諸資本
﹁資本の社会的性格﹂を実現し︑資本主義的生
一八八ページ︶をなすと規定されることである︒若干
﹁経済学批判体系﹂の冒頭におかれる単純流通での領有法則の展開は︑生産者による自己労働の対象化されたものと
したがってそこでの貨幣はいわば自己労働の所産にほかならな
い︒これにたいして︑労働者の所有喪失を前提条件として展開される資本主義的領有法則は︑右の流通面での賃労働と
資本とのあいだの交換を含む等価交換関係の外皮のもとでの︑直接的生産過程における新たに支出され対象化された労
働︑生産物︑したがって必要労働をこえる剰余労働︑剰余生産物の資本による領有にほかならない︒そこでは生産物は
他人の労働の対象化であり︑さらにまた資本そのものがーー'労働との交換に支出されるものを含めてー│I他人の剰余労
第三十三巻 (
K . I I I
S.
.
48
2.
a
︑でい
る︒
ニ ニ 几
︱つは信用の機能方向と働の凝結物に帰せられるのである︒単純流通から資本主義的生産への領有法則の転回である︒
それ自体他人の労働の凝結物である資本は︑さらに新たに他人の労働を支配し吸収するものとしてあらわれる︒直接
的生産過程と流通過程の統一としての資本の再生産過程を想定すれば︑一方においてこうした要請は資本の直接的生産
過程における労働の生産力を増大せしめる傾向として発現するが︑他方においてそれはプルジョア的な所有制度をその
枠内において止揚する諸形態を生みだしていく傾向としてあらわれてくる︒信用の発展が﹁資本の社会的性格﹂の実現︑
﹁生産一般から生じるのではなくて︑資本の生産
﹁資
本所有の潜在的止揚﹂と規定されるのはこの点に関連している︒
るものであり︑ 第三十三巻第一―-•四合併号
以下の引用では原典は^
G r. '
と略記︑"仕数字は原典ページ︑和数字は邦訳ベージをしめす︒︶
二三
0
に特有な制限を止揚すること1あるいはこの制限との闘争|_—は、したがってまた資本の特有な経済的な発展に属す︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑信用等のかたちでの資本の諸形態の発展にたいして起動的な力をあたえる︒﹂
Kr it ik de r P ol it is ch en O ko no mi e, D ie tz Ve rl ag , S. 4 41
高*如二郎監訳﹃経済学批判唆綱﹄︑
m
︑四八0
ページ︒傍点は原文の強凋゜.このようにみてくれば︑まず問題となるのは︑直接的生産過程と流通過程の統一としての資本の再生産過程において
展開する資本の運動のうちに︑それにたいする諸制限ならびにそれを止揚する諸契機がどのように措定されてくるかを
明らかにすることである︒さきに指摘した信用の機能︑流通費の節減と資本の配分変更・集中はこうした論理の展開系
列の上においてあたえられるものであろう︒小論の対象とするところはまずもってこのような論点に集中される︒そう
した過程において︑それ自体︑資本主義的所有の発展︑その枠内での止揚を体現している利子生み資本の形態規定が信
用論の展開においていかに必然的契機をなすものであるかもしめされることになるであろう︒
ところで小論においては︑問題にたいする接近をマルクスの一八五七ー八年の﹁草案﹂の集大成である﹃経済学批判
信 用 の 必
然
性 に つ い て
(M ar x, G ru nd ri ss e de r
信 用 の 必 然 性 に つ い て
要 網
﹄ で の 叙 述 に た
いする
検討からは
じめることにする︒というのは︑後述するところであるが︑この
﹃要網﹄におい
ては︑当時マルクスがはじめてあたえた﹁経済学批判体系﹂の叙述プランにしたがって︑その叙述の基本的部分は﹁資 本一般﹂にあてられており︑したがってそこでの信用にかんする叙述は﹁信用の基本規定﹂として資本の再生産過程で の資本の運動との関連であたえられているからである︒だから︑それは利子生み資本の形態規定に先行しており︑また
﹁経済学批判体系﹂においてこの形態規定を媒介として﹁資本一般﹂から﹁多数諸資本﹂への移行がなされ︑﹁諸資本 の相互的行動﹂として展開される競争論に続く本来の信用論とは論理的段階を異にしている︒このような点は︑位用論 の全体の構成がどのような姿をもち︑またもつべきものであるか︑を把握するのに重要な手がかりをあたえるし︑また
﹃資本論﹄第五篇での信用論がどれほどの領域を包括するものであるかも間接的にとはいえ明らかにすることになるで
飯田繁﹃新汀利子つき資本の理論﹄︑一六
J J ペ
ージ
︒
ちなみに︑飯田教授は︑﹃資本論﹄第
J i 篇 での 利
f
生み資本論の製開の荘きの糸を︑﹃社会関係の物伸化﹂の視角に求められ︑そしてこのように物神化された利子生み資本が﹁尚品﹂として取引され︑利子
がそ の
﹁価格﹂としてあらわれるという点を﹁社
会関係の物神化の発展度合に相応する﹂﹁擬制化﹂として︑物神化ー擬閏化を第五篇全体を貫く痙本的接近視角とされている︵同
書︑五三ページ︶︒飯田教授の所説にかんしては︑竹村脩一﹁仮空資本について﹂︑大分大﹃経済論集﹄第七巻一号︑参照︒
ところで第二四章までと第二丘章との関係については︑デ・イ・ローゼンベルグにも同様な見解がうかがわれる︒いわく︑第
ニ四
章ま
では
︑
﹁ 信
用の問題は︑より広い意味では︑またより具体的には︑提起されなかった︒というのは資本物神の研究にと
って
︑これはなんの
意義
ももたなかったからである︒本章
︹第 二五 章︺
ではマルクスは︑より広範でより具体的な
信用 の
研究に
端緒をひらいている﹂と︵デ・イ・ローゼンベルグ﹃資本論注解﹄︐子高基輔・副島種臣訳︑5
︑七
一ペ
ージ
︶︒
( 2 )
銀行制度︑その発行する銀行券を利子生
み資
本
11
貸付資本規定との関連において一貫して規定してこられたのは︑岡橋保教授
( 1 )
あろう︒
第三十三巻第三•四合併号
言
信 用 の 必 然 性 に つ い て
第三十三巻第三•四合併号
>
で
ある
︒
それか﹁銀行券論争﹂の過程で教授の銀行券
11
信用貨幣説を基礎づける基本的視角となっていることは周知のことであ
るが
︑そうした点への端緒はつとに教授の次のような叙述にあらわれている︒﹁貨幣の資本的規定の分析は︑資本流通に特有な
貨幣の機能的な存在形態である信用貨幣の貨幣的規定がほかの種類の貨幣のそれとは︑まったく︑ことなっていることをおしえ
る︒﹂﹁貨棺的な規定と資本的な規定とがそのうちに結合している貨附の独自的な現象形態は︑信用貨幣である︒﹂︵岡栢保﹃信用
貨幣の基礎理論﹄︑七ー八ペ
ージ
︶ (3 )
最初に︑資本の再生産過程での産業資木相互間の関係から廊業信用←銀行信用にいたる利子論
11
信用論を展開すべきことを主
張され︑こうした視角から利子生み資本の形態規定が信用論の冒頭に置かれていることにたいして疑問を呈されたのは︑宇野教
授であったことは周知のとおりである︒そうした見解は昨今多くの論者によっていっそう梢密化され
てい
るが
︑こ
こでは宇野教
授の所説を代表的なものとしてみておくことにし
よう
︒ 宇野教授は︑周知のように︑経済学﹁厭理論﹂の対象を﹁純粋の資本主義社会﹂に求められる︒そうした想定にたつばあ
い ︑
利子論
11 信用論は︑﹁貸付資本が資木の再生庄過程から理論的に展開される過程﹂として﹁純粋の形で考察
﹂ ︵
宇野弘蔵﹃マルク
ス経済学原理論の研究﹄︑
一六
七ペ
ージ︶されなければならない︑とされる︒したがってこうした視角からすれば︑利子論
11
信
用論の冒頭に利子生み資木の形態規定が置かれ︑それにもとづいて再生産過程の外部に自立して一定額の貨梢を﹁現
実に
これを
資本として充用する他のある人﹂に委託することになる﹁貨棺資本家﹂と︑それに対立しそれから貸付けをうけることによって
はじめて﹁現実にこれを資本として允用﹂しうるようになる﹁機能炎本家﹂とを想定することは不当である︒つまり
︑一
方では
ここにいたるまでの陀業資木家の規定と異なって︑﹁機能資本家﹂を一定額の貨幣を偕受けなければ資本家として機能しえない
ような者として︑他方では
︑ ﹁
貨陪資本家﹂を再生粕過程の外からあたえられるところの︑﹁単に︑貨烙財庄の所有者としての︑
旧来の金貸資木と共通な性格をもつもの﹂として灼定していることになるといわれるのである︵同書︑一六ニー三ページ︶︒した
かって︑
こう
した想定では﹁金利生活名﹂や﹁上地所有者﹂なとの貨陪財陀も﹁裟金﹂諒泉にはいりうることになり︑﹁裟本の
再生産過程の拡張︑縮小とは康接に関連のない娑囚を加えることによっ
て﹂
︑﹁
貸付けられる資金の形成
11
供給とその需疫
11
充用
との関係を再生産過程の巡動と少なくとも直接的に関係のないものによって無用に複雑にし︑その法則性を不明確にする︒﹂︵同
書︑
一六
六ページ︶こういわれるのである︒かかる教授の見解は
︑﹁ 資
金﹂の需給変勁︑配分を︑資本の再生産過程の運動との消i
信 用 の 必 然 性 に つ い て
接的閃述のもとで︑利潤率にたいする利子昇の対抗閉係を粘軸として脳開される方向へ発以していくのであり︑その点からすれ
は︑利子
4
み資本の形態規定を前提として︑いかなる慈味でも化用論の資本の再生庄過程との閃辿にはそれはど認をもちいす︑信用形態に打察の玉点をおいてきた研究視角にたいする批判としては屯使な問題足示をおこなったものと評価したい︒
しかしながら︑こういうとしても︑それは︑資本の再生崖過程との閃連で信用論を以閲することが必ずしも宇野教授の見解の
力向でなされるべきだというのではない︒おこなってきた若干の引用からも明らかなように︑教授の見解の特徴は︑資本の再生
庄過程との間連での利子論
11
信用論の辰開が︑﹁資金﹂の形成
・圧
珈裳
論に
収故
せしめられていることにある︒それは信用形態と
しての油業信用︑銀行信用︑さらに下降して貨把論段階における﹁貨幣としての貨躯﹂の特徴的な把握︑またその展隅線上では
﹁貨棺資本と視実登本﹂の理解なとに直接かかわりをもつことになると思われるので︑それについて私見を開陳し︑こ教不をあ
おぐことは別の機会をまちたい︒ここでは拙論との視角の近いをしめすために宇野教授の所説を娑約しておくにととめる︒
( 4 )
﹁資木生罪における信用の役割﹂の内容については︑さしあたり拙稿﹁巾央銀行論序説ー貨棺制度と信用闊度ー﹂︑九州大学経
祈学部﹃四十周年記念終済学論文集﹄︑四七三
l J
L
ペーシ︑また同﹁﹃経済学批判尖綱﹄における貨幣論ー貨幣の形態語規定の製開を中心として1口
﹂︑
﹃経
済学
研究
﹄第三十二在第四号︑し
J L
l
八0
ページ︑を参照されたい︒小論の対象とするところは︑
連 に お い て 信 用 が ど の よ う に 展 開 さ れ て い る か を 明 ら か に す る こ と で あ る
︒ だ が そ れ に は い る ま え に
︑ 論 の 全 体 系 を ど の よ う に 構 想 し て い た か
︑ ま た
﹃ 要 網
﹄ で あ た え ら れ て い る 信 用 の
﹁ 基 本 規 定
﹂ が そ れ に た い し て も っ 周知のように︑
第三•四合ijj号
マルクスが信用
﹁ 経 済 学 批 判 体 系
﹂ の 叙 述 プ ラ ン と の 関 連 に お い て 一 応 検 討 を 加 え て お く こ と に し よ う
︒
﹁経済学批判体系の叙述プランは︑
I
資本
︑
I l
土地所有︑
I I I
賃労働︑
W
国家
︑
V
外国貿易︑V I
世 界 市 場 の 六 部 編 成 を と っ て い る
︒ そ し て
﹃ 要 網
﹄
の
﹁ 資 本 に か ん す る 章
﹂ の 第 一 篇
﹁ 資 本 の 生 産 過 程
﹂ ー
ー ー一
八 五 七
位置づけないし意義を︑
﹃経済学批判要網
﹄
での叙述を中心として︑
信用論体系の構成
第三十三巻
>
マ ル ク ス に お い て 資 本 の 再 生 産 過 程 と の 関
流通にはいる資本である︒
第三
十
三巻第三•四合併号
二三
四 年︱一月頃の執筆と推定される五七!八年草稿のノート
I l
の部分ー│'には右の﹁I
資本﹂にかんして次のような内容(G
r.
S
S. 1 86 7 .J I︑ 一
序列があたえられている︒
︑︑
︑
﹁資
本︒
I
一般性ーー小氾田貨幣からの資本の生成︒閲資本と︵他人の労働によって媒介される︶労働︒団労働にた︑︑︑︑︑︑いする関係にしたがって分解された資本の諸要素︵生産物︒原料︒労働用具︶︒⑨資本の特殊化︑すなわち困流動資本︑︑︑︑︑︑︑固定資本︒資本の流通︒③資本の個別性︑すなわち資本と利瀾︒資本と利子︒利子と利瀾としてそれ自身から区別され︑︑
︑
た、価値としての資本。II特殊性ー——①諸資本の蓄積。⑨諸資本の競争。③諸資本の集積(資本の量的な区別、同時
︑︑
︑
に質的な区別としての︑資本の大きさと作用の尺度としての︶
o l I I
個別性ーー'①信用としての資本︒⑨株式資本として
の資本︒③金融市場としての資本︒金融市場では︑資本はその総体性において措定されている︒そこでは資本は︑価格
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
を規定するもの︑労働を雇用するもの︑生産を規制するもの︑
子生み資本││'利子の形態規定は﹁資本﹂の﹁
I
︑︑
︑
れは
︑﹁
I I 特殊性﹂での﹁多くの資本の相互的行動﹂として展開される競争論!﹁諸資本の蓄積﹂
るところのー│lへの移行の媒介規定としての位置づけをあたえられている︒この点にかんして次のような叙述がある︒ ヘーゲルにならってトリアーデ形式をもってしめされているこの﹁資本﹂にかんする研究の内容序列においては︑利
︑︑
︑
一般性﹂の最後において取扱われることが予定されており︑そしてそ
﹁集積﹂と関連す
﹁流通にたいして否定的にふるまう自立的な価値としての貨幣の第三形態は︑生産過程から商品として出てきて︑貨幣
になるためにふたたび交換にはいることのない資本である︒そうでなく︑自分自身に関係する価値の形態で商品となり︑
︵資
本と
利
子︶この第三形態は︑以前の形態にある資本を想定し︑そして同時に資本から特
九じ
ベー
ジ°
傍定
は原
文の
強調
︶
信 用 の 必 然 性 に つ い て
一言でいえば生産源泉である︒﹂
信 用 の 必 然 性 に つ い て
殊な諸資本
( di e be so nd re n K ap it al ie n)
︑現実的な諸資本
﹁金融市場﹂においては個別諸資本に対立 ならいまや︑この最後の形態では︑資本はその概念上すでに︑自立的存在をもつ二つの資本にわかれているからである︒この二者があたえられれば︑次には多者があたえられる︒それが︑この問題の展開行進曲
(t he ma rc h o f t hi s d ev el o, pm en t)
であ
る︒
﹂ ( G r .
SS .
3523. ~、三八四ページ。傍点は原文の強品)
︑︑
︑
さて︑このプランで信用︑信用制度にかんする項目は︑﹁資本﹂の﹁
l l l
個 別 性① 信 用 と し て の 資 本
︒
⑨ 株 式 資 本
︑︑
︑
としての資本C③金融市場としての資本︒﹂である︒それは﹁
I l
特殊性﹂での﹁諸資本の祖互的行動﹂としての競争ー!ー
﹁多数の諸資本が資本の内在的諸規定を相互に強制しあい︑また自己自身に強制すること﹂
( G r .
S. 5 45 .
~、六0一ページ)
ーを通じて展開される諸資本の運動にとっての諸制限を止揚するものとしての位置づけにおいてとらえられている︒
そのふくむところは︑前節でふれておいたような信用の諸形態︑それらを媒介として展開される信用の諸機能に及ぶも
のであることはいうまでもない︒だがこうした点について注意されなければならないのは︑さきのプランにしめされて
いたように︑信用︑伯用制度は﹁資本﹂の最終の項目として位置づけられ︑
競争
⁝︒
形態︵共産主義に移るべき︶ する﹁総体性としての資本﹂という規定があたえられていることである︒ちなみにこれに類した表現は一八五八年四月二日づけのマルクスのエンゲルスあての手紙にも見いだされる︒﹁
l
資本は四つの篇に分れる︒a
︑資本一般︒⁝b
︑
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︑
︑
︑
︑
C︑信用︑ここでは資本が個々の諸資本にたいして一般的要素としてあらわれる︒d︑株式資本︑最高の完成
(5
)
として︑同時にそのいっさいの矛盾とともに︒
. .
.
﹂︵
傍点
ー引
用者
︶
このように﹁株式資本﹂をもそのうちに包括する﹁金融市場﹂にまでいたる信用︑信用制度論の範囲は︑それ自体自
立的定在を受けとって︑総生産過程としてあらわれる個別諸資本の運動全体を規制︑制約する独自の運動領域をもっと
第三
十三
巻
第一―-•四合併号
二三 五
( di e r ea le n K ap it al ie n)
への過渡をなしている︒なぜ
マルクス・エンケルス﹃資本論に関する手紙﹄岡崎次郎成︑上巻︑
八五
ペー
ジ︒
(6
)
﹃要綱﹄の
﹁ 資
本にかんす
る章
﹂
の第
一篇﹁生廂過程﹂の叙述中に︑
それ
ま
での貨
1 1 1
の形態語規定の展開に対
応し て
﹁抽
象的
規定﹂と
して
あたえられて
いた
﹁
市場﹂ーそれはすでに
貨梢
の
﹁国民的流通﹂と世界貨幣に対応する﹁世界市場﹂の区別の措定に
までいたっていたー│のとる具体的姿態がしめされて
いる こ
とは周知のとおりである︒それは︑
﹁市
場 ーー
それは経済学ではじ
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
めは抽象的規定としてあらわれるが1は︑総休的な諸姿態を
とっ
てい る﹂
︵
傍点ー引用者︶と前置きして︑その﹁総体性﹂を
しめすものとしてまず金融市場をとりあけ︑それが﹁貨幣貸付
市場
﹂ ーー
手形市協︑短資市場︑貸付市楊ーーと﹁利子生み証券市
楊﹂を包括すること
をし めし
︑
ついで生産物市場︑厭料市塩にはじまる使用価値規定の多様性に応じて無限に分化
して い
く﹁府
品市場﹂の姿態に及んでいる︒その叙述での怖晶点の一っ
を ︑
市場
の
﹁総体性﹂︑しかもそれか金融市場においてあ
たえ
られ
て
いるとみることかできるであろう︒そのことは木文中に引用したプランで﹁命融市均と
して
の資本﹂が﹁資本﹂の最終禎目に
おか
れ
︑ ﹁
金融市塩では︑資本はその総体性にお
いて
拮定されている﹂と規定されていたことに照応す
るも
ので
ある
︒
ところで信用論の全体系がどこまで及ぶものか︑という問迎に閃連してさらに付言してお
くと
すれ ば︑
それは枇昇
r t i
場での信
(5 )
第三•四合仇号二三六
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑ いう点に及ぶものと考えなければならない︒さきの︑金融市場での﹁資本は︑価格を規定するもの︑労働を雇用するも
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑ の ︑ 生産 を規制するもの﹂といわれたのはまさにそのことにかかわるものであろう︒
信 用
︑
信用制度は
︑たん
に抽象的に措定される信用の諸形態︑諸機能を含むだけでなく︑さらにそれらを前提としなが ら︑より具体的な関係をとり入れた金融市場における独
自的
な信用の動態をも包摂すべきものとして構想されていたと いってよいであろう︒いまプラン問題という視角にたてば︑このような一八五七
l
八年における﹁経済学批判体系﹂の 叙述プランでの信用論の構想がどのようなかたちで実現され
︑
るにいた
った
か︑したがってその範囲外にどれだけのものがのこされたか︑ということが検討されなければならない︒
だが
﹃要
綱﹄
での
信 用 論 の叙述を中心に考察する小
論
ではその詳細は一応割愛しておくことにしたい︒
信 用 の 必 然 性 に つ い て
﹃資本論﹄
の第三巻第五篇でどれだけの部分が展開され
第三
十
三巻
したがって︑このプラ
ンに
おける
信 用 の 必 然 性 に つ い て
用の動態までを包括すべきであることは︑合融市均の姿態の叙述に紋いて︑貨棺論段陪での抽象的な国民的流通ー恨界市均の規
定をうけて具体化した次のような個所からも明らかである︒﹁しかし元来このような屎開は
I I t
界市場に屈することであって︑批
界市場は︑いっさいの自分の外に存在する外国市協との閃連での同内市場であるばかりでなく︑同時にまた︑ふたたび内国市島
の構成部分としてのいっさいの外国市場の内部︹市
場︺
であ
る︒
﹂
( Gr .
S. 1 91 .
i = 1
︑
‑
‑ 0
ニ ページ
︶
すなわちマルクスは伯用論の最終項目である金融市場の製開そのものが枇界市場にかかわるものであることをしめしているわ
けである︒ちなみに︑このような信用論の展開を︑われわれは︑マルクスの多くの時事論文のうちにみることかできるのである
が︑それだけでなく︑﹃賓本論﹄第五篇の叙述︑ことに﹁貨陪資本と現実資本﹂から﹁貴金属と為替相場﹂にいたる諸章に見い
だすことかできる︒この点は︑信用論の全体系の楠成︑そのうちどれだけの部分か﹃資木論﹄のうちに包摂されているか︑とい
うことにかかわることである︒以下の行論のうちにしめさるべきことであるが︑以上の点は︑﹃要綱﹄で展開される﹁資木一般﹂
の範囲内での信用の﹁基本規定﹂がそのまま拡大されたものとしてご資木論﹄第
i i 篇での信用論をとらえることのできない一っ
の論拠となりうるであろう︵高木幸二郎﹃恐悦論体系序説﹄︑万四
1
五ペ
ージ
参照
︶︒
( 7 )
一八 五七
1
八年の﹁経済学批判体系﹂の叙述プランでの倍用論の全体にわたる構想のどの部分がいかなるかたちで実現され︑﹃資本論﹄第五篇として糾実するかは︑小論ではとうてい取りあげることができない︒ただ若干の間題点を示す寇味で言及して
おくにとどめる︒
現行﹃資木論﹄第れ鯰のかたちでの信用論の展開︑すなわちW七
1
八年︒フランで﹁資木一般﹂の最終項目としておかれていた﹁ 資
本と利潤︒資木と利子︒﹂
ーー
︐利
潤生み資本︑利子生み資本ーーが︑﹁資木一般﹂をこえた信用︑信用制度と接合され︑後者
の一定部分を包摂するようになることが︑プラン上で明示されるにいたったのは︑一八六八年四月一︱
1 0
日づけのマルクスのエンゲルスあての手紙においてである︒右の手紙に先立つ一八六六年一
0
月一三日づけのマルクスのクーゲルマンあての手紙において︑﹁著作全体﹂が︑﹁資本の生崖過程﹂﹁資本の流通過程﹂﹁総過程の諸態様﹂﹁理論の歴史のために﹂の四部からなることがし
めされ︑前掲の﹁資本と利潤︒資木と利子︒﹂が﹁総過程の諸態様﹂に改められた︒さきのエンゲルスあての手紙は︑﹁総過程
の諸態様﹂の細目内容をしめしたものであり︑さきの信用︑信用制度にかんする︒フランの変更は︑剰余価値の転化形態の展開と
して費用価格︑一般的利訓率の形成︑利潤率の低下傾向︑商人資本による一般的利刑率形成の修正の諸珀目に続いて︑﹁V
⁝企
第三十三巻第一―-•四合併号二三し
︑︑
︑︑
︑︑
業者利得と利子とへのこの利潤の分裂︒利子生み資本︒信用制度︒﹂としてあたえられているのである︵前掲﹃資本論に関する
手紙﹄︑上巻︑一四五
l
六︑二0
四l
六ペ
ージ
︶︒
したがって︑﹁利子うみ資本︒信用制度︒﹂への変更は︑﹁資本と利濶︒資本と利子︒﹂の﹁総過程の諸態様﹂にいう現行﹃資*
論﹄の叙述体系への変更を前提としその一部をなすものとしておこなわれているわけである︒だから前者の変更︑それにもとづ
く第五筒での信用論の構成︑それが当初プランのとれだけの部分をふくむものであるかは︑後者︑﹁総過程の諸態様﹂における内
容の拡充との関連でそれらの検叶を媒介として明らかにされなければならない︒後者にかんしては︑最近の研究において︑その
拡充は︑﹃要頴﹄に収められている五七
i
八年の草稿における︑働力商品の概念の確立を媒介とする直接的生産過程における剰余価値理論ー「狭義」の剰余価値理論ー~の成立を前提として、 値法則に照応する︑資本と労働とのあいだの交換﹁ 価 ﹂︑つまり労
六一ー三年の手稿﹁経済学批判﹂において︑リカアドゥを頂点とする古典派経済学の体系克服に結実するところの︑﹁剰余価値
にかんする諸理論﹂の批判検討にもとづき︑﹃要綱﹄段階ではまだホ唆されるに止まっていた﹁一般的利潤の形成︒価値と費用
価格︹生産価格︺﹂の理論をはじめ︑利潤︑利子︑地代等にかんする剰余価値の﹁特殊的諸形態﹂の展開がなされた過程ー﹁広
義﹂の剰余価値理論の確立ーーを媒介とするものであることが明らかにされるにいたっている︵この点については佐藤金︱︱一郎
﹁八経済学批判>体系と︽資本論
V I
手稿八経済学批判>︵一八六︱l
六三年︶を中心としてー﹂︑経済学史学会編﹃︽資本論>の成立﹄所収︑に洋細であるので参照されたい︒教授はこの論稿においてソ連
M
L研究所の
︒ フ
ラン﹁変更説﹂の批判検吋を通じ
てこの過程を明らかにされている︒また
B.
C.
B
bi rO )l CK HH , l‑ 'k To pH H O )l HO ro B eJ mK or o OT Kp bI TH H Ka pJ ia M ap Kc a
(K
C0 3) l3 HH IO
^
^
Ka n0 Ta Ji a "
) 19 65
.宮岡裕訳﹃資本論の生誕﹄︑
第五
章参
照︒
︶
これは﹁資本一般﹂をこえるものであり︑﹁諸資木の相互的行動﹂として展開されるものとされていた競争論の一部が︑その
現実的運動﹂から区別されて一般的・抽象的規定として一般的利潤率の形成との関連で祁入された過程である︒さきにのべてお
いたように当初︒フランでの信用論︑﹁資本﹂の﹁
m
個別性﹂に属する諸項目ー信用︑株式資本I
は︑それに先行する﹁I I
特
殊性﹂での諸資本の﹁相互旧行動﹂としての﹁蓄積﹂︑﹁競争﹂﹁集栢﹂に対応し︑そこでの諸制限を止揚するものとしての位置
づけをあたえられていた︒したがって﹁総過程の諸態様﹂への拡充による競争の取入れは︑それにともなって
一般
的利潤率を媒
介する信用の機能をそれに続いて展開せしめることになる︒﹃資本論﹄第五篇第二じ章﹁:・信用の役割﹂でそうした資本の配分
信 用 の 必 然 性 に つ い て
第三十三巻第三•四合併号二三八
信 用 の 必 然 性 に つ い て
う 表 題 を 付 さ れ た ノ ー ト
I I I V l l
は ︑﹃ 要 網
﹄ に 収 録 さ れ て い る 草 稿 の 対 象 範 囲 は
︑ 基 本 的 に は
﹁ 資 本
﹂ の う ち の
I
﹁ そ れ は︑ 単 純 流 通 に お け る 商 品
︑ 貨 幣 を 取 扱 っ て い る
﹁ 貨 幣 に か ん す る 章
﹂ を
別とすれば︑
二三九 し 変更の機能がはじめにふれられていることは︑すでに指摘しておいた︒だがこうした点の展開は︑一般的科副率の形成︑﹁広義﹂
の剰余価値理論が確立された﹃剰余価値学説史﹄における信用国の新たな視角となっている︒
﹁ か
くし
て︑信用に
おい
て
こそ︑全資本家陪級の資本が各部門
にた いし て︑
この
部
門の資本家の資本所有に比例して
でな く︑
その生此の需要に比例して︑使用に委せられるのであるかーー︑これにたいして競争においては個々の資本は対立して互いに相
︑︑
︑
対してあらわれる
ーー
このことたるや︑資木家的生度の結果であるとともに条件である︒そしてこれによってわれわれは資本の
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
競争から信用としての資本への見事な転移をなすことができる︒﹂
(T he or ie n i ib e r d en
Mehrw
er t
(V
ie rt er Ba nd de s "
Ka pi , ta l"
),
Te
i l 2, S . 20 2. t<~恙が太郎訳『剰余価値学説史』第二巻第一部、六一ーページ。傍点は原文の強晶)
「信用は、ー—信用のことはここでII入って論ずべきではないが||、i畜柏される資本を、それの生じた部価でいきなり使用
せずにもっとも増殖される機会の多い部面で使用させるように媒介する︒
⁝⁝
もしも彼か他人の企業にこれを投資すれば︑彼は
貨陪資本家となって利潤ではなく︑たんに利子を受けとるだけになる︒﹂
(A
.a .
0 ., S. 4 79 .
猪俣津南雄沢﹃剰余価値学説史﹄
第二巻第二部︑二三0
ペー
ジ︶
このようにみてくれば︑信用の諸資本の集中・集柏を媒介する炭能も︑﹃資本論﹄におけるそうした過程の取入れを検吋する
ことを媒介としてどの範囲まで展開されるにいたっ
たか
を明らかにすることができると考えられる︒
だが こ
の点の検討は︑小論
の範囲をこえるので別の機会を期したい︵﹃剰余価値学説史﹄での信用論については︑飯田裕康﹁マルクス信用論の展開過程
ーー
ー
信用論研究序説
ー ﹂
炭応義塾大﹃経済学年報﹄第八号︑を参照されたい︶︒
﹁資本にかんする章﹂とい
﹁資本の生産過程﹂︑﹁
資本の流通過程﹂︑および﹁資本と利潤
︑ 利
子
﹂ ー そ れ は
マ
ル ク ス 自 身 の 指 示 で は
﹁ 果 実 を も た ら す も の と し て の 資 本
︒ 利 子
︒ 利 瀾
︵ 生 産 費 用
︑ 等
︶
﹂ ー か ら 成 立 っ て い る
︒ たがって︑﹃要網﹄での叙述が︑体系的にはこのように﹁資本一般﹂の範囲においておこなわれているとすれば︑プラン
第三十
三巻
第三・四合併号
一般 性﹂
11﹁資本一般﹂である︒
土地所有︑賃労働にかんしても︑
のことである︒ 第三•四合仇号
での指示にしたがえば︑利子生み資本ー利子の形態規定を媒介として現実的な諸資本へ移行し︑その﹁相互的行動﹂と
して競争を展開したのちに︑それとの関連ではじめて倍用︑信用制度は展開されうるものとして位置づけられているわ
けであるから︑さきにのべたような信用にかんする全体系は﹃要綱﹄のなかでは取扱われていないことになる︒﹃要網﹄
の編集者﹁序言﹂はこの点についてそれが基本的には﹁資本﹂の﹁最初の篇﹂
11
﹁資本一般﹂を包摂するはずであった「•••この最初の篇以外に、手稿には資本にかんする他の三つの篇………
︵競争︑信用︑株式資木が指摘されているー引用者︶ならびにそれ以外の五つの部ーすなわち土地所有︑賃労働︑国家︑外国貿易、枇界市場ー—のためのもっとも豊富な素材が存在しているC」(Gr.
Vo rw or t,
ー、「序言」XIlXIlページ) S•XxI.I
しかしながら︑この編集者﹁序言﹂で指摘されている﹁資本一般﹂をこえる領域に属する諸範疇への言及は︑﹃要綱﹄
で取扱われている諸規定との必然的な関連においておこなわれているのである︒たとえば﹁資本﹂をこえる五部にかん
していえば︑国家ー世界市場への言及は﹁貨幣にかんする章﹂で貨幣の形態諸規定の措定に関連しておこなわれており︑
そこで資本ー賃労働の対抗関係を基軸とする諸階級の措定に先立って単純流通の抽象性に対応するところの第一次的・
抽象的な国家ー世界市場の構造が形態的にあたえられていた︒それについてはすでに別稿で明らかにしておいた︒また
﹁貨幣の資本への転化﹂の論述においてかなり詳細な言及がなされていることは周知
さて︑信用︑信用制度にかんしても︑それが現実の自立的形態をとってあらわれ︑機能するということは︑前述のよ
うに﹁資本一般
﹂の
範囲をこえたところの問題である︒だが︑マルクスはそれに先立って﹁資本一般﹂の範囲内で︑資本
に内在する諸規定の展開にかかわらしめて﹁資本の必然的傾向﹂として信用にかんする諸契機を指摘し︑具体的な信用︑
緊―i-i-―•T-t、[ニー百 ことを指摘したのちに次のようにのべている︒
信 用 の 必 然 性 に つ い て
第三
十三
巻
ニ四
0
信 用 の 必 然 性 に つ い て
ニ四
信用制度論への展望をあたえているということができるのである︒
﹁資本一般﹂とは﹁現実的な諸資本﹂から区別された﹁︱つの抽象﹂であるが︑それは﹁他の
あらゆる富の形態│̲介只;しは生産︵社会的︶が展開されるもろもろの様式ーーtから区別された資本の種差
(d
if
fe
re
n,
本﹂たらしめるところの各種の資本に共通する規定にほかならず︑その点の把握がまずもって必要であるが︑それはさ
同じく抽象的な諸特殊性 らに各種の資本を区別し特徴づける諸規定としてあらわれることが強調されている︒﹁こうした抽象の内部での区別は︑
(B
es
on
de
rh
ei
te
n)
であ
り︑
この抽象的特殊性は︑資本がその特殊性の肯定であるか︑否定﹄
であるかによって︑各種の資本を特徴づける︵たとえば固定資本
(c ap it al f i x e )
であるか︑流動資本
(c ap it al c ir c u l, ( Gr . S . 35 3. 1 = 1
︑三八四ページ︶ここでは資本をそのようなものたらしめる内在的諸規定の展開として
資本の形態諸規定を措定していくという固有の方法が明らかにしめされている︒そしてこのような﹁資本一般﹂の展開
には︑当然﹁現実的な諸資本﹂の運動が想定されていることはいうまでもない︒しかし論理的には﹁資本一般﹂と﹁現
﹁資本がその一般的概念にしたがって考察されるばあいに︑これにふく
まれてあらわれている資本のすべての契機は︑資本が現実的にあらわれ︑多数の諸資本としてあらわれるやいなや︑は
じめて自立的な実在性
(R ea li t at )
を受けとり︑また明らかになるのである︒﹂
﹃要綱﹄における倍用への関説は︑まず﹁資本一般﹂の範囲内での︑資本が
直接的生産過程だけでなく流通過程をもその必然的契機とするものとして措定されることによる︑資本の内在的諸規定
の開展としてのその特殊な諸規定に対応して︑そこに内的に措定されてくる資本運動にたいするもろもろの制限を止揚. 以上の考察にもとづいていうとすれば︑ 実的な諸資本﹂との閲係は次のとおりである︒
第三
十三
巻
an t)
であ
るか
︶︒
﹂
t i a s pe c i fi c a )
を岬
芦握
する
抽象
﹂
(G
r .
S. 3 53 . ~、三八四ページ)
であ
る︒
第三•四合併号 (Gr. S
. 419.
m︑
四丘
六ペ
ージ
︶
そうした資本の諸規定は﹁一定の価値額を資 マルクスにおいては︑